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個人教伝指導日誌 5

人間は思索する。考える。考えて何かを探求する。それは肉体を動かす以上に、である。
 肉体だけを動かして、考えねばいいという生き物ではない。常に何かを思索し、その解答を探そうとする。人間とは単に物を食べるために、入口があって出口がある糞袋ではない。

 人体を検
(み)れば、高が糞袋に過ぎないが、それは肉体と言う五臓六腑で観たときだ。やはり食べて糞して、セックスをすればいいという生き物ではない。それは人間の付録の部分でしかない。
 付録に振り回されていては、本当の人間というものを体験出来る訳が無い。付録以外に、もっと大本になる根幹がある筈である。



●未科学分野の霊的構造を知る大事

 兇悪犯罪などが起こるとメディアを通じて、「政治が悪い……」「政府の政策が間違っている……」「社会が悪い……」などと批判をするコメンテーターは多いが、彼等の分析や論評で、こうした犯罪が減るとは思えないし、またそれが何らかの犯罪減少の役に立っているとも思えないのである。
 では、どうしてこんな世になったのか?……。
 それを嘆く人の意見もいろいろだろう。十人十色である。必ずしも一致しない。意見は多岐に分かれる。

 そうした意見をまとめると、こう言う結果になるだろうか。
 まず嘆く人の意見に耳を傾けると、家長制度が戸籍法から無くなり、家庭内で家長が宙に浮いてしまったために家庭が崩潰した。これを上げる人は少なくないようだ。
 そのために父親が居ても、居ないのと同じだ。また母親が学校や塾の成績ばかりを問題にして、子供のことはそっちのけで、あれやこれやといちゃもんをつけるばかり。だから子供にもストレスが溜まるようになり、その重圧が家庭を暗くしている。親殺し、子殺し、虐待死は、こうした崩潰した家庭から起こっている。

 あるいは日本のアホな政治家どもの政治が悪い。党利党略しか考えない。自分の所属する党のことしか眼中に無い。国民のことなど、そっちのけだ。これでいい政治が出来る訳が無い……などの、これを開口一番言う人も居る。
 しかし、そんなに政治が悪いなら、自らが選挙に立候補して、いい政治というものを行政に反映させればよさそうなものがだ、口先ばかりで行動が伴わない。
 口で言うだけのことを自ら率先して、手本を示めしてみせればよさそうなものだが、その行動力すら無く、陰に隠れて、プライバシーの侵害と言わんばかりに姓名さえ名乗らず匿名でしか、そうした批判や悪口は言えないのである。現代人の口はそのようにしか機能しないのだろうか。いったい実践や実行は何処に消えたのだろうか。

 この種は、おそらく「2ちゃんねる」の“便所の落書き板”に、ネット雀同様、書くだけ書いて悪口もしくは批判はするが、行動はなしないと言う消極的な臆病者。臆病だから、この手のサイトは花盛り。
 確かに悪口と批判は次元が違うが、批判にしても悪口に近く、単に揚げ足を取っているに過ぎぬ。言葉尻を捉えて、揚げ足のとることが巧
(うま)くなった日本人。
 昨今の日本人に、一番多いタイプといえる。

 このサイトはそうした輩
(やから)の、描き放題の便所の壁の「落書き板」となっている。日本人も、落ちに落ちたりと言うところである。
 私だったら、それだけ物申すなら、「まず、名を名乗れ!」と言いたい。武士とは、そう言うものでなかったか。
 姓名を名乗り、「○○住」と、自身の居所を明確にしたものである。そうした潔さと、正々堂々とした態度が尊敬を集めた。故に卑怯さが無かった。今は、卑怯であることが讃えられる時代。
 これはストーカー以上であろう。あるいはストーカーが、そもそもそうした趣味へと鞍替えしたのか。

 一方でこの現実を嘆きつつも、戦争に負けたのが悪かった……と云う人も居る。
 戦争に負けたことが、日本人の名誉と誇りをぺちゃんこにされた。これが恥知らずの今日の日本人を作ったという、こういことを言う戦争マニアも多い。
 軍国主義者とは云わないにしても、また日本が昭和20年8月15日に、簡単にギブアップしてしまったことへの非を指摘する人も居る。北朝鮮の「したたかさを見習え」という人達である。

 更には、戦争に負けために敵国文化に染まり、アメリカナイズされたのが行けなかった……などと云うと、これを受けて、「負けたものは仕方ないじゃないか。こうした敗戦論墜落説を挙げるのなら、そもそも負けるような戦争をした戦争指導者が無能だったんだ。そうした敗因の反省の上に立ち、反省すべきは反省する。
 先の大戦の英霊に、安らかに眠った貰うためには敗因から多くの教訓を学ぶべきである。そうした研究無しに、日本国に身を捧げた英霊に対して申し訳ない……」と訴える人もいる。
 こうなってくると、水掛け論である。あるいは空回りして、「鶏が先か、卵が先か」の循環論を繰り返す。否、もう循環論ではない。誹謗中傷の世界で、纏まりが無くなっている。そして双方は対立する。

 不毛の論争に口角
(こうかく)泡とばす……というか、そうした喋っている間にも、訳の分からぬ理不尽な事件が起こっている。その理不尽に訳の分からぬものが多い。単に衝動的である。
 余りにも衝動的であるために、日本人は遂に壊れてしまったのかと思うほどである。かつて無かったことが、いま現代の世に起こっている。あたかも怪奇現象のように……。

 日本人から何かが欠落した……、そう思わずにはいられない。あるいは壊れてしまったのか……。
 人間としては本来もっていなければならない筈の、ごく当り前の感性が抜け落ちてしまったのである。そう、痛感するのである。

 もう随分と前だったかと思うのだが、ある若者が「なぜ殺人を犯してはいけないのか?」と、こういう質問をしたことを、某テレビ局の番組で見たことがある。奇異なる……実に呆気
(あっけ)にとられた番組だった。
 これを見て、私は唖然
(あぜん)とした。何と言う馬鹿な質問か?……と思う前に、何でこういう質問を平気で、公共の電波を使って言わせるのか?……という、テレビ局の神経を疑ったのである。

 テレビ局も、よくも此処までの欠陥人間を探し出してテレビに出演させ、喋らせたものだと思うのである。
 喋る方も喋る方だが、喋らせる方も喋らせる方だった。
 質問した若者の神経も何処壊れているとしたら、この番組を制作したプロデューサーの神経も壊れていたのであろう。「類は友を呼ぶ」と言うから……。
 日本中、「類は友を呼ぶ現象」が起こっている。特にネットを通じて……。
 近年のメディアやネット社会は「諸刃の剣」である。

