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続・刀屋物語 4

兜の中に香を焚く。戦国期の武士の嗜みだった。
 単に兜だけを注視していては戦国期の高貴な武士の嗜
(たしな)みは分からない。兜から、その内面の被った人間の心境までもを読み取らなければならない。
 この時代の武士は、自分が白兵戦に敗れて敵将に首を打たれた時、その首が嫌な匂いがしていたら無礼だろうと考えた。そこで兜の中に最上品の伽羅
(きゃら)の沈香を焚いたのである。



●刀屋は人間値踏みの観察の場

 私にとって、刀屋家業は一方で「人間観察の場」であった。此処には世の中の縮図があった。
 だから、こちらが客のレベルを値踏みするのである。人間の程度を検
(み)るのである。
 すると「逆も真なり」で、これが中々面白い。
 こうなると客が売主を見て商品を選ぶのではなく、売主が売る客を選ぶのである。売主の方が客を選別するのである。そして売りたくない者には売らない。尊大な者には売らない。トラブルメーカには売らない。刀剣IQが低い者には売らない。不勉強の者には売らない。知ったかぶりの講釈師には売らない。これを、誰彼見境なく薄利多売方式をとっていたら刀屋は食い上げになってしまう。食い上げにならないためには、まず客を選ぶ。売らないことに徹する。
 刀剣IQの低い者に売っても、豚に真珠、猫に小判だからだ。価値の分からない者に売っても営業努力が徒労に終わるからだ。

 多様化の時代、薄利多売でレベルの低い客を相手に大手スーパーのような商いをしていては、刀屋は身が持たない。客を選ぶ必要がある。客に好みの店があるように、店も好みの客がある。

 士は己を信ずる者のために死す……という言葉があるが、逆に信ずるに値しない者には、死すら躊躇
(ためら)うということである。
 私も上記に示した者には、売ることを躊躇うことがある。そういう者は体よく追い返すことにしている。

 来客者は刀を値踏みに訪れるが、その刀を値踏みする方は、実は売主が買主を値踏みするという人間を検
る観察が行われていたのである。買主だけが値踏みをするだけではないのである。売主もまた、買主の人間性を値踏みしているのである。その「程度」に値段をつけているのである。
 まさにこれは逆から見た、人間値踏みの観察の場であった。
 そして、この場で両者の眼の勝負が始まる。

 眼の勝負に勝つためには、相手の鋭気を殺
(そ)ぐ必要がある。舐(な)められたり甘く見られてはならないからだ。そして眼の勝負は売主と買主の騙し合いではない。心と心の魂のぶつけ合いである。またその気魄のない者は勝負に参加する資格がない。盲(めしい)たる者が勝負に参加しても勝負にならないからだ。
 ここで私が言う「盲
たる者」とは、肉体的盲人を言うのではない。肉の眼には異常がないが、心が曇らされている人のことを言う。心が曇らされている人間は生齧りで知ったかぶりをする。その知識と言えば、書籍で一読した程度である。また、その知識は実践には何の役にも立っていない。そのために最終的には迷った挙げ句、真作を掴めず贋作を掴むことになる。眼がないからだ。眼力がないからだ。
 一方で目利きに学べば、その後、価値を見出す。
 目利きの人から買うか、譲るかしてもらっておけば、必ず、そうした物は日とともに、美術品としての価値がどんどん上がっていき逸品と囃
(はや)し立てられ、いよいよ美術品に対して、楽しい希望が生まれくるものである。

 よほどの目利きになるためには、まず教えを請い、研究や探求をしなければならない。学ぶ場を求めて闊歩
(かっぽ)しなければならない。研究や探求が足らず勉強不足だと簡単に足許を掬(すく)われる。根刮ぎ啖(く)われることもある。
 売主が目が利かず、買主が目利きならば、売主の負けである。またその逆もある。したがって、いい加減な研究で、自信過剰に陥ったり、修羅場
(しゅら‐ば)の真剣勝負を避けて通るようなことをしていては、よい物を見る眼は養われず、こうした事では、まことに浅慮(せんりょう)と言わねばならない。
 更に、これを投機的に買い漁
(あさ)っている人にも、同じ事が言える。
 昨今は、投機は株式か、古美術・骨董か、と言われているが、株式を買うか、骨董を買うかの問題は、これを同じ土俵の持ち出して論ずるのは、実に訝
(おか)しい限りである。

 本来、真に古美術を愛する人は、金儲けには無関心で、精神の世界に素晴らしい喜びを持ち、心の富者として、名器と共に、清貧に甘んじる心境に至れる人である。これは日本刀の場合も同じである。
 日本刀の研究が深まれば深まるほど、投機とは無縁になる。日本刀を所持しながら、頭の半分は投機に被
(かぶ)れている人は、面(つら)が湿っているのである。乾いた面で、我欲が吹き切れていない人である。欲得尽くめで日本刀を蒐集すると、必ず何処かで墓穴を掘る。
 余裕をもって清貧に甘んじられる心境を持った人が、眼の勝負で勝つことが出来る。こういう人こそ、真の刀剣愛好家と言えよう。
 刀剣類は投機の対象から外れて、欲張り者より、愛好者としての道を選び、日本文化と共に生き、日本の伝統工芸に誇りを感じていく心が大切なのである。
 特に美術刀剣蒐集家は、その気概がいる。その自負がいるし、気高さがいる。

 そして刀剣を蒐集している以上、一度は夢に見る「掘り出し物の発掘」である。
 例えば警察の『発見届』が付けられたばかりの錆刀から、天下の名刀を掘り出すような、そうした夢である。この夢があればこそ、この道を愛する者は、希望をもって、それに邁進
(まいしん)することができる。そして気宇壮大なロマンを感じる。それはまた愛好者を惹(ひ)き付けて離さない。
 大いに見聞し、大いに学び、大いに掘り出し物を探し求め、物を見る眼を養い、この道に、たえまない研究と努力を注ぎ込むことが大事である。
 その極める詰めが甘いと、うっちゃりを喰わされる。

