運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
続・刀屋物語 1
続・刀屋物語 2
続・刀屋物語 3
続・刀屋物語 4
続・刀屋物語 5
続・刀屋物語 6
続・刀屋物語 7
続・刀屋物語 8
続・刀屋物語 9
続・刀屋物語 10
続・刀屋物語 11
続・刀屋物語 12
続・刀屋物語 13
続・刀屋物語 14
続・刀屋物語 15
続・刀屋物語 16
続・刀屋物語 17
続・刀屋物語 18
続・刀屋物語 19
続・刀屋物語 20
続・刀屋物語 21
続・刀屋物語 22
続・刀屋物語 23
続・刀屋物語 24
続・刀屋物語 25
続・刀屋物語 26
続・刀屋物語 27
続・刀屋物語 28
続・刀屋物語 29
続・刀屋物語 30
続・刀屋物語 31
続・刀屋物語 32
続・刀屋物語 33
続・刀屋物語 34
続・刀屋物語 35
続・刀屋物語 36
続・刀屋物語 37
続・刀屋物語 38
続・刀屋物語 39
続・刀屋物語 40
home > 刀屋物語 > 続・刀屋物語 13
続・刀屋物語 13

古美術・骨董の世界は眼力が物を言う。眼力がなければ、それだけで負けとなる。此処は眼の勝負の世界である。
 そして投機とか投資でなく、本当に好きで、これを求めんとする心が要
(い)る。

 また求道精神がなければならない。求めてやまん、その探究心である。
 更には、求道者たらんとする気持ちと同時に、“目利
(めき)き”の人に接して勉強しなければならない。自分勝手な自己流では上達が見込めない。いつまでたっても素人の域から抜け出せない。

 また、本の上だけの知識では役に立たない。
 この事が、よく理解出来てないと、いい物は掴むことが出来ない。結局、盥
(たらい)回しの中で、ババを掴まされることになる。
 相手にするのは、いい物だけである。いい物を辛抱強く待つ。決して、焦ってガラクタの買い急ぎをしない。

 いい物は日とともに、美術品としての価値がどんどん上がっていき、いよいよ美術品に対して、楽しい希望が生まれくる。
 骨董の世界では、余程この道のことをよく研究や探究しないことには、掘り出し物も見つけ出すことが出来ない。それには勉強と辛抱が要る。

 売る人が目が利かず、買う人が目利きならば、売る人の負けである。また、この逆もある。
 したがって、いい加減な勉強と研究で、自信過剰に陥ったり、修羅場
(しゅら‐ば)の真剣勝負を避けて通るようなことをしていては、いい物を見る目は養われず、こうした事では、まことに浅慮(せんりょう)と言わねばならない。奥深く検(み)る眼が要る、当時に瞬時の判断力と真贋の評価力である。

 更に、これを投機的に古美術品を買い漁
(あさ)っている人にも、同じ事が言える。古美術品は投機の対象ではない。
 昨今は、投機に関して株式か、古美術かと言われているが、株式を買うか、古美術品を買うかの問題は、これを同じ土俵の持ち出して論ずるのが、そもそも訝
(おか)しいのである。

 真に古美術の世界を愛する人は、本来金儲けには無関心で、精神の世界に素晴らしい喜びを持ち、心の富者として、名器と共に枯山水のような風雅を愛し、一方清貧に甘んじる心境に至れる人こそ、真に好ましい愛好家と言えるのである。
 風雅を楽しみ、風雅が解る。また名工の遊び心を理解する。

 古美術品は投機の対象から外れて、欲張り者より、好き者としての道を選び、日本文化と共に生き、これに誇りを感じていく心が大切なのである。大いに見て研究し、名器に大いに感化されて学び、大いに掘り出し物を探し求め、物を見る眼を鋭く深く養い、この道に、たえまない研究と努力を注ぎ込むことこそ、眼の勝負で勝つ秘訣なのである。それには一点にこだわらず、出来るだけ多く名器を触り、検ることである。



