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個人教伝指導日誌 2

咸宜園の玄関に立つ。



●知識を捨てて無垢になる

 知識によって見たものは、総て肉の眼の外において見られたものである。つまり客観されたものである。
 なぜ人は働かねばならないのか。労働をしなければならないのか。
 多くの人は、日々何かをして働いている。それは働くことが尊いからだと信じた上の行動律である。だか、その行動律の中に、働いている生活が何故尊いのか、それを理屈において行っているのではない。働くことに証明など、待ったりはしない。知識によって成り立っているからではないためだ。
 働くことに、証明も知識も要らないのである。人は自らの主観によって働く。客観から真似ること無く、自らの意志で働く。それが、人が働く行動律である。

 だがその一方で、働きは、働いて幾ら儲かったか?……、自分の奮闘がどれくらいの仕事を残したか?……、こうしたものを追い求める価値の模索がある。それを「生」そのものに結びつけようとする。
 だが、それは二次的なもので本来の労働とは無関係である。
 世の中が資本主義の真っ盛りの世であれば、商業社会とか営利世界は当然の事として考えられ、マルキシズムが登場して以来、労働は賃金に換算されるばかりでなく、労働自体は商品として扱われるようになった。故に、勤労もまた商品として看做
(みな)される。その証拠に、自分でも自分の労務を金銭で計算したりなどする。

 しかし、これでは肝心なことを見逃している。
 労働の本質、勤労の本質を見逃しているのである。これを見逃しては、人生的な意味は薄れてくるのである。
 現代の生活の寂しさとか、荒廃と言うのは、総て金銭で物事を推し量ったところにあった。あたかもマルクスの「労働価値説」よる、労働量によって商品の価値が規定されるとする学説が、かくもこのように弊害を派生させたのである。その害、多岐にわたる。
 つまり唯物史観によって、社会全体を科学する目で見て、総てを外から見るとしたところに、人の「生」も外から見るとしたところにあった。外から見るとは、外から計ると言うことである。それは「表皮の判定」に他ならなかった。

 この、外からの計りは、現代人の多くに過ちを齎した。間違いを齎した。生きることの意味に混乱を生じさせたのである。
 それは「生」の働いた跡の大小や、形や量を以て、それを「生」そのものとしているからである。
 本来「生」とは、そういうものではあるまい。
 そしてこの誤りにおいて、外から見たもので「生」そのものの価値としたところに、そもそもの間違いがあった。

 本来、労働して「幾らの金になったか?……」は、あくまで働いた後の結果に過ぎない。金銭で計られた結果は、働くことの原因でもないし、また働くことの目的でもない。
 「働いて幾らになったか?……」は、あるいは「働いても丸損で割りが割るかったか?……」は、計られた結果に属したことで、「生」そのものの価値とは無関係なのである。また幸福とも無関係である。自分の真心を搾
(しぼ)った、その足跡こそが本当の仕事であった。仕事はそれ以外にない。
 仕事の成果とか、成敗の後に至っては、むしろそれは運命の属したものであり、また運の善し悪しだった。仕事のために脳漿
(のうしょう)を搾り出すようにして働いた足跡とは何の関係もないことである。「生」の価値とは無関係なのである。「生」とはまさに、行為したことなのである。行った事なのである。行為なのである。これが、つまり「働き」なのである。行為を「はたらき」とも読むのである。

 私は十代後半の頃、武の道を念頭に置き、青雲の志に燃えて18歳で『大東修気館道場』を興
(おこ)した。本間で四十帖ばかりの道場である。僅かなる伝手(つて)を頼りに、この歳にして道場を構えた。昭和42年(1967)4月のことである。まだ、未成年だった。総てにおいて未熟だった。
 当時、北九州市八幡東区春の町一丁目の豊山八幡神社の宮司・波多野英麿氏の尽力によって、当神社境内に「大東修気館」道場を置いたのである。そして道場の館長となった。弱冠18歳である。確かに右も左も知らない青二才だったが、しかし私は中学の頃から働いて来て、中三のときに父を亡くし、家が母子家庭であったので、自分で朝と夜、働きながら高校を出て、更には大学へと進んだ。自分のことは自分でする自立心は旺盛だった。

 大学へ進んでみると、世間が言うように「家が貧しいから大学へ行けなかった」と言う話は、全くのウソであることに気付いた。
 大学は才能の無い者が進めば、かなりの至難の業
(わざ)だが、国公立の学費の安い大学が幾らでもあるし、各種の奨学金も出ている。私学でも学力特待がある。そういうものを利用すれば、「家が貧しい……」は成り立たない。むしろ大学に行く学力に問題があったのではないかと思うのである。だから、家が貧しかったからと言っておけば、大学に行かなかった理由が成り立つとでも思ったのだろう。詭弁である。
 これを指して、かつて台湾の総統・蒋介石は日本の大学出身者に対し、「最高の学歴、最低の学力」と揶揄
(やゆ)したことがあった。

