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個人教伝指導日誌 9

何とも奇妙さを思わせる不思議な建物・遠思楼……。
 咸宜園の中には遠思楼という不思議な建物がある。「遠思」と名がついているのだから、思いを馳せるときに、あるいは思索をするときに、この建物の二階の丸窓から思考して哲学に耽ったのだろう。そして「丸窓」は宇宙を顕していた。

 遠思楼の丸窓の「円」は宇宙への思索に遣われてたのである。
 円は、また『一円相
(いちえんそう)』でもある。
 禅で、悟りの象徴として描く円輪を「一円相」という。また「円相」は曼荼羅の諸尊の全身を包む円輪でもある。

 一円相を挙げれば、それは『碧巌録
(へきがん‐ろく)』の中には、「一円相」を問うた公案が出てくる。そして公案は、悟りとは何か、囚われないとは何か、欲と愚かさから離れ、真の自由を得たとき、そこに先人たちの珠玉を観じるとされている。

 「一円相」は、宇宙をも包含するという。自由自在に変化するともいう。しかし、円相のみに固執したら、真意を見失うという。
 では、「一円相」なるものは、いったい何であろうか。

 一円相は、唐の時代、耽源
(たんげん)禅師が編み出し、その弟子・仰山慧寂(ぎょうさん‐えじゃく)が、学人教化の手段に円相を用いたことから、中国禅の大事とされている。
 『碧巌録』 によれば、陳操
(ちんそう)という役人がいて、この人は禅によく通じた人であった。
 ある日、資福
(しふく)和尚に陳操が「一円相の公案」について訊ねた。和尚は黙って空中に、一円相を描いて見せた。
 それを見た陳操は、「そのようなものは、何の役にも立ちません」と反論した。すると、和尚は黙って居室に帰り、戸を閉ざしてしまった。

 この時、陳操はある程度、禅に通じていたので、資福和尚が一円相を示しても、「そんなことくらい知っていますよ」と言うつもりであったのだろう。しかし和尚は、「知ったかぶりをして悟りすましていても、空中にかいた円相に囚
(とら)われていたのでは、悟りを得たとはいえないではないか」と言う意味を込めて、無言のまま居室に帰って行かれたのであろう。

 さて、一円相は天地大自然から大宇宙を包含するばかりでなく、その状況に応じては、心の姿を顕したり、あらゆるものに自由自在に変幻するのである。その為に「円相」ばかりに心が囚われたのでは、本当の真意は見逃してしまうだろう。



 かつて剣豪・宮本武蔵は吉岡一門を討ち果たした後、美濃の大仙寺に愚堂
(ぐどう)和尚を訪ねたことがあった。そして天地大自然のことについて、教えを乞うたのであった。その時、和尚は何も言わず、武蔵が立っている周りに杖で一円相を描き、そのまま旅に出てしまったのである。武蔵は、一円相の中に取り置かれ、これが何であるか、三日三晩考え抜き、ようやく一円相より脱することが出来たという。

 一方、槍も「円相」を貫く「術」である。
 槍術者は日夜修練を重ねると、槍を突く場合、そして退く場合、重心を失わず、躰を中心に「東西南北四維上下」の「天地十方」を自在に突き、あるいは退き、その時、槍を持った手は中心に「一つの球」となるようになる。この球を「円相」といい、この操法を「円月」という。

 円には初めがなく、終わりがなく、その中心に、吾
(わ)が心を置き、自由自在の「変応自在の球」を、自身を中心に創り上げる。
 「円」のもつ不思議さよ……。



●日本を襲った邪神界の妖霊

 かつて人の気持ちが分かることは、指導者の必須条件であった。
 日本においてそれは武士階級だった。
 文明の発生に検
(み)てよりこのから数千年、その必要十分条件を満たしていたのは、わが国の武家政権であった。そして武門では、世間と言うものを具体的には自分に指示を与えてくれる人であり、また働きを同じくする同志と考えていたのである。

 したがって、大旆
(たいはい)を掲げた旗の下に集まったのである。現に幕末から維新に懸けての尊王攘夷はそれでなかったか。幕末に擡頭(たいとう)した尊王攘夷は、天皇の権威を高め、外国を排撃し、外夷を打ち払うことにより、幕藩体制の安定を図ることを目指したものである。これによって日本は封建時代から近代へと漕ぎ出したのではなかったか。
 ところが、これがいつの間にか急変した。いや、豹変といってもいいような青天の霹靂が起こった。幕政批判の思想的根拠として機能するようになったのである。

 武士道の崩潰、そして大和魂の否定。そんな豹変する事態が起こったのである。あるいは邪神界から日本精神の崩潰が仕掛けられたのだろう。そう推測する。
 だが、こうした当時に一つだけ評価することがある。それは徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜の態度だった。謹慎に継ぐ謹慎。蟄居
(ちっきょ)に継ぐ蟄居……。慶喜は、蟄居の刑を自らに課せることで、日本を救ったのである。

 慶喜の行動は、「何もしない」という隠棲に代表されているのではないか。このとき、下手にばたつかなかったのである。
 それは誠意と情熱に代表された行動律が功を奏したからではなかったか……。かくして、取り敢えず欧米列強の餌食
(えじき)にならなくて済んだ。植民地化が防がれた。
 今から、この話を始めよう。

 明治と言う時代は霊的に検(み)て、サターン(Saturn)の入り込んで来た時代だった。邪神界から送り込まれたサターンが猛威を揮った時代である。
 霊的に検てサターンは、右回り旋風を齎す「災いの星」である。長くしこりを残す禍根
(かこん)の元兇である。
 その最たるものが“堕天使”といわれた「ルシファー」だった。
 神霊を無視し、右回りの猛烈な力によって破壊へと導く外国の霊団である。そういう霊団が、幕末から明治に掛けて侵入し、日本に革命を齎した。この革命をフリーメーソン革命と言う。明治維新は、ユダヤ・フリーメーソン革命だったのである。

 討幕運動は、反ユダヤ勢力の撲滅だった。
 また、当時の徳川幕藩体制を日本列島から駆逐することが討幕運動の目的だった。
 そのために邪神界は、日本にトーマス・ブレーク・グラバーを、フリーメーソン日本支社長として送り込んで来たのである。
 グラバーはフリーメーソンの高級メンバーであり、またアイルランド出身の武器商人だった。グラバーに与えられた指令は、反欧米的かつ反ユダヤ的徳川幕府を倒壊させ、日本を親欧米的な立憲君主酷に作り直すのが、その目的だった。

