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続・刀屋物語 3

尚道館刀剣部の刀拵工房の入口。


●素人は怕い

 多くを学んでいない素人は怕(こわ)い。小さな世界のコップの中だけで生きて来た素人は怕い。趣味人は怕い。極まってないからである。これが私の率直な感想である。
 同時に、素人ほど自分の思い込みが激しい。暗い固定観念に汚染されている。いつも自分の先入観が先行し、その範疇で世の中を観ている。その世界感が乏しいことに、また虞
(おそ)れ知らずの怕さがある。

 美術品には、刀剣類に限らず名のある物には必ず真贋があり、その両者で隔てられている。
 だが、真贋よりもっと怕いものがある。
 それは素人の知ったかぶりである。
 この“知ったかぶり”は、現品の真贋を論ずる以前のものである。
 刀剣類の基本は、真贋を論ずる前に、その一が刃に刃切れがないこと。その二が曲がってないこと。その三が、その曲がりが試し切りなどで刀身ごと捻れていないことの三点が、商いをする上で最低のルールである。こうした致命傷を負った刀剣は、普通売らないのが常識であり、このルールを完全に無視するのが素人である。

 曲がった物は買うな!。
 これが私の忠告である。心からの箴言
(しんげん)である。ぜひ耳を傾けて欲しい。
 特に、試刀術を目的にして実用刀を買う場合である。観賞用の美術刀剣はその限りではないが、曲がっていては値段が下がる。二束三文になる。酷い場合は“鉄屑の棒”として扱われ、美術品としての価値がゼロになる。あるいはその処分のためにマイナスの負債を抱えることになる。

 実用刀の場合、曲がった刀は、それを買った者が再び曲げても、その曲がりは「曲がった刀は、既に“曲がり癖
(くせ)”がついているので、その者が未熟でなくとも再び曲がることがある。その後、曲がり癖は反復され、稽古に遣えば遣うほど益々曲がって、最後は鞘に収まらなくなる」ということだ。曲がった刀は、つまり“癖もの”なのだ。
 癖ものを、また「曲者
(くせもの)」という漢字を当てるが、これは以降、何度教化しても修正が利かず、繰り返し悪事を働く輩(やから)を指して云う言葉である。
 曲がった刀は、再び曲がるという癖がつくのである。そうなれば曲がりは益々酷くなるのである。もう素人に果てに追えなくなる。

 さて、これから素人の怕さを語ろう。
 長い間刀屋を遣っていると、必ずこうした素人の手合いにぶつかる。虞れ知らずの素人にぶつかる。
 いい物を見抜く眼は、生まれながらの「格」であり、損か得かを計算していては分からない。正しい観察眼は働かない。損得勘定で、純粋なる観察眼が濁らされるからである。不純なる心が観察眼を濁らせる。濁った眼では、いい物は正しく映らない。いい物を正しく映らせるには、心の眼が鏡のように真っ平らで、澄んでいなければならない。損得に汚れていては、心眼は穢
(けが)され、その穢れが損得の禍を生む。この方が怕い。

 大半の素人は、まず「格」が無い。虞れを知ると言う、謙虚なる礼節が無い。頭
(ず)が高いのである。何処か無知のくせに傲慢(ごうまん)な素振りがちらついている。
 したがって心眼など無く、また心が鏡のように正しく澄んでいないので、欲・得に縛られ、遂には迷って欲に転び、それでボロを掴む結果となるようだ。心が濁っているからだ。曇らされているからだ。

 素人が掴んでいる物の多くは、欲や、得をするか損をするかが絡んでいるので、多くの所有品はボロを掴まされている場合が多い。
 自称・名刀と思い込んでいても、認定書や鑑定書に騙されてゴミを買い込んでいるのである。そうした者に限り、人の刀を悪くいい、自分の物を褒めちぎる。真贋を見抜く眼を持たないからだ。よく出来た物に騙されているだけである。騙されても、頑迷にそれがウソでないと信じているからである。
 あたかもそれは見栄えのいい、衣服や靴や帽子の表皮部分に誤摩化され、肝心の中身を観ていないからである。頑迷な石頭ほど怕いものはない。
 こうした者は人生を思い込みによって生きている。危うい人間である。やがて躓
(つまず)く人間である。
 それを知らぬのは、自分ばかりであり、殆ど一生気付かないものである。私は六十有余年の人生で、こうした人間を何人も見て来た。長く生きて来たと言うことは、それがけ多く人を検
(み)てきたということである。物だけに限らず、人間も見本市で値踏みして来たと言うことである。

 刀剣市もそうだが、骨董市で面白いのは、ゴミには値が付かないばかりか、安かろう……悪かろう……の品は、逆に金を取られるのである。ここが古物商の世界の変わったところであり、面白いと言えば面白い。ゴミに金を出すどころか、逆に、ゴミは金を取られるのである。
 そして「同じ古物商でも、俺はボロ買いの廃品回収業者ではない!」と怒る人すら居る。

 刀剣市で曲がった刀のボロ刀が出てきて、これに百円の値も付かなかったことがある。
 刀剣市では、曲がった刀は鉄屑
(てつくず)と看做される。
 会主は、この曲がり刀を見て、苦笑するばかりで、最初、会主は「一万円!」と声を掛けたが、会場は白け切った雰囲気が漂い、やがて「五千円」になり、遂に「千円」となって、それでも買手が付かなかった。
 そして会主は「百円!」と声を掛けた。曲がって鉄屑に百円の値を付けた。だが、百円で決着がついたのではない。

