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続・刀屋物語 11

いい物を所持したい。古武術愛好家の願いである。



●目利き

 持ち物が貧しいと、心まで貧しくなる。道理だろう。
 また、持ち物でその人の人格と品格が分る。
 これは会社や商店も同じだろう。そこに売られている品物により、また取り扱う商品の品質により、その会社や商店の「格」が決まるのである。
 常に世の中は「格付け」が蹤
(つ)いて廻るのである。この格付けは人間にも蹤いて廻り、またその所持品にも蹤いて廻る。

 刀屋の場合、その店で売られている刀や、刀に付随する小道具類の程度で店の格と言うものが決まる。またその取り扱う刀剣類のランクにより、更には展示された刀剣類や小道具類の正札の付け方により、その店の程度が分って来る。
 例えば、「店の格」というのは何も高級品ばかりを扱い、大金持ちばかりを相手にしているから格が高いと言う訳ではない。
 客相と言うのは、決して金持ち相手にするばかりで、客の相が決まると言うものでもない。

 天下に名立たる名刀ばかりを取り扱い、金持ちばかりを相手にしていても実際には商売にはならない。そういう事をすると、「あの店はお高く止まっている」ということで、やがて客は相手にしなくなる。
一方、安価な数万円程度から百数十万円の刀剣を扱っていても、中には年金暮らしの居合や剣術の先生とか、剣道をはじめとする刀剣愛好者などの人が訪れ、その金額に応じた日本刀を求めてくれることがある。
 年金暮らしをしているこうした愛好家の中にも、礼儀正しく、身の程を知り、自分の持ち物を決して人に自慢せず、それでもこよなくに本当を愛すると言う人は、世の中には幾らでもいる。
 私はそう言う人に巡り遭う度、逆にこちらの方が頭が下がり、商いは、正直で律儀で、一生懸命と言う謙虚な態度が、こうした礼儀家の注目を惹
(ひ)くと考えているのである。
 したがって、「どういう品物を幾らの正札を付けて売っているか」である。

 それには適正価格と言うのがあり、この価格を正しく知るには刀剣市場での相場の上下が、今幾らで、その変動を敏感に読み取り、適正価格を付けることなのである。適正価格を付けるには、価格の先端という、「いま現在の価格」を知らねばならない。
 この「知ること」に疎い者は、適正価格とは程遠い、篦棒な値段をつけ、その篦棒な値段に応じて、「その程度の客」しか寄り集まらないことになる。

 前のページで述べた、ある大阪の刀屋などは、価格の先端を知らないために適正価格を付け切れず、欲丸出しで、僅か3、4万円しかしない素延べの白鞘仕込みの脇差しを19万円で販売し、これに飛びついた刀剣には盲の素人がこれを購入し、19万円と言う値段が、実は刀剣市場の時価相場の四分の一にも満たないことを知ったのである。要するの、値段相当以上に高く買わされたと言うことなのである。
 「人生の貧乏くじ」を引く見本のような人間であっては、こうした物に嵌められ、生涯、損をし続けるのである。これこそ、一生に渡る「貧乏くじ人生」である。

 換言すれば、この大阪の刀屋には「貧乏くじ人生」を現在驀進中の客ばかりが出入りし、本当の目利きや健全な刀剣愛好者は寄り付かなくなってしまうのである。

 私は値打ちのある、番付から言っても『名刀』と呼ばれる刀を、高く売りつけることはいいことだと思っている。いい物を高く売る。これこそ刀屋名利に尽きると思っている。
 ところが、3万円程度の鈍刀を、19万円で売りつけるのだから、これは穢
(きたな)いと言う以前の、刀屋の風上にもおけない「悪党の仕業」と言う他ない。

 いい物を高く売る。
 例えば350万円の重要刀剣クラスを、これに50万円上乗せして、400万円で売るというのは、これこそ刀屋の腕と言うものであり、これは筋が通ると思うのである。
 また重要刀剣や重要美術刀剣を購入するという刀剣愛好家なら、この50万円の上乗せに、少しも文句は言わないのである。それだけ余裕のある人であるからだ。

 余裕のある人は、最初から『損する余裕』を持っているから、気持ちも大らかで、寛大で、その包容力も大きく、そういう人格を具えている人なら人物も大きいのである。

 時価3万円のボロ刀を19万円で売るというのは、その差額は僅かに16万円で、50万円上乗せの刀に比べれば大した金額ではないが、しかし、ボロ刀を求めた御仁は重要刀剣以上に手の出せるような金持ちでもなく、そう言う経済的自由もない人である。そういう不自由者から4倍以上の16万円も巻き上げて、商いをするとは何たる恥知らずな刀屋だろう。
 こういう不自由者でありながら、それでも刀剣に興味を示す人には、それなりの礼儀で接する必要があり、儲かれば何をしてもいいと言うのは刀屋の風上にもおけないではないか。

