運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
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続・刀屋物語 8

何を以て生きるのかよりも、「依(よ)って以て死ぬ道」を求めた方が、人生はより充実して来る。安定ばかりを目指して、安定にこだわると真の自由を失って、却(かえ)って不安定になる。
 また経済的自由を追い掛けて、金銭や物や色を追い掛ければ、却って経済的不自由を強いられる。

 依って以て死ぬ道……とは、職人の世界にあるのかも知れない。
 現代人にのしかかる住宅ローンや車のローンやクレジットカードのローン漬けの中に、真の意味での自由や生き甲斐などない。借金漬けという柵の中に閉じ込められてしまったのが、現代という世の中を生きるアーバン・ライフを楽しむ人種かも知れない。
 しかし、その脱却を目指す人もいる。豊かさを、物でなく、精神的豊かさで満たそうとする人もいる。

 尚道館刀剣部では、ゼロから学ぶ、全く初心者の「拵師」職人を募集しているのである。手に職を付け、その道のために生涯働き続け、その道のために死ぬ……そういう道を教えているのである。古美術の世界の「美」を教えているのである。
 人が、この覚悟で「依って以て死ぬ道」を模索した場合、そこには不自由に縛られない、永遠の職人の世界があるのである。心安らぐ工芸品の世界が広がるのである。



●刀拵職人

 職人は「一生懸命」という言葉を能(よ)く理解している。
 それは日本人の日本精神が一生懸命であったからだ。一ヵ所で職に磨きを掛け、自分得意の技巧を芸術の境地にまで高めて行った。それは職人の為
(な)せる技であった。だから一生懸命である。それは同時に「一所懸命」なのである。
 一ヵ所に留まり、腰を据え懸命に自分の技を磨く。浮動はしない。それが職人である。

 決して人の物を真似する、一所不在ではなかった。生涯を物真似で通さない。いずれ独自のものを切り拓く。
 真似るの「学ぶ」からはじまり、習・破・離の流れを辿ってやがて独り立ちする。それまで賢明に学び、一ヵ所に腰を落ち着けるのである。不動の気持ちでそこに根を張り、常に懸命だったのである。その懸命なる気質が、また人に好かれた。懸命なる気性こそ、また職人気質だったのである。かつて日本にはそう言う徒弟制度があった。しかしそれも殆ど廃れつつある。

 かつて親は、わが子に、手に職を付けれと云った。云うだけでなく、義務教育を終えたら、上級学校に行かせるよりも職人や商家の丁稚奉公に遣らせた。実学を学ばせたのである。そういう時代があった。
 親が子に、手に職を付けさせた時代があった。丁稚奉公と言う時代があった。しかし、その時代は日本から消えて久しい。

 だが今は、そんな親は居ない。
 学校でいい成績をとっていい大学に入り、安定した職に就かせようとする。いい大学から、いい会社へ。そして安定した職。それがアーバン・ライフの定石になってしまった。
 今は手に職を付けれとも云わないし、社会勉強の実学として、わが子を丁稚奉公に出す親もいない。世間を勉強させる親も居ない。そうした受け入れ先も極めて減少してしまった。

 例えば、昨今は寺小僧でも、最低高卒で寺男の真似が出来、普通入山者は大学の仏教科を出ていないと寺の小僧にもなれない。「門前の小僧習わぬ経を読む」では駄目な時代である。経を読んで神童と言われた子供でも、そうした才能は買ってくれない時代になった。総ては利権が物を言う時代である。縄張りがあって、寺の子弟に生まれたものが、寺の後を継いで住職になって行く。既に今は、最初から寺に生まれた子が、寺を継いで行くようになっているのである。馬鹿でも、ちょんでも跡継ぎになれるのである。僧籍無縁の横からの割り込みや参入は許さないのである。伝承系は血縁の利権構造が定着してしまっている。

 この図式は一種の同族会社と仕組みは同じで、そこには自分の縄張りの継承だけが行われているのである。世襲制になってしまっていて、実力とは無縁の世界である。世襲権利のシステムだけが働いている。

 かくして働く子供や職人の見習いをする子供は、日本では殆ど見られない。殆どではない。皆無である。
 辛うじて、芸道や武芸の世界の家元や宗家などの特殊な家の子弟に見られるだけである。
 今では働く子供は、とんと見ない。新聞配達すら居ない。小中学生の新聞配達の子供は日本中から完全に消えてしまった。
 また低就学年齢の時期の少年少女時代から、手に職を付けるなど、そんな子供は皆無である。

 第一、義務教育を終えて直ぐに……など、労働基準法に違反する。児童労働を昨今の日本では禁じているのである。15歳に達して、
以後最初の3月31日が終了するまでの児童を労働に使用することは労働基準法によって禁止されているのである。
 したがって、昨今の子供は労働することを知らない。働くことを知らない。親の保護下に入り、「甘えの構造」の中で少年期を送る。
 労働が理解出来ないから、金銭の有難さも分からない。幾つになっても金は親がくれるものと思っている。自分で稼ぎ、それで自身を賄
(まかな)うという、そもそもの金銭の勉強が出来なくなっているである。金の稼ぎ方が分からず、定職を持たず、金銭哲学を持ってない者が、成人してからも親に無心するのはそうした、子供の労働を禁止した社会背景が影響しているものと思われる。