 世の中には、下の者から舐
(な)められたり甘く見られたりする間抜けがいる。いい歳をしているのに、目下から軽くあしらわれる者がいる。
 また、更に間抜けとなると、自分の側近者と思い込んでいた子飼の者から裏切られることがある。子飼から舐められるのは、どこか間抜けな要素が漂っていて、軽い学生気分の「乗り」で人生を生きている愚者であるからだ。
 愚者は軽く見られ、舐められる対象である。

 そして舐められるということと、無礼を働かれたと言うことは同義なのである。
 舐められることは、裏を返せば自分も知らぬ間に何処かで無礼を働いていることになる。無礼を働く者は、そのしっぺ返しとして「舐められる」と言う現象が起こり、それが自分の跳ね返ってくる。作用と反作用の所以
(ゆえん)である。
 無礼は、得をしたのでなく、損をしたのである。
 人生の『貸借対照表』にはマイナスが記載されたのである。「負債の部」が殖
(ふ)えたのである。そして知らぬ間に辻褄(つじつま)が合わなくなり、マイナスだらけとなっている。無礼者が辿る末路である。

 世の中には、実に無礼者が多い。
 個性やオリジナルではなく、人真似をする無礼者。生齧りで大して勉強もしていないのに、知ったかぶりの無礼者。自分を高きに置き、相手を低くきに置いて見下す傲岸
(ごうがん)な無礼者。中身より外側だけを検(み)て、それだけで表皮的な判断を下す無礼者。噂を信じて、あることないことを吹聴して廻る無礼者。言葉遣いがなっておらず、日本人でありながら正しい日本語が使えない無国籍言語を使う無礼者。地位や資格を振り回し、実力もないくせに尊大に振る舞う無礼者。ケチで臆病なくせに勇者ぶって、朴訥(ぼくとつ)な人間を田舎者と譏(そし)る無礼者。自分に大した学問もないくせに人を軽き見て、あの人は頭の悪い人ですねと見下す無礼者。見掛け倒しの、安物の物財に囲まれることを好む無礼者。貴重でもない自分の持ち物を自慢する無礼者。自分の家族を自慢する無礼者、特に妻君自慢は聴いていても聞き苦しい。あるいは恋人の美貌を自慢する無礼者。息子や娘自慢をする無礼者。自分の土地家屋を邸宅と思い込んで邸自慢をする無礼者や、在り来たりの持ち物自慢をする無礼者、それでいて相手を貶(けな)す無礼者。挨拶なしに先を競う無礼者。年長者や目上を目上とも思わない無礼者。恩義を直ぐに忘れてしまう無礼者。出し抜きや造反を企てる無礼者。
 世の中には無礼者だらけである。

 人は、意識しあるいは無意識のうちにも自分では分からぬ無礼を働いているものである。
 特に恥知らずは、無礼の度合いが烈しい。多くは無知から起こっている。作法知らずから起こっている。そのために礼儀知らずである。恥知らずである。無知ならぬ、「無恥」である。
 昨今は無恥の日本人が殖えた。若者だけではない。老人にも、この無恥が多くなった。
 日本列島は老いも若きも、男も女も、無恥で陣取られてしまった。

 そして時代は逆流している。精神を蔑ろにし、科学万能主義を尊ぶようになった。
 その結果、国民挙
(こぞ)って、誰もが若さと元気さだけを追い求めている畸形(きけい)なる現象を導き出した。
 現代と言う時代は、無理しての……それらの造りがいつの間にか、無理が高じて無知になっている。白痴的である。また自然に逆らって無知を押し通すから、その反作用をまともに喰らうことになる。

 世の中は……、この世の中を支配している現象界は、作用と反作用の法則が何処にでも働くのである。
 衰えまいとしたことが、却
(かえ)って老化を早めたり、死期を早めたりする。
 例えばテレビなどで放映されているサプリメントである。あるいは自称健康機器と称する、やがて置き場に困る医療機械類である。
 日頃から老いを十分に観察せずに、若返りと称するサプリメントや自称健康機器ばかりに頼ると、ある日、突然、思わぬしっぺ返しを喰らう。
 それは人体に働く一部分のミクロだけを捉えているからである。総合的にマクロの次元で捉えていない。細分化の次元で論理を展開している。
 例えば健康食品である。それに含有される化学成分は、その有効と思える一成分だけを大量の摂取しても身に付かないのである。身に付いたと思っているものは、総て排泄されてしまうのである。吸収されて血となり骨となることはない。

 有効成分を大量に摂取する……そしてそれが身に付き、若返りのための血となり骨となっている……。これは何処まで追求しても妄想に過ぎない。幻想の最たるものだ。何処までいっても独り善がりの、独善たる健康法に過ぎない。したがって巧妙な仕掛けで視聴者を騙す、製薬会社や食品会社の健康食品の罠に掛かってはなるまい。

 例えば牛乳に、カルシウムが存在するからと言ってこれを朝昼晩、主食を抜きにして大量に摂取したところでカルシウムは身に付くことはない。そういう成分は殆ど流れる。排泄される。腸内に留まることもないし、これが血となり骨となる訳でもない。むしろ弊害の方が大きい。
 急増するアレルギー体質や白血病と言った疾患は、総て牛乳の実害である。牛乳を大量に摂取したからと言って骨太になり、中年婦人の骨粗鬆症を予防出来ると言う訳でもない。
 新生児用のミルクは危険が大きく、乳幼児が牛乳を大量に飲むと、水分・電解質代謝の混乱が生じ、水ぶくれになったり歯が脆
(もろ)くなる。既に実証済みの医学常識である。
 加えて食品会社は、ウルトラプロセス法と言う高熱殺菌処理をするため、この時点でタンパク質変性が起きている。そのうえ高熱処理をしているために乳糖はもはや乳酸菌を繁殖させる力を喪失している。牛乳のカルシウム神話は食品会社の喧伝した、人間不向きの食品であった。しかし現代に至っても、牛乳飲用の支持者は多い。
 これは牛乳に限らず、サプリメント全般に言えることである。