形に填められるという罠

 美術刀剣の世界に「猟り」がある、と言ったら驚かれるだろうか。
 猟りとは動物を猟る狩猟のことである。獲物を狙ってハンターが暗躍することである。
 資本主義の世の中は、競争原理が働き、弱者は淘汰されて行く。力のある者だけが生き残れるし、会社員などの組織人も、「勝ち組」に入れなければ、敗残兵としてリストラの対象にされてしまう。
 有能な者だけが生き残る。これが人間世界における適者生存の原理である。

 かつて、イギリスの哲学者であり社会学者であるスペンサー
Herbert Spencer/生物・心理・社会・道徳の諸現象を統一的に解明しようとしで、それを哲学思想に加味し、あらゆる事象を単純なものから複雑なものへの進化・発展として捉えた。1820〜1903)は、ダーウィン進化論から、人間社会にも自然淘汰のための競争原理が働いていると主唱し、その哲学思想は、明治前半期の日本に大きな影響を与えた。

 爾来
(じらい)、日本では生物の世界だけでなく、人間社会まで、社会科学と言う歴史史観が持ち込まれ、人間の運命共同体にも社会ダーウィニズム(social Darwinism)という原理が働いている……と、社会学説的な進化仮説がそのまま信じられるようになった。
 適者のみが生存する。
 自然界の一員である人間にも適者生存が認められると言うのである。
 また、人間社会も自然淘汰と言う論理で進化し続けていると言うのである。
 つまりこれを適者生存といい、この利他主義的倫理も進化し発展するとしたのである。

 社会には闘争と優勝劣敗の原理が支配すると主張する思想で、社会科学の哲学大系にはヘッケルや加藤弘之が提唱したことで、日本でも社会学を齧
(かじ)った人なら、ご存知だろう。
 世の中には、如何なるイデオロギーとは関係なしに、弱肉強食の論理が働いている。
 スペンサー曰
(いわ)く、これを適者生存と言うらしい。生存競争に負ければ敗者は滅んで行くと言う。そして、強い者だけが、自然淘汰の後に生きる残る。

 ダーウィニズムは動物における生物進化は自然界だけではなく、人間界にも同等の自然淘汰が働いていると言うのである。
 生きとし生けるものの宿命に沿って、生き残れるようになっている、とそのような仮説が立てられている。それがダーウィニズムである。

 私はこの仮説が何処まで正しいか、一方的に鵜呑
(う‐の)みはしないが、ある一面において、今日の資本主義社会を検(み)れば、確かに適者生存における論理は優れた者だけが生き残れる事象は確かに存在し、また劣る者は滅んで行っていることも事実である。
 劣者は淘汰される……。

 そして弱肉強食の世界では、確かに弱い者は猟られ、啖
(く)われて、淘汰されて行く。これもまた事実である。そして強い者だけが生き残る。人間社会の紛(まぎ)れもない事実である。
 強い者は、簡単には亡びない。したたかに生き残る。打たれ強い。倒れても立ち上がる。簡単には音を上げない。

 それは論理で生き残っているのではなく、智慧
(ちえ)で生き残っているからである。
 生きるために智慧で生き残っているのである。その智慧の主の強い者とは、必ずしも躰が大きかったり、筋肉隆々で並みの中肉中背に比べて腕力があったり、肉体的に優れていると言う理由だけで、強い者と断定出来ない。図体だけの問題ではない。智慧を養った頭の問題でもある。
 小能
(よ)く大を制す……こうした手合いの中にも強い者はいる。

 強い者……。
 それは、どういう者を言うのだろうか。
 いい服を着て、ピカピカの靴で足許
(あしもと)をひけらかし、いい学閥の出身者を云うのであろうか。あたかも、高級官僚と言われるキャリアのような……、その種を云うのだろうか。
 あるいは肉体信奉者で、筋肉隆々でよく鍛えられ肉体的に優れていていて然も身体能力があり、プロレスラーかプロボクサーのような、街の中を肩で風切る、こうした傲慢者
(ごうまん‐もの)を云うのであろうか。
 更には剃刀
(かみそり)のような、刺客(しかく)然として恐れられ、暗殺者のようなこの手の強持(こわ‐も)てをいうのか。
 または無頼漢の如き、無法地帯に生息し、暴力を肯定して傍若無人
(ぼうじゃく‐ぶじん)に振る舞う粗暴な輩(やから)であろうか。

