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続・刀屋物語 14

総ての物には価格がある。それ相当に値段がつけられる。
 本来、タダと言う物はない。どんな物にも価格がある。
 それは万物に、一切には名前があり、またその価値を表す値段がある。資本主義の世の中では、これが顕著とになった。

 同時に価格には、価格の尖端と言うのがあり、この尖端を素人は読み切れずに、時価相場の読みを失敗してしまうことがある。ここに読み間違いが起こる。
 恐慌と好景気を交互に繰り返す周期的な現象を見せる資本主義の世は、常に価格の尖端を読むことが非常に難しいのである。経済学者ですら、その尖端は読みきれずにいる。



●獲物を捕らえるには罠がいる

 明治維新以降、日本には西洋流の「猟る」という弱肉強食の思想が芽を吹いた。
 つまり「罠」の発想が芽生えたのが、明治と言う時代である。
 脱亜入欧は日本を猟るための西洋化であった。
 本来、日本人のように農耕民族には「猟る」意味が中々理解出来難いことであったが、これを逸早く理解したのが、日本を西洋化して狩猟民族の行動原理を日本人に培養し、動物の仕留め方を教えたのが、かの有名は『明六社』
(「明六雑誌」を刊行し、明治6年(1873)に、森有礼によって啓蒙団体として発起された。メンバーには西村茂樹・福沢諭吉・西周(にし‐あまね)・加藤弘之らを同人として結成された。政治・経済・宗教など様々な問題について啓蒙思想を鼓吹した)の連中だった。
 幕末から明治初期に懸けての西洋事情は、狩猟民族の西洋化の教えだった。

 この根本には西洋を紹介するという漠然としたものだけでなく、西洋人そのものの、思考回路や論理の手順まで紹介され、動物を猟るには、必ず罠を用意して仕掛けるという、つまり「西洋事情」を紹介しているのである。
 そのために「学問をせよ」となったのである。
 その主旨は暴力をもって腕力で猟るのではなく、知恵を廻らし智謀で猟る方法を学ぶことだった。

 現に福沢諭吉は、学問によって、人間は家柄や身分に関係なく立身出世が可能であると、かの有名な『学問のすゝめ』が論じているところである。文が、武を抑える構図である。
 そしてこの思想から生まれたのが、国家試験の極みであった「高文
(こうぶん)」と云われた高等文官試験であり、また陸軍士官学校入学試験(恩賜卒業者は後々まで優遇された)や海軍兵学校入学試験であり、これらの合格者は、日本では、身分や家柄に関係なく、国民から平伏されたではなかったか。
 日本人は、学問によって世に立つ者に対し、異常なまでに尊敬の念を抱く。したがって偉人は、学問によって世に立つ者であると信じて疑わないのである。

 今日では陸海軍の試験こそなくなったが、現代でも最難関と言われる国家公務員採用一種試験が存在し、その合格者は日本の国家運営が任され、これらの者に対し、国民は批判の眼を向けないのである。
 また少なからず官僚批判はあるものの、高級官僚のエリートを名指しで批判することは殆どない。
 秀才に対しての平伏の構図は此処にある。

 それは日本では、日本人が尊敬するのは容易でない、また突破が極めて困難な難しい試験に合格したという合格者に対し、その凄まじい競争率に対して、平伏してしまう尊敬の念があるからである。
 まずこうして、頭脳明晰者に国運を任せるという
仕掛けの外枠が造られたのである。これが見た目の体裁を整える大まかな外枠であった。

 だが罠は仕掛けだけではどうにもならない。それだけでは道具に過ぎない。道具を遣う執行者としての手練
(てだれ)がいる。
 また直接仕掛けても、動物を猟るには効果は薄い。作戦も立てねばならない。
 作戦立案者と、それを現場で実行する実行者も養成せねばならない。ライン・アンド・スタッフの関係である。
 一方、罠は全体的に大きく造って、そこに動物を追い込み、仕留めることでその機能を持った構造でなければならない。それは必ずしも、罠と言う柵
(さく)を設けたり、外枠と言う函物を造らなくともよい。
 日本は島国だから、周りは海で、これが柵の変わりをする。追い詰められれば何処かに潜伏し、こうした国では簡単に国境は越えられない。