 こういう店を経営していては、人生で損ばかりをしている人間、また損をする余裕もないギスギスした経済的不自由を強いられている人間、狡賢く人の上前を跳ねて値切ることを信条としている人間などの、このような人間的にはレベルの低い人間しか店に来なくなる。そして刀屋の主人の人格もその程度の人間と交わり、まさに類は友を呼ぶ「誘引の法則」に嵌まり、穢い地獄の底をほっつき歩き、そう言う人生で生涯を閉じることになる。
 だが、世の中には「穢くて何が悪い」と反論する商売人もいる。

 だが、これもプロの刀屋だから、「喰うため」と言われればそれまでである。生活のためと言われればそれまでである。しかし、穢い、汚れた地獄の底をほっつき歩く人生からは逃れられまい。
 あるいは、職業だから仕方あるまいと言えば、それまでなのか。

 だが、世の中にはこの程度でない汚れた人間がいる。
 こう言う汚れた人間は、自分が、人生の垢
(あか)で汚れまくり、自身で、その不潔感が気付かないのである。
 その中でも、最も頂けないのは、素人刀剣愛好家同士間で行われる刀剣や小道具類の売買である。
 こういう素人売買には、「価格の先端」を知る市場情報がないので、実に危険で、こうした素人が付ける金額は、刀剣市場の原価の数十倍にも及ぶ、篦棒
(べらぼう)な値段をつけて闇で売買していることである。そもそもこれ自体が古物商法違反であり、その年の確定申告が為されていなければ、脱税であり、法的に罰される行為をしているのである。
 こういう行為を繰り返ししている人間を、刀剣愛好家の中で度々見掛けることがある。

 素人同士で、飯村嘉章著の『刀剣要覧』の価格を見て、それだけで売買するのは危険である。またそれを信じること自体も危険である。この書物に記載されている価格は、決して順当なものでなく、あくまでも目安である。

 著者の故飯村嘉章氏も云っているように、「本書に記載されている価格はあくまで目安で、定寸の2尺3寸以上の物をいい、茎
(なかご)は生(うぶ)で、擦り上げがはなく、研ぎ減りして痩せておらず、健全な刀剣」としていることから、単に刀剣銘が一致する方と言って、この価格は当て嵌まらないのである。目安であり、私の個人的な意見を言わせてもらうなら、少々オーバーに高めに設定されているのではないかと思うし、現物に「生」が存在したとしても、それらは重要文化財か国宝であり、一般素人には先ずお目に掛かれない代物である。
 そして古刀ほど数も少なく、数が少ないと言うことは、その分多く贋作も出回り、もしかすると贋作に鑑定書が付けられ、それが市場や刀剣愛好家の間に出回っていると考えるべきであろう。

 そうなると、古刀ほど研ぎ減りがあるし、擦り上げの可能性も高く、生を装ってても、幽かな擦り上げがあり、古い刀は多くの人に廻って来ているため、それだけ「傷
(いた)み」も烈しいのである。それだけの「生のまま」と言うのは珍しく、希少価値のあるのは当然ではあるが、今日ではそうした刀に滅多とお目に掛かれないというのが実情である。
 古刀で、有名な刀は、またそれだけ偽名も多く出回り、所謂「銘が悪い」のである。この「銘の悪い刀に、これまで多くの鑑定家は騙されて来たのである。刀剣一筋の鑑定家が騙されるのであるから、素人の刀剣愛好家はその域にも非ず、簡単に騙されていることは明白である。

 何故なら真贋
(しんがん)のほどは、素人には判定できないからだ。これは玄人でも難しいことである。
 真贋
を見極めるのには、かなりの鑑定眼がいる。つまり眼力である。
 だが、素人には眼力がない。また、眼力を鍛えるほど、そうした市場などで勉強する時間も暇もない。こういう時間も暇もない連中が、一端の講釈を垂れ、素人売買をしているのだから、危険と言う他なく、法に抵触する行為である。

 そのうえ目利きではない。
 何処までも素人判断の臆測である。
 多くの場合、中茎に刻まれた銘だけで判断し、あるいは認定書や鑑定書の判断だけである。
 実は此処に大きな落し穴があるのである。
 上作の刀ほど鑑定は難しく、素人の知識では手に負えるものでない。それなのに、こうした場合も、素人が出しゃばって来る。

 刀剣愛好の素人間では『刀剣要覧』の価格やそこの記載されている中茎
(なかご)の写真類で、似たような類似の刀剣の中茎を探し、それに当て嵌めて売買しているようだが、これは非常に危険なことであり、多くの場合、真贋判定は贋作である場合が多い。