 日本の欧米化、則
(すなわ)ちユダヤ化は、嘉永六年(1953)六月にアメリカ使節であったペリーが浦賀に来航したときに始まる。
 「黒船きたる」の急報は、日本中を蜂の巣を突ついたような大騒ぎに発展させた。
 ペリーはアメリカ大統領の親書を携え、東インド艦隊を率いて浦賀に来航した。そして翌年江戸湾に再航、横浜で日米和親条約を結ぶ。
 更に下田ならびに箱館に回航した。
  万延元年
(1860)一月には、安政五年(1858)に調印された日米修好通商条約がアメリカで批准され、安政六年(1859)初の遣米使節が派遣されることになった。この使節団の中に、後に「脱亜入欧」を唱える福沢諭吉がいた。

 安政六年
(1859)の冬(万延元年1月19日)、アメリカ軍艦ポーハンタ号に乗り込んだ福沢諭吉は、渡米後、熱烈な西欧崇拝者になって日本に帰国した。福沢が洗脳された確率は大だろう。
 その後、文久元年
(1861)には幕府使節ととも咸臨丸に乗り込み再び渡欧した。帰国後、江戸築地鉄砲洲の中津藩屋敷内に創設した蘭学塾(安政5年に設立。のちの英学塾に改名)で教鞭を執った。
 三度目の渡米は慶応二年
(1866)で、生涯を懸けて西欧文化の普及に努めた。帰国後『西欧事情』【註】慶応2年から明治3年までの間に著された十巻で、欧米を巡遊した見聞や洋書に基づき、西洋の政治・風俗・経済・制度・文明を啓蒙的に詳説したもの)を著し、日本で活溌な啓蒙活動を展開した。
 慶応四年
(1868)、築地鉄砲洲の中津藩屋敷から芝に移転して、そこを改築し、旧名の英学塾を改名して「慶応義塾」を創立した。

 福沢諭吉は、日本では彼の業績を称える者は多い。
 日本中、何処の都道府県の教科書を見ても、またどの歴史書を開いても、特に福沢を褒
(ほ)めちぎるトーンは高く、その業績として、日本の旧習を打破し西欧の近代的思想を普及したと評価され、特にイギリス流の功利主義を導入して日本の近代化を図ったことはその評名の中でも一際大きい。そのように総ての歴史書も掲載している。だからこそ、その功績が讃えられて、一万円札紙幣になり得たのか。そう解釈する方が打倒だろう。
 思えば、それだけ最重要人物だったのであろう。更に近代史の上では、その果たした役割も最重要であったということになろう。功利主義の導入が大きかったからである。

 功利主義はベンサム
Jeremy Bentham/イギリスの思想家で功利主義の代表者。1748〜1832)ならびにミルJames Mill/イギリスの思想家・経済学者。ベンサムの功利主義を継承。1773〜1836)らを代表とする倫理および政治学説である。
 これは「功利」を一切の価値の原理と考える論で、快楽の増大と苦痛の減少を道徳の根底に置き、「最大多数の最大幸福」を原理として、社会の幸福と個人の幸福との調和を企図したものである。ベンサムは特に、快楽の増大、苦痛の減少を総ての道徳や立法の窮極原理とし、「最大多数の最大幸福」の実現を説いた。

 更に、後には父ジェームス・ミルより英才教育を施された息子ジョン・ミル
John Stuart Mill/イギリスの哲学者で経済学者。1806〜1873)はイギリス経験論の立場から、実証的社会科学の理論を基礎づけ、功利主義の社会倫理説を説たことで知られる。また経済学では、スミスAdam Smith/イギリス(スコットランド)の経済学者。古典派経済学の始祖で、主著『国富論』は、特に有名。「諸国民の富」とも称された古典学派の経済学は19世紀の自由主義時代に、世界各国の経済政策の基調となる。1723〜1790)やリカードDavid Ricardo/イギリスの経済学者。アダム・スミスに続くイギリス古典学派の代表者。1772〜1823)を継ぎ、古典学派の最後の代表者とされる。

 福沢が渡欧したときヨーロッパでは、功利主義の嵐が渦巻いていた。それを福沢は日本に持ち帰り、まず『西洋事情』を著した。
 この啓蒙により、明治以降の日本では西欧崇拝主義者が急増した。これはフリーメーソンの意向であったとも云われる。福沢はフリーメーソンである。日本に西欧崇拝主義者を培養したと張本人である。そして西欧崇拝主義は、同時に帝国主義でもあった。植民地政策を強行した元兇であった。そのための「脱亜入欧政策」が福沢にとっては重要な課題だったのである。

 この課題から、福沢の「国を富ませ、兵力を強める」の『富国強兵』であり、また「人民恒
(つね)の産を得て……天下一、文明開化の中心と名のみにあらず……」の世界国尽ではなかったか。
 根底には、西洋に追いつき追い越せだった。
 これが本来の「日本の夜明け」の意に反して、日本を帝国主義路線を走らせたのではなかったか。日本に軍国主義の道を驀進
(ばくしん)させたのではなかったか。
 これは裏を返せば、欧米の意図とは異なり、またフリーメーソンの思惑とも異なっていた。しかし、日本は富国強兵と殖産興業の二つを大日本帝国の要に据えたのである。これは欧米列強に見習った植民地主義であり、また帝国主義だった。

 脱亜入欧……。
 この主義をしげしげと眺めると、西欧を上位に置き、東洋を下位に置く意図が見えて来る。
 特に植民地主義を考えた場合、中国や朝鮮の振る舞いを見て、アジア文化
(特に中華思想)に激しい憎悪を抱く概念に取り憑かれる。
 この意味で、明治維新の汚点が少しずつ見えて来るのである。
 それは日本人が西洋化一辺倒になり過ぎ、鎌倉期から江戸期まで培ってきた東洋的な哲学や価値観、更には日本人の武士道精神を疎かにしてしまったことである。
 また、本来は武士道精神と軍国主義も相容れないのである。これを混同してはならない。

 脱亜入欧は事実、日本は軍国主義の道を歩むことになる。軍拡の方に進むことになる。
 軍事力をもって、東南アジアでの覇権を拡大して行った。
 その最たるものが傀儡国家・満洲国
(満州事変により、中国の東北三省および東部内モンゴル(熱河省)をもって作りあげた傀儡国家。昭和7年(1932)、もと清の宣統帝であった溥儀(ふぎ)を執政)の建国だった。このためにフリーメーソンはこれを日本から欧米へと画策し、その裏工作として日本の軍制の解体と、天皇制の形骸化を図ることになる。満洲叩きの一貫だったと思われる。
 一木喜徳郎や美濃部達吉らが唱えた「天皇機関説」
(昭和10年に天皇機関説議会質疑)はその最たるものであろう。明治憲法の解釈を巡って、いちゃもんをつけたのである。

