運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
続・刀屋物語 1
続・刀屋物語 2
続・刀屋物語 3
続・刀屋物語 4
続・刀屋物語 5
続・刀屋物語 6
続・刀屋物語 7
続・刀屋物語 8
続・刀屋物語 9
続・刀屋物語 10
続・刀屋物語 11
続・刀屋物語 12
続・刀屋物語 13
続・刀屋物語 14
続・刀屋物語 15
続・刀屋物語 16
続・刀屋物語 17
続・刀屋物語 18
続・刀屋物語 19
続・刀屋物語 20
続・刀屋物語 21
続・刀屋物語 22
続・刀屋物語 23
続・刀屋物語 24
続・刀屋物語 25
続・刀屋物語 26
続・刀屋物語 27
続・刀屋物語 28
続・刀屋物語 29
続・刀屋物語 30
続・刀屋物語 31
続・刀屋物語 32
続・刀屋物語 33
続・刀屋物語 34
続・刀屋物語 35
続・刀屋物語 36
続・刀屋物語 37
続・刀屋物語 38
続・刀屋物語 39
続・刀屋物語 40
home > 刀屋物語 > 続・刀屋物語 16
続・刀屋物語 16

香炉は香を焚(た)くために用いる器のことである。香炉の材質は陶磁器・漆器・金属製があり、形も種々で、飾香炉・聞香炉などがある。それだけに香炉に美術的価値観を見出すことが出来る。

 また、室町末期においては「香道」なる、香を焚いて愉しみ芸道が起こった。香合
(こうあわせ)・薫物合(たきものあわせ)・たきつぎ香などは茶道の創成と重なりながら、文学と結びついた組香(くみこう)中心の香道に成長した日本独特の芸道である。
 かつて武人は、茶を立て、それを飲み干して戦場へと向かったとある。
 武門の習いであった。

 茶道が武門に持て囃されたのは、茶そのものに鎮静作用を起こす薬用効果があったからだ。
 武人は武勇一点張りでない。そういう武士は下の下とされた。蛮勇は人物評価の対象外だった。故に茶の湯も嗜
(たしな)んだ。風雅を問われたからだ。
 茶には疲れをとり、心身をさわやかにする妙薬として武門には用いられたことである。
 これはまた香においても同じであった。

 香には伽羅
(きゃら)などが遣われ、沈香(じんこう)の最上の種類とされ、日本では最も珍重された。
 香木の産地を木所
(きどころ)という。
 これは香木の産地のことで、その産地の異なりによって、伽羅・羅国
(らこく)・真南蛮(まなばん)・真那賀(まなか)・採蘇羅(さそら)・蘇門答剌(すもたら)の六国(りっこく)と新伽羅(しんきゃら)に分類され、おのおの苦・甘・鹹・辛・酸の味ありとし、これを「六国五味」という。



●香気

 緊張、あるいは柔軟な緊張というものは、人間にとって必要不可欠なものである。
 緊張には、濃厚の時間の凝縮があるからである。
 同時にそれは、真剣勝負の趣があるからである。緊張は「命懸け」という気持ちを起こさせるからである。自分の振る舞うべき方向性は、その中に存在する才覚に委
(ゆだ)ねられるからである。
 また一方で、それは「魂の香気
(こうき)」を感じさせるからである。

 魂の香気。
 あるいは霊的香気……。
 それは例えば、かつては「帯刀する」などの行為において見られることである。武門の家では、帯刀は武人の象徴としての作法であり、男子は脇差しを腰に帯び、女子は懐剣
(かいけん)を帯内に帯刀していた。

 かつて武門では帯刀をしていた。また武門の上下に関係なく、帯刀を許される身分にあった。
 武士が刀を帯びるのは、死を覚悟することから始まった。常に死とともに生きていた人間の歴史がある。
 したがって武士は士農工商のうちの、士は農工商の三民の上に立って、自らの全人格を表に出して生きて来た証
(あかし)がある。
 怯懦
(きょうだ)な生き方は出来ぬ。
 それが武士の生き態
(ざま)であった。
 なぜ怯懦な生き方が出来ぬのか。
 それは、そこで武運が尽きるからである。

 腰に刀を帯びる……。
 あるいは懐剣を帯びる……。
 かつて帯刀は男女を問わず、武門の備えであった。
 それは同時に心の具
(そな)えであった。そしてこの具え自体が、有事に対しての武士の心構えであった。それだけに、行為の中で香気を感じさせるのである。
 また同時にこれは、一種の緊張感を齎す「隙
(すき)を作らない」と言うことにも通じていた。武門では隙を嫌う。油断を嫌う。
 軽く見られず、そして侮られないためである。