 私はこれまで、こういう素人判断の贋作にゴマンとぶち当たっている。素人は真贋の判定を、偽造も含む認定書や鑑定書に頼っている、それを信じて疑わない。
 したがって素人の「思い込み」は実に怕
(こわ)いのである。
 私自身も駆け出しの頃は、こういう贋作を何度も掴まされてきた。それも認定書や鑑定書付きの贋作にである。
 その度に、学習させられ、高い月謝を払ったのである。

 そして一番怕いのが、道場での子弟間における師匠と弟子の素人売買である。
 私はこれを「危険売買」と名付けている。
 危険売買の実体はこうだ。
 師匠は、「お前に売ってやる」という一段高い場所に立つ。
 一方、弟子は「先生からあり難く売って頂く」という一段低い立場に立つ。
 そして師匠の「売ってやる方」と、弟子の「売って頂く方」の売買が成立する。奇妙な、異常な売買成立である。
 普通の商売では、こういう事はあり得ない。売る方が頭が高く、買う方が平身低頭しかければならないからである。

 しかし、これらの構図から、この行為をよく観察すれば、刀剣市場で出回っている卸値の市場価格以上の二倍か三倍前後で、弟子は師匠から買わされている場合が多い。
 財団法人日本美術刀剣保存協会や日本刀剣保存協会
(審定書)、更には、個人発行の得能一男(鑑定書)や藤代松雄(鑑定書)や、その他の個人が発行する認定書や鑑定書を何の疑いもなく信じ、そのまま額面通りに受け取り、購入していることである。不用心と言う他ない。こうして買手はカモにされるのである。弱肉強食の理論から言えば、猟られるのである。

 こういう認定書や鑑定書付きの刀剣を何の疑いもなく買い取り、実はそれが贋作であっあっと言うことがよくあるのである。
 本人がそのように信じているうちはいいが、その信じる根拠は飯村嘉章著の『刀剣要覧』の価格に基づくもので、本来はその価格が正規の正常なる金額かどうか不明なところもあり、それを信じる背景には自分のものが「高価な刀剣である」と信じている頑迷さによる場合が少なくない。
 しかし、蓋を開ければ大したことはない。刀剣市場でも大した値が付かないのである。

 素人は怕いだけでなく、素人の持ち物は、法外に高くて怕いのである。
 では何故、怕いのか。
 素人は正常価格が分らないからである。それに「思い込み」が付随されている。実は、この思い込みが曲者なのである。
 物には総て値段というものがあり、またそれにはそれぞれに「価格」と言うものがある。素人はこの価格が分らないのである。分らない故がに、素人は法外な値段をつけて、自分の物を高く自慢する。一方、他人のものは貶
(けな)す。素人の特徴である。素人の習性である。

 この習性は、大抵の場合、サラリーマン愛好家に見掛けることが多い。
 買い付け資金にサラリーマンでは限界があり、なけなしの虎の子で、素人から素人への譲渡となるからである。こうした譲渡には、多くの場合、市場価格より高く設定されている。したがってマニア的な物は、当然高い設定値段で動くことになる。

 マニア的な価格は法外なものが多く、市場価格の適正とは程遠く、素人感覚で価格設定は実にインチキが多い。「価格を知らない」から、当然そうなるのであろう。
 そして物には価格の先端に、「今の時価値
(じか‐ね)」がある。つまりこれが「価格の先端」というものである。

 だが、価格の先端は素人には分らない。
 素人にはその先端が見極められない。
 見極められず、価格が分らないからこそ、大勢から「きっと目玉が飛び出るほど高い物なのでしょうね」と云って欲しいのである。此処が付け目である。
 このことだけに執念を持ち、優越感を感じ、他人を抜きん出ている、と自負できるのである。マニア的動機は、ただこの一点にある。サラリーマン素人愛好家に多いタイプの人間である。

 自分の仕事がそこそこ上手くいき、会社でもそれなりの役職に就き、数十名の部下を持っている場合、自分は「勝ち組」に入っていると自負し、その自負とともに「有能」という優越感が働くからである。
 しかし、こうした思い上がりは、一方で多くな損を招き、逆に人から敬遠されると言うマイナス面も働くのである。そのマイナス面を、自分でか自覚できないのである。
 自覚できないからこそ、その裏返しとして常に何処かに「勝ち組」意識があり、それに奢
(おご)り昂(たかぶ)り、奇妙な優越感に酔い痴(し)れているのである。

 持ち物は、その人の人格と品格を顕すと言う。
 当然、奢り昂った過信者が所持する持ち物も、見えて来ると言う物である。
 何故なら、信の好き者ではなく、自分の持ち物によって自分を誇示し、優越感を抱いて、それにようと言う行動や行為をしているからである。こういう人間は、礼儀すらなってはいないだろう。