 自分のことは自分でする。親が自立を教えた時代があった。
 自分の口は自分で賄い、糊口を凌ぐ。至極当り前のことが、現代人は分からなくなってしまった人間もいる。30歳を過ぎ、40歳になっても自力で生きることは出来ず、年金暮らしの僅かな年金に集
(たか)って、年老いた親を喰(く)い物にする生活無能者もいる。これは貧しいのではなく、怠け者だからである。怠慢が困苦を強いる場合もあるのである。そして、そもそもの元兇は、少年少女時代から労働をすると言うことを学ばなかったことによる。同時に金銭の勉強を放置して来たことにもよる。

 物が溢れている時代、「衣食足りて礼節を知る」と言う時代ではない。そもそも「足る」を知らない時代である。物欲に奔る時代である。
 その元兇は経済の側面に、物造りの実体経済より、投機を主体とする金融経済の方が優先している実情があるからだ。物造りより、先物の投機を占うことが高級に思われるようになってしまったのである。これが金余り現象を作った。物が溢れる現象を作った。
 そのうえ足るを知らないから、衣食足りも礼儀知らずが多い。
 完結の満足感。足るを知る心。それで良しとする満ち足りた気持ち。そういう感性が現代人には欠けるようだ。現代はそういう精神構造が欠落した時代である。

 更には、手に職を持たないサラリーマンだらけの世の中が、近代に入って急変したため、「職人気質」といわれる人もめっきり減ってしまった。
 かつては職人の仕事を指して、職人気質などと言われた。これは職人社会特有の気質である。そして多くの職人は、自分の技術に自信を持ち、誇りを持ち、頑固だが実直であるというような一徹の性格・性質の人を云った。こういう性質の人からは、職人芸なるものが生まれた。遊び心から「あッ!と驚くもの」が出現した。
 優れた職人が会得した技術などを「職人芸」と言う。一種の芸術である。
 職人芸は一般人には中々真似出来ない。奇想天外であり、また遊び心が至る所に凝らされていて、出来映えが見事であるからだ。技術だけを笠に着ない、余裕の逸品でもある。

 私はかつてテレビで「柄巻きをする老婆を見た」ことがある。昭和40年代の半ば頃であったろうか。
 私が大学時代、学生の分際で既に刀剣商売をしているときだった。そういう時だったと記憶している。
 その老婆がまた見事な柄巻きをするのである。その中でも、老婆の特異は、鹿革の裏を返して柄巻きをする見事な職人芸をもっていた。柄の中央部の「鼓を絞る」ような巻き方であった。

 私かこの老婆の見事な手捌きと力加減からな実践している者なら、手の裡
(うち)の握り心地と、「鼓を絞る柄部中央」の曲線を描いたなだらかな、何ともいえないスロープの見事さに震えもした。また、手の裡に握った感じが容易に想像出来るものであった。当時そう言う手の裡に伝わるような柄巻きをする柄巻師がいた。そういう柄巻師に、近年はとんとお目に掛からない。
 「鼓」とは、手の裡一切をいう。
 この場合の「鼓」とは、『ぼくにょう』あるいは『ぼくづくり』をいう。

 また「攴」は、「卜ぼく」則
(すなわ)ち「木のむち」+「又」として、それを「手」と解釈する。つまち手に棒あるいは柄部を持って叩く場合を再現するもので、その振り被る様子を示す状態をいう。これにより「茶巾絞りがピッタと、しっくりとくる。
 更に「攵」は、その変形をいい、「改」と「教」のように漢字の旁
(つくり)として、人の動作を表す記号に用いられる。つまり、その動作は上段に振り被り、一気に下段に振り下ろす場合、手の裡に感じる「掌(たなごころ)」の感覚である。それが掌に伝わるのである。その感覚は、まさに鹿の皮を撫でているが如し。更には、それを裡側から撫でているが如し……である。

「鼓」を絞った柄と鹿革の柄巻き。

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 それを即在に確(しか)とイメージしたのである。それが私の脳裡に貼り付いた。あまりにも鮮烈の映ったからだ。それは男女の性別を超えた、技倆(ぎりょう)という世界での神業的芸術だった。神業的芸術には、男も女も、また年齢すら存在しないのである。巧みの技が物を言う世界である。

 では、神業とは何か。
 これは人間離れした人間レベルのものでなく、最も「神に近い」とされる器量を言うのであろう。
 人間には時として、そのような神技を見せる優れた能力の持ち主がいる。そこに人は、また魅せられ、その次元に近付こうと努力するものである。
 爾来
(じらい)それを追い求め研究し続けている。見事な巻き方をどうしたら出来るか……、と。
 そして私の拵師としての柄巻き修行が始まったのである。



