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個人教伝指導日誌 4

世の中には時として不安を暗示させる、おどろおどろしい風景を垣間みることがある。その風景には不安が、目の広角一杯に迫って来る。時として自然はそういう悪しき予兆を人間に垣間見せるのである。
 自然が人間に知らせる、今から先の予兆……。また人間側が感知する第六感的な未来予知……。

 兵法家なら、武芸者なら、不幸現象が何処から襲いかかるか、それを予知する能力が無ければなるまい。その意味においては、一般人の何倍も何十倍もそうした能力に優れていなければならない。

 安易に敵は襲って来ないだろう……という希望的観測に縋
(すが)っていては身を亡ぼし、家を没落させるだけである。
 智将はそのためにも、自らを研鑽する必要がある。
 そうした能力を研ぎ澄ますためには、先ずはその方法を、その道の熟者に学ばねばならないが、自身の才能や素質が風化しないようにいつでも静寂の中に身を置いて、密なる高級霊と正流の中で交信し、修行の度合いを高めておかねばならないだろう。

 危険から身を護るとは、目先の暴力と闘うだけでなく、未来予知の護身能力まで高めておかねばならないのである。



●我慢力、忍耐力

 自由も平等も、自ずから行うことである。それは己(おの)が行為の中にある。与えられるものでない。また強制されるものでない。更に押し付けられるものでもない。
 自らが自立した結果、自由もあり平等もあるのである。これを一方的に押し付けられ、「こうだ」「ああだ」と指示されるものではない。総ては自身の行動律に懸かる。徳を積むのも自分自身だが、不善を行うのも自分自身である。行動の自由は此処にある。
 陰で徳を積むことを「陰徳」という。
 人知れず、自分の意志で目立たぬように陰で徳を積む。それは誰から強制されることも無い。自らの行動で、密かに積み上げて行く徳である。善行の中で、これ以上尊いものは無いとされている。

 この徳を如何にして積んで行くかが人生の側面には横たわっている。課題といってもいいだろう。
 強制されることの無い自由と平等。自身で決定する自由と平等。
 そして自身が自由であると言う自覚とともに、人は生命において平等だと感得する知覚。それも自身の感得に懸かる。主観に懸かる。
 この、人知れず確立した自意識こそ、天は見ているのではないかと思うのである。そこを検
(み)ているのではないかと思う。
 人の行動と行為は、それ自体に「生」を包含している。「生」の実体はそこにある。また「生」の実体があればこそ、そこで天より篩
(ふるい)に掛けられる。例えば、救われる人と、そうでない人というような……。

 そうした中に人間社会には貧富があり貴賤があり、上下の差別があり、健康な人が居
(お)り病弱な人が居る。賢愚もあり、更には国の興亡があり、文化文明の隆替(りゅうたい)がある。
 よく考えてみれば「これは一体どうしたことだろう?」と思わずにはいられない。何故だろうと思うのである。
 それは人間に限って、人間のみに現象として起こっているからである。一切は人による。善し悪しも自由意志に任されている。あるいは勝手気ままという事から起こっている。怠けることも出来、励むことも出来る。そして喜怒哀楽もあり、運命的には一喜一憂の泣き笑いもある。その結果浮沈を繰り返す。栄枯盛衰はそこにある。

 換言すれば、勝手気ままや我が儘
(まま)を取り去れば、人生の苦難から生じる病気は激減するかも知れない。特にストレス病は、である。
 ある意味で自由意志に任されているから、自由奔放さえ慎めば、総てのものは治癒に向かうかも知れない。好き放題を繰り返していては健康を損なおう。また持病も悪化させよう。そこには自分を制御する慎みが居る。慎みが失われば、人間は自由奔放に狂喜して、幼児化へと進む以外無いだろう。遂に軌道を外し、好き勝手をやらかしてしまうのである。
 そして、今の時代は何でも有り、何でも来い、である。卑劣な手を使っても許される時代である。誹謗中傷はその最たるものであろう。

 誰もが言いたいことを言い、したいことをしている。これこそ自由奔放の最たるもの。
 まるで市場経済の上で、荒れ狂う競争原理を彷彿とさせる。近未来に得体の知れない狂乱が待ち受けているかも知れない。そのように市場経済は荒れ狂うかも知れない。これが資本主義市場経済の宿命であろう。この経済は永遠でない。やがて終焉
(しゅうえん)を迎える。民主主義然り。

 今では個性の尊重、自主性、主体性などと云う言葉を誰もが使い、したいことをしている。言いたいことを言っている。これらは実に奔放である。したい放題という気がする。
 その一方で「我慢」とか「忍耐」という言葉が失われた。こうした言葉は前時代的な、カビの生えたもののように考えられている。今日の日本人に耐え忍ぶと言う意識は無い。また我慢して自分を控えめにする気持ちも無い。言いたいことを言う。言いたい放題だ。言われたら遣り返す。ネット時代はネット雀の「言い儲け」という得意識があるからである。そしてネット雀どもは、妙にリアルで、見て来たようなことを云い、敵対相手を刺し貫く悪意が「言い儲け」の中に込められている。
 要求し、文句を言えば済む世の中になってしまったものである。日本人の幼児化は、此処に巣食っている。

 日本は終戦のあの日から数えて、今年で68年を迎えた。おおかた70年である。この約70年懸けて、日本人が手に入れたものは、「こう言う形の幸せ」だったのだろうか。
 そして「我慢」や「忍耐」は、果たして悪徳だったのだろうか。

 豊かで自由、そして誰もが持っている平等意識。現代人に限っては、平等意識だけは傲慢
(ごうまん)過ぎるほど抱いている。
 快楽を得るのが人生の課題と考えている現代日本人の人生観は、それが幸福と感得する感性であれば、耐え忍ぶことさえ知らない日本人の生活は、それが恵まれた生き方と言い切れるのだろうか。