 マクロ的にみれば、得物は一旦逃げても、必ず追い詰められる。日本と言う島国はそう言う仕掛けになっている。
 そのために全体像を見る監視の眼がいる。島国監視の眼の情報網である。日本の警察が、世界一、犯罪検挙率が高いのも、そもそも島国であるからだ。半島や大陸とは違うからだ。
 したがって、追い込み易い。追跡し易い。周囲四方の周りが海だからである。
 これは海外に比べて孤立的と言える。逆からみれば、遣い勝手がいい。追い込み易いと云う点において、である。

 猟るために追うには、地点ごとの分業化する。それぞれのポジションも、各ハンターの特異性と専門性を持つ。更には工作性を持つ。そして組織化する。
 A地点、B地点、C地点と言ったような、まず地点の分業化を図り、更には勢子
(せこ)という役割を設けて、罠に追い込み、最後に動物を討ち取ると言う手法が用いられるのである。
 では、何故こうした手法が用いられるのか。

 狩猟民族間では、罠を仕掛けなければ、動物は討ち取れないことを知っているからである。彼等は本能的に知っている。何代もかかってそれを学習した。連綿と続いた狩猟民族の英知として遺伝子の中に記憶されている。
 この点が日本人と違うところだが、日本人でも、肉食系に改造されてしまった種属は、これまでの経験と学習によって学んでいるのである。あるいは工作されて、このように変形してしまった者もいる。これが人間狩りのハンターである。

 狩猟民族の罠は、何も動物ばかりに用いられるのではない。人間を猟る場合も用いられる。原理は同じであるからだ。
 ある特定の人物にターゲットを絞り込み、罠にはめると言う遣り方は、あらゆる業界や、また政財界でも用いられているし、罠にはめれば猟ることが出来ると言う論理で、世界の各民族は動いている。水面下で暗躍している。

 例えば、日本に狙いをつけたとしよう。
 日本を乗っ取ろうとした場合、何処と何処に罠を仕掛ければそれが可能であるか、占領出来るか、あるいは財産を奪えるか、様々な角度から研究され、その遂行計画に基づいて、水面下で工作員の暗躍が始まる。猟りの手順はマニアル化されている。

 そして日本は明治以来、高文官試験の名切りが今でも残っていて、当時の西洋事情の「根底にあるもの」はそのまま仕掛けとして利用出来るのである。西洋からすれば好都合なのである。
 したがって罠を仕掛ける場合、西洋は必ず、日本を支配する高級官僚を狙うのである。
 明治以来の『学問のすゝめ』で改造された種属
(スピーシーズ)は、実に狙い易いのである。視野が狭いからである。更には同一価値観を共有している。

 また本質は草食動物然である。集団や組織から引き離され、一人に分解されれば弱い。
 そして狙う場合、官僚全員を狙うのではなく、高級官僚でも事務次官クラスの一握りのエリート達のトップに照準を合わせればいいのである。

 各省庁の事務次官クラスに狙いを定め、狡猾
(こうかつ)なり仕組みで構築された「贈与」というものを提供して落せばいいのである。これだけで決まりなのである。
 更にいいことは、一人に当りをつけて仕掛けるのであるから、他の者には知れることがないのである。ただ他は、事務次官の命令に従って動くだけであるから、この構造はヒエラルキーの頂点グループを落せば、総ては自在に動くと言うことになる。だが日本では、これらのチェック機能はないようだ。日本がスパイ天国と言われる所以である。

 これは政治家も同じである。
 彼等の何処を、どう動かせば日本が牛耳れるか、それを研究した後に工作が開始される。
 したがってターゲットは、官房長官だったり首相だったりする。この周辺に撒
(ま)き餌をするのである。
 この構図には、濡れ手に粟
(あわ)の効率のよさがあると言えよう。
 この手法は、昨今では国家単位で、ごく当りに仕掛け合う方法として用いられ、地下指令方式で、水面下で暗躍する工作が活溌に繰り広げられているのである。

 このミニチュア版が、古美術の世界にも仕掛けられる場合があるのである。
 狙い易い、転びそうな、落ちそうなカモを、工作員と言うブローカーが、呑気なウサギとか暢気なロバかを物色し始めるのである。間抜けを狙って猟る。それだけのことである。