 故に、礼儀を欠き、美術品の何たるかを理解できない者が、こういう刀剣類などの動産は持つべきでない。
 こうした手合いが、身に不遜
(ふそん)な動産を持つことは、その人間の性格に対しても、いい影響を及ぼすことがない。むしろマイナス面が多い。
 礼儀を欠けば、買手は、詐欺擬いの売手にしか巡り遭
(あ)えない。この場合、売手が悪いのではなく、買手の姿勢と態度がなっていないからである。

 毅然
(きぜん)とした態度で当たるには、まず買手自身の礼儀と真摯さが必要であろう。これか欠けると、騙されることになる。
 礼儀正しい人間には、悪党の売手と雖
(いえど)も、簡単には押し売りされないし、また押し売りできないものである。押し売りされて、それを押し付けられてしまうのは、買手自身の態度にも問題がある。

 そして、人格不十分で、まなじ刀剣類などの動産を所持すると、それに値する人格の品格を持たない場合、心が素直な人でも正直さが失われ、自分の所有物を大袈裟
(おおげさ)に誇大宣伝し吹聴するようになる。
 つまり「これ、いいだろう。どうだ、凄いだろう」の慢心であり、そこに独自の優越感と、人を見下す自惚れが起こるからである。見下す意識がなくとも、それは無自覚発言であり、結果的にそう言う言動をする。その結果、大袈裟な法螺
(ほら)吹きとなったり、嘘つきになったりする。それも無意識だから、怕い。

 例えば、自分の所持する刀剣を他人に披露する場合、これを購入するに当り、些か誇大宣伝をすることがある。その模様を表現する場合、お披露目に際して、それを幾らで買ったか盛んに吹聴する。浅はかな買手の軽率なる言動である。
 これは買手自身の吹聴により、他人を軽蔑し、馬鹿にしたがる自負心が生まれるからである。素人愛好家に多く見られる現象である。

 だが、それはそれでよいのだが、こうした刀剣類の値段を口にするとき、その所持者は、決して正直な購入価格を云わない。普通、高く云うことが多いようである。そのように云うのは、自分が金持ちであることを誇示したいからである。

 これはサラリーマンなどに多く見られる現象である。そして多くは、素人刀剣愛好家である。相場を知らないから、そうなるのだろう。
 お披露目のために集まった者に、「少々高く言っても、疎い奴らには分らないだろう」との見込み的な安易さがあるからである。こうして、もっと底辺の初心者を嵌めて行く。眼までもを欺く。こうした事が出来るのは、初心者に対し見下しがあるからである。
 更に自慢話を聴いていれば、自負の塊
(かたまり)だけが異様に鼻に突く。違和感を感じる。

 私は以前、このレベルのサラリーマンから、藤代の鑑定書が付いた、自称「古刀」と称する刀剣を見せてもらったことがある。
 そして口ほどにもなく、大した代物でないことに幻滅したことがある。
 本人は「どうだ、凄いだろう」という貌をしていたが、私は頭を左右に振って「これはいただけない」という感想を心にしまい、発言を控えたことを覚えている。感想などを漏らしたところで、聞き分ける才能を持っていなかったからである。

 贋作と言わないまでも、研ぎは悪く、中茎も古刀なのか、末古刀なのか、あるいは江戸初期の新刀なのか判然としなかった。値段相当ではないと検
(み)たのである。市場では、こんなに高くない代物である。素人刀剣愛好家から売りつけられた刀だった。高が知れていた。
 だか、本人は藤代の鑑定書を鼻に懸け、自慢たらたらだった。これに対して、私は発言を控えた。馬の耳に念仏は聴かせない主義である。念仏と言わず、法華経とでも云いたいが……。
 馬に法華経を聴かせてもどうにもならない。

 飯村嘉章著の『刀剣要覧』に記載された価格を鵜呑みして、自分では180万円相当が妥当だと思い込んでいるらしかった。
 不思議なのは、自分が素人愛好家から75万で買っておきながら、それが書籍の番付通りの180万円であると思い込んでいるところに、この人間の底の浅いところを見たのである。
 私はその思い込みに、敢えて水を指す気持ちもなかったので、正直な評論は控えたのである。
 一杯気分で酔い痴れているところに、冷や水を掛けても大人げないと思ったからである。
 こうして、自惚れの背景に、素人が、相場以上に高い刀を買わされた現実を見たのである。

 問題は買手の態度にあった。
 私の検
(み)るところ、「盥(たらい)回しされた刀」であった。
 自分で思い込んでいる180万円相当の刀は、白鞘に納まっていたが、盥回しされた刀は、鯉口
(こいぐち)が甘くなっている。この部分が弛(ゆる)くなっていて、鞘が滑り落ちないにしても、鞘から刀身を抜く場合、少しでも弛みがあると、それは多くの人から「見られた」という証拠で弛みがあり、鯉口に締まりを感じないものである。
 それだけに、多くの人に握られ、見られ、そして「これは頂けない」と、首を振られた刀である。
 つまり「頂けない刀」なのである。あるいは買手は付かないと言ってもよい。