 人間は殺人が禁止されているから人殺しをしないのではない。人は、簡単に人を殺せないから殺さないのである。人殺しは、そう簡単に出来るものでないのである。人を殺す前には、どんな悪人でも、殺すこと何らかの躊躇
(ちゅうちょ)を覚える筈だ。一瞬において、刹那(せつな)においてである。覚えないのは壊れているからである。

 この躊躇こそ、人間の持つ正常な感覚であり、これを感じるのが人間である。よほど正常感覚が混乱し、錯乱して心神喪失状態が起こらない限り、正常な神経では、人を殺すことに躊躇
(ためら)いを覚える筈である。簡単には人は殺せない。また殺そうとしても、殺されまいとする抵抗力も半端なものでない。試合場の勝負とは異なる猛烈な力で抗(あらが)うのである。銃砲か鋭利な刃物でない限り、人間を素手でだけで殺すことは簡単ではないのである。また武器を持っていても、武器で殺すのも容易でない。殺される方は、殺されまいとして自分なりの最後の抵抗を見せ、防禦創を作るからである。
 これを知っている者は、逆に人命を尊重するのである。戦争実戦体験者は、反対に平和の尊さを知るのである。地獄を見て来た人ほど、人命の尊さを知る。それが人間である。

 こういうと直ぐに、「戦争では命令を受けた兵士が簡単に人を殺すではないか」という反論が返って来る。
 アメリカ映画の戦争物は、多くは“英米の連合国”対“ナチスドイツ”の構図で映画が製作されるが、そこに登場するドイツ兵はあたかも畜鬼の如く描かれ、まるで害虫が殺虫剤で狙い撃ちされるように、黴菌かゴミのように殺されていく。
 更に、アメリカ系ユダヤ人のスティーヴン・アラン・スピルバーグ作品のユニバーサル映画には、ドイツ兵の大量抹殺のシーンが多く描かれている。

 例えば『インディ・ジョーンズ』シリーズには、ドイツ軍を「畜鬼」として描きだし、片っ端から葬り去る。一見痛快だが、もしあれが、ドイツと同盟国だった日本軍だったらと考えれば、この活劇も痛快さも半減する。またスピルバーグは親日家というが、果たしてどうか。単に日本人を意識してのポーズにも思える。八方美人的ポーズである。

 そして1997年に、アメリカ合衆国で出版されたアメリカ人作家のアーサー・ゴールデン
(英語版)による小説『SAYURI(さゆり)』を原作としたスピルバーグ作品の映画化である。映画の内容は1927年に起こった世界恐慌によって、貧しい漁村の九歳の少女、千代が京都・祇園を模した架空の町の花街の置屋に売られ、厳しい生活を描いている。既に間違いは、祇園の芸者は「売られてなる」と言う仕組みにはなっていない。

 また、主要な女性キャラクターを、すべて非日本人が演じていることである。芸者役の綺麗処は、中国などのアジア系の女優が独占し、まさに、ヒロイン総取りである。日本人はその引き立て役として適用されているくらいである。何か意図的であることを思わせる。そして滑稽なのは、しんみりとしたい場面で、祭囃子のような派手目の曲が鳴ったりなどは、実にちぐはぐな印象である。日本人を愚弄している観すらある。

 よくも親日家と言ったものである。
 そもそもこうしたところに日本人に対する、ナチスドイツ並みの偏見がある。親日家にしては、非常に解
(げ)せぬところがある。スピルバーグ作品をよく見ると、作品の何処かに「解せぬ」ところが顕われるのである。
 これは単に、私の思い過ごしだろうか。思い過ごしにしても、このような違和感を感じるのは何故だろう……。

 スピルバーグの主義を押し通せば、ユダヤ人、つまりナチスドイツに虐待されたと言うアシュケナジー・ユダヤ人
(正確にはカザール人で白い肌を持つ白人。国際ユダヤ金融資本を牛耳り、スファラディー・ユダヤとは区別する。エリートの座を占める)の擁護に回っていることだ。もう一つをスファラディー・ユダヤ人(『竹内文書』からも判るように、弥生時代以前の原日本人と同じ血統を持つとも謂われるセム族。二級市民に置かれた貧困層)という種族が、彼等は白人の下にランクされる二級市民である。こうした現在のイスラエルの二重構造は、日本人には分かり難い。
 だが、国際ユダヤ金融勢力に属するエリートと、下位の二級市民に置かれたユダヤ人とは区別するものである。国際ユダヤと称した場合、前者を指す。両者を一括して、ユダヤと混同するものでない。

 また、一説にはユダヤ教徒自体を「ユダヤ人」と言う場合もあるようだ。改宗者をユダヤ人と呼称する場合もある。カザール人などがこれである。そしてユダヤ教の聖典となっているのが『トラ』と『タルムード』である。
 更に二重構造の裏には、富めるユダヤ人と貧しいユダヤ人がいる。アメリカのコネチカット州のフェアフィールドの東海岸には裕福なユダヤ系アメリカ人が多く住んでいる。銀行家であったり、医学の権威であったり、法曹界で幅を利かせる法律家であったりする。かつてはドイツのフランクフルトか、ポーランドなどから迫害を逃れてアメリカに移住して成功した人達である。
 しかし、迫害に免れなかった人達は脱出ルートがなくヨーロッパに居残った。

 そのためか、こうした複雑さと、虐待され、ホロコーストで死んだアウシュビッツをはじめとする収容所での犠牲者は約600万人と言われるが、こうして国際政治の中で、“憎きドイツ軍”対“善なるモーセの末裔
(まつえい)のユダヤ人”という構図が出来上がったものと思われる。憎きドイツ軍は最初から憎々しい狡猾な悪に仕立て上げられ、最後は天罰が当たって死ぬというストーリーになっている。絶対悪のドイツ軍と、善なる国際連合軍である。この横滑りで、今日の国際連合が出来た。

 映画のストーリーは殺す側の英米軍人に扮した主役は、自分は殆ど掠り傷一つせず、勇猛果敢で、無表情でドイツ兵を殺すことに何の痛痒を感じても居ない。淡々の殺人マシーンのようにドイツ兵を殺して行く。日本の時代活劇のチャンバラ映画以上に、自動小銃を構えてバッタバッタと殺しまくって行く。そこに痛快さがあるのだろうか。

 映画の世界とは言え、かつてMGM配給の『荒鷲の要塞』や『ナバロンの要塞』が、如何に戦争アクションとはいっても、見ている方は「余りにも殺し過ぎではないか?……」と言う印象を受ける。
 あるいはゲーム感覚の戦争アクションで、「人が死ぬ」という事実は、無視されての設定で、単に痛快活劇だというこのなのだろうか。あるいはドイツや日本は、未だに国連の「敵国条項」に記されているゆえ、この二国の兵士はバッタバッタと殺しまくられても、この二国民の生命に限り、抹殺は許されると言うのでもあろうか。