 会主曰
(いわ)く、「長い間刀剣を扱って来たが、刀剣市で刀に百円と値を付けたのは、これが初めてである」と苦笑したのである。その苦笑に釣られて、入札に参加した刀剣商たちも、苦笑と言うか、大笑いしたのであった。会場は爆笑に包まれた。
 私も四十年以上刀屋をして来たが、たったの百円の値が付いたのは今回がはじめてである。それでも、曲がった刀は売れなかった。修理するにも手の施しようが無いからである。
 そして誰かが、「一万円くれたら、俺が引き取ってもいい」と言い出す始末だった。

 この刀剣商曰く、曲がった刀の鉄屑を処理するには、廃棄処分として警察に行ったり、各地の県教委に廃棄登録をしたりして登録を抹消し、それに費用が一万円ほど掛かると言うのである。それも手弁当で、こうした作業をすれば、一万円では割が合わないと言うのである。
 刀は、曲がったから……、折れたから……と言って、それを個人が勝手に廃棄してはならないのである。警察の許可がいるし、県教委での登録抹消の書類申請と許可が要るのである。わざわざそこまで行かなければならないのである。この手続きをせずに刀剣を勝手に処分すれば、銃刀法違反で刑法に触れることになる。
 しかし、中にはバカもいて自分で勝手に処分する者もいる。こうした者の多くは、土の中に埋めるということを遣るようだが、こうした処分法は直ぐに発覚するものである。

 刀剣は本来、各都道府県の教育委員会文化課で、美術品として登録を受けたものである。
 この美術品が不慮あるいは故意の事故により、曲がったり折れたりしたら、美術品としての価値が失われるので、その失効したことにより、届けを出さなければならないのである。折れてそのままだったり、これを溶接で接合したり
(これをすると長さが変わる、反りが変わる。そこで登録証どおりの長さとそりが微妙に合わなくなる)、極端に曲がってろくに鞘にも収まらない曲がった刀【註】“癖もの”は当然、反りも狂って、反りにも微妙な違いが生じている)を曲がったままに放置することは出来ないのである。
 曲がった場合は、美術品の価値を取り戻すために修復の努力が必要である。直し専門の刀鍛冶に依頼することになる。したがって曲がったからと言って、勝手に放置出来ないのである。美術品としての効力が喪われるからである。それを勝手に廃棄してはならない。

 これは殺人などを犯して、死体を遺棄したりの罪状と同じように扱われるためである。したがって刀剣類の無断廃棄は刑事罰の対象となる。銃刀法に抵触する。
 刀剣類を自分勝手に破棄すると、銃刀の不法所持と同等くらいの罪に該当し、その際の処罰がきつい。運が良ければ検察庁への書類送検程度で済むが、一般には身柄が拘束される。警察で48時間身柄が拘束される。職場にも刑事が来る。会社員はこの時点で懲戒免職だろう。
 更に余罪なども調べられ、運が悪ければ事実無根の罪を被り、冤罪
(えんざい)が派生する場合もある。余罪が出たら出たで、不法廃棄の罪と重なり、刑罰はそれだけ重くなる。

 勿論、検察でも24時拘束され、合計官憲に72時間拘束されて、検察庁を経由して裁判所にも引き立てられ、判決が申し渡されて前科が付く。もし情状酌量が申し渡されない場合、重い罰金刑か、下手をすれば刑務所送りとなり、実刑を受けなければならない。半年か一年、あるいはそれ以上喰らうかも知れない。
 このことを確
(しか)と覚えておくことだ。

 厄介なのは、曲がった刀や折れた刀の、その後の廃棄の仕方である。これが素人には簡単に出来ないのである。
 もし、こうした刀を自分で勝手に処分すれば、間違いなく銃刀法違反で刑法に触れることになる。また、それだけ刀を所有していると言うことは、所有者が、自分に責任を問われることになるのである。各都道府県の教育委員会に名義が掲載されている名義人を見れば、その所有者が割れるのである。
 また、自分勝手に地中に埋まるなどして、処分した場合、刀剣に付随している『銃砲刀剣類登録証』は、これも勝手に破棄出来ない。

 最近はこれを破棄するどころか、刀剣類で無銘の場合、別の登録証の無い刀身にこれを貼り付け、無登録の刀に、さも登録があるように見せ掛けて闇の中で出回っているが、こうした場合も公文書偽造となって刑罰の対象となる。更に闇では、無銘と記された登録証自体に付加価値が付き、これが5、6万円の闇値で売買されている。
 特に、無銘と記されたの登録証は高値で売買されているようだ。そして、こうした闇の物を買う者も少なくないようだ。それ自体で、犯罪に手を染めているのである。しかし、罪の意識は低いようである。

 考えてみれば、刀剣を所有すると言うことは、それだけ責任が重いのである。人格を現していると言える。これを簡単に考えてはならないだろう。

 さて、ゴミには、人間は見向きもしないのである。
 それらの品は、生かしようがないからである。腐った鯛は、どのように調理しても食べられないのと同様である。
 最近、私は書画骨董に興味を覚え、研究し始めたので、刀剣とは異なる人種を多く見るようになった。そして刀剣専門店と骨董品屋の根本的な違いも分かるようになったのである。古美術の世界は素人が考えるほど甘くなく、そして奥が深い。

尚道館刀剣部の刀拵工房は、主に拵え一切を担当し、柄巻、鞘拵えなどを行う。 尚道館刀剣部では刀剣類以外に書画・骨董も扱う。

 そもそも、刀剣専門店の刀剣商と骨董品屋は同じ古物商でありながら、前者は刀剣の価値を知っており、後者は刀剣を骨董品と看做している。此処に価値観の違いがある。
 だから二、三万円と計算しても、曲がりの無いサラと違うのだから、どうしても買取り価格がこの値段になってしまうのである。
 サラとは「無垢
(むく)」ということであり、斬り疵(きず)は勿論のこと、研ぎも、それなりに研ぎ上がって錆びていない状態を言う。
 錆刀を買うのは刀剣業者で、研師などの直ぐに研げる状態にあるからであり、一般に素人はこうした物に手を出すべきでない。研代だけで、刀の値段を上回る場合もあるからである。