 況
(ま)して、頭は使いようである。大学を最高学府と自負する以上、それなりの頭が備わっていなければならない。
 私の脳漿搾りは組織造りから始まった。道場一つでは、遣って行けないからである。そのためにハブを経由することを考えた。
 更に支部展開として、北九州市の教育委員会の認定を受けて、「社会教育認定団体」となり、次に北九州市内の公民館の講堂などを借りて支部を造って行った。盤石な地固めをするために組織化を図った。
 この支部展開において、わが西郷派は「北九州合気武術連盟」を組織し、名実共に社会教育法で守られながら演武会いなどを催して行ったのである。これが活動の始まりだった。

 道場は、単に構えただけでは機能をしない。機能させるには行為がいる。働きがいる。行為をするには、その働きを道場に担わせなければならない。道場の行為を担ってもらって、道場は名実共の本物の道場になるのである。道場活動は、その行為の一部に営利的なところがあり、そこでは当然税金対策を考えておかねばならない。何をするにも、この国では税金が掛かるのである。生きているだけで、もう個人には納税の義務が発生する。
 一方で節税も考える。
 税金は取られぱなしでは余りにも能がない。節税策も大事な武人の謀
(はかりごと)となる。謀を立案し、それを行動に移し、行為に顕す役職を軍隊では「参謀」などと読んだりする。
 軍事行動を計画し、かつ指導することを専門とする将校を参謀と言うのである。そういう立案者を参謀と言うのである。
 道場運営にも、そこの道場主は、参謀的な頭脳を持っていなければ足許
(あしもと)を掬(すく)われるのである。思うように運営が出来ない。

 公民に向けた法律の中に「社会教育法」と言う法律がある。
 この方が適用されるのは、各市町村の教育委員会が認めた「社会教育認定団体」に限られる。社会教育認定団体の認定を受けると、社会教育法と言う法律の庇護下に入る。庇護かに入れば、法的なる特典を得る。また社会的にも認知度が上がる。
 私は、この頃よりこの法律の研究を始め、事あるごとに市教育委員会に足を運んだ。何度熱心に通ったことか。申請を突き返されては再び書き直し、何度も申請書類を書き改めて、教育委員会には能
(よ)く足を運んだものである。
 数撃てば当たるではないか、この熱心に足を運んだ結果、昭和46年には北九州市の社会教育団体としての認定を受けた。認定を受けるためには長い月日を労していた。この熱心さこそ、頭の固い役人までもを動かしてしまうのである。
 そして功を奏した。

 税金の一部の控除を受けながら各地で演武会を開催したのである。その結果、『大東修気館道場』は各支部の本部になり得た。
 昨今は、市教育委員会の認定を受けて、社会教育団体になることはいろいろな手続きや制限があり、容易に認定は受けられないが、昭和四十年代始め、こうしたあたらな展開法を考え出したのは、私が単なるサラリーマン的発想でなく、ビジネスマン的な発想を抱いていたからである。勤労所得以外の、何かを常々考えてからである。後にこれが「道場事業部」となって発足する。

 サラニーマン的思考力では、結局いつまで経ってもサラリーマンであり、会社員の儘の生涯を終える。サラリーマン生活の余暇を利用してなどと言う甘い考えでは、道場は軌道に乗せられないし栄えない。軌道に乗せるためにはそれなりの軍資金がいる。大名・所領者の領地経営と同じである。
 一方ビジネスマンの頭に切り替えれば、サラリーマンとは異なる発想が生まれて来る。建設的かつ経営者的な発想が生まれて来る。立案と指導面で大きな違いが出るのである。
 枠の嵌められた会社員の考え方から、自由に、自在に、奔放に動き廻る会社役員の考え方が想起させることはできない。枠から、輪廻の輪からにけ出さねば経済的自由は得られない。
 またそうと決まった以上、その想起に至るまでに、自由・自在・奔放とはどういうものか思索を繰り返さねばならないのである。その思索がやがて、有形なる実像を結ぶ。これが無から有を生む現象である。私はこのとき、こうした現象が世の中に起こることを知っていたのである。

 この世に「心象化現象」なるものがある。
 心に強く念じたことは、必ず実現される。これを心象化現象と言う。これは無から有を作る現象である。
 世に「大義名分」なるものがある。行動の裏付けとなる明確なる根拠である。それも「個人を抜きにした公民に訴えるもの」である。そのとき、人は動く。動かされる。そこには「信」があるからだ。
 人間は「信」によって動く。信ずるに値するものによって心が動かされる。

 では、「信」とは如何なるものか。
 真
(まこと)を言う。真心をい言う。誠実を言う。忠節を言う。つまり、これが「まごころ」である。
 信の字を分解して考えれば、「人」+「言」で『信』である。それは、人の言葉と、心が一致している態
(さま)を顕す。その態度を言う。その姿勢を言う。
 一致していなければ、人を失う。人は蹤
(つ)いてこない。
 人は蹤いて来るのは「信」のみであり、信が人を従わせるのである。