 事実、先の大戦では、日本人や日本兵は「ジャップ」と蔑視され、猿同様に扱われていた。また日本の同盟国であるドイツ兵士も「ナチ」と侮蔑をもって、犬の如き扱いだった。その扱いがこうした戦争アクションの中には、蔑視が転写されて描かれているのである。

 多くの戦争映画は「簡単に人が殺される」という状況が描かれている。
 戦争映画には、敵と味方の双方が描かれる。敵は、何れも狡猾
(こうかつ)で憎々しい。そして敵側の殺される命は、どれも軽い。
 そもそも敵側は、憎々しく傲慢
(ごうまん)に描かれて登場しているために、殺されても当り前という筋書きになっている。
 特に、対ドイツ軍を対象にした映画は、敵国の傲慢さが鼻に突くような描き方がされている。そこで敵兵がバタバタ斃
(たお)れると因果応報と言わんばかりに、観客の拍手喝采でも挙るようなストーリーとなっている。敵が殺されるごとに、拍手が挙る……、何とも人命軽視の描き方である。
 斃れた敵兵にも、親兄弟や家族が居ろうに……。
 これが、人間が人間に感じる情である。

 情の軽視。温情の薄れ……。
 戦争アクションで見るこの軽視が、また現実の、日常と非日常の境目を無くしているのかも知れない。戦時と平時の区別さえつかないのである。現実も架空も区別がつかないのである。
 「なぜ殺人を犯してはいけないのか?」
 残酷な質問である。
 人殺しをしてはいけないのか?……の反論者は、平時も戦時もごちゃ混ぜになって、人間であることを無視した論理を展開しているのである。理屈で、それを訊き出そうとしているのである。

 そもそも人間は、「人間であることの正しい感覚の感情」を持っていなければならない。
 秀吉が言ったように「人は、みな不憫
(ふびん)」という感性があって、人となる。そういうものは誰から教えられるまでもなく、生まれながらに備わっていなければならない。
 あるいは幼児期のこうした感覚は、親の躾
(しつけ)によって形成されるものである。人として育まれる当然なる感性は、既にこの時期に自動的に感得するものである。

 「なぜ殺人を犯してはいけないのか?」
 テレビ出演した若者の質問である。
 「何故いけないのか?」と質問している以上、「いけないこと」を理屈で納得しようとしているところが感じられる。
 また、そう言う質問が若者の口から出ることからして、この若者は人間としての感性は欠落しているように思うのである。感性の欠落を理屈で納得しようとでも思っているのか。
 世も末だと嘆くのは易しい。時代が変わってしまったと、落胆するのも易しいだろう。

 しかし、そこまで緊迫していないにしても、この世の中で、若者の口からこうした質問が平気で出て来ることからして「現代の世の狂い」を感じるのである。狂った世の中には、狂った人間が顕われる。何処かが壊れた人間が顕われる……、正常な感覚器が壊れてしまったか……、そう思いたくなる。
 筆者はいま「若者」と年齢限定をしているが、若者に限らず少年の年代にも、オヤジの年代にも、この手の狂ったり壊れたりした人間は居るのではないのか……そう思うのである。
 こうした壊れた人間は、人としての感性と情緒を持たないから、「なぜ殺人を犯してはいけないのか?」と言う質問に対して、こうした狂人にその説明をして、更に納得させることは難しいであろう。それも歳を喰ったオヤジなら、世間の垢
(あか)にまみれた個性が出来上がっているので、その軌道修正は不可能に近いだろう。難しいこと請け合いである。
 もしかすると、「なぜ殺人を犯してはいけないのか?」と質した若者の両親も、実はその解答が出来ないのかも知れない。そうなると更に厄介で、益々難しくなる。

 では、なぜ難しいか。
 幼児期に備わっていなければならない筈の感性と情緒が育っていないからである。親が幼児期の躾を怠ったからである。その痕跡は大きいだろう。
 成人していても、感性と情緒は幼児以下なのである。先ずは責任の所在は親にあり、間接的には低学年を担当した教師と学校にあろう。
 親、教師、学校という順に責任の所在を指摘すると、また反論が出て来るだろう。親や教師や学校は、単に現場の尖兵に過ぎないのだ。その根元はもっと別なところにある。学校の校長こそ哀れな尖兵ではないか。その尖兵を動かしているのは誰かを考えろ、と。

 こうなると、その所在は何処になるのか。
 都道府県の教育委員会だろうか。あるいは市町村の教育委員会だろうか。更には文部科学省や、福祉増進を目的にするPTAだろうか。
 そうなると問題だ。それを含めた、一切の現代日本人にいつしか染み込んでしまった価値観に大きな問題があるのではないかと。
 しかし、価値観が変われば、「なぜ殺人を犯してはいけないのか?」という質問が若者の口から出て来るのだろうか。
 どうも違う気がする。

 また、人を殺すと行為は、理屈とは異なる別の次元のものだが、それの次元を下げて、敢えて殺しを企てると言うのは、そこに狂気が無ければ出来ないことだが、現代のように感性が欠落した時代には、狂気に侵される人間が増加しているようである。まるで、何者かに「取り憑かれた恨み」があるように……。
 それを死霊とか、生霊といったら言い過ぎだろうか。オカルトじみているだろうか。

 その一蹴を恐れずに、筆者は回答したい。
 幽界と霊界の話である。

 死霊
(しりょう)とは死者の霊魂から発する意識であり、怨念などが無ければその意識は起こりえない。取り憑くことも無い。何かの意識が引き摺るから、現世に何らかの悪影響を与えようとする。不成仏の意識だ。未成仏霊とも云う。
 一方、生霊
(いきりょう)とは生きている人間の怨霊である。かつては「生き魑魅(い‐き‐すだま)」と言われた。生き魑魅は生きている人間の念は「十の唸(ねん)」からなる。
 まず、恐れ・欲しい・腹立や苛立
(怒りやイライラ)・傲慢や尊大(見下す優越感)・憎い・惜しい・恨みや羨望(自分より優れた者への妬み)・可愛い(溺愛や愛執)・苦悩・迷い・落花(花が散り落ちることに譬えた老いへの無念と、老いても若さへの願望)の「十の唸」からなる。

 昨今の世は、以前に比べて死霊も生霊も多く飛び交っている。人の霊魂が憂いてのことだ。悩んでのことだ。
 あまりに浮遊している。
 あるいは何者かに縛られ地縛している。みな不成仏の唸
(ねん)である。そこから唸を発している。何者かに憑(つ)こうとして……。
 これが憑衣の実体である。
 あるいは昨今の「理由なき殺人」などは、憑いた憑衣霊
(憑く方)が憑霊者(憑かれた方)を動かしてのことかも知れない。