 錆身では売値が5.6万円だったが、研代に25万円懸かり、その評価を値踏みしてもらったら15万円ほどだったと言うこともあり得るのである。これでは差し引き15万円以上の損となる。したがって素人は、安価だからといって錆身に手を出すべきではないのである。錆身を買うのは、自分で研げるか、直ぐに刀剣研師に研ぎに出して素の姿に復元出来る経済力のある人がすることである。経済的に不自由を強いられている人は、高額な研ぎ代に束縛されるから、刀剣の玄人
(プロ)でない限りこうしたことはすることではない。素人の遣るべきことではない。

 素人で、長らく錆び身を所持している人が居るが、ランダムなる警察の調査で、登録証と刀の戸籍が合っているかを抜き打ち調査されることがある。錆刀に「窓」が開いていない場合、官憲から「刃文と中茎
(なかご)が合っているかどうか、再登録し直せ」と命じられる場合もあるのである。
 特に無銘の場合は、再登録などと言った悠長なことでなく、もっと強硬に官憲から「警察の『発見届』から出せ」と命じられる場合もある。

 錆びた物に手を出すな。私の箴言である。玄人か研師でない限り、そういう物に手を出しても益少なく、損ばかりを多く抱えることになる。だが、損を承知でこうした行動をするのは、その限りでない。自由にすればいい。
 しかし、錆を承知で買うのは、私の責任の限りではない。買った者が、直ぐに研ぐ腹積もりがあるからだ。刀剣研師に研ぎを依頼する予定があるからである。

 ここで敢えて云う。
 初心者の場合や、初めて刀剣を所有する場合は、他人の斬った痕跡の無い、かつ手垢
(てあか)がついていない、純真なる刀剣を刀剣専門店で手に入れることである。混じりっけなしの、穢(けが)れを知らない、かつ無漏(むろ)という品位がある物である。そういうものを素人の道場の指導者や、先輩から買うものでない。後で必ず問題が生じるからである。

 人の曲げた刀は絶対に買うものではない。穢れているからだ。自己運の勢いを殺
(そ)ぐほど汚れているからだ。
 穢れは、実にわが身に跳ね返ってくる。そして自己運を殺ぐ。その後の人生の、総てを根刮ぎ殺ぐ。何故ならな刀剣は単なる刃物ではなく、心の拠り所である神器であるからだ。神が宿った作者の念が籠っている。

 これが必ず跳ね返る。
 この「危険」を知るべきである。見逃すべきでない。聞き逃すべきでない。
 特に初心者はその危険が大で、最初は無垢
(むく)が健全である。
 したがって、特に素人刀剣蒐集家からの譲り受けをするものでない。
 こうした手合いから、“自称安価”と言う理由で、入手してはならない。その言葉に騙されると、後でとんでもないことになる。自称安価ではちっとも安くない。「安価」の喧伝
(けんでん)はウソである。素人の喧伝は自分はウソをついていないにしても結果的にウソになっている。既に高くつくものになっている。そして後で、必ず禍(わざわい)が起こる。
 それは人生を台無しにする禍である。運を衰弱させる。その危険なる事実に気付くべきである。素人意見を鵜
(う)呑みにするのでなく、上級者の意見も求めるべきである。

 刀剣も、一種の生命のある生き物である。
 歴
(れっ)き生命体である。生きている。呼吸している。心まである。
 姿は鉄を装っているが、実は鉄を装いながら、この世に生まれでた生命体である。その生命体を、穢す輩
(やから)が居る。素人蒐集家どもだ。穢れた物は入手すべきでない。人生の伴侶(パートナー)となるべき、自身の愛刀を汚点で塗れた物に手を出してはなるまい。無垢を買うべきである。

 これは試刀術を行う者の常識である。
 健全な修行をするには、健全なる「未使用の自分にあった長さのサラの刀剣」を入手しなければならない。
 人の曲げた、曰
(いわ)く付きの刀を購入すべきでない。それはあたかも、これまで男を全く知らない純真なる無垢なる処女を、梅毒や淋病で汚れ腐った、身も心も穢れた色ゴロを宛てがうようなものだ。これは可憐な花を、穢れで無惨に散らすのに似ている。
 処女犯しに、色ゴロを遣うとは何たる恥知らず!。

 しかし、素人蒐集家の中には、この常識が分からず、“自称・安価”というフレーズを付けて、更に素人に売り捌く者が居る。何も知らずに、罪の意識無しに遣っている場合が多い。知らないから恐ろしい。罪の意識無しにしているから危うい。いつかは墓穴を掘るだろう。
 あるいは売った時点で、墓穴を掘っているかも知れない。古物営業法違反、所得税の申告漏れ、それに伴う脱税、無価値美術品の押し売り……など、その他諸々の罪が重なる。