 天皇機関説によれば、国家の統治権は天皇にあるとする説に対して、統治権は法人である国家に属し、天皇はその最高機関であるとする学説が唱えられたのである。欧米が目論んだ「天皇制の形骸化と象徴化」は、既にこの頃、仕掛けられたものであったのか。
 もしそうすると、日本は大東亜戦争に敗北するまでの経緯も見えて来る。欧米主力の国際連合軍が、日本の称した大東亜戦争と言う名を「太平洋戦争」といい改め、敗戦へと導いた粗筋は、実は敗戦と同時にユダヤ・フリーメーソン革命を企てたことに起因するのではないか。

 この、戦争の名を借りた革命は、戦後、日本に親米派政権を恒久的に存立させる結果を招いたのである。ここにユダヤ・フリーメーソンの百年の計があった。
 敗戦後の日本の幣原喜重郎、吉田茂、鳩山一郎以下の親英米派の保守政治家を見れば、そのことが歴然として来るだろう。日本は先の大戦において、無謀な負ける戦争をしたのでなく、最初から負ける戦争の軌道の上に、日本の運命は乗せられていたのである。

 この運命の意図を辿って行くと、どうしても福沢諭吉の「脱亜入欧政策」と言うか……、この主義に辿り着くのである。帝国主義的植民に政策を推進させたのは「脱亜入欧」に他ならなかった。
 確かに福沢は、生涯を懸けて在野の民間人だった。決して明治政府の中枢に立脚した人物でなかった。
 だがこれも裏返すと、福沢の明治維新の前に三度も海外へ渡航したのは、どういう意味か。それも欧米使節団の重要メンバーとして……。
 福沢が渡航したのは明治維新前である。だが同行した使節団の中には、明治新政府の超大物が多数含まれていた。明治新政府が起こってからも、彼等とはツーカーの仲だった筈である。人脈もあろう。それだけに影響力も大きかった筈だ。それは疑うべくもないだろう。

 ともあれ福沢は、明治初期の日本人の精神構造を根底から覆し、欧米流に改造してしまったことは間違いない。
 脱亜入欧推進者。それが福沢諭吉である。
 脱亜入欧の大事業に当たり、欧米崇拝促進運動に続いたのが岩倉具視、大久保利通、伊藤博文、木戸孝允、大隈重信、井上馨、西園寺公望らの重臣であり、また文明開化思想運動であり欧化主義を展開していた文相の森有礼
(もり‐ありのり)や啓蒙思想家の西周(にし‐あまね)らの明六社設立のメンバーであった。

 また、森有礼に至っては、明治五年に日本の国語は英語にすべきであると主張している。これが日本の西欧主義の「強引導入」の始まりと云える。そしてこれに続く者として外山正一
(とやま‐まさかず)が、明治十七年に漢字を廃止してローマ字採用論を主張した。これは明らかに東洋蔑視、西洋優位の考え方であり、また明治二十八年には、フランス留学経験を持つ西園寺公望が外山と同じ主張をしている。

 脱亜入欧そして西洋崇拝主義は一体誰によって齎されたものか。また誰の入れ知恵によるものか。
 幕末、日本には「ユッタ衆」が暗躍した。ユダヤ・フリーメーソンの代理人たちである。ユッタ衆が走狗となり、水面下で暗躍して討幕運動に手を貸した。
 西欧崇拝。
 それは日本精神の否定であり、文化も伝統も総て否定すると言うものだった。
 それはあたかも昭和三十年代から四十年代に懸けて、日本中を席巻した共産主義革命が吹き荒れた嵐のように、その頃の明治も欧米崇拝主義の嵐が吹き荒れていたのであろう。

 当時の欧米を事実上支配していたのはユダヤ・フリーメーソンである。
 欧米の骨格はユダヤ・フリーメーソンの上に、ヨーロッパやアメリカの鎧袖
(がいしゅう)を着せたものだった。そしてこの思想の根底には、古代ユダヤのカバラ思想と黒魔術の儀式が流れていた。
 カバラ思想とはユダヤ教神秘主義の一つである。また「カバラー」という。

 この思想によると、宇宙と人間を、神からの10の流出物の関係で説明する。ユダヤ教の伝統に基づいた創造論、終末論、メシア論を伴うユダヤ神秘主義思想である。また、独特の宇宙観を有していることから、しばしば仏教の神秘思想である密教との類似性を指摘されることがある。カバラーはユダヤ教の伝統に忠実な側面を持ち、他の宗教の神秘主義とは異なる。

 またカバラーは、ユダヤ教の律法を遵守し、あるいは神から律法の真意を学ぶことを目的とする。伝説によれば、アブラハムがメルキゼデクから伝授された天界の秘密だという。モーセが律法
(トーラー)に記し切れなかった部分を口伝として後世に伝えたものだともいう。
 カバラーは全ての神秘を解く鍵と言われ、西洋魔術に最も影響を与えている古代の神秘思想である。それが黒魔術と結びつき、巧妙なる血の儀式を通じて、フリーメーソン秘密結社の入団式にも用いられた。
 黒魔術は自己の欲求・欲望を満たすために行われる魔術のことである。そこで登場するのがルシファーである。
 ルシファー は、明けの明星を指すラテン語であり、キリスト教、特に西方教会における悪魔とされる。堕天使の悪霊である。

堕天使・ルシファーの像。

 この堕天使が幕末,日本を狙ったのである。邪神界から悪霊軍団を引き連れて……。
 西欧のフリーメーソンは日本の内戦を企てた。まず日本を二分する作戦を立案した。この作戦計画に従って、徳川幕府にはフランスのメーソン大東社
(グラントリアン)が取り憑いた。また他方の薩摩藩や長州藩にはイギリスのスコッチメーソンが取り憑いた。そしてそれぞれのメーソンは、幕府と薩長に武器を提供する。此処に武器商人が暗躍することになる。
 トーマス・ブレーク・グラバーは、上海経由で日本に来日したフリーメーソン日本支社長だった。フリーメーソンを「石屋」とも云う。この頃から石屋が暗躍が活発化し始めるのである。その走狗が坂本龍馬らだった。坂本龍馬
(竜馬)はグラバーの棲(す)む長崎のグラバー邸に、繁く足を運んでいる。
 そして石屋に操られる勤王の志士を匿
(かくま)ったり、逃亡させたりしたのが“ユッタ衆”だった。

 ユッタ衆とは何者か。
 この当時の博徒が、それに当たるとされる。彼等は、日本全国、島の合羽に三度笠で何処に行けたからである。関所でもフリーパスだった。この点が、石工と言われたフリーメーソンとよく似ていた。
 江戸町火消の頭
(かしら)であった新門辰五郎(しんもん‐たつごろう)は幕末・維新期の侠客であった。そして「新門」という姓は、輪王寺門跡舜仁准后が浅草寺伝法院に建てた新門を守ったのに因(ちな)んでいる。
 辰五郎は大名火消との喧嘩で一時入獄するが、のち幕府に出入りし徳川慶喜の護衛にも当たっている。その一方で、坂本龍馬が幕府役人から追跡を受けたとき、龍馬を匿っているのである。
 坂本龍馬と中岡信太郎は慶応三年
(1867)十一月に、京都の近江屋で幕府見廻組の剣客に暗殺されているが、辰五郎は明治八年(1875)に他界している。

