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続・刀屋物語 17

刀と扇子は、単にサムライの象徴とされただけでなく、双方は防禦の対(つい)を為すものとして武門に珍重された。
 それは一方で、自重自愛の道具となり得たからである。
 刀はわが身を護る象徴であったし、また一本の扇子は、目潰しを仕掛けられたときの防禦の道具であった。

 不意打ちの攻めに「砂掛け」という目潰しがあるが、この不意打ちを防禦すには片手や、また両手を塞いでは敵の攻撃を躱すことが出来ず、そこで用いられたのが扇子であった。
 目潰しが掛かる寸前に扇子をパッと開き、目潰しの砂を塞ぐ。そうした役割が扇子にはあったのである。扇子は単に風を送る道具だけの使い道ではなく、目潰し防禦も遣われたのである。



●昔研の研師

 人の礼儀正しい行いは実に清々しいものである。
 私は古美術の世界にも、礼儀正しい人がいることを知っている。その礼儀正しさは、素人愛好家よりも、古美術で商いをしている人の方が、眼力を養っているだけに深いものを持っていると思うのである。
 勿論、素人の愛好家の中にも、こうした礼儀正しい人はいるであろうが、古武術を商っている人は、常に真剣勝負の世界を歩いて来て、一種の波瀾万丈の人生と、窮地に遭遇する山場を何度も潜り抜けて来ているために、それなりの経験を積んだ人は、人間を検
(み)る目も確かなものを持っている。

 古美術の世界を生業として生きて来た人は、それが生活の糧
(かて)であるだけに、商いをして売買すると言うことが、どれだけ大変なことであるか知っているからである。
 また、この世界は単に美術品を扱うと言うだけでなく、美術品の裏には人間がいて、その人間の思惑が複雑に絡んでいることを百も承知しているからである。

 特に刀剣の世界は厳しく、またそこに屯している人間も、一筋縄では行かない人ばかりだからである。
 刀剣愛好家の中には、素人でありながらプロ跣
(はだし)の人もいるし、刀剣商でありながら勉強と経験の不足で、いつも周りからカモられている人もいる。そしてこういう人は、填められたりして啖(く)われて損する人が多い。知らないからだ。
 しかし損する人でも、これに経験が加われば、その損は、やがて自分を成長させる高い月謝だったと言うことに気付くのである。

 私はどういう刀剣商だったかというと、四十有余年の刀屋人生の中では、むしろ後者の方で、刀剣商でありながら勉強と経験の不足で、いつも周りから填められたりカモられる方の人間だった。填められてはカモられ、カモられては啖い物にされ、損をしては、周囲に利益を振りまいていた。
 あたかも好き好んで損をし、散財していると言う観があった。

 おそらく四十有余年の刀屋人生を振り返れば、眼力のなさと不勉強とが災いして、同業者からはいいカモのされたのではないかと思うとである。私の方は財を目減りさせ、周囲の同業者には肥らせる要因を、私自身で発生させていたのではないかと思うのである。要するに、間抜けで、お人好しだった。
 しかし、それはそれでいいと思っている。
 損した分を高い月謝とは未だに思っていないが、晩年になって「損する余裕」ができたような気がするからである。刀剣と言う、古の武器に作者の精神性が理解出来たような気がして来るのである。それを考えれば、損も無駄ではなかったと思うのである。

 振り返れば、損する余裕を、天に試された人生だったともいえる。
 私も人間である以上、損すれば口惜しいし、得すれば嬉しい。こういう損得勘定が渦巻く人の世に、やはり生きて行かなければならない人間の生き態
(ざま)は、それなりの試煉が付き纏い、「もはやこれまで」という局面に何度も遭遇するのであるが、私は人の人生は、結局は死ぬ間際に清算させられるのであるから「プラス・マイナス=ゼロ」の法則が働いているのではないかと思うのである。

 その時の一局面にどんなに得をしても、また局面において大損をしたとしても、やはり最終的にはゼロに帰するのではないかと思うのである。
 事実、私を填めた同業者、またカモった同業者は、未だに金銭から解決されておらず、その亡者に成り下がっているからである。これこそ金銭に振り回されて終わりなき輪廻を繰り返す、迷い多き生き方と言えよう。

 だが人生のそれぞれの年代的局面において、これまでを振り返れば、やはり損するばかりの人生であり、更には鳶
(とんび)に油揚を攫(さら)われるそうした不覚を取った局面の方が多かったような気がする。その度に何度口惜しい思いをしたことか。
 これを物的かつ金銭的な存在に換算すれば、大した額になるであろう。単に大損程度では済まされないだろう。
 しかし人生には、最終段階に向かって、「プラス・マイナス=ゼロ」の法則に帰着して行くのであるから、それに対して、やはり此処にも作用と反作用が働いていることになる。