 更に現代では、忍耐は美徳などとも考えはしない。
 その結果、我慢することが厭
(いや)になった日本人が急増している。我慢が出来ないから、イライラが出てきて直ぐにキレる。昨今の理由無き殺人が、それを雄弁に物語っている。
 昔は殺人にしてもそれなりに理由があった。
 ところが、今は人が納得出来るような殺人は殆どない。かつては“盗人にも三分の理”があったが、今は理屈付けするようなものがない。突発的である。多くは幼児的な理由から起こっているものが殆どである。あるいは理由など最初からないような無差別殺人が起こっている。

 「人間の命は地球よりも重い」とか「人間の命と大切さを教えよう」などと、暢気
(のんき)なことを言っているが、「人命の尊重」などを教育テーマとして教えようものなら、こうした難しい説教調の講釈を長々と聴かされた日には、またそれだけでキレると言う若者が出て来るだろう。現代日本人は堪(こら)え性が無いのである。
 物が溢れ、豊かさと便利さと快適さが享受される現代社会においては、「我慢力」など養成されないのは当然である。

 昨今の日本人の幼児化は、戦後民主主義の中で起こった。
 戦前・戦中の日本人には「幼児化」という言葉がなかった。戦後の日本人に限り、「幼児化」という言葉が浮上した。つまり、戦後の日本人は、大人になり切れない幼児で溢れたと言うことである。総てが幼児化され軽薄になった。
 昨今の技術革新は物質時代に相応しく優れた物を立案し、優れた物を作り出す。その物造りに多くの日本人が関わって産業を興した。この結集をもって、日本は経済大国への道を歩んだ。

 だがその側面には、日本人の知識と知性は分裂してしまったのではないか。
 戦前・戦中の日本人の意識は、知識と知性は同じものだった。同一に考え、知においては崇高
(すうこう)なものと考えられていた。しかし戦後に至っては、知識と知性は分離され、分裂した。もはや知識と知性は同一のものでない。此処まで変わってしまったのである。
 更には、日本人の変わりようは価値観だけに留まらない。それは感性にまで及んでいる。外界の刺激に応じて感覚・知覚を生ずる感覚器官の感受性が、どこか今と昔は違うように思う。
 また、感覚によって呼び起こされる支配内容も、昔とは随分と異なっている。感覚に伴う感情から起こる衝動や欲望も、昔とは違う。同じ日本人でありながら、過去と現在はこのようにも違っているのである。思惟になるべき素材も、昔と今とは随分違う。



●サムライの崩潰、勇者の崩潰

 かつて「明治は遠くなりにけり」という言葉があった。
 中村草田男の俳句から引用した言葉で、「降る雪や明治は遠くなりにけり」から採ったものである。明治をよき時代として懐かしむ言葉だった。
 では、なぜ懐かしまれたか。
 その裏には、サムライの減少が上げられるだろう。明治期にはサムライの気風が残っていたからである。

 明治期までは、サムライと言う階層が生き残っていて慈善を示し、奉仕の心を持っていた。官僚でも、自分に課せられた責任は果たす者が多かった。腹を切るような覚悟で仕事をしていた。
 ところが時代が下がるに従い、そういうサムライは激減し、戦後においてはサムライなど殆ど見なくなってしまった。責任など、誰一人取る者は居なくなった。
 官僚は国民の上に権力として君臨し、国民をあたかも顕微鏡下で覗く微生物として見下しているだけである。そして昨今は、口だけは勇ましい輩
(やから)はいるが、その実、わが身一身を投げ出して奉仕する人間など、とんと見なくなった。特に政治家においては、とんと見ない。
 日本で、とんと義人を見なくなった。奉仕者すら見なくなったのである。

 更に、昨今流行のボランティアは義人でもなく奉仕者でもない。日本ではそれが顕著である。大半は定職がないフリーターで占められているからであるからだ。彼等は職はないが時間だけは充分にある。
 被災地などでは、ボランティアと称してレイプなどの性犯罪を働く“自称ボランティア”は見るが、本当の意味での奉仕者は殆ど見なくなった。行きがけの駄賃に、レイプでも働くのだろう。
 私もこの目で“自称ボランティア”という種属を半身淡路大震災のときに、この眼で確
(し)かと見たのである。そのとき見た、官憲に逮捕されて引き立てられる“自称ボランティア”は、義人でもなく奉仕者でもなかった。単なる被災地でボランティアのポーズをしながら物色をするレイプマンだった。全部が全部、偽善者とは言わないが、こういうクズがある一定の割合に紛れて、本来のボランティアならぬ悪事を働いていたのである。
 “自称ボランティア”どもの「行きがけの駄賃」という発想が恐ろしい。

 また慈善家も、日本には少ない。居たとしても、施す額が外国の慈善家には遠く及ばない。それだけ日本人は、慈善と云う言葉から起こる、本当の愛が分からないのだろう。ものの哀れの感性が壊れてしまったのだろう。そのために本物と言われる、慈善家が殆ど方からである。それを出しても自分の生活に困らないという条件下で、慈善行為として金銭を捻出する。しかし、これに、全財産を投入するなどは、もう慈善の範疇
(はんちゅう)を逸脱している。異常という他ない。過度の慈善を施すのは誤りなのである。

 だが、“自称ボランティア”の中には、ボランティアする事自体を自分の職業のようにしていて、正職に就かず、一年中ボランティアに明け暮れて普段はフリーターのような生活をしている者が居る。これなども異常という以外ない。
 ボランティアをするのだから、その背後には慈善行為と言う支柱がある筈である。これを了承して行い、その覚悟はあっても、年から年中ボランティアを職業化して被災地を放浪しつつ、自分の持っている力を全部慈善に廻して乞食のような生活をしているのは誤りと言える。既に社会人として、自立する、自活するという側面が欠落しているからである。
 本当のボランティアというのは、自分では正規の職業を持っていて、休暇や余暇を利用してその慈善活動に奉仕するのが正常であって、これ自体を職業化してしまうのは異常と言う他ない。
 私の知っている人間で、「行きがけの駄賃」で何かを働くほどワルではないが、ボランティアを職業化した男を知っている。そして自分の貧しさを顧みない社会不適合である。眼を醒ましてもらいたいと思うが、未だに曇らされたまま、50歳近くになっても独り身を通している。愚行という以外ない。

