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個人教伝指導日誌 7

受精から、受精後の胎児並びに、また榊式胎児体重概算法受精から受精後の胎児並びに榊式胎児体重概算法に基づく、霊と魂が一致するまでの「鋳型構造」を示したもの。



●永眠の予行演習

 地球上に生命が誕生したのは約37億年前だと言われている。
 最初は藻
(も)のようなものから出発した生命は長い歳月を掛けて万物の霊長と言われる人類と言うヒト科の生き物に進化したと言う。
 総ての生命は系統樹のように幾重にも分かれて、ゾウリムシの細胞がヒトと同じ構造に進化するまで繰り返し進化して来たと言う。
 ある科学者は、カエルを解剖してみて、その構造が殆ど人体と同じであることに目を付け、人間はこうした両生類から進化し、海から陸に上陸して陸生化したのではないかと考えたと言う。それは「水の惑星」に起因すると言う。

 こうした論理の側面には、何処かでダーウインの進化論がちらつい
ているのではないか。その誘導も、感じられなくもない。
 先ず、確率論から迫ろう。
 無生物から最も簡単な生物が出来上がるためには、「10の40乗分の1」の可能性しかない。
 このことは1980年10月23日の『朝日新聞』の夕刊が報じたことである。
 この報道によると、更にその生物から人間のような知性を持つ生命が生まれるには、更に10の40乗分の1の可能性しかないと報じた。この「10の40乗分の1」というのは、どういう計算でこの確率を割り出したか知らないが、10の40乗分の1というのは余り意味がないであろう。

 この報道の主旨は、このような確率から、人類がゾウリムシ細胞から進化するというのは確率的に言って、殆ど皆無だと言っているである。そして、ゾウリムシのような、横分裂する増殖繊毛虫類は、これが突然変異によって人間への生命を作るのに、突然変異に継ぐ突然変異を、いったい何度繰り返せばいいのかと言うことになる。
 そもそも、たった一回の突然変異においても、これは容易に起こらない。その偶発的な現象が起こるには長い時間を要する。あるいは、そうした状況下が発生しなければならない。そうした状況が度々起こるであろうか。
 そして人類は、例えばウシ目キリン科の哺乳類のキリンの首が短かった時代から、この動物を見て、それが伸びたと言う事実を目撃して、頭の高さが4メートル以上も超える状態になるのを一度も確認したか。こう問いたい。確認は一度もなされていない。しかしそれにも関わらず、日本では進化論を信じる人が余りにも多い。それはまた、日本人に宗教がなく、同時に誰もが中途半端な無神論者であるからだろう。

 無生物から最も単純な生物が出来上がる……。これだけで10の40乗分の1の、逆から見れば、この乗数は猛烈な早さで進化しなければならないことを物語っている。突然変異も、繰り返しは猛烈な早さで起こらなければならない。況
(ま)してキリンである。哺乳動物である。これが徐々に首を伸ばして行くのである。そういう調査結果が一度でも報告されたことがあるか。
 人類史上、これを目撃したものはいない。
 更にキリンが、仮に4メートルを超す首の長さを得るには、このウシ目キリン科の哺乳類はどれくらいの早さで進化しなければならないのだろうか。

 『種の起原』はダーウィンが、自然淘汰を主たる要因として生物進化論を唱えた書であり、初版は1859年に発表された。これが進化論の要因を為
(な)す。
 ダーウィン進化論によると、生物のそれぞれの種は、神によって個々に創造されたものでなく、極めて簡単な原始生物から進化してきたものであるという説である。この進化論は、ダーウィンが体系づけたことによって広く社会の注目を惹
(ひ)いた。
 これはむしろ生物進化ではなく、弱肉強食の資本主義のシステムによる「適者依存」を裏付ける社会ダーウィニズムの方が優先論理として用いられたのであろう。

 以後、文化一般に、多大の影響を与えた。また一般的には進化に関する諸種の議論・研究対象となり、狭くは進化の原因についての議論で「ダーウィニズム」へと発展する。あるいは弁証法と唯物史観を用いる「社会科学」へと発展する。
 生物進化の要因に関するダーウィンの説で、特に自然淘汰
(選択)説は有名であり、現在もこの説が多く支持され、生物進化の観念そのものを指すようである。ダーウィン進化論では、適者生存という形をとるのであれば、総ての生物はお互に生き残る為に闘争を繰り返さなければならない。この激しい生存競争に生き残ったものだけが適者として、子孫を作る事が許される。
 ダーウィンは、この闘争を「struggle for existence」と呼んでいる。日本語訳では「生存競争」あるいは「生存闘争」と訳される。

 さて、生物とは、生存競争に勝ち抜く為に、生物同士が激しい生存競争を繰り返すのであろか。
 生物の生息する意味は、戦いや闘争を繰り返すだけの存在ではなかった筈である。
 ところがダーウィン進化論では、生物が自らの子孫を増やす為に生存競争は必要不可欠な条件であり、これがダーウィンの進化論には欠かせない必須条件になっているのである。

 こうしてダーウィン進化論を突き詰めると、まず人間中心的な説明に素朴な質問が集中し、更に系統樹を取り上げて見ても、猿が類人猿になり、類人猿が人間になったとするならば、途中で類人猿になれなかった猿、あるいは人間になれなかった類人猿は一体どうなったのであろか。その後の系統樹には記されていないが、どこに消えてしまったのだろうか。
 この消息は、系統樹の何処にも出て来ない。
 進化論の課題には、適応・系統・分岐という三つのテーマがある。
 このうち、ダーウィンは「適応」に最も力を入れた。ダーウィン進化論や総合進化仮説は、生物が環境に適応して生き残る事から進化が始まるとしている。しかし、こうした観察と実験を繰り返してみても、進化に繋がる直接的な適応は殆ど見つからなかった。

 ダーウィン進化論が完璧な理論かと言うと、どうもそうとは言い切れない。分子生物学によって諸々の真事実が発見されると、ダーウィン進化論は揺らぎ始める。
 つまり、人類がゾウリムシ細胞から進化するというのは、確率的に言って殆ど皆無だということである。

 また一方で、キリスト教徒たちはダーウィン進化論を徹底的に否定する。
 特にキリスト教原理主義者は、学校教育の理科の授業で、これを教師が教えることを徹底的に阻止している。猛烈に反対する。
 なぜ此処まで否定するのか。また嫌うのか。猛烈な反対が起こるのか……、これを真摯に受け止め、解明しようとする日本の社会学者並びに生物学者は少ない。