●闇に隠れた真贋

 世の中には「勘」の超感覚に頼る世界が存在する。それを「眼の見識」で見定める一瞬の世界がある。つまり「眼の勝負」の世界である。一瞬で検(み)て、一瞬で感じる世界のことである。一瞬であるだけに、鋭い観察眼がいる。

 一瞬の世界、刹那
(せつな)の世界。それが本物に出遭う最初である。
 現代人が長らく忘れていた世界でもあり、そこに真剣勝負の鋭さがある。
 瞬時の世界を「刹那」ともいう。
 超感覚の世界であり、その「超」なる感覚において、その刹那に正否を見分ける。鋭敏な世界のことであり、その判断によって明暗を決する。そのためには、どうしてもその感覚は超感覚でなければならない。あるいは超感性であろう。

 この世界は武芸者が、真剣を抜いて勝負をする世界にも似ている。
 真剣勝負であるから、隙
(すき)があれば、瞬時に突かれ、わが命は絶滅する。その緊張感と、隙を窺(うかが)わせない攻防戦は、まさに真剣勝負の世界に回帰する。
 眼の勝負において「眼」がなければ、その勝負は敗れる。

 したがって、下準備として日々常々勉強をしておかなければならない。一瞬で決断が下せるようになるには、普段から物事を能
(よ)く検(み)ることで、この「検る」において、鍛錬されていなければならないのである。これが「眼力」である。洞察力でもある。
 真贋の決定は、眼力による。奥を検る必要がある。
 だが、この眼力は、単に肉の眼を言うのではない。肉の眼で見たその奥に、闇に潜む「何か」を捉えねばならない。肉の眼で表面だけを検ても何もならない。その奥の奥であり、裏の裏である。そして隠されている魂胆までもを見抜く視覚が要るのである。

 現代人は古代人に比べて、視覚が狭くなり、暗くなっていると言う。闇の中に潜むものが見えなくなってしまっていると言う。その奥で蠢
(うごめ)くものを感知出来なくなっていると言う。
 眼に頼った災いである。
 眼に頼れば、それ以外のものは見えなくなる。眼に見える表だけしか見えなくなる。
 同時に勘も働かなくなり、近未来の予知や予測すら出来なくなる。ただ今起こっている、今の時点と過去を結びつけるだけのことしか出来なくなる。あるいは過去は、疾う
(とう)の昔に忘れ去っているかも知れない。そして今を、肉の眼でもって検(み)る。現実を科学的という思考で検る。それだけのことである。だが、これでは全体像は見えまい。専門化していては全体像は見えまい。

 日本刀と言う「刀剣を検る」こともそうであるが、それは刀剣に留まらず、古美術の世界を総合的に理解するには、古美術前半を見る眼を持たなければ要は為
(な)さない。一種目にこだわらず、全種目を検ることである。古美術界全般を見る能力があって、はじめて「目利き」になるのである。

 特に昨今は、古美術と言えば、書画骨董に世界にも出及ぶ教養を身に付けておかないと、一種目だけでは、攻められて敵の思う壷に堕
(お)ちる。一寸柵の闇の中を見るには、多岐に及ぶ必要がある。全体を把握する必要がある。これこそ大局観だ。
 細分化し、専門化して一点に固執してはならない。一点にこだわってはならない。それでは近視眼的になる。全域を検る眼が要
(い)ろう。
 そしてその眼は、可視世界だけに留まらず、不可視世界まで検る視覚が要るのである。闇の中を凝視して、これから先、何が起こり、何が隠されているか、そうした近未来予測まで必要である。見通すことが大事である。これが欠落していては、不幸を招くからである。

 これが古代だったら「寝首を掻
(か)かれている」という構図である。自分以外の他人は、多くは虎視眈々(こし‐たんたん)としているからである。隙を窺っているからである。これが反対勢力だと、激化を極める。尋常な勝負では埒(らち)があかない。水面下に隠れているだけに、深層部を見通す超感覚がいる。これが疎いと、やがては葬り去られる。
 予測出来ないことが前途を閉ざすからである。

 眼力が無く、未来予知が無く、その程度の器量では必ず寝首を掻かれるのである。負け方として、このような無態
(ぶざま)な負け方は無い。恥じ多き負け方である。そのうえ不名誉の汚名が被せられる。
 不可視世界まで検る。一寸先の、何が起こるか分からない近未来現象までを検る。そしてその先に何が隠され、何が待っているか予測する。もし、この予測が出来なければ、未来は暗雲の中の閉じ込められ、そこから坂道を転がるような顛落
(てんらく)が待っているであろう。

 私たちは、人間の顛落について様々な事象を見て来た筈である。
 過去の人生の中で、自分のことのみならず、他人の不幸やその他の不幸現象を多く見聞きて来た筈である。騙され、錯覚を起こし、判断を誤り、その一瞬のメガネ違いが墓穴を掘る……という現象を、である。
 そして顛落は、何も山道を歩いていたときだけに起こる滑落事故ではないのである。
 人生の中にも、至る所に顛落の落し穴が存在するのである。そしてそこには、現象としての作用と反作用が働いている。そのことが歴史書には随分と書かれているのである。希望的観測で、安易に敵は攻め込まないだろう……などと思い込んでしまうと、それは則ち、危ういことだ。
 真贋も、そうした闇の中の次元のものが多いのである。水面下の動きに気を付け、それを察する能力が居るのである。