 古来、礼を尊ぶ武門では、服装について厳しく戒め、また服装とともに香についても厳しく戒めて来た。それはまた同時に「隙を作らない」と言うことにも通じ、無意識の緊張と言うものが礼法の根底にあったからに違いない。
 人間の肉体からは種々の臭いが発散されているからである。
 隙の多い人間は、こうした臭いが著しい。それは油断しているからであろう。
 油断している人間と、そうでない人間とは、臭いの面においても、両者は雲泥のさがあるようだ。

 また、昨今は「霊臭」という臭いが匂う時代であり、これは戦後の日本人が動タンパクを多く摂取することから、こうした獣に似た、またウンコ臭い匂いを発するようになった。ある意味で現代人は野獣化しているのかも知れない。
 更にはこの野獣化が弱肉強食の「猟り」の状況を作り出し、弱い者を啖
(く)うという猟る行為に奔(はし)らせているのかも知れない。あるいは猟られる弱い物になってしまうのか。
 肉食系の猟る者がいる限り、猟られて啖われる草食系の猟りをされる対象も存在するだろう。

 しかし草食系の総てが猟られる訳でない。猟られるのは、何処かに隙があり、間抜けな面が、猟る方から見えるためだろう。その間隙を狙われて猟られるのである。
 草食系にも猟られる者とそうでない者がいるようだ。
 猟られる多くは、眼が曇らされ、心までもが曇っているためだろう。

 時代は移り変わるが、基本は人間の持つ霊的神性を高めることであろう。
 霊的神性が高まらねば、それは益々神性から離れ、野獣化が顕著になって行くからである。万物の霊長から離れ、その霊的面は益々動物の方の偏って行くのであろう。これにより動物化が進めば、現代人はより動物に近付き、日本人がこれまで連綿と伝承して来た霊的神性は益々曇らされて行くことになろう。
 曇れば同時に真贋の判定をする精神性すら薄れて行くのである。

 往時の武人達が精進に心掛けたのは、こうした肉体から出る霊臭を忌み嫌ってのことであり、その一方で香を焚くという礼法を尊んだのである。そこには人間の心に霊的神性が宿っているということを知っていたからである。礼を通して霊的神性は発露されると感得していたのであろう。
 ここが往時の人たちの感性の凄いところである。
 しかし、現代はこうした霊的なる感性が薄れてしまった時代である。
 故に霊的神性に関して曇り解く時代でもあると言える。
 往時の人たちの感性について、これを如実に顕したものが『葉隠』である。部門の礼法の根本はこれに回帰されるように思う。

 この記述は『葉隠』にも登場し、この記述によれば「士は毎朝行水月代髪
(さかやき)に香をとめ、手足の爪を切って軽石にてこすり、こがね草にてみがき、懈怠(けたい)なく身元のたしなみを専一とし、尤も武具一通は錆を付けず、塵埃(ちりほこり)を払い、磨き立て召し置き候」と記されている。
 往時の武士がこのように身元の嗜
(たしな)みに意を用いるのは“風流”においてではない。

 背景には、「万一の場合」を考えた具えがあるからである。
 つまり往時の武士は、死から逃げ回る愚を避け、真摯
(しんし)に死と向かい合っていた。死を、わが心に充(あ)て、真剣に死と対峙し、人間と言う生き物が、実は死と隣り合わせの生き物であることを知っていたのである。人間の「被存在なること」を知っていたのである。人はやがて死ぬからである。

 そのために見苦しい姿で討ち死にした場合の恥などを考え、末代までに恥を晒
(さら)すことがないようという心掛けが日頃から出ていたのである。これが日常生活の中に非日常を取り込んだ武士に生き態(ざま)だった。いつ死んでもいいように普段から心掛けていたのである。

 往時の武士の行動原理は、常に死と隣り合わせにあり、この種の種が付き纏っていたのである。
 そして十六世紀の戦国期においては、兜の中に香を炊き込めるという木村重成
(きむら‐しげなり)の故事からも窺えることである。

 木村重成は江戸初期の武将であり、豊臣秀頼の臣であった。
 重成は知略に長
(た)け、大坂冬の陣では善戦し、和議の際、徳川秀忠の誓紙受取の使者だったことで有名である。しかし翌年の夏の陣に戦死した。
 そして重成の普段からの心掛けは、自分が香を嗜むと言うことで、討ち死にした際の配慮として、自分の首を掻く相手の武士への配慮があった。首を掻き捕られたとき、無態
(ぶざま)な異臭を発しては失礼となろう。こうした失礼がないような配慮を普段からしていたのである。
 それが香であった。