 『論語』には、「兵を足し、食を足し、民をして信あらしむ」とある。
 大義名分において、一番大切なのは、兵を練ることであり、次に防備をして敵に備える心構えと軍備の充実、更に飢えないように食することの経済力であり、また人間同士の信頼関係を築くことである。この信頼において、信用が生まれ、忠信が生まれ、信仰までもが生まれる。
 世界の宗教の信なるものは、この信じると言う信仰によって始まったのではなかったか。そこには大義があり、名分があるからだ。信用に値する行為が感じられるからである。この行為を働きと言う。
 この大義名分を、別の角度から「政治」として検
(み)てもいいだろう。あるいは政治力だろうか。
 そしてこれを優先順に並べると、一番目に「信」がきて、二番目に「食」であり、三番目に「兵」となる。
 これは『論語』の中に記された、孔子と、弟子の子貢
(しこう)との会話でも明らかになる。

 子貢は問う。
 「先生、世の政治
(大義名分)において厳守しなければならない事柄は何ですか」
 これに、孔子答えて曰
(いわ)く、「兵を足し、食を足し、民をして信あらしむ」と。
 次にまた子貢は問う。
 「この三者の中で、どれは省くとしたら、どれでしょうか」
 子曰く、「兵を省け」
 更に、子貢は問う。
 「では、食か信のうち、どちらかを省くとしたら、どれでしょう」
 子曰く、「食を省け」
 子貢は更に食い下がる。
 「食を省くですって?食がなければ人は餓死する以外あるません。食べ物がなくては人は生きられないではありませんか」
 子曰く、「餓死しても構うものか」
 子貢は「人民が餓死したら何も残らないではありませんか」
 子曰く、「餓死しても信は残る」
 そして子貢は、はたとして膝を叩いて得心するのだった。
 「そうか、信か……」と気付くのである。
 この問答で、孔子は子貢に「信」の大事を説いたのであった。

 日本は昭和二十年
(1945)八月十五日に連合国軍のポツダム宣言を呑んで無条件降伏した。
 ポツダム宣言は、1945年7月26日、ポツダムにおいてアメリカ合衆国・中華民国・イギリスが日本に対して発した共同宣言である、後にソ連が火事場泥棒のような形でこれに加わった。
 この宣言は日本に降伏を勧告し、降伏条件と戦後の対日処理方針とを定めたものであった。
 それによると軍国主義的指導勢力の除去を第一に掲げ、次に戦争犯罪人の厳罰であった。大東亜戦争に関わった人間を徹底処罰すると言うものだった。この戦争裁判は前代未聞の軍事裁判であった。

 更に要求は続く。
 連合国による占領であり、また領土の制限をすると言うものであった。
 また現日本国憲法からも分かるように、欧米型の民主主義の押し付けが開始された。目的は日本の徹底的民主化などを要求であるが、一方で日本人を骨抜きにする策略の意図が隠されていた。
 こうした要求に対し、日本ははじめこれを無視したが、広島と長崎の原子爆弾の投下により、多大なダメージを受け、更には火事場泥棒のソ連の参戦により、世界に優を誇った関東軍は敗走に継ぐ敗走。高級参謀であった当時の軍隊官僚の作戦立案者たちは、底辺の将兵に死守を命じて、自らは日本に逃げ帰った。ここまで高級軍人たちが乱れては以降の戦争遂行も儘ならない。こうしたやむを得ない現状を踏まえて、同年の八月十四日にこれを受諾し、遂に大東亜戦争は、日本が敗戦すると言う形で終結した。

 しかし当時、日本の「信」は失われたのだろうか。
 信を失ったのは夜郎自大
(やろう‐じだい)に奔った軍隊官僚のみであった。陸軍大学校や海軍大学校を出た戦争指導の参謀本部の軍隊官僚や、派遣地で軍司令官の職にある高級軍人や側近らは、失墜して信を失っていたが、国民の信は以前、昭和天皇に絶対的な信があった。絶対的な信を抱いていた。
 この信によって、戦後牢獄から解放された左翼陣営が革命を呼びかけても、大多数の国民は革命に趨
(はし)らなかった。
 暴力革命抜きで、戦後の日本復興を成し遂げたのである。
 「信」こそ窮極の政治目的だった。大義名分に信が息づいていた。

 「信」がある限り、「兵」も「食」にも頼らなくていいのである。その精神だけが残る。その魂だけがいつまでも残る。
 私は戦後生まれの「戦争を知らない団塊の世代」だが、子供心に「信」の大切は親から懇々
(こんこん)と聴かされ、またわが師匠の山下芳衛先生からも懇々と諭(さと)され、それがわが全身に注入されていた。
 私は当時は、一介の八幡製鉄の職工を父に持つ小倅
(こせがれ)として生まれた人間だが、躾(しつけ)だけは厳しい家に育った。先祖は平戸藩の、僅か十五石の下級武士だったが、祖母も母も厳しい人で、その厳しさの中で幼少より武門の子弟として育てられた。
 その家庭教育の中で「信の大事」を教えられたのである。信あって、人は繋がっていることを教わったのである。

 挫けそうになったり、最早此処まで……と諦めかけたとき、常に思い返したのは常に「信」の有無だった。信さえ捨てなければ、その精神は後にも生きる……とした、一種の信念で六十有余年を生きて来た。お陰で、二進
(にっち)も三進(さっち)もいかなくなり、困窮の局面に突き当たったとき、それを「信」で切り抜けたのである。
 「まごころ」は通じる。必ず通じると確信して来たのである。信あるが故に、である。
 絶望感に陥った時も、側面には「信」があった。
 これまで長らく「信」と付き合って生きて来た。
 「信」を捨てない者は、長い間私の同志となり得た。共同戦線の同志となり得た。