 石屋は、なぜ「石屋」と言うのか。
 その理由は古代西洋の石工業者の「ギルド
guild/組合)」に端を発している。
 更に中世に至っては、同業者組合となり、同業の発達を目的として成立した石工職人組合で「メーソン」と称した。
 十一世紀には、まず商人ギルドができ、十二世紀には手工業者ギルドが派生した。また都市の政治的経済的実権を把握し、中世都市はギルドにより経済運営なされたが、近代産業の勃興で十六世紀以後は衰退したといわれる。

 しかし主体は石工職人組合だった。これが秘密結社フリーメーソンに姿を変えるのである。
 そして秘密結社の様相が強まって行くと、これに古代ユダヤのカバラ思想が取り込まれ、独特な宇宙観と神秘主義が唱えられるようになると、これに黒魔術が取り入れられ、秘密結社の様相は益々強まって行った。
 黒魔術が取り入れられたのであるから、その根底に流れるのは「悪の仕組みの企て」が中心課題となり、その実現の為に悪魔霊団として活動をし始めるのである。石屋は後に、イルミナティに霊的に操縦されることになるが、上部の奥の院のイルミナティの傘下に入ると、その動きは策謀を目的として水面下で過激な動きに転ずることになる。つまり暗躍である。ある意図をもった指令で動く。

 石屋の認識については、種々の考え方と分類法が論じられているが、フリーメーソンは上部組織のイルミナティの傘下に入ることで、更に悪魔的になり、これらを総称して国際ユダや金融資本と言う場合もある。そしてこのユダヤの巨大資本は戦争などの謀略に加担し、主に武器提供や軍資金提供に奔走するといわれる。この見方は一部では真実であろうが、実際はもっと深層部にあると言われる。表面に出ている暗躍組織は、いわば「したっぱ」なのである。消耗品的な走狗である。

 石屋の正体は何か。誰の指令で動くのか。誰が指令を出すのか。
 巷
(ちまた)では、こうしたことが噂され、それは噂であることから半分面白半分に捉えられている。そして、その「存在は?」となると、今度は釈然としなくなる。水面下の暗躍に徹している為に、これは表や外部からは決して分からない。だが、その実は世界一極支配の陰謀を抱いて暗躍していることは確かなようである。それは昨今のモラルの低下や日本における性の墜落などを見れば明らかだろう。

 プログラムは『シオンの長老の議定書』通りに動かされているのである。世界一極支配を目論む支配層は、「新世界秩序」を打ち立て、世界は一つ……のワンワールド主義に向けて動き、その完成度が今や高まっている。九分方が完成したともいわれる。
 そして日本を攻撃目標の鉾先に向けて、「日本叩き」の侵攻を開始した。昨今の半島や大陸の日本叩きの喧伝は凄まじ物があり、これこそは国際ユダや金融資本の目指す目的だったことが浮上して来るだろう。

 その目的は日本人を囲う、日本人の為の「人間牧場」であったことが、更に明確になる。その最初の血祭りが日本人隔離政策だった。隔離して強制収容如き柵を、日本列島ごと被せて覆い、この島国を人間牧場にする魂胆である。日本人を先ず蹂躙
(じゅうりん)しておいて、次に日本人を含む、世界のどの民族も管理し、監督して行く計画である。
 このシステムは、ほぼ九割がた完成したと見ていいであろう。これは単なる植民地より、更に恐ろしい計画である。何しろ自由を束縛され、日本人は総て支配層の監視体制の指揮下に入り、管理され、制御され、操作されて、骨抜きとなり、世界の支配層の思惑通りに事が運ぶのである。
 昨今、政治家の口から洩れる「道州制」も、このプランに含まれているのである。発言するのは、石屋に媚を売る日本のフリーメーソンの代理人で、日本を邪神界に売り渡す売国奴どもである。飴一個の持つ魔力に転んだ売国奴どもである。

 そしてこの構図の全体像を透視すると、その背後の奥の院に隠れている巨大な悪魔は人智では図り難い、途方もなく巨大な邪神界の神霊であって、この奥の院が表皮で暗躍する走狗に指令を与え、実行させ、葬り去る手法を使っているのである。その手法は巧妙である。並の刑事事件では決して浮かび上がって来ない。
 更に邪神界の神霊を概念として捉えるには、単に眼に見える顕界世界だけでなく、幽界や霊界までの暗闇を見抜く、“蠱
(こ)”の蠢(うごめ)きを検(み)る視覚が必要であり、広大な宇宙論まで理解の範囲を拡げなければ、真実の動向は決して見えて来ないだろう。また、奥の院の巨大な存在は、肉の眼に見える可視世界にいるのではなく、不可視世界の存在だからである。

 神霊界に置ける邪神界とか邪霊界と言うと、その悪魔的な単語だけで、もはや一般常識とは掛け離れこれだけで、神秘主義とかオカルトと片付け一笑に付す者が多かろう。また非科学の烙印を押して取り合わないだろう。あるいは一般常識的な考え方からは、蹤
(つ)いて行けないかも知れない。

 だか奥の院の巨大な存在は別にしても、表皮で走狗する生身の人間の動きであれば、『シオンの長老の議定書』を解しつつ、真剣に討究すれば、ある程度は、いま日本がどのように誘導されているか、その方向が見えて来るだろう。
 十八世紀から十九世紀に懸けて、石屋の行動は実に活溌だった。この頃にプログラムされて、今日に波及しているものも多い。それを『シオンの長老の議定書』は顕著にする。

 また「石屋」は、国際ユダや金融資本の実行部隊である。石屋が企てることは謀略である。これまでそのように見られて来た。
 それはそれで一部は真実かも知れない。だが、真実はフリーメーソンの表皮にあるのではない。また両世紀は、まさしく石屋に煽動され、虚構までもが作り出された。その潮流は、現代でも相変わらず顕著で、水面下ではワンワールドと言う「世界一極支配」に向かって動いているのである。

 これから、日本列島を舞台に争いが起こる。この列島を地獄の決戦場にする。この戦いは、そんなに遠いものではなく、既に始まっている……と考えた方がいいであろう。
 この戦いは、単なる善と悪の戦いではない。可視世界だけの戦いではない。不可視世界を巻き込んでの神霊界ごとの戦いである。眼に見える現象だけの留まらない。闇の力まで動くのである。
 日本の魂、霊の元の魂、そして大和魂と、石屋との最終決戦は始まろうとしているのである。大和魂などと言うと、軍国主義の再来かと云う人がいようが、これは日本民族固有の精神のことである。決して戦争を煽ったり、それを賛美して讃えるものでない。
 恥辱に対して敏感で、礼儀正しさを大和魂は代表する。また勇猛で潔いのが、その精神の特性とされる。

