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続・刀屋物語 10





兜は頭を入れるところを「鉢」といい、側面や背面に垂れているところを「しころ」という。



●カモ

 刀屋は、また人間学を研究する商売である。
 刀屋側は買手の人格や品格を検
(み)て、人間的レベルを研究することが出来る。その意味では、他の商売と些(いささ)か違った特性を持つ。
 また売買をすることから、売るだけでなく、買うこともある。つまり、古物商法により売手の持ち物を買い取るか、あるいは所得税の関係からこれを買わず、委託で預かったり、刀剣市で売り捌いてやることもある。

 そうした場合に、売手側のまず人柄がつぶさに観察できる。ここが単に売るだけの商売とは異なっている。それだけに、人間性を見ながら商売をすると言う点が、単に販売だけを目的とした商売とは異なるのである。刀屋を長年やっていると、売手の持ち物がどの程度であるか、その持ち物を通じて、どういうランクに属する人か、それらがつぶさに分るのである。

 勿論その場合、売手は単に自分の持ち物を買ってもらえばいいのであるから、自分が刀屋から自身を、どのように観察されているか知る由もないだろう。多くの売手は、自分が観察され人間的レベルを、どのように検られているか殆ど知らないだろう。

 この商売は、客が刀屋を選ぶのではなく、刀屋が客を選び、選別し、客自身のレベルの値踏みしているのである。そういう意味では特異な商売と言えよう。
 客の「人間的レベル」を検る場合、持ち物とともに客自身の金に対する考え方が分る。
 金銭に対する考え方と、人間的レベルと、所有物の程度が、三点同時に一気に暴露されてしまうのである。

 金で、刀剣を買うということは何も現代に始まったことでない。既に日本では、平安時代からそうした行為は貴族階級を守る武士団の中であり、これが鎌倉期に入ると、武士は職能人に属した階級であったから、刀剣に匹敵する金銀財宝や貨幣そのもので売買が為
(な)されていた。
 このときに金銭に関する意識や考え方があったものと思われる。
 爾来
(じらい)人間は物品売買を通じて金銭哲学が生まれて来る。
 そして金が入って来るようになると、人間は金と言うものと、本能的に戦うようになる。これは今も昔も変わりない。

 つまり人間は生まれて来るときは裸である。既に使い古された言葉だが、「無一文」で生まれて来る。
 しかし、「金を持つ」行為は、これ自体が極めて非日常的なこととなり、また少なからず当惑を覚えるものである。金を所持すると言うことに当惑する。

 何故ならば、人間というものは無一文で生まれて来たのであるから、当然の如くその人の全人生は、あらゆる過去、更には全経済と言うものは、「無一文」の言葉からも分るように、そもそも貧困を基礎とした筈であった。
 つまり貨幣経済が発達する以前から、人間は、貧しく暮らす方法はよく心得ていたのである。この時点までは、どんな風にしたら豊かに暮らせるか、このことについて皆目検討がつかなかった。

 したがって人間は貧しく暮らし、その境遇にある限り、自分は何を求めて人生を送って行くか、その目標が見定まっていた。
 だが、現代は貧しく暮らすことは殆どなくなってしまった。その証拠に日本では極端な貧乏がいない。それなりに貧乏と称されながら、持ち物に限っては豊かである。これは心の貧しさに比べて反比例している。物的に豊かになって行けば、それに反して心的には貧しくなると言う現象が起きている。
 そして「清貧」という生き方がかつてあったが、今日では、そうした生き方は殆ど見掛けなくなってしまった。物的には殆どの人が豊かであり、所持品のレベルこそ違うが、誰も彼も、みな同じようなものを所有している。

 邸宅を所有しているのは何も大富豪だけとは限らない。自称「中流の上」を自負している人でも、4LDKのマイホームくらいは持っている。
 車だって同じである。中流階級の車と大富豪の車のどこが違うかは、前者が三百万円前後のファミリーカーであるのに対し、大富豪の車はロールスロイスかなにかで、その金額の応じた車種が異なるだけである。高級か、中程度かのそれだけの違いで、所持する物的な機能は殆ど変わらない。
 ロールスロイスが高速道を走れば、ファミリーカーだって、ロールスロイスに負けないくらいの走り方はする。