●水面下の動きと闇の動き

 私は、かつて自民党の中川昭一元財務・金融相(56歳)が……」という『読売新聞』の記事を見たことがある。平成21年10月のことである。
 それによると、「東京都世田谷区下馬の自宅二階のベッドで俯せになったまま死亡
(平成21年10月3日)」とあり、警視庁発表では「目立った外傷はなく、事件の可能性はないとみられる」とあり、更に続いて「中川氏は2月にローマでも朦朧(もうろう)となった状態で記者会見して批判を受け、財務相を辞任」と続いていた。
 これはまた、父親の中川一郎
(元衆議院議員。自由民主党の派閥・中川派の領袖)の自殺とも他殺とも分からない死に方を彷彿とさせた。

 自殺説を採
(と)る意見では、「明日、決行します。多分関係部局が報道官制しない限り、マスコミに大きく取り上げることでしょう。有難う。さようなら。皆さん最後までご迷惑かけました。合掌 」と、中川昭一は最後の遺言を「2ちゃんねる」に書き込んでいた。
 それに併
(あわ)せて憶測が飛んだ。

 世間では「中川昭一元財務・金融担当相死亡だって!?」と憶測が起こり、中には「某国の陰謀としか思えないんだけど……」という意見もあり、キナ臭い感じを漂わせながらも、真相は未だに分からず仕舞いである。そして「では、なぜ朦朧としたのか?」という意見もあって、「泥酔したんじゃないのか?」という奇妙な『自業自得説』まで登場している。更に突き詰めれば、未だに「死因不明」である。

 死因不明……。
 これを想う時、私は直ぐに故・松岡利勝元農林水産大臣のことを嫌でも連想するのである。第一次安倍内閣当時の農林水産大臣在任中に自殺したのである。これは到底自殺とは思えないからである。松岡のそれ以前を振り返れば、選挙地盤とする熊本県で安倍の党員得票率は75%を記録したという。人気絶頂である。
 ところが、松岡の事務所費問題、光熱水費問題、献金問題等数々の疑惑が浮上した。一方マスコミは、これを連日のように叩いた。安倍晋三は自身の内閣の威信を貫くため松岡を庇い続けた。しかしマスコミの攻撃は厳しく、連日のように松岡の不祥事を報道した。そして平成19年5月28日、衆議院議員宿舎
(新赤坂宿舎)で首を吊っている所を警護官らに発見された。直ぐに救急車で病院に運ばれたが、既に心肺停止状態だったという。背後には、「対中コメ輸出」が絡んでいたのか?……。

 政治家や政府高官が死ぬ場合、まず不手際が発見される。あるいは不祥事が捏造される。それをマスコミが叩く。あるいはマスコミにそれらしく、尤もらしい資料をジャーナリストに提供して、悪鬼の如く叩かせる。これは田中角栄のロッキード事件を彷彿とさせる内容とシナリオである。筋書きは事件以前から用意されているのである。

 この点が、何故か中川昭一の自殺と符合するのである。まず、最初にマスコミ叩きに合う共通点である。
 そして更に遡
(さかのぼ)れば、佐分利貞男の不可解な死である。これも奇妙な死に方だった。何とも不可解だった。
 世の中には、不思議な人間の死に方があるものである。原因不明かつ死因不明なる死に方があるものである。

 佐分利貞男の生まれと経緯を追うと、佐分利の家は江戸時代から代々続いた佐分利流槍術
(さぶりりゅう‐そうじゅつ)師範の家柄であり、槍術の一派としては名高かった。この槍術は、江戸初期に佐分利重隆が、富田流に学んでの創始したものといわれている。
 佐分利貞男はその家に生まれた秀才だった。東大法学部を経て外交官となり、幣原外相時代は通商局長を始めとして、中国関税会議帝国代表随員、条約局長、ジュネーブ海軍軍縮会議随員などを歴任し、幣原喜重郎
(しではら‐きじゅうろう)内閣の外交を具体化して行く秘蔵の持ち駒であった。この持ち駒を幣原は駐支公使に据えたのである。

 一方で佐分利貞男と言えば、張作霖爆殺事件の「満洲某重大事件」
【註】張作霖(ちよう‐さくりん)爆殺事件(1928年六月)を当時の日本政府が秘匿しようとして称した語)と匹敵するような、謎の「怪死事件」があった。事件性はあるが、そうでないような秘匿であり、裏には必ず策謀の本旨がある。一種の攪乱策であり、また人心収攬策である。人心を惹き付けておいて、茶化し、その後、煙に捲く策である。このためにマスコミは利用される。

