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続・刀屋物語 19

日本刀の拵(こしらえ)は、日本刀の刀身自体を別にしても、例えば鐔(つば)などは、僅か8cm四方前後の、絵画にも匹敵するような小さなキャンバス作品である。このキャンバスに、作者は金属の巧みな芸術を施している。

 更に、縁頭に至れば、キャンバスの領域は益々小さくなって、僅か数cm単位になり、この中にも小さな宇宙が存在している。
 そしてその宇宙は、目貫においても同じであろう。
 小さな世界の宇宙観というのが、刀剣類に付随した芸術金具としての小道具の世界なのである。


日本刀を理解する場合には、その感性と感覚を一歩進めて、先ずその小さなキャンバスから訴えて来る霊的波動を読み取らなければならない。その背景には作者の芸術的な技術があるばかりでなく、精神的な奥深い鑑賞のポイントがある。これが鑑(み)る者を惹(ひ)き付けてやまない霊的な波動である。
 霊剣といわれる刀剣類には、そうした鑑賞のポイントの長所が大いに盛り込まれているのである。

 日本刀の拵において、鐔などの小道具類に対し鑑賞する眼を養い、これらを美術品として感じることが出来れば、これは絵画や彫刻と同じように鑑賞のポインを見定めていることになる。ここに「味わう」と言う感性が生まれる。

【註】掲載の鐔は、浜野派の乙柳軒政随(おつりゅうけん‐しょうずい)の『鍾馗(しょうき)と雷図』の逸品で、政随は太郎兵衛と通称し、元禄九年(1696)に生まれ、奈良一門の名工利寿に学んだ。浜野派を系図的に、代で記すと、初代政随二代兼随三代誠信四代政信五代政芳と継承され、何れも太郎兵衛と通称した。浜野派の特徴を上げると、古人は「手強きを好んで気象を顕し、さっぱりして勢いあり」と賞した。
 また、「さっぱりとして勢いがあり」とは、これこそが浜野派の特徴であり、奈良系の四巨匠の一人として数えられている。それは名工と称された利寿・乗意・安親に次ぐ存在とされたからである。



●魔慾

 さて、私は満20歳で、学生の分際でありながら刀剣商としてその第一歩を、藤吉先生によってスタートを切らせてもらったのだが、眼の勝負においては依然として凡眼だった。素人も素人、ド素人であった。
 まさに右も左も分らなかったのである。
 しかたって当時、美術刀剣を検
(み)る眼を全く持っていなかった。

 しかし時とともに、その凡眼を、やがて藤吉先生によって鍛えられて行くのである。物を鑑
(め)る眼を徐々に開眼して行くのである。
 あたかも盲人が手探りで、何とか動けると言う状態にまで向上し、後は自力移動しかなかった。
 そして先ず、最初に釘を刺されたことは、「刀剣は買う時に高く買わされ、売る時には二束三文」と言う、現金価値が大きく目減りする現実であった。

 その理由として吉藤先生は言った。
 どんなに優れた美術品でも、いま砂漠のど真ん中にいては、どうだろう?……と問われたことがあった。
 高級美術品は確かに高が、炎天下の砂漠にあってはコップ一杯の価値にも遠く及ばないだろう……と、そのように指摘されたのである。
 その場その時の状況次第で、人間に必要な物の価値観は変化するのである。
 ここが物を鑑る場合、一番大事なポイントであり、「変化する」ことを充分に認識していないと、この世の中は時間とともに変化する相場、つまり時間の尖端
(せんたん)にある適性価格を見失うことになる。

 何億円、何十億円、何百億円の貴重な美術品でも、その場その時の状況においては、その変化の中で、何の価値も無いのである。買手あっての売手であり、売手あっての買手なのである。
 この両者は需要と供給によって成り立っている。

幾らいい物でも、買手と売手の売買が成立しなければ、市場の流通は起こらない。当り前のことだが、市場原理を実戦を通じて経験しないことにはその仕組みが分らない。
 同時に、物価は変動すると言う感覚も、市場を通じて行われる。それを知るには実戦第一主義を身に付けなければならない。それは肌で感じなければならない。この感覚が疎
(うと)ければ、眼の勝負に敗れる。