 進化論が罷
(まか)り通れば、神は必要ないからである。信仰の対象を失うからである。
 ゾウリムシのような繊毛虫類は自然の影響により、生命と言う肉体へと進化した……。これを進化の法則と言う……。こうしたことを果たして本当に信用出来るだろうか。

 キリスト教原理主義者たちは聖書から、これを第一に疑ったのである。物質優先の強引なこじつけと検
(み)たのである。
 その進化の中に、猿へと進化の道筋が示され、最初生命は海に存在し、海中生物が陸生化を果たし、陸を這い回った挙げ句、直立歩行するようになり、猿が猿人へと進化し、猿人は人間へと進化した……。このように進化の道筋を立てた。
 この進化の仮説の経路を辿れば、まず神不在となる。創造主の不在となる。目的は進化の道筋が正しいかどうか、そういうことはあまり関係がないようだ。問題は神不在、創造主不在のこの点にある。後に、ニーチェが「神は死んだ」という言葉でも、これが見事に回帰されている。

 神不在、創造主不在。この思想を唯物論と言う。弁証法から派生した。これが物質的・経済的生活関係を以て歴史的発展の究極の原動力と考える立場が生まれた。
 また唯物論が、社会主義や共産主義を虚構した。唯物論によれば、社会的・政治的および精神的生活過程一般は、究極において物質的・経済的生活の生産様式によって規定され、然
(しか)もこの物質的基盤そのものは、それ自身の弁証法的発展の必然性に従って展開するものとした。そして神を、創造主を、大自然を否定した。大否定した。

 この否定が、例えば北朝鮮では唯物論であるから、人間のことを「成分」という。
 いい成分に生まれたか、そうでないかで人間の階級は六等分に分離されている。「六階級」の成分が言い表されているのである。したがって神の創造を一切認めない。主体は偶像化された指導者に焦点が当たるだけである。
 その実験を二十世紀人類はソビエトと中国で検
(み)た。目的化プロレタリア独裁で究極には貧乏退治が目的であったろうが、人民は特権階級の欺瞞(ぎまん)と搾取に喘(あえ)いだだけだった。唯物史観の正体はこれだった。

 では、仏教だどうか。仏教では進化論をどう見ているか。
 仏教は「因果の法則」により成り立っている。
 因果法則は、神の、創造主の、大自然の法則の発展により今の、現代の発展があるとは見ていない。何故ならな人間の生まれは、その発展が因果の法則によるとしているからである。原因と結果の、更に原因と結果の積み重ねによって、人間は発展し進化したと教えている。この説法を早とちりして、仏教は「唯物論で構築されている」と言う者までいた。短見である。軽薄である。思慮がない。
 しかし、この見解は間違っている。断言出来る。

 仏道の説く奥には「仏」というものがある……、としている。この奥にある者を検
(み)るのが、そもそも仏教の教えである。
 因果の法則の根本に「仏」を置いているのである。悟りを得た者が居るとしているのである。釈迦牟尼仏のことを指す。
 これは仏を「神」と置き換えれば明白になって来るだろう。
 あるいは創造主でもいいし大自然、大宇宙でもいい。そうなると、それぞれの因果によって世界が構成されていることになる。それが種々なるものへと変化した。これを悪因悪果、業因業果といい、この反対もあり得る。逆もあり得る。
 そして次に「我
(が)」を挙げる。
 「我」が死んだ先に、何があるかを説く。更に「何があるか」は、自分の行動によるとしている。次に生まれる先を決定付けるのである。これを「因果の理法」という。

 仏法が問題にしたのは「私」という“我”であり、我の存在を追求し探求したのである。それは物質としての人間の肉体を問題にしたのではなかった。仏性が有るか無いかで、他の動物と人間を仕分けしたのである。
 この点を考えれば、ダーウィンの進化論は間違っていることが分かろう。
 人間を「物」として考えているからである。肉体だけの拍子を問題にしているからである。そして霊的な部分は完全に無視されている。
 そもそも猿から人間は生まれない。
 どういう確率で何万回突然変異が起ころうと適者生存が繰り返されようと、人間の先祖を遡
(さかのぼ)れば猿人となり、猿となり、更にはゾウリムシのような繊毛虫類の一種になるとは考え難いのである。そうなると人間の尊厳が維持出来なくなる。

 更に、である。
 人間と他の動物との根本的な違いは、「仏性」にもあるが、動物は本能のみで生きているのである。人間型の動物と違うのは、先ず頭脳が発達したことであり、言葉と云うものを用いて思索出来ると言う点である。
 更には、人間には「知性」のみならず「理性」までもが備わっている。仏性がある故、知と理をもって死すら感知出来る。死後も意識体として記憶に留めることが出来る。死後の世界を感知することも出来る。これは人間に霊的なものが備わり、霊的神性が覚醒されているからである。

 しかし、動物には仏性も知性も理性もないが、「度」を超さないように自動調節機能を有しており、本能の儘に生きても、宇宙との調和は乱さないのである。
 一方人間の場合は、理性により自主的に本能を制御する能力が与えられている。その点は動物より一段高級と言えよう。だが、これも一度間違えると、種々の犯罪を犯す。不幸現象は増幅される。
 戦争や内紛、その他の闘争や遺恨からの暴力、地球温暖化、親の子殺しや子の親殺し、利益誘導や利権争いから起こる益を目論む犯罪、性を売り物にした風俗や売春などの犯罪の増加は鰻上りで、どれを検
(み)ても人間の方が動物より劣っている点が多々目につく。

 衆生なるが故に……といえば、しかしこれでは衆生は蘇生を封じられてしまう。再生出来ない。生を得て生まれた以上、老・病・死のプロセスには、最終的に蘇生が俟
(ま)ち構えていなければならぬ。生まれ変わりがなければならぬ。
 例えば人間は夜になると眠りに就く。
 この眠りは、言わば「小さな死」である。
 夜寝るときに、明日必ず眼を醒
(さ)ますと言う保証はない。また、明日、生きているかどうかも分からない。それなのに翌朝眼を醒ますのは奇蹟である。
 この奇蹟は天より授かったものである。人間が自分で生きているのではなく、天より生かされて生きているのである。天の加護によって生きているのである。この加護は寿命がある限り、何びとにも働く。何びとにも奇蹟を起こさせる。