 そして弱冠18歳にして『大東修気館道場』を興した際の中心課題は、まさしく「信」だった。「信」により人を募った。
 集団を分析する際、確率の法則で10人集まれば10人とも、みな「信」の持ち主ではない。その中には、ある一定割合で、ろくでもない者が混じる。どうしようもないクズが混じる。
 確率論で行けば、大凡
(おおよそ)5割りは可もなく不可もなく、かつ、沈香も焚かず屁も放らずの中間層である。この中間層は、無力な善人であるから、ろくでもない、3割かたの人間ほどは酷くないにしても、また「信」も乏しい。浮動で、いつも浮き上がり、流行やファッションに流される層である。
 一方、約2割弱が「忠義の士」である。サムライである。信義に厚い。この層に本物がいる。
 私は、この2割弱を求めて道場を興したのである。

 心象化現象……。
 それは心の強く念じたことは、この世では必ず現実化し、具現化されると言う現象である。
 私は道場を興すために、強く念じた。必死で念じた。念は強ければ、天に届くものである。聞き入れてもらえるものである。
 その「念」の甲斐あり、ついに弱冠18歳で道場の主となった。本物の忠義の士を求めて。
 だが、本番はこれからであった。

 好事魔が多し……と言う。
 良いこと尽くめには魔が潜む。
 念じても、ならぬこともある。妨害も入る。人生は自分の思うように運ばないものである。順風満帆など、長くは続かないのだ。宛にすると、とんでもないことになる。有頂天に舞い上がると、大きな禍が、その反作用として跳ね返って来る。
 心象化現象に付き纏うのは、作用と反作用と言うニュートンの運動法則の「第三法則」である。
 推進すれば、逆にマイナスの推進力も働くのである。進めば戻ろうとする力も働くのである。
 突き進む力には、それと同じ量のマイナスの力が働くのである。これがニュートン力学の骨子である。
 二つの物体が互いに力を及ぼし合う時には、これらの力は常に大きさが等しく、向きが反対である。作用と反作用の第三法則。十七世紀以来の物理学である。

 しかし、邁進すればそれも止むなしである。突き進めば避けられない禍
(わざわい)とも遭遇する。災難とも遭遇する。そこから多々の不幸現象とも遭遇する。譬(たと)え、そうした局面に遭遇しても、これをマクロ的に見れば、大局的に見れば、「一災難」でしかない。一局面でしかない。躓(つまず)いても、立て直しは可能なのである。
 私も一介の凡夫
(ぼんぷ)に過ぎぬ。
 躓いて当り前。転けて当り前。失敗して当り前。罵倒されて当り前。揶揄されて当り前……。
 この「当り前」を素直に受けいて、百戦して百敗。そして百敗して、更に一敗を重ねて、百一敗。負けることに馴れて来たので、負けても大して気に留めない。死なずに生きていれば何とかなる。転んでも建て直しが利く。

 何度絶望の縁に立たされ、そこからドン底に叩き落とされたことか。
 だが、人間は悟る生き物である。ドン底に叩き落とされて悟るものがあった。一旦底辺まで叩き落とされれば、もうそれ以降は下に沈むことは出来ないので、あとは浮くだけである。上へ向かって浮き上がるだけである。這い上がって来るだけである。

 絶望感を克服して、その底辺のドン底から這い上がるには、そこに一つのプロセスがある。そうした法則のようなものを見つけたのである。
 それは、一旦は身につけた知識を捨てることである。知を棄てた「生」の真消息に、「なるほど」と頷
(うなず)かなければならない。知はこの際無駄だったのである。
 この世の真理は、捨てるところにある。捨てる中に真理があるのである。
 私の見つけたのは「捨てる」という真理だった。
 同時に、躰的には「捨身」が身に付く。己のみを捨てる覚悟で、全力が揮えるのである。まさに後の無い「背水の陣」を体験したのであった。こうした体験をすると、意外にも覚悟が決まるものである。肚が据わるものである。

 一方絶望を克服するに当り、知を追い訊ねる行為は、何とも不可解である。知は、「なるほど」と頷く道具とはならない。知を超えて掴まなければならないものがある。とりわけ知識は、その道具とならない。足枷となって足を引っ張るだけである。邪魔でしかない。
 知を棄てるところに「無」が存在する。
 知を乗り越えるためには、何か信ずるものがいる。信と無は、一見違ったもののように見える。
 しかし、知を超えたところに、直接掴む道具として「信」が顕われる。信じるものであり、行動律の上では事実に立とうとする心の要求である。
 こうなると、行動のみしかない。行為のみしかない。実践のみしかない。つまり「動」の立場であり、またこれは「生」の立場ともなり得る。