 また、玄米にビタミンEは豊富に含まれていることに眼をつけ、ビタミンEだけを取り上げて商売をする製薬会社や飲料会社がある。
 この成分が性的不能や精力減退などの生殖機能に有効に働くとしても、それは単にビタミンEだけの効果によるものでなく、玄米に含まれている有効成分が総合的に働くことにより、スタミナそのものの動力源になるのである。ビタミンEだけを大量に摂取しても増強効果は得られないのである。

 しかし、製薬会社や食品会社、あるいは飲料品メーカーのサプリメントは、一成分を取り上げ、過大なる宣伝を行って、甲高い男の声で煩
(うるさ)く、しつこく喧伝する。さも有効であるように芸能人までもを動員して、多額な広告費に金を掛けて売り出しを企む。
 そして視聴者の脳裡には誤解が生じる。

 「この健康食品は芸能人の誰それが食しているから信用出来そう……」と思い込んで、腰痛が治る、膝が治る、視力が恢復
(かいふく)する、肩凝りが無くなる、眩暈(めまい)や頭痛が無くなる、口臭が無くなる、血圧が下がる、血糖値が下がる、シワが取れる、肌がつるつるになる、髪の毛が生える、痩せてスタイルがよくなる、年齢以上に若返る……などの口車に乗る。また乗せられる。
 それは芸能人の、あの人が遣っているから……とか、使用前と使用後の写真が余りにも極端で驚異雄的であるから……とかを信用して、遂に長期購入の契約をする。殆ど期待通りにはならず効果薄なのに……。
 こうして庶民大衆は、仕掛人に搾取
(さくしゅ)される社会背景がある。

 こうした事態に慌
(あわ)てなくても済むように、普段から老・病・人間の課せられたシナリオを追い、死の衰弱の心境を把握して人生を全うするのが理想だろう。そのためには背伸びして、等身大以上に自分を見せ掛けないことである。謙虚であっていいのである。
 愚者が等身大以上に見せ掛けようとすれば、人の眼には背伸びが見え見えと映る。それが見えてないのは背伸びしている本人だけである。
 謙虚になれば冷徹な洞察力がつく。洞察力をもって深層部を見る。そんな眼力が増幅されて来るのである。無理に造る必要はない。

 人間社会での競争目的は、最終的には「勝利」であり、そのためには誰よりも実力を蓄えなければならない。これを怠っては賞美に勝てない。
 しかし一般社会ではルールは存在しない。法律の抵触しなければ何をしてもいい。ルールなどない。
 更に一般社会ではルールがないために、明確な判定を求め得ない。自身の能力を数値で顕証
(けんしょう)して貰えないから、証明されない自惚れが先に来て頭を擡(もた)げる。自分の思い込みだけで、自分を他人より優位に置いてしまう。そのために人間関係においては、仲間の一人ひとりを様々に罵り、独り自らを高みに置いて卑しい快感を貪(むさぼ)る者もいる。野心家ほどこれが烈しい。あるいは思い込みの烈しい人間も自信過剰だから、大したの能力がないくせにその傾向が烈しい。多くは自惚れ屋だ。目立ちたがり屋だ。
 こうした者が、時として目下から舐められるのである。見え見えを見透かされるからである。中身のなさを見透かされるからである。

 しかしこの手の人間は、自分より能力の劣る人間を前に、内心「無能だ」と沈黙すればいいものを、敢えて口穢
(くち‐きたな)く罵(ののし)り、卑(いや)しめ、貶(おと)め、蔑(さげす)む。
 なぜ、そういう風に出るのか。
 その動機は、ただ一つである。
 自分を褒
(ほ)めてくれ、持ち上げてくれ……と叫んでいるだけのことなのである。
 世の中に、他人を罵って当たり散らし、また吹聴し、罵詈雑言型の人間が余りにも多いのは、自分が期待している褒め言葉である頌辞
(しょうじ)を誰からも懸けてもらえず、それに対する不平不満に基づくものである。

 人は誰もで、自分を褒めてもらいたい……。誰もが、そう願っている。
 しかし一方で、自分は他人を褒めるのが嫌いである。口が裂けても他人は褒めない。そして摩擦が起こる。
 そうした間の行き違いから、至る所で無意味な諍
(いさか)いが起こる。
 私の刀屋人生では、こうした人間の罵りや卑しめや貶めや蔑みを観察する「人間界の縮図」を観たように思う。
 とにかく誰もが、人より一歩先に抜きん出たい。それが美術品蒐集家の多くに見られ、そこには持ち物自慢の現実があった。



●一目置かれる

 眼力を養うだけでなく、相手に「一目置かれる」ことも眼力養成の中にはある。そのためには毅然(きぜん)たる態度が必要である。そして眼力があると言うことと、人から一目置かれると言うことは同義である。

 人の世は国際見本市での「競り」のようなものだ。
 どのように値踏みされるかを、この資本主義社会構造は明確にしている。資本主義では「価格を付ける」というのが市場経済の最大の課題であるから、如何なるものも値段がつく。ただし、この経済では値段がついた場合、必ずしもそれがプラスの値段とは限らない。マイナスの値段になることもある。物を持っていても負債を抱えることもあるのだ。
 例えば、鉄屑同然のババ抜きで掴まされた“曲がり刀”などである。
 曲がり刀は、人生の『貸借対照表』では「負債の部」に記載される。掴まされたこと自体が汚点に等しい。
 『貸借対照表』には出来るだけ「負債の部」に記録を残したくないものである。出来るだけ、「資産の部」に記載したいものである。
 人は「資産の部」に記帳するために、日々懸命に働いているのである。

 そのために競争が起こる。この経済下では競争原理が働いている。そのために時として勝負が挑まれる。果たし合いのような勝負を挑まれることもある。
 人間は競争の気持ちが高まると、そこには当然攻撃を仕掛けると言う行為が起こる。何びともこの競争社会にいる限り、温和な人間でも、いずれ攻撃に出る。機会を待って撃って出る。
 しかし、この場合の露骨な攻撃は決して得策でない。露骨過ぎると、却
(かえ)って損をし負債を抱えることになる。
 また露骨に出ると、妄
(みだ)りに精力を使い果たす。精力の浪費に終わる。それだけではない。周りから嫌われるのである。世間から嫌われるのである。罵詈雑言の噂が立つ。これこそマイナスの遺産ではないか。