 また、その価値は時間とともに変化する。
 文化財も、物である以上、やはり物質界では物としての影響を受ける。
 飢饉の真っ只中にあって、飢えをしのぐのに高級美術品は必要ない。雪山登山をして、山小屋で何日も足止めを喰らい、食糧が尽きてしまった状況下に、高級美術品が存在したとしても、それは何の肚
(はら)の足しにもならないのである。
 美術品が美術品として認められるのは、安全な文化圏にあって、文化的な生活状態が確立された条件下においてのみである。
 つまり、美術品が美術品としてその値打ちを発揮するのは、山頂とか砂漠の真中ではなく、下界の物質に恵まれた文化圏にいてこその話なのである。

 こうした「条件に限り……」ということを吉藤先生は、私に懇々
(こんこん)と諭したのである。
 顧みれば、これが「損する余裕」を教えてくれた第一歩であった。
 物の価値は変化する。
 時間とともに変化する。そして時間の尖端には、「今を顕す相場」として、常に適正価格が存在するのである。
 その変化の中にあって、それでも大事に思える「自分の大事なる物」が存在していれば、それはまさに真物
(ほんもの)なのである。

 また、刀屋商売が難しいのは、単に「千一屋」といわれる理由ばかりではない。
 この商売自体を難しくしているのは、刀屋という商売に向かい合った場合、小売と言うことを考えるから、またそれ自体が難しくなり、更には小売を通じて客商売をすることが、何か難しいように思ってしまうのである。
 それは薄利多売のディスカウントと同じように考えてしまうからである。

 古美術品がディスカウント・ショップで売られるような、薄利多売商品でないことは明確なのだが、商才の殆どない会社勤めをするサラリーマンは、そもそも労働と言う原点において、この根本を忘れている場合が多い。
 また自分が働く雇傭契約自体も、よく理解していない実情があるようだ。
 つまり自己の労働力以外に売るものを持たない状況から、自分を含めて、労働力を商品として、資本家から買われているということの忘却であり、視野的には、観ている物が常にミクロ的なのである。いい意味では専門的であるが、悪い意味では近視眼的である。
 この雇用を悪く云えば、まさに江戸時代の活かさず殺さずの“水呑百姓”なのである。

 更に、頭の悪いサラリーマン古物商は、刀屋でメシを食う事を難しいと思い、一方で自分がサラリーマンをしていることに安堵を覚え、別口の収入源にその多くを求め、サラリーマンの副業として……などと考えるようだが、こうした間違った考えが存在するのは、物を売ってそれで儲けを生じさせ、小売だけで飯を食おうと考えるからである。
 こうなると確かに難しいだろう。また、これこそが頭の悪い人間の特徴でもあるようだ。

刀剣類とは、刀のみではなく槍なども含まれる。
 平成22年7月の銃砲刀剣類の法改正においては、長さ5.5cm以上の物は、登録証が必要となり、この規制は前にも況
(ま)して一層厳しくなった。
 したがって、5.5cmを越えた場合、これらの長さをもつ刀剣類は、各都道府県の教育委員会文化財保護課の登録審査を受けなければならなくなった。この審査に合格すれば、刀剣類は、美術品的な価値を持ち、霽
(は)れて教育委員会発行の登録証が付随されるのである。つまり、この時点で刀剣類の戸籍が作られたと言うことになる。

 さて刀剣類であるが、拵部分に装着される金具類は、それが装飾品である以上、高い美術的価値をもつ。これらの装飾品は、素材は鉄が一番多く、次に銅である。更に銀があり、ごく稀
(まれ)だが高級な物には金が遣われている。
 また彫刻技法も美術的・芸術的価値を持ち、その技法も多くある。ここに日本独特の美的文化は開花した。
 その技法を上げれば、先ず高彫がある。
 次に薄肉彫、鋤
(すき)下彫、鋤出彫、肉合彫などがある。更にこれらの技法に、漆塗りなどの美術装飾がなされ、刀剣類を一層華やかにしている。