 また、佐分利は南京にも満洲にも出掛けている。南京に出掛けた際、国民党政府主席の蒋介石や外交部長の王正廷
(おう‐せいてい)とじっくりと話し合う間柄だった。
 佐分利が王正廷と知り合う切っ掛けになったのは、中国に派遣された時からで、その話の内容は田中義一内閣の外交を全面的に否定することを約束したのではないかと言われている。

 この約束にも謎があり、後に「満洲某重大事件」と同じような、謎の事件が佐分利貞男の身の上にも起こるからである。
 その上に佐分利は満洲にも出掛けている。
 吉田茂の後任として奉天総領事の林久治郎
(はやし‐きゅうじろう)をはじめとして、関東軍の首脳とも会談しているのである。そして満洲の情勢は佐分利にとって少しも利点がないのであった。ところが何故か、満洲に出向いている。

 当時の満洲は南満洲鉄道の他に、日本の権益を利用して一儲けを企む商社で犇
(ひし)めいていた。
 商社群の多くは虎視眈々
(こし‐たんたん)として、彼(か)の地の続々と出先機関を作り始めたのである。砂上の楼閣とも知らずに……。
 また、それ以外にも“大陸浪人”という輩
(やから)まで押し掛ける有様だった。利権に吸い付く小判鮫的な経済ゴロである。そしてこの輩が、満鉄とか商社とか関東軍に取り憑き、寄生し始めたのであった。
 更には、中国人の上層階級にも取り憑き、寄生した。大陸浪人の特徴は、大亜細亜主義とか、五族共栄とか、国事を名目に、金持ち中国人に金銭を無心することだった。

 その寄生虫の一匹に、久原房之助
(くはら‐ふさのすけ)が挙げられる。
 表向きは政治家であり、政商的な実業家である。体裁の良い寄生虫だった。
 長州萩生れで、慶応義塾を出て、久原鉱業を創立し、また日立製作所の基礎を築いた。政友会に入り、逓信大臣を勤めている。久原はこうして政商の正体を現して行く。
 しかし、二・二六事件に連座し、のち政友会総裁となっている。日本の満洲権益で巨大に肥
(ふと)った実業家だった。日立製作所の基礎を築いたのは、関東軍を利用して軍需産業を起こそうとしたことによる。その意味で、関東軍は絶好の獲物だった。
 間抜けな日本軍首脳は、こうした寄生虫に啖
(く)われながらも、獅子身中の虫が、自らの腑(はらわた)を喰らっていることに自覚症状を感じなかった。
 満洲は国策においての日本の生命線ではなく、満洲利権に食らいついた、小判鮫たちの啖
(く)い甲斐がある美味しい獲物だったのである。

 この状況を佐分利は満洲の地で、確
(しか)と見たのであった。あるいは背後の国際ユダヤ資本の、また日本に寄生するユッタ衆の実体を見たのかも知れない。そして、その足で佐分利は帰国した。昭和4年11月20日のことだった。
 また、同月の二日後の22日、佐分利を囲んで外務省で会議が開かれた。このとき刺客が放たれたのか……。

 此処に集まったのは次官の吉田茂、亜細亜局長の有田八郎、支那課長の谷正之らであり、佐分利は蒋介石、王正廷、宋子文らとの話し合いに基づいた中国との不平等条約を改訂するために通商交渉から入るように提案したのである。
 この会議においては異義無しで話が纏
(まと)まり、後は幣原外相の決裁を受けるだけになっていた。

 ところが、である。
 同月の28日、佐分利は箱根富士屋ホテルの新館二階の97号室で死体となって発見されたのである。この事件は謎の怪死事件などと言われた。
 発見された当時の佐分利は、ホテルの浴衣を着ていた。ベットに仰臥
(きょうが)し、蒲団を頭まで被っていた。右手にはピストルが握られ、ピストルで顳(こめ)かみが撃ち抜かれていた。

 佐分利の死は、『自殺説』や『他殺説』があり、今日でも謎のままで「怪死事件」として扱われたままになっている。他殺説とするには、作為の節があったからだ。
 自殺説の論評としては軍部及び右翼団体の動きを見て、現状では日中国交調整の不可能を悟って、責任を取って自殺したという仮説である。

 また他殺説としては、蒋介石の国民党政府と協調を計ろうとして、これに反対する勢力から消されたのではないか?……とする仮説である。
 あるいは別の他殺説として、佐分利の妻は小村寿太郎の娘の文子であり、文子を大正15年に北京で亡くし、それ以来の女性関係の縺れで特異な関係から、何者かが他殺に及んだのではないかという説などがある。そう見せ掛ける作為があったのかも知れない。
 何れにしても、幣原の片腕がもぎ取られたことには間違いなかった。
 幣原は佐分利が自殺などする人間ではないと検ていた節があったという。
 佐分利の死は昭和初期の、張作霖爆死事件に匹敵する「謎の怪死事件」として、その当時の象徴的な事件となっている。それにしても、佐分利貞男の死は謎だらけだった。