 また、私の知っているNPO団体があるが、そもそもこの団体は非営利の民間組織であり、それを看板に、特定非営利活動促進法に従い法人格の付与を受けている。
 ところがである。
 自ら寄付金や物資などを集めて、世界各地の弱者に無償で金銭や物資を提供したりして社会活動を展開するのであるが、集まった金銭の殆どは弱者に届かず、自分らの主宰する団体の職員の経費で分配してしまう。物資は下請けの古物商に流れる。此処で売り捌かれ、現金化される。これで慈善活動とはとても言い難く、NPOをメシの種にしている観すらある。慈善行為や奉仕行為が職業化してしまっているのである。
 共同募金運動も、大半はこのカラクリによって運営されている。全部が全部とは言わないが、募金箱の中身はそっくり救済者に行くのでなく、主宰者から勝手に開けられ、日当や経費が分配され、その残り分が救済者に届くという形になっているようだ。
 ところが、最後まで募金によって集められた金銭は大半がメシの種で終わり、そっくりそのまま全額が届かないようになっている。

 私は小学校5年生から高校卒業まで、ボーイスカウトのある団に入団していたが、スカウトの奉仕活動の一環として「あるみの箱」など
(他の募金箱も持たされたことがある)を持たされて街頭に立たされ、朝から晩まで大声で募金を募ったことがあった。そして集めた募金は、そっくりそのまま救済者には届かないことを知った。奉仕とは名ばかりであった。

 また、イエズス会をはじめとするカトリック教会では、教団に入団する場合、「貧者の誓い」というのを立てさせられるが、これも清貧は美徳であるという思考から発したものであろう。そして奉仕活動を強要されるから、自分が貧しくなるまで慈善行為に精を出し、施しをすることを名誉と錯覚させられることがある。一時期、配偶者がカトリックだったので、そういう活動に付き合わされたことがあった。
 昨今は何が慈善で、何が施しか、それが何処から何処までかが釈然としない。
 尺然としない分だけ、知恵のある日本人が仕出かす、一般には知られない巧妙なカラクリが裏側にあるのである。そして行為の中に、愛などは何処にも感じられないのである。

 その一方で、愛の意味を理解しない幼児大人たちは、挙
(こぞ)って合理的であることを推進して来た。
 つまり現代日本人は、知識はあるが知性がないのである。
 ここで言う知識は、譬
(たと)えば教科書に何ページに何が書かれているかという暗記力を顕す知識で、これはある事項について詳細に知っているだけであり、それが応用出来て智慧とはなり切っていない。
 一方、知性は知的な働きを指す言葉であるが、これまでの経験や体験によって得られた感覚を素材別に整理し、かつ統一してそれを認識し、いつでも応用出来るように心的機能へと置き換えたもので、智慧の領域までもを司るものである。物事の理
(ことわり)を悟り、適切に処理する能力が智慧なのである。

 幼児大人たちが論拠に上げる合理的とか合理化と云う言葉は、「無駄を省き、目的達成のために好都合な体制に改善する」ことを目指して来たのである。一種のご都合主義にとれなくもない。そこには智慧の欠片
(かけら)すらない。ご都合第一である。
 庶民生活の中にはこうした合理化の形跡が多く見られる。
 例えば銀行の預貯金の出し入れ、乗車券や乗車時のキップの改札、物品購入の際に現金同様に扱われる各種クレジットカードなど、至る所に合理化の跡があり、ついには人の感情の合理化まで及んだ。感情の切り捨てご免の時代に至ったのである。
 厄介な感情に苦悩する……、沈黙の意味を推し量る……、気の弱りや相手の気持ちを思い遣る親切心などは総て切り捨てご免となったのである。

 心理学的見地から考えれば、例えば「沈黙」という態度の中には、その背景に沈黙をした人間の矛盾が渦巻いているからである。矛盾があり心が揺れ動く時は、人は沈黙する。
 人間は矛盾により、二進
(にっち)も三進(さっち)もいかなくなったとき必ず沈黙する。沈黙は決して金ではないのである。
 損得勘定が働いているから、人は都合の悪いことに対して沈黙するのである。損をしないように沈黙するのである。下手に口出しては、損をするのではないかと警戒して、それで沈黙と言う態度をとるのである。この態度がサムライや義人のものでないことは明らかである。

 私はこの「沈黙」をこれまで厭と言うほど見せ付けられてきた。
 そこで沈黙した相手の気持ちを推し量る。相手の心中を忖度
(そんたく)する。だが忖度の中に感情の情が絡んでいる。また情は損得勘定に絡んでいる。絡んでいるだけに何らかの葛藤が起こっている。その葛藤に心を揺らし、その態度は沈黙となる。果たしてこの態度が金だろうか。

 西洋流の諺では、「沈黙は金、雄弁は銀」というが、果たしてそうだろうか。
 沈黙の方が雄弁よりも価値があるというのであるが、果たしてそうだろうか。
 発言するべきときに発言を躊躇
(ためら)うのは決して最上のことではない。だから沈黙した者ほど、普段は消極的な中に臆病な論理を述べるが、なんとも説得力ない。余計なことを言うが、肝心なことは言わない。本心は証(あか)さない。証せば臆病がバレるからだ。決まって時期尚早などと抜かす。時期尚早は臆病者にとっては最も都合のいい言葉であるからだ。