香気の象徴は香炉である。そして「香り」の中には、香気を忍ばせる『香気芬々』という語がある。
 つまり、花の香りなど、よい匂いがあたり一面に漂う様子を香気芬々……と言うのである。

 香りの芸道を「香道」という。香をたいて楽しむ芸道のことである。室町末期から茶道の創成と重なりながら、文学と結びついた組香くみこう中心の香道に成長した芸道である。そこに香りの気品と気高さがある。

 外敵に対し、いつでも反撃できる体勢の「備え」であった。
 その備えは緊張とともに「身が引き締まる」という気持ちを派生させるから、心は防備の体勢がとれるのである。
 例えば、それは“脇差し”や“前差し”でも構わないのであるが、とにかく「腰に刀を帯びる」という行為は、魂の香気を感じるだけではなく、同時に「高貴な緊張」を齎
(もたら)すものである。また、それは魂が貴族的になるということである。それだけに品格がある。

 つまり、魂が貴族的というのは、自らを律する能力を持ち、それを継続した緊張をもって、長時間維持できるという癖をつけることである。あるいは、この長時間を生涯と、置き換えてもいいのである。それくらいの緊張を保ち、それはいつもで、どこでも「何事にも備えることができる」という継続する体制を保つことである。

 そして帯刀の意味は、同時にそこには「平等感」が不文律として罷
(まか)り通っていた。帯刀が平等であると言うことは、いちいち口で言わなくても分かっていたのである。民主的な面から言えば、今よりずっと民主的であり平等であった。

 武門では、帯刀するこの意識には上下関係がなかった。
 これは武士は対等であると言うことを意味していた。
 帯刀することにおいて、上下関係はなく、下級武士も上級節も、武士であることには変わりがなく、武門では家柄や身分の差なく、誰でも帯刀が許されていたのである。
 登城しても、上下の差なく脇差し帯刀は許されていた。これはまた、武門の礼儀であったと考えられる。ここに帯刀の大事あったと思われる。

 礼儀作法において、「帯刀」は、また礼儀の一部であった。つまり、武と礼は表裏一体の関係にあって、これは切っても切り離せないものなのである。
 一般に、武術とか武道とかいい、これを勝負の世界のものと勘違いしている愛好者が、今日では多い。これは武の世界をスポーツの勝つための競技と、誤解しているからである。

 スポーツでは、勝つことが第一義とされる。したがって、勝負の世界を「武の世界」に移行し、礼を心得ない人間が、武道家面
(づら)して闊歩(かっぽ)しているのも、“今日(きょう)びではなら”のことである。この考え方の根底には、武と礼を切り離し、武を勝負の世界としていることだ。勝つことのみを武の第一義としているからだ。だから、勝つために命懸けで当たれという。

 しかし、これはどこか訝
(おか)しい。
 何故ならば、武と礼は表裏一体であるからだ。切っても切り離せないからだ。
 勝つことだけで、礼儀などどうでもいいと言うのでは、これはそもそも武人の嗜
(たしな)むものではない。
 人間は社会的な生き物である。

武人と雖(いえど)も社会の中では、人間の一員である。

 社会の中で、武人と雖(いえど)も人である。
 人である以上、絶えず他人と接触する。そこに某
(なにがし)かの人間関係ができる。その接点において、人間はその意識下で繋(つな)がる以上、必然的に絡んでくるのが「礼」である。
 だから礼は無視できない。
 礼は古来よりいかなる場合にも、存在するものであった。少なくとも、かつてはそうであった。しかし、かつて存在したものが、今日では薄れてきている。どうでもいいことだと、邪魔者扱いされている。あるいは軽んじられている。

 そのくせ、礼意識を持たない者が、「武は礼に始まり礼に終わる」などと、聞いたようなことを抜かしている。
 しかし、その言葉の裏付けはない。そして、礼と言っても“あいさつ”か“お辞儀”程度にしか考えていない。礼の本質を知らない。
 自称武術家とか、自称武術研究家と称する者の多くは、「礼」の一字も存在しない。傍若無人である。単なる論評オタクである。勝手なことをほざいて、責任を取らない。そして匿名で自己主張だけはする。このベレルの者が、礼儀を弁えた武人面
(づら)することはできない。できないが“自称○○”を気取っている。