 霊はそもそも、肉体を持たない意識体であり、超感情の世界の超時空の存在である。その本質は意思であり、また意識である。あるいは、ある行動をとろうとする意志である。しかしこの存在は、肉体を持たない。肉体を持たない以上、それ自体では物理的な作用を及ぼすことは出来ない。作用の発揮は意識だけでは不可能である。そこで現在生きている人間に憑いて、自分の意志を実行させようとする。その場合、生きている人間の魂と結び、更には神
(しん)に宿ろうとする。そして憑いた人間の肉体を、意志通りにコントロールしようとする。憑衣の実体である。

 普通、神
(しん)が気によって、肉体である精と固く結んでいれば、それは問題ない。この状態においては霊は協調体制にあり穏やかである。ところが神と結ぶ気が弱ければ問題が起こる。神と精が分裂して異様な行動をとる。その場合、まず神が眠らされ、肉体は憑いた憑衣霊が支配者となって気が触れた状態となる。そうなると言動も行動も常識では考えらないことを仕出かす。これが憑衣による霊障である。

 ちなみに精の源は「精気」であり、気の源は「元気」であり、神の源は「神気」である。正常者は、その三者が固く結びついているものであり、精気は「乗り物」であり、元気は「シートベルト」であり、神気は「以上を支配する主」である。
 この三者の関係において、結びつきが壊れると、分裂や乖離
(かいり)が起こり、肉体を支配する主はやがて乱暴運転をしたり事故を起こしたりして、ついには常識では考えられない錯乱状態が起こり、この状態から出た言動や行動は、まさに「異常」なのである。

 現代社会は肉体を精神が分裂かつ乖離しがちな世の中であるから、病気といっても霊障絡みのものが多くなり、そうした人間の行動も言動も異常なことだらけとなる。
 こうした憑衣現象については、後ほど詳しく述べることにする。


 ─────そもそも武の道は、今でこそ「道」などと言うが、本来は人殺しの術を致す武芸だった。人殺しのために研鑽
(けんさん)をするのである。練って練って研鑽を積んで行くのである。
 したがってこうした術は、道に至る前は鎌倉期以降を見れば変わることだが、武士は、その死闘において命を張って来た。全人格を前に出した。これが時を経て、殺人が活人へと変貌した。
 この活人に至る探求を「道」というのである。
 そして「道」に至れば、そこで死生観を超える。そうした感覚を超越して、遥かに高い位置に心境が達する。怯
(おび)えも、生に縋ろうとする意識も、みな消滅する。つまり「無」とか「空」と言う世界に至るのである。

 生死一如。死生同根。
 それは決して分離・分裂してはならないものだった。
 これが死生観の超越した境地だった。その境地に包含するものは、死生・陰陽・静動・虚実などの一切を含み「一つ」にしているのである。これが「一如の世界」「同根の世界」である。

 こうした世界に辿り着いたとき、人間に生死は表裏一体として貼り付いているが、死は、単に無になることではない。一切が消滅することではない。死ねばそれでお仕舞いよ……とはならないのである。肉体は死んで灰に帰しても、人の霊魂は存在をし続ける。意識となって存在し続ける。そのために時としては恨みや妬み、憎しみや未練、情念や執着などの欲望を抱く魂が居て、それがこの世に不成仏として残存している。それが死霊
(しりょう)である。死霊また浮遊霊となり地縛霊となる。

 そしてこういう未浄化霊からは様々な周波数の違う波動が出され、その波調と合った場合、同調して憑衣される。憑衣された者は人格が損なわれ、あるいは分裂する。統合失調症のような人格の崩れた状態である。
 あるいはパラノイアとなる。妄想が生まれるのである。これを偏執病とは妄想症と言う。
 こうした精神病も最初は心因性ショックから罹病すると言われているが、その多くは憑衣と言う筋道を通って罹病する場合が殆どである。

 修行しない霊魂の持ち主は波調が低いままでそれを放置し、移行、その人が波動を霊的波調を上げないままに努力を怠るところから低級霊の憑衣が起こる。
 つまり低級霊はまたこの世に残留する意識体で、不成仏から起こる未浄化霊であるから、それらが複雑に複合的に悪霊と重なってしまっているため、集合体の悪霊集団として現代の世は昔とは異なる憑衣のされた方が起こっている。取り憑くのは、未浄化霊の一体や二体ではない。悪霊の魑魅魍魎が未浄化霊の意識の中に棲
(す)み付いて複雑さを増しているのである。
 そして悪霊化した低級なる集合霊は波調自体が粗いから、これらに憑衣されないためには、自身の霊的波調を密にする必要がある。つまり修行して霊的波調を高めればよいのである。
 憑衣霊については後ほど詳しく語る。

 さて、未修行の低い波調の儘では、同じ低さが同波動と惹
(ひ)き合うことになる。類は友を呼ぶ法則だ。惹(ひ)き合うことは作用による。それを避けるためには修行せねばならぬ。

 では、どう言う修行をするのか。
 一般に修行と言うのは、白い着物に身を固めて高らかに般若心経を唱えて滝行をしたり、山伏の白装束を纏い修験者のような恰好をしての山岳地帯を歩き回ったり、あるいは比叡山での千日回峰行
(かいほうぎょう)と称する一日に山中を一周し、千日で終わる荒行などを想像するであろうが、こうした行も、素人が遣るには一般向きでない。霊的に向上してない者は遣るべきでない。
 素人レベルでは、日常とは異なる不自然な非日常の行をして、却
(かえ)って以前より体調を悪くしたり、精神病を患ったり、あるいは原因がはっきりしない突然死に至るという不幸現象に遭遇する行為はしない方がいい。

 また、考えも無く、現世御利益を願って室内に勝手に神棚を設け、各地方の神社仏閣の御札や護符を掻き集めてコレクションし、自分一人のための祈祷などは遣らない方がいい。狂う原因にもなり、そもそも御利益を願った自分一人の祈祷行為は、却って低級なる邪霊や悪霊を呼び集める結果となる。

 こうしたものを呼び集めると、体調に異常が顕われる。先ず関節部に顕われる。腰・膝・足首・脊柱・肩更には頭蓋の縫合
(ほうごう)などに異常が顕われ、こうした部分の畸形は次に五臓六腑に及ぶ。食物の出口と入口にも顕われる。
 出口では排尿部付近の前立腺が肥大して性ホルモン以上が顕われ排尿障害・残尿・頻尿となったり、血尿・腰背部疼痛などを起こして前立腺自体にガン発症などを招くことがある。
 また肛門の結核性痔瘻などの排泄障害が起こり、入口では甲状腺を中心とする消化器系に顕われる。排尿や排泄障害は五十代・六十代から起こる老化現象と考えられているが、下に集中する理由から単に肉体だけの廊下から起こったものでなく、下半身に集中する病気の顕われは単に廊下だけでなく低級霊などの邪なるものの仕業である。