 人の眠りと言うのは、大宇宙の生命の大海に一旦身も心も預け、任せ、浸す作業なのである。そのために人は眠りを得る。眠りと言う休息により、翌朝は生命力はあたかも充電されたように新しく元気になって、次なる行動の活力を得る。働く原動力は、前日の眠りの中から生まれる。
 こう考えれば、人の死は「生命力の充電」であることが分かろう。

 人間は生まれた以上、結末としては「死」が待っている。生まれて歳を重ね、老いて行く。老いて抵抗力が減少され、その結果病気にも罹り易くなる。肉体は時間とともに酸化するから、老朽化するのは当然だろうが、それは次なる生命の蘇りを促している行為だと云える。病の先には死が待ち構えている。

 しかし現代人は病の先にある死から逃げ回り、「早く寝ろ」というシグナルが出ているのに、いつまでも夜更かして寝らずに遊び回っている子供のようである。現代人の昨今の大人の幼児化は、「寝ろ」と言っているのに夜更かしをする子供からも、その幼児化が窺
(うかが)えるだろう。不夜城で夜を謳歌する大人の幼児性は此処にある。

 「寝る」という行為は、次なる日の活力を得るためである。明日の活力を充電するために寝る。だがそれを理解出来ないのが、昨今の現代人であり、死からひたすら逃げ回り、あたかも、いつまでも蒲団に入らない“夜更かしをする子供”のようである。
 老いたり、病気になった躰は、一旦は大宇宙の蘇生に海に浸って、さっぱりしなければならない。リフレッシュしなければならない。新しい元気な躰になって、新生した方がいいのである。ここに生まれ変わりの法則がある。

 古来より武人や武芸者が真剣をもって対峙し、命の遣り取りをして臨死体験を重ねて来たのは、所謂
(いわゆる)「眠り」の臨死体験であった。臨死体験は眠りをするための予行演習であった。死を捉えた潔さが要求された。
 したがって日頃から清潔、質素、機能的であることが要求された。古来よりの心身を維持する嗜
(たしな)みであった。それはまた、人間が死と隣り合わせであることの確認と認識でもあった。その中に立ち居振る舞いなどの作法も含まれたいたのである。そして死と隣り合わせの立場にある者は、その身辺が簡素で、未練を引き摺らないように、すっきりと片付いていた。
 夜が来たら寝る用意の為に……。

 現世は「可視現象」に魅入られている為、表皮の部分のみしか眼が行き届かない。肉の眼で確認出来るだけである。また手に触れられ、匂いがあり、味があり、耳に聞こえ、眼で見えるものだけを真理とする。ここに不可視世界を否定し、形にこだわる表皮現象が存在する。そして死を以て生の終とするから、人生一切に迷いが生じ、苦しみが生じ、悩みが生じるのである。
 しかし死は、実は生の終焉
(しゅうえん)ではない。死は生の始まりだった。

 人間並びにその他の生物が生きているという事は、形を「形作る」ということであり、成長し、変化し、老化し、病に冒され、死すという現世特有の、現象世界に時空を制約された肉体を「形作っている」からである。
 ところが、こうした顕在
(げんざい)意識の現われに対して、隠れた「幽(ゆう)なる世界」があり、これは無形であり、常住であり、不変なる実在界があって、そこには「永遠なる生」が存在すると言う事を多くの人が知らないのである。

 また、死の本質が見えないから、形あるもののみを本物と捉え、それに魅せられ、その匂いを嗅いで、その味覚を味合い、その触覚でその形に満喫する思考に執着し、それに趨
(はし)るのである。
 故に、その表裏一体となった、生の背後に存在する「無」に立脚した「有」を知らず、「空」に即した「色」を知らないのである。ために、「知らない恐ろしさ」から、時として傍若無人になり、あるいは短見になって、近視眼的に物事を捉え、浅はかな思慮から迷い、焦り、悩み、苦しんで、その果てに現実逃避を企て、死生観を解決しないまま、生に執着し、死の克服をせず、何処かの病院の固いベットの上で息を引き取り、無慙
(むざん)に死んで行く。そうした死に方をした者に、再生の為のエネルギーは存在するまい。

 人間は死ぬには、かなりのエネルギーがいる。そのエネルギーをもって人は死んで逝く。それと同じ相当分だけ、また再生のエネルギーがいる。作用と反作用から起こる現象界の理
(ことわり)である。
 ところが、死ぬ為のエネルギーを失った者は、死んだとしても死にきれないままそこに居残る。そのままこの世に踞
(うずくま)る。これが不成仏と言うものである。


 ─────人間は何処か分からぬ、宇宙の闇の彼方からやってくる。
 胎児の極限は、渾沌
こんとん/天地開闢(かいびやく)の初め、天地のまだ分れなかった状態)たる宇宙空間の闇に存在する一元素(あるいは素粒子)に過ぎない。
 この一元素を量子力学の理論体系を以て言わしめれば、分子・原子・原子核・素粒子等の微視的物理系を支配するプランク恒数
(定数の意味で基礎定数の一つで、宇宙におけるエネルギーの最小単位数)とでも、いえるものだろうか。
 輪廻転生の循環律を以て表現するならば、胎(胚胎)のその以前は「絶
(ぜつ)」ですが、無での絶ではなく、胚胎へと移行するのが「胎(たい)」であり、更に「養(よう)」へと移り、「生(せい)」となってこの世に姿を現す。

 人間は男女和合によって、精虫が母体の輪卵管で卵子と出合い、ここで一体となる。
 この時、染色体遺伝子は外界からのあらゆるエネルギー作用を受けて、その組み合わせが決定され、受精という形で一個の細胞が誕生する。この誕生した新しい細胞は固有の波動を生じ、この固有の波動に最も近い波動が霊魂
(霊体構造を造る命体)と共鳴し合い霊的波調を同じくする。これ以降、霊魂の波動は、霊的波調を揃えつつこれに合うような肉体が造られていく。これを霊魂の鋳型(いがた)構造という。

 こうして肉体に霊魂が宿ることで、人体としての形が整うのである。
 受精卵は生物としての歴史を辿った後、約六週間くらいで「人」
(命体と生体の一体化が起こる)らしいところまで成長する。