 曲亭馬琴の代表作の『椿説弓張月
(ちんせつ‐ゆみはりづき)』の「清和天皇七世の皇孫、鎮守府将軍陸奥守源義家朝臣の嫡孫(ちやくそん)、六条の判官(はんがん)為義の八男、冠者(かんじや)為朝と聞えしは、智勇無双(ちゆう‐ぶそう)にして身の丈七尺、豺の目猿の臂(ひじ)、膂力(りよりよく)人に勝れて、よく九石(きゆうせき)の弓を曳(ひき)、矢継早の手煉(てだれ)なり……」(前篇)で始まる後篇には、また「事に迫りて死を軽んずるは、大和魂なれど、多くは慮(おもいはかり)の浅きに似て、学ばざるのあやまちなり……」とあり、九州併呑・伊豆七島管領より琉球渡りまでを描いた源為朝一代の武勇外伝である。その中に「大和魂」と云う言葉が出て来る。

 そして大和魂とは、平安時代中期頃から起こり、「才」もしくは「漢才」と対比的に使われ、諸事の諸内容を包含する極めて広い概念である。
 また江戸中期以降になると、国学の流れの中で、「漢意
(からごころ)」と対比されることが多くなった。これは本居宣長が提唱したといわれる。
 漢意とは、漢籍を学んで中国の国風に心酔、感化された心を指し、一方大和魂は、それに対比する日本古来から伝統的に伝わる固有の精神を顕す概念である。そして中国の学問や知識は、そのまま日本へ移植するのではなく、あくまで基礎的教養として採り入れ、それを日本の実情に合わせて、応用的に政治や生活や文化で発揮することであった。日本風味付けとでもいおうか。
 情緒を理解する心として用いられたのである。
 また、儒学の深化と水戸学や国学などの発展に勤め、幕末期は尊皇論の興隆に伴い、近代化への原動力ともなったのである。

 しかし、明治以降になると、過剰に政治的な意味が付与されるようになり、大東亜戦争末期になり、日本の敗戦が濃厚になると、精神主義に取って代えられ、軍国主義的な色彩を強く帯び、かつ現状を打破し突撃精神を鼓舞する意味で使われはじめた。活用の間違いである。
 兵力弱小に精神主義が当てられたのである。
 例えば、その愚行振りは、「近代戦車戦において、防御鋼鈑の薄さは大和魂で補う……」などの愚作戦法に起用され、大和魂の解釈誤解が、近代戦おいて精神突貫で解決出来るような錯覚を抱かせたのである。また、万歳突撃において、その精神支柱に間違った大和魂が注入された。そのため多くの人命を失った。ここに当時の戦争指導者の無能振りがあった。
 そして日本敗戦後は、軍国主義を煽る言葉として、大和魂と云う言葉は殆ど遣われなくなった。大戦当時乱発されたからだ。

 今日の日本文化論では、大和魂を「悪」として看做している。
 これも、したり顔で平和主義と反戦論を説く進歩的文化人らの、策に嵌められたと言うべきであろう。この頃から、日本人は石屋の術中に嵌められた事が顕著になって行く。

 こうして、いわば「大和魂」対「石屋」の最終決戦が始まったのである。
 これは最終戦争であるだけに、「決戦」と呼ぶに相応しい戦いとなろう。そしてこの戦いは、現状の大局観から見て、大和魂が勝利を収めるのは殆ど絶望的である。どう贔屓目
(ひいきめ)に検(み)ても勝ち目がない。日本の大和魂は負け戦を強いられるだろう。もう、それほど石屋の勢力は全世界を味方につけて、地球上を席巻しているのである。
 鉾先は日本に向かう。否めない事実である。
 石屋は「百年の計」と云う長い時間を掛けて、日本壊滅の計画を立て。そのプランに従い緻密に周到なる悪の計略を謀って来たのである。そしてその総仕上げが、秒読み段階で始まったと言える。

 それにである。
 戦場となるべき舞台は、日本列島なのである。世界でも有数なスパイ王国と言われる日本を戦場にするのである。
 石屋の仕掛けた牙城と言うべき国は、日本だったのである。阿鼻叫喚の恐怖が近未来に待っている事だろう。やがて日本は阿鼻叫喚の地獄と呈するのである。しかし、これに気付く日本人は殆ど居まい。多くは霊的神性を曇らされ、これを察知する能力も、また闇を見通す視覚も失われてしまったからである。太古から連綿と続いた日本精神は失われ、かつては誰もが持っていた日本人としての霊的神性すら曇らされてしまったのである。
 あたかも、畜生道に落とされてしまった「豚の如し」である。この豚をユダヤ教では「ゴイム」という。
 豚は、霊的神性が曇らされたことにより、自分が豚であることに気付かないのである。


 ─────石屋の計略に嵌まったのは、いつの頃だったか……。
 それは幕末に遡
(さかのぼ)る。勤王の志士たちが討幕運動に暗躍した時である。ユッタ衆の側面からの応援と援助を得て、討幕運動が盛り上がって行った時である。
 この時代、こういうことを見越して日本では神霊的な異変が起こり始めていた。教派神道の発生もそうであろうし、尊王愛国もそうであった。日本と言う神国における大和魂の目醒めである。この大和魂こそ、真
(まこと)の神の存在の証(あかし)だった。極東における大和魂こそ、この大和がまた「大東思想」に結びつくものであった。

 真の神は日本の異変に決して静観はされていなかった。傍観はされていなかった。霊的神性の明るい者に対し神事を授けた。日本の太古より続いた神の道、惟神の道をお示しになさった。人為を加えない神慮のままの御心を示され、日本固有の道を示された。つまり古神道の思想である。
 今日の観光名所になり、日本の神の道とは程遠い形骸化した魂の抜け殻になってしまった現代の神道とは異なるものだった。もっと素朴で飾らないものであった。日本魂の蘇りを促すものだった。大和魂の発露を示す霊的磁場が、幕末期、日本の至る所に起こり始めたのである。眠っていた大和魂の復活の胎動だった。
 「大和魂」イコール「大東思想」である。
 大東思想は「大いなる東
(ひむがし)」を指し、東洋一すぐれた「惟神の道」を指していたのである。この惟神の道をもって、会津藩家老の西郷頼母は大東思想と会津藩校日新館に伝わる武儀を総編纂して「大東流」を名乗った。