 そうした障害には精神的なものからも霊的波調が伝達され、定年前の働き盛りが組織内で上下関係の抑圧に耐え、自他の出世に心を悩ませる状況下では、間違いなくストレスが溜まりそれを除去出来ない場合、魑魅魍魎どもに魅入られてその餌食になる場合がある。
 働き盛りの人で接待ゴルフや酒に酔い痴れてそれでストレスを軽減出来る人はいいが、ゴルフも遣らず酒もあまり強くないでは、ストレスは益々溜まるばかりである。
 こうした人の鬱憤晴しは、セクハラがストレス解消法となったりして、電車内の痴漢であったりで、遂に告訴されて刑事事件の槍玉に挙がり、人格と品格を下げることもある。

 普段は健康なる人間が病変に移行する場合は、単に肉体的異常ばかりとは言い切れない。精神に関与している場合も少なくない。
 特に霊的関与に関してその影響は大きいものである。霊的に憑衣され、その憑衣霊によって、肉までもを蝕まれるのである。したがって怪我や事故や病気の背景には少なからず霊的なものが関与している。憑衣した意識を持つ低級なる霊体が、人間に取り憑いた後、あたかも肉を守っている城壁を壊したり、城門を開くなどして、敵である悪霊の侵入をし易いようにしているのである。目的は一個の個人の生命を奪い、手土産として悪霊集団の頭目に差し出すことを目的としている。

 こういう状況に至ったのは、人間社会の時代の流れに慌ただしく、騒々しく、忙しいことである。多忙は、人間の霊的中枢を狂わせる。狂わされた人間は、時間の短縮の中で生きて行くことを余儀なくされる。
 今、あらゆるところで時間の短縮が起こっている。都会時間と、田舎の山時間は当然同じ時間の中に居ても、その進行度合いが違うだろう。都会時間は慌ただしく流れ、山時間は牛歩のようにゆっくりと流れて行くだろう。この流れの格差だけでも大きい。
 ところが、今日では田舎の地方も都会化が急速に進んでいるため、こうしたところも時間の流れが短縮化されている。
 人間は時間を短縮化されたため、ゆとりを持てたかと言うと、結果はその反対。決してゆとりなど持てず、いっそう慌ただしくなり、あくせくして多忙の中に身を投じている。

 では、私たち日本人をあくせくさせ、多忙の中に身を投じさせているものは何か。
 根本には時間の短縮化が働いていることである。
 例えば、JRの列車の時刻表を見ただけでも、時間の短縮化は明白となろう。
 現代のレジャーは、旅をすること一つ挙げても、あくせくしている。何かと短縮化されてしまったため、急ぎ足で移動が余儀なくされている。

 フォー・シーズンを通して、何処へ行ってもあくせくしなければならない条件が突き付けられている。
 山や海に出掛けても、行く先々のあの大群衆の人集りを見ていると、何か現代では「愉しみ」というものが義務化されているように思えるのである。遊園地や行楽地に出掛けても、そこには亭主は家庭サービスをすると言う気味が見て取れる。今や亭主族は義務化の中に身を当時、あたかも多忙を極める会社人間と同じような行動原理を示している。

 ただ休暇日を、ぼんやりとして一日過ごす……というような時間の過ごし方は許されないようになっている。あくせくして足早に通過しなければならない多忙の中に、身も心も投じなければならないように仕組まれている。
 それは楽しいからやるのでなく、夏だから海に行かねばならぬ、冬だからスキーに行かねばならぬ、そして背景には、人間はパンを食べるために生きるのではなく、生きるためにパンを食べるのだという意識が働いている。
 それは同時に、人生は楽しまねばならぬのだ……と言う強迫観念があり、楽しむことが一人前だとする「現代流の人間の生き方」を強要されているからである。

 現代流の生き方は、人間を何処までも性急
(せっかち)に追い立てる習性をもっている。世の中を益々多忙にし、繁雑にしているのである。この繁雑の中に現代人は身を投じ、かつての旅を“旅行”に変えて目的地へと急ぐのである。それが今の、旅ならぬ、“旅行”の仕方である。そして寛ぎのための行楽旅行であっても、旅行者はとにかく一分でも一秒でも早く到着しようとする。
 本来の旅の楽しさは、自分の住んでいるところから「遠くへ行く」と言うことが目的であった。そういう移動感覚の中で旅を楽しむものだった。ところが昨今は無駄を省いた、とにかく慌ただしい時間制約旅行となっている。スケジュールが分刻み、秒刻みである。ただ慌ただしく過ぎて行く。

 かつての旅には、心身だけでなく、魂まで寛げるゆとりがあった。遠く離れた地で、海風に吹かれ、あるいは野の風に吹かれて、ゆるやかに流れる時間の中で、無駄が一杯集積されていたのである。ホームで駅弁売りから駅弁を買い、列車に乗っては車窓から駅弁の味に舌鼓を打つことさえあった。だが今はそれさえ何か慌ただしい。何処かで「急がねば」という強迫観念に追い立てられている。もう旅をしても、追い立てられる時間短縮旅行であり、本来の旅の面白さは失われている。
 そしてそうした意味からの旅は、時間短縮旅行にすり替わり、既に非文明的なところへと押しやられているのである。旅は今では、とんと流行らないものになってしまった。

 現代人が住んでいる文明の基盤の上には、時間を短縮し、合理化を徹底して労力の無駄を省き、そうしたご都合主義に合わせて突き進んでいる文明社会を、豊かで便利で快適な、幸せな生活と思い込んでいるのである。
 だが、そこには落し穴がある。現代人には気付かない落し穴がある。
 何故なら、豊かで便利で快適という必要条件の中には、人間の心を益々貧弱にするという十分条件が付き纏いからである。何か身代わりを出さねばならぬからである。これがこの世の作用に対する反作用である。豊かで便利で快適という文明の利器と引き換えに、現代人は心を貧しくさせ、かつ鈍感にさせて行くことを差し出して、文明の奴隷に成り下がったのである。

 これこそ霊的世界から見れば精神の貧弱に反映され、魂と引き換えに物質界の豊かで便利で快適なる生活を手に入れたのである。この世には総て代価を支払うと言う反作用面が働いているからである。
 この反作用面に、代価を差し出しことを渋る人間に、見えないものが「憑衣」と言う形で取り憑くのである。
 現代人は何らかの形で、人身御供
(ひとみごくう)を差し出さねばならないのである。それが心身に取り憑き、魂までも悩ますのである。