ヒトの5週目の胚。命体としての意識に目覚める。
ヒトの6週目の胚で悪阻の開始時期。命体と生体の一体化。
8週目の胎児。この時期に入ると、性別迄が明確になる。

 命体(霊魂)がいつ宿るかについては様々な諸説がある。本ページでは榊式胎児体重概算法に従い、胎児が子宮内における成長度合の過程の中で推理してみた。
 榊式胎児体重概算法によると、卵子の大きさは直径約0.2mmと言われ、悪阻
(つわり)は妊娠6週間目ころから現われ、妊娠四ヵ月末まで続くと言われている。
 この悪阻期間に眼を付け、「悪阻」現象とは何か、ということを推理してみた。それは命体の重さを約70gから100g未満と推定して換算した計算によるものである。この換算法は人間が死んだ直後、全体重の1000分の1が失われるとする結果から割り出したものである。

 喩えば、体重60kgの人であれば、その1000分の1は60gであり、90kgの人であれば90gであるからである。
 これは人間が絶命する際に、床ぐるみに台秤に載せ、刻々と変化する様子を計測した実験結果によるものである。この結果によると、死の刹那
(せつな)に、重量は次第に軽くなるという事実によるものである。実験結果から分析すると、平均して約60gから約90gが減ると言う目方の減少から導き出したものである。
 そうすると心臓の鼓動が停止し、数分後の死亡した重さと、死ぬ前の重さを差し引いたものが、命体の重さではないかと推測されるのである。

 卵子の大きさが0.2mmとするならば、その重さは0.003g相当になるので、受精後直ちに命体と一体化するとは考えられない。
 繰り返えすが、命体の重さは凡そ60gから90gである。したがって90gを超える重さになるのは、榊式胎児体重概算法では妊娠四ヵ月部分であり、この間体重概算法
(グラム単位)は妊娠一ヵ月で2g、二ヵ月で16g、三ヵ月で54g、四ヵ月目でやっと128gとなり、ここでやっと90g以上になる。

 また、悪阻とは命体の波動が卵子に何らかの増殖作用を及ぼし、その現われが悪阻ではないかと推理される。卵子が命体の鋳型の波動に合うように振動を繰り返し、この時点において、命体と生体の合体が行われる時期ではないかと推理できる。
 悪阻は妊娠六週間目
(42日)頃から始まり、約四ヵ月末で治まることからして、生体の胎児の重さは命体の重さを少し上回る程度になる。これが命体と生体の一致時期ではないかと思われる。
 また悪阻が軽減されたり薄らいでいくという現象は、両者が一致したということを指す「安定期」に入ったと推測される。
 逆に言うと、受精時、命体の波動が生体の波動より強いので、完全に波調は一致するまで、その波動は乱れが生じる。この乱れこそが悪阻の現象と考えられるのである。この期間が妊娠六週間目頃から四ヵ月末迄で、以降悪阻期間は軽減し、薄らいでいく。そしてやがて軽快する。

 さて、命体の波動における周波数は、およそ15から50Hz
(ヘルツ)であると推測されている。これは卵子が径0.2mmだとすると、その周波数は42kHzと見当とされる。
 したがって命体と卵子の周波数は、この時点の状態においては非常に隔たっているので、この状態で二つの周波数の波動が一致する付近を推測すると、命体が18Hz付近と35Hz付近で共振し、安定する生命波が観測された。
 この段階では卵子は非常に小さく、胎児の目方は命体の目方10分の1を超すことから安定期に入り、一体化するのが六週間頃である。

 では、悪阻現象とは何であろうか。
 それは命体と胎児が生体として、一致するまでの生命波帯と非生命波帯の不一致の乱れと考えられる。この乱れが山場に達するのが、母体の生命波を乱す悪阻であり、四ヵ月末までに胎児は100g以上になった時点で命体より目方が重くなり、これによって完全な一致が行われたのではないかと推測される。
 したがって、この安定期に入るまでの、胎児の波動と命体の波動の乱れと不一致が悪阻である。
 これは一種の「船酔い」現象と考える。
 母子双方の波動の違いから起こる船酔いなのである。

 船酔い現象は振動によって起こります。これは生体の生命波が乱れることによって起こる。
 したがって胎児は成長するに伴って、生体と命体の波動の周波数の違いから船酔い現象を起こし、母体の生命波が乱されるのである。
 しかし、やがて胎児の生体と命体が一致し、振動がなくなると、母体の生命波も正常に戻り、船酔い現象は解消される。これは胎児の生体と命体が一致したからだと推理されるからだ。
 霊魂は鋳型のような役割をし、この鋳型に合わせてその霊的波調に合うような細胞形成され、母体から取り込まれた栄養素は体細胞として、各々の臓器を形成していく。この段階が霊魂の鋳型構造で、肉体が造られるまでの過程である。

 以降、母親の摂取した食べ物からの栄養素は、消化器官を通して腸で血球が造られ、その血球が胎児を養うということになる。
 そして血球は全身を巡り、組織細胞を形成し、体細胞に変化する。以上千島学説『腸造血説』による。
 現代医学では、血液を造る処は骨髄と考えられ『骨髄造血説』が主流であるが、著者は『腸管造血説』を唱えた千島喜久男医学博士や、『腸造血説』が正しいとする森下敬一医学博士の造血説を支持する次第である。

 胎児には自分自身で命体というものを作り出す。親から引き継いだ生体を合わせて、自分自身の「生命波」を出すようになるのである。この場合、母親の生命波とは異なるので、その影響が先にも述べた通りの悪阻なのである。
 人間の生は、しばしば大海の波に譬えられる。波は大海から生じ、また大海に戻る。既に述べた通りである。次から次へと新しい波は起こっては消えて行く。波の構成要素は、大海と同質の水である。自分自身であるところの波を形作っていた水の分子は、自身が居なくなった後には他の波の一部になっており、これは自分が死んで霊魂が去ったあと火葬場で肉体が灼
(や)かれたとしても、原子はバラバラになり、地球上にまき散らされながらも再び元の物質を組成するのである。

 一つの波としては新たに生まれ、やがて消滅して行くものであるが、それも波としては一回限りのものであるが、そこから生まれてまたもとの大海に還って行くことは、大海から見ればその生命は永遠と言うことが云えよう。繰り返すのである。輪廻するのである。
 しかし輪廻するからと言って、永遠の命に狂喜していてはそれ止まりだろう。魂は磨かれなければならないからである。永遠の繰り返しの中で磨かれねばならないのが魂の宿命である。

 では、何を通じて磨かれるのか。
 それは「苦」であろう。
 人間は「苦」を通すことにより魂が磨かれて行く。「苦」という濾過器
(ろかき)がないと、人の魂は磨かれないのである。その濾過器を通さぬまま魂は磨かれることはない。
 そもそも仏道は、「苦」について多くの説法を説いて来たのではなかったか。
 「苦」を分析すれば、おおかた三つに分けられよう。