 一時的に曇らされていた霊的神性は霽
(はれ)れた。心の上を覆って曇らされていた蟠(わがかま)りは解けた。邪神界の正体を見破ったからである。
 この間合と呼吸は、間一髪と言ってよかった。日本は間一髪のところで邪神界の手に落ちずに済んだ。
 単なる尊王攘夷を、尊王愛国へと方向転換したからである。攘夷一辺倒で、押し寄せる欧米列強と争っていたら、それだけで亡ぼされていたかも知れない。方針が、攘夷一辺倒から尊王愛国へと方向転換されることにより、日本は間一髪のところで邪神界の植民地にならずに済んだのである。日本は欧米の手に落ちずに済んだ。

 欧米は虎視眈々と日本を植民地に狙っていた。そして、もう少しで欧米列強の帝国主義の軍門に降り植民地化されるところだった。
 当時の日本列島は、欧米の画策の嵐が吹き荒れていた。この時代、西欧崇拝者が石屋の画策で芽生えつつあった。
 石屋は、当時の武家の一部の幕府と西南雄藩の“新しがり屋”に取り憑いた。
 徳川幕藩体制の旧習を苦々しく思っている、そういう連中に取り憑いた。そして革命分子培養の為に暗躍する。だが、これを阻むのは日本の「惟神の道」であった。日本には、太古より連綿と続く霊的な磁場が残されていたのである。
 この頃まで日本の至る所に神域や聖域があり、こうにた邪神界の霊団は簡単に侵入する事が出来なかった。
 それに、これをサムライ気質で阻止した。まだ大和魂が息づいていた。その息吹が残っていた。そういう息吹を吸ったサムライが大勢いたのである。
 また同じ息吹を吸った寺社の神官や、仏閣の修行僧も多くいた。神仏習合の修行集団も多くいた。今日のように寺社仏閣集団は堕落していなかった。毅然とした者が多かったのである。

 阻止したのは清貧に甘んじる下級武士や、時代に関心を示す農民出身の若者たちであった。農民であってもサムライの気風があった。古神道の息吹を吸っていたからである。精神的上級武士の気概が高かった。
 この勇士たちによって、日本は少なからず外国の霊団から乗っ取られる寸前で、それを阻止した。間一髪だった。これにより、日本に取り憑く完全憑衣を許さなかったのである。されても、部分憑衣だった。その意味で、日本は神国であった。神の国であった。この意味は、先の大戦でいわれた神国とは意味が違う。神州日本とは意味が違うのである。古神道の「惟神」を指すのである。神慮のままの道を指すのである。
 故に、神の国の霊的磁場が、この時代の日本列島を護ったのである。防禦
(ぼうぎょ)したのである。

 さて、繰り返し述べるが「霊が取り憑く」と、その憑かれた人はどうなるのだろうか。
 それも一個人ではなく、国家のような「公」にである。
 かつて白面金毛九尾
(はくめん‐こんもう‐きゅうび)のような、変化自在な「九尾の妖狐」である。九尾の妖狐は、悪しき霊的存在だった。悪霊軍団から送られた巨大な走狗だった。
 日本では玉藻前
(たまものまえ)が有名である。
 平安時代末期に鳥羽上皇に仕えた二尾、あるいは九尾の狐が化けたという伝説上の絶世の美女を「玉藻御前
(たまもごぜん)」といった。勿論、伝説上の事である。歴史的事実と、伝説的由来は、しっかりと分類しておく必要があろう。

 さて、玉藻前の伝説は、最も早いものでは史書の『神明鏡』の「鳥羽院の条」にも見られる。また、能では『殺生石
(せっしょうせき)』に見られる。鳥羽天皇の寵妃玉藻前(老狐の化身)が殺されて石と化したものである。これに触れると災いをなしたが、玄翁(げんのう)和尚がここを通りかかり杖で一打すると、二つに割れて中から石の霊が現れ成仏して消えたという伝説による。また、能の『玉藻前』は、この伝説を脚色したものである。
 更には、御伽草子
(おとぎ‐ぞうし)の『玉藻の草子』にも登場する。

 最初、玉藻御前は藻女
(みずくめ)と呼ばれ、子に恵まれない夫婦の手で大切に育てられ、美しく成長した。美女の誉れ高かった。
 十八歳で宮中で仕え、のちに鳥羽上皇に仕える女官となって玉藻前
(たまものまえ)と名乗った。また、その美貌と博識から、次第に鳥羽上皇に寵愛され、契りを結ぶこととなる。
 しかしその後、上皇は次第に病に伏せるようになり、朝廷の医師にも原因が分からなかった。
 だが陰陽師・安倍泰成
(安倍泰親、安倍晴明とも)が、玉藻前の仕業(しわざ)と見抜くのである。安倍が真言を唱えたことで、玉藻前は変身を解かれ、白面金毛九尾の狐の姿で宮中を脱走し、直ぐさま行方を晦(くら)ませたという。

班足太子と九尾の狐の図。(歌川国芳の浮世絵より)

 その後、宮中には那須野(現在の栃木県那須郡周辺)で婦女子が攫(さら)われると言う事件が伝わって来た。
 鳥羽上皇は予
(かね)てからの那須野領主・須藤権守貞信(すどう‐ごん‐の‐かみ‐さだのぶ)の要請に応え、討伐軍を編成させた。
 ところが、九尾の狐の術は凄まじかった。討伐軍は打ち負かされ、多くの戦力を失い、敗退した。
 再び策を練り、今度は、討伐軍は遂に九尾の狐を追い込んだ。今一歩と言うところまで追い込んだ。
 九尾の狐は貞信の夢に、娘の姿で現れ許しを願った。しかし貞信は、これを狐が弱っていると読み、最後の攻勢に出た。そして後に源頼朝の石橋山の挙兵に一族を参加させたことで名高い三浦介義明
(みうら‐の‐すけ‐よしあき)が放った二つの矢が脇腹と首筋を貫き、更には房総平氏惣領で家頭首の上総介広常(かずさ‐の‐すけ‐ひろつね)の薙刀(なぎなた)が斬りつけたことで、九尾の狐は息絶えたという。伝説ではそうなっている。

 だが、九尾の狐はその直後、巨大な毒石に変化して、近づく人間や動物等の命を奪ったという。そのため村人は、後にこの毒石を『殺生石
(せっしょうせき)』と名付けた。栃木県那須町の那須湯本温泉付近にある溶岩を指す。日光国立公園内の栃木県那須町辺りの溶岩をいう。
 この殺生石は鳥羽上皇の死後も存在し、周囲の村人たちを恐れさせたとある。これを邪神界からの巨大なる霊的走狗と検
(み)たら、伝説とは云え、日本の平安期当時の危機管理意識が見えて来るのではあるまいか。
 この時代は霊的防衛がなされた時代なのである。