 その上、伝説や勝負の世界で、強い者の“追っ掛け”をやる。
 彼等の多くは、勝つことと、態度が立派であるということに、どちらに比重多くかという設問の思い込みに考え違いをしている。
 だが、これ自体の問いに誤りがある。それは武と礼を分離しているからである。

 つまり、礼儀正しく、作法を心得、態度を立派に保つことに重点を置くならば、勝つことが疎
(おろそ)かになるという間違った意識を持っていることだ。勝てばよい、叩けばよい、倒せばよいという考えに汚染され、態度の立派さは二の次に置いていることだ。
 もし勝つことが、礼儀正しさにとって抑止力になっているとするならば、これは武という、かつての武門の作法を再点検する必要があろう。

 本来、人間は必死になる時に必死になり、死に物狂いで戦うべき時に見せる態度が、そもそも「礼」というものであって、自分の小手先の腕自慢で相手を見下すことではない。凄いだろう、と脅すことではない。対戦した相手に見せる態度こそ、「礼」なのである。

 だからこそ、みだりには戦わないのである。感情に流されないのである。実に思慮深い。先の先まで読む。
 これこそが武人の心構えである。
 心構えの基本には礼法がある。礼儀がある。
 この根底には、互いに犯さず、犯されずの状況判断と危険に対する意識が働くからである。この意識こそ「緊張」というものではなかったか。
 日本刀を所持すると、こうした緊張感とともに無意識にあたりを警戒し、隙作らない心構えが出来るのである。

 緊張とは本来、敵に侵略させることを許さない行為である。犯させない行為である。
 この根底には、「殺されず、またこちらも殺さず」というものがなくてはならず、こちらから侵すこともないが、また侵されもしないという態勢が整って、この緊張という行為が成立するのである。これこそが、敵の攻撃から身を守る姿勢であって、その根底には「緊張」というものが、常に漂っていなければならないのである。

 しかし、現代人の一つの訝
(おか)しな言い掛かりとして、「緊張ばかりして精神を張り詰めておくと、それがストレスの原因になり、強(し)いてはガンを発症する」という“ストレス説”を持ち出す医学者がいる。だから「緊張することは良くない」というのである。
 ストレスから、「ガンが発症する」というこの精神病的現象は、確かにストレスは、ガン発症の病因になり得るかも知れない。しかし、緊張とストレスは必ずしも同義ではない。

 自分に課し、自分を戒め、自分を律する緊張は、必ずしも身体に悪いわけではないのである。
 また、ストレスからガンが発症したり、その他の病気
(鬱病やノイローゼなどの神経症。あるいはこれに似た、心理的な原因によって起る精神の機能障害)になるというのは、その根源に幼児期の親の躾(しつけ)というものが密接に絡んでいて、つまりそれは前頭葉の未発達などで、ガンを筆頭とする「ストレス病」が起こるのであって、これは本来緊張とは無関係である。また、備える行為とは無関係である。

 また緊張感が失せてしまうと、人間は不勉強のまま人生を潰えるようだ。
 人間は常に学んでいなければならない。学ぶことに手を休めては行けないし、骨身を惜しんではならないと思うのである。

 人間は直感を大事にしなければならない。
 これが即断能力である。同時にそれが真贋を見抜く能力でもあり、また「勘」でもある。
 往時の武人はこれを「直感」と称した。
 直感で物事を感知する能力こそ、その根源しは霊的神性がある。
 直感を大事にするということは、即決即断が出来、事に当たって最良の道を選択出来ると言うことである。
 したがって、“長い目で見る……”などの悠長な振る舞いや行動原理は存在しない。
 「今」を大事にするからだ。
 今この一瞬に総てを賭ける、そうした気概がその後の運命を定めるのである。
 こうした気概を、往時の武士は「武運」と言った。
 武運拙
(つたな)くては勝てないからだ。
 そして礼儀知らずほど、武運は拙いようだ。これでは生き残れる道理はない。また、霊剣あたたかなるものも見抜けまい。そこに“あやかし”に誑
(たぶら)かされる現実がある。

眼の勝負はまた武運を養っていなければ勝てない。真贋を見抜くには単に肉の眼で見る観察眼だけではどうしようもない。奥の奥を見る、闇を見通す力が必要である。
 この力の養成を怠っては、やがて“あやかし”に誑かされる。霊験あらたかなるものに触れることが出来ない。ただ騙されるだけである。