 中川昭一元財務・金融相、都内の自宅で死亡…… 。
 何故だろう。果たしてそうか……という、引っ掛かるものを感じるからである。
 これに関して、警視庁は死因を「循環器系の異常の可能性」と検
(み)た。その一方で、遺族は「急性心筋梗塞(こうそく)」と説明しているという。両者の見解は食い違う。奇妙なことだ。

 奇妙であるだけに、「自民党が、中川の口を塞いだ」という説まで飛び出した。
 次に精神病領域の『鬱病説』まで起こり、遂に父親の中川一郎同様、『自殺説』まで飛び出した。親子二代に亘り、自殺?……そういうことはあり得るのだろうか。しかし「自殺?」で、幕が曳
(ひ)いたと言う。
 考えれば、朦朧記者会見でマスコミの吊るし上げが無ければ、中川昭一は有望だったのである。その吊るし上げで、有望株の中川昭一は死んだ。そもそも自民党若手のホープといわれた人物である。それが安易に自殺?する。何とも奇妙である。また父親の中川一郎の死も実に奇妙である。親子共々「怪死」と言えよう。

 父・中川一郎は、「北海のヒグマ」と呼ばれ、タカ派議員として知られていた。かつては大野伴睦
(おおの‐ばんぼく)北海道開発庁長官の秘書官を務めた人物である。中川一郎は大野の勧めで旧北海道5区から出馬した。
 この当時の当選同期には、小渕恵三・橋本龍太郎・田中六助・伊東正義・藤尾正行・鯨岡兵輔・西岡武夫・奥野誠亮・三原朝雄などがいた。

 私が印象的に覚えているのは、三原朝雄である。
 私の脳裡には、かつての記憶が交叉するからである。交叉して、連想事項が次から次へと起こるのである。あたかも連鎖するように……。

 この当時の初当選の代議士に、以降、少なからず関わるからである。
 私は一時期、それに関わる青年時代を送ったからである。
 それは選挙運動を通じてで、あった。昭和38年と言えば、私が中学から高校受験に関わった頃で、高校には昭和39年入学で、また卒業時、昭和41年というのは大学に入学した頃の十八歳であり、豊山八幡神社で『大東修気館』道場を構えた頃であり、また私が日本刀に興味を抱いた頃でもあった。それが何故か日本刀と絡んでいたから不思議である。

 更に思い返せば、当時から自民党関連者と多く付き合い、学生の分際でありながら地方の政治家や有志とも付き合いが豊富であった。その一人が衆議院議員の三原朝雄氏であった。
 爾来、私の学生時代は政治家との付き合いが多く、またいつしか、その中に染まって行く運命を予感して時期でもあった。
 それに併せて、日本刀にも深く交わって行った。眼力という観点からである。これを想うと、私の人生の共通点は眼力が数直線上に並んでいるような、錯覚すら覚えるのである。

 だが私の交わりは、これで終わらず、自民党保守派とも交際があり、保守派の活動通じて親交有った作曲家の黛敏郎氏とも、たった一回限りだったが面識があった。
 以前、高校一年のとき
(昭和38年夏)、富士山の山麓で行われたボーイスカウトの「日本ジャンボリー」で中曽根康弘氏に、この時期に富士の夏山について僅かな時間だったか会話したことがあるのである。一期一会のことだったと記憶している。

 想えば、中曽根氏は当時、総理府の原子力委員会委員長就任して後の運輸大臣になるかならないかの頃だったと記憶する。
 当時の記憶は私自身が小僧であったので、中曽根氏の役職が何であったか記憶が定かでないが、南極に行かれたときの話は覚えている。氏は南極のことを語ってくれたのである。またこの当時の大会に氏がボーイスカウトの制服で招かれたのは、日本ボーイスカウト連盟に何らかの関係があったのであろう。あるいは名誉職だったかも知れない。
 富士に行った最初のこの当時、私の階級は「一級スカウト」
【註】後に、正規に試験を受けて「菊スカウト」となり、「隼スカウト」を通り越して、その二年後には日本でも数名と言われる「富士スカウト」になっていた。但し、正規の昇進試験を受けた訳ではない。階級詐称である。なぜ「富士スカウト」になったか、詳細は『吾が修行時代を振り帰る』に詳しいので参照のこと)だった。それだけに、あれから五十年以上も経った今でも、能(よ)く覚えているのである。

 私は単なる青二才だった。人生の右も左も分からぬ、底辺のガキだった。
 そして、私がいた世界は必然的に政治の中に巻き込まれて行ったように記憶する。好むと好まざるとに関わらず、である。大学時代も政治に関わり、かつその時代、『刀屋』までやっていた。単に古物免許を取得したという程度でなく、現に飛び回り、刀を有志の売り捌くことを覚えていたのである。根っからの商売人ではないが、商いをしていたと言う自覚はあるのである。

 学生時代は、大学受験生と刀販売をセットに家庭教師の余念がなかった。私のとって家庭教師と刀屋がセットだった。
 当時は及びも付かない独自の発想であった。
 当時同期の大学生が時給500円前後の家庭教師代金を貰っている頃、私は時給1万5千円だった。篦棒
(べらぼう)と言えば篦棒である。