 当時の権力指導層は、邪神界を「外国」と検ていたのである。
 邪神界から送り込まれた走狗は凄まじかった。ちょっとやそっとの法力では適
(かな)わなかった。敵ではなかった。
 したがって、その恐怖は凄まじく、鎮魂のためにやって来た多くの高僧ですら、その毒気に斃
(たお)れて行ったと言う。この石からは亜硫酸ガス・硫黄・硫化水素などの火山性有毒ガスが噴出されるからである。
 南北朝時代、会津耶麻郡熱塩加納村で元現寺
(じげんじ)を開いた曹洞宗の玄翁(げんのう)和尚が此処を訪れ、巨大な槌(つち)で殺生石を破壊し、破壊された殺生石は各地へと飛散したと伝えられる。

 玉藻前の経歴は中国古代王朝殷にまで遡
(さかのぼ)るという。
 殷
(いん)の最後の王である紂王(ちゅうおう)の妃の妲己(だっき)の正体は、齢(よわい)千年を経た九尾の狐であったという。紂王の妾(めかけ)であり、冀(き)州領主・蘇護(そご)の娘・寿羊(じゅよう)という娘を食い殺し、その身体を乗っ取って、紂王を惑わせたとされる。寿羊は国中から選ばれ、献上された美女のうち、最も絶世と謳われた美女である。紂王はこの美女に魅せられた。虜(とりこ)になった。
 このとき本物の寿羊は、妖狐に血を吸われて死に、躰は完全に乗っ取られていたのである。此処に憑衣の凄まじさがある。

 やがて紂王と妲己は酒池肉林にふけり、国が傾く要因を作り始まる。もともと紂王は明君として知られ、政
(まつりごと)に優れた政治家だった。ところが美女に魅せられ、此処から国を亡ぼす顛落の坂道をまっしぐらだった。
 亡国……、それはまた色に狂う要因を伴って国が滅ぶ縮図を示す。
 妲己に唆された紂王は、家臣に後宮の美女を与えた。そして連日連夜乱交の宴
(うたげ)を催した。酒池肉林の故事である。色に狂うことは、彼(か)のローマ帝国然(しか)りである。

 また「色」と「猟奇」は紙一重であり、それは表裏を為
(な)す。その証拠に、無実の人々を炮烙(ほうらく)の刑にかけるなど、暴政を敷いたが、周の武王率いる軍勢により捕らえられ、妲己は処刑が執行された。
 しかしその刹那、妲己の妖術によって処刑人が魅せられ、彼女の首を切ることが出来なかった。このとき太公望が照魔鏡を取り出し、妲己にかざし向けると、九尾の狐の正体を現して逃亡するところだった。太公望が宝剣を投げつけると、九尾の躰は三つに飛散したといわれる。九尾は太公望との妖術戦に敗れたのである。

 だが九尾は、これで息絶えた訳ではなかった。南天に飛び去ったのである。
 天竺
(てんじゅく)の耶竭陀(まがだ)(南インド・マカダ国)の王子、班足太子(はんぞくたいし)の妃の華陽夫人として、再び現れたという。
 やがて王子は悪逆非道な行為が目立つようになり、千人の首を刎
(は)ねるように唆し、暴虐の限りを尽くしたという。また、賢僧といわれる僧侶を千人を「破戒僧」であると決め付け、猛獣の餌食にしたり、これを諌(いさ)める家臣をことごとく斬殺した。

 しかし、名医と謳われた耆婆
(きば)という人物がおり、華陽夫人を魔界の妖怪と見破り、金鳳山中で入手した薬王樹で作った神木の杖で、夫人を打つと、忽(たちま)ち九尾の狐の正体を現し、北の空へ飛び去って行ったという。
 更には、周の第十二代の幽王の妃・褒ジも九尾の狐だったという。褒ジは絶世の美女だったという。だが褒ジは中々笑わない女で、幽王は様々な手立てを使って彼女を笑わそうとした。
 ある日何事もないのに幽王が烽火
(のろし)を上げ、諸侯が集まったという珍事に褒ジは初めて笑ったといわれ、それを機に王は、何事もないのに烽火を上げ、諸侯が烽火をみても出動することが無くなり、後に幽王は殺された。その後、褒ジは逮捕されたが、いつの間にか幾重を晦(くら)ましたと言う。正体は九尾の狐だった。

 その後、こん狐は若藻
(わかも)という16、7歳の少女に化けた。
 若藻は玄宗皇帝の娘だという。
 彼女に惑わされた吉備真備
(きびの‐まきび)の計らいにより、阿倍仲麻呂や鑑真和尚らが乗る、第十回目の遣唐使船に若藻は乗船したのである。一種の密航であった。天平四年(753)四月の事である。
 途中、嵐に遭遇したが、無事来日を果たしたのである。
 諸国で人を狂わせた妖狐は、その後、鳥羽上皇に仕えて取り憑いたのは、既に述べた通りである。
 また栃木県那須町の溶岩の殺生石に化けたと言うが、玄翁和尚によって成仏したとされるが、そこはしたたかな妖狐の事である。
 ひょっとしたら近代、南米あたりに渡って、また悪事を働いているのかも知れない。

 幕末期、日本列島には「右回り旋風」が吹き荒れた。
 本来日本列島には、光明波で守られた「左回りの静寂な爽快なる風」の中にいた。ひとり泰平の眠りを貪っていた。
 ところが「右回り旋風」で、突如、泰平の眠りを揺り起こされたのである。それが黒船来航だった。北米や南米の邪神界からの使者が顕われたのである。フリーメーソンを伴って、革命が企てられたのである。それが明治維新だった。
 このときに右回りの欧米崇拝と脱亜入欧が日本中を席巻したのである。

 ユダヤ・フリーメーソン思想は、まさに「右回り旋風」だった。西欧を美化する思想が持ち込まれた。
 この思想の背景には、西欧の事実上の支配者がいた。そして支配者はこの指導の日本人を同化させるばかりでなく、代理人を走狗として使役し、代理人に成り果てた特異な日本人たちは、日本をリードしてこの国の国造りを行うが、それは太古から連綿として続いた「惟神の道」に沿う国家建設ではなかった。

 また国策の深層部を知り過ぎた者は、次々に暗殺され、排除されて行った。
 慶応三年
(1867)十一月、坂本龍馬、中岡慎太郎暗殺。明治十一年(1878)五月、大久保利通暗殺。明治二十二年(1889)二月、森有礼暗殺。同年十月、大隈重信狙撃などの経緯を見ると、日本のフリーメーソンと目された人々は用済みになって葬り去られて行ったことが分かろう。
 だが、同じフリーメーソンでありながら、暗殺や狙撃を受けなかった人達も、決して枕を高くして寝られなかったことであろう。
 例えば、木戸孝允、岩倉具視、西園寺公望、井上馨、そして福沢諭吉である。
 福沢などは、根っからの武士嫌いで、また武術嫌いだった。ところが暗殺者に備えて、居合術の稽古を積んでいたのである。猛稽古をしたとあって、その腕前は達人の域に達していたという。北辰一刀流免許皆伝の坂本龍馬と、武市瑞山
(たけち‐ずいざん)仕込みの小野派一刀流中西派の中岡慎太郎が殺されたとあって、よほど石屋からの刺客が恐かったのだろう。