 したがって希望的観測を抱かないことこそ、武運の養成に役立つ養成力であり、これがなくしては先の先を検(み)る「見通し」も立たない。
 最も危険なことは、まだ起こってもいない未来予測を希望的観測で判断し、“そのうち分るだろう……”とか“そのうち変わるだろう……”などの形成を、「そのうち」に任せることである。そのうちに任せても、結果としてはいい現象は顕われないし、最後は煮え湯を飲まされることがオチとして待ち構えている。
 人は変化するものであるが、多くの場合はいい方に変化することは稀であり、大半は落ちぶれて悪い方へと変化する場合が多い。

 瞬時に観測し、また眼力で監察して「この人間が怪しいぞ……」とか「臭いぞ……」あるいは「訝
(おか)しいぞ……」と感じたら、その直感を大切にするべきである。
 これを甘くみて遣り過ごすと、後でとんでもない運命のしっぺ返しを喰らう。
 いま、駄目だと思ったらその直感を大切にするべきである。
 そして、この場合の判断が正しい。
 運命は、自らに加勢しているからである。したがって、その瞬時の判断は正しいのである。決して迷ってはならない。迷いは吹き切れていなければならない。

 これまで私が感得して来た結果に準ずれば、その場その時に、瞬時に感じる直観力は、「運命が加勢した正しさに覆われている」と言うことである。その場合に限る。
 そして人間は安易に希望的観測に縋った時、そこで敗れる。

 したがって、これを打ち消して“長い目で見たら……”と言うような希望的観測に取り憑かれると、それは人生の取り返しのつかない迷いとなり、その人の生涯に付き纏い禍根
(かこん)を残すことになる。長い目で見ると言う臆測は決して正しくなく、結局は墓穴を掘るのである。
 世に「遣
(や)れば出来る」と云う言葉があるが、あれなどは真っ赤なウソであろう。
 遣れば出来るは、あくまで希望的観測に縋ったいい加減な言葉である。どうして「遣れば……」になるのだろうか。遣らない者が、最初から遣らずに希望的観測に縋って、遣らずにいれば何一つ出来るものはない。遣れば……は希望的観測に過ぎず、未来を甘く見た臆測に過ぎない。

 私の人生の経験からすれば、こうした臆測によって随分犠牲を払って来たことがある。また臆測者の意見を取り入れ、随分と煮え湯を飲まされたことがある。
 これによって内外で、実に多くの煮え湯を飲まされて来た。それ分だけ賢くなったが、また犠牲も大きかった。その犠牲の分だけ、ありもしない妄想に取り憑かれ、長い目で見る……とか、そのうち……と言うような希望的観測に縋った結果、結局は不幸な結末を迎えたことである。
 人を長い目で見て、その人がその後、変化してよい方に傾いたと言う話は一度も聞いたことがない。長い目で見た分だけ、その人の将来は失望したものになっていた。人間は悪い方に傾くことはよくあっても、いい方に傾くことは殆どない。

 人をいいように解釈して、長い目で見たり、そのうち……と言う希望的観測に縋ることは、つまり遣ってもいない者を、遣れば出来ると言う過大評価をして検
(み)た場合の起こる愚行で、この過大評価は結局、追跡調査をすると間違いであったことが判明するのである。

 その愚を避けるためには、私がこれまで人生から痛切に感じたことは、「礼節を中心に考える思考力」だった。
 先ず、その尺度の物差しとして、礼儀を中心において、その尺度で人の「格」を計測する方法であった。
 人には「格」がある。
 これは私が長い間云い続けたことである。
 そして「格」を計るのは、礼儀と言う物差しが必要である。

 礼儀に叶っているか否かを考えれば、対峙
(たいじ)する人間像の「格」は自(おの)ずから顕われて来るものである。礼儀の有無の尺度に当て嵌めれば、人物評価は先ず外れない。人物評価を外してしまう場合は、人を計る場合、その身形や体形、金銭や財産の有無などで計るからである。そういうものと人物とは無関係なのである。外側を測る尺度で、裡側は決して計れないものである。

 そして努力する人間と、表面上は努力したようなポーズを執る人間との差が、此処に如実に顕われるのである。此処に人間の上・中・下が出る。その表出が多くの場合、礼に顕われるようだ。
 そして最終的には他力一乗が決定する。
 上の人間には他力一乗が働くが、中以下には何も働かないと言うことである。此処に努力する「他力」の実体がある。
 また他力の実体の中には、武門は始終部分が蹤
(つ)いて廻るゆえ、同時に礼儀のありようが物を言う。