 考えれば、世の中自体が一つの博奕構造であり、また経営者か経営するそのこと自体が、大な博奕のようなところがある。
 更に、社会には歴然とした生存競争が存在し、弱肉強食の競争連理の市場経済そのものの過酷な原理が働いている。それは勝つか負けるかだけではなく、生きるか死ぬかの過酷なものである。
 そして先が見えないだけに博奕的でもある。
 その博奕において、債券や株式など本来の金融商品から派生した金融商品に似たデリバティブのような、謎めいた危険が前途に横たわっているのである。見通しが利かないと、側面からハンターに搦
(から)め捕られる。

 それだけに言及すれば、古美術の世界は庶民相手のディスカウント・ショップのような薄利多売の世界でない。
 ディスカウントのように、同じようなコピー商品が出回る世界でない。また、ターゲットはディスカウントを生活の基盤においている、その手の種属
ではない。ディスカウントは無縁の人である。
 物が高価だけに、金の匂いを嗅ぎ付けた有象無象が蔓延
(はびこ)る世界でもある。

古美術の世界には、例えば花鳥風月があり、それは春の小川のせせらりであったり、夏の蝉の声であったり、秋の虫の声であったり、また冬の雪景色の深々とした静寂であったりする。

 静寂とは、決して音が無いことではない。耳障
(みみ‐ざわ)りを感じさせない、適量な音が存在しているからこそ、それは自然であり、また寂寥(せきりょう)の要素になり得る。その静寂の透明……。
 これこそ風雅である。

 それは点在した庭石を思わせ、また深山幽谷を思わせて、一見乱雑な配置で並べられたような中に、実は整然とした規則によって配置され、その儘(まま)宇宙の玄理(げんり)に結びついているような奥深い幻想を抱かせるのである。
 古美術の世界とは、そうした物言わぬ作品が、実は現代人の語り掛けて来る幻想の世界でもある。

 春の小川のせせらぎか聞こえ、また蝉時雨は未
(いま)だ鳴り止まず、脳裡(のうり)に染み入って来る。そして季節は秋へと……。
 幽
(かす)かに秋の気配を感じ取れるような舞台に季節は早変わりし、やがて秋には紅葉に染まり、そこで“落ち葉時雨”が始まる。そして季節は深まり、やがて冬が訪れる。
 冬には、雪で白一色となり、深閑
(しんかん)とした静寂を取り戻す。

 そして春には、再び桜の花弁
(はなびら)が乱舞することであろう。そんな光景が、今にも眼の前を鮮やかに覆(おお)いつつある。季節が一巡したのである。
 これこそが、日本独特に原風景である。

 古美術の世界での売買は、コンビニ的売買では駄目なのである。商売の仕組みが違う。相手にする顧客も違う。したがってアメリカナイズされた合理主義では駄目なのである。
 更には、人間を人間として扱わず、微生物視するような傲慢
(ごうまん)な支配者の観察眼では、人が人間と見えず、単なる小さな微生物としてしか見えないのである。あたかも感情のない無機物のような……。
 そして、ディスカウント方式の薄利多売でも駄目である。そんな方式は全く通用しない。
 何しろ古美術の世界では、美術品一つ取り上げても、それが大量生産出来ないからである。西洋の合理主義では割り切れない奥深さを持つからである。

 確か明治初期だったと思うが、世界的に有名なドイツのある刃物メーカーのオーナーが日本に来日した際、日本刀の素晴らしさに感嘆し、その素晴らしき日本刀を日常刃物の世界で復元しようとして、大量生産を試みたが、それが出来なかった。
 何故なら日本刀は、機械では大量生産出来ない崇高な精神のよって造り出された魂の拠
(よ)り所であったからだ。
 これで、このドイツ人オーナーは、日本刀の大量生産を諦めたと言う。

 この事から言っても、美術品売買は、単に金銭計算が出来て、はしっこいだけでは駄目なのである。薄利多売の世界ではないからである。
 その他大勢を商品媒体として看做
(みな)し、上から下を見下ろし、あるいは見下し、その他大勢と称せられる、大衆を相手にすることこそ、既に軌道は人の道から外れている。これでは人が物としか見えない。
 何故なら古美術の世界は人間に語り掛け、その他大勢を相手にせず、個人の教養と研鑽した叡智を相手にするからである。風雅が解らなければ駄目である。