 更に、勇猛な相貌
(そうぼう)をしている高慢者だろうか。あるいは性格粗暴者か……。
 格闘技で見るような筋骨が逞
(たくま)しく、獣(けもの)のように眼が炯々(けいけい)と光り、一声を発すれば、爆弾が破裂するような大音響で猛々しく吼(ほ)え、存在感と威圧感があり、人中(ひとなか)にあっては、その座を圧する者だろうか。
 あるいは資産家で、富豪のような者を言うのだろうか、それとも、芸能界やスポーツ界に君臨し、一様に経済的豊かさを蓄えた有名人のような、お茶の間の人気者を言うのであろうか。
 はたまた、誰か……。

 私は必ずしも、そう言う物見遊山的な豪毅を気取る人達が強い者とは思わない。
 強いと言うのは、そういう表面的なものではあるまい。
 また「還幸
(かんこう)」という言葉を挙げれば、傍若無人の輩(やから)は「待つ」という辛抱と我慢が出来ない。速戦即決が行動原理である。我が物顔に、人前を憚(はばか)らずに勝手気ままに振る舞う……。
 だが、此処が危ういのである。
 中身がないからだ。
 では、中身とは何か。

 人は鷹揚
(おうよう)に振る舞っても、それは表向きのことだけである。上っ面(つら)だけだ。
 本質は、こう言う者に限って決断力がなく優柔不断である。迷いが多い。
 そういう危惧
(きぐ)が、私は、これまで何度か的中したことがある。
 したがって、側近者で云うならば、重臣でもなく腹心でもない。こう言う者に頼ると、密事が一気に漏洩する。相談には不向きの者である。

 あるいは、物事の論理を知らず、知ったかぶりをする。これこそ、危うい軽輩である。
 信念の主は、こういう手合いでない。誠実一路である。
 故に、信念を持つ。至誠を懐
(ふところ)に抱えている。懐が深い。その深い懐に、玉(ぎょく)を抱いた人である。

 表すれば、先ず第一に、信念の強い人で、世の中の道理に通じ、人間をよく勉強して知っており、如何なるウソも見抜き、人の心を読んで、それでいて人の不憫
(ふびん)を知り、人情の機微を知って、弱者にも労りの気持ちを忘れない人が、本当に強い者と思うのである。
 また物事の道理を知っているため、簡単には騙
(だま)されない。騙されない中心を知っているから、偽物も贋作も見抜く。確かな眼をもっている。眼力をもっている。それだけに読みも深い。思考も旺盛である。
 故に遊び心が解る。考え方に余裕もある。したがって風雅の楽しみ方を知り、また風雅を理解する。

古美術・骨董の世界は風雅の世界である。風雅には一種独特の楽しみ方があり、そこには遊び心があって、常に余裕の心が息づいている。切羽詰まったとか、ギリギリという感情が存在しない。どこまでも自由に、伸び伸びと風雅を楽しむだけである。
 殺気立った気配を感じないのも、風雅の世界の楽しみ方である。
 そこに安らぎを得る。

 それだけに金銭を度外視して格調が高い。
 この古美術の世界が、芸術としての風雅を齎し、人はこの風雅に一歩でも二歩でも近付こうとする。筆者もその一員でありたいと願う。その願いは強い。

 ところが、人がそれを踏み外せば狂う。慾に凝り固まる。
 美術の世界を、芸術の世界を金銭に換算し、金銭で推し量ろうとするからだ。そこに「投資」とか「投機」と言う欲界の縮図が蔓延る
 ここに人間が顛落
(てんらく)する危うさがある。観音様でも夜叉でも、である。
 金銭が絡もとそれだけ人間は打算が働く。