 如何なる恫喝
(どうかつ)にも屈しないのは、その人の持つ志である。また志は、根本に礼が存在しているから、礼が存在した場合簡単には挫けない。周囲に影響されたり脅しに屈するのは、そもそも礼がなく、志が釈然としていないからである。明確に打ち出されていないからである。
 故に気品がない。品位がない。品位は志の高さで決まるからである。気品は志によってなる。志は気品によってなり、気品は高貴か否かできまる。高貴は、また「香気」である。内面から漂う雰囲気である。
 他人から侮られたり、軽く見られるのは見る相手も香気は欠けているであろうが、そもそも見られる方も香気が欠けているからである。
 香気を漂わせるには、志を明らかにしなければならない。
 志か明らかになれば、そこに努力すると言う行動が顕われる。この行動こそ他力一乗の原動力である。
 他力一乗は努力する他力の中に存在する。

 私は、かねがね愚息に言い続けたことがある。
 「バカは、人の三倍勉強しろ」と、叱咤激励することを忘れなかった。よく云い続けたことである。
 愚者でも、努力する他力があれば、他力一乗が働くからである。天命が加勢するからである。努力する他力なくして天命の働きようがない。努力する他力があってこそ、天と言う他力一乗が働くのである。

 その根本には理
(ことわり)に適(かな)っているか、そうでないかの違いがあるからである。
 理とは、また礼儀であるからだ。
 努力は、ポーズだけでは駄目である。実際に遣らなければならない。
 遣れば出来る的な、甘い考えでは駄目である。実際に、実践しなければならない。実行力が必要である。不言実行である。
 また一夜漬けでも駄目である。日々鍛錬することである。こうすることで、眼力は日々鍛えられる。常時戦場の気持ちで、毎日鍛錬していかければならない。
 そうすれば、この世は眼で勝負する世界だから、本物と偽物が見分けられる、と教えるのである。

 それに「金の勉強」である。金銭は生き物であることを知らなければならない。
 この勉強は、単に経済感覚と言う意識を養うだけでなく、常に自由を獲得するためである。
 昨今は自由、自由を豪語しながら、実は自由でない人が多い。
 特に資本主義の世の中は、「契約」というキリスト教の理念が働いている故、貸借などの契約をして、負債ばかりを殖
(ふ)やしつつも、これを資産と思い込んでいる人が多いからだ。契約をして買い込んだものは、総て負債である。負債責任を負う。その責任を負わされている間は、決して経済的自由はない。いつも金銭に追い立てられることになる。後から利息が追って来る。契約社会の特徴である。
 その契約期間は、経済的不自由を強いられるのである。

 まず『貸借対照表』を学べと言い続けた。
 これを正確に学ぶことは、また一つの礼儀を心得ることになる。
 人間は決して富者になる必要はないが、しかし経済的不自由を強いられては、自分の責任ある行動に自由は訪れないだろう。始終不自由に縛られることになる。
 これを知るのも礼儀であろう。

 貸借対照表は、何も、商売人や経営者だけがするものではない。一般のサラリーマンだって、家庭にいる主婦だって、この勉強は必要である。
 また、税理士の資格を取る必要はないが、それに迫られるくらいの知識と経理の勉強をしろと、普段から言っているのである。そうすれば、最低限度人に騙されたり、うまい儲け話に乗らなくても済む、と教えるのである。

 騙される人間の多くは、まず共通していることだが、『貸借対照表』で言う「資産の部」と「負債の部」の区別が分からない。その大きな間違いの例が、自分の大ローンで買ったマイホームやマイカーや大型の家電製品が、“自分のもの”と思っていることだ。

 ところが、これらは金融会社のものである。総ては債権者のもので、大ローンを組んだ者は債務者なのである。
 一方債務は毎月履行する義務が課せられる。この義務を怠ると、即座に金融会社から債権執行が行われ、強制執行により取り上げられて、競売
(けいばい)されてしまう。
 日本では、担保権の実行など、更には民法ならびに商法の規定により、動産または不動産の競売をなすべき場合に、執行官や地方裁判所による競売の手続が、債務者に取られる。
 不履行を起こせば、直にこの手続きが取られる。

 しかし、大半の日本人はこうしたことに疎
(うと)い。
 自分が高い学歴を持っていると自負している者でも、知能ギャングや暴力団よりも、この手の知識は疎いのである。水面下や背後には、こうした闇の意図を持った工作者が暗躍している。
 緊張の足らない、間抜けな人間を猟るためである。
 しかしその実態を、最初から架空のものとし、SF小説のような“スパイ物”と考えている愚者も居る。愚者の大半は、実際にある訳はないと見下している。