第一の苦
変化の苦であり、せっかく巡り合えた者でも不慮の事故や病気で失うことがある。あるいは真事実により、それを知って不幸になり、また幸福になる変化である。
 これは時間の経過とともに変化している現象界の仕組みに制約されているからである。人間は時間とともに変化する生き物である。時間の変化とともに襲う「苦」を第一の苦とする。また無常の「苦」である。
第二の苦
苦しみの苦しみ言う苦である。苦しみは一度経験すればそれで済むと言うことではない。苦しみは繰り返し襲うものである。悪いときには悪いことが重なる苦しみである。
 この現象人間界は、他の動植物も含めて、苦は繰り返し起こり、苦しみの上に苦しみを重ねる回転する輪で連なっているのである。苦が重複する苦しみである。
第三の苦
人間の行いによって「苦」の種がばらまかれる。
 これはパウロの黙示録の冒頭を思い出せば顕著であろう。
 パウロは云う。

 人間は災いなり、
 罪人は災いなり、
 なぜ、彼等は生まれたのか。

 この言葉は、まさに「苦」と言う黴菌を人間がまき散らしていることを顕している。人間は苦しみの種子をまき散らす生き物なのである。
 どんなに幸福な状態の中にあっても、その行いの一つ一つは他人の不幸の上に築かれていると言うことだ。この因子はやがて崩潰の憂き目を見る。これこそ、よく考えれば個人的な幸福は他人の上に築かれた幸福なのである。特に個人主義においては……。
 例えば美食に舌鼓を打ち、グルメを気取る食生活をしても、他方にその命を差し出した者がいる。犠牲になった者がいる。もしこれが人間に喰われた牛だったり豚だったりしたらどうだろう。美食の陰には、こうした命を差し出した犠牲者が居るのである。美味なる肉料理一つ口に運ぶとして、その裏には牛や豚を育てた生産者がおり、それを屠殺し解体した屠殺に手を染める特殊業者がおり、その肉を切ったり火で炙ったりする料理人がいる。
 どんな幸福も、裏から見れば苦しみの元兇になっているのである。

 「苦」を三種に分類して挙げたが、人間にとって生まれること、歳を取ること、病気に罹ること、そして死んで逝くことは必ず直面しなければならないことで、これこそが大きな苦しみなのである。
 人はみな不憫
(ふびん)なのだ。
 秀吉が言ったように、人はみな不憫の中で苦しみを味わいながら生きているのである。
 その背景には、そもそも「生まれることの苦しみ」があったことを臭わせている。この苦しみが理解せずして、人の人情は解せまい。
 そして武門は、真っ先にこれを顕著に察知した集団ではなかったか。
 情や恥に敏感であったのもその現れであろう。武士道精神もこの点に回帰された。

 武門はわが国においての、最も最初に「愚を察知した集団」であった。
 武門は他の集団よりも逸早く「愚」を感じ取り、愚の最たるものの「溺愛」とし、これを慎んだ。この慎みは、武門を武門にならしめ、人々の尊敬を集めて防備の一翼を担った。

 現代人の多くは、例えば父母の「慈愛の風」を大きく享受しながらも、これを有難いとは思わない。特に父母が年老いて行くと、それを邪魔者扱いにする。老人ホームと言う姥捨山
(うばすてやま)に捨てようとする。
 しかし思えば、自分の存在は、父の精液と母の経血の結びつきから始まったのではなかったか。自分の存在はこの結合より始まる。
 一方、生まれて来たわが子を現代の親たちは、どういう育て方をするのだろうか。多くは過度な愛情を注ぐ、溺愛に疾る親が少なくないのではあるまいか。

 換言すれば、溺愛と過保護によって、親の愚かさが子に転写しているのである。子も、親の愚かさの儘、育って行く。そして図体だけは大人だが、中身は幼児である。ここに溺愛と過保護の「愚」があった。
 それを逸早く気付き、武門の文化では戒めて来たのである。わが子を、千仞の谷に突き落とし、そこから這い上がる父母像を往時の武士階級は身につけたのである。



●日本埋没

 武の道を志す者の精神は、単に「噛ませ犬」であったり、人殺しの「屠殺人」のそれでない。
 武の道は、あくまで「依って以て死を致す道」だった。それ以外にない。
 それを致すには、人格と品格が備わっていなければならない。つまり「徳」である。「徳」の存在を識
(し)り、逸早くそれを行動に移し、礼儀としたのが武門だった。これに作法を従わせた。
 また、この徳を別名「武運」とも云う。
 戦機の運である。
 同時に、不当で不正な暴力の戈
(ほこ)を止めて制さなければならない。武人は暴力否定論者である。好戦論者でない。噛ませ犬のように処(ところ)構わず噛み付きまくり、交戦を好む喧嘩師ではない。強持(こわ‐も)てでは人心を失う。頭の中身を疑われる。決して尊敬されない。愚者と蔑視される。

 そのためには霊的にも優れた感覚を研ぎ澄まし、あの世
(霊界、霊幽界、精霊域など)とこの世(顕界)について、充分な理解者とならなければならない。霊的世界についての勉強もしておかなければならない。霊統の意義も知らなければならない。人は血統だけで親子関係を連綿と続けて来た訳でなく、霊統も脈々と伝えたのである。霊界での親子関係もあるのである。
 一方、人間の持つ「慈しみの心」も理解して行かなければならない。慈愛であり、同時に人情の機微を必要だろう。要するに温情味である。
 かつて、温情味のない武士は一流と看做されなかった。

 一般に、恥を言い、尚武を語り、志や義について論ずれば、これを傍
(はた)から見ると、何やら近寄り難い冷厳な人柄を武士に想像するようだが、実際は決してそんなものではない。
 むしろ逆である。
 酷薄なイメージを発散しているような者は徳に欠けるとして、かつて武門では決して高く評価されなかった。温情味が欠ければ、人心を失うからである。そのために一廉
(ひとかど)の武士は、思い遣るある優しい心を備えていた。これを備えてこそ、最も君徳のある武士とされたのである。
 かつて日本では、武士は当時の日本の知識層であった。その見識の中には、高い見識のある人間理解の「人間学」を学び、人間通になることが要求されたのである。