 そして悪霊集団は騒音の烈しい現代社会、まず騒がしいところ喧
(やかま)しいところから悪さを始め、特に都会のネオンの下の酒保(しゅほ)に屯(たむろ)し、夜の巷の芸妓の嬌声があるところ……、車の騒音や電車の通過の際の車輛騒音で満たされているところ……、騒音にかき鳴らされるロックコンサートや花火大会など各種催し物の人の集中する会場や、その往来ヵ所、賽銭音(さいせんおん)と柏手で賑(にぎ)わう神社仏閣に詣でる現世御利益を企む祈願者から憑衣を始める。外邪(がいじゃ)が忍び込むのである。そしてそこから、魂の苦悩が始まるのである。

 例えば居酒屋やスナックなどの酒保での話。
 カウンターに両肘を着き、背中を丸めて、手酌
(てじゃく)でチビリチビリやっていると、外邪がいじゃ/多くは水死霊や横死霊でしかも生前に大酒呑みだった)が、この人の体内に潜り込もうとして、背中の真中寄りの「風門」ふうもん/東洋医術で言う足之太陽膀胱経の経絡線上にある経穴)よりスウーッと侵入する。潜り込むとまず、背中がゾクゾクとするような軽い悪寒が疾(はし)り、やがて唖門宮あもんきゅう/この宮は精気を呼び込む場所として行法者に知られ、閉じたり開いたりする)へと上昇をはじめる。

 唖門宮は東洋医術では「唖門」と言う名前で知られ、督脈
(とくみゃく)の経絡線上の経穴で、ここは後頭部の温中枢(おんちゅうすう)や冷中枢(れいちゅうすう)を司さどる処で、ここに邪気・外邪が侵入すると、体内の温度調節をするサーモスタットを破壊してしまう。この破壊されたときの感触が、ゾクゾクとする一瞬の寒気なのである。悪寒である。

 ここが破壊されると、まず反射的に毛穴の立毛筋
(りつもうきん)が収縮して、鳥肌が立つような状態が起こり、体内より気が逃げる阻止しする。
 命の門が「命門」
めいもん/《督脈》の経絡上にある経穴で、まさに命の門であり、腰冷え現象をを起こす。これはやがて頑固な腰痛となる。腰の悪い人は憑衣されていると観(み)て差し支えない)であり、外邪の風の門が「風門」であり、毛穴の門が「気門」きもん/毛穴を開いたり閉じたりする「門」で、自律神経系の支配下に入る)なのである。巧妙な仕掛けにより、破壊が始まる。

憑衣・憑霊が起こる「風門」と「唖門」の位置。また、《足之太陽膀胱経》と「命門」の位置する経穴と、《督脈》の経穴を指す。

 外邪が侵入すると、これらの三つの門の中枢機能が破壊されて、バランスを失う。初期の状態であれば自律神経失調症であるが、深刻な状態になると「鬱病(うつびょう)」となる。一種の霊障状態である。
 体内の温度調節をするサーモスタットを破壊されているから、体温がどんどん上昇したり、あるいはどんどん下がったりする。外邪はまず「風門」から侵入し、「気門」を閉じてしまって出られない状態を作り、次に頸椎
(けいつい)を昇り「唖門宮」に留まり、ここで体温調節機能を破壊するからだ。こうした状態を「憑衣」と言う。騒音や夜の巷の喧噪下では、憑衣され易い状況にある。

 車の騒音に満たされた場所、電車の金属的な音で掻き乱されている場所、夜の巷の飲屋街の芸妓の嬌声で溢れ返っている場所には、人の恨みつらみの念が一杯落ちている。更には神社仏閣などの願懸け場所である。今やこうしたところが、人の落とした念で一杯溢れ返っている。
 だが、人が死ぬときに落とす念はもっと大きい。
 もし死んで逝く者が、死にきれないほどの強い執着心を持ち、凄まじい執念があると、その刹那、「死後の法則」に従って、真っ直ぐに死後の世界に入って行けない。この世への強烈な執着と執念の思いは、克明な意識体を形成する。これが地縛霊である。
 普通、人が死ぬ刹那の意識は、この世に執着や執念の思いがあったとしてもその意識は、霊魂の「霊」たる顕在意識の中にあるから、霊魂の「魂」である潜在意識の方へ移行し、死後の法則に従い、その儘すんなり死後の世界に入って行く。

 ところが霊魂が霊と魂に分裂してしまっている場合は、幽体を引き摺ってこの世に残留する。霊と魂が分裂する現象下にある条件は、凄まじい執念と執着であり、こうした「念」が同波調の念と共振し、共鳴し、同化しようとする。つまり「憑く」わけである。
 死にきれない未練と執念と執着を引き摺った死者の意識は、その「死の刹那」に、まだ年齢的寿命は残っていて病気や大怪我で、いやいやながら肉体を脱ぐということが強いられるから、その場合の執念と執着は凄まじい。
 特に男の場合、若くして死んで行く悲運を辿るとき、恋人や妻子の居る場合は、後ろ髪を引かれるような感覚をもって、肉体を無理矢理脱がされるときに執着と執念を強烈に感じ、その霊と幽体は、この世に意識体として残る。

 恋人や妻子を、病気か大怪我でこの世を去らなければなったとき、その男の念は凄まじいだろう。若ければ若いほど、この念は老人以上である。特に男の念は、女体と女性器に限りない執着を示し、女の意識の一切までもがっちり食い込んで、一体化する執念を持っている。セックスを知った男ならば、女への一体化は凄まじいものがある。復讐に似た凄まじいものがある。

 では、誰が復讐されるのか。
 その後の、女に出来た別の男である。この男に、先ず猛烈な復讐が始まる。この場合の憑衣は並みではない。後に引っ付いた男もろとも、呑み込んで憑衣するのである。
 そもそも死後の意識体が、凄まじい執念と執着でこの世に居残り、憑衣霊の形をとって、他の人間に取り憑くという「憑くためのエネルギー」は、死後の法則にも死者の法則にも反しているのである。この法則に逆らって、わざわざこの世に居残るのだから、相当な思いからだろう。こういう女に、男は手を出すべきでない。手を出した者に復讐する凄まじさを抱いた意識体だからである。

 幽界の仁義としては、恋人と死に別れした女や、不倫して死んだ男の女や、亭主と死に別れした女房には安易に手を出すものでない。
 こうした女を“自分のもの”にしようとすれば、とんでもないしっぺ返しが待っている。一方、こういう女自身も男の犠牲者である。
 間抜けな男は、こうした女に見境も無く手を出すから、その後の運気には限界があり、四十歳、五十歳で、徐々に運勢的な「息切れ」が始まる。それに伴って、今までなかったような病気も霊障として浮上する。