 そして臆病者が珍しく何かを発言する時は、結論までに屁理屈をこね、再び最初に一巡して、時期尚早などと抜かしたうえで、必ず「止めておこう」となる。こうして臆病な一直線に、無為が繋がっている。そのくせ余計なことは言うが、肝心なことへの発言はしない。これはビジョンが無いからである。
 そう。
 臆病者には元々ビジョンが無いのである。

 一方で、現代は合理化一辺倒。
 合理化とか、科学的と言う語は、臆病者の好きな言葉である。
 合理化によれば、余計な感情などさっぱりと切り捨てて、スッキリさせるなどを目論むようだが、これでは人間性が痩せてしまうのではないか。
 あるいは思い遣りが欠如してしまうのではないか。限りなく機械に近付いているのではないか。果たして人間は合理化と言う名目から、感情の伴わない機械に成り下がるつもりだろうか。

 このような心理の裏には、戦後の日本人が未だに「戦勝恐怖症」から立ち直れず、未だに“乳首型おシャブリ”を加えたまま、母性を克服してないのではないかと思うのである。そのために戦後日本人の「幼児っぶり」が、近年史の中に見えて来ないだろうか。
 自立してない、母親に抱かれたままの日本人の姿が、大人の中に見えて来ないだろうか。
 大人幼児であり、大人子供である。成長していない。成長したのは肉体と、肉体に附属する性器だけである。この部分だけが異常発達している。あたかも、生殖器の性腺を異常に刺戟されたように……。
 現代人は風俗を求めて、一年中発情しているのはこうした性腺異常と、それに反比例する幼児性だろう。

 そして人情も度が過ぎれば、「幼児帰り」をする危険を孕
(はら)む。更に人情は度が過ぎれば、自らの繕(つくろ)いとして外に向けては八方美人的な振る舞いに疾しり易くなる。エエカッコシーである。
 エエカッコシーも、義理人情の度が過ぎた結果から起こったポーズと言えよう。
 そしてこれらは度が過ぎると、白黒がはっきりしなくなる。グレーゾンに隠れる。グレー域に入って、どっちつかずになる。相手に嫌われることを恐れるからだ。
 どちらに向いてもエエカッコシーで、目立ちたがり屋でありたいからだ。注目を浴びていたいからだ。自分が人の中で目立っていることに満足感を覚えるのである。幼児が人中で、突飛なことをして注目を引きたいのと同じ精神構造である。

 こうした心理は、一方欧米には無いようだ。あっても少ないようである。また日本人ほど精神構造もヤワでないようだ。
 欧米思考では感情の中に迷う、グレー域と言うのが殆ど存在しない。何方
(どっち)付かずがない。白黒がはっきりしている。
 欧米人は、生まれながらにあまり混迷しないように人種が出来上がっている。そういう精神構造がある。だからこそ、牛でも豚でも、それを食べたいと思ったら、いつでも躊躇せずバッサリと屠殺することが出来る。これは日本の畜産業者と大違いである。彼
(か)の国では、生産者と屠殺業者が分業化していない。生産者がまた屠殺者である。食肉文化のある欧米では、一人で二役こなすのである。

 ところが日本人の肉食文化は主に明治以降で、まだ二百年も経っていない。この文化は日本人には浅い。
 そうした日本人が肉食をする場合、自分一人で生産から屠殺、そして解体など到底出来るものでない。日本人に動物を育てて可愛がり、それを殺すと言うことは出来ないのである。それだけ食肉文化の程度が薄い。
 日本人の食肉に対する意識は、スーパーやデパ地下で、薄くスライスされてパック詰めになった食肉を牛だとか豚だとかと思っているようだが、本来の動物を食べると言うことは、そんなに生易しいことではない。そこには畏
(おそ)れが無いと出来ることではない。生命への畏敬の念が無いと出来ない。

 だから欧米人は動物の命を手に懸け、自らの姓名を生かしてくれた動物たちに憐れみと愛の気持ちを込めて、食事の前に必ず手を組んで合掌し、「今日一日の命」を与えてくれたことに祈りを捧げ、感謝して慎ましく食事を頂くのである。それが命を頂く行為だった。だから彼等は、必ず宗教を持っているのである。
 何故日本人に宗教が無くて、欧米人に宗教があるのか。
 それは「生きる」と言うことが、そんなに生易しくないことを彼等は知っているからである。それはまた他方で、残酷さの中に生きなければならないことを知っているからである。
 まず、パウロの言葉を思い出してもらいたい。

 人間は残酷な生き物であるからだ。宗教を持つ欧米人は、それを肌で感じているからである。だから牛や豚を解体するとき、黙って残酷なことを行うことが出来る。動物の鮮血を見ても騒ぎはしない。冷ややかである。
 屠殺する行為に迷いは無かった。迷えば矛盾が一層克明になるからだ。
 世の中には筋を通したくても通されない矛盾が存在する。それは一つや二つではないだろう。多々あり、広域に及ぶ。人間には矛盾に満ちた残酷な現実を生きなければならない宿命がある。そのために欧米ではキリスト教が、国教的な役割を果たしたのである。国を挙げて宗教を信仰したのである。これはイスラム圏然りである。また儒教の国・中国や、その近隣諸国も然りである。

 だが日本人には宗教が無い。この民族は大半が宗教を持たない。信仰を持たない。
 日本各地に神社仏閣は多々あるが、それは日本人が神道家か仏教徒とかの何れに属しているからではない。単に観光のために建立された建造物で、信仰のためのもではない。

 日本には宗教も無く、日本人には信仰も無い。大半はそうした日本人で溢れている。また、こうした日本人が新興宗教に関わっているのは、信仰のためでなく現世御利益のためである。巨大な宗教施設に詣でるのも、金持ちになりたいとか、病気を治して欲しいとか、恋愛成就だったり、就職成就だったり、入学成就だったりして、御利益を宛にして新興宗教に入信しているだけである。それ以外に目的は無い。
 だから、日本人が欧米人のように祈りを捧げず、平気で牛や豚の肉を食べられるのは、それらの肉が既に屠殺され解体され、薄くスライスされているからである。
 今では新興宗教に限らず、神社仏閣でも食肉を奨励しているところは多い。口では精進だと嘯
(うそぶ)くが、精進などとは程遠く、精進料理を模した食肉料理の和食である。和食を精進などと称している。