 したがってコンビのとも違い、またディスカウントショップとも違う。
 この手の、適地立地・無休・深夜営業など便利さを特徴とする食料品や日用品を中心にした小型セルフ・サービス店のような販売法は全く通用せず、また買取りや委託も、便利と言う理由だけで、正しく評価されず、かつ納まるような商売でない。白熱し鎬
(しのぎ)を削るようなところがある。盗るか盗られるかの真剣勝負である。

 更に、古美術の世界では相場が不動で常に揺れ動くが、特記すべきは「いい物はやがて値が上がる」と言うことである。
 但し、この「上がる」は投機的でない。総ては眼の勝負による眼力が物を言う世界である。
 瞬時に、直感で勝負する世界である。感が物を言い、迷いは禁物である。即断即決でなければならない。

 また直感力には、力が要る。力がなければ、馬鹿にされ、相手にもされないのである。
 つまり、実力の世界である。
 そして実力とは、余裕であり、経済的自由と云う条件にあるときに、その力は発揮される。そうでなければ足許
(あしもと)を見られる。猟られる対象にされる。
 しかし、弱い者は猟られるのが弱肉強食の世界である。常に猟りが行われる。

美術刀剣としての日本刀。

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 特に、刀剣の世界は有象無象のプロの詐欺師達が横行する世界なので、単に“刀剣が好き”とか“自分はこう言う刀剣を所持している”というレベルの、サラリーマン兼用の古物商では、簡単にプロの刀剣ブローカーから型に填められ、最悪の場合は、一切の財産まで取り上げられ、夜逃げしなければならない憂き目に遭遇することがある。
 この世界では「型に填める」とか、「猟る」という罠が横行する世界である。そして背後に、有象無象の陰が暗躍する。百鬼夜行が出没する世界である。

 また、この有象無象は、素人の世界からは見ることが出来ないほど巧妙であり、闇に隠れている。
 その闇に搦
(から)め捕られ、猟られることがある。知ったかぶりは禁物である。
 下勉強として、充分に研究し、熟者によく聞いて、学ぶ努力が必要である。好きだけでは通用しないのである。サラリーマン古物商なら、難なく搦め捕られて全財産を失うだろう。それくらい獰猛
(どうもう)で、狩人は総て肉食系なのである。

 暢気
なロバのサラリーマン古物商では、決して歯が立たない連中である。粋がって市場に出入りすると、ターゲットにされて啖(く)われてしまうこともある。ロバ一匹ではどうにもならない。鋭い牙を持つ一匹狼ならまだしも、暢気なロバなど、雑作もなく啖われてしまうのである。
 趣味に固執した「好きだけ」で遣ると、こういう間隙をついて、有象無象が忍び寄って来る。そして猟られる対象となる。

 啖われば好きなように料理されて丸裸にされ、更には夜逃げどころか、自分の肉体のパーツまで肉体バンクのようなところに切りうるしなければならなくなる。

 私はそう言う、猟られて、夜逃げした人が、実は、逆に詐欺で、刑事事件として告訴された人まで知っている。被害者が、また加害者になってしまうのである。巧妙なカラクリがあるからだ。そうなると自分の肉体のパーツ売りでは済まなくなる。
 刀剣市場には、少なからず悪徳詐欺師達が居る。知的ギャング集団も存在する。人相風体から検
(み)て犯罪組織の息の掛かったと思われる者もいる。
 ここは海千山千の世界でもある。
 人種や民族が複雑に入り乱れ、国籍不明の者も多い。正体不明である。
 島国日本人の感覚からは、容易に見抜けない者が多い。そして水面下で暗躍する。

 この者達が、数人でグループを作って、会主を取り込み、実に巧みな合法詐欺を働くのである。その手口は巧妙である。
 つまり合法詐欺とは、詐欺が実際に刑法上立証できない、ぎりぎりの行為を云う。詐欺を立証する証拠すら一切無いのである。裏で申し合せがあるからだ。

 そしてこの餌食になるのが、自称“鑑定士”という連中の、巧みな「型填め行為」である。
 こうなると、骨の髄
(ずい)までしゃぶられる。その被害者の大半は、知ったかぶりする素人に毛の生えたようなサラリーマン兼業の素人古物商である。
 サラリーマン古物商でカモにされる一番多いケースは、知ったかぶりをして、書籍の中で刀剣類の知識を得て、そのレベルで素人交換会や、武道場ならその練習仲間筋の先輩後輩、また師匠らが加わる交換会であり、此処で行われる素人の会で、例えば先輩の勧めとか、師匠の勧めで、俗にいう「ババを掴まされる」ことである。