 人は昨夜寝て睡眠するとき、翌日には生きて眼を醒
(さ)ますという保証を貰って寝る訳ではない。昨日寝て、今朝起きたら生きて眼を醒(さ)ました。したがって今日も生きている。その連続の繰り返しで、人は昨夜寝るのである。寿命まで、そうした繰り返しの中で生きるのである。ドイツの哲学者・ハイデッガーが言うように、人間はそもそも非実在であるからだ。
 この、「今朝眼を醒ましたら生きていた……」という、今日の命は、自分の力で得たものではない。また権力者から許可を得て、今朝も生きていると言う現実に直面したのでもない。
 今日一日の生は、恵みによって維持されているのである。天の恵である。

 また、今朝起きて眼を醒ましたら生きている、というこれは偉大な奇蹟でもある。奇蹟とはまさにこれである。眼を醒ましたら生きていた。生きて眼を醒ました。これこそ奇蹟である。
 奇蹟が有るか無いか、問う必要は無い。生きていること自体が奇蹟であるからだ。
 ここに「生かされている」と言う側面がある。

 では、「誰に生かされているのか」ということになろうが、それは「天に……」とでも言えるべきものだろう。
 「今日も生きている」とは、「生かされている」と同義であるから、この明瞭たる事実が、人が生かされ奇蹟の答えとなる。人は自分の力で生きているのではない。そして今日一日の命は、自分の力で得た「一日の命」ではない。

 人は一切を任せて生きている。この「任せる」こそ、実は信ではなかったのか。
 天の行為を信ずるに足りると確信して、ただ任せればいいのである。人間が人知で動かすことではない。
 一方で「任せる」とは、自分が「虚
(きょ)」になっている状態を言っているのである。任せることに意識も要らず、自分の生にしがみつくこともない。
 逆に任せることが出来ないのは、自分にしがみついているからである。自分にしがみつけば、神仏に任せることが出来ない。人知にしがみついて任せることが出来なくなる。そこで信は失われる。

 本当に任せると言うのは、自分を虚にすることである。虚にすることで、一切を任せることが出来るのである。
 虚とは、無であり、またゼロを指す。そしてリセットしてゼロになることは、無であり、また無垢に回帰することである。これは則
(すなわ)ち、「信」ではなかったのか。



●秘密との共存

 秘密は、秘密として保たれてこそ秘密である。
 秘密が「切り札」になりうる要素は、この一点に懸かろう。
 秘密は、志を同じくする者同士で共有しなければならない。これがそもそもの往時からの大東流の指導法であった。
 昭和三十年から四十年に掛けては、これは秘密保持の上の正統なる「一子直伝」の約束事であった。それが他流には無い大東流の独特の指導法であった。
 ところが、わが流は組織倍増計画の前提で大衆化を目指して、昭和五十年頃から指導方針を大衆に向けて展開した。血筋より大衆に向けて、趣味人を募ったのである。

 これは、一方で往時の約束事の否定であった。密事の否定である。
 だが、そもそも組織倍増計画は、志を同じくする血筋や血族に向けられたものであったが、軍師・
進龍一の提案により、「学校の一斉事業と同じく、一人の指導者が、40から50名 を指導する方法」が採られ、これが現在に至っている。
 悪く言えば、十把一絡げ方式である。欠陥を上げれば、多数をひとまとめにする方式である。そこでミソも糞も混じる。

 私が大東流合気柔術を教わった時代は、多数をひとまとめにして教えると言う教え方は無かった。そんなものは無かった。段や級も無かった。秘事を踏んで段階別にステップを踏むため、帯に色分けは無かった。新興武道はそうした色分けはあったが、古流は無かった。
 この時代の指導方法は、師匠と弟子の一対一であり、これに、古くからの先達や先輩が加わることはあったが、やはり中心は「一子直伝」と言う遣り方で、それに先達や先輩らの「濾過
(ろか)器を通す」という遣り方は無かった。そうした人は殆ど関与しないのである。直接師匠から直伝を受けていたのである。
 師匠と弟子は、常に一対一の間柄であった。

 ところが、横の繋
(つな)がりが濃厚になって行く時代、縦の繋がりは敬遠されて行くことが多く、横同士の波及効果で、弟子間が勝手に憶測で伝達させると言う方法が採られ始めた。集客効率を考えてのことだったかも知れない。
 つまり、一人の師匠を独占するのではなく、少しばかり齧
(かじ)った者が、指導者的立場となって、師匠を抜きにして伝達転写する方法が採られ始めた。そうした時代の波があった。
 こうした波は、昭和30年代の合気道の指導法に見られ、特異な一斉事業方式は、この時代に隆盛をみたと言える。現に、植芝合気道は、この時代を「黄金時代」と呼んでいた。猫も杓子も合気道が流行した時代があった。一時期は神道系の大本教
(正しくは大本)と合体していたため、特に東京や大阪の首都圏では、合気道は時代の花であり、何処の道場も盛会を見ていた。

 わが流も、一時期これに習った指導法を、昭和50年頃から始めたことがあった。
 そしてそれが、残留したまま現在に至っている。
 しかし、この遣り方はまた一方で、伝達する進行速度を考えねばならず、その伝達は平均値によって速度が決められた。あたかも「護送船団方式」のようにである。