 食卓に並んだ食品の数々で、例えば牛肉の場合、かつて生産者の牛舎で、暢気にモーオっと啼いていた牛とは別物と思い込んでいるからである。これが繋がっているとは夢にも思っていないからである。だから食べられる。殺生の片棒を担いでいるとは思ってもいない。
 だから屠殺の実際を殆ど知らない日本人は、牛肉でも豚肉でも「美味」などと抜かして平気で食べられるのである。そしてこうしたことに矛盾も感じず、生きることが残酷であることすら知らないのである。
 だから、昔とは違って食事情のよくなった現状に、ただ胡座
(あぐら)をかきグルメを気取る戦後の日本人は、いつまで経っても生きることの残酷さを知らず、これがまた大人の幼児化を作り出しているのである。

 一方日本人には、特に現代日本人には宗教が無いから、畏れも無く、一頃に比べれば天地大自然に対して畏敬の念も薄らいでいる。そうしたものに頭を垂れる姿さえ見なくなった。
 食肉一つ頂くにも、神仏に感謝すること無く、目の前に出された食事に無関心にぱくつくだけなのである。
 この中途半端な無神論者意識が、また中途半端な曖昧な返答を作り出したのである。現代日本人の中途半端意識は此処まで畸形化されてしまったのである。

 それは発言において見ることが出来る。
 欧米人は日本人に比較すると「イエス・ノー」が明確であり、この言葉の中に中間域を顕すグレーゾーンは無い。曖昧さが無い。自意識が明確なのである。残酷さの中に生きるには、「契約」が必要であり、それを明確にする必要があったからである。
 善きにつけ悪しきにつけ、明確なのである。

 したがって欧米では、ドイツの社会学者のウェーバー
(Max Weber)が唱えた『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』から「契約」という理念型論が生まれた。そして「契約」によって、宗教現象からマルチン・ルター(Martin Luther)の合理主義的宗教観が資本主義を発展させた。
 この「契約」は、神との契約を同義である。
 したがって結婚すら、神との契約を媒介して行われる。勝手に男女が、自分たち同士で番
(つが)いになる出ではなく、必ず神を介するのである。そして「契約」は、近代資本主義の成立とプロテスタンティズムの関係が大なのである。資本主義は契約により、ブルジョア革命を成し遂げた。

 封建的諸関係を打破して、資本主義的諸関係を確立した革命である。
 アメリカ独立戦争の中にも、フランス革命の中にも、契約の行動律が貫かれていた。何故ならブルジョア革命は、一方でフリーメーソン革命であったからだ。この点で、契約は重要な意味を持つ。

 さて「契約」は、神と交わす契約と同等のものだから、この契約において忠実であらねばならない。不履行は厳禁であり、戒律破りとなる。だから欧米では、契約の厳守が市民社会生活を送るうえ重大なウエートを占めている。契約を守らない者は、市民社会から追い出される。
 だから欧米人は一旦、「イエス」と言ったら約束は絶対に遵守するし、「ノー」と言ったら一歩も譲らないのである。
 見方を変えれば現代の日本人よりも、彼らの方が余程「男らしい」のである。 いや、「男」というより、日本人以上に「大人」である。その返答は何処までも厳守する。約束は履行あるのみ……、これが彼等の信条である。
 今日の日本人のように「武士に二言のある者」など居ない。
 必ず口約束でも履行する。遵守する。途中で覆さない。口約束でも交わした以上、途中で不履行して“ションベン”などしないのである。この律儀さは、今日の日本人以上である。

 この背景には強い自我意識があり、そこの自分への自負があり、一方で強力な自分があるからだ。
 この点は今日の日本人と大違いである。彼等の返答にグレー域が混ざらない。中途半端でない。曖昧でない。明確である。
 日本人のように中途半端な無神論者ではない。殆どが、確
(かく)たる信仰を持っている。

 一方、中途半端な無神論者である日本人はどうか。
 一年中ふらついていて、あれたこれやの、何とも気が多く、行事ごとも多忙ではないか。一年中何らかの宗教儀式に絡み、何と忙しいことか。
 この中途半端な無神論者どもの一年を通じた、日本人特有の滑稽な行事を上げてみた。そして戦後の行事の一切には「俄
(にわか)」という文字が付随されることに注意。中途半端な無神論者だからだ。

行   事
戦   後
戦前・戦中
1月
元旦の初詣
俄神道
氏神信者
2月
聖バレンタイン(2月14日)
俄クリスチャン
なし
3月
春分の彼岸

ホワイトデー
俄仏教徒

俄クリスチャン
仏教徒

なし
4月
新学年・新会計年度
明治期以降の引き摺り
明治維新の後、政府の財政難に起因する暦調整で、また秋の収獲後の徴税の都合とされる。氏神信仰から来るものか。
5月
端午の節句
俄神道
田植えと関係の深い氏神信仰
6月
夏至・暑中見舞い
(儒教か道教の影響か?)
(儒教か道教の影響か?)
7月
七夕の節句
俄仏教徒
仏教徒
8月
盆の先祖供養(月遅れの8月15日や旧暦7月15日)
俄仏教徒
仏教徒
9月
秋分の彼岸
俄仏教徒
仏教徒
10月
ハロウィン
(10月31日万聖節の前夜祭)
俄クリスチャン
なし
11月
七五三
俄神道
神道
12月
クリスマス・イヴ(12月24)