 私の場合は損と言う作用に対して、この損に対する反作用が働いたのも事実である。
 だが、その分、得をするように働いたのでない。
 損は損のままだったが、その損は物的かつ金銭的に働いた損で、人的には何ら損害は受けなかった。むしろ人的には、人生で様々な人にであり、悪人と思えるような人であっても、私には反面教師だった。おおいに教師面を人生の教訓にさせて頂いたのである。

 これを考えれば、損した人生であってもそれは物質面や金銭面のことに限り、であり、人間面においてはむしろ教訓を得た分、実りの多い人生だった。つまり、私の場合は大損をした分、悪運に恵まれたのである。
 この悪員に対して、私は知人から羨まれることがある。
 「あんたは、これまでかと思ったら、したたかに生き残っている」などと揶揄され、自分でも「もやはこれまで」というのが何度かあった。その度に、不思議にも切り抜けて来ているのである。どっこい生き残ったのである。この、生き残ること自体が、私の場合は反作用だったように思うのである。

 換言すれば、私の一生を振り返れば、至る所に悪運が働いていたように思うのである。
 この悪運の強さを、私は生涯抱えて生きて来たように思う。
 そしてこれまでの六十有余年の人生を振り返れば、勝負して戦えば負けた人生であった。もしサラリーマンなら、真っ先に「負け組」の烙印
(らくいん)を捺されるであろう。
 戦えば負けた。
 百戦して百敗した。
 千戦すれば千敗した。
 常に負け続けた。
 したがって、千敗の上にもう一杯重ねて、千一敗したところで、それに簡単に折れず、また挫
(くじ)けぬ“したたかさ”は養って来たつもりでもある。
 損をすると、こうした精神面では得をすることもあるのである。

 百戦して百敗するように、また商売をしても百商して百損して来た。
 だが百損しても、その上にもう一損して、百一損したところで、私はしたたかに生き残って来たし、トータル的には千商して千損し、千損の上に、もう一損して、千一損したところで、今では痛痒も感じないしたたかさと、悪運の強さに鍛えられているように思うのである。

 したたかさと悪運の強さは、根本に「志
(こころざし)」がなければならないと思っている。
 志が人間の生き方を変える。志がその人を気丈にする。それが誇りとなり、また信条となる。
 この意識が崩れなければ、人は簡単に折れるものでもないし、自分の弱りかけた生命力にも息吹
(いぶき)を吹き込むことが出来る。ここで蘇(よみがえ)るのである。その原動力は、志を忘れぬことである。

 私は常に、若い頃から志を抱いて来た。志が、私を支えて来た。千損の上に、もう一損して、千一損したところで、それに痛痒を感じなくなったのは、随分若い時のことだった。
 そして損することにも余裕を学び、その芽が吹き始めたのも、私が十代後半の頃であったろうか。
 私は、ある御仁
(ごじん)から人生の節目ごとに「損する余裕」を学んだとような気がする。
 最初は十代後半の頃で、その次は三十代前後、また四十代初めの厄年には、またそれから十年後に途轍
(とてつ)もない大物に出遭うことになる。この出遭いが、私の場合は、人的に恵まれた、志の原動力となったのである。

 まず、最初に十代後半の頃に知り遭
(あ)った人のことを話そう。
 私の知っている人の中に、研師の人がいた。よく刀剣を研磨する人がいた。
 当時、年齢は60歳前後くらいの人であった。老人と呼ぶにはまだ早い年齢である。風体は如何にも職人気質と言うような雰囲気が滲
(にじ)み出ていた人である。
 そのためか刀剣を知り尽くした人であった。そして多く刀剣を鑑
(み)てきているであろうが、それと同時に、人間もよく検(み)てきているのである。眼には凄みがあり、実に眼光鋭い人であった。
 そう言う人を私は、かつて知っていたのである。

 ここで「知っていた」と過去形で書いているのは、もうその人は他界してしまったためである。
 真剣な眼差しと炯々
(けいけい)とした眼で、刀剣だけでなく、人の心の中までを見抜く眼を持った人であった。
 閻魔
(えんま)のように人のウソを、一瞬で見抜くような眼をしているから、それだけで恐ろしさを感じたものである。そういう鋭い眼をした刀剣研磨の研師(とぎし)を知っていた。この研師を、私は学生時代から知っていたのである。そして、やがて師事することになる。

 私がこの研師を知り遭うきっかけになったのは大学の頃で、確かあれは大学一年の頃ではなかったかと思うのである。
 刀剣の所持は、満二十歳にならなければ所持することが出来ないが、私は歳をサバ読んで、二十歳と偽り、刀剣を購入したことがあった。
 そしてこの研師に出遭ったのは、博多のある刀屋で『平安城石道住正俊』という在銘の刀を手に入れた直後のことであった。
 私は『平安城石道住正俊』の真贋を確かめるために、この研師の許
(もと)を訪ねたのである。どうして、そこを訊ねたのかは定かに思い出せないが、しかし人生には不思議なことも起こるもので、気付いたらその御仁と知り合いになっていたのである。