 こういう物を掴まされた本人は売り主を恨むだろう。怨霊にも似た怨みを抱くだろう。
 しかし素人ゆえ、それに気付かないだけである。人の心を逆撫
(さか‐な)でし、弄(もてあそ)んでも鈍感な素人はそれに気付かないだけである。
 格言として、「刀剣類を手に入れようとしたら、骨董屋からではなく刀剣専門店で」という言葉がある。
 更にこれを砕いて言えば「刀剣を手に入れようとしたら、勉強不足で未熟な素人蒐集家からではなく、刀剣専門店で」ということが言えるのではあるまいか。
 過ぎたるは猶
(なお)及ばざるが如し……、覆水盆に返らず……である。一旦しくじったら元に戻らない。次に、しくじりに懲りて誤らないようにしなければならない。現象界の事象は時間とともに過ぎて行く。唐代の詩人・陶淵明(とう‐えめい)をご存知の方なら歳月の仕組みは理解済みであろうが、再び、盛年(せいねん)が重ねて来ないように月日は流れて行く。
 しかし買った方も同等のしくじりがある。これを忘れてはなるまい。素人から買ったことを反省すべきである。刀の戸籍を現す各都道府県の教育委員会文化財保護課では、「購入」という言葉は「譲渡」となっているが、これは「買った」ことと同義である。

 私が発する箴言
としては、刀剣類は最初無垢の物でならず、曲がったり溶接をしたりした物を取得するべきではない。これは真贋を論ずる以前の問題である。この手は、禍を抱えている厄介な代物であるからだ。それに素人は怕い。
 これは私の、これまでの実感である。こうしたことを経験させられた。

 そしてである。
 日本刀を所持したいと願うなら、絶対に素人の所持した刀を買わないことだ。
 刀剣の勉強を長年して来て、刀剣類は何十年にも渡り見て来た刀剣商から入手すべきである。
 単に、刀を何振りか所持しているというこの手の素人から、刀を譲ってもらわないことだ。
 こうした素人は普段はサラリーマンなどをしていて勤労所得で暮らす会社員である。一つの職業をして生計をタタている。プロではない。それだけに危険とトラブルを抱えている。
 更に一番危ないのは、素人は「知らない」という致命的な欠点を最初から抱えているのである。

 多忙な仕事に追われながら普段はサラリーマンを遣り、そのうえで趣味人として刀剣を蒐集している……というような人から、刀は絶対に買うべきでない。また、価格も適正価格でない。間違った思い込みにより、刀剣店の陳列に並んでいる刀の価格より、とにかく非常に高いのである。素人の「思い込み価格」である。法外価格といってもいい。
 では、なぜ法外なる値を付けるのか。
 素人の特徴は自分の物を過大評価し、人の物を過小評価するからである。自分の持ち物は過大評価の上に基準線が引かれているため、とにかく高いのである。
 一方、人の物は過小評価して見下しているから、自分の持ち物こそ一番と信じているのである。

 過大評価から起こる素人の金銭感覚は、ボロ刀にも相当な値段をつけて、刀剣市場とは比べ物にならないほど高値である。そのため市井
(しせい)とは異なる、掛け離れたびっくりする価格で売りつけられる。気を付けるべきだ。
 そして問題は、購入後のトラブルである。
 そのトラブルの最たるものが、「刀の曲がり」である。
 更には「刃切れ」などと続き、尖先が欠けて破損していたり、研ぎが悪かったり、刀身が捻れているなどの欠陥もある。そうした欠陥に対して、絶対にアフターホローをしないのが素人蒐集家の売主である。

 刀の曲がりは素人では直せない。素人では道具もないし、直す技倆もない。職人でないから経験も皆無である。
 直せないだけに、無銘の刀は刀身自体の長さが、本の僅かだが「数ミリ単位」で違いが出る。反りにも影響が出て、反り幅が異なっている。つまり登録証に書かれた長さと実物の刀剣の長さが違うことになる。反りも異なる。
 これは、官憲から「登録証の偽造」が疑われる。登録証がすり替わったのではないかと疑われ、闇では摺り替えの登録証が出回っているため、これを購入して付けたのではないかとの容疑が掛けられる。
 あるいは両者の戸籍は同一だとしても、長さと反りが異なるために、再登録を命じられることもあるのだ。

 そうなると、振り出しに戻される。警察の『発見届』
(警察はこれをなかなか受理せず、また『発見届』の発行書を容易に書いてくれない。それでもしつこく食い下がると、刀剣の出所をあらゆる角度から追求してくる。刑事事件の取調官の取調べと同じような容疑者扱いで徹底的に追求される。発言にウソがないか、同じことを繰り返し訊かれる。それで取調官を納得させられれば、やっと、渋々『発見届』の発行がなされる。届け人より役者が上であることを覚悟しなければならない)から始まり、出所の刀の戸籍である各都道府県の教育委員会文化財保護課に、まる一日仕事を休んで登録審査に出向かねばならなくなる。大変な動力だ。
 そしてそれで再登録がなされれば、よいのだが、「美術品として価値がない」と看做された場合、登録は無効になり、没収ということもあり得る。
 曲がった物を買うと、こういうトラブルが起こってくる。
 そして、これは曲がった刀では、よくあるケースである。

 刀が曲がると言うことは、実用刀としての効果が薄いばかりでなく、刀身自体に問題を抱えているからである。
 例えば「素延べ」などの、鍛えの入っていない刀である。こうした刀は、素人が斬ると曲がり易い。したがって美術品としての価値も薄い。
 試刀術などで、「斬る」ことが目的なら、しっかりと鍛え、刃文も存在し、焼きのある刀を買うべきである。変色などの色褪せた、刃文の不確かな物は買うべきでない。