 刀は、それは番付で幾らの価値があるか否かではなく、それに買手が付くか付かないかでその価格が決まってしまうのである。
 したがって刀剣書籍上の番付と、市場価格は異なり、市場では「売れない刀」とか刀剣商が「見向きもしない刀」と言うのがあるのである。そういう刀は、既に刀自体に不都合が生じているからである。そのうえ、この不都合は贋作の疑いが持たれるからである。
 鑑定書が付いているからと言って、そういうものは宛にはならない。

 刀剣に付随されている認定書とか鑑定書は、実際には50%が宛にはならないもので、こうしたものが付いているということは、あたかも交通安全のお守りのような物であり、お守りを持っていたからと言って、それで自分が交通事故を起こしたり、事故に遭遇しないと言うことを保証したものでない。
 そもそも認定書とか鑑定書は、交通安全のお守りと考えた方がよいだろう。

 信ずるべきは自身の直感と眼力のみである。それには勉強が必要である。眼の勝負において、眼力を鍛える必要がある。美術評論できるくらいの観賞眼がいる。他人任せの認定書や鑑定書ではどうにもならないのである。
 私の場合、こういう鑑定に当たっては、まず「鯉口」の具合を検
(み)るのである。鞘の締まり具合や弛み具合を検る。購入時に、袋から出す前の大事な点検なのである。

 私は長年の経験から、刀剣の真贋を見抜く際に、刀身そのものを検る前、白鞘袋に収められた、そのままの状態で、まず真贋を判断するのである。袋の上から、刀身の納まり具合や、ハバキの状態、中茎の状態、鞘に納まった、かつての鞘師の腕のほどを判定し、これが総て良好ならば、真物
(ほんもの)の可能性はグーンと高くなるのである。

 ところが、鯉口にズレだ生じていたり、ガタツキがあったり、特に弛みがある場合は、真物の確率がグーンと低くなるのである。また、盥回しは、真物か否かを巡って盥回しされたのであり、そもそもここに締まりがないと言うのは、それだけ眼力の手に掛り、真贋を巡ってその是非が問われて来たためである。

 全般的に言って、鯉口に締まりのない刀は、これまで多くの人に見られ、そのために鯉口部分が弛くなっている。これは盥回しの跡と言ってもよい。
 但し、近年に新調された白鞘は、製作して新しいので、こうした場合は除外して考える。私の言っているのは、幕末までの新々刀以前の刀に作られた白鞘のことであり、明治以降の現代刀や、白鞘のみを近年に新調した刀剣を言っているのではない。

 刀は、新々刀以前で白鞘仕込みで、100回程度、出し入れすると鯉口が弛み始める。これが倍以上になると締まりが悪くなり、300回を越えると、柄を握って垂直にした場合、鞘は抜け落ちてしまう。
 これは盥回しが繰り返されたことを意味する。
 しかし、古刀や末古刀は長年の年月を経ているので、真物と言えど、抜け落ちる場合があるが、新刀以降は滅多とないようだ。
 だから、簡単に抜け落ちない物を目安としている。
 そして真物は抜け落ちることが先ずない。
 一方、偽物・贋作は、抜け落ちの典型である。

 素人愛好家から75万円で買ったと言う漢
(おとこ)は、そういう物を掴まされたのである。真物としても程度はよくないだろう。ありいは刀工番付は大したランクではあるまい。
 これだけで、刀の程度も分ろうと言うものである。持ちの主の人間性は、此処に暴露される。
 私は刀と人間性を、こうした観点で結びつけ、その人間の人生観を逆算して読んで行くのである。
 この読みに、私は一度も外したことはない。人の狡さも、賢さも、愚かさも、欲深さも、正直さや律儀さまでもが、一気に暴露されてしまうのである。

 いい刀は、鯉口が弛んでいない。
 鞘側を降っても柄側は落ちないし、逆にして、柄側を揺っても鞘は落ちない。落ちるのは盥回しされた刀である。つまり多数の人間が、その刀を検
(み)たが、買手が付かなかったと言うことだ。そこに、たまたま「お鉢」が廻って来たと言う訳である。一種のババ抜きで、掴まされた方はカモのされたと云うべきだろう。

 このババを、再び誰かに掴ませるために、巧妙なババ抜き合戦が繰り返される。
 この場合、口上が尤もらしく述べられ、ババを掴ませる方に勿体をつけて語られる。語られる方は、間抜けな場合、まんまと巧妙な話術に乗せられ、買う気をそそられ、ついに掴まされるのである。
 だが、素人の場合、自分がババを掴まされたことに自覚症状がない。そこがまた、ババを掴ませた方の思惑である。
 掴ませた方も、人間をよく見ているのである。罠に掛かりそうだと最初から読んでいるのである。
 ただ掛かった方が、それを知らないだけなのである。
 つまり、自分がいいカモにされて、「猟られた」ということに自覚症状を感じないのである。