 それは、この世界を「欲界の延長」と看做
(みな)さず、風雅と捉えるため、美の世界が存在するが、一度それに打算が絡む、この世界は危機に晒(さら)される。価値観をそこに需(もと)めるからだ。
 こうして世界は逆転する。
 風雅の世界を勝負の修羅場と捉えたとき、そこには「どんでん返し」の、殺気立ったものが顕われ、忽
(たちま)ちのうちに欲界へと顛落してしまう。

 またそれは、その人の見る意識が、金か物か、あるいは慾の塊で奔走する心があるか無しかに関わることである。
 慾に転べば、そこには様々なし掛けが顕われ、その仕掛けに囚われて、最後は抜き差しならぬ状態に陥り、身を滅ぼしてしまう。

 此処には確かに風雅が存在するが、風雅の世界を、またその両側面に誘惑も多く、投機や投資と言う現象界の経済現象で捉えた場合、そこに顛落して行く者は決して少なくない。
 悲劇はこうした誘惑や金銭に転んだ瞬間に起こる。純でないからだ。

 だが勇猛でも無策なら、単なる能無しであろう。風雅の理解力も乏しいだろう。
 軽忽
(けいこつ)に事を起こすことが出来ても、感情に左右されれば猪突猛進の猛獣だろう。
 またその上、利に聡
(さと)く、義に疎(うと)い性質の持ち主ならば、智者の舌先の三寸不爛(ふらん)に誑(たぶら)かされるだろう。

 威厳に満ちた物腰に、怒声を発し、位負けする印象を与える勇猛な人物であっても、それだけでは役に立たない。これは見掛け上の強者である。中身とは無関係だ。
 何しろ無策なら、事が起こっても、後の善後策もなく、同時に詭計
(きけい)を見破る眼は持たないからである。それだけに視野も狭く、視界も利かない。先は見通せない。此処に肉体的強者の危うさがある。この危うさが脆(もろ)い。
 この意味からすれば、慄
(ふる)え戦(おのの)くしか能のない暗愚な徒と、何ら変わりがない。
 強者とは智慧を有している者だ。

 但し、智者は何も正義の味方ばかりではない。智慧者は善悪の境目を凌駕して、闇の中で暗躍する。
 それだけに始末が悪い。
 何故なら正義を致す数だけ、また悪事に長
(た)けた智者も、同数いるからだ。
 また、それだけに、図体の大きな者すら簡単に手玉に取り、倒す智慧をもっている。肉体力は、智者の智慧に圧倒される。勇猛だけでは、智者に歯が立たないのである。説き伏せられれば、舌先三寸で、簡単に大男すら葬り去られてしまう。
 此処が智者の優れたところである。

 詐欺師やペテン師の類
(たぐい)は、虎視眈々(こし‐たんたん)それぞれの人物像を値踏みする。そして利に聡く、義に疎い、慾だけを露(あらわ)にしているそういう人間を嗅ぎ出すのが、非常に上手いのである。慾にも長けているが、慾に溺れる人間を見抜く同種も嗅ぎ出すのが上手い。
 義も情もない山犬のような性格の人間を、容易に嗅ぎ出すのである。それだけ嗅ぎ出し方が上手い。その能力に長けている。

 慾をかく人間は、逆に餌食になり易い。またこのハンターから罠を仕掛けられ、猟られるのである。
 そして一旦猟りが始まれば、もう仕掛けから逃げ出すことは不可能である。鼻と尻尾を抑えられ、身動き出来ないようにされ。形に填
(は)められるからである。填められれば逃れる術(すべ)がない。
 一頭の手強い猛獣でも、分散型で種々の役割を担う狩猟をするハイエナのような猟り方をされれば、ひと溜まりもないだろう。

 一方、義人はどうするか。
 安易に、猟られてしまうだろうか。
 こうした危険に対して、どう振る舞うだろうか。
 まず相好
(そうごう)を弛(ゆる)めたり、崩したりしないだろう。義人には程よい無意識の緊張がある筈だ。気を弛めないが、また一方でリラックスしている。
 これを「余裕」という。