 機能的にみれば、大富豪の持ち物と同じ機能を有した物は、一般中産階級でも所持しているのである。異なるのは高級か並みかで、後は金額の違いだけとなる。そして邸宅について云えば、大富豪の庭は庭園と言う名に相応しく、中間層の庭は箱庭的である。指して広くないだけである。そして大富豪の庭には、その特徴を示すプールが付いていることであり、避暑地には別荘を構えていることである。

 これらの違いを除けば、大富豪でも中間レベルでも機能的には同じ物を所有し、所持品が高いか安いかの違いだけである。つまり誰もが豊かになったのである。
 かつて貧乏人で溢れていた時代、貧乏人の目標は金持ちになることだった。これこそが、貧しい人間の最大の欲求であった。

 しかし、昨今のように誰もが豊かになってしまうと、その次元から逆戻りして、もう一度貧乏からやり直すことを考えないようになってしまう。要するに、金持ち指向に停滞が見られ、成長がそこまでになってしまうのである。そしてそこまでの成長で止まりながらも、ただそれから下降することだけを恐れて現代人は、自分と自分の家族のためにあくせくと働くのである。現代の多忙は此処に回帰する。
 それは換言すれば、「自身の成長を止める」ためにあくせくと、ただこれ以上ランクを落さない程度に働き続けるのである。
 現代人は豊かになって、自身の成長を止めてしまったのである。

 終戦直後のように、食べ物が欠乏した時代、自分に必要な物が何であるか分っていた。則
(すなわ)ち、いま自分に必要な物は食べ物であることが分かっていた。
 また、隙間風が吹く荒ぶ寒い部屋で震えているとき、自分の欲求自体を承知していた。則ち、もう少し暖かい部屋に住みたいことを知っていた。
 着の身着のままのボロを纏っているとき、ちゃんとした衣服を着たいという願望を持っていた。
 空腹を抱えながら、寒さに耐え忍び、ボロを纏ってうろつき回っているとき、人間はどういう形が幸せであるかよく心得ていた。

 だが、こうした飢えから起こる欲求は、現代のように豊かになることで、総てこうした欲求をぶちこわしてしまった。
 今ではこうした願望を持っている人種や民族を見るためには、発展途上国に行く以外見れなくなってしまった。貧困層を見て、現実の貧しさを想像するだけである。それも想像の範囲に留まり、自分が貧困を体験することでない。
 時代がこのような豊かさを求め過ぎた結果、その側面には本当の豊かさが何かと言うことが見逃されるようになってしまったのである。

 こうなると人間は金銭以外の物に眼を向け始める。そして本能的に試みたことは、豊かさと戦い、金から逃げ出すことを企てることだった。
 しかし、これは決して容易なことではなかった。極めて難解であった。
 近年、豊かさはあたかもインフルエンザのように広がる一方で、その蔓延は破竹の勢いと言えよう。
 そして日本のバブル期、金融事情は資本主義の総本山のアメリカを凌ぐ勢いだった。金余り現象の中で、とにかく株式市場に手を出しさえすれば、どんな人でもちょっとした財産を作れる時代が一時期あった。機関株式投資をして、小金を掴んだ人も少なからずいた。しかし、バブルが弾けると同時に、そういう時代は終焉を迎えた。

 しかしこの時代の金融商品の不履行者は、未だにそれから以来の後遺症に悩まされている人もいるし、あるいは没落して路上生活者に成り下がった人もいる。
 そして昨今は、豊かさの時代に起こった反動として、今度はディスカウント商品に眼が向けられるようになった。値段の安さに魅力を感じ出した時代が到来し、あらゆる年齢層は、金を上手に使い、賢明な人間になろうと心掛け始めた。

 しかし、此処にも金銭哲学の甘さがあったのである。
 人々は群がってディスカウント商品を競って買うようになった。不必要でも、ちっとも欲しくなくても、ゴミ同然の品物を、ただ「安い」と言う理由だけで買い漁
(あさ)るのである。このブームは益々酷くなり、この波紋はあらゆる分野に及んだ。
 それは刀屋とて例外ではなかった。