 私の知人に、鷹匠
(たかじょう)をしている人がいるが、鷹に猟られた間抜けな動物は、自分が猟られたことも悟らず鷹から留めを刺され殺されると言う。
 本来ならば、これは幸せな殺され方と言えるかも知れないが、それだけに悟る自覚がないのだから、哀れと言えば哀れである。

 日本では、鷹匠は鷹を馴養
(じゅんよう)し、鷹狩に従事する役人のことで、役の位も高く、公家や武家に仕え、明治以後は宮内省式部職猟場係に属した役人である。こうした人のことを鷹師とも呼んだ。
 その特異な技術を職業とする鷹匠は、鷹を仕込む場合、鷹に猟る獲物を出来るだけ疵付けず、恐怖を与えずに殺すことを教えると言う。あるいは殺さずに、新鮮なまま猟られたと分らないように猟ることを教えると言う。そのために急所を一突きにされて、殺されたことに自覚症状を持たない小動物がいると言う。小動物は自分で、猟られたことが分からないのである。また、それは鷹自体の馴養の高さにもよると言う。
 よく訓練され、馴養を得た鷹は、猟った小動物に自覚症状を持たせないまま猟ると言うのである。

 このような話を知人の鷹匠から聞いたことがあるが、しかし、人間が騙されて啖われるという無態
(ざま)は、何とも頂けない話である。人間が人間を猟るのである。その人間の、然(しか)も素人の騙しに気付かないとは……。

 自覚症状がない。
 これは恐ろしいことである。
 病気でも、危険が迫っていることでも、また人生のおける生き方でも、それには多くの人が、娑婆での痛痒を感じていきている筈だが、これに自覚症状がないとは、どういうことだろう。
 私は、幼稚園の頃、とはいっても今から60年以上も前のことだが、仔犬
(こいぬ)が猛禽類(もうきんるい)から猟られて、空の上でキャンキャン啼(な)いていたことを憶えている。

 そのとき頭上で仔犬の啼き声がしたので、どうしてだろうと思い空を見上げると、仔犬が猛禽類の、鷲か鷹か、あるいは鳶かは知らないが、猟られたことを訴えるために、力の限り啼いていたのである。猟られたことを悟って、最後の力を振り絞り啼いていたのであろう。
 子供心に、自然界の残忍な一面を見た思いをしたことを憶えているが、畜生界の生き物ですら、こうした事には敏感に悟るのである。
 しかし、人間はどうしてだろう。
 一部の人間には、こうしたことに痛痒を感じないばかりが、自分が猟られたことに自覚症状を持たないと言うのは何故だろう。

 万物の霊長である人間は、猟られたり、啖われる痛さを感じる自覚症状だけは持ちたいものである。
 そうでなければ、また再びカモにされ、次は身ぐるみ剥がれるだろう。最後は財産を失って、無一文にされてしまうだろう。
 働けばいいというが、無一文の後の労働など、そう簡単には見つかるまい。況
(ま)して、それなりのオヤジ年齢に達していれば、単に労働をしたぐらいで、わが身と家族を養って行けるだろうか。

 啖
(く)われないためにも、眼力だけは養いたいものである。物事を甘く見らず、「甘えの構造」から一日も早く卒業して、確固たる自己を確立させたいものである。
 啖われて、猟られて、身ぐるみ剥がれても、痛痒を感じないようでは、何とも無態
(ぶざま)な人生を送っていると言う他ない。
 私は猟られたことに、自分では痛痒を感じない人間を見たことがある。

 だが、本人は自慢たらたらだった。
 これをどう表現すればよいのだろう。無自覚なのか。無痛なのか。
 そうではあるまい。
 軽率であろう。同時の人間性がよく出ている。私はそう検
(み)るのである。
 これだけで、この漢の品格が分る。美術品を検るレベルが分る。
 それを安く買ったと思い込んでいるから始末が悪い。自分が賢く立回り、売手と駆引きして、上手に買ったと信じて疑わないのである。それもプロを相手にしてではなく、素人同士の売買で、である。
 頑迷と云うべきだろう。

 そして、まずこうした「自称」高価な物を所持しているのだから、自分が他人より恵まれていて、そこそこ仕事面でも成功もしており、それなりの役職にも就き、金持ちであること示したい、その気持ちがありありとなり、まず最初に突出する。この手の人間の特徴である。
 こうした一面は、刀剣所持者の人格とともに品格が顕われるものである。
 その気持ちが、諸動作や言動から、ありありとなる。