 更にである。
 素人蒐集家は古物商許可を公安委員会から得た公然たる刀剣商でないから、本来は売り捌く資格がない。売り捌いた場合、古物営業法違反となり刑事罰の対象となる。
 また知らずに買った者も、検察庁送りや刑事罰の対象にはならないものの、会社を二三日休み、警察から任意出頭を求められ取調べを受けることがある。しかし、売った方はそうはいかない。任意出頭などではない。明らかに古物営業法違反である。刑事罰の対象となる。
 更に売って利益を得ながら、それを確定申告せず所得税を払わなければ脱税である。これだけで売った方が、公務員か上場会社の会社員なら、懲戒免職だろう。
 また、公安委員会の古物許可証がなく、あるいは以前取得していて失効した者が、業者と買い手の二者に跨がり、刀剣類を斡旋して二者の何
(いず)れかの一人から仲介料を取った場合も古物営業法違反である。歴(れっ)きとした闇行為になり、仲介料を確定申告していなければ所得税法違反で脱税である。
 ちなみに刑事事件を起こして懲戒免職になった場合、再就職が難しいのは言うまでもない。

 昨今は日本刀による不法所持やそれに関係する傷害事件も起こっているので、警察当局はこうした「陰で販売する違法者」に敏感である。びしびし取り締まっている。
 売った方も、買った方も「知らなかった」ということだけでは済まされない。もう刑事罰の対象になるのである。
 素人から買うな……。絶対に買うな!
 長年経験を積んだ刀剣商から買え!
 そして曲がった刀は買うな!
 私の忠告と箴言である。

 特に曲がった刀は、自己運を悪くする。
 もし騙されてこうした刀を譲渡されてしまった場合は、タダ同然の値段でもいいから早く処分してしまうことである。手放すことだ。トランプゲームのババは、いつまでも握っておくべきものでない。
 私は、素人の指導的立場にある者が、曲がった刀を、配下の初心者に売り付けたことを知っている。
 こういうのを、言葉を変えて表現するなら、初心者と言うのは、あたかも地方の田舎から上京したばかりの純真な朴訥な“おぼこ娘”である。処女である。

 その、右も左も分からないおぼこ娘に、「いいところに連れて行ってやるから」と誑
(たぶら)かして、すけこまし、新宿歌舞伎町あたりの売春宿に連れ込み、“曲がり者”が無理矢理、手込めにするようなものである。それも、曲がり者は日頃の性癖が祟(たた)って、以前から梅毒か淋病を患っている。そういう曲がり者が、純真で朴訥なおぼこ娘を犯すのである。強姦した上に、梅毒か淋病を伝染させる。
 道場指導者が役職を笠に着て、初心者に曲がり刀を売りつける。寸法狂いを売りつける。無垢でもないものを売りつける。これはあたかも何も知らない処女を、ベタ菌を抱えた梅毒患者がおぼこ娘を強姦するようなものだ。その構図に酷似する。まさに、そう言う状況に等しいと云えよう。理不尽と言う他あるまい。

 そして強姦を遣り終えた曲がり者が、公安委員会発行の古物商許可証を取得しておらず、古物営業法違反を犯しなららも罪の意識がなく、カエルの面に小便だったら、これを何と表現していいのだろうか。
 昨今は刀剣類を用いる古流派や居合道の道場でよく見掛けられる、指導層と初心者の理不尽な上下関係が起こっているようだ。
 しかしその指導者が、人物審査の上、公安委員会の発行し認定した古物商許可証を取得し、刀剣市場などにも出入りして現在の刀剣類の市場相場を把握し、古物商法に則って販売しているのならまだしも、モグリで自分勝手な思い込み価格で、法外な値を付け下の者に疵物
(大半は曲がったり捻れたり、酷いときには折れた刀を溶接している物もある。こうした物は、長さと反りが『銃砲刀剣類登録証』に記載されたものと異なっている場合が多い。登録証偽造か銃砲刀剣類不法所持の容疑が掛けられる)を売りつけているとしたら、法に抵触するばかりでなく、その指導者自身の人格が疑われても仕方あるまい。何が人の道だ、礼儀だとなる。

 私は子供の頃、悪人と言うのは、覆面
(ふくめん)をして銀行強盗をしたり、堅気の衆に言い掛かりをつけて脅迫し金品を巻き上げたり、無法を働いて暴力を振るうものと思っていた。耳目をつんざく、おどとおろろしいものと思っていた。
 ところが今は違う。時代が変わった。
 悪が変質した。善良な市民に取り憑いた。
 普段は白いワイシャツに紺の舶来品の高級スーツで身を固め、赤いネクタイなどをしてスマートに振る舞い、エリートの銀行マン然として銀座辺りの高級クラブ街や多くの社交場に出入りしたり、海外に飛んだりの多忙を極める上場会社に勤めていて、地位も社会的に認められるような人間である。そう言う人間が、時と場所を変えておぼこ娘を手込めにして性病を感染させるに等しい行為を働き……、そのうえカエルの面に小便……。これを何と云えばいいのだろうか。
 知らぬ存ぜぬでは済まされず、知らなかったとも云えまい。

 この手の人間は、今では何も暗黒社会の犯罪組織にいるのではなく、裏社会にいるのでもない。
 ごく一般的に、表側の庶民の中に溶け込み、可もなく不可もなくと言うような堅気の素人の中にも、よく見掛けるようになった。そして自身に、おぼこ娘を手込めにしたことの罪に自覚症状を持たない。身に憶
(おぼ)えがないと抜かす。
 世に恐ろしきは、可もなく不可もなくの、ごく一般の善人面した素人だ。
 よく、可もなく不可もない善人は、善いことも悪いことも「何もしない」というが、何もしないと言うことはない。表面は温和なようで、それが、どっこい……、裏の貌を持つ。
 表と裏の二面性を持つ。表は、ひ弱な善人面然だが、陰では法の抵触を巧妙に逃れて、おぼこ娘を誑し込んで手込めにすることくらいは朝飯前で遣って退けるのである。実
(げ)に恐ろしき存在だ。