 この研師に、平安城入手の経緯を話し、その真贋
(しんがん)を問うたところ、この御仁(ごじん)は烈火の如く吼(ほ)えて、私を頭ごなしに罵倒したのであった。
 私の質問が愚問で悪化のか、それに思い当たる心当たりはなかったが、最初、何で烈火の如く吼えられたのか釈然としなかった。それは客を客とも思わぬ吼え方だったからである。
 あるいは、この人は職人だけあって、客を叱る人だったかも知れない。昔はこうした職人が多かった。

 此処まで吼えられれば、些
(いささ)かお人好しの私も、立腹を感じざるを得なかった。
 「何ゆえか」と問い質
(ただ)した。
 すると再び吼えた。
 「それが分からぬのか!」と、叱責を促す吼え方であった。
 しかし怒りではないようだ。私を叱っているのであろう。
 怒りと、叱りは同じようで両者の意味は違うから、私はどうも叱られたらしい。怒りは怒声で吼えるものだが、叱りは私を教導する意図があるように思われた。同じ吼えたにしても、両者の意味は違っていた。

 私は素直に「分らない」と言った。
 そして、その御仁は鋭い眼光を発して、私を睨み据えた。それは怒りので目はなく、叱る目であった。
 だが、叱る目でも凄みがあった。
 あたかも、蛇が蛙を金縛りにし動けなくしておいて、呑むような気魄
(きはく)で睨み据えたのであった。身が竦(すく)む思いであった。
 暫
(しばら)く無言のままでいたが、最初は変人か、あるいは気難しい職人堅気に人と思ったのだが、私も冷静になって考えてみれば、実はそうではなく、私自身が試されているのではないかと思い当たったのである。

 当時は十代後半で、学生服に角帽で身を固めた、十代後半の青二才であった。右も左も分らぬ、人生の未経験者だった。それだけに、最初は軽く去
(い)なされ、甘く見られていると思ったのである。
 しかし冷静に考え直した。そして、まだまだ学ぶことも多くあろうと、反芻
(はんすう)する気持ちが即座に生まれた。
 未熟者が、年配者相手にいきり立っても仕方がない。気を鎮
(しず)め、立腹を抑えるのが急務である。知らないことは教えてもらう以外ない。
 刀剣の趣味人のレベルでは、長年修行を積んだ玄人には叶わないのである。

 「分りません。未熟者ですから教えて下さい」率直に言った。
 まず、そう願い出た。私の素直さは崩れていなかった。人に訴えるには、素直さが一番である。
 この御仁は、ただ黙っただけで、また再び仕事を始めた。
 研ぎ依頼で客から預かっているであろうと思われる刀剣に、粗
(あら)研ぎ段階の「形造り」をしているところだった。これを「造込み」という。

 造込みとは、最初の形を造ることをいい、刀工の「造り」に併せて、その原形を研ぎ出すことを言う。
 刀剣には種々の「造込み」があるが、大きく分ければ、一番多いのが鎬造
(しのぎづくり)である。
 次に菖蒲造
(しょうぶづくり)や鵜首造(うのくびづくり)などがあり、また鋒両刃造(きっさきもろはづくり)、両刃造(もとはづくり)、平造(ひらづくり)、片刃造(かたはづくり)、冠落造(かんむりおとしづくり)、薙刀造(なぎなたづくり)、おそらく造、鎧通造(よろいとおしづくり)、鯰尾造(なまずおづくり)などがあり、日本刀は長い刀剣の歴史の中で戦闘に応じた変化や各時代の好みに応じて多くの形態が考え出されたのである。

 私が研師の許
(もと)を訪ねた時、この人は粗研ぎにて造込みを整えているところであった。その造込みは一目見て鎬造であることが分かった。
 恐らく錆身の造りが崩れた刀身に、造込みをし、形を再現しているところと思われた。
 私は茫然
(ぼうぜん)と立って見ていたが、この人は追い払うふうでもなく、また「帰れ」とも云わず、坐れても云わず、ただ黙々と造込みを行っていた。そしてこの場が、何とも云い難い違和感を覚えたのである。

 この場は、ひと先ず立ち去る方がいいのかな?……と思いつつ、出入口の扉のノブに手を掛けると、「まだ話が終わっておらん。聴かずに帰るのなら、それはそれでいいが……」と、意味ありげなことを切り出したのである。
 あるいは、このまま帰られては、せっかく遣って来たカモを逃がして惜しいと思ったのだろうか。
 手に、刀袋に入った刀を握っているからである。
 突如、吼えた後に、これだったから、私は一瞬自分の動きを制されたようになった。それがまた、絶妙なタイミングだったので、奇妙な不思議さを観じたものである。