 女には、死んだ男の執着と執念の「霊」が憑いているからである。憑衣の「霊」は執念深く、ストーカーのように聞き分けが無く、嫉妬する。心ら男の嫉妬は凄まじい。
 それは女が男に対して、生前どれほどの愛情を傾けていたか、そういうものは一切関係なしに、である。いつまでも女に寄り添っている。
 未成仏の場合、この期間が長い。女に成仏を訴えるからだ。
 だが、やがて「霊」は不成仏へと最悪のパターンに変化する。もう、未だに成仏がなされない未成仏ではない。悪化した不成仏である。魑魅魍魎と一体型した不成仏である。要するに、浮ばれず、そして幽界にも行けずに、この世に留まった「不浄の霊」である。以降、不浄の霊を「霊」と記す。

 一度寄り添った以上、男の意識体は憑いて離れないものになっている。言い寄るものを嫉妬で呪う。
 特に若くして死んだ場合は、女への執着心が強い。これに手を出すと、「霊」との「三角関係の構図」が出現する。他人
(ひと)の女は、生きている者から奪うよりも、死んだ者から奪う方が怕(こわ)いのである。生きている者は別の女を探すことが出来るが、死んだ者はその女しか居ないからである。
 少なくとも「霊」が未成仏である場合は、仁義として、死者が愛溺した女には手を出さないのが生きている人間の礼儀である。
 これを無視すると、その後、不幸は二重、三重の輪を掛けて追い掛けてくる。未成仏の「霊」を引き摺っている女には手を出すべきでない。君子が危うきに近寄らず、である。
 身を慎み守ってこそ、禍
(わざわい)は回避される。

 複雑多岐を極める現代、天地の大異変とともに幽界や霊界の「死後の世界」は、霊的に見えない大変化を起こしつつある。その大変化が、今いろいろな形で、この世の物質界にも「大異変」という形で影響を与え始めたのである。
 大異変の霊的波動は、益々高まって行くことであろう。その高まりは邪
(じゃ)なる低次元なものを引き摺って、あたかも津波のように押し寄せ、呑み込み、念として残った地上の憑衣霊は、これまでの執着や執念の形と本質を変えて、現世に生きている人間に冥(くら)い陰を投げ掛けるであろう。

 その冥い陰に悩まされないためにも、心ある武人は、武人として修行し、鍛錬する必要があるのである。鍛錬の目的は、勿論肉体強化もあるが、それ自体に留まらず、自己の魂の向上である。幽体強化である。
 鍛錬をするのは肉体だけでなく、幽体までも堅固に鍛え上げなければならない。
 かつて、江戸中期の儒学者・室鳩巣
(むろ‐きゅうそう)は、講義に集まった若侍を前に「諸君は、日頃から武術の稽古に専念している。実の結構なことだ。しかし、武術が優れているからと言って、武運が拙(つたな)くては何もならぬ。そこでだ。諸君は武運の稽古はしておられるか」と訊いたのである。
 参集した一堂は唖然とした。鳩巣先生が「武運」ときたからである。

 武運とは、武士としての運命であり、また戦いにおいての勝敗の運である。その武運をいい、武運が拙くては敗れると言ったのである。
 これは寔
(まこと)に儒学者らしかった。
 鳩巣先生は「武運」を人間の『徳の現れ』と検
(み)たのである。
 更に鳩巣先生はいう。
 「武運を養う稽古が、ここで聖人の書を講ずる所以である。武運は徳の現れである。聖人の書は徳を積む修養なのである」と。
 まことに筋が通っていた。

 これからも分かるように、武術家が修行するのは肉体の鍛錬のみでないことが分かる。肉体のみならず、肉体に重なる幽体までもを強化し、鍛錬しなければならないのである。
 武運の「運」は運のことである。盛運にさせる必要がある。幸運ではない。盛運である。旺盛な運である。そう言う運に仕立てねばならない。
 では何をか?……。
 此処に関わる運の所在は「幽体」である。幽体強化にある。

 では幽体を強化・強靭するとどうなるのか。
 憑衣されない幽体細胞を作ることが出来る。憑衣霊から憑衣されない高次元の幽体に鍛錬してその細胞を得るのである。
 幾ら強靭な肉体を有していても、幽体が貧弱では直ぐに憑衣されてしまう。「霊」は肉体では立ち向かえない。強靭な幽体が必要である。
 肉体美を誇る筋肉隆々の御仁
(ごじん)でも、筋トレばかりして、肝心な幽体の修行を疎(おろそ)かにしていては、肉体が素晴らしいだけに入り込み易い条件下にあり、狙われた肉体美は、まず背中から多い被さるようにして取り憑かれる。その侵入箇所は既に述べた。
 被さるようにして取り憑くのが、憑衣霊の霊的手順である。

 憑く媒体は惚れ惚れするような肉体美。あるいは頸から下が、やたら健康と言う……、その手の類。
 被さるように憑衣霊の幽体細胞と、取り憑かれた方の幽体細胞が、互いに1ミリの隙間もなく噛み合うように、食い込むようにガッチリと被さるのである。そうなると離れ難くなる。まさに瞬間接着剤並みにピッタリと貼り付く。完全一体型となる。
 普通肉体と言うのは、その直ぐ下に幽体があり、憑衣霊の幽体は取り憑いた方の幽体に被さり、こうした「被さるメカニズム」をもって、双方がガッチリと食い込んで重なってしまうのである。

 こうなると憑衣を解除する方法は皆無となり、そこから徐々に蝕まれ、憑衣霊の恨みへの復讐が始まるのである。
 この合体構造を見ると、しっかりとダブり、混合し、一体化して、離れない状態になって憑衣霊の幽体細胞は、憑かれた方の肉体細胞にも幽体細胞にも、その両方に影響を与え始める。その憑衣の威力は凄まじく、徐々に蝕み復讐がなされて行く。その復讐下においては、憑かれた方は、肉体にも幽体にも強い悪影響を及ぼして行く。
 悪影響を及ぼされる取り憑かれた方は、まず肉体的影響として、臓器の筋肉や血液など、また肉体の総ての器官や機能に、憑衣霊の意識は支配的な作用を及ぼして、霊的に強いパワーを送り込んで来る。まず肉体細胞に深く浸透し、種々の霊障を起こし始める。

 また取り憑かれた方の幽体から発する霊的波調や、幽体に流れる「霊流」などにも、強い制御のもとに思うままにコントロールし始める。霊流とは、東洋医学で云う、経穴から経穴の経絡を流れる霊的な作用を及ぼす生物電流のことである。
 憑衣霊が取り憑いた方を制御する場合、取り憑かれた方は、体重は変わらないのに「肉体が重く感じる」のである。そして鈍重すら感じるのである。これは憑衣霊の最も理想的は取り憑き方であり、取り憑きの成功例である。憑衣霊自体、最もよい形と言える。