 かつて犯罪は貧しいが故に起こすと、反社会的、反政府的な発言をする左翼陣営の喧伝で、そう信じられていた。しかし、この喧伝にはウソが存在した。今日の善良な市民と定義される一部の人間の中にも、貧困とは無関係でありながら、犯罪に手を染める堅気の素人が多いではないか。
 車の運転中に携帯電話の遣り取りをする。近道のために進入禁止の道路に侵入したり逆走する。人が見ていなければ、必ずしている。
 そしてこの手合いは、古物営業法違反などの美術品をモグリで売り捌き、公務員規定や上場会社の社則規定にも触れず、所得税の確定申告も怠り、脱税しても脱税していると言う自覚症状をもたない。痛痒も感じない。そうした手合いは、暴力団などのその筋の中に居るのではなく、ごく普通の一般人であり、堅気然とした「善良な市民」と定義される素人の中に居るのである。

刀は「土」の中から生まれた。故に神の遣わした霊器である。単なる刃物ではない。ナイフの類とは違う。
 土の中から生まれた以上、土地神の化身
(けしん)として生まれた霊器であり、土地の化身が刀に姿を変えたのである。

 刀は稽古をするに当り、「真っ直ぐで無垢な物」でなければならない。曲がったり、折れたりしてそれを溶接で接着した疵物
(きずもの)であってはならない。そうした疵物は、刀剣自体の正中線が狂っているため事故の元兇である。狂った物に、ろくな物はない。大怪我の元であり、そうした刀剣は、所持者の運気をも悪くする。誤ってこうした物を購入したのなら、即刻手放して運気のよい物に買い替える必要がある。
 刀剣は霊器である。霊が宿っている。だがその霊は、必ずしも善霊とは限らない。

 曲がったり折れたりして、刀身には悪霊も棲
(す)み付く。その悪霊が中心線を狂わせ、禍を齎す。曲がっていては、第一、左右の「合谷」が中心線上に重ならず、正しく斬り結ぶことが出来ない。これこそ禍の元兇ではないか!

 日本刀を所持する者は「土地神の理
(ことわり)」を知らねばならない。この理を無視して、日本刀の霊器としての御加護は受けることが出来ない。運を益々悪くするだけである。刀剣を所持して、衰運を感じるようになった元兇には、土地神の理を無視したところにある。曲がった刀や折れた刀を溶接で繋いだりすれば、当然そこには善霊が去って、悪霊が棲み付く結果となる。

 刀に宿った善霊は、本来「破魔
(はま)の威力」を所有しているものだが、曲げたり折れたりして繋いだ物はこの威力は無い。疾(と)っくの昔に威力は去っている。去っているばかりではない。悪霊の住処(すみか)となって、刀剣所持者に悪さをする。これは、思わぬ事故や事件に遭遇したり、抱え込んだこれまでの持病を悪化させることにもなりかねない。
 知らないことの怕さは此処にもある。

 素人は怕
(こわ)い……。
 この言葉は、奈良柳生流の岡田了雲斎
(奈良柳生の柳生月心流の第十七代家元。奈良柳生は柳生柳生十兵衛三厳から始まる)先生の言葉である。
 岡田先生の言によると、素人は知らないから怕いと言うのである。礼儀も知らず、作法も知らないからである。知らぬ尽くしである。これが、道には暗い素人の実体である。
 基本から正しく学ぼうとすれば、他人が曲げた“傷物”で稽古すべきではないのである。

 傷物は刀剣価格の常識から言うと、一度曲がってしまった物は、例えば100万円の物では、半値以下となる。せいぜい十五万円か、十万円と言うところだろう。また、五、六十万円程度の物ならば、二、三万円がいいところだろう。こうした刀剣を業者間では“曲がり物”という。曲がり物は、一万円でも引き取り手が無い。実際に百円でも引き取り手が無い実情が在
(あ)った。
 それに初心者が稽古するには、曲がった刀は剣筋を不確かにするので適当ではない。適当でないだけでなく、実に危険である。
 だが、この「危険」を知らないから、また素人は怕
いのである。
 
 では、何処が怕いのか。
 素人刀剣類蒐集家の中には、古物商や刀剣商から買うと、“高くて、ぼったくられる”という被害妄想を持っている。商売人はぼったくる、これは被害妄想の最たるものである。
 そこで、刀剣類の研究歴史の浅い素人蒐集家は、自称「安価」を口癖のように連発し、素人同士で交換したり、売買したりしている。あまり信用出来るものでない。
 勿論、前者は古物商法違反であり、後者は確定申告の所得税を無視した脱税の疑いを持たれる。警察と税務署から睨まれるのである。
 だが、素人はこれらのことには頬っ被り。どこ吹く風……。
 ところが、この頬っ被りが禍となって跳ね返ってくる。世の中は作用と反作用が働いていることを知るべし。
 そして怕いところは、実にこの点にあるのである。
 二つの違反を働きながら、自分で違反をしている自覚症状が無いのである。これが素人の怕さだ。

 自己流の素人判断を剥き出しにして、被害妄想を抱きつつも、その一方で認定書や鑑定書を有り難がるのだ。
 しかし、これらの鑑定書類にも偽造が出回り、その証書自体が本物であっても、「鑑定ミス」なども多々起こっている。これらは個人の、わたくしの物であるから、偽造しても、鑑定ミスをしても、法的には私文書偽造の罪で済まされ、大きな罪に問われることは無い。そのために、これらの物が闇ルートの中で横行している。
 これは実に「怕いこと」ではないのか。