 人の世は常に物見高い。物見高く騒動を好む。
 特に対岸の火事である場合、傍観者としてこれを眺めるのが好きである。そしてまた一方、判官贔屓
(ほうがん‐びいき)の感情が働き、直ぐに弱い者の味方になったり声援を送ったりする。
 露骨に、勢い勇んで突き進んだりすると、憎まれ役を余儀なくされ支持者を喪う。あからさまな露骨な攻撃は損をするだけでなく、結果的には徒労で終わる場合が少なくない。
 戦いに際しては慎重を期することだ。

尚道館刀剣部はかつての大東修気館道場時代の「道場事業部」として始めた大東美術刀剣店がその始まりである。
店内の刀剣とともに扱う書画骨董品類。

 兵法は争わないことを旨とする。戦わないことを旨とする。そのためにつけ込まれないように百年兵を練る。
 このことは既に『孫子』が喝破
(かっぱ)しているではないか。
 戦わずして勝つ……、と。
 猪突猛進は得策でない。力で押しまくる正攻法は得策でない。強力一辺倒では支持者を喪う。暴君が最後、民衆を喪い、国を亡ぼすのはこのためである。
 むしろ敵が抗争を持ち込む前に、勝ちを制しなければならない。そのためには常日頃から絶え間なく、兵を練って準備とその手当を施しておく必要がある。
 多くの争いは隙から生じると心得るべきであろう。油断から生ずると覚悟すべきである。
 隙をつくり、油断を生じさせれば、それがネックとなって必ず近い将来決戦を強いられることになる。

 では対戦相手はどう処理するのか。
 まず、相手に対して伸び悩みを生じさせることである。勢いがつかぬように、眼に見えない奇手を考えなければならない。つまり、頭を抑え込ませる創意工夫である。
 兵は詭道なり……だ。

 人間を観察すれば、野心に燃えてその計画を着々と進めている者は、自惚れが強く、人を人とも思わない傲岸なところがある。こうしたタイプは必ず他人と衝突する。攻めの一手で押しまくってくる。威圧し、圧迫する。それも強者でなく、弱者に向けて、である。
 弱い方から啖
(く)って行く。競争社会はこれが定石である。強者を最初に相手にして苦戦を強いられるバカはいない。弱い方から順に戦い、実戦能力を身に付けていくと言うのが常套手段だ。
 しかし強者が執
(と)る常套手段は、此処にこそ落し穴があると言えよう。
 それは弱い者を餌食にする弱肉強食の論理である。この論理は、一方に弱者を見縊
(み‐くび)り、自尊心を踏みにじる愚行が隠されているからである。
 この場合、敵対者はどうするか。
 双方の中に入って、漁父の利的に仲立ちをするポーズをとる。
 しかしそれは見せ掛けに過ぎない。圧迫され、屈辱に塗れ威圧されっぱなしの弱者の肩を持つのである。一つの上手い遣り方である。

 「あの傲慢
(ごうまん)な者の遣り口はあくどく、然(しか)も人としての道を逸脱している」などと、義憤に燃えるような大義名分を作り出し、それに同意と同情を求めるのである。こうした強者に対する周りの僻者(ひがみ‐もの)たちに、こうした大義名分を強く印象づけるのである。そして味方に蹤(つ)ける。
 人間の心理からして、上昇志向で野心に燃えている者の特徴は、精一杯胸を張り、尊大振り、かつ背伸びして自分を等身大以上に見せ掛けているところがある。そうした無理は、逆に弱点でもある。無理な気張りが、一遍に萎
(な)えるような精神上の弱点を突くのである。
 人の弱点を突く場合、やはり平素からの観察眼を養っていなければならず、そこにこそ眼力を鍛える目的がある。

 眼力を鍛えておけば、「ここぞ」という機会を狙って打って出ることができる。僅かな気合いで、労せずに強敵の鋭気を殺
(そ)ぐことが出来るのである。これは「小よく大を制す」の所以である。
 繊弱な箇所をつく……。詭道の所以である。
 これこそが兵法の極意である。
 そして戦わずして勝つことは、敵となる人間の鋭気を殺ぐと言うのが、「競争の極意」なのである。

 人間社会は、誰もが互いに敵愾心
(てきがいしん)を抱いて、それが尚かつ拮抗(きっこう)している。敵対しているからこそ、同数で釣り合えばバランスが取れるのである。この意味では、ミリタリーバランスも同じである。
 ミリタリーはまた競争社会の申し子である。

 国の政治・経済・法律・教育などの政策および組織を戦争のために準備し、対外進出で国威を高めようと考えるである。競争原理が働く社会では、背後にこうした、あたかも軍国主義のような思想が根底に流れている。
 人間から敵愾心は削げない。これは本能である以上、永遠に無くなることはない。どんな親密な間柄にあっても、心の奥底では必ず敵意に等しい反発心がある。信頼と信用には一方で、同じ分だけ敵愾心が存在する。
 そういうものを懐に呑んで、普段は何も無かったような平常心を保っているのである。この構図は、まさに「信頼と信用を演出したポーズ」であると言えよう。

 そして人間関係において、一見親友を歓迎しているポーズの裏には、本性で、ある対抗意識をいつも努力して和らげるための影の努力が行われているのである。それはまた、辛労
(しんど)い気働きの成果であるとも言える。

 だが、日常生活において一般的な人間関係では、誰もが他人に対し必ずしも、快
(こころよ)からず思っているのである。したがって、うっかり気を許すと大変である。少しでも油断しようものなら、同軍と信じていても、いつ何時攻め込まれるか分からない。

 特に相手がこちらを貶めるために、何かよからぬ企てを立てている場合は要注意である。そういうキナ臭さが匂ったら警戒網を厳重にしなければならない。
 虎視眈々と隙を窺う……。
 これは不意打ちを食らわせれば、それが成功すると言う自信があるからである。