 刀屋も、ただ安いと言う理由で、訳の分からぬ鉄棒のような刀が、つい最近まで売れた時代があった。
 美術品とは程遠い、既に述べた「四悪刀」と云われる物が1990年代から2000年始めに掛けて売られた時期があった。ある意味で、酷い時代だった。一時期これらが誘引して美術品の相場が値崩れ状態になり、私も当時は翻弄
(ほんろう)されたことがあった。

 つまり、こうした元兇には、自称刀剣愛好者と言う“素人”がこの商売に参入して来たことである。
 真贋とか、真価とは関係なしに、訳の分からぬ物に篦棒
(べらぼう)な値段がつき、これは認定書や鑑定書に付随して贋作が動き廻ったことである。そしてこの当時の後遺症を今でも引き摺っているのである。

 この後遺症の元兇は、自称「刀剣愛好家」と称するサラリーマンらが、サイドビジネスとして古物商許可を取り、日頃は会社員として会社に勤め、その余暇を趣味と実益を兼ねて、素人本位の相場崩しの商売を始めたことであった。

 ある剣術の流派の家元の先生は、私に「素人は恐ろしい」ということを聴かせてくれたことがある。
 私も、素人は恐ろしいと思うのである。
 身の程知らずで、物の程度を知らず、手加減を知らず、素人故の出鱈目を遣るからである。この出鱈目が一時期、古美術の世界にも吹く荒れ、刀剣市場の相場崩しが起こったことがある。
 そして、サラリーマンらの素人が一番恐ろしいことは、彼等の多くは勤労所得者であり、売買に当り所得税が掛かるということを全く知らず、また税金に対して無知であったからである。
 つまり、金の勉強が全くできていなかったのである。これは相場荒らしをしただけに無茶苦茶であったと言えるだろう。

 金銭と云うものは近代社会における複雑な現象の一つである。
 大勢の人々にとって、金銭と言うものは、金銭以外の何を意味するものか。あるいは、金銭以外の何ものかを意味する筈である。そしてこの人達にとって、金銭は総てものを意味する筈である。だが、この場合、金銭自体は除く。

 したがって普通の人が、億万長者になることが難しいと思う理由も、まさにこの点に存在するのである。
 億万長者になる……。これは難解である。
 しかし、サイドビジネスとして二百万円、三百万円と言った程度の金儲けならば指して難しくない。だが、そのためには些かの金銭に対する勉強と努力は必要であろう。

 そして二百万円、三百万円の蓄財を何と表現するか。これを小金持と表現するか。あるいは貧乏な金持ちと言うべきか。
 むしろこの場合、難しいのは、仮に運良く小金持になれたとして、小金持ちらしい、態度の様子を身に付ける方が遥かに難しいだろう。故に、どうしても貧乏な金持にならざるを得ないのである。
 それは、金銭と言うものが、単なる所有の喜びを意味することもあるからである。

 こうした場合、美術品に限らず、所有する相手は何も物品でなく人間であってもいい。愛情が金で買える所以
(ゆえん)も、そこにある。あるいは金は権力と栄光を意味するものともなる。

 また金を所有すること自体が、「与える」という効果を生む場合もある。そしてその背景には、金を持つことによって、その人は自分が賢い人間で、優れた面を多々持ち、高が二、三百万円程度の金でも、これを作ることが出来たのは、自分が他人より偉いからだと優越感と自惚れを持つようになる。
 そうしてこれらの自負は、その根底に、自分自身に対する子供っぽい幼児的な誘惑を棄
(す)てることが出来ない自意識が働いているかである。

 繰り返そう。
 素人は怕
(こわ)い。
 こうした幼児的自意識が、美術品とドッキングされたとき、そこには怕いもの知らずの素人の粗暴性が吹き荒れる。
 さて、相場崩れというものは、どうして起こるか説明しよう。
 まず、下の写真を検
(み)て頂きたい。これは水晶を模したガラス玉である。
 原価がせいぜい千円から3千円程度である。だが、素人はこの程度の物を、何と35万円で売りつけ、売買していたのである。