大晦日
(12月31日)
俄クリスチャン

俄仏教徒
なし

仏教徒


 上記の年中行事から考えれば、特に忙しいのは12月で、何も師走に絡んでのことだけではない。このときは月末から急に忙しくなる。とにかく慌ただしい9日間が駆け抜ける。
 24日にはクリスマスイブがあり、ここでは日本人は俄クリスチャンになるが、31日には俄仏教徒に変身し、一夜明ければ初詣に行って俄神道氏子へと早変わりする。まるで回り舞台の役者のようである。
 この豹変なる変化
(へんげ)の、何と忙しいことか。何と慌ただしいことか。
 人間は一旦惰性となってしまった愛執に縛られるようだ。惰性は常識化される。毎年同じことを繰り返している。信者でもないのに不思議とは思わない。そして背後の商売人の巧妙な仕掛けが日本人大衆を捉えている。
 日本人は気が多いと言うか、神仏に対しての八方美人行為と言うか、これこそ「中途半端な無心論者」の典型であろう。

 ちなみに私は仏教徒で、それも禅宗であり、また道場神殿には中心帰一の神でる大日月神ならびに別天
(ことあま)つ神五柱(かみ‐いつはしら)を祀っているので古神道家でもある。
 「別天
つ神五柱」とは、中心帰一神として天之御中主神(あめのみなかぬし‐の‐かみ)と言います。遠心力が高御産巣日神(たかみむすび‐の‐かみ)。求心力が神産巣日神(かみむすび‐の‐かみ)。更に三柱を助ける神として、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うしまあしかびひこじ‐の‐かみ)と天之常立神(あめのとこたち‐の‐かみ)をいう。
 私は神仏には願わない。ただ頭
(こうべ)を垂れるだけである。自分のための祈祷はしない。恭(うやうや)しく頭を垂れるだけである。祝いもしない。祭りもしない。ただ畏敬の念で頭を垂れるだけである。

 とにかく現代日本人は忙しく慌ただしい。
 一年の行事の中でキリスト教に関することが4回、仏教に関することが5回、神道に関することが3回で、合計12回も何らかの宗教行事に関与しているが、しかし神や仏を信じる気持ちなど毛頭ない。宗教行事を娯楽と考えているのである。娯楽の中に多忙なる現代社会が組み込まれている。
 更に、これだけ気が多いと言うことは、曖昧であり、自分の意見を言って、他人に嫌われるのが怖いから、「イエス・ノー」をハッキリ言えず、何となく相手に流されるという中途半端な意識が顕われているのではないか。そこにエエカッコシーの現代日本人が居る。

 そして八方美人的な行為として、これが極端化されると、「中途半端な断れない義理人情」が絡んで来る。
  この種の義理人情を単刀直入に言うのなら、言葉の誤摩化しである。ハッキリ断ることもせず、ハッキリ従うこともしない。その中途半端なグレーゾーンの灰色意識は、こうした曖昧さは作り出しているのである。

 また他方の意識として、自他離別の意識が現代日本人には強いから、心の蟠
(わだかま)りとして「妬(ねた)み」がある。一方で、優越感がある。
 心の中では、自分より幸せな人を妬んでいる一方、自分より劣っている者に対しては、自分の方が優れていると見下して優越感を感じるのである。そして自意識は、交互に妬みと優越感を織り交ぜながら、「未だに確立されない自我」が存在しているのである。
 現代日本人の精神基底には嫉妬と言う「ジェラシー」が、また現代人の幼児性を構築しているのである。

 日本人の一億総中流だけでなく、「一億総タレント」もそうした現れであるし、オタクもその典型であり「一億総趣味人」の目立ちたがり屋の有象無象どもが、幼児性を発揮して、人より一歩先に出ようとする意識などは妬みの典型であるし、この妬みは一方で、今日の子供の苛めにも通じるのである。オヤジの“やっかみ”は近年現象としてよく知られるところである。多くの日本人は、“ドングリの背比べ競争”で、誰もが焼き餅焼きになってしまったのである。出し抜かれることを妬むのである。

 昨今の日本人の子供の特徴として、大勢で一人を「苛める」という行為が各地で起こっている。苛めは昨今に流行した事件ではあるまいが、昨今の苛めは、間接的な殺人にまで発展する。
 苛められる一人に対して、誰かの何人が「可哀想だ」と言う感情を抱いても、自分も苛められる一人を苛めないと、今度は自分が苛められると言う強迫観念があるのである。

 そして今昔では「優しさ」までもが、逆転してしまったのである。
 昔は、心に無い優しさを形の上で表現した。昨今では優しさを、単に優しさ優しさ……と言う連語で簡単に言うが、その根本には人間への深い理解力がない。それが欠如している。
 次に洞察力であり推察力である。こうしたものが培われているか否かで決まるので、意図も簡単に……という分けにはいかない。年期が要るのである。
 それゆえ、昔の人は、先ず他人への気配りを教えた。親が子にそれを教えた。躾
(しつけ)として教えた。その形に従うことにより、優しさを肩代わりさせていたのである。それがやがて身に付き、本当の優しさへと移行したのである。
 ところが今はどうか。

 危険や暴力に立ち向かう行為は勇敢とは看做されない。勇気がある行為とは看做されないのである。ただの、傍迷惑な「蛮勇」としか採られないのである。勇敢なる行為をする人は、現代では否定される人種として蔑まれる。
 危険は、肉体派の自衛隊空挺団か、海上保安庁特殊救難隊か、消防庁救急レンジャーかのスペシャリストに任せ、無謀な暴力は、警察などの司法に任せればいいということがスマートな行為となった。
 こうした考え方の背景には、現代と言う時代が「策略の時代」であることが分かる。

 人間は勇気をもって生きるのではなく、策略をもって生きることが、現代流のスマートな生き方なのである。
 何事に対しても戦うのではなく、また抗
(あらが)うのではなく、損を防ぐ策を講じて、悪から、暴力から身を護るということがスマートだとする考え方が先行しているのである。専門的なことは、その路(みち)の専門家に任せればいいじゃないかという「策略の時代」の時代なのである。
 しかしである。
 危険や暴力に対して、それらを専門にするスペシャリストが、緊急時に直ぐ駆けつけてくれない場合はどうするか。
 このときに選択は二者択一である。蛮行を働いて蛮勇の譏
(そし)りを受けるか、傍観者となるかである。