 だが「愚か」も、ここまでくれば“処置無し”である。
 そうした、甘い考えで生活をしている日本人が何と多いことか。
 自分が工作されて、啖
(く)われると言う危機感を持った者は少ない。その自覚症状もない。最初から架空の作り話と一蹴(いっしゅう)している。まったく処置無しである。お人好しと言うべきか……。
 自分の足許が燃えていることにも気付かないからだ。

真贋を見抜くのが眼力である。物を検(み)る眼がなければ、それだけ贋作を掴まされ、やがては没落の中に追い込まれて行く。
 常の「無意識の緊張」と「眼の勝負」に賭けて、眼力を養っておきたいものである。奥の奥まで見通す、そういう眼力である。
 この眼力を養うことで、往時の作者が抱いた目的が明白になって来るからである。
 何故なら、人は目的意識のおいて「志」が歴然とするからである。

 日本刀を愛好する者の世界にも、「愚か」は付き纏っている。その周辺小道具や刀装にも贋作は多い。贋作が徘徊する世界でもある。またそれを承知で、ババを掴ませようとする輩(やから)が暗躍する。
 今日の日本刀の愛好の世界では、“自分の所持している刀剣を、結構な値段がするであろう”と、みな思い込んでいる。
 偽物を真物と信じ込んでいる。
 そこが、ババを掴ませて暗躍する輩
(やから)の暗躍理由である。

 では、何故ババを掴まされるのか。
 掴まされた方が“慾をかく”からである。一儲けを企むからである。世の何処かに、掘り出し物があるという妄想を抱いているからである。だが実際にはそれは幻想に過ぎない。万に一つも存在しない。
 しかしこの幻想に縋る者は多い。
 そこで暗躍者が登場することになる。

 ババを掴まされる者の多くには、妄想からなる真物が、この世の何処かに存在するという幻想を抱いている節がある。そして、刀剣愛好の側面に投資と言う感覚があり、刀剣を含む古美術品を投資とか投機の対象と考え、これを金儲けの一部と考えていることである。したがって刀剣自体を、金銭にして換算する思考が働いている。
 事実、この世界ではそういうものの味方で考える人も少なくない。
 資金力のある人も、そうでない人も、刀剣の価値イコール金銭の価値と思い込んでいる人は大半であろう。そして刀工の、奥の奥に潜む心の動きや礼儀などは二と継ぎにして、一を知って、二を知らない人が多いようだ。

 故に贋作は、この世界を循環する。
 つまり刀剣に所持して蹤
(つ)いて廻る、「刀剣戸籍」ともいうべき『銃砲刀剣類登録証』が喪失されない限り、この世界には、逆によく出来た真物に迫る贋作が蹤いて廻ることになる。そしてこれが愚者から愚者へと転売されて行く。
 こうした愚か者の連中に、この世界の恥部がある。この恥部こそ、「愚か」の原点である。そして此処からババの掴ませ合戦が始まった。
 また、ババ掴ませのババの中には、闇で売買された『銃砲刀剣類登録証』が未登録の刀に付随され、巧妙に細工されてすり替わっている物もある。

刀剣に付随されている『銃砲刀剣類登録証』は刀剣の戸籍である。出所を示す公文書である。
 闇では、この戸籍があたかも人間の戸籍を同じように売買されていると言う。これはババ抜きとともに、この世界に存在する恥部である。詐欺師然の、旗師崩れ
(犯罪などで古物商許可証を失効した者に多い)の闇の売人によって売買されていると言う。

 こうした背景には、刀剣が発見された所轄警察署の「発見届」の届書受理と、また都道府県教育委員会文化財保護課の登録審査において、美術品としての判定基準の厳しさや刑法規制に関する厳しさも関与して、不法所持の対象にされ、取締の強化にも由来しているようだ。

 つまり、締め付ければ締め付けるほど、イタチごっこも白熱化し、闇では公文書偽造を覚悟で戸籍売買が横行するのである。
 また、こうした偽造証に手を出す素人も多いようだ。
 素人の中には、刀剣所持を甘く考え、刀と人格を切り離して考え、これを投機の対象と思い込んでいるからであろう。ここにも礼儀知らずの側面があるようだ。

 つまり「甘えの構造」の中には、香気は高貴に繋がり、高貴の気質は志によって格調高い香りを放ち、その香りを放つ根底には、礼儀が存在すると言うことを知らないからであろう。

 特に、若い世代や、武道愛好者の中で、「好きのレベル」で日本刀を所持している者は、この手の愚者が多い。ババを掴まされ易い。そして共通している評価の原点には、自分の物を自慢し、他人の物を貶(けな)すことである。
 これは、素人刀剣愛好家の共通した優越感でもあるようだ。
 他人の所持品を決していいように言わない。貶すこと、この上もなし、である。自分だけが最上の物を所持していると言う自負の、優越感がそう云わせるのであろう。