 勿論ババには、それなりに見て呉れのいい認定が付いている。
 しかし、これはあくまで素人の満足出来る域を出ない。プロの眼鏡には叶う代物でない。素人の遣い廻しが出来る域の物である。
 例えば、日本美術刀剣保存協会の認定書を除く、藤代松雄とか、その他の鑑定書である。そして偽造され易いものが多く出回っている。あるいは認定書でも危ない場合がある。そんなものは信用ならない。信用ならないが、しかし素人はそれが見抜けない。騙されるここに要因がある。

 この手の鑑定書は、代金目安が不明瞭である。
 勿論、市場価格の尖端を表すものでもない。
 こうした代物を70万円とか、80万円で掴まされるのである。そして番付は、仲間内の素人番付を吹聴され、買った方はそれを頑
(かたくな)に信じ、後生大事にそれを信じて疑わないのである。

 ところが、急に金の工面が必要になり、これを刀剣市に持って行ったところ、20万円とか、15万円とかで買い叩かれてしまうのである。
 市場相場では、実際には“この程度”の価格でしかないのである。今まで信じていた価格は、此処に来て、脆
(もろ)くも崩れ去るのである。

 これは、そもそも素人交換会での素人が信じ込んでいる価格自体が高いからであり、素人は、市場相場の価格の尖端値
(せんたん‐ね)を知らないからである。変動する時価と云う尖端値である。
 これを知らないこと自体が怕
(こわ)いが、本当の怕さは、これから先なのである。

 またこれが、至急の入り用で、物
(ぶつ)を売りに出した時に顕著になる。二束三文の値しか付かないからである。
 市場の中には、県知事認可の貸金業者も交じっている。古物商をしながら、高利貸しをしている貸金業者もいるのである。
 あるいは宅建主任の資格などを持ち、古美術品と不動産を物々交換する手法を使う高等仕掛人もいる。目的は啖
(く)うためである。
 根刮ぎ啖うことを目的としている。
 古美術品ブローカーは表向きの顔であり、裏では企業舎弟に繋がっている場合もある。これに知的ギャングがサポートしている場合もある。

 私は、貸金業もした経験を持っているので、手当に困っている人間が、どういう心理で居るか、手に取るように分かるのである。人の値踏みに長
(た)けている。そこで忍び寄る。
 そう言う声が、周囲の中で囁
(ささや)かれているのである。囁きは小さいが確実にある。

 それは奇
(く)しくも「負け将棋をもう一番、もう一番と繰り返す自滅」へのモードだった。このモードに填められると確実に自滅へと向かう。競馬場や競輪場やボートレース場でよく見掛けられる、毒を喰らわば皿まで……という、あれである。
 こういう類
(たぐい)は、すってんてんになるまで遣るのである。諦めが悪いと言うか、意地になって“こだわる”タイプの人間である。こういう類は罠にかけられ易い。
 そして最後まで勝負をする。
 だがこれは滅びのモードである。

古美術の世界では売買に、必ず「歩合」と言う取引の額に応じて徴収される手数料または報酬が刀剣市もしくは書画骨董市の会に対して発生する。

 損を取り返そうとするからだ、それもムキになって……。
 素人は捨てることを知らないからである。ここを狙われる。
 損したところを、意地になって取り返そうとする。素人の特徴である。
 だが、これが搦め捕られる盲点である。
 この盲点を、ハンターから狙われる。
 当然、古美術品にも「歩合」というものが絡んで来て、「売り付け」という唆
(そそのか)しが起こる。延べ払いの入札に誘ったりするのである。

 「競りに出しても値が付きませんよ」などと言って、耳許で囁き、延べ払いの輪の中に誘う。その輪は、大抵グループ化した輪である。目的は、お宝をタダ同然で生け捕るためである。
 普通この場合は、会とは無関係だが、生け捕る方法が仲間内で研究され、その工作が遣われることが多い。

 延べ払いは普通三回払いで、月ごとに一回ずつ支払い三ヵ月で完済する。そして曲者
(くせもの)は、実際には三ヵ月で完済するか、どうかが問題となる。完済されない場合もあるからである。こうなった場合は恐ろしいのである。