 それは、好まれる究極の性格とは、どういう性格か。また最終的に人の値打ちを決定するものは何か。そしてこの世で、人としての喜びは何かであった。
 これらを探求し、人間通になっていくには、決して近未来的な知識で武装した主要人物になる必要な無いのである。
 極言すれば、武士としての性格は、人間の器量がそんなにズバ抜けていなくてもいいのである。一介の凡夫でいいのである。だだそれには条件として、世に尽くして、誠意と情熱を前面に打ち出し、真摯なる対応性があれば、天賦
(てんぷ)の才がなくとも、他人の心が分かる……、その気持ちが分かる……、情けを知る……、ただそれだけでよかったのである。

 他人の心が分かる。それを知る。
 それはまた命体である、霊体や幽体や霊体の理
(ことわり)を知ることではないか。
 人間の不可視世界の一面には、肉の眼で確認出来る肉体だけでなく、幽体も霊体も有していたのである。
 また、霊体や幽体に記された、眼に見えない「ものの哀れ」を読むことではないのか。それを察知することではなかったか。

 他人に思い遣りの心が働く……、これらは久遠実成の本仏である「宇宙の大生命」の働きによる。大生命は無始と無終を顕している。この大生命はまた、人間の個々人にもあり、それは私たちの裡
(うち)にも外にも備わっている。
 即ち、仏と衆生は親子である。親子であるから、また私たちも眠っては起き、起きては眠り……の周期を繰り返し、永遠の「生き通し」を霊魂はして来たのである。
 これに霊的な説明を加えると、宇宙の大生命の個々の生命は、大宇宙のひと雫
(しずく)であるから、個々の生命体は「生体」と「命体」から成り立っている。

 生体は物質であり、命体は反物質である。つまり命体は「波動」と言うことになる。
 生体は死ねば分解されて原子に戻るが、命体は波動ゆえ、減衰しない性質の波であり、そのまま残る。つまり意識体は、そのまま残る。意識体に減衰はない。意識として、そのまま残るのである。
 万物は波動より成る。
 物質が構成されると、必ず波動を伴う。つまり物質の性質とは、波動のことである。
 波動には宇宙に存在するその他の物質の波動のみならず、過去に存在した物資体の波動まで残されていて、その波動は時として総てのものに瞬時に影響を与え、それらは合成した次なる存在として刻一刻変化を繰り返している。意識体が常に物質に対して影響を及ぼしているのである。
 それは仏性のある……、心のある……、人間にまで及ぶ。これが波動である。

 そもそも波動は生命体を構成する次元において、私たちの生命は死後、大宇宙に溶け込む性質を持っている。大宇宙そのものが一つの大生命体であり、あらゆるものを創造してそれを育み、生かし、働かせ、あるいは死なせた。そして死した後、再び新たなエネルギーを与え、あの世とこの世の往来において輪廻を繰り返させたのである。
 この大生命こそ仏道で説く法界であり、それを一心に縮小したものが個々の生命であり、個々の心だった。それは一心をもって法界に開き、開いた先に死があった。これこそ法界は大宇宙であることの証拠である。人間もこの大宇宙の凝縮された「個」として生まれ、また個が死ねば、再び大宇宙の法界に戻る。戻って、大宇宙の大生命の大海に溶け込むのである。

 あの世とこの世の往来において、最初は、精子が卵子に巡り遭
(あ)うことから始まる。それが結合し合体して新しい細胞が生まれ、その生命は過去に存在したあらゆる命体とは、波動が作用するようになっている。波動は共振し、共鳴する。霊的波調は同じならば、命体は惹(ひ)き合うのである。意識し合うのである。記憶すらその意識の中にある。
 また、その背景には精子と卵子の合体において、その細胞が最も相応しい命体が、最も強く影響を及ぼすのである。これこそが、まさに「託胎
(たくたい)」というものである。
 つまり「生まれ変わり」を意味するものである。転生が行われたことを意味する。

 精子と卵子は親から引き継いだ遺伝子情報が含まれている。
 このとき生体を構成するのに必要なのは各種のタンパク質を作る場合の組成と手順である。それにおいて遺伝子情報の中にこれらが書き込まれているのである。どれくらいの細胞を作り、それくらいの全体像に仕上げるか、それは生体が出すものでなく、命体の指令による。一切の指令は命体より発せられ、DNAの中に書き込まれている情報を解析するのも命体である。この命体の指令無しに生体は築けないのである。

 この構造は逆から見れば、生体は死んでも、その刹那以降、命体は残り、他の生体誕生の際に、強い影響を与えていると言うことになる。
 また、生命体として生まれ変わる訳で、これが仏道で云う輪廻転生の科学的説明であろう。
 では人間は、人間に生まれ変わるのか。
 これは、どうもそうではないらしい。
 その条件が整わなければ、人間は人間として、再びこの世に生まれ変わることはない。六道
(りくどう)階級から落とされる場合もある。
 六道とは、すなわち、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の六つである。衆生
(しゅじょう)が善悪の業(ごう)によって、赴き住む六つの「迷界」を指す。迷いの世界で、有情(うじょう)が流転する境界をいう。

 かの有名な『死者の書』では、生まれる苦しみについて説明している。
 それは密教の「口頭伝授」という形を採りつつ、人間の誕生の過程を次のように説明している。
 その説明によると、「四生
(ししょう)」を挙げ、胎生(子が母体内で養分を受け、ある程度の発達を遂げたのち生まれるもので、哺乳類を指す)、卵生(爬虫類時代の名切りを残し、トカゲや鳥などのように卵から生まれるものをいう)、湿生(湿処から自然に発生するものや、また例えば蚊など虫の類をいう)、自生(天然に生じ、野生や自然生の植物や鉱物類をいう)という四つの生まれ変わりがあると言う。この中で人間を含む動物は、胎生として生まれ変わるとある。

 バルド
(中有)に入った心(意識)は、女性の胎内で結合した精液と経血の中に入り込むことが、先ずその出発点になることを説く。そのときバルドの意識が人間に生まれるかどうか、それはその意識が過去の行為で決定されるとしている。
 人間として再生が決定されている場合は、バルドの意識は近くで譬
(たと)え犬が交尾していようとそれには目もくれず、真っ直ぐに成功中の男女の許(もと)に辿り着く。そして過去の行為から立ち起こる風は、バルドの意識を、女性の胎内で結合した精液と経血の中心に吹き込む。
 このとき母親の経血の方に惹かれるならば男子が生まれるであろうし、父親の精液に惹かれるならば女子が生まれると言う。こうして一旦固定されてしまうと、母親の胎内の雫
(すずく)の意識に入り込んだまま以降はこの状態が決定される。このように説明しているのである。