 しかし、受け持った高校生を大学に合格させるという条件が最終結論であるため、私は自分の受け持った生徒を志望大学に合格させる自身は大方100%持っていた。自信過剰といってもよい。
 私が選んだ子弟のみを、自分の眼で確かめ、眼にかなった子弟の家のみを家庭教師として巡回しどうして廻ったのである。その領域は北九州に及ばす、福岡市や佐賀市まで広域に展開し、「確実に大学に合格させる」ということを売り文句に奔走していたのである。多くは、開業医の子弟を相手に、である。そうした「上」に結びつく商売をしていた。

 私如き、底辺の生まれの者は、最初から潤沢な資金が用意されていない。金銭的境遇は皆無だった。救われたのは、まだ借金が一円も無い、いい意味での一文無しだった。こうした状況から身を起こすためには、庶民相手に薄利多売する資本力も無い。下を攻めて食い物にする資金力は無い。したがって、上から薄利多売の逆を遣らなければならなくなる。それが私の場合、家庭教師と刀屋であった。

 但し、私の方にも「合格の暁
(あかつき)には……」という条件があった。
 合格の暁には、私の奨める重要刀剣以上の刀を一振り買ってもらうという、私なりの希望を掲げての奔走だった。貧者の「ひとひねり」である。
 こうして奔走したピークは、大学の二年生か三年生の頃だったと思う。したがって私が受け持つ生徒も、私とは僅か2歳違いだった。大学二年生と言えば、私が20歳であり、生徒は現役受験性であるから18歳前後である。その2歳違いで私が先生を遣り、受験生が生徒を遣ったのである。これも、いま考えれば不思議な関係であった。

 だが、私は遠慮会釈が無かった。
 この世界は、結果重視の世界だった。合格させれば、一切の問題は起こらない。途中の過程は一切問題にされないのである。それは「確実の合格させる」という、ただ一点だけに焦点を当てていたからである。この焦点だけが合っていれば、青二才でも熟練の教師でも関係ないことになる。符号は、結果重視だった。ある意味で、これは青二才にも通用することだと踏んだのである。こうしたことが、翌年には買われ、それを伝手に紹介者が殖えた。
 また、紹介者の繋がりで、些か古美術品に対しても勉強もさせてもらった。一つの弾みは次々に連鎖した。

 こうしたことを学んだのも、古美術品の世界は、「世界の金持ちに通じる」という話をある人から聴かされたからである。もし、この話を聴かなければ、私の日本刀に対する情熱は、この時点で消滅していたであろう。
 したがって「上」と結びつき、商いをするには「商魂」だけではどうにもならない。商魂は「下」を搦め捕るときの薄利多売には効果を発揮するが、「上」を相手に商いするには無用の長物となる。問題なのは、雰囲気造りと暗示である。人間は、暗示に掛かり易い生き物であるからである。

 その「暗示」こそ、人間の総ての行動原理となり、そこには上も下も無いが、特に一人の人間の暗示に掛かり易いのは「上」の人間であり、「刺すような一言」は非常に効果が大きなものである。
 一方「下」の暗示はマスコミなのの誘導によって暗示に掛けられ、そこに酔う庶民層は多い。マスコミの操作や誘導は、多くは「暗示」によるものだが、この暗示は「下」から出されたものでなく、「上」から発信されたものである。つまり世間の噂や、それに準ずる囁きは、多くは上から下への暗示なのである。スキャンダルも、そうして捏造される。
 しかし「上」はそうしたスキャンダルの発信源であるから、これには信じもしない。むしろ庶民を踊らせることを愉快と思うようだ。

 ところが上には「上」がある。この「上」を相手にしなければ、逆転劇は起こらない。下克上は起こらない。
 下克上を起こすには、策士の才が要
(い)り、説得力と策謀が無ければ成功しない。
 暗示社会において、信じを暗示として植え付けるには、一つの儀式と言うか、セレモニーが言うのである。それも「トップのセレモニー」である。
 日本では、儀式に刀剣が遣われた痕跡は多く残されている。そうした心の反映の中に、日本刀が映されているのである。私の場合は無意識に、然も必然的に触れてしまったような感じがする。

 そして、日本刀と言えば、後に知り合う受験の神様も、大の日本刀愛好家だった。
 この愛好家を、佐々木慶一と言う。
 彼も日本刀の持つ威力と言うか、そうした魔力の意味を知っていたのか。あるいは霊剣というものを見抜いていたのか。
 佐々木氏は東大医学部麻酔科医の道から個別指導の道に転じた逸材だった。私がこれまでに見た、ただ一人の天才だった。受験の神様だった。氏には、受験に関する神話が幾つもあった。