 したがって苛めを、苛められる方を見て「可哀想だ」と言う気持ちを起こす前に、まず共犯者になる損を防ぐ策を講じておいて、自分の身の安全を確保した上で、外野から傍観するか、実行犯の加害者にならない程度に、やんわりと痛めつけるというような処世術が罷
(まか)り通っているのである。
 こうした背景に、勇気が摩滅して行く現実がある。
 勇気や人間としての誇りと言うのは、貞操や愛国心という語と同じくらい、既に死語になっている。

 子供の一人ひとりに性格を分析すれば、間接殺人を遣るほどの兇悪な性格は無いにしても、これが集団の意識として行動に及んだ場合、とんでもない方向に向かうものである。かのコメディアンが言ったように「赤信号はみんなで渡れば怖くない」のである。今日の社会現象が、それを雄弁に物語っている。
 こうした行いの中に「合成の誤謬」
(fallacy of composition)というものが横たわっていて、人間は集団化されると、その合成意思がとんでもない方向に向かうのでは無いか?……と言う「陰のちらつき」を感じるのである。

 勿論この言葉は経済学用語であるが、個人や個別企業などのレベルで妥当することが、社会全体の大きなレベルでは妥当しないということを指す。
 例えば、個々人が所得のうち貯蓄する割合を二倍にしても、有効需要が減少して国民所得で示された総生産額も縮小し、所得の減少が貯蓄の減少につながるため、社会全体の貯蓄額は二倍にならないなどの類であり、これを「結合の誤り」ともいう。

 特に現代社会は、急速にこうした現象が顕われるようになり、ミクロの視点では正しいことでも、それが合成されたマクロ
(集計量)の世界では、必ずしも意図しない結果が出ないことがある。とんでもない方向に向かうことがある。戦争に向かうメカニズムも、あるいは「合成の誤謬」の導いた結論かも知れない。
 一人ひとりの意識が正しいものであっても、それが結合してしまうとその意識は、必ずしも正しい方向に向いていないのである。

 また、合理的な思考であっても、それを行動に移した場合、その行動は総合的にマクロ的に検
(み)た場合、合理的でなく社会全体にとって不都合な結果が生じこともあるのだ。
 人間社会は一度集団を作れば、その方向性はミクロとマクロのギャップは大きく開いてしまうことがあるのである。つまり、ミクロでは正しくても、マクロでは違う結果を齎すことがあるのである。

 一人の正しいと考える提案は、この考えに近い者が共鳴して集団をなせば、一個人の掲げる提案とは異なる方向の結果が齎されると言う場合もあるのである。
 集団の行動は結合意識から出るものだから、一個人がその中に割り込んで向かう方向を阻止しようとしても、阻止の覚悟をした場合、阻止者は自分が方々から袋叩きにされることを覚悟しなければならない。敢えてこの覚悟が要る。

 しかし、今日の日本人にこうした覚悟がある人物は非常に少ないようだ。
 袋叩きが自分に集中することを嫌うからである。
 欧米などの「人の行動」特に「勇気ある行動」を検
(み)た場合、日本人のそれとは大きく違っている。
 日本風に言えば、「男気」があるのである。これに侠気を感じるのである。義侠心を感じるのである。義のために闘って、命を落としても悔いが無いくらいの凄まじさを感じるのである。一種の親分肌である。

 苛めを目撃した欧米人の場合はどうだろうか。
 こうした現場に居た欧米人の場合は、どういう行動に及ぶかだろうか。
 例えば、大勢で一人の弱者が苛められているのを見たら、自分はその弱者を守る為に、たった一人で大勢に立ち向かうようだ。そういう行動に出る者が多い。欧米には未だに騎士道の気風が残っているからである。ジェントルマンの気風があるからである。
 そして欧米人は、そこに「カッコ良さ」を感じるのである。 また、命を張って闘うから尚更カッコ良い。そのカッコ良さの中には「男らしさ」を感じる。そこにこそ「ヒロイズム」がある。

 あるいは、強きを挫
(くじ)き弱きを助ける本人は、あまりのカッコ良さに自己陶酔して、「何て俺ってカッコ良いいんだろう……。まったくもってヒーローじゃないか……」などと、 勇敢な自分の姿に酔い痴れることもあるかも知れない。殴られても蹴られても、その痛みをカッコ良さとアドレナリンが中和して、更に弱きを守るために抵抗するだろう。
 これこそ「寡
(か)を以て衆を正す」ではないか。
 普通、「衆寡敵せず」だが、欧米の義侠心はこれに抗
(あらが)う。簡単に尻尾を巻かない。敢えて、人数の少ないものは、人数の多いものには勝ち目がないのを承知で、寡を以て衆を正すのだ。そのときの動きは鈍重でなく、軽快で巧妙な動きをする。まさに小よく大を制すのである。

 その典型が、1836年2月23日から 同年3月6日までの13日間の戦いでテキサス独立戦争中、デビッド・クロケットら市民と義勇兵の約二百名弱
(資料によって182人とも187人とも)の混成軍が、メキシコ軍約三千人を相手に立て籠って全滅する「アラモ砦の戦い(Battle of the Alamo)」ではなかったか。欧米人は始めから負けると分かる戦いでも、恐れずに挑むのである。その戦いぶりは、『一歩も譲らず』という壮絶なものである。このアラモ砦の攻防における自己犠牲の精神は、『アメリカの魂』とまで言わしめた。アメリカでは毎年3月6日がアメリカ人にとって一番胸を張る「誇りの日」である。
 これこそ良くも悪くも、それが欧米人である。