水晶擬きのガラス玉を35万円で掴まされたと言う素人の怕(こわ)い相場崩し現象。
 こう言う物が世に出回ると、古物市場を混乱させる。
 この水晶擬きから窺えることは、彫刻の掘りも下手で、実に上手く出来たガラス玉と言うより、「実に不細工に、下手に出来たガラス玉」と云うべきである。

 世には、恐ろしき法外な「擬き作品」もあるものである。驚愕すべきは、これが35万円とは……。
 そして裏側には大きな、ガラス特有の対角線に疾
(はし)る「割れ疵(きず)」がある。これだけで純粋かつ無垢性が失われている。この疵も承知で購入したと言う。
 時価、千円から3千円しかしない水晶擬きのガラス玉を35万円で買うとは、何たる異常……。そして売る方も買う方も、狂気の沙汰とも思えない。

 だから素人は怕
い。
 正気の沙汰でないのが素人である。
 これを振り返って、騙された方が「悔悟と反省の月謝」とするならば、何と高い月謝であろうか。

 もう一度、繰り返そう、素人は怕い。尋常でない。
 これは、水晶などの宝石類に限らず、刀剣類にもこういう現象が起こっているのである。これが正常な価格の相場崩れを起こすのである。偽物が混じって、市場を混乱させるからである。それに合わせて、便乗も起こる。贋作が多く出回るようになる。
 そして此処には「素人売買の怕さ」がある。価格の先端を知らない怕さがある。
 まさに開いた口が塞がらなかった。

 一体、高くても原価3千円程度のガラス玉を、どうしたら35万円で売却する発想が生まれるのだろうか。何と116倍以上の売却をし、その儲け差額は347,000円である。全く無茶苦茶な価格で売り飛ばしている。

 現在、宝石商の水晶の実質価格で、例えばスーパーセブンと言う高級水晶があるが、これは1グラム当りおおよそ414円前後である。もし、この龍の彫り物の水晶が、スーパーセブン並みの純正水晶として35万円の重さから計れば、この水晶の重さは、正味854グラム以上なければならない。それも、高級水晶の場合である。

 ところが、このガラス玉の水晶擬きは445グラムしかなかった。おおよそ半分強の重量である。
 どう考えても、訝
(おか)しいのである。グラム当り相当の金額に匹敵しないからである。その訝(おか)しい物を何の疑いもなく買い、また売ったのである。何故だろう。一体どういう神経だろう。
 こういう無駄な浪費をしていては、貧乏になるのも当然だと言う気がする。これでは人生が虚しかろう。

 そして、こうした行動原理の中からは、創意も工夫も生まれない。
 賢明な人は貧乏をしていても、それを貧乏と捉えない。その捉え方は、貧乏と思うから辛いのであって、工夫だと思って、これに創意を加える。これは賢明なる者の智慧である。こうした智慧者はまた、自分の向かう目標として、贅沢があるから、またワビもあると、そのように捉え、楽しみ方を知っているのである。そうしたワビの捉え方も、この御仁には皆無であるらしい。

 私の非常に興味のあるところは、この水晶擬きのガラス玉を35万円で売り捌いた、この素人は、一体どういう人物なのだろうか。
 その人物に興味があるのである。死ぬ前に、一度冥土
(みやげ)の土産として、その人物の顔を見てみたいのである。
 思えば意図せずに、無意識に悪事を働いたとしか思えない。だからこそ、その人物を見てみたいと思うのである。

 曽野綾子氏のノンフィクション小説『ある神話の背景』は、敗戦色が濃厚になり始めた1945年、沖縄・渡嘉敷島
(とかしきじま)で集団自決事件のいう悲劇を題材しにて描かれた作品である。

 話の内容はこうである。
 この島には陸軍の赤松嘉次大尉を指揮官とする海上挺身隊第三戦隊130名がいた。
 赤松大尉は出撃を取り止め、島に残って地上作戦をとると言う名目で島にある船舶を破壊し、島民300余名に手榴弾を渡し、自決するように命令したと言う。そのうち数名の斬り込み隊は残して、自分はのうのうとして壕
(ごう)の中に逃げ込み、卑怯にも生きながらえ最後には降伏したと言うのである。このことに焦点が合わされた物語である。
 昭和四十五年頃、卑怯な軍人として弾劾され、当時のマスコミは「赤松叩き」で狂奔
(きょうほん)したのである。