 この御仁は確かに職人であったが、一方で、人の間合と呼吸を外す術にも長
(た)けていたようである。
 昔の職人には多く見られたタイプの人で、確かに偏屈には違いなかったが、極端に偏屈と言う訳でもなく、また話嫌いと言うふうでもなかった。
 更には、今日に見るような、少々の腕で自己宣伝をしたり、自慢話をしたり、高邁な言い方の物言いをするような人でもなかった。思ったことを包み隠さず吐露
(とろ)してしまう、堅物で、頑固で、職人風の朴訥(ぼくとつ)な人のように思われた。掛値無しの、ある意味で正直な人なのだろう。私の眼には、この御仁がそのように映ったのである。

 頭は高からず、低からず、ごくありふれた仕事のできる昔風の職人のように映ったのである。それだけに尊大でもなく、また今日のように少しばかり小手先が器用なことで威張るような職人でもなかった。それは眼の光からも一目瞭然であった。こういう眼をした人は、決して中途半端な人でない。
 私もこれまで地獄を何度か覗いて来ている関係上、人はそれなりに検
(み)る眼を持っていると自負した経験と体験を、青二才は青二才也に積んで来たのである。

 昨今は鼻持ちならない“自称職人”という人種が多い。
 少々テレビなどで放映されただけで有頂天の舞い上がり、職人気質を売り物にして、先生と呼ばれたり、尊大な態度を見せて威張る自称職人が多いようだが、この人はそういう思い上がり者ではなかった。昨今の職人は顛落
(てんらく)してしまった、鼻持ちならない“自称職人”が多いが、この人は当時を振り返ってみても、そう言う人ではなかった。
 所謂
(いわゆる)昔の職人であった。昭和40年代始めのことである。
 こういう人は、今では殆ど残っていないであろう。

 それに、これから長らく、この御仁と付き合うことになるが、この人は軍隊経験もあり、また陸軍上等兵で満期除隊した後、ある聯隊
(れんたい)に所属した軍属となり、当時は珍しい将校用の「満鉄刀」を研いでいた人と云う。
 満鉄刀は、南満洲鉄道のレールの鉄で造った刀であり、一般の将校用に配給された軍刀や、更には曹長刀といわれる下士官用の軍刀とは異なり、将官用に特別注文された刀で、その鉄
(かね)を満鉄のレールの上質な鉄で造ったと言うのである。この満鉄刀を研いだり、あるいは名刀の業物(わざもの)に属する佐官や将官の軍刀仕込みの刀を研いでいたと言う。
 そして満鉄刀に関し、この人は莫迦
(ばか)に詳しかった。並みの鉄とは全く違うと言うのである。
 当時の満洲には、刀にしていいほどの上質の鉄が豊富にあったのだろう。

 「あのなあ、学生さん。わしは、あんたが真贋の判定にかこつけて、持参した刀の値段を訊こうとしたところに肚
(はら)を立てている。ただそれだけだ」
 私は確かに真贋のほどを訪ねようとした。しかし値段までは訊いていない。
 私の知りたいのは『平安城』の真贋だった。
 それにもし、贋作でなければ、研ぐのに研代が幾らほど掛かるか、それを訊いてみたかっただけのことである。私の買った『平安城』は、素人の私の眼から検
(み)ても、何となく研ぎが悪く、曇っているように映ったからである。要は金の手当の問題であった。

 「あの……、自分は真贋のほどをお訊
(たず)ねしたのであって、刀の値打ちが如何程かとは訊いてはおりませんが……」と言い放つと、「つまり、それが値段を訊いたことになる」と切り返されたのである。
 私には意味がさっぱり分からなかった。
 「真贋を訊くと云うことはなあ、同時に値段を聞くと言うことに繋がる。持参の刀剣を買う時、あんたは自分の眼で確かめて、それで覚悟を決めて買ったのだろう。だったら、それを信じればいい」と、念を押すように云われたのである。

 それは「自分の眼を信じれ」と言うことであろうか。
 私にはそのように思われた。あるいは物を検
(み)る目を養えと言うことなのだろうか。
 確かのこの御仁は、自身にそのような眼を持っていることは、刀剣の研ぎを通じて普段から鍛えられているのであろうが、私のような駆け出しの青二才では、そのような眼は持っている筈もなかった。
 素人が玄人に、その辺のことを訊いても差し支えはないと思ったのである。
 しかし、私の問いが、その後、大間違いであったことに気付かされるのである。真贋を訊くとは、つまり真物と判定した時、そこに刀剣市場の時価相場が反映されるからである。

 刀剣価格の番付は、刀工名鑑などの書籍を見れば大まかに書いている。
 素人はこの価格を基準にして、自分の所持した刀剣価格を自分勝手に判断し、「自分が数百万の刀剣を所持している」などと自慢する者が居る。
 ところが、実際には時価の市場を出回る刀剣価格と、書籍などに記されている番付価格とは全く無関係なのである。
 同名の刀工が鍛えた刀であっても、出来のいい物もあれば悪い物もある。

 したがって、市場に出回ったり、刀剣店の陳列の中に展示されて飾られている物とは、同名の刀工でも「出来の状態」が違うのである。これを同じように判定は出来ないのである。
 同一刀工でも、鍛え上げた年齢や体調などによって、変化が見えるのである。これを価格に反映させて、同額と考えるのは実に短見なのである。
 そのことを、この御仁は私の遠回しに教えたのであった。