 世の中に青天の霹靂
(へきれき)や寝耳に水という突然の現象が起こるが、これは相手方が、いま斬り込めば100%成功すると言う自信があるからだ。よく考えれば、それは平素から自分が舐められていると言うことでもある。
 私自身、青天の霹靂や寝耳に水と言う不意打ちは度々喰らっている。
 何処かに隙を作り、油断があり、平素から舐められていたのであろう。過小評価されていたのであろう。
 気付かぬ間に寝首を掻かれるも、これである。徒党を組んで造反に奔
(はし)るも、これである。

 その最たるものが『本能寺の変』であろう。
 天正十年
(1582)、織田信長は、苦戦を強いられている備中高松城包囲中の羽柴(豊臣)秀吉を救援しようとして本能寺に宿泊した時、先発させた明智光秀が、日頃の怨みから叛逆して丹波亀山城から反転し、信長を襲って事件である。そして信長を自刃に追いやる。光秀はこうして三日天下を取る。
 これは信長にして見れば、青天の霹靂であろう。予想だにしなかったことであろう。何処かで、怨
(うら)みが、遂には舐めるという行動に奔らせたのだろう。
 舐める事なしに恭順する素直さがあれば、光秀は信長を討たなかった筈である。信長の恭順威力は徐々に力を失っていたのである。そこに信長の自信過剰の愚行なる晩年の行動原理があった。
 人間の晩年には、若い頃の向う意気の強さが喪われ、緊張が解けて温和さが出てくるから、完成今一歩のところで思いもよらぬ、どんでん返しが起こる。

 こうした場合の攻め込みは、相手が好戦的であるからではない。完全に舐め切っているからである。このとき光秀では信長を完全に舐め切っていた。とことん侮っていた。こうして『本能寺の変』が起こった。

 また諍
(いさか)いが起こるのも、自分に隙があって平素から蔑(さげす)まれているからである。見下されているといってもいい。あるいは行動原理の稚拙さが見透かされているのである。
 光秀の場合、信長が知らぬ間に光秀自身の攻撃心を育み、助長する切っ掛けを作っていたことだ。
 これは国家間の戦争においてもそうであろう。
 国家同士の戦争の場合、相手に勝てると思わせた弱小国に、本来の落度がある。太平洋戦争開戦際の大日本帝国は、まさにこれではなかったか。

 人間たるものは自らの義務と責任において、誰にも舐められないような毅然とした態度をとり、舐められないような身の処し方が大事である。これこそが本来の兵法家の平素からの心構えである。この心構えが欠いていれば、玄人と雖
(いえど)も素人に敗れるのである。
 私自身、六十有余年の人生で何度人に舐められ、また目下の者に舐められて来たことか。隙があった、油断があったと繰り返し反芻されるばかりである。

 そして私自身、刀屋商売をして来て、何度も屈辱を舐めた。舐めさせられた張本人は何も刀屋を生業とする玄人ばかりでなく、来店した客の素人からも何度舐められ、屈辱を味わたことか。
 要するに私は、傍
(はた)から見ていて、隙と油断があるような間抜けな店主と映ったのだろう。
 そう言う結末を招かないためには、平素から警戒するだけでなく本職に精を出し、気を配り、無意識のうちにも緊張していなければならないのである。

 私はこの歳になって、漸
(ようや)く「無意識の緊張」なるものが分かりかけて来た。
 平常心を保ちながらもリラックスした中の無意識の緊張である。この緊張が会得出来ると、それはまさに『牡丹下の猫』
【註】柳生但馬守宗矩の著書『新陰月見伝』に出てくる「牡丹台下の睡猫児」で、牡丹の花の下に眠っている猫の意)の如き行動が執(と)れる。何な不穏を感じて身を躱(かわ)すことが出来るようになる。

『牡丹下の猫』を思わせる、加山又造の「華と猫」大輪の牡丹の下で、猫が華に見取れている。しかし、猫は何を思うのか。

 本職の精を出す。また天職と定めたものに精を出す。
 人間は為
(な)すべき本筋の仕事に一心に打ち込んでいれば、そういう者を人は絶対に軽蔑しないのである。本筋の仕事を極め尽くさねばならないのである。

 一番いけないのは中途半端である。中途半端な行動に出るのは確固たる不動の信念がないからである。いつもふらつき、迷っているからである。
 迷う人間ほど見苦しいものはない。あれこれ、浮気することである。浮気すれば隙が出来る。火遊びには油断が生じる。
 夫婦間でも、浮気せず、脇目も振らず本妻だけに打ち込んでいれば、その妻君は決して夫を軽蔑しないものである。
 妻が夫を軽蔑したり、妻の方から浮気が元で三行半
(みくだりはん)を突きつけられて、裁判沙汰になり離婚騒動に発展するのは、夫の脇目や虎視眈々とした色情に端を発している場合が多い。夫の軽率に問題がある。思慮のなさに危うさがある。脇目が多いのも問題である。
 昨今は、男女対等の立場で物が謂
(い)えるから、夫の軽率さには妻君も黙っていない。夫の無礼な振る舞いには怒りを心頭させる。当然、非を詰り、その追求を迫る。かくして妻君の方から三行半を突き付けられ、高額な慰謝料を巻き上げられて離婚されてしまうバカ亭主もいる。

 世の中と言うものは、企業にしても個人商店にしても、その業績は決して華々しいものでなくとも、地道に細心の努力を払い、日々精進している者には、周囲はおいそれと反論が出来ず、その努めている姿は一応認めるものである。
 この世の現象界は、相対的でもあるが故に、無能な者が無能なるが故に見放されると言うことはない。無能者でも、出来る人間の三倍も努力する勤勉は、これはこれで、また一つの取り柄であるから、見ていても好ましい風景である。