 こうした憑衣霊から憑衣された者を「憑霊者」と言う。憑霊者は憑衣霊の意識の儘に動かされる。その場合、行為する直接の部位である手や腕、足や生殖器などに、より比重を懸けて揺さぶりに懸かる。特に生殖器は性腺異常を起こすために、一年中、動物が発情したような状態となる。性腺異常の排泄障害である。そして憑霊者は自らの肉体も幽体も、憑衣霊の意のままに制御される。

 この制御下にあって、憑霊者は憑衣霊の幽体が万全な形でカッチリと羽交い締めをしたような形で乗ると、いよいよ憑衣霊自身が抱いた強烈な執念、強烈な執着によって、その意識を内蔵した「霊」の登場となる。つまりこの「霊」は復讐を企てる霊である。怨念化した霊である。
 普通、憑衣霊は単体ではない。未練を抱いた者の意識を、憑衣霊は合体して双方で共同戦線を結んでいるから、羽交い締めして動けなくなるような状態にしておいてカッチリ合体が完了すれば、そこから復讐劇の行動開始となる。

 まず、取り憑いた当初は、「霊」は一緒に来た幽体の内部にあって、取り憑いた方の肉体的かつ霊的な様子を探る。その者の霊的修行具合である。このとき、取り憑いた「霊」の霊意識が、先ず一番最初に注目するのは、憑霊者の腹部にある「副霊」である。副霊は、また「腹霊」である。腹から強力な波動を発する霊である。
 腹霊は「丹田」を支配し、統率し、人間が躰の中で最も強い霊的パワーを出すところである。力の源である。憑衣霊と一緒に侵入した「霊」は、まず腹霊の強弱度を調べようとするのである。取り憑いた「霊」は腹霊状態を検
(み)るのである。

人間の本体を司る神体域の構造。幽体は腹霊の霊的波動に大きく関わっている。人間の肉体の直ぐ下には重なり合うようにして幽体が存在する。幽体は肉体の非常によく似ているが、これは半物質と言う物質からなり、肉体とダブっているのである。そして神霊体と神体は人間の総ての感情の基を司る。

 取り憑かれた方の腹霊状態が良好で強ければ、「霊」にとってその制御は些(いささ)か困難となり、弱ければそれは非常にコントロールがし易くなるのである。「霊」にとって、これほどラッキーなことは無い。
 したがって、憑衣されても、憑衣された方は何らかの修行をして腹霊を強化している場合、そのコントロールは容易でなく、弱点が見つからなければ、「霊」の以降の作業が困難となる。困難となるばかりでなく、居辛くなるのである。やがて退去を考えるようになる。取り憑かれても、腹霊状態が良好で強い場合、取り憑いた「霊」はやがて退散する。だから昔の武芸者は「腹」を呼吸法で鍛えた。丹田を鍛えた。鍛えることによって肚
(はら)を据えた。こういう据わった肚を「不動心」と言う。悪霊如きに動じない心であり、闇を見通す視覚である。
 しかし現代人に闇を見る視覚は無い。暗過ぎて現代人には闇を見る視力が無いのである。したがって悪意をもって忍び寄る悪霊すら見えないのである。だから取り憑かれる。

 取り憑いた「霊」の執念や執着の持つ意識のパワーと、取り憑かれた方の腹霊から出される霊的パワーは本来条件も性格も違い、「霊」は取り憑いた側の腹霊の霊的な弱点を見極め、そこを狙うのである。
 こう考えると、現代人の肉体ならびに幽体は、「霊」から検て非常に棲
(す)み易くなっている。

 ところが、腹霊を強化したような現代人は殆ど居ない。呼吸法などで腹霊を強化し、本当の武術鍛錬と霊的鍛錬をした現代人など、今日では殆ど居ない状態である。この状態こそ、憑衣霊と「霊」にとって好ましい事は無い。弱点を突いて腹霊に入り込めば、「霊」としては占めたものである。
 人間の霊的ラインは、腹霊こそ重要な霊的ラインなのである。そして腹霊と眉間を上下に貫いている渦巻き状の経路を、下から上への昇って行き、眉間に宿っているその人の霊魂を司る本霊に向かって上昇し、遂に眉間まで上り詰め、「霊」は本霊と入れ替わるのである。入れ替わった後、そこに居座って総てを支配し、コントロールするのである。このように「霊」が昇ることを“浮霊”という。
 “浮霊”で「霊」が脊柱を上昇するとき、それは凄まじいもので、背骨の根刮ぎ蝕んで行く。

 下から5個の仙椎、5個の腰椎、12個の胸椎、7個の頸椎の悉
(ことごと)くを踏み荒らしダメージを与えて行く。その最初の状態の、腰椎と仙椎および3から5個の尾椎はそれぞれ癒合して仙骨ならびに尾骨をつくっているが、まず此処がやられる。此処が荒らされると、椎間板ヘルニアやそれに付随する慢性的腰痛となる。腰痛は痔疾とセットになっているので、肛門などの負担が掛り、極度な排泄障害を起こす場合が多い。
 “浮霊”として「霊」が上昇するとき、脊柱と椎間板も蝕むので背骨自体に畸形が顕われる。また霊的中枢である甲状腺もやられる。ここがやられると、身体の発育および新陳代謝に関係あるホルモン
(チロキシン)およびカルシウム代謝を調節するホルモン(カルシトニン)の分泌が欠乏する。そのために発育障害(クレチン病)や粘液水腫を起こし、過剰になるとバセドー病を起こす。このように踏み荒らされ、蝕まれて、無慙(むざん)に乗っ取られるのである。

 そしてこうした状態になると、本霊は一時的に眠らされ、もとの肉体は次第に脆弱となって行く。病気がちとなる。それが顕著に顕われ始める。また、入れ替わった特徴として、“浮霊”のとき、瞼をパチパチさせたり、瞬きが多くなる。乗っ取り成功の証である。
 しかし、乗っ取られた方は復讐において苦しむのであるから、当然肉体的変化が顕著となる。その変化においては乗っ取った方も、乗っ取られた方の双方も苦しむ。こう言うところにも作用と反作用が働いている。
 人間の口である「入口」と、排泄の「出口」の障害は既に、述べた通りである。上下の両者は不浄箇所でもあるので、最も肉体的に霊障が取り憑く場所であり、霊臭を発するので匂いのきついところである。そしてそれは、体臭と霊臭が同化して同じ臭いを出す。霊臭の匂う所以である。
 口の中の口臭が肛門出口付近と同じ、ウンコ臭いを発する者は、既に憑衣され、「霊」に乗っ取られているためである。



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