 更に平均値といっても、これは弱小者に足並みを揃え、一番速度の遅い船に合わせることと同義であるから、全体の安泰を図ろうとすれば、力ある者は遊ぶことになる。才能や素質はそこで足踏みすることになる。
 この有害は、大東亜戦争末期の日本軍の補給船にも見られたし、また戦後は日本の金融行政にも見られた。自由競争をさせないから、底辺には都合がいいが、上部には、遊ばせて腐らせる心理状態が生まれた。結局百害あって一利無しだった。

 わが流では、平成の頃から、こうした現象が顕著となり、その中でも「うろ覚え」による害が目立ち始めた。知らないくせに、十分の熟知したようなポーズをとる者が出始めたのである。

 要するに味噌もクソも一緒くたで、肝心なる「個人を伸ばす」ということが出来なくなり、特に才能の無い下手の類
(たぐい)はそこで伸び悩み、時間だけが浪費されて、二十年、三十年とやりながら、「合気揚げ」一つ出来ない者が出現しているのである。
 これは師匠が直接手を下して教えないと言うより、弟子の方が縦の繋がりが薄いために、「師匠に頭を下げて習う」ということをしなくなったためである。
 当時、弟子は紫蘇湯に対しご機嫌伺いをするのが礼儀であった。その中で作法を学び、往時の為来
(しきた)りを識(し)り、前へと踏み出して行ったものである。ところが、現在がそれが薄れた。あるいは廃れたかも知れない。

 この元兇には礼儀の欠如があり、知らないことを学ぶことと、難解な箇所を口伝で教えてもらうと言う意識が薄れて行ったためである。それが一種の廃れとなり、退廃の要因を招いた。武門の気風が崩れたのである。
 この頃になると、横の繋がりは存在していても、縦の繋がりが断絶状態にあり、誰が教えても基本技は同じという「甘さ」が一人歩きしていた。これこそが、「うろ覚えの元兇」だった。
 趣味人のレベルで学んでいれば、あるいは「うろ覚え」も甘受させるものであったかも知れない。そして正しく転写して後世に伝達すると言う伝達法まで崩れてしまったのである。

 しかし、その者が趣味人として満足しているのであればそれでいいであろうが、これでは修行目的が不明確であり、趣味人であっても修行者でないことが、昭和五十年代半ばから展開した大衆化は、今思えば完全に失敗であったように思うのである。
 つまり、道場は「スクールではなかった」のである。道場はスクールとは異なる、霊的磁場を持った結界内にある神域だったのである。あるいは聖域であった。
 しかし昨今は、道場もスクールも区別がつかなくなった者が多くなった。

 厳格な意味からすれば、同じ行為をする場所であっても、道場は道場であり、スポーツジムでもないし、学校の教室でもなかった。神が居ます、霊的神性なる場所であった。神人合一の場所であった。よって、この場を道場と呼ぶ。単なる体育館ではないのである。
 だが趣味人には、霊的神性なる場所を道場とは映らなかったようである。スポーツジムと変わりないか、学校のスクールと言う意味だったかも知れず、その程度の認識しかなかったようだ。
 この欠陥を脇目に見ながら、虚しく時間を浪費して今日に至ったが、それは確かに秘密部分が伝授できないばかりでなく、「うろ覚え状態で他人に転写された」という間違いを生じさせたのである。それが後年に、禍になって顕われようとは……。
 それに気付く私も、迂闊と言えば迂闊だった。

出版社の社長と読者から、術者の間違いを厳しく指摘され、非難囂々(ごうごう)の大恥をかかされた平成14年10月25日発行の「究極の合気わざ」とサブタイトルの付いた『入身投げ』(曽川和翁著)の書籍。からりの悪評から、この本は遂に絶版にされてしまった。

 この本の演武をした紅白帯の術者は、88ページから始まる「セクション12」の『片手両手持ち廻し入身』は、90ページの同儀法の「上より見る」で術者は同じことを二度しているのだが、これが同じことを二度してないのである。一度目と二度目が完全に異なっているのである。誰が見ても分かる。
 完全転写がなされない「うろ覚え」の最たるものであった。
 そして、筆者はその後「個人教伝」と言う、かつての方法を採用し、「うろ覚えの駆逐」に乗り出したのである。

 うろ覚えは完全に除去しなければならない。流派の伝承は此処に懸かり、この伝承を通じて新たな伝統が生まれるのである。伝承が狂っていたのでは、新たなる伝統など生まれる筈が無いのである。
 筆者の晩年の奮闘も、これより起こる。

 特に「一刻も早く、伝承が正確に伝わる専門家を育てなければならない……」と、これを痛切に感じるようになったのは、上記の本が出て直後の、非難囂々の罵倒が飛び交う最中であった。
 つまり自分一人のための趣味人ではなく、使命感に燃えた時代転写の専門家だった。伝承が正しく伝わらない限り、それを叩き台にして新たな伝統は生まれてこないからである。

 この間違いが顕著に現れたのが、平成十四年に発行された『大東流入身投げ』だった。
 うろ覚えの転写が、一部の目利きから非難囂々の指摘と罵倒が挙がったのである。爾来
(じらい)入会者は激減した。この本のお陰で、入会者は道場を訪れなくなった。