 吉藤先生は時として、私に痛烈な皮肉をぶつけたことがあった。
 「頭が悪いと言うことはだねえ、それは立派な犯罪なんだよ。そういう愚人の咎
(とが)を指弾されるのが厭(いや)なら、見聞を広げなければいかん。局所や一局面を見ているだけでは、全体像は見えて来ないものだよ。知らなければ頭を下げて、知っている人から能(よ)く習うことだ」
 知ったかぶりがいけないと言うのである。

 習うことで無知が修正され、また能く知っていれば、頭が悪いことから解放されると言うのである。
 つまり職人の心意気を教えているのである。職人は、精通する世界の「能く知るもの」を指す。そのためにはミクロだけでなく、マクロで物事を検
(み)れと諭されたのである。

 結局、当時の私には、何も見えていなったのである。木を見て森を見ていなかった。
 見えていないことについて、先生は時々皮肉な言葉を返して、あたかも指弾するように詰
(なじ)ったことがあった。
 ここで言う、「頭が悪い」というのは、何も学校の成績を言っているのではない。学業云々を指摘しているのではない。近視眼的な物の見方に注意を促してくれたのである。

 世の中には特異な戦法がある。
 肉を切らせて骨を切るなども、その特異な戦法の一つであろう。
 ところが、表面の一部しか検
ることの出来ないそのような近視眼的な眼では、当然、特異戦法など見えようもない。
 戦法が分らないから戦術など、分ろう筈が無い。況
(ま)して戦術を知らないのだから戦略などあろう筈が無い。
 表面しか検
る眼がなければ、それ止まりである。事象の裏を検る眼がなければ、表のみの人生を歩く以外なくなる。

 つまり、この状態を悪く云えば、不況の度にリストラに怯
(おび)えながら、活かさず殺さずの会社員的生活を余儀なくされるということである。
 近視眼的な生き方では、生涯飼い殺しの道を辿ることになる。
 私は私なりに、そのように悟ったのである。

 つまり「物事の裏側から検る眼を養え」と、吉藤先生は教えたのである。
 それは奇
(く)しくも、世の中を、この世界の縮図を、裏から検るという眼力の鍛錬方法だった。
 その理由に、「金
(かね)は何処かに落ちている物ではない」というのである。金は何処にも落ちていないと言うのである。

 これは一見当り前のようなことだが、世の多くは、金は何処かに落ちているのではあるまいかと、人生を徘徊
(はいかい)する者も少なくないようだ。
 つまり吉藤先生は、落ちている金を探して商売するのではなく、金は創意と工夫で、自分の頭で稼ぐものと言うのである。そこに智慧が宿ると言う。
 そもそも創意工夫とは、こうしたことを指した言葉で、決して人真似をすることではなかった。人真似人生では何もならないのである。

 物には値段がある。総ての物には価格がある。それは名前があるのと同様である。
 したがって、名前のある物には価格がある。
 同時にそれは、人類が物々交換をしていた時代から存在していて、買手あっての売手であり、その現実を、私のまざまざと見せ付けられたのである。
 その現場を見たのは、刀剣会の刀剣市場の凄まじい現実であった。
 そこで見た物は、幾らいい物であっても、その場に居合わせた刀剣業者から時価相場が、買手と売手の間で成立しなければ売買出来ないと言う現実であり、買手あっての売手だったのである。ここでは見事に需要と供給がバランスを保っていたのである。つまり、これが相場だった。

日本刀は魂の拠(よ)り所として、何かを発信している。
 更に、霊的には一種の肉の眼では確認出来ない波動を発信させているのである。
 しかし日本刀は、言葉だけではそれを理解することが出来ない。
 文章で如何に美辞麗句を並び立てて美を絶賛していても、言語表現でだけでは理解が難しいのである。また、それだけ難しい代物が「日本刀の美」の世界である。

 大半の人は、日本刀は難しくて、よく分らないと言うだろう。
 更には、何処を鑑
(み)て、何を味わえばいいのか、その辺も人それぞれに理解不能で難解といい、既に江戸時代から、日本刀は実用のレベルを超越して、鑑賞の領域に入り、そのよさを味わう物になっていた。
 古代の「遣う」と言う実用刀の世界の物が、いつしか実用の道具の世界を超越し、「美の世界」へと突入していたのである。これは世界的に見ても刃物として道具が、単に道具で終わらず、美の領域までに食い込んでいたのである。