昭和40年代初頭の頃、世の中には職人気質と言われた昔風の研師が多くいた。そして、この頃の研師は現代にはない「現代研」というのを遣らず、「昔研(むかしとぎ)」という、地肌のテカリ具合を少し抑える研ぎ方をしていた。

 見た目には地味に見えるが、光を落した中で地肌を見ると、地肌と波紋の兼ね合いの絶妙さが見事に浮び上がって来るのである。
 今日のように現代研が好まれる時代、昔研をした研師の研ぎは、「研ぎが悪い」などと見下されるようである。

 私が、この研師宅を訪れたのは夕刻に差し掛かる時間だったが、此処の家は、古い長屋風の民家のような雰囲気を持った佇(たたず)まいをしており、間口は僅か昔で云う「二間半ばかり小店」で店内の床は土間であった。表には、看板も何も掛かっていなかった。通りを歩いていただけでは、この御仁の家が「刀剣研磨処」とは見えない。
 普通、刀剣の研ぎで飯を食っている店先には「刀剣研磨処」という看板がかかっている。ところは、この御仁の店先にはそうした看板はなかった。ただの民家だった。
 メモした町名と番地を照らし合わせながら、それらしいと思える場所を探したのだが、それが前を通り過ごして、同じところをグツグルと廻りながら、やっとの思いで探し出し、辿り着いたのである。

 私も最初、看板が掛かっていないことから、探すのに苦労したのである。そして遂に、「美術品商」の公安委員会発行の小さな鼠色のプレートを探し出し、人伝いに、やっとの思いで研師宅を探し当てたのである。それで時刻が夕刻になってしまったのである。
 此処の「刀剣研磨処」は刀剣愛好家の中では、研師として名人と噂
(うわ)される人であった。それだけに是非遭(あ)ってみたかった人である。しかし、遭うといきなり難癖をつけられたのである。

 店中は鰻
(うなぎ)の寝床を彷彿(ほうふつ)とさせる奥長いところであった。
 帳場の先のは、三畳ほどの小座敷が見え、天井には40ワットほどの、室内の照明
(あかり)をとるには暗過ぎる裸電球をぶら下げ、裸電球には傘も何も着いていなかった。そして研師の小脇には百目蝋燭(ひゃくめ‐ろうそく)が灯(とも)されていて、灯(あかり)は天井の裸電球と小脇の百目蝋燭だけであった。敢えてそうしているようでもあった。
 何かの理由があるのだろうか。
 日本刀を研ぐには、単に光を当てればいいと言うものでないらしい。
 そうした薄暗い中で、名人は刀を研いでいた。
 この御仁は敢えて光を嫌い、闇の中に一条
(ひとすじ)の光を見出すという昔ながらの研師のようであった。昭和40年初頭の頃である。他にも何人かの研師を知っているが、今と違い、こうした研師が多かったように思う。

 「鑑
(み)てしんぜよう」
 研師は言った。
 この御仁は宥
(なだ)めたり賺(すか)したりするのが好きなようである。この揺さぶりに、先ず翻弄(ほんろう)された。
 しかしこの場合、少しばかり機嫌取りをされたのだから素直に従った方がいいのかも知れない。
 「お願いします」
 私は威厳のある促しに無意識に反応したのか、そのように返礼していた。
 刀袋から拵
(こしらえ)のある刀を抜き出し、そのまま手渡した。
 研師は刀を両手に高く頂き、一礼して中身を抜いた。
 そして開口一番が次なる言葉だった。
 「また、厄介な物をひっさげてきおった」
 刀身を見て、独り言のように呟くのであった。

 そして次の語に「何と下手な研ぎか……」と嘆くように言った。
 これは、こうした意図で、最初にこのように言い放つのであろうか。あるいは、そもそもこの御仁は口が悪いのだろうか。
 もしそうだとすれば、名人と噂されている人には共通した独特の物言いがあって、皆このような口の悪さを持っているのであろうか。
 あるいは名人とは似たりよったりで、皆こうした些かなる偏屈な性格をしているのだろうか。

 この人を分析すれば、この御仁は明らかに人間より物を信ずるようなところがあり、物を愛し続けた結果、このような口の悪さを自然に身につけてしまったのであろう。偏屈と言われるような性格は、多くの物を見て来た結果から生まれたのであろう。

 世に、名人と名のつく人は多い。
 物をよく鑑て、真物に近付こうとすれば、そしてそれを模倣して腕を上げれば上げて行くほど、人間からは遠ざかり、ただ真物のみを見据えて驀地
(まっしぐら)に驀進する人なのであろう。それだけ人の世からは掛け離れる。掛け離れれば離れるほど、その隔たり分は、人の世の人間が馬鹿に見えて来るのであろう。そしてそこに、自分独特の世界観が生まれ、人間の世で欲に翻弄(ほんろう)される人間が益々馬鹿に見えて来るのであろう。