 延べ払いで売らされても、また買わされても、すんなりとトラブルなしで完済されない場合もある。二回目から滞ることもある。それを心配する気苦労が絶えない。稀
(まれ)だが……。
 搦められる方が買手に廻っても惨めである。特に資金不足の場合は……。
 また、即金がない場合、競りに出した物に種々の尾ひれがつく場合がある。貸付もその一つである。

 「足らない分を貸しましょう」
 こうした声が耳許で囁
(ささや)く。同時に、囁かれた方は迷いが起こる。
 どうしようか?……となる。
 ここに迷いが起こる。素人の迷いである。あるいは、お人好しの迷いかも知れない。
 しかし、負け将棋をもう一番、もう一番と繰り返す仕掛けが、既に仕掛けられているのである。意地にならせる仕掛けである。
 そうなるように最初から仕掛けられている。博奕は、する方よりも、させる方が儲かる所以である。

 それはちょうど、株の追証拠金に似ている。これは追敷
(おいじき)ともいう。
 追敷とは、株や穀物相場を遣った人なら分るであろうが、信用取引や清算取引で、投資家が証券会社に預託している委託証拠金が、相場の変動等により必要額を下回った場合に追加徴収される金であり、不足している資金を貸し付ける業者が居ることである。利息は勿論、高利である。
 それを保証金の入れた金額の十倍とか、百倍という最高上限額で貸す。高利である。
 こういう高利貸しが、グループ内にいてターゲットを狙って、罠を張っているのである。素人に博奕をさせる方だ。
 毒を喰らわば皿までは、裏目に出る。躊躇
(ためら)わず、最後まで徹しようと云う誘惑に嵌(は)まって行く。填められた者の末路である。

 普通、詐欺とは一回騙されるだけ……と思いがちだが、こうした動物猟りの仕掛けを持つグループは、ちょうどハイエナがグループで猟りをするように、それぞれにポジションが決まっている。その、それぞれの役割において、繰り返し試みられる。二度三度、あるいはそれ以上である。最終的には、すってんてんになるまで、させられる。

 最低でも一人一億円と言う単位で貸付け、抵当設定な根抵当で土地家屋が担保に当てられ、猟られる方の値段をつけて、とことん追い立てて猟ってしまうことすらある。
 私はそう言う人を知っている。
 猟られた人である。そして数年後に遭った時には落ちぶれて惨めなものであった。
 生き馬の眼を抜くどころではない。
 馬ごと猟ってしまうのである。
 綺麗さっぱり、肉体パーツまで分解して、猟りとってしまうのである。

 こうした手口に、素人サラリーマン愛好家
(この中には二足の草鞋のサラリーマン兼業の古物商も含まれる)は、まんまと填められ、填められたことにも自覚症状を持たない人が多いようだ。仕掛けが見えないからである。
 それでいて、鑑定書が偽造か、偽造でなくても、劣悪な鑑定眼で決定された“その程度の品”という自覚症状がなく、満足を覚え、それが換金能力があるものと信じて疑わない人も多く居るようだ。悲劇である。

 素人が怕
(こわ)いと言うのは、このことである。知らないからである。
 そして、知らないことに対して、この商売は忽
(たちま)ち作用に対しての反作用が働く。虎の尾を踏んではならない愚を犯したからである。

 しかし「知らないこと」は、それが虎の尾と気付くまでに時間が掛かることだ。実戦での場慣れしていないからである。
 だが、その時は遅いのである。後の祭りだ。
 私は、仕事と兼業で二足の草鞋
(わらじ)を履(は)き、火傷した人間を何人も見て来たのである。この道は二足の草鞋が通用するほど、決して甘くないのである。素人の手に負えるものでない。
 餅は餅屋であり、生兵法は大怪我の基
(もと)である。
 少しばかりその道を心得た者が、知ったかぶりをして、乏しい智慧を頼り軽々しく行動を行えば、兎やロバでは尻尾を掴まれ、結末は大失敗に終わり、下手をすれば、わが命すら危なくなる。