 これに対し、否定したのが曽野綾子氏の『ある神話の背景』であった。
 曽野氏は、隊長命令説の根拠が曖昧で疑わしいことを指摘した。集団自決があった渡嘉敷島現地での取材を通して明らかにしたことは、「赤松氏が、自決命令を出したとする証言し対し、証明できた当事者に一人も出会わなかった」ということであった。そして、こうも付け加える。
 「神と違って人間は、誰も完全な真相を知ることはできない」と。
 それが曽野綾子著の『ある神話の背景』である。

 また曽野氏の調査について、『沖縄県史』の解説文では「曽野綾子氏は、それまで流布してきた従来の説をくつがえした。『鉄の暴風』や『戦闘概要』などの記述の誤記や矛盾点などを丹念に指摘し、赤松隊長以下元隊員たちの証言をつき合わせて、自決命令はなかったこと、集団自決の実態がかなり誇大化されている点などを立証した。事実関係については今のところ曽野説をくつがえすだけの反証は出ていない」と述べている。

 つまり曽野氏の調査結果からは「赤松隊が集団自決の命令を出さなかったと言う証拠もないが、出したと言う資料もない」ということである。
 そして非常に興味深いのは、曽野氏がこの物語を書くに至った経緯である。
 この事件を「命令」で決行したとする赤松嘉次大尉を「卑怯者」とする、書物に記載されたその事実か否かである。更には、赤松大尉の「悪人説」である。

 曽野氏は事件の調査に至った経緯を次のように述べている。
 「私がこの事件を調査しようと思ったのは、実に単純な動機で恥ずかしい。私はそれほどの悪人と言うものが、もし現世にいるのなら、一目この世で見てみたい、と思ったのである。これも悪い比喩
(ひゆ)だが、昔サーカスには奇形を売り物にした見せ物小屋があった。人々は人道などということは考えも及ばず、そんな不思議な人がいるなら見てみたい、と思って木戸銭を払った。私の好奇心はその程度のものだったような気がする」(曽野綾子著『沈船検死』の「裁判員は何をするか」より)

 曽野氏の取り上げた『ある神話の背景』では、「赤松大尉が、自決命令を出したとする証言し対し、証明できた当事者に一人も出会わなかった」ということであると締め括っている。要するに、そうかも知れないし、そうでないかも知れない。神でないからはっきりしたことは分らないとしているのである。そして曽野氏は云う。
 「もし、赤松大尉のような悪人が現世にいるとしたら、ぜひ一度見てみたい」と。
 ただし、あくまで仮定である。

 だが、ガラス玉の水晶擬きを売りつけた人物ははっきりしており、確かにガラス玉を「水晶」と偽り、これを売却して、差し引き347,000円も儲けた人間がいることである。これは「もし」などの仮定ではない。現実に、「何の落度もない善良な市民」の中にいたのである。それにガラス玉を売り飛ばした儲けは、おそらく確定申告しておらず、脱税した可能性は大である。

 私の知る、ある御仁
(ごじん)に、高くても3千円程度のガラス玉を「水晶」と偽り、これを35万円で売りつける素人がいたから、私自身、曽野氏と同じような好奇心で、後学の参考のために、一目見てみたい思ったのである。

 私は末期患者の一人である。
 もう直死んで逝く私は、冥土
(みやげ)の土産として、その人物の顔をぜひ見てみたいのである。
 私は、最初この水晶と称するガラス玉を見せ付けられたとき、呆れて「よくも売ったり35万円」と思い、また「買いも買ったり35万円」と一瞬開いた口が塞がらなかった。
 世の中には、怕い人間がいるものだと思ったのである。果たして正気だろうか。あるいは価格自体が分らなかったのだろうか。更には、前持ち主は、それ以前に前の前の持ち主がいて、それを売りつけられたがために35万円とはいかなくとも30万円前後で押し売りされたのであろうか。
 それで35万円で売った……。考えられなくもない。