 しかし、これは人間再生の予定であり、たまたま相応しい再生が犬であれば、犬に生まれ変わることすらあるというのである。
 あるいは人間以外の動物であるかも知れない。
 また『死者の書』は「動物」の項で、次のように説明する。
 動物に生まれ変わるのを、動物は心配事もなく悩みもないのでいいように思うが、これはとんでもない見当違いであると、一旦釘を刺しておいて、それは「動物の本質を見ていないからである」と忠告して説明を開始している。

 海に住む動物、魚や貝や亀、あるいはもっと小さな小動物のことを考えよとしたうえで、大きい物は小さな物を喰い、小さな物は大きな物にへばりついて、躰の窪みを食い荒らしている。動物は食物連鎖の大きな輪の中にあって、他の動物を食べ、自分も他の動物から啖
(く)われる。そしてこの輪の中から一歩も抜け出せない。また、出ようと言う智慧(ちえ)も起こらない。
 これは陸に棲
(す)む動物も例外ではない。
 大きな食物連鎖の輪の中にあって、他の動物や人に殺されて啖われる運命にあり、また使役されることから免れず、いつもびくびく警戒しており、殆どゆったりとする時間がない。総ては弱肉強食の輪の中にあって、此処から一歩も出られない。

 特に人間から使役されている動物は、自分の自由を悉
(ことごと)く奪われている。
 羊は人間に飼われて毛を取られ、虎や熊はその毛皮のために殺され、ジャコウジカは角目当てに猟師から命を狙われる。更に殺されて肉を啖われる動物は、もっと哀れである。彼等は殺されるために生まれて来る。
 人間の育てられ、栄養を無理矢理摂らされて肥らされ、いい霜降り肉が体内で作られ、過剰なる栄養で醸成され、こうした挙げ句に、成長して出荷出来るいい躰付きになると、生産者は解体業者に任せ、次は解体業者の手で無慙
(むざん)に屠殺され、解体される。肉を切り刻まれ、薄くスライスされてパック詰めにされる。

 しかし、こうした啖
(く)われる動物たちは、自由が奪われた状態でありながら、どうしたら此処から抜け出せるか、それを知らない。自分の悲惨な運命から抜け出すために、どうしたらいいか分からない。それば動物の心が曇らされているからだ。衆生が霊的神性を失って曇らされているからである。その曇りが、ここまで「哀れ」にする。
 無知で、愚かなまま心が曇らされ、仏性を持ち得ず、果てのない苦しみに喘
(あえ)ぎながら、その中に深く沈み、埋没しているのである。

 そして今度は、『死者の書』は人間に呼びかける。
 「あなたは日常生活の中で出逢う動物たちの心の玄に共鳴させ、彼等の心になり切って、その苦しみが共有出来るよう、常にその努力を払わなければならない。その努力を怠ってはならない。苦しみに喘いでいる動物を見たら、嗚呼……、あれはかつて自分の父母であった生き物だ。ああやって苦しんでいるのは自分自身なのだと考え、彼等に深い愛情と慈悲の心を込めながら、動物に生まれたことの苦しみを瞑想しなさい。そうすれば動物たちの心や立場が能
(よ)く理解できよう。そうした瞑想をすることで、動物に生まれるのも悪くない……などの無責任なことは二度と言わなくなるだろう」と。
 あたかも「喰われる物の気持ちを分かってやりなさい」と言わんばかりに。

 「動物に生まれるのも悪くない……」
 こうした意識は、現代人の中にもあるかも知れない。本能の儘に生きている、そうした一局面だけしか見ていないからであろう。局面だけを見れば、牧場に放牧され、あるいは牛舎や豚舎で、生産者から至れり尽くせりの世話を焼かれて、多忙で暮らす現代人より、一見楽なように思える。
 だがそれは間違いであることに気付こう。動物に生まれることが、決して幸せでないことに気付こう。
 管理され、監視され、制限され、規制された人間社会は「監督される」と言う点で、あたかも『人間牧場』を彷彿とさせる。人間の家畜かも既に始まっているのである。
 人間牧場では、人間は食
(は)み出すことを許さない。また現代は、そうした管理監督機構が出来上がっているのである。これは牛舎や豚舎で管理される家畜と少しも変わらない。
 これこそ人間をして、動物の最たる物ではないか。家畜の最たる物ではないか。畜生道の再現ではないか。

 住民台帳などの総背番号生は、現代社会が人間牧場の管理監督で動き出したことを如実に顕している。また、バーコード然り。
 これこそ、家畜に押された、家畜であることを証明する刻印である。
 バーコードにより、銀行や買い物などの預金状況がオンラインで決済され、携帯端末や運転免許番号、年金手帳や各種保険類の振り分け番号で、居所が追跡される管理体制が近いうちに整うだろう。あるいはそれが完成されているかも知れない。コンビニなどのバーコードは、それが顕著であろう。
 家畜を一手に総括するためである。世界の支配層がオンラインをもって、人間牧場の家畜を、一匹も逃がさないように総括するためである。

 世界には、この地球全体を牛耳る支配層が居る。
 また人類を家畜化に向かわせる支配層の政策がある。これが「人間牧場構想」である。
 その支配層は「新世界秩序」なるものを前面に打ち出し、被支配階級である“その他大勢”を管理し、監督する指揮権を手に入れつつある。世界の支配層は様々な仕掛けを労して、支配権を確立してしまったようだ。

 もし、支配層の彼等にその指揮権が移ったのなら、人類は永遠に統治される運命が免れないであろう。
 世界は一つ……のワンワールド主義は日本人を含む、世界のどの民族も管理し、監督して行くことだろう。
 このシステムは、ほぼ九割がた完成したと見ていいであろう。

 彼等の最終仕上げはイスラム圏にある。
 イスラムを捩じ伏せれば、まさに世界の支配層の思惑通りの新世界秩序の世の中がこの世に出現する。その走狗は、日本では進歩的文化人などである。彼等が代理人となって奔走した。あるいは水面下で暗躍した。そのお陰で多くは、まんまと洗脳されてしまったのである。