 私自身こうした愛好家同士の交換会と鑑賞会の席上に、鑑定も兼ねて、何度が招かれたことがあったが、彼等が話す言は傍
(はた)から聴いていても、実に見苦しいものであった。
 これは素人刀剣愛好家同士の中で多く見る光景である。
 こうした素人の有象無象が、自分勝手な注釈をつけて、愛好の世界に嘴
(くちばし)を入れるのである。困ったことだ。
 だからこそ、愚者にならないように、眼力をつけるために勉強が必要なのである。
 知る者は多くを語らない。慎むことを知っている。
 眼の勝負に勝つためには、本を一読しただけでは駄目である。評論家になるのでなく、目利きになる必要があるのである。

 目利きというのは、単に自分の眼から外を見ている眼だけではない。この眼をもって、自分の裡側すら見抜くことが出来る能力を言う。己を知り、かつ物を知る。
 一般に目利きとか、眼力の持ち主と言えば、それは自分の眼から見て、外に向けられていると思われがちだが、実際にはそうでない。目利きとか、眼力の持ち主と言うのは、外に向ける眼ばかりではなく、実は、一番肝心な自分の裡側
(うちがわ)に向けて、その眼光を炯々(けいけい)とさせているのである。自身を試しているところがある。

 凡夫に「眼力は?」と問えば、安易に“物を検
(み)る目”と答えるだろう。
 そしてこの答えは、必ずしも完全に間違っているとは言えないが、だからといって正解ではない。肉の眼で外ばかりを見ていても駄目だからである。
 何故なら、物を「検る目」と答えているからである。
 ここで言う「物を検る目」とは、一体どんな目であろうか。

外邪を駆逐する破魔としての短刀。ここに日本刀の霊験あらたかな背景がある。
 そしてあらたかなる霊剣を感じるのは、外においてではなく、自分の裡側において、である。

 霊剣なる、霊的感覚は決して自分の外にあるのでなく、自分の心の裡
(うち)にあるのである。
 刀剣は種々存在するが、全部が全部、霊徳のある物とは限らない。そうでない物の方が圧倒的に多い。それは霊剣なる物が逆に少なく、またこれを感じることの出来る霊者も、圧倒的に少ないからだ。

 正解として遠いのは、検る目を「物」においているからである。
 本来主体は、自分である筈なのに、その主体を物におき、検る媒体を「物」としているからである。
 だがこの媒体をよく分析しすれば、それは実は自分自身の眼であったのではないか。その眼は自分の外にあるのではなく、自分の裡側にある「眼」ではないか。

 物を検るとは、実は「自分自身の能力を確かめ、その才能を知る、あるいはこれまで研鑽した、自分の努力の跡を、自身負振り返り、点検すると言うことではなかったのか。
 これこそが、根本に置かれた「物を検
(み)る目」と言う眼力の中心であり、この眼力の総称が「目利き」と言うことではなかったのか。
 つまり「目利き」とは、自分自身の裡側すらも見通す力を持った人を言うのである。
 そして、この相手は自分の外にあるのではなく、実は裡側に存在していたのである。

 物を鑑定する能力とは、外に向けられている他者の眼ではなく、自分の裡側を見抜く鋭い能力と、自身に対して反省と反芻
(はんすう)を繰り返す人のことを言ったのではなかったか。
 これを総じて、往古の目利きは眼力と称し、その持ち主を高く評価したのである。そしてその評価の背景には、当然の如く、評価に値する「無意識の緊張」があったことは言うまでもない。
 現代人に一番欠如しているのは緊張である。

 ストレスは緊張の欠如から起こる。だが現代は、逆のことを云う。ストレスは緊張から起こると言う。果たしてそうか。
 この背景には、肉の眼以外を信じない物質至上主義が持て囃
(はや)されているからである。物質界では、金・物・色が優先されるからである。
 物質のみに心を奪われていては、霊験あらたかなど、分ろう筈がない。霊徳ある剣の存在など、知ろう筈がない。物を検
(み)るだけでは霊徳は感じられない。
 外邪を駆逐する能力は弱まってしまったのが、また現代の世である。
 そして裡側の、内観を表す霊的神性を否定する論理が横行しているからである。



  運気     八門人相     房中術     癒しの杜     菜根譚     小説     会報Back No.     合気     蜘蛛之巣伝     死の超剋     霊的食養     心法