 また剣術の儀法から云うと、曲がった刀は柄を握った際、左右の「合谷」の経穴上の一直線が尖先
(きっさき)の点先の中心線上から外れることである。先ず定義すべきことは、尖先は「点」ある。この「点」が左右の合谷上に一直線上に伸びて、結びついていなければならない。斬り結ぶ……の「結ぶ」は正中線上に真っ直ぐ伸びたことを言う。少しでも曲がっていたら、中心線上に剣先が真っ直ぐ伸びないのである。結べないのである。

 つまり、曲がった刀は柄の中心が手許
(てもと)に掛らないので、「刀法の理(ことわり)」が働かず、初心者が曲がった刀で稽古をすると、振ったときブレて、思わぬ怪我をすることになる。怪我のうちでも、一番多いのが、手許が狂って、自分の足を切ると言う事故である。初心者に多い事故である。
 初心者や素人は「得物に振り回される」からである。
 これは刀に限らず、木刀をはじめとして、杖や棒、あるいは槍や薙刀などを持つと、必ずそうした得物に振り回され、バランスを失うことである。
 このバランスを失う……と言うことに、無能な指導者は気付かない。力
(りき)んで、力が入っていることに気付かない。観察眼が無いから、自称指導者と雖(いえど)も、見逃しをし、また受け入れるべき格言を聞き逃すのである。

 眼の勝負に勝つためには眼力を培っておかなければならない。
 しかし眼力は真贋を見抜く眼力であるから、そのためには真作のみばかりでなく、大いに贋作を見て研究しなければならない。真作に行き着くには、どれだけ贋作を見て来たかと言うことに懸かる。
 つまり金持ちになるためには、貧乏と言うものがどんなものか知っていなければならないのと同じである。一方だけを研究しても片手落ちになる。両方を学ばなければならない。贋作だけでなく、鈍ら刀やボロ刀という低俗な物も多き見なければならない。つまり闇の世界を見る修行がいる。闇の世界の悪辣
(あくらつ)な物を見てこそ、初めて光り輝く真作に辿り着くのである。光を見るには闇は必要なのである。
 こうした経験は、悪辣な物と真面目な物との両方を比較して、初めて辿り着く眼力養成法である。
 人間現象界では、常に作用と反作用が働いていることを忘れてはならない。それについて、つまり代価を払うと言うことである。



●見せびらかし

 人間は、自分が世間から高く評価かされることを強く望む生き物である。
 人間は生涯を賭
(か)けて、自分に対する注目度を期待し、その評価を求めて奔走する生き物である。それが、ただ一筋の願望である。要するに名声を得ることに奔走する生き物である。

 奔走度合いは、階級が下がれば下がるほど烈しくなり、人間的なレベルもその区別が上中下の三段階である場合、多くは中以下の人間であり、願望と自尊心で上を見返すと言う、穴狙いの逆転劇を目論んでいる。凌ぎ、そして出し抜きの意図が背後にあることは否めない。更には、出し抜いた後の優越感である。他を圧した、鼻高々な優越感は人間の感情の中でも極めつけである。圧した方を見下すことが出来るからである。階級が中以下に下がると、やたらにこういう手合いが多くなる。
 あるいは刀剣蒐集IQが低いと言い換えてもいい。

骨董類 銃砲刀剣類

 そこでIQが低いと「持ち物自慢」となる。レベルの低さを、持ち物自慢に摺り替えるからだ。
 普通、上のクラスは自分が計り知れぬ財宝を蓄えていたとしても、それを決して人に見せびらかすことは少ないようだ。むしろ隠す方が多い。宝は隠すことで価値が出ることを知っているからだ。
 ところが、中以下となると、そうではない。IQが低いために、感情から、衝動から、遂に持ち物自慢を始めてしまうのである。一点自慢だと、遂にそうなってしまうようだ。

 特に下のクラスになると、計り知れぬ財宝を蓄えながら深山幽谷の洞窟に隠れ、絶対に人に知られぬように隠し通すということは、先ず出来ないだろう。人を掻き集め、見せびらかしたくてうずうずするだろう。
 隠遁を企てるは上の上の最上級であり、最上流階級の大富豪が人知れぬ場所でひっそりと暮らすのは、そもそも卑
(いや)しい見せびらかしを嫌うからである。
 このクラスになれば、欲望の象徴である富ですら、もう人生の目的から外れている。ただ長生きを企てるばかりである。太く短くの中以下の階層と反比例して、最上流では細く長くを企てる。

 一方それに対し中以下は、喧伝
(けんでん)が人生を生きる主目的となっている。そのためには派手で華々しく、短くとも、人を出し抜けがいいのである。
 俺は天下の銘品を所持している……、それのみがその階級の願望である。そこで見せびらかしが起こる。
 人が高価な絶品を言われる美術品を買い集め、いい女を妻にし、またプール付きの豪邸に棲
(す)もうとするのも、自分は人より一歩先んじて優れていると他人に知らしめたいからである。
 豪邸もよく考えれば、今では決して最上級の「超」がつく上流階級の物ではなくなっているのである。日本ではスーパーリッチ層も「超」のつくものではなくなっている。「超」のつく一握の階級は、人知れぬ……という行動を好み、世間から消えようと企てるからである。注目を浴びまいと努力を払う。
 だが、その他大勢はそうでない。