 軍師・進龍一龍一が考え出した、書籍やビデオを出版社と契約して、その販売実績の如何で道場生会員を殖
(ふや)すという「大衆化方式」は、此処に来て挫折することになる。
 それ以前は、「大衆化方式」を考え出したのは、頭脳明晰な軍師・進龍一であり、奴の手腕のお陰であった。
 一時は進龍一のマネージメントが功を奏したのである。その意味で、まさに軍師であった。

 進龍一が辣腕
(らつわん)を振るったとき、本やビデオの売れ行きと、入会者の割合は、ほぼ釣り合っていた。
 本やビデオが売れれば、入会希望者が道場に遣って来る。この図式が成り立った。
 それにつられて便乗者も遣って来る。これも奴の「読み」であった。私如きとは、頭脳構造が違っていた。同時に、よきアドバイザーだった。
 それを奴は読めた。こうした会員希望者は過去のバックナンバーなどの本を買ってくれる。奴の読みだった。一種の相乗効果が生まれていた。
 軍師・進龍一は、先の先までも徹底的に読む。そうした先見の明があった。

 ところが、進龍一がわが流から去った後の平成十四年当時、その恩恵には浴していたものの、『大東流入身投げ』で大きな躓
(つまず)きを見せた。去った後の置き土産が、ときに裏目に出たのである。悉(ことごと)く裏目に出たのである。

 手許
(てもと)に、愛隆堂の『入身投げ』という平成14年10月25日発行の初版本があれば、この書籍の88ページに撮られた写真と、同じ業を「上より見る」ではじまる90ページの業と比較して頂きたい。捌きが間違っていることが分かるであろう。根本的に間違っている。一回目と、二回目の捌きなしの動きは、読者を「おや?」とさせる。
 これは何たることか……。バカ丸出しではないか。

 私に課せられたその後の運命は、批判者から徹底的に叩かれることだった。非難を浴びせられ、罵倒されることであった。
 「曽川は、白帯からやり直せ」
 私の眼力の誤りを指摘する、批判者からの声であった。
 そしてこの声は、ネットを通じて「西郷派不買運動」へと繋がった。

 ネットでは「西郷派の一切の商品を買うな」との、轟々
(ごうごう)たる揶揄(やゆ)とともに、“アンチ西郷派”をスローガンに掲げる反対勢力は、ブラック・ジャーナリストならぬ、“ブラック・ブロガー”と使って、ネット上で、『西郷派不買運動』を大々的に展開したのである。
 以降、私が創立し綱武出版での販売商品は邪魔されて殆ど売れない。今でも相変わらずの顧客は、以前の私を知る人だけである。それ以外は『西郷派不買運動』に煽られて、「此処で買うと危険な匂いがする。金だけ騙し取られて商品が送って来ないのでは?……」とか「粗悪品を押し売りされるのでは?……」などと警戒心と疑惑を抱いている。そして実際にそうした点検も、見聞することもなしに、思い込みだけで西郷派叩きに便乗して、自らは武術研究家などの肩書きで一端の弁を叩いているのである。つまり「自称……」という輩
(やから)である。
 自称武術研究家と称する連中の多くは、一種の便乗者である。人の尻馬に乗る連中である。こうしたネット雀が、『西郷派不買運動』を大々的に展開しているのである。あたかも見て来たことをいうような講釈師のように……。

 以上のようにして、ネット雀を通じて、特に「2ちゃんねる」だが、この伝言板は、「西郷派叩きの宝庫」なっている。
 西郷派を論
(あげつら)って悪口を書けば、いつでも誰でも「西郷派叩き」の武術評論家になれるのである。
 西郷派を叩き、アンチ西郷派を掲げれば、文句なく自流や自分の所属する組織の自己宣伝が出来るからである。これを、組織の指導者から言われて、献身的に指導者に遣え、事情の分からないままそれを実行する“ブラック・ブロガー”もいる。
 あたかも前近代的な「いま売り出し中のヤクザ」のようにである。

 ヤクザの貌
(かお)を売り出しは、叩き易い者を狙う。猛禽類が空から猟をするようにである。
 かつて、一匹狼のヤクザは自分を売り込むために、自分より弱そうな親分を斬って、自分を売り出すのである。
 ここで問題にされるのは「○○組」の組員と斬った張ったの勝負をしたと言うことではなく、組は何処か分からないが、とにかく頭目の「親分を斬った。斬り殺した」ということだけが問題になるのである。何処の組の親分か分からないが、とにかく親分を斬ったと言うことだけが一人歩きするのである。この一人歩きを利用して、「今売り出し中」と言う一匹狼が、弱小集団の親分を斬り殺して廻ったのである。

 これは昔からよく遣われて来た「自分を売り込むための常套手段」である。
 よく知られた方法として、今でもこの手法が遣われる。自分を売り出そうと考える新興ヤクザなら、一番手っ取り早いのは、弱そうな親分を斬り殺し、「親分を斬った」というそれだけで、名前を売るのが一番早いのである。
 こうした隙と油断を狙われて、此見よがしに、その餌食
(えじき)にされてしまうのである。
 その応用編が「2ちゃんねる」に登場した。
 かくして、「西郷派叩き」は成立するのである。弱小団体であるからだ。
 わが流の場合、『入身投げ』が、その槍玉に挙げられた。況
(ま)して、サブタイトルが「究極の合気わざ」である。そう謳(うた)っている以上、それに同等の価値を見出さねばならない。