 問題なのは、自分が無能者でありながら、無能に居直り、拗
(す)ねて斜交(はすか)うポーズであり、あるいはそれに対して、弁解も申し開きもしない沈黙である。無能者の沈黙だけは頂けない。疑惑が深まるばかりである。
 組織内でも、不平を喚
(わめ)きちらし、理由なく誰彼を譏(そし)り、しいては会社が悪い……、社会が悪い……、政治が悪い……などを詰り、罵詈雑言が絶頂に達したとき、人の邪魔になるその者は、遂に組織から弾き出されるのである。

 眼は心の窓という。
 眼は、時として口ほどの物を言うのだ。
 そうなるためには毅然とした態度が、その背景になければならない。そしてそれを裏付けるものは「眼力」である。
 眼に力がなければ毅然な態度などとりようがない。軽い眼では甘く見られ、年少者からも舐められる。舐められる人間は、学生のような軽い乗りで相手に接しているのである。そして遂に侮られる。
 いつまでも甘えの構造の中で、頸
(くび)までどっぷりと浸かっていてはならないのである。人生を甘く考えている者は、これが中々分からない。こうした考えは、かつて「新人類」と言われた、主に1977年から1982年頃にかけて用いられ、母親から甘やかされて育った若者層に対してであり、現在の四十代半ばの人間のことである。
 この世代は、1961年から70年に懸けて生まれた者たちで、団塊の世代とともに「新人類世代」などとも言われているようだ。そのために彼等の行動規範は学生時代の儘で、殆ど進化しておらず、軽い乗りでアクションを起こすので、目下からは蔑みの眼で見られることもあるようだ。

 人間界は先にも述べた通り、値踏みのための見本市である。蔑みの眼は、既に値踏みした眼である。背後には舐められている一面がある。
 人間界は誰もが、この市で常に値踏みされていると心得なければならない。リラックスのうちにも、無意識の緊張が必要なのである。その警戒を怠ってはなるまい。
 少なくとも人生の半分は警戒のためにエネルギーが消耗されるのである。人間界では、意識的に自他離別の気持ちが働くからである。
 一方で、これらに対して防禦策が講じられる。一目置かれる……そんな防禦策である。
 そして人から一目置かれるためには、どのような努力が必要となるか、である。



●損をする余裕

 私の場合は、まず自分の間違いを正した。失敗を素直に認めた。
 間違いを心から認め、失敗を隠さず、人の所為
(せい)にせず、ウソをつかず、否定をせず、運が悪かったなどと言わず、保身を計らず、自分の愚かな面や愚行を素直に認めた。学ぶ態度を示した。知ることへの恭順である。
 そして結果から、間違いは多くの場合、失敗に連動されていたからその失敗をよく噛
(か)み締め、失敗から多くのことを学んだ。そのお陰で、後に失敗は、物事が簡単に運んで順風満帆のうちに成功した時よりも、多くの利益を齎してくれた。
 失敗の多くは、知らないでいたためである。知らないで学ばなかったことが敗因だった。だから失敗した。学び足りなかったのである。その事実を否定しなかった。

 昨今の世の中はテンポが烈しく、加速度的に過ぎて行く。スピード時代である。
 世の中を複合的に検
(み)ると、現代人は少なくとも勤労所得による所得だけでなく、その一方で家賃収入などの不労所得とか、更には資産運用と言った投資信託や金融機関など機関投資家の所有有価証券の紙のポートフォリオ所得を得る働きが必要になるだろう。これは情報時代に課せられた宿命であり、現代人の人生の課題になって行くだろう。
 二十世紀の、かつての少年少女時代、人は学校でどれだけいい成績を取得したか、そういうことは二十一世紀に至って、あまり問題にされなくなった。旧時代の学校成績評価時代は終焉
(しゅうえん)した。
 子供のころ神童と呼ばれた秀才も、大人になれば、「ただの人」になっていることが少なくない。知識の詰め込みの英才教育は、大人になってからあまり役に立たない。また最終学歴の大学とか大学院とかの、こうした学士、修士、博士などの学識称号を現す肩書きも、殆ど何の意味もない。
 世の中に、無学歴を恥としない富豪は多いものである。

 日本では最終学歴など一文の値打ちもないのである。問題は学閥であり、少しばかり、何処の上位グループの学校を出たか?……が問題にされる。しかしそれでも、余程の学閥でなければ問題にされない。
 日本で問題にされる学閥は、政財界の人脈として直接に結びつく東大卒であり、また学者で生きるためには京大卒という流脈が問題にされるのであって、それ以外の最終学歴も学閥も大して問題にはならない。出身母体が人脈に繋がらない場合は、端
(はな)から相手にされないのである。

 問題外の領域に食み出しているその他大勢の、ただ大学を出たという人は、自分の履歴に示す学閥では飯を食って行くことは出来ない。自分に相乗作用を施した仕掛けを、自分に持っていなければならないからである。学閥で問題になるのは、人脈であるからだ。
 人間界では、何事も代価を払うと言う法則がある。それは作用と反作用が働いているからである。
 優秀なサラリーマンとして会社人間に身を呈し、粉骨砕身して勤労所得だけで飯を食っている人は生涯、自分の給料以内で生活をしなければならない。それ以外に、所得となるべき収入が何もないからである。一生涯、経済的自由を奪われた生活を余儀なくされる。
 では、何故そうなるのか。
 勝負師でないからだ。眼の勝負に人生を賭けていないからだ。
 要するにギャンブラー的要素を何処にも宿していないからである。ただ安全第一を考えて石橋を渡る人である。

 私は30歳の頃より、JRA
(日本中央競馬会)の美浦トレーニングセンターで厩務員や調教助手、あるいはジョッキーや調教師に対し、合気武術を指導しその講師を勤めて来た。そのお陰で、金持ちのギャンブラーの何人かと、知り合いになった。その機会を得た。勿論、馬主とでも、である。そう言う馬主の富豪を何人か知っている。