 35万円でガラス玉を売りつけた素人の前所有者は、決して犯罪者ではなく、か弱き善人であると思う。おそらく世に云う、また裁判所が定義し、裁判官が被害者に対して論ずる「何の落度もない善良な市民」であると思うのである。

 だが、「何の落度もない善良な市民」が、また曲者
(くせもの)なのである。
 ときには、「何の落度もない善良な市民」が、3千円程度のガラス玉を水晶と偽り、これを35万円で売りつけたからである。
 果たして売りつけた人物は正常なのか、正気なのか、またこの人物は、まともな金銭感覚をしているのか。そこまで疑いたくなるのである。宝石類の市場相場では高くとも、3千円くらいしかしないのだから、この“35万円”と言う金額は、何と“116倍強”である。まともとは思われない。いかれているとしか言いようがない。
 それだけに「何の落度もない善良な市民」のすることは恐ろしいのである。これは単なる、市場価格を知らない無知から起こったものであろうか。無知が招いたのだろうか。

 だからこそ私は、この眼で、一目この売り付けた人物が、どんな人相をしているか後学のために見てみたいと思うのである。
 一見すれば、実に善人だろう。決して兇悪な犯罪者であるまい。善人善人した、善人であろう。

 そして更に特記すべきは、このガラス玉を売りつけた人間の云うまま、二つ返事で疑いもせず購入した御仁の神経と云うか、金銭意識と言うか、同時にこの御仁のしでかした行動意識までもを疑いたくなるのである。気は確かか?……と云いたい。
 売った方も、「よくも売ったり35万円」と云いたいが、買う方も、このガラス玉を「よく、買いも買ったり35万円」と云いたいのである。果たしてこのガラス玉を、35万円の大枚を叩いて買った御仁の金銭感覚は正常だったのだろうか。

 しかし、買った御仁はよく知っているが、この御仁は人相的にも他人に揚げ足を取られ、身ぐるみ啖
(く)われるような、まさに井の中の蛙(かわず)のような人だった。ズバリ言えば、世間を知らないのである。引っ掛ける方は、簡単に乗せて引っ掛け易い。サラリーマンはサラリーマン以外に仕事を知らない。その世界しか知らない。故に無防備である。そこを狙われる。そして僅かな金を身ぐるみ剥がれる。
 易々と啖われる、カモの典型のような人だった。
 ここに運の悪さが露呈している。お人好しと言うより、無知である。仔羊以前だ。
 自己責任が問われる時代、無知も立派な犯罪となりうる。気を付けなければ……。
 根本に戻って、運勢改造をしなければなるまい。カモられないように、物事の勉強もし、人間勉強に励まねばなるない。
 これまでの人生を振り返り、大いなる反省が必要だろう。

 そうでないと、危うかろう。悪因縁は断ち切れまい。
 金銭感覚が疎いと言うか、正常でないと言うか、同時に井の中の蛙
独特の“小狡さ”を持ち、この小狡いことが、逆に、聡い者から揚げ足を取られ、あるいは足許(あしもと)と、人間性を見透かされるのではないかと感得するのである。

 これまでこの御仁は、私の刀屋で、刀剣以外にも商品を買ってくれたことがあるが、常に後払いか、半年以上も懸かる長期分割なのである。この辺も、逆に小狡さが出ていた。損な性癖である。
 商品を買うとき、必ず「おまけ」を付けないと買ってくれる気にはならず、また値引きしないと買ってくれず、タダで付けてやった物にすら、修復や修繕を求め、その懸かった費用は、最初からタダと思い込んでいるのである。常識がないと言えば常識がない。
 これには礼儀がないし、恥も痛痒に感じないのであろう。
 だから、カモにされると言える。
 「甘えの構造」の中で、特典と温存を期待しているのであろう。

 ガラス玉の水晶擬きの売買は、根本に素人同士の目利きを介さない一種の不祥事であろうが、このような行為に疾る裏には、やはり人間性に問題があるのではないかと思うのである。
 礼儀を知るには人間勉強が必要であろう。
 「何の落度もない善良な市民」が、時として、法外な価格で古美術品や刀剣類を売買しているからである。転売に転売を繰り返す、法に触れることをしていることを平気でサラリーマンも少なくない。これ自体、古物商法違反である。発覚して酷い場合は、刑事罰を喰らうことを知っているのだろうか。
 また、当然これ自体が、自分の所属する会社の社則や社員規定に違反している筈である。すると懲戒免職の対象になる筈だ。