 私は、所持している『平安城』の研ぎが下手と言われて愕然
(がくぜん)とした。研ぎが悪いと言われればまだしも、研ぎが下手と云われたからである。これは言葉の“あや”ではあるまい。確かに、そう言われれば最初から何となく、青二才の直感でも、研ぎはよくないと思ったのである。
 「研ぎが下手ですか」
 「ああ」
 「悪いのではなく、下手なのですか」
 「ああ」
 「この『平安城』を研いだ研師は、下手な研師ですか」
 「これを研いだのは研師であるものか。日本刀を研ぐのに、こういう研ぎ方をする研師はいない。これは素人が研いだものだ」
 「素人が研いだ……」
 私は唖然
(あぜん)とした相槌(あいづち)を打っていた。

 「これは研師の研いだ研ぎではない。刀は縦研ぎをする。しかし、この研ぎは縦横出鱈目だ。したがって刀自体を駄目にしている。だから厄介な物といったのだ」
 「では、厄介な物を、もう一度研ぎ直してもらえますか」
 「厄介な物でも何でも、刀と名の付くものは、わしに研げぬ物はない」

 この御仁は鍛冶装束のような衣装を身に着けていた。烏帽子
(えぼうし)こそ冠(かむ)っていなかったが、研師は職人である。職人ならば鍛冶装束は必要ないと思うのだが、この辺からして名人と噂されている人は根本的に違うらしい。
 押されるような勢いに「では……」と言い掛かったのだが、何しろ学生の分際である。研ぎ代を払う充分な金子
(きんす)を持たない。後に払う段になって、足りませんでしたでは済まされないだろう。
 こうした私の顔色を即座に読み取ったのか、研師のこの御仁は「では、窓を開けてしんぜよう」と言った。
 つまり窓を開けた後、「それから研ぎのことは考えればいい」と促したようだった。それ以上多くは語らない人であった。

 研ぎの下手な刀に、先ずは一旦窓を開け、真物の研ぎの違いがどの程度か、私自身見たくなったのである。
 是非ともお願いするところだった。
 「是非お願いします!」
 私の言葉に力が入っていた。

 研ぎ師は徐
(おもむろ)に柄から刀身全体を取り出し、刀姿そのものを鑑(み)ているようであった。
 そのシルエットのような姿を傍
(はた)から観ながら、私は私なりの感想を抱いた。
 腰反りの高い、あたかも竹の子反りをした姿に映った。その腰の高さが踏ん張りの強い姿を思わせ、同時にそれは中茎
(なかご)を擦り上げていないことは一目瞭然だった。中茎はまさに生(うぶ)を思わせた。生に間違いない。
 とすると、まさしく『平安城』であろう。私の期待は膨らんだ。

日本刀は何と言っても鋩子(ぼうし)が命である。

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 番付としては決して上位でないにしても、どんなに安く見積もっても、「甲種マル特」は無理にしても、「マル特」くらいにはなるだろう。あるいは研ぎさえよければ、「重要刀剣」だって夢ではない。
 つまり、私の『平安城』と言って売りつけた刀屋は、研ぎさえよければ、決して七万円前後の価格で決して売らなかっただろう。五、六十万円は付けていたであろう。
 しかし研ぎが下手なために、この価格だったのである。不幸中の幸いだったのか……。
 どうやら私の刀剣人生は、初っ端
(ぱな)に当り籤(くじ)を引いてしまったらしい。

 この時代、悪名高い「村上マル特」が横行した時代である。どんな物にも「マル特」がついて、日本刀の値段がジリジリと値上がりし始めた時代であった。

 一方、私は研師が姿を見る、その姿勢に一種の感銘のようなものを感じていた。それが“さま”になっていたからである。
 そうしたものを感じながら、かつて古
(いにしえ)の持ち主は、一体どういう人だったのだろうか。思いはそこまで飛んでいた。
 研師は落ち着き払った声で言った。
 「だが、銘がいい」
 銘がいいとは、彫り込まれた銘が真物だと云うことである。
 「はあ?……」
 半分嬉しくなったような気持ちになった。
 「まさしく平安城石道住正俊だな。またの名を紀州石堂という。しかし研ぎが下手なために、肝心の互の目の丁字乱れの刃が眠ったままになっている。曇っているのではなく、眠っている。それは素人が研いだからだ。これでは刀が泣こう……」

 さて、これにどうした相槌を打っていいものやら、と迷ったのである。褒
(ほ)められたのか、貶(けな)されたのか。
 銘がいいとは、真物に間違いないと言うことである。
 そして「眠っている」というのである。

 青二才の私には、こういわれてもピンと来なかった。
 第一、これまで名刀と言うものを見たことがない。
 況
(ま)して名刀に迫るランクの、一般的な業物(わざもの)すらも、まだ見た事がなかった。
 銘がいいと言われても、その銘がどのランクに位置するものかわからないのである。刀剣を所持したのは、この平安城が始めてであったからだ。この平安城をなけなしの金を叩いて、博多のある刀剣店から買ったのであった。