 私が競馬会の講師として起用されたのは、福永洋一騎手が、1979年3月4日、毎日杯の騎乗中に落馬したことに始まる。このとき氏は、重度の脳挫傷を負い、騎手生命を絶たれた。このことが起因して、私に競馬会からお声が掛かった。
 私を売り込んでくれたのは当時、美浦トレセンで調教助手会の会長をしていた村上勝利氏だった。
 当時村上氏は、またわが西郷派大東流合気武術の茨城支部長を勤めていた。わが流の皆伝師範でもある。柔道五段で、北海道の高校の柔道教師から中央競馬会の調教助手になった変わり種である。当時の美浦トレセンの調教助手会は組合も作らず、村上氏の独走の場だった。調教助手を一手に掌握していたのである。それだけに、氏は力もあり競馬会に随分と顔が利いた。

 氏が私を推挙した理由は、「福永騎手が顛落した際、柔道のような受身をしていたら、あそこまでの重傷は負なかっただろう。そこで受身をしつつ、その他にも自身を防禦出来る武道はないか?」ということを、当時、調教助手会の会長の村上氏は、上部組織から問われたのである。
 氏曰
(いわ)く「ジョッキーや調教助手が柔道を稽古すれば、体重が増える。体重を増やさないようにして、然も受身が出来、身を護ることが出来るのは、いま私が修行している西郷派大東流合気武術以外にない」ということを上部組織に進言してくれたのである。
 そこで私の出番となった。
 それ以来、私は美浦トレセンで特別講師を勤め、一年に一回、茨城支部の巡回指導をしているのである。
 そのお陰で、富豪の馬主にも知り合いを作ることが出来た。彼等との付き合いは、それ以来である。今も続いている。そこで私は「枯れない泉」の源泉を構築した。一つの人脈であった。彼等が紹介した富豪の個人教伝の門人も少なくない。

 彼等を観察すると、競馬に興じる第一の理由は「負ける余裕」をもって、貴族的な競馬と言うゲームを楽しんでいることである。
 負ける余裕という、一見「敗者の定義」であるように見えるこの余裕は、後に、私の人生観を180度変えた。発想の転換を齎した。
 イギリス紳士のように競馬というゲームを観戦して愉しみ、然も負けても、まだ余裕があり、悠々としているのである。そこに私は感銘を受けた。
 負け自体は、金銭的にはかなりの額だろう。それでも毅然とした態度を喪わず、胸を張る姿に、深く感動させられたことがある。

 紳士は、ああでなければならない……。
 私はつくづくそう思ったものである。そしてこれまでの余裕のなかった自らずの狭い了見を顧みて、井の中の蛙の世界で生きて来たことを恥じた。大いに反省する点があった。考えさせられる、改善点が幾つもあったのである。

 普通、大半の人は金が絡んでくると、殆ど損をする余裕がないのである。敗者の定義が全く理解で来ていないのである。それは根底にケチが巣食っているとも言える。
 ところが、私は馬主の毅然たる態度を見て、勝負師として「人生の余裕」を感じたのである。これは大半の、損をすることを嫌う人とは雲泥の差だった。正反対だった。損をすることを嫌う余裕のない人とは根本的に違っていた。
 損をする人は、既に人生の勝負で負けて居るのである。事実そうである。これに否定出来る人はいまい。
 だから自分の勤労所得内でしか生活出来ない。それは住宅ローンや車のローンやクレジットカードのローンで、頸までどっぷり浸かり「ローン漬け」になることだった。経済的不自由の中で生きている人達である。哀れであるが、彼等は自分の哀れに気付かない。

 つまり賭
(か)けをするギャンブラーは「身の破滅を齎す危険な人だ」と言う先入観と思い込みがあり、その一方で、仕事のない土日になるとパチンコなどの小ギャンブル場には朝から入り浸りで、それに現(うつつ)を抜かす。その日一日頑張って三万円取ったの、五万円取ったのと、その程度の小銭を相手に憂さ晴らしをしている。
 勿論、勝ち続けている訳でない。三万円取ったの裏には二倍以上の六、七万円が既に注ぎ込まれて喪われている。五万円取ったの裏には十万円以上の金が喪われている。そして年間で勝ち負けの差額をトータルすると、どんなに勝ったと思い込んでいる人でも、50万円以上はパチンコ台の中に投げ込んでいるのである。月に換算すれば、毎月4万1千円以上がパチンコ台の中に投げ込まれているのである。損を嫌うくせに、勝ったときのことだけしか印象がなく、自分の損にも気付かないのである。間抜けと言う他ない。
 結局その憂さ晴らしには、「損をする余裕がない」ことを自らで物語っているのである。自分の金に遮二無二
(しゃに‐むに)しがみつき、高が知れた人生を送っているのである。

 その実情を見るにつけ、こういう人に刀を買ってもらっても、「損をする余裕がないのだから、きっと後でトラブルの元になるなァ」と薄々感じ始めたのである。そしてこうした人は、「もう既に人生の勝負に負けている」と思ったものである。戦わずして、最初から負けているのである。

 私は富豪の「馬主」と言うスーパーリッチ層を見て、その他大勢の九割方と、一握りの一割弱は、一体どこが違うのか?……とよく思ったものである。
 すると自分で馬を何頭も持ち、損する余裕をもっている人は、言わば人生では「玄人のギャンブラーだ」ということに思い当たるのである。こうした玄人と呼ばれる富豪は、勝負における勝利と敗北の関係をよく知っており、それは表裏一体になっていることを理解しているからである。

 つまりギャンブルは、いつも自分が勝てるという妄想を抱いていないのである。此処が庶民のパチンカーと違うのである。
 金にあくせくする庶民のように、何が何でも勝たなければならない……という切羽詰まった経済状況で、ゲームを楽しんでいないのである。楽しみ方に余裕があるのである。それは負ける可能性があることも知っているからである。そして彼等は勝つために「負けるゲームもする」と言うことであった。勝ちだけを覚えて、負けを知らないと言う人ではなかった。勝ち続ける人ではなかった。
 ある意味で、これこそ、持てる者と持たざる者の考え方の相違と言うものである。またそれが富者と貧者を隔てているのである。
 私はこの相違に早くから気付いていたので、「時には負けるゲームもする」ということが、その後の人生勝負に大いに役に立ったのである。