 しかしそれだけに、何を学ぶかは、また難しく、殊
(こと)に美術刀剣の領域にあっては、美しい刀は高価であり、こうした大半の物は大名や豪商などに独占されたと言えるだろう。

 現代においても、それを所有することは、そもそも値段的なこともあって、一般人が所有し、鑑賞すると言うことは殆どなく、ごく限られた人だけの物になって、実際に素人は、これを手にして味わうことは殆どないように思われる。また、その機会も殆どない。
 しかし、こうした一線を画した異次元の物でも、人はその気になれば易々と入って行けるものである。表面だけを検
(み)る、微視的視野での観察は禁物である。
 物事を検るには求道精神が必要なのである。

 日本刀の歴史を振り返れば、日本刀は、世界の刃物武器の中でも、「鑑賞する」と言うことでは他に例がないだろう。世界
に類例のない美の世界に誘う物が、まさしく日本刀なのである。

 更に、釘を刺された格言は、「最初の種金(たねがね)を自身の手で作れ」ということであった。
 金がなければ、無い袖は触れない。
 世の中の側面には、金が物を言う構図が出来上がっている。
 人間は無一文で生まれて来て、また無一文で死んで逝くが、無一文であるからこそ、生きている間に無を有にしなければならないのであるが、その有は、自分の頭で、智慧を駆使して稼ぎ出すものであった。
 この有は、表だけを見ていても、決して生まれて来るものではなかった。自分の頭で発生させるものであった。

 当時の私は、貧乏人の小倅
(こせがれ)として生まれた一介の貧乏学生だった。
 中学三年の夏に、八幡製鉄の職工であった父が死に、以降、自分の力で自立して行く以外無かった。何事も自前で賄
(まかな)った。
 親の脛
(すね)を齧(かじ)ろうにも、齧る脛が無かったのである。頼る者は自分以外に無かったのである。
 そもそも中学一年の時に、新聞配達をして働くことを知っていたから、経済面で自分で自立して行く道は知っていた。高校の授業料も自分で賄
ったし、大学の学費も自分で賄った。
 当時のノンポリ学生のように、齧る親の脛が無かったのである。そういうものを手当てしてくれる親がいなかったのである。自前主義にならざるを得ない。

 家が貧乏だから、大学に行けなかった……、貧乏だから学がない……ということを云う人がいるが、あれはウソである。その気になれば、学費の安い国公立大学は全国至る所にもあるし、私学でも、学力特待生をどのを若干数募集している。そう言うところに行けば、むしろ給料までくれて学問を遣らせてくれる。
 更に、種々の奨学金制度があり、就職後の返還無用の奨学金まであり、金銭的には側面からサポートする制度が幾らでもある。

 これは高校でも同じである。
 高校でも、公立高校に進めば授業料は私学よりも安い。
 また私学でも、学力特待生を優遇する学校はゴマンとあるので、こうした学校の特待生になれば済むことである。何処の学校も、何も甲子園に出て、名前を売るばかりを考えているのでなく、学校経営者は将来の存亡を賭けて、学力特待生も大いに優遇してくれるところが多くのあるのである。
 そして予備校に、この特待制度がある事はよく知られていることである。
 学問をする才能があれば、家が貧乏なので……という言い訳はウソということになる。

 私は、家が貧乏なので……という言葉を、実際に大学に入って、この大ウソを思い知らされたのである。その気になれば、大学に行く才能があれば、何処の大学にも行けるのである。
 つまり世人の多くは、才能の無いくせに、そこそこの名の通った大学に行こうとしたところに無理があり、この無理をいつの間にか、家が貧乏なので……の言葉に摺り変えてしまったのである。つまり言葉の裏には、才能をひがむ劣等感が表れていた。一種の危険信号である。人間の貧弱さが、その裏に貼り付いていた。