 眼力のある者からみれば、鼻持ちならない慢心である。こうしたことを繰り返していたら、人望を失い、やがては人から相手にされなくなるだろう。
 だが、それに気付かない。自分の底の浅さに気付かない。
 そのために常套手段として、実際に購入する時に支払った価格を水増して吹聴するのである。この世界では嫌われるタイプである。
 掴まされ、失敗したことを認めないのも、このタイプである。墓穴を掘るタイプである。

 私は、かつてこの漢に、眼力のほどを確かめたことがある。
 美術品は、人間判定の勉強にもなるからである。度胸のない者、老後のことを考えて貯蓄以外に趣味を持たない者、損する余裕のない者は、殆ど美術品には興味を示さず、美術品の鑑賞もすることはない。美を鑑賞する能力は抜け落ちているのである。これは遊び心や、人間的に余裕の無いことを物語っている。

 また一方、そういう少しばかりの観賞眼を宿していても、拙
(つたな)い知識と眼力では、簡単に底が見えてしまい、逆に人間の程度を観られてしまう。
 つまり、観られる側に逆転してしまうことである。観る方が観られているのである。観察されているのである。

 かつて東京の知人の出版社の社長が、私の店から、200万円の長物を買ってくれるというので、その配達ついでに、その長物を、漢に見せたことがある。要するに、何処までの眼力をもっているか、試したのである。

 長物というのは、甲種マル特の付いた『
(菊紋)丹波守吉道』の「京五代」だった。
 時代は江戸中期の山城
(京都南部)であり、長さは69.4センチ、反り2.1センチ、幅元39.0ミリ、元重6.5ミリ、先幅22.0ミリ、先重5.0ミリ、形態は鎬造り、庵棟で、地鉄は板目に肌交じるで、波紋は簾刃、鋩子は直ぐに入り丸く返る。『古物台帳』はそう記されている。
 そして中茎は生
(うぶ)であった。
 この刀剣は、私が自信を持って知人に奨
(すす)めた刀である。
 これにその当時、財団法人日本美術刀剣保存協会の「甲種マル特」
(マル特の一階級上)が付いていた。現代流に、同協会の審査を受ければ、軽く「特別保存刀剣」にはなるだろう。

 刀身自体は白鞘仕込みだが、別に外装が付いていて、半太刀拵の鞘には青貝散変り本漆塗鞘で、金具の縁頭は赤銅魚子地石目、鐔
(つば)は赤銅魚子丸鐔、目貫は赤銅地巻龍図で、よく鍛えられているためか、綺麗な鉄地が出ており、丹波守特有の「簾刃(すだれ‐ば)」で、完璧に焼き上げた健全なる刀だった。
 本当にいい刀は、拵と刀身が白鞘に別々に分かれており、また金具などの部分も別々に保存されるものなのである。つまり拵のみで、立派な床飾りとなるのである。

 これを見せたとき、白鞘から見せたよであり、拵は見せなかった。刀身を見せるだけで充分に器量を判定できるからである。
 そして、これが200万円で売却されることも知らせておいたのである。
 この漢は言った。
 「この刀が200万円とは、随分と高いですね」
 それは法外だと云う言い方だった。

 この言い種
(ぐさ)は、何処を検(み)て、言うのだろうか。
 どこまでも自分の不勉強を認めなかった。
 これでこの漢の器量を見て取った。不勉強といより、自分の所持品以外に、他人の所持品の価値を認めないのである。これこそが素人の怕さである。

 昨今の刀剣相場に照らし合わせても、『
(菊紋)丹波守吉道』の「京五代」で、それにしっかりした半太刀の上物拵が付いている。200万円で、何の不都合があろう。
 私は、「いい物を高く売る主義」なのである。
 これは悪い物を高く売るのとも、悪い物を安く売るのとも違う。これこそが刀屋の信条なのである。

 そもそも素人のサラリーマンの世界と、事業者の世界とは、棲
(す)む世界の次元が違うのである。
 素人と棲む世界の相違は、他にも沢山ある。それは感覚の違いにも顕われる。それはまた、人間性や品格の違いとなる。同時に「格」の違いともなる。

 多忙に追われるサラリーマンの勉強不足では、何処までいっても平行線であり、その平行線はあたかもユークリッド幾何学が示す通り、決して交わることはない。ここにも相違のギャップが出る。双方の眼で見た、互いの違和感も生じる。
 棲む世界が違うのだから、当り前であり、ここにこそ「格」が存在していると言える。

 素人レベルの眼は、近視眼的で短見的である。
 更には、自分が購入時に、駆引き上手な人間であることを誇示しようとする。人より優れていることを自己宣伝する。自負して自分を「中流の上」と思い込んでいるサラリーマンに多い。底が見えていると言うべきだろう。