 それが一番役に立ったのは、42歳の厄年のとき、私は大学予備校を経営していたがこれが経営の甘さから倒産し、千葉習志野の、かつて私が斬り込み隊長として送り込んだ、進龍一のところに緊急避難したことがある。所謂、夜逃げである。もうこの時、4億5千万円の大借金を抱えていた。銀行だけではなく、高利貸しすら見向きもしなかった。世間から見捨てられた人間になっていた。
 それは二進
(にっち)も三進(さっち)もいかず、頸が回らないと言う程度のものでなかった。もっと酷かった。いつ殺されても訝(おか)しくない、片足を棺桶に突っ込んだ状態であった。生きる屍(しかばね)然だった。
 しかし、それが玄人のギャンブラーの生き態
(ざま)を知っていたため、大借金をその歳から帳消しにする画策を始めた。こうして九死に一生を得て生還したのである。悪運が強かったのである。

 大借金は経営の甘さと、損益計算書の読み違いから起こった大失敗だったが、その弱点を総て洗い出し、なぜ失敗したか?……と言う盲点を探し出して行った。こうして物事を冷徹に判断する眼が生まれた。この頃から勝負に勝つための秘策が分かったような気がしたのである。
 当時、進龍一は習志野明林塾に膨大な蔵書を抱えた読書家であった。その読書家の薦めにより、私も読書を始めた。単に好きで始めたのではない。今を凌ぐ人生のテーマが、まさに読書だったからである。

 倒産した後の私は、それまで縁のなかった活字に飢えていたのかも知れない。そして猛烈に読み漁った。
 その中に一冊に『マフィーの法則』という本があって、この中にはトーマス・エジソンのことが書かれていた。エジソンは電球一個を発明するまでに一万回以上の失敗を繰り返したと言う。
 思えば、彼は失敗を恐がらなかったのである。失敗する余裕があったのである。
 ところが、思索能力に欠けてしまった大半の現代人はどうか。
 僅か一回の失敗で嘆き悲しみ、前途を危ぶみ、その小さな失敗をする余裕もないではないか。そんな生き方をしているのが、昨今のその他大勢なのである。

 私はかつて「損をする余裕」を学んでいた。
 馬主と言う玄人のギャンブラーから、負けが出ることも勝負の一つであることを教わっていたのである。そして厄年の頃、奇
(く)しくも『マフィーの法則』に出くわしたのである。
 この世は、「心象化現象で出来ている……」と、この本には書いてある。心に強く念じたことは、やがて実現の運びとなる……、そう記されている。
 そして玄人のギャンブラーの「負けることが勝負に一部になっている」という余裕を示す現実も理解で来たのである。そのお陰で、当時は天文学的数字と思えた4億5千万円の借金も綺麗に片付け、清算し帳消しにしてしまったのである。

 普通、借金が1千万円を超えれば破産を考えると言うが、一般人の耐久借金額はおおよそ4千万円といわれている。それを超えると勤労所得だけでは支払い不能になると言う。これは勤労所得の泣き所であろう。負ける余裕も経済的自由も何処にもないからである。
 更に自由を奪われた多くの人は、安全でリスクの少ない投資信託や銀行の定期預金に入れておきたいと言う人が実に多い。勝負師の面が何処にも感じられない。これは自由を奪われた負け犬なのではないだろうか。

 安全なる投資信託と銀行の定期預金。
 確かに安全だろう。目減りもしないだろう。しかしそれだけだ。
 安全第一では損はしないかも知れないが、収入の範囲内で経済的自由を奪われた生活が余儀なくされる。そして老後は、そこそこの生活が出来る老後の計画を立てる。つまりケチに徹することで、人生を生きて行くことを企てる。
 したがって、損をする余裕がないのである。

 中央競馬会に馬を預ける馬主は富豪である。巨大なビジネスを展開している。同時にビジネスでも、玄人のギャンブラーだった。
 可もなく不可もなくの無力な善良な市民と違って、冒険には代価を払うことを知っており、損は勝負と表裏一体になっていることを理解していた。それが余裕になって、実に人生をエンジョイしているのである。
 彼等は多額な損をしても大丈夫と言うほどの額を有する富豪でもあった。そして人生ゲームで金銭的には、何処にも負けたところがなかった。負けたことを後悔しないだけの余裕をもっていた。
 こうした毅然こそ、人はその人の態度に一目を置くのである。軽々しく扱わないのである。
 人はこうしたサムライに恭
(うやうや)しく虞(おそ)れを感じるのである。持ち物も、桁違いに最上作新を所有するが、それを彼等は決して自慢しないのだった。

 私の刀屋人生も、真作に行き当たるより贋作の方が遥かに多かった。しかしそれは眼の勝負に賭ける、眼力が欠けていたことが起因していた。
 真作に辿り着くためには、また多くの贋作も見て来なければならない。どれだけ多く贋作を見たかと言うことが、やがて真作に辿り着くと信ずるのである。だから喪うときには、一気に数百万単位の金銭が瞬時に喪われる。これは目利きになるための高い月謝である。この月謝をどれだけ多く支払ったかが、目利きになるための条件となる。
 そして上級者の言うことに、謙虚に耳を傾ける素直な気持ちが起こるのである。

 たまたま、まぐれで真作に行き当たったとしても、それは決して幸運なことではない。幸運の女神が、気紛れに悪戯を楽しんだだけである。そういうものに有頂天になっていたら、その先で思わぬ落し穴に落込むだろう。これは不幸なことではないのか。
 人間は有頂天に舞い上がると、その制御が利かなくなる。舞い上がったまま墓穴を掘ることが多い。そしてこういう人に限って、後悔しないで済まされる余裕も持たないし、何も喪う余裕のない人である。
 何も喪う余裕がないと言うのは、失う物がないと言う土壇場の居直りとは根本的に違う。何も喪う余裕がないというのは、人生ゲームにチャレンジ精神が皆無のことを言う。つまり損から逃げ回っている人である。
 損しないように、損から逃げ廻っている人に、私は刀を売らない主義である。六十余年を通じて得た結論だった。



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