 学問は才能のある者がすればいいし、そうでない者は、他にも道が幾らでもあるのである。学歴社会のウソに目眩ましを喰らってはならないことである。世は学歴社会ではない。しいて云えば学閥社会である。
 更に現代は、就職に溢れて、猫も杓子も大学院に行く時代になったから、既に学歴社会は完全に崩壊していて、無学歴社会になってしまっているのである。
 人それぞれに、おのおの種々の才能を持っている。その才能を活かし切れずに「腐る」から道は閉ざされるのである。

 道は無数に広がっているのである。
 何も学問で世に立つだけではないであろう。学者の世界だけではない。
 人は、適材適所に納まるものだ。知がなくとも、理で立つ瀬は幾らでもある。
 しかし、これを「平等」の名をもって持ち上げたところに、そもそも間違いが起こった。適材適所の人事配置に狂いが生じたのである。
 誰もが、第一次産業や第二次産業の「下積み」という修業期間を嫌って、猫も杓子も、第三次産業に押し掛け、将来は会社員になるという月給取りを目指したことから、大学卒と言う学歴が必要になったのである。
 しかし、大卒で意味をなすのは、余程学閥がよくなければ優遇はされない。更には、今では学歴は完全に無用となっている。

 私は、大学に入った頃から、端
(はな)から第三次産業の職には就く気持ちは無かった。むしろ第二次産業の職人の世界に憧れを感じたのである。この世界では、智慧は要求されるが、机上の上の知識は無用だった。知識より、経験で得た智慧が重要視された。

 つまり、実戦あるのみだった。
 その道々に向いた才能が物を言う世界であった。学歴無用の世界だった。
 私はこの世界に、弱者や貧者が逆転劇を試みて、天地をひっくり返すことが出来るのではないかと信じていたのである。結果的には果たしてそうなった。
 ところが、現代は管理機構や世の中の構造自体が、固定化され、支配勢力の体制は九割がた完成しているため、逆転劇を演じるには余りにも困難な状況になっている。つまり、世界の支配権は、不動の大富豪の上に確立されてしまったと言えるだろう。

 このような確立は、つまり世界を支配する大富豪と言われる「彼等」によって支配され、近代資本主義が益々堅固になり、盤石な体制を固め、金持ちは益々金持ちになり、貧乏人は益々貧乏になって行く、近未来像が出来上がったと言うことである。
 特に、日本ではこのことが、益々顕著になり始めている。
 日本は実質上、民主主義を標榜しながらも、構造的には社会主義に近い国家政策が為
(な)されている。官憲の権力や発言力が強いのは、その最たる証拠である。
 日本的民主主義は、その実、社会主義的官憲主義の構造に近いと言える。その最たるものは、官僚構造が支配する今日の日本の現状であろう。

 やがて日本人を含む、裁判所が定義するような「善良な市民」は、可もなく不可もなくの中産階級層に委ねられ、所謂
(いわゆる)普通の市民と言うのは、これから先、人権は一応標榜されながらも、人権主義のその人権は、国家統制下で管理され監督されて、人権は無きに等しいものになろう。今は国家監視下の中での人権が辛うじて保障されるだけである。
 つまり、この構造は側面からみれば、大衆の総背番号性と言う名の「奴隷化」の一貫であろう。

 そして、一度こうした国家全体主義にも似た国家形成がされると、その監督下にある軍隊や内部警察機構の監視網で、革命は愚か、変革すら許されない絶望的な状態となり、大半の人々は階級化され、その兆候が現在では顕著になり始めている。
 また階級化は、更には機能化へと拍車が掛かり、やがて大衆は家畜とならざるをえない道へと追いやられるだろう。これも、振り返れば、昭和四十年代から見え始めた兆候のように思うのである。

 昭和四十年代を振り返れば、誰もが学歴社会と言う、この世の幻の現世を夢想して、やがては将来、無数に広がった道を閉ざし、大半の当時の若者は、一方で学生運動に身を投じながらも、行く行くはサラリーマンにでもなって、給料取の人生を模索していたのである。自ら第三次産業にしがみつき、将来を閉ざしたのであった。

 しかし、その気にならないから、道は閉ざされるのである。
 現状の「諦め」に満足しようとするから、家が貧乏なので……の言葉が、安易に口に付くのかも知れない。精神的貧者の詭弁
(きべん)と言うべきであろうか。