 したがって素人が考えるように、古美術の世界は楽して儲かる商売ではない。非常に難しい。
 儲けを念頭に置いた瞬間、忽
(たちま)ち周囲のハンターから猟られてしまう。周りには有象無象がいるからである。その猟り方は凄まじい。跡形も残らないように猟る。
 瞬間に猟られている場合もある。
 例えば、ネット株やネット投資の売買で、キーボードの叩き損ない、瞬時に何百万円も損をするような、あの構図に酷似している。凄まじいの一言に尽きる。それが瞬時であるだけに凄まじい。
 潤沢な資金力がない者は、忽ち猟られてしまうのである。その上に、物を検
(み)る眼力である。

 私は、こういう人から依頼されて、そうした刀剣類を多く見て来た。実に酷いものであった。
 そして気付いたことは、考え違いか、思惑違いか、換金能力は皆無に近い物で、劣悪なる刀剣類には「巧妙にそっくり偽造した巧妙な鑑定書」が付随されていた。
 ペテンというか、詐欺に掛りながら、その人は猟られたことに自覚症状がなかったのである。これこそ、最悪の悲劇だろう。思い込みとは、かくもこのように恐ろしいのである。

 世の中には、こうした人が多く居るようだ。
 自分の失態に自覚症状を持たない。自分を知らないからである。
 そう言う人は少なくないようだ。
 そして自覚症状がないだけに、それはそれで幸せと言うか、その幸せの思い込みで生きて行ければ、また幸せなのであろうが、最後の人生の清算は虚しい。

 但し、それは専門家を挟まず、また鑑定の有無を度外視した場合である。
 鑑定云々……は、そこに口を挟めず、況
(ま)して参加する資格もあるまい。一個人の、一種の「趣味人の世界」で満足していればいいのである。出しゃばる必要もないし、目立ちたがり屋になる必要もない。趣味の範囲で満足していればそれでいい。
 素人には価格の尖端と言うものが読めないからである。

 ところが、このいう趣味人が、一端の講釈を垂れるから、始末に悪いのである。そこから悲劇が始まる。
 大人しく愛好者として、趣味人の世界で、今の満足の幸せを満喫しておればいいものの、プロに交じって、講釈を垂れる。ここに、実は落し穴があるのである。
 プロの刀剣ブローカーは、この手の人間を探し求め、巧妙な手段で近付き、型に填めて行くのである。掛かるまいと警戒していても、隙があれば素人同士の交歓会に誘われて墓穴を掘ることもあり得る。

拵えは中身の刀身に応じた拵えを行い、床に飾る場合も、白鞘では具合が悪い。
 刀架けには太刀掛け、刀掛け、短刀掛けなど種々のものがあるが、それは白鞘を架けるものではなく、みな拵えを要したものを架けるためにある。裸では寒々として殺風景であるからだ。

 刀身は同時に拵えを付けて鑑賞するものであり、拵えの各部位は小道具職人によって施されたものである。
 拵えの場合一番苦労するのは縁
(ふち)である。本来は刀身に合わせて、後に造り揃える場合もあるが、昨今では良質のものは少なく、よって時代物となるが、これがまた非常に少なくなって来ている。時代物は絶対数は少ないだけに、希少価値が高い。したがって高価である。

 古い時代には、縁頭は小道具には含まれなかったようで、切羽を造る職人が造ったようである。
 例えば、埋忠とか正阿彌とかの仕事であったらしく、古い後藤家彫では二所物の他は造らなかった。その後、鐔は甲冑師信家、古正阿彌、埋忠または各派の鐔師作である。
 そして武家拵えの金具は、後藤家作品が上品とされた。この中でも殿中指し、儀礼指し、祝指しなどの分かれていた。その場その時に応じて使い分けていたようである。

 私はこうした填められた人も、何人も知っている。
 かつて、ある武術の流派の著名なる大師範から「素人は怕
い」と言う話を何度も聞いたことがある。全くその通りだった。世には、何も知らない、怕いもの知らずの素人が多い。

 また、その言葉は、実に的を得ていた。素人は本当に怕いと、私自身、そう思うのである。それは中途半端であるからだ。
 中途半端である故に、自意識が強く、独断と先行で、熟者からの意見を訊こうとしないからである。
 つまり、思い込みに凝り固まり、熟者の忠告に聴く耳を持たなかったり、自分勝手に独走して、ついに填められると言う結末を辿るからである。
 では次に、その巧妙な仕掛けと填めるメカニズムを紹介しよう



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