 内緒で美術品を売買する、こうした手合いは、とりわけ頭がいいというのではあるまい。前後を考えて、思慮深く振る舞っているのでもあるまい。法に抵触している事すら、痛痒を感じないからだ。
 ただ、算術の計算には長
(た)けていて、素晴らしく金銭計算には頭の回転が速いのだろう。小金を計算する、そうした金銭を嗅ぎ取る嗅覚に長けているのだろう。ただそれだけである。
 この算術計算の速さに、買手は翻弄
(ほんろう)されたのかも知れない。翻弄されたが最後、ゴミ同然のものを掴まされるのである。金計算に聡い者が、金計算の疎(うと)い者を啖(く)うと言う構図である。

 これを分析すれば、ガラス玉の水晶擬きの、所謂
(いわゆる)トランプ・ゲームの「ババ抜き」でババを掴まされるようなものであり、このゲームの進行から考えれば、順繰りに各自の手札を抜き、抜かせ、同位の札が二枚揃うごとに捨ててゆき、最後にジョーカー(ババ)が一枚残り、それを最後まで持った者が負けとなるゲームである。

 この御仁はガラス玉の水晶擬きのババを掴まされたのが二十年前と言うから、おそらく世は、バブル景気で湧いていたのかも知れない。売る方も買う方も、大いに浮かれ上がっていたのかも知れない。そしてバブルが弾けて、我に返り、気付いてみたら水晶と思っていたものが実はガラス玉だった。そのうえ売りたいが、これに値が付かない。こういうことが事の真相であろう。

 更にである。
 この御仁は「素延べの脇差し」を大阪のある刀屋から、19万円
(このレベルは刀剣市場で3万円から4万円程度。店売りで7万円から高くて8万円。これを19万円で売りつけた刀屋も大した悪党である)も出して一括払いで買っているのである。そのうえ、後にその刀屋にハバキの部分ががたつくからと言って持って行ったらハバキ直しに、修理代(推測だが、この刀屋は自分のところでこうした職人仕事ができないから下請けに頼んだと思われる)まで取られているのである。これではさまに泥棒と言うか、強盗に「追い銭」であった。カモがネギを背負って、わざわざカモの肉だけではなくネギまで、自分の肉ごとくれてやっているのである。
 何故だろう。

 「他人からカモられる運命」にあるようだ。
 危うしと思う。
 そして水晶と素延べの脇差しの購入価格を併せれば、54万円である。
 この金額を小学校低学年の算数計算すれば、二品を合わせて54万円であり、二品の市場価格の合計は水晶擬きが3千円、素延べ脇差しが4万円であり、4万3千円が古物相場の市場価格である。
 更に損益倍率は12.5倍強で、損は、この時点で49万7千円も損失を出しており、約50万円相当の金をドブに棄てたことになる。

 こうしたことの出来るのは、事業主などのビジネスマン以外の人間には、絶対に出来ないことであり、事実この御仁はサラリーマンである。
 つまりサラリーマンとは、それだけ『貸借対照表』も『損益計算書』も読むことの出来ない勤労所得者で、勤労所得以外に収入はなく、したがって読めなくても良しと言う生活をしているのである。私としては、驚愕する事実である。異常と言う他ない。金銭感覚ゼロである。

 54万円も出せば、私の刀屋では、財団法人日本美術刀剣保存協会の「マル特」か、「保存刀剣」くらいの認定が付いた白鞘の長物
(2尺3寸前後)で、ちょっとした刀剣を手に入れることが出来たであろうに……。
 何故だろう。
 私は、こういう「カモられる人」を刀屋人生を通じて度々見て来た。よく騙されて、カモられる人である。そもそも運がない人でもある。これに自覚症状がないから質
(たち)が悪いのである。