 当時の購入価格は6万5千円か、7万円前後だったと思うが、現在の金に換算すれば、おおよそ70万円前後と思う。大学出の初任給が二万円から三万円弱程度であったから、物価上昇率を考えてもそれくらいの値段にはなるだろう。
 思えば、購入値はそれ相当だったと感得するのである。

 しかし当時、私には鑑刀の知識は皆無だった。
 「やはり平安城でしたか……」
 「近くに寄って見てみい」
 私は促されるままに這いよって、百目蝋燭に翳
(かざ)した焔(ほのお)の灯で平安城を検(み)た。鑑(み)るのでなく、検たのである。検証と言う意味である。促されるままのポーズであった。
 「幾分、鉄
(かね)が若いが……」
 それは山城のもので、古刀ではないと言う意味だろうか……。

 平安城石道住正俊は江戸初期の正保
(しょうほう)年間の刀工である。
 正保は後光明天皇朝の年号であり、寛永二十一年から正保五年までを指す。それで鉄が若いと言ったのである。新刀である。
 中茎
(なかご)からして新刀中茎であり、幽かにヤスリ目の跡が見えるようであり、また確かにそう見えるのである。
 そして「銘がいい」という。
 しかし、この当時私は「銘がいい」という言葉を漠然と理解するだけで、それが以後どういう意味を持って来るか釈然とした理解はしていなかった。ただ平安城が、その後の私の運命を変えたことは確かであり、私の日本刀人生は此処から始まったと言ってよかった。

 研師は、平安城に対し次のような感想を述べた。

 山城国住の刀工によく見られる身幅ならびに重ねがともにしっかりとした、やや反りのある体配。そして地鉄は板目がよく練れ、地沸がよく付き、かつ綺麗なる地肌。波紋は沸き出来の互の目乱れに変化が富み、沸き深く、刃中金線あり。
 更に砂流しがよく入る。
 山城国の刀工は、多くが互の目乱れを得意とし、平安城石道住正俊はその中でも、これを所持する者に気品を齎す。またの名を紀州石堂という。
 


 研師は更に言葉を繋いで、「あんたはこの刀によって、やがて身を起こすだろう」と。
 それはあたかも、平安城石道住正俊をもって世に立つと言わんばかりだった。そしてこの預言は的中し、事実、研師の予言通りの、その後の人生を歩くことになる。
 私が、昭和44年
(1969)3月の朝日テレビ系列(旧NETテレビ)『桂小金治アフタヌーンショー』に出演したときも平安城を持ってのテレビ出演だった。
 更に、一年後の昭和45年
(1970)3月の大阪万国博覧会を記念した、フジテレビ万国びっくりショー(司会、故・八木次郎氏)に出演したときも平安城は私と一心同体のような、人間の刀の魂の蜜月があった。

大東流剣術、枯竹斬りの妙技。この妙技において、私を常に心の拠り所として、支えていたのは『平安城石道住正俊』であった。そしてこの刀は、私の世に出る最初の切っ掛けをつくった刀であった。

大東流白刃抜きで、引き抜いた後の、刀を握った手を見せるところ。司会は八木治郎アナウンサー(故人)だった。
白刃捕りの演武。一旦引き抜いた掌の鞘から、再び許の鞘に納める高度な儀法。

 この番組は30分番組であるが、私がメインと言うことで、私だけに15分の時間が割 かれていた。この15分は、ただ単に15分間淡々と演武をすれば良いと言うものではない。一時間近い録画の中から、よいカットだけを絞り込んで編集し直すものであった。私の演武は、録画だけでも有に二時間に及んだのである。
 こうした経緯を辿るのは、こうして最初に出逢った、この研師のお陰であった。この研師の影響力が、以降の私の人生にも大きく影響したのである。
 しかし、こういう道筋を辿るのは、研師との出遭いから二年後のことである。

 「あんたは若いが、人間は老若によってのみで、人間の値打ちは決めかねるが、あんたを見ておると、なるほどと思えるところがある」
 はて、これにどうした返事をしていいものやら……。
 「……………」
 「わしは人間の値打ちを商売柄、刀を見る眼で、その人の値打ちを決めている。刀が好きな人間の多くは、半分が金目当てだ。つまり投資で刀剣を見る」
 「……………」
 「こうした人間は刀の値打ちなど分らん。金と刀が同じように蹤
(つ)いて廻っていると思っている。ところが実際はそうではない。刀が好きと言う人間の半分以上は、まるで株券でも買うように刀を買い漁(あさ)る。それは千円でも二千円でも儲けようとする肚があるからである。そういう者に、刀の値打ちなど分ろう筈がない。本物の刀剣家は、金とは無縁である。ひとえに刀を愛するだけだ。それ以外に何の曇りもない」
 「そういうものでしょうか」
 「それ以外に何がある」
 「はあ……」
 「本物の刀剣家はいい物のみを愛し、出来るだけ真物
(ほんもの)に近付きたいと思う。その願望が強い。
 したがって、まず最初の一振りで、それ以降の刀剣人生が変わって来る。一振り持てばいいと思う者は、そこで刀剣人生が終わる。いい物を、真物をと願う者は、次々にいい物へと買い替えて行く。やがて、あんたもそういう人生を歩くだろう。そこに、刀剣人生を歩く者は、以降、益々真物を所持したいと思う。真物に近付こうと思う。それが刀剣家の向上と言うものである」
 「はあ……」
 「だが、よく覚えておくことだ」
 「どういうことを、でしょうか」
 「刀剣家になって刀を愛すると言うことは、損をするということだ」
 私は、この「損をする」という意味がよく分からなかった。