 近代日本史の歴史は、石屋の手先の欧米主義者と、大和魂を旨とする民族主義者の暗闘の歴史であったと言うことがいえよう。
 だが、それは平成の今の世も同じである。

 平安期から平成の今日の世までを考えると、此処には国政を揺り動かす、時の権力の「公」に取り憑いたことが述べられ、憑衣の足跡があり、また総じて「一切は伝説である」としているこの一蹴を、また単なる伝説として一蹴出来ないのである。
 日本には、こうした国が滅ぶような、国難が度々襲っているからである。
 艱難来たる……というような、そういう神風が囁
(ささや)く状況が何度か訪れたのである。

 考えれば、謙虚な国難は蒙古襲来である。蒙古が日本に朝貢を求めたのは、マルコ・ポーロの『東方見聞録』の「黄金の国ジパング」による。元寇はマルコ・ポーロの「黄金の国ジパング」による。
 元寇は鎌倉期、元の軍隊が日本に来襲した事件であり、元のフビライは日本の入貢を求めたが鎌倉幕府に拒否されたことから始まる。
 文永の役
(1274)と弘安の役(1281の二回に渡り襲来した。北条氏は鎌倉幕府の歴代の執権であり最高実力者であったが、この二回の役により財政難に陥り、元弘三年(1333)遂に、150年に及ぶ鎌倉幕府は北条高時のときに、幕府の執権・北条高時は「元弘の乱」【註】後醍醐天皇による、鎌倉幕府を倒し公家政権の回復を企てた元弘元年(1331)の政変)で、新田義貞らに攻められて、鎌倉で自刃して果てた。これにより鎌倉幕府は滅んだ。
 此処に幕府と言う武家政治の政庁、あるいは武家政権そのもの生命体としての栄枯盛衰がある。

 しかし鎌倉幕府150年の歴史の中で、輝いていると言う大和魂を挙げれば、北条時宗の働きであろう。鎌倉中期の時の執権・北条時宗は二度に渡る元寇を撃退している。文永の役の時は北部九州沿岸に防塁を築き、再度押し寄せた弘安の役の時もよく防戦し、勇猛果敢に戦った。北条時宗のこの働きこそ、大和魂の顕われであった。しかし、栄枯盛衰の理には、人間は従うしかないのである。

 北条氏を滅ぼし、鎌倉なき後、新田義貞が上野・越後・播磨の国司となるも、東上した足利尊氏を兵庫に防いで敗れ、政権は足利尊氏へと移った。
 元弘の乱に、六波羅を陥れて建武新政のきっかけをつくったが、のち叛いて光明天皇を擁立し、征夷大将軍となり、京都に室町幕府を開いた。この幕府は建武三年
(1336)に、建武政府を京都から逐って創始た幕府である。
 三代・義満の頃に朝廷権力を迎えて最盛期を迎えるが、栄えるものの譬えから、やがて無気力から無力化され、群雄割拠の戦国時代を招いた。そして十五代・義昭に至って織田信長に滅ぼされた。室町幕府も、約180年の命で幕を閉じた。
 そして時代は、安土桃山時代へと移った。織田信長から豊臣秀吉が政権を握っていた時代へと代わった。この時代も、僅か25年の寿命で幕を閉じた。

 更に時代は下る。
 1600年、徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利した。慶長五年である。
 江戸幕府は家康が関ヶ原の戦で勝利を占め、慶応三年
(1867)の徳川慶喜の大政奉還に至るまで約260年間で幕を閉じる。幕府終焉(しゅうえん)までには、江戸町人の霊的欲望が渦巻いていた。それは町人文化に顕著であろう。
 町人文化を分析すれば、常に義理・人情・蓄富・物欲・好色・粋・通・滑稽などが渦巻いていた。その隙間に啓蒙的なものが忍び寄っていた。

 元禄期には古学の勃興があり、芭蕉の「蕉風」の確立、近松の「新浄瑠璃」の完成、西鶴の「浮世草子」の創始など花々しい時代を現出したが、文学の中心は、やがて上方から江戸に移った。その頃に暗躍したのが、ユッタ衆であった。
 また庶民大衆への「上気工作」である。狂気を招き、狂乱に乱舞させることである。
 その一つが「ええじゃないか」の囃子
(はやし)をもった唄を高唱しながら集団で乱舞した、あの大衆的狂乱だった。時もおり、倒幕運動が行われていた頃であり、「世直し」的様相を呈するものもあった。
 そして討幕運動は、日本各地で地下工作が仕掛けられていた。その一方で幕府は、長い間に平和ボケとなり、太平の眠りを貪って、時代の流れを読むに疎
(うと)かった。危機管理能力が欠けていた。
 一見不動と信じられるものも、決して未来永劫までとは続かないのである。始めがあった以上、必ず終わりがある。どのようなものでも、栄枯盛衰の理
(ことわり)には勝てないのである。

 この当時、将軍職を継いだ幕末の将軍・徳川慶喜は、内憂外患に直面していた。そして遂に、大政奉還を決意する。賢明な判断であった。
 慶喜は鳥羽伏見の戦で敗れ、江戸城を明け渡して水戸に退き、駿府に隠棲するのである。慶喜の出来ることは隠棲することしかなかった。隠棲することにより、日本を二分する内乱を抑えたのである。蟄居
(ちっきょ)に蟄居を重ねた。自ら蟄居の刑を買って出た。先見の明である。慶喜こそ、まさに明君だった。

 もし、慶喜が隠棲せずに、徳川家の近親が封ぜられた藩の大名を指揮して、西南雄藩と戦っていたら、日本は間違いなく二分され、内乱が起こって居たであろう。内乱は、欧米が国家を二分する常套手段に用いる巧妙な植民地政策だった。それを見破ったのは、慶喜の先見の明であろう。

 慶喜は日本人から、日本魂、則
(すなわ)ち大和魂が根刮ぎ抜き去られてしまうのを懸念したのである。
 もしこのとき、慶喜が邪神界の気配に感知できないバカ殿で、明君でなかったら、日本は欧米列強の毒牙に掛かり、一呑みにされていたであろう。
 慶喜こそ、ユダヤが用いる飴と鞭の怕
(こわ)さをよく知っていたのである。その意味で慶喜は日本人には稀に見る「戦略家」だったと言えるであろう。欧米から仕掛けられた意味をよく理解していたのである。
 飴一個には不思議な誘惑の魔力があるが、また慶喜は鞭一発にも怕
い、ことごとくを破壊する破壊力の恐ろしさを充分に知り尽くしていたのである。このままでは日本が二分される……。割譲される……と言うことを、一番よく知っていたのは徳川慶喜であった。



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