 まず読むことに長けている。余裕があるからだ。
 物事を冷静に見詰める。同時に感情に走らない。普段から、知的なる教養で武装している。
 ところが、慾が突出した者は、相貌
(そうぼう)が卑しくなる。それは貌(かお)に顕われる。目付きに助兵衛根性が顕われる。ハンターから、そこを読まれる。
 これは人相に、慾から起こる卑しさが顕われるからである。

 ところが義人は、そういう愚は冒さないだろう。警戒心が旺盛なだけでなく、理知的に物事の道理を知るからである。慾に転ばない物事の道理を知る。その分別をする智慧を持つ。まさに仁の人の一貫を担う。牽制してハンターから身を守るのでなく、仁をもって礼を知る。仁者として一生を貫く人である。慾で考えず、仁で考える。
 また懦夫
(だふ)に利用されることもあるまい。唆(そそのか)しや誘惑にも乗るまい。要するに、仁と智を持って知るからである。

 出しゃばらず、また目立ちたがり屋ではない。身の程を知る。自分の等身大の大きさを知る。
 蟹が、我が甲羅の大きさに合わせて砂を掘るように、自分の甲羅の大きさは、自分でよく知っている。
 基本には年功を積み。熟練の努力をするからである。決して大きく見せようとしない。知ったか振りをしない。他から付け込まれるような、知らないことに特異なる発言をしない。時を待つことを知っている。
 こういう人は、ペテン師が寄って集
(たか)って、何かの罠を仕掛けようとしても、簡単には掛からないだろう。易々とは猟られないであろう。
 身の程を知るからである。
 とにかく侮られないような、立ち居振る舞いをする。

古美術品の中でも、刀剣市場には、特に有象無象が蔓延り易い。金の臭いを嗅ぎ付け、その得物が慾に釣られて、群れることを知っているからである。

 こうした市場は、正直言って、総てが健全ではない。至る所に落し穴があり、その運営を財力・知力のその両方があるものが牛耳っている。
 またその戦場で群れる手合いも、人も様々だ。

 様々な力関係が存在し、生き馬の眼を抜くようなところがあり、それを外部からみれば、素人には分らない仕掛けある。眼力のあるものの勝負の世界である。
 その世界は凄まじい。そして、それは鉄火場の博奕を彷彿とさせるところがある。
 それだけに巧妙な仕掛けも多い。

 この仕掛けを、駆け出しのサラリーマン兼業などの、素人古物商では見抜くことが出来ない。また駆引きの力関係も見抜けない。況して、そこに戦う戦士の力関係など、駆け出しの域では見えないだろう。
 眼力とは、それらの一切を含めて見ぬく力を「真の眼力」と云う。
 だが、その世界は、普段は暗雲に閉ざされている。

 こういう、暗雲で入り乱れているのが、日本の……というより、世界の日本刀を扱う、美術刀剣商の実体である。知力・財力、ともに必要な世界である。何れが欠けても決して成就することはない。
 この世界で成就するには、天の時、地の利、人の和の三つの相互関係が築けていなければならない。
 この世界での成就は、この三つが揃わなければ大事業は出来ない。一朝一夕では事は成さない。

 果たして、昨日今日の、その辺の駆け出しの刀剣商では、全く歯が立たず、太刀打ち出来ないのである。
 物を見る、抜きん出た眼力が要る世界である。慾が絡むと、眼力は健全なものから遠ざかる。
 そういう者は転ぶ以外ないのである。

 非力不才のままでは駄目である。
 粋がった者は、悉
(ことごと)く餌食(えじき)にされる。その匂いを嗅がれる。それを丸出しにすれば嗅がれる。丸出しにしなくても、眼の色を読まれる。
 この世界にハンターは多い。ハンターの数だけ猟られる者がいるからだ。猟られれば哀れである。哀れの一言に尽きる。
 これまで、そうした猟られた犠牲者を、筆者は何人も知っているのである。