 「損をする?……」
 「いいか、刀と言う物は、買うときは高く、売るときは二束三文だ。この覚悟が出来ているか、ということを訊いておる」
 こう問われて、少しばかり躊躇
(ちゅうちょ)した。
 買うときは高く買わされ、然
(しか)も売る段になっては、実に安く叩かれるからだ。
 特に素人の場合、それ相当の時価相場で売り捌くことは難しいのである。
 「……………」
 損をする……と聴いた時、私の耳に響いたのは刀は所持すると損をする……というように響いたのである。

 「わしは、あんたに損する余裕があるかと訊いておる」
 私は再び反芻
(はんすう)するように「損する余裕……」という言葉を繰り返していた。
 「つまりだ。その覚悟のほどを訊いておる」
 研師は公然と言い放ったのである。
 刀剣は投資や投機の対象ではない。株券や投資信託などとは根本的に違うし、所持しているからと言って、銀行預金のように利息がつく訳もなく、ここには刀剣を愛する“好き者”として自己犠牲を払う必要があるということを促しているのであろう。

 また逆に、その覚悟がなければ、刀剣など所持するなと言っているのであろう。
 私の、その「覚悟のほど」を訊いているのである。また、その覚悟がなければ、所持資格も無いと言う意味である。
 日本刀の所持には、その覚悟のほどの社会的資格が要るのである。

 私はこの時、はっきりと刀剣所持資格という日本刀に対する資格を認識し、また社会的責任を痛感したのであった。日本刀と言う美術品も、一歩間違えば兇悪な武器になるからだ。

 「損する余裕……、その御言葉生涯忘れません。確
(しか)と確認致しました」
 「よし分った」
 研師はこう言って再び研ぎの仕事を再開したのである。
 つまりこれは、ここで「お開き」ということなのであろう。
 私は持参した平安城を預けて、此処を後にしたのである。そして私は、この研師にその後、約二十年ほど支持することになる。

 研師の先生を吉藤清志郎という。
 吉藤先生は研ぎだけではなく、鞘造りも柄造りも、また柄巻きも出来る人であった。ただ鞘塗りだけが出来ず、鞘塗りは別の漆職人へ注文を出していたようである。
 私が最初に教わったのは、白鞘造りであった。
 まず朴
(ほお)の木片を手引き鋸で切り出す事から習った。
 白鞘造りの製作工程は、朴の切り出し方から始まり、形取りと引き割りから始まり、張り面仕上げ、刀身形取りと肉取り、張り合わせ、白鞘仕上げの順に行うが、そこに至までには道具の遣い方を習わねばならなかった。

 鋸
(のこ)の遣い方と鉋(かんな)の掛け方、更には鑿(のみ)の彫り込みからなど、総ての手作業の鞘造りを習った。
 そして次に拵鞘、柄造り、柄巻き
(捻り巻き、摘み巻き、牛革ならびに鹿革巻きの種々で、ただ糸組み巻きの段階までは至らなかった)の順に習い、研ぎの段階は粗研ぎ段階までだった。
 吉藤先生は、研ぎは「昔研」の名人だったのである。したがって、今日のような「現代研」とは些か地肌の光り方が異なるのである。昔研の方が、光が鈍く抑えられるのである。

 大学時代、学生の分際でありながら刀屋商売を始めたのは、吉藤先生とのこの時の出遭いにより始まる。
 いま思い返せば、当時、研ぎを最後まできちんと習っておけばよかったと思うのだが、学生時代から刀屋と兼業で始めた家庭教師が、やがて徐々に忙しくなり、家庭教師を皮切りに学習塾や大学高校受験の進学塾、更には大学予備校と事業を拡大して行ったため、研ぎまでは余力が廻らず、また時間も不足していたのである。
 そして吉藤先生は、私が約二十年間支持するのであるが、その二十年間の間に私の教えられるだけのことを教えて他界されてしまった。

 しかし私の刀屋人生は、吉藤先生との関わりが大きかったと言える。そして一番大きな影響を受けた教えは「損する余裕」と言う格言だった。これはまさに、私の人生訓だったのである。
 吉藤先生との関わりについて、これから語ることにしよう。



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