 根本を突き詰めれば、礼儀の欠如にあると思う。
 これを克服するには、礼儀を正すことであり、礼をもって人に接することであろう。これが欠ければ生涯、人にカモられ、自分の大事な人生を食い潰されるであろう。
 それには目利きの人の意見を充分に聴くことである。その人について勉強することである。
 道に準じて、道を学ぶべきであろう。素人の世界しか知らない井の中の蛙では、近い将来に大不幸が待ち構えているといえよう。

 人を啖
(く)う方もしたたかだが、また啖われる方もそれなりの「礼儀知らずの欠点があり、その欠点が見透かされて墓穴を掘って行く様子が分かるのである。
 その意味で、刀屋は人間勉強の見本市である。

 これと似たことは、素人売買でよく起こっている現象であり、特に素人同士で刀剣を売買する場合、売りでも買手も、刀剣に対するマナーや知識が欠けているため、無茶苦茶な物を掴まされることが多いようだ。
 「素延べ刀」は勿論のこと、単なる登録証の付いた鉄棒を刀剣として購入し、それも選
(よ)りによって「四悪刀」を掴まされて、ババ掴まされ以上に運気を落す人がいる。

 最悪の「曲がり刀」を、素人から29万円も出して掴まされた者を知っている。掴ました方も掴ました方だが、掴まされた方も掴まされた方である。こういう素人売買をするのも、またサラリーマンである。事業主などのビジネスマン以外の人には絶対に見られない光景である。
 そして掴まされた方は大変だ。

 この曲がり刀の形容をするのなら、ベビのように、あるいは飴の棒のように、である。
 そして不可解なのは、この曲がり刀に、どうして29万円と言う価格がついたのだろうか?……、と思うのである。
 これは「素人の怕さ」である。
 こういう曲がり刀は運が無いこと、請け合いである。四悪刀で、運が低下して行くのは避けられない。こうなる前に、「打つ手」は幾らでもあったと思うが、何故しなかったのだろう。
 刀に、霊剣が存在することを知らないのだろうか……。

 蛇のように曲がりくねった「曲がり刀」は、現状態復元や修繕が不可能に近いから、殆ど値が付かない。タダ同然となり、これを棄てるにしても、銃刀法の関係があるから、個人では無断で処分することが出来ない。銃刀法の処分法に従い、官憲の許可を必要とし、廃棄のための公的手数料が懸かる。

 かつて40万円もした刀でも、某かの媒体を切り刻み、曲げに曲げていれば、その価格は元の価格とは程遠い数万円であり、長さも狂って来るから、登録証に書かれた「長さ」や「反り」が微妙に違い、酷い場合は、5ミリ以上も異なることがある。
 そのうえ無銘の場合、登録証と刀剣自体が一致せず、登録証を発行している都道府県の教育委員会文化財保護課で、再登録を受け直さねばならない自体が発生する。

 つまり、これを千葉の人が、この手の刀を所持したとして、登録証の発行する県が、鹿児島県だったとするならば、千葉から鹿児島県庁まで、毎月第三木曜日に曲がった刀剣を持って再審査に出向かねばならないのである。登録証に疑いがあれば、教育委員会から直ちに警察に通報される。警察は、前所有者を芋づる式に挙げて行く。
 この場合、「徹底的に」という言葉の形容がぴったりくる。これには容赦がない。下手をすれば書類送検だけでなく、実刑を喰らうこともある。素人売買の経緯も調べられる。

 毎月第三木曜日には、もしサラリーマンなら、仕事を休んでの一日仕事となる。そうした仕事をした上で、これに再登録が付くか否か、不明であり、万一の場合は、美術品と看做されず「その場で没収」ということにもなりかねないのである。

 また登録証が怪しまれた場合、警察から出頭命令が来る場合もある。そして購入に至って経緯を説明しなければならない。最初は任意出頭だが、疑いが持たれれば、数回に渡って出頭しなければならないこともある。
 決して一筋縄では行かないのである。
 刀剣を所持するとは、このように社会的責任が重いのである。素人愛好家には、この重さの重要性が分らない人が多い。素人の場合、刀剣は美術品としての投機の対象にくらいにしか思っていない、浅はかな人も多いからである。



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