 果たして私は種金作りに奔走した。
 少なくとも、昭和40年初頭、事業を始めるには、少なくとも百万円が必要だったので、この単位の種金作りを始めたことがあった。
 そのうえ私の奔走に弾みをつけさせるためか、吉藤先生は事もあろうに、客からの仕事依頼に持ち込まれていた研ぎ物の、何と、財団法人・日本美術刀剣保存協会が認定を下した『近江守藤原継平』で、「いま研ぎ上がった」と言うことで、私の目の前に、天下の名刀を突き出してみせたのである。
 これを魅
(み)せられて、ただ唸(うな)るしか無かった。

 長さ二尺三寸五分五厘
(71.3cm)の大刀で、私はこの重要刀剣を、美術品ではなく実用刀として鑑(み)ていたのである。この点が誤りと言えば誤りだった。大変な間違いをしていたのである。
 余りにも、この刀は実用刀然としていて、実に遣い易いように即座に感じたからである。

 その刀姿を鑑れば、身幅が広くて、重ねが厚く、然
(しか)も反りが浅くつき、それは尖先(きっさき)に伸びて、元幅と先幅のさが幾分大きく、寛文年間(江戸前期、後西(ごさい)・霊元(れいげん)天皇朝の年号で、万治4年(1661)4月から寛文13年(1673)9月までを指す)の新刀と検(み)たからである。
 地鉄は小板目に杢目
(もくめ)が混じり、地沸しが細かく付き、肌自体は実に綺麗だったからである。
 「美しい」と、そう感嘆したものだった。
 波紋はと言えば、広直刃の基調に準じ、小足がよく入っていた。更には、葉が混じるのである。

 継平は二代康継の門人であり、私が見せられた『近江守藤原継平』は、初代銘であると吉藤先生から聴かされたのである。大いに感銘を覚えたのであった。持つなら、こうした刀を所持したいと思ったのである。

 更に、吉藤先生は言葉を付け加えた。
 それは研師としての言葉の言及であると思われた。
 「この刀は砥石に吸い付くように研ぎ易かった。砥石を弾かない。出来の悪い、堅いだけの鋼
(はがね)をした物は、ただ砥石を弾いて、滑り研ぎ難いが、この刀は、実によく吸い付くようだった。まさに人の肌と表してもいい物だった。名刀とはこう言うものである。覚えておくがいい」
 そう言われたことがあったが、当時、私には何のことやらさっぱり分からなかった。
 むしろ、こうした天下の名刀を所持してみたいものだと思ったのである。

 しかし、吉藤先生は吉藤先生で、『近江守藤原継平』を天下の名刀として、更に言葉を繋ぎ、「継平は康継の流れを引くためか、南蛮鉄を使用している。鉄地に若干黒みを帯びた様子が窺
(うかが)えるのは、それは南蛮鉄の影響で、これこそが新刀の越前康継の特徴である。その流れを引き継いでいるためか、この一振りは間違いなく継平の最高傑作のうちに入ろう……」と、先生ご自身も、興奮した口調で語って聴かせたのである。

 私は『近江守藤原継平』を見せられて以来、その後の人生が変わったように思うのである。あるいは益々刀に取り憑かれて行ったのかも知れない。
 私のその後は、大いに刀に魅せられる刀屋人生がこうして始まったのである。

 かつて北九州市戸畑区には「十の日会」という刀剣会の市場があった。
 私は吉藤先生に連れられて、この市場に毎月十日になるとよく足を運んだものである。そして競りと入札の経験を積み上げていったのである。
 そこは一つの戦場だった。
 啖
(く)うか、啖われるかの戦場であった。眼の勝負に負ければ、無慙(むざん)に啖われることになる。
 私の眼が凡眼以下で、素人として拙
(つたな)い眼のままで物を検(み)れば、もっと眼の見える上手な者から簡単に啖われてしまう。ここに眼の勝負の恐ろしさがあった。