 サラリーマンの誰もが、これに該当する訳ではないが、自負心の強い人間ほど、自分を高く引き揚げ、他人の低く見積もるのは、会社員階層に多く、会社役員階層には少ないと言うことだ。但し、総てに該当することではない。サラリーマンをしていても、勿論立派な人格の持ち主は決して少なくない。逆に事業主だったり会社役員でありながら、同族に胡座をかき、格を下げている人も決して少なくないのである。
 ただ私の言っているのは、刀剣愛好家に限り、サラリーマンレベルの眼力では、肥えた眼をしている人は、これまで極めて少なかったと言うことである。

 そしてこのタイプには、また枝分かれして何種類か居るようだ。
 中には、実際の販売価格よりも割引してもらったことを強調し、それを吹聴する輩
(やから)もいる。刀剣番付価格表より、安かったことを強調する。
 それは自分の交渉上手と有能振りと、駆引き上手を自己宣伝する目的があるように思う
 これは駆引き上手が、自分の有能振りを顕す証拠だとする自惚れでもある。

 こういう素人も怕い。
 これは刀剣などの美術品動産に限らず、車もで住宅でも、こうしたことを自慢し、自分の地位と有能振りを自己宣伝する者に多いようだ。
 この手合いは、自分が「勝ち組」にいると思い込んでいるサラリーマンに多く、組織内でも何らかの派閥に属し、その将来の有力候補に自分があると自負している人間であろう。
 また、そこそこ仕事で成功し、それなりの役職に就き、仕事ができると思い込んでいる「肩書き人間」に多いようだ。自惚れが強いだけに、これも怕い人種である。

 住宅購入でも、特に、この手の宣伝上手や吹聴上手は、「駅から、わが家まで5分とか、10分と言う時間の単位」を持ち出し、優越感に浸る輩もいる。
 あたかもわが子が、有名私学の進学校に通っていることを自慢するように……。

 例えば、不動産会社の役付人間には、この種属が多いようだ。「勝ち組」にいると思い込んでいるから、自惚れも強く、傲慢である。
 だから吹聴に奔
(はし)る。
 この、5分や10分は、決して正確に計った時間ではあるまい。安易に、そういう語呂合わせの数字を出しているだけで、実際には5分が20分懸かったり、10分が30分も40分も懸かったりする場合があり、必ずしも正確な時間ではない。
 見栄で云っているのである。心貧しき貧者の浅知恵と言うべきか……。
 こうしたところにも人間が出る。

 一旦自分が良しとして、手に入れた財産は、人間を金銭所持者のような金持ち感覚にさせてくれることもあるが、それは同時に、人間を破滅に導く場合もある。

 人間はそのパーソナリティ、性格、性癖、真実についての感覚などが、財産を所持したことで奪い取られることもあり、ちっぽけな損する余裕もない財産を所持している場合、この手の人間は、決して経済的自由を得ることはない。

 つまり、明日や今日の喰う米に困ると言うほどでないにしても、この手合いは、自分が奴隷的生活をしていることに自覚症状がないのである。
 則
(すなわ)ち、礼儀を欠く人間が財産を持つと言うことは、自由になり得ず、それは死ぬまで奴隷根性から解放されないと言うことである。

 歴史を見て分ることだが、歴史上に登場する「革命」は、貧乏人が金持ちの財産を取り上げることから生まれたのである。
 明治維新も、一つの革命だった。
 この革命の意味から考えれば、徳川宗家という幕藩体制を敷く天下の金持ちから、西南雄藩の貧乏士族や農民達が、また土佐や肥前の下級武士や郷士が加わり、フリーメーソン日本支社長で、武器商人だったトーマス・ブレーク・グラバーらの運動資金援助と、武器提供の力を借りて起こした「フリーメーソン革命」だったではないか。これこそ、まさにいい革命の前例である。

 革命を起こした貧乏士族や革命に与
(くみ)した農民達は、後に明治政府で異例の出世をしている。また明治新政府令で出され認定された爵位の階級も、革命功労者に対して授与されたもので、幕藩体制下で貧乏を強いられていた人は、革命の恩恵とともに、身に余る裕福な生活が満喫できるとようになったのは周知の通りである。
 だがこの背景には、些かの礼儀があったから、持ちなれぬ財産が転がり込んで来ても、身を持ち崩さなかったが、もし礼儀に欠如があれば、その時点で、その人は運命から破滅させられていたであろう。

 しかし今日、現実問題として、素人同士の古物売買において、破滅の危うさを検
(み)るのである。
 理由は以上述べた通りである。
 これから、金銭格差は益々開いて行くだろう。貧乏人と金持ちのレベルの差は、あたかも資本家と労働者くらいに如実になって行くだろう。
 だからこそ、眼力を鍛えておく日頃からの努力が必要なのである。これを怠った人は、没落する運命にあるだろう。



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