 美術刀剣の世界には「猟り」がある。そして猟るハンターがいる。
 ハンターは、慾にほだされた人間を検
(み)るのが上手い。その匂いを嗅ぎとるのが上手い。
 これは私が、自分のこの眼で見て来た事実である。
 多くは身代を潰して、没落をして行った。あたかも相場師が没落して行くように……。

 ハンター達は獲物を狩るために、様々な手法を使う。
 特に遣われるのが「合力」という巧妙な合同作戦である。
 一種の八百長のようなものだ。それは『手本引
(てほんびき)』の大型博奕を遣った人ならご存知だろうが、配当の割り戻しが大きいために、倍率が巨大なものになる。

 “本命”を第一に置き、これに“対抗”するものが第二、そして“押さえ”を第三に置いて、最後にこれを“保険”として張り、これを第四に置くのだ。
 残り二枚の札は無いものと見限り、1枚から4枚までを出すことが出来るルールで、張った札に、賭
(か)け金を置く。親は複数の子を相手にすることになる。そして複数の“子”が賭けを行うところは、『おいちょかぶ』と似ているところがある。

 これは単なる丁半博奕とは異なる。複雑な仕掛けがあり、見抜けなければ、ハンター達の意のままに操られる。
 結末に、どんでん返しの逆転劇が存在するために、博奕の極みとも云われる。合力を遣えば、素人を簡単に猟ることも出来るからだ。
 平穏なる、そういう世界とは異なる。
 凡庸なる人々が日々を平和に暮らす平時の世界ではない。互いが鎬
(しのぎ)を削っている。
 此処は一種の戦場であるため、難を逃れて凡庸なる人間に落ち着くことを許されない世界である。家族とともに平和な暮らしという安穏を貪れないのだ。角度を変えて眺めれば、百鬼夜行の世界である。
 逸民ならばその横行が見抜ける。そういう角度からその隙間が垣間みられる。

ある古物市場の競りの風景。

 故に、知力と財力が要る。それらの潤沢なる実力が要る。眼が利かねばならぬ。
 劣れば餌食になる。強者から啖
(く)われる。
 「填めること、有りの世界」である。
 填めれば“手本引”擬きのイカサマ博奕が行えるからである。そう言う仕掛けがある。その罠に、呑気なウサギちゃんや、暢気なロバさんが仕掛けに掛かって猟られることになる。
 この世には、猟りが横行している。何でも有りだ。
 何処も此処も、猟るための仕掛けが転がっている。素人はそれを見抜けないだけである。それは知らないからだ。
 よって、安易に近付く身の程知らずも多い。

 古武術の世界は、本の上の世界ではない。本では計り知れないものがある。実戦では、美術書の世界で済まされる知識は通用しない。
 眼力のある、目利きは本の世界に固執しない。
 一旦は知識として吸収するが、それを越えて、その後に「応用編」があることを知っている。応用編を実戦することで、本に掲載された著名な美術評論家の真髄に迫り、またその眼の確かさを知る。
 だが、その逆もある。

 世間で云う著名な美術家の中には、有名無実で、評価だけが一人歩きしているものもある。名前だけが持て囃されている。そうした評論家の書籍を実物を見て、時としてがっかりさせられることがあるのだ。
 そして、一端
(いっぱし)の論陣を張っておきながら、大言壮語であることに憚りを知らぬ傲岸さを幾度か感じたことがある。そこには自身をもち上げ、奢(おご)り昂(たかぶ)りの自己主張のみが目立っていた。
 したがって、本のみも信用出来ない。
 大事なのは、実戦である。自分の眼で見て来た事実である。あるいは、その手触りだろう。
 本の上の知識は宛にはならぬ。

鐔一枚見立てるにも、眼で検(み)て、手で触れ、その材質と作者の真意を読まねばならない。
 鐔は大きくとも、僅か8.5cm×8.0cmほどの小さなキャンバスだが、この中には作者の世界感が存在し、その小さなキャンバスを遣って縦横に自分の表現媒体を見事に描き出しているのである。それでいて鐔は武具・防禦の一部を成す。