 更に恐ろしいのは、刀剣類には、見る者を魅了する魔慾
(まよく)が側面にあり、その魔慾に振り回されて、金儲けを企むことである。
 本来、刀剣愛好家というのは、金儲けには無関心でなければならない。また刀剣商も、その無関心なる愛好家の精神性を尊重して、これに一儲けや二儲けを企み、押し売りしてはならない。そういう押し売りをする刀剣商は、下の下であった。
 この戒めに、吉藤先生は厳しく釘を刺したのである。また、それは刀剣商の陥る落し穴と言うのであった。

 私もこれまで、表面的には好人物で、口が丁重で、一見礼儀正しく、それでいながら、側面から無理強いする魔慾の塊のような刀剣商を何人か見て来た。
 この者達は、確かに表面的には好人物で、商才もあり、言葉巧みに金持ちの取り入り、商売の展開のさせ方も実に上手いが、それはそれだけであり、やがては、その中の何人かは自らの口上巧みなる自信に酔い、没落して行った者も何人かいる。
 挙げ句の果てに、億単位の厖大な借金を抱え、同業者を騙し、姿を晦
(く)ました者も少なからずいた。

 また、こうした同業者には、純粋なる刀剣愛好家の清貧に甘んじる心境を踏みにじって、自らを肥らせようとした醜さもあった。その醜さは、自分では気付かないだけに、やがて陰で後ろ指を指され始まるのである。
 こうした側面を、吉藤先生は指摘して、「そういうクズになるのではないぞ」が、いつしか口癖になっていた。
 そして、吉藤先生の云うクズとは、「刀剣商」と言う肩書きをもって、隠れ蓑を被った刀剣ブローカーや刀剣詐欺師のことを云うのであった。こういうクズが、刀剣会に顔役として出入りしているよ云うのであった。

 刀剣類は投機の世界の外にあるものである。そうした土俵の中で勝負をするものではない。
 真に好ましいと思える愛好家は、早々と魔慾から卒業しているのである。そして欲張り者より、好き者としての道を選んだ人達なのである。
 そういう人達の心情を無視して、土足で愛好家の中に踏み込んで来る刀剣商は、やがて彼等から指弾の鉄槌を喰らうことになる。

 つまり、目利きと言われる刀剣商は、日本文化と「往時のサムライの心を知る者」でなければならないのである。ここに刀剣商としての誇りがあると言うのである。
 私は、この誇りと言うものに、大層気高い気持ちを抱いたことがある。

 刀剣でも骨董でも、あるいは関連する古美術品の世界は、愛好者が金儲けを離れて、はじめて本当の眼が開かれて来る。魔慾に凝り固まっていては、やがては墓穴を掘り、顛落
(てんらく)して行く以外ないのである。
 更に、昨今では実に稀
(まれ)になってしまったが、掘り出し物の存在である。人出し物は、めっきり少なくなってしまったが、かつては錆刀を買って来て、それを研ぎに出したら、とんでもない掘り出し物というのがあった。しかし今では非常に少なくなってしまった。残念なことである。
 だが、あるところにはあるのである。
 以前ほど多くないが、確かに掘り出し物は、今でも存在するのである。

筆者が刀剣市で探し出して来た、錆刀の『肥前国伊賀守源菊平』銘と『正宗』銘である。
 また刀身を柄から中茎
(なかご)抜きする場合に遣う「当て木」と「当て木用木槌」の道具。木の材質は樫と紫檀である。

 その証拠に、未登録の刀が毎月毎月、第三木曜日の各教育委員会文化財保護課で実行される銃砲刀剣類の登録審査には、山のように錆刀が出土するのである。こればかりは不思議でならない。
 毎月毎月、よくもこのような沢山の刀剣類が……と、呆れるくらいである。

 掘り出し物は、刀剣をはじめとする古美術の世界を愛する者達の一つの夢であり、この夢があればこそ、この道を愛する者は、希望をもって、それに邁進
(まいしん)することができるのである。
 そのためには、大いに見て、大いに学び、大いに掘り出し物を探し求め、物を見る眼を養い、この道に、絶え間ない研究と努力を注ぎ込まなければならない。そのように吉藤先生から諭され、眼の前の、邪魔な鱗
(うろこ)が、また一つ墜(お)ちたような気がしたのである。