 したり顔の文化人らは、大衆の意識と動向を研究し、調べ上げ、その個人主義に奔る心理を知り尽くしている。
 大衆と言うものは、思考の中心が「一個人」である。集団を考えず、大勢を考えない。あくまで個人レベルである。考えたとしても、自分の家族や親族までである。それ以上の範囲に目は向かない。視野は狭い。そして自分を中心にした利益や生活のことしか考えない。それらを第一の優先として考えるものである。他人のことなど、眼中にない。
 よく考えれば、民主主義と言うシステムは、こうしたレベルの者に、主権を持たせる政治形態と云える。果たしてこの程度の小我の横行する社会で、よい政治が出来ると考えている方が、余程楽観的である。楽天的である。民主主義こそ、十把一絡げのシステムだ。

 個人レベルとは、個人主義に奔る大衆を指す。多くは、自分の小さな利益しか考えない。また利己主義者である。愚人である。賢人ではない。
 大衆の力は盲目であり、かつ無力である。非理知的である。判断力に乏しい。また有頂天に舞い上がる。小事に一喜一憂する。それだけの感情に揺れ、心までもが揺れる。頼るものを求めて彷徨う。その最たるものが日本では、20万以上を超えると言う新興宗教である。創価学会などは、一千万人を超える檀徒数を誇り、巨大教団を為
(な)してい得る。
 この大半は、金欲、物欲、色欲にほだされる輩
(やから)である。政治までを自分らの都合で変えてしまう。自分だけの狭い幸福だけを追い求める。したがってこの程度の視野の者もが、迫り来る危機などに目を向けることは殆どあるまい。近未来に大災難が待ち構えていると言うのに。

 今日では、かつて大衆の心の中にあった筈の霊的神性は曇らされている。酷く汚れ、濁っている。そのためにセックス・マシーン然で、獣性化されてしまっている。一年365日、発情している者が多い。
 その証拠に、風俗産業に屯するのは、みな大衆が殆どである。昨今の風俗産業の氾濫と盛会はどうだろう。眼を覆うほどのものがある。需要があるからこの手の産業が流行るのである。性を求めて、デリバリーへルスが大繁盛するのも無理はない。
 通勤途上の電車に乗っていても、サラリーマン
(ビジネスマンでないのに注目)の多くは、暴力やセックスを扱ったコミック雑誌やスポーツ新聞のセックス情報を読みふけっている。
 毎日発情して「助平なこと」のみが、今日の日本人の代名詞になってる。日本人が、近隣書諸国からバカにされる要因である。
 これを見ると、一体かつての気骨のある、誇り高き日本人は何処に行ってしまったのかと考えさせられるのである。
 それもこれも、大衆の愚弄政策で霊的神性が曇らされたからである。この曇りをいいことに、仕掛人どもは付け上がる。

 その一方で、大衆は権威の語ることに弱い。文化人や有識者に弱い。だから権威の美辞麗句に酔う。
 自由・平等・博愛と続く、御伽噺
(おとぎばなし)のような世界の美辞麗句に酔い、煽動されて、やがては墓穴を掘るような現実を出現させる。平面的な思考では行き詰まることを顕している。善悪二元論的な思考では、必ず行き詰まるのである。これも霊的神性を曇らされたからだ。それで平面しか見えなくなった。善悪二言論で、あたかもゾロアスター教のように、またマニ教のように、一方を善と決め付け、他方のを悪と断定する。

 しかし、どちらが正しいかだけではなく、善も悪も高次元から見れば、現れの違いであり、働きの違いであり、元を辿れば「同根」である。
 善も悪も宇宙の創造主が造り賜
(たも)うたものである。悪を抹殺したからと言って、残りは総て善とは云えまい。これを殺したり、払ったところでことの解決にはならないのである。
 問題は調和である。
 善悪を抱き参らせ、調和を図ることによって、道が開かれるのである。これを「顕現
(けんげん)」と言う。
 この顕現
を判断する力が、果たして大衆にあるのか。そうした眼力が大衆にあるのか。
 学ばない者に顕現の力はない。知らない者が知っかたぶりをしても、それは付け焼き刃である。

 あるいは悪しき個人主義を満喫している小金持かも知れない。このように個人レベルでしか物事を考えられない者が、政治と言う、大勢の幸せを考えるシスレムを創造し、またその知識や論理は、どれだけ持ち合わせているだろうか。霊的神性を曇らされていては、そういう見抜く眼力もあるまい。
 更に政治には無関心の、興味も持たぬ利己主義や悪しき個人主義に疾る大衆に主権を与えても、選挙で選び出す代表者が、大衆と同じような意識しかなかった場合、よい政治が出来ないと言うのは自明の理であろう。

 本来ならば、真の賢人たちが集まって、定めるべき国家の方針を決定するのならまだしも、大半が愚人なる大衆が、選挙人を選んだとしても果たして「悪の多数決」になりはしないか。
 また、こうして選ばれた指導者に手を委
(ゆだ)ねれば、自ずと国が乱れるのは当り前である。両者は互いに霊的神性を曇らされているからだ。
 人類史上を検
(み)て、民主主義を導入した国家は、やがて中心とする拠り所を失い、芯(しん)を失い、骨抜きにされ、やがては亡国の憂き目に遭遇することになる。霊的神性を曇らされた盲人が、盲人の案内役は出来ないのである。

 そうなると裁判所で定義される、可もなく不可もない善良な市民は、永遠に人権が奪われ、奴隷化されて行くであろう。そして一度こうした世界が完成されると、その監督単位は世界規模となり、これまでの国家は世界規模の支配下で統治されることになるだろう。
 一方、国と言う概念は無くなり、監督体制は地球と言う「水の惑星」単位で考えることになる。それまでの国家は、単に「州」に置き換えられ、これらを管理監督するのは強大な軍隊を持つ国連軍であり、世界規模で軍隊が動かされて行くことであろう。

 また、州単位の犯罪は、政治犯を含む厳重な内部警察機構により、政治的な社会の改革は不可能となり、人間は畜生道の動物となり、家畜として扱われるであろう。
 そして家畜化した人間を閉じ込める柵
(さく)は「民主主義」と言う、人民に甘味なシステムである。大衆が酔い易い言葉である。これを手段に用いたのが民主主義と言う政治システムである。一見、よきように見える。
 だが、それは表面上の甘味を纏った鎧
(よろい)に過ぎない。蜜に集(たか)る蝿を寄せる為の誘惑装置に過ぎない。中身は社会主義とほぼ等しい、密告、監視、拷問、脅迫の鞭によって管理監督する社会である。



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