 人が何事かに懸命に励むのは、自分を世間に知らしめたいからである。自分の価値を高く評価されたいからである。
 妻君や恋人でも、美人を求めて人が振り返るような女性を好むのは、自分と言う人間の喧伝が主目的なのである。
 人間はこの世で息を引き取るまで、俺を認めろ、俺を認めろと、声なき声で叫び続けているのである。それだけに見方を変えれば、可憐なる願望を掲げた生き物であると言えるかも知れないが、これは初期の状態であり、まだ純粋性が残っている条件に限り可憐なのであって、世間の垢に揉まれた時点では、もうすっかり可憐さを失っている。穢
(きた)く濁っている。
 あたかも充血した眼に、更に黄ばみが加わったように……。欲望、ギラギラであり、底が見えている。

 持ち物自慢をして、それに優れた面や羨望を浴びることは人間誰でも持ち続けている願望であろう。人を振り返らさせ、あっと驚きの声を上げてもらいたいのが自分に対する評価を待つ自負心だろう。自負心はもって悪いと言う物ではないが、年齢相応の自負心が必要だろう。年齢を閲
(けみ)するにつれ、自負心は軟らかく解(ほぐ)して行くものである。自負心を責任感へと転嫁して行くのが年の功である。
 ところが五十半ばに迫りながらも、自負心だけが旺盛な“見せびらかし屋”や“見せたがり屋”がいる。
 能ある鷹は爪隠す前に、能の無い鳶は鷹の真似をして自分を大物振り、やたら見せびらかしをする。見苦しい限りである。

 だが、人間誰しも宝を抱えながら、それを無言で通すことは、中以下の人間ならば誰にでも出来まい。あるいは上のランクにいてもそうかも知れない。人の性格だろう。
 世間の評価を、ただ俟
(ま)つことは非常に難しいことである。そうした有頂天の自分を抑えることは中々難しい。
 美術蒐集の世界だけではなく、科学でも芸術でも、人間の為すところ願うところは、自分がこれまで所持して来た足跡に対して「見せびらかしたい」という願望があるからだ。そして恃まれぬのに、見せびらかす喧伝の為に、人はある意味で辛い苦を宇を重ねていると言えよう。

 総ては、無理やり己を世に押し出し、さあ、俺の持ち物に注目してくれ、仰ぎ見てくれというのが、プール付きの豪邸であったり、美女であったり、物財であったりするのである。賛嘆と感嘆を強制する、何たるエゴイズム……。

 この自我意識の中には、政治家が、いや日本の場合は政治家ではなく政治屋であるが、政治屋が権力をもって人間の行動を操作しようとするのは、芸術家や科学者が己の表現力をもって画期的な、アッと驚くようなそれを表現して、人の注目を集め、しいては人間の精神を支配したいからである。英雄になりたいからである。
 この世に、無私で、献身的な……という人間は殆ど存在しない。
 総ては支配階級と被支配階級に別れている。支配する方と支配される方だ。この両者の相関関係で世の中は成り立っている。その側面に名声餓鬼の執念が渦卷いているのである。

 しかし、名声餓鬼のこの世にあっても、評価を控えめに……とする精神があってもいいのである。自分など、評価されなくてもいいと、端から相手にしない探求者がいてもいいのである。そうした探求者の持ち物こそ、実に言葉では表現出来ないほどの素晴らしい一面を披露してくれるのである。こうした疲労に出会えてこそ、一方で眼の勝負に勝ち残る本当の眼力が付いて来るのである。

 それに長い間刀屋を遣って来て気付いたことだが、刀を扱う素人も玄人も、その大半は「面が湿っている」ことである。決して、あたかも長岡藩家老の河井継之助のように、面が乾いていないのである。
 かつて司馬遼太郎は、河井継之助を評して「面が乾いている」と表現した。
 継之助は、物事は鮮やかに克明に評定を下し、その裡側
(うちがわ)に崇高な自負心を抱き、それでいて野心も我欲も綺麗サッパリと吹き切れていた。それはあたかも、爽やかであり、涼やかでもあった。
 面が乾いている……、それは世にも珍しい欲望から解放された解脱の姿であったと思われるのである。

長岡藩家老の河井継之助は「面の乾いた男」だった。野心や我欲は、とうの昔に吹き飛んでいた。爽やかで涼やかな潔い男だった。

 ところが世の大半は違う。
 各々に鬱勃
(うつぼつ)たる功名心を密かに企み、抑え切れぬが欲でぎらついている。湧き上がるような野心を抱いて、その夢を追い掛けている。そして親戚一同を前にして、故郷に錦を飾るという野望を抱いている者が多い。
 野心に燃えている者は、また自惚れの強い御仁
(ごじん)でもある。面は、しっかり湿っている。
 面が湿っているため、性格的には人を人とも思わない傲岸
(ごうがん)な者が多い。そのために必ず摩擦を起こし、敵対者を作る。同時に怨みも作る。

 野心満々は、内心は上昇志向を抱いているために、力がないくせに背伸びをしたり、等身大以上に虚勢を張ったりして虚構を演出するが、中身は張り子の虎である。精一杯気張っているが、無理な気の張り方をしているだけである。また空威張りは表面に発覚し易い。
 だが肝心な、詰めの部分の思慮が欠けるため、最後の最後でどんでん返しを喰う。上手の手から水が漏れるのではなく、張り子の笊の骨組みから虚構がバレるのである。空威張りの発覚だ。これは虚勢者の一つの落し穴といえよう。
 私はこれまで面に湿っている人間の、土壇場でのしくじりも多く見て来たのである。

 企てが匂う見せびらかしはしない方がいい。能ある鷹は爪を隠すものである。見せびらかしを始めた途端、また持ち物自慢を始めた途端、その先には落し穴が待ち構えているのである。そして、これを逆手に取られて悪評を撒
(ま)き散らされることもある。それを充分に心得ているのが最上流階級である。



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