 これは日本人とは真逆さま。
 日本人に「誇りの日」など無い。一年365日、日本人に全国共通で誇れる日など一日も無い。ぜいぜい無条件降伏をした8月15日くらいが大東亜戦争を敗北した日として、日本国の総理大臣すら海外の内政干渉から満足に靖国神社に参って、英霊に対し頭を垂れることすら儘ならないのである。果たしてこの国は主権を持った独立国家なのだろうか。
 独立国家でない故に、今日の日本人に確固たる信念と勇気が無く、ために人材が輩出出来ないのではないのか。
 今日の日本人は、かつての日本人に比べて知識もあり、多くが高学歴だが、その高等知識は、多くは専門分野に注ぎ込まれ、総てミクロ的である。それも、それぞれは分裂的である。そして大局を統合するマクロ分野が完全に抜け落ちている。ためにビジョンが無い。このことが日本には、政治屋は居ても政治家がいないという現象を作り出しているのである。

 こういう所にも、今日の日本人と欧米人を比較して、私は「日本人の幼児性」や「未熟っぷり」を垣間見る思いがするのである。
 そして根底には、今日の日本人に我慢力も忍耐力も欠けてしまったことを強く感じるのである。こうした欠如状態において、やはり現代日本人は、死を、恐れる対象と看做し、未だに逃げ回ってばかり居るのだろう。
 また、こうした背景には「怯懦
(きょうだ)を誤摩化す」という行為が働いているのではあるまいか。
 臆病で意志の弱いことを誤摩化し、見て見らぬ振りをするのが得策だと思うからだろう。子供の苛めは、親の転写とも言える。親の“やっかみ”が、子供にそのまま転写されている。
 そして親も親である。虎視眈々と、自分の相手になるべき不倫の対象を物色している。職場でも、夜の巷でも……。親も襟を正すべきであろう。しかし、その気配は親に見えない。
 それゆえ現代と言う世は、「怯懦を恥じる気持ち」さえ失われているのである。

 苛め問題の解決が一向に効果を上げないのは、殴られている人を平気で眺めているという臆病にあるばかりでなく、親が子に、勇気の何たるかを教えないからである。また学校で、勇気の何たるかを教えないからである。そして今は、教師自身が勇気の何たるかを一度も体験したことが無い頭でっかちで占められているため、それを教えようにも教えられないのである。
 それに昨今の風潮として、男は仰がれたり、一目置かれて強持
(こわ‐も)てになるよりも、人を笑わせて女子の注目を浴びる方を選び、またそれを好むようである。此処にも現代の目立ちたがり屋のエエカッコシーがある。

 そしていつの頃からか、合理主義が青年層や壮年層を覆い尽くし、困難や不可能に立ち向かうことをしなくなり、未科学を非科学と決め付け、科学的と云う言葉を乱発しながらも、「見えないもの」に対して解明する気概さえ無く、見えないものはオカルト趣味と一蹴してしまう。
 本来は未科学分野に対しては、真摯に現象を解明する姿勢こそ尊ばれたのであるが、今はまったくそうした気魄
(きはく)が感じられない時代になってしまった。

 本来ヒロイズムは名誉欲を満たすために英雄心を起こすものでなかった。名誉によって、人心の崇拝を攫
(さら)うものでなかった。単に義侠心から起こった行動律である。そこに策略などなく、極めて単純なものだった。
 しかし今日はヒロイズムや勇敢さが失われた一方、名誉欲だけは一向に失われていない。
 特に、男どもに関して言えば、“覗き趣味”と“痴漢趣味”は、時代がどんなに豊かになっても決して消えることの無い性犯罪である。この犯罪に匹敵するくらい、名誉欲の意識は高い。

 「名誉」とは本来、人格の高さを顕したバロメーターではなかったのか。
 その度合いに応じて授与されるのは「勲章」であるはずだ。
 それに加えて、道徳的尊厳と、徳に高さに与えられた賞讃ではなかったのか。
 しかし今日の世で、名誉は全く違った形で授与されている。人間の徳の高さとか、人格とは全く無関係に、またその人の中身とも関係無しに、“名誉面”したオヤジが、それを授与されると言う不可解な現象が起こっている。

 この手の類
(たぐい)は勇気もなく臆病なくせに、人格を磨く気配もなく、品格向上の意志もなく、それでいて胸に勲章をぶら下げることを目論んでいる。この手の狂奔は、今や花盛りと言えよう。
 また、こうした勲章を授ける、公とは関係ない詐欺擬いの民間組織で、“この手の手合い”を取り込んで、これが金儲けの営利的な利益を生んでいるのである。
 この手の人間でも、一旦勲章を胸にぶら下げると、世間とは不思議なもので、尊敬の念すら払うのである。その甘さに酔い痴れる者は少なくないようだ。

 一方で「鈍感力の奨励」が流行している。
 何も考えず、鈍感になることで生き抜こうとする主旨のようだが、この流行には納得致しかねる。
 人間は考えなくなり、また恥辱に対して鈍感になろうものなら、礼儀も作法も一切消滅してしまう。日本にとっては亡国であろう。
 今の世で、むしろ必要なのは、鈍感力より「鋭敏な想像力」ではあるまいか。

 この世の残酷な仕打ちに対し、これに耐え忍び、辛さを堪えて、苦難を乗り越えて行くのが、本来の人間としての人生の過ごし方ではあるまいか。
 譬え、辛くとも苦しくとも、人に対しては敏感であり、その気持ちを逸早く察し、これを鋭敏に応えてこそ、サムライ精神や勇者精神が培われるのである。
 想像力が欠如してしまっては、鈍感の中に更に鈍感となり、あとは機構側、体制側の「人間牧場」で飼われるだけの家畜となる。
 鈍感力を駆逐するためには、機構と体制に抗うことすら辞さないサムライ魂を回復させて、本当の奉仕者となる以外ないと考えるのである。家畜にされないために、誇りを持って……。



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