 大いに見て、大いに学び、大いに掘り出し物を探し求めるか……。
 いつしかその言葉を心の中で反芻
(はんすう)していた。
 そもそも日本刀は美術品である前に、武人の魂と、心の姿の映しのようなものであり、それが戦国期は単なる切断の道具だったが、やがて次元を高めて、日本刀は美術の世界を遥かに凌駕し、超美術として連綿として継がれたものよ思うのである。
 古美術を学ぶには、本物だけを見ても駄目である。大いに贋作を見て研究する以外ないのである。その学ぶ努力が、眼力を養って行くのである。
 美術から超美術へ……。
 吉藤先生の格言だった。

 吉藤先生は、「大いに贋作を見て学べ」と教えたのである。「贋作を研究せよ」と言ったのである。
 そして驚愕すべきは、例えば江戸初期の『虎徹』にしても、数十冊になるほど、その研究書が作られたと言うのである。
 刀剣愛好家で、『虎徹』の贋作を掴まされた者は、数限り無し。

 実は、私もその一人であった。躍った一人だった。
 『虎徹』の贋作には、度々躍らされ、よく掴まされて来た。
 安易に『長曽祢興里虎徹入道』の名に躍ったのである。
 “ハネ虎”と称す『虎徹』にまんまと躍らされ、度々贋作を掴まされたのである。
 越前で甲冑
(かっちゅう)師だった、近江長曾祢(おおみ‐ながそね)に生まれた興里(おきさと)は入道して「古鉄」あるいは「虎徹」と称した。

 また、長曽禰一族も「長曽祢」と銘しているため「長曽祢」が正しいともいわれるが、銘字の引用部分は「長曽禰
(ながそね)」となっているらしいことにも、愚かにも躍り、填められたことがあった。
 そして当時の吉藤先生が厳しく指摘し、私の短所を詰った格言を、今でも思い出すのである。
 果たして私は、先生の格言を忠実に実行したか否か、思い返される。
 さて、贋作研究に怠りは無かったのか……と。

 そして、先生の格言に従えば、贋作研究こそ、真物を得る最短の近道だと言ったのである。
 ところが贋作を知らな過ぎた。
 悪を知らな過ぎた。自分勝手な正義を振り回し過ぎた。自己流過ぎた。
 この「過ぎた」ことが、実は私の眼を曇らせていたのかも知れない。
 例えば、腕のいい検挙率の高い刑事は、悪にも精通していると言う。悪に精通しているからこそ、悪の犯罪組織側の行動や考え方が理解出来ると言う。
 先生は、このことを明確に指摘したのである。

 この世は清濁併せ呑む世界である。
 清い者だけが棲んでいるのでなく、また善人だけが、この世に生息出来る資格を持つものでもない。世の中には悪が存在し、善悪が合い乱れている。善悪で鬩
(せめ)ぎ合っている。
 その鬩ぎ合いにおいて、善が勝ち、悪が滅ぶと言うものでもない。善悪は相半ばしている。
 したがって、完全なる正義も無い。
 正義とは、個人的主観で、勝手にそのように自負しているだけである。われが正義で、彼奴
(きゃつ)が悪と言うことではないのだ。善悪の区別は、その者の主観によって勝手に自負するものである。

 したがって目利きになるには、まず悪を研究することで、その域にグーンと近付くと言うのである。
 贋作を研究せよと言う。
 贋作の中にこそ、また偽銘や後銘
(あとめい)の中にこそ、それを研究することで、やがては眼力を養うことで、真贋を見抜くその域に近付くと言うのである。

 また、人間は「そこそこ上手くいっているとき」が、最も危ないと言うのであった。
 つまり順風満帆で、ややともすればその“そこそこに上手くいっている……”という過信が、やがて墓穴を掘る元兇になると言うのであった。
 私も、この言葉を繰り返し思い返すに付け、当時、吉藤先生から指摘された言葉が、六十半ばを過ぎた、この歳になっても浮上して来るのである。
 あれは、思えば、まさに格言であった。智者の言葉であった。有難きことこの上もなし……。



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