 この天才が、奇
(く)しくも、私と同じ趣味を持っていた。私は、氏より日本刀の趣味人の世界を、後に聴いて「なるほど」と思う箇所と共通点に行き当たったのである。そして、これはこれまで私が思い続けていた思索と一致し、間違いでなかったこと、則(すなわ)ち、「合格に暁に……」と何か一致するものを感じたのである。
 やはり、かつてある人から聴かされた、「歴史に名のある古美術品は、世界の富豪と通じている」のであった。その「通じた」ことを私は無意識にも、20歳そこらで遣っていたのである。恐らく無分別だったであろう。若気の至りか、あるいは過ちか……。

 想えば、不思議なことだった。
 既にこのとき「並み」という枠
(わく)から食み出していたのである。その時代、青二才でありながら政治家にも繋がっていたのは、その為であろう。彼等は、贈り物に古美術品を手土産代わりに代用していたと記憶する。

 ある人は言った。
 「古美術品は投機じゃないんだよ」と。
 そのとき私は、それを即座に認識したのであった。悟ったといってもよかった。古美術品は投機ではない。もっと精神性の高いものである。
 その後も、京都である人からアドバイスを受けた。そして、その人も同じようなことを云った。
  古美術品は投機材料ではないという。愛
(め)でることを第一義としなければならないと言う。これは「金云々……ではない」と言うことを指す。そういう、愛でる人が「上」にはいるというのである。
 私にしてみれば、「眼から鱗」だった。
 ケチな資産家相手では、その辺の株屋の仕掛ける「その程度」のことで終わる。その程度ではダメである。古美術品は株やその他の投機材料ではないのである。

人間国宝・高橋敬典作の茶釜。

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二上常太郎元威作の鷹と鳳凰の香炉。

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 かつて私に教えてくれた京都のある目利きは、次のように教えた。
 「書画骨董が本当に好きで、これを求めんとするならば、“目利
(めき)き”の人に接して勉強しなければなりまへん。本の上だけの知識では役に立ちまへん。この事が、よう解(わ)からんと、絶対によい物は手に入れる事が出来まへん。そして、目利きの人から買うか、譲るかしてもらっておけば、必ず、そうした物は日とともに、美術品としての価値がどんどん上がっていき、いよいよ美術品に対して、楽しい希望が生まれくるものどす。

 しかし今までと違い、今後の書画骨董の世界では、余程この道のこと、よう研究や探究せんことには、掘り出し物も見つけ出すことができまへん。
 売る人が目が利かず、買う人が目利きならば、売る人の負けでおます。また、この逆もおます。したがって、いい加減な研究で、自信過剰に陥ったり、修羅場
(しゅら‐ば)の真剣勝負を避けて通るようなことをしていては、よい物を見る目は養われず、こうした事では、まことに浅慮(せんりょう)と言わねばなりまへん。これこそ、固く慎(つつし)まんと、いかんのと違いますやろか。

 更に、これを投機的に買い漁
(あさ)っている人にも、同じ事が言える思うのどす。
 昨今は、投機は株式か、骨董か、と言われておりますけど、株式を買うか、骨董を買うかの問題は、これを同じ土俵の持ち出して論ずるのは、ちと訝
(おか)しいのと違いまっしゃろか。……わては、そこんところが、どうも残念でたまりませんのや」
 「………………」私は黙って聞き入っていた。「なるほど」と思う。これを黙って聞き入る以外無かった。
 そして、その人は更に続けた。

 「真に古美術を愛する人は、金儲けには無関心で、精神の世界に素晴らしい喜びを持ち、心の富者として、名器と共に、清貧に甘んじる心境に至れる人こそ、真に好ましい愛好家と言えると思うのどす。
 つまり、骨董は投機の対象から外れて、欲張り者より、好き者としての道を選び、日本文化と共に生き、これに誇りを感じていく心が大切なのと違いまっしゃろか。

 掘り出し物は、骨董の世界を愛する者達の一つの夢であり、この夢があればこそ、この道を愛する者は、希望を持って、それに邁進
(まいしん)することができると信じます。
 どうか、あんたさんも大いに見て、大いに学び、大いに掘り出し物を探し求め、物を見る眼を養い、この道に、たえまない研究と努力を注ぎ込んでおくれやす。

 あんたさんの意見も聞かず、わし、一人でしゃべってしもうたけど、あんたさんは本当に古美術を愛しているとお見受けしたから、失礼も顧みず、つい年寄りの独り言が出てしもたのどす。どうか、口の過ぎたことを堪忍しておくれやす」
 私は、じーんと心に感じるものがあり、黙って聞き入っていた。凄い精神世界を語っているのだ。こういう考え方の出来るのは「上」の人間の考え方であり、「下」には存在しない思考であった。

 世の中の構造は、上へ行くほど精神性が高くなり、階層が下がれば物質性要素が多くなるようである。物を物としてみてしまう肉眼力だけが旺盛になるからであろう。したがって、人間は物を物として検
(み)たとき、そこには失敗も転がっているように思うのである。
 物を物として検るか、物を心で検るかの違いは歴然としている。
 それだけに今でも、当時の、ある人の声が耳に焼き付いているのである。



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