 そもそも鐔は、刀剣の柄
(つか)と刀身との境目に挟み、柄を握る手を防護する武具・防禦の役割を担う。
 形状としては、平たくて中央に孔をうがち、これに刀心を通し、柄を装着して固定する。円形・方形その他大小種々ある。それだけに鐔師は、単に殺伐とした武具・防禦の世界を超越し、美術的な領域まで自己を高め、その美的センスにまで鋭く迫った。ここに僅か小さな世界に、見事に自分を表現したのである。
 それは金工鐔も透し鐔も同じである。

 わが眼で見るしかない。触れて重さを感じる他ない。そのためには、多くを見て、直に感じ、それを記憶に留めることである。目利きは、古来よりこうして学んで来た。
 実戦第一である。

 特に刀剣の場合は、重さが微妙に関係し、真贋は重さによって決まると言っても過言ではない。
 特記すべきは、同じ長さや同国産でも、刀工によってその重さが微妙に違う。そこに名工の持ち味がある。
 しかし名工は、コピーされ、真似され易い。故に真贋の両者が別れる。中には真似することに執念を賭ける、名工に魅入られた作家もいる。

 これは真似るの「学ぶ」が、最後まで抜け出せなかった作家の場合に多い。
 真似から始まった学ぶは、最後までその域で留まったからだ。
 本来は、そこから抜け出し、芸術道の習・破・離の道を辿るべき道理を踏み外し、ただ真似るだけに執念を燃やしたからだ。
 贋作はこうして生まれる。
 これは本からの知識では学べない。
 見て、握って、その重さや形状までもを、確
(しか)とわが手に記憶させねば、その真贋は見抜けない。

 私の、ある知人の著名なる美術刀剣評論家に、かつて自宅を訪問した際、書斎に通されて驚いたことは、美術品に関する書籍を殆ど置いてなかったことである。壁際の棚には数点の古美術品の小物が飾られていたが、その家には書棚はなく、部屋全体は、むしろ索漠
(さくばく)とした印象を受けた。何かすっきりと片付いていた。
 私は書斎に通されたと思っていたが、どうもそうではなかったと、一瞬勘違いするほどだった。
 意外に思ったのである。

 「書斎は別ですか?」
 と聴いた質問に対し、「書斎など持ちません」と、その御仁は切り返し、「では、美術書などは、何処に仕舞われているのですか?」と訊いたが、その返事が意外だった。
 「私は図書館で美術書を閲覧したり、知人の書籍を読ませて頂くだけで、自宅では、そう言うことはしません」と云うのであった。

 それでも食い下がって「これは意外ですね。私は先生が万書を既に読破され、その厖大
(ぼうだい)な知識を悉(ことごと)くを脳裡(のうり)に記憶しているのではないかと思っていました」
 「私は読書家ではありません。必要なときだけ、読むようにしています」
 これは『目利きの訓練は、本だけでは駄目である』と言う証
(あかし)のようなものだった。
 直に見て、手に触れ、それを握って重さを五感に浸透させなければ、その真髄は解らないと言わんばかりだった。
 本だけの世界では目利きになれない。
 私は、この御仁のそういうところに惹
(ひ)かれたことがある。

 目利きと言われる人は、本の世界で美術品の目利きを頼っていないことである。
 これは、おそらく、書籍は書籍、実理は実理と、その違いを知っていて、実際には、現場で実戦派の経験を積んでいるからであろう。場数を踏んで来たのであろう。

 換言すれば、この御仁は、美術刀剣史に記録された学問的な知識だけの秀才とは違うのである。決して他人の受け売りをしない。況
(ま)して耳年増でもない。
 自分の眼で確かめる。確かめ、それを確認するために手間暇を惜しまない。
 まさに実戦派の人であった。
 人は知識を逸脱して、実戦の世界で真価を得る。美術刀剣は、そう言う世界である。



  運気     八門人相     房中術     癒しの杜     菜根譚     小説     会報Back No.     合気     蜘蛛之巣伝     死の超剋     霊的食養     心法