 ところが、間抜けな部分があった。少しばかり武術や武道や格闘技を齧
(かじ)ったものなら、誰でもその間違いには気が付く。注意深く見れば、誰にでも見抜ける間違いだ。その間抜けな部分が狙われた。

 こうした西郷派叩きと、アンチ西郷派は、意図的な不買運動をして気勢を上げる。
 更に、愛隆堂の『入身投げ』はサブタイトルが、「究極の合気わざ」と謳っている以上、「合気」にロマンを抱く読者はそれに何らかの期待を抱くではないか。
 ところがこの期待は大外れした。予想外だった。

 ここに轟々たる批判が集中した。
 野次とも罵倒ともつかぬ暴言が、電話でも、また電話の中でも「ワン切り」と言う行為で集中した。
 平成22年にこの世を去った家内は、平成14年以来、この「ワン切り電話」に悩まされていた。死ぬまでこうした電話に悩まされ続けた。そして、平成14年から22年までその非情な仕打ちに、無念の思いを抱いたままこの世を去って行った。
 面白半分のワン切り電話は、最初は恐らく一種の抗議であったろうが、「西郷派叩き」と「アンチ西郷派」に便乗して、以降面白半分となった。
 あたかも「お前のことは、今でも忘れていないぞ……」というような、一種の脅迫まがいな、卑劣な手を卑劣とも思わず、次第にこれがエスカレートし、一種の合法化と思い込んでしまったのだろう。
 家内は、死ぬが死ぬまでこうしたワン切り電話に悩まされ、平成22年、怒り心頭に発して急死した。「ワン切り電話」の主は、間接的殺人罪とも、採れなくもない。証拠が無いから、今でも温々
(ぬくぬく)生きていることだろう。

 だが、そうだとしても、やはり原因は、発端は当方にある。責任の所在は私にある。それに対して弁解の余地無しである。
 発端はこちらの誤りにあり、それを指揮した最高責任者の私にある。言い逃れは出来ない。
 完全なる間違いだった。
 100%、否200%、300%の間違いは、こちらの見逃しにある。非はこちらにある。この責任は重い。一切は私に帰る。私以外にその責任の所在は認められない。
 私が見逃したためだ。間違いの責任は、私にある。幾ら恥じても恥足りない。

 こうした間違いは、眼力の鋭い武術評論家でなくとも、合気道の初心者や他の大東流を遣っている者なら直ぐに、見抜いてしまうのである。
 この術の演武者だが、ここに掲載されている写真は同じことを二度、超遅速で、分解写真的に撮ったものだが、それにしても読者から厳しく指摘するように、見事に間違っている。
 実際に写真に撮られているから、「あれは、ついうっかりしていて……」などと言い逃れは出来まい。紅白帯をしているから「あれで?……」と、頸
(くび)を捻られ、疑われても仕方あるまい。そしてそれを与えた私も、その断罪は免れない。責任は私にある。軽薄なことをしたと責められても文句は言えまい。総ては私に帰するところだ。

 このことについては「私の履歴書」に詳しいので、詳細は避けるが、今日の低迷はこのときの反作用であったと思料するのである。この反作用の振幅は、わが流にとってはこれまで、最も大きな損害だった。金銭で購
(あがな)い切れないような信用の失墜だった。私が道場一本でメシを食っていたら、廃業どころだけではなく、今ごろ飢え死にしているところだろう。とっくに娑婆からおさらばしていることだろう。
 ところが、私の職業は道場一辺倒ではない。道場は道楽のようなものだ。職業は他にもある。それに「枯れない泉」も持っている。人脈もあるし、私を引き立ててくれる人も多い。そうした損も、余裕で躱
(かわ)すことが出来る。よくもここまで大らかさを身につけたものだ。

 世の中には作用と反作用が働いている。作用があれば、その反動として必ず反作用が起こる。このときの反作用は、巨大な波が押し寄せ、生活までもが破壊尽くされることがある。
 当時も当然のごとく、評論家の厳しい目は、反作用として現れ、「うろ覚えの徒」の、出鱈目な技は、直ぐに眼力の目を通して暴露されてしまった。この指摘は、実に厳しいものだった。
 「お前の目は節穴か!」とも言われた。

 年配者の私を捕まえて、年下が「お前、お前……」の連発である。年上に敬意を払う、そうした気配すら、“自称・武術研究家”という連中には、礼儀も作法も感じられなかった。一方的に「お前、お前……」の連発であった。あるいは年下から「曽川、曽川……」の連発であった。苗字も呼び捨てである。
 更に酷いのになると、私よりかなり年下の、あるいは十代の後半と思える若者から「曽川!……お前は、白帯から初めてやり直せ」などの罵倒が飛んだこともあった。

 こうも理不尽に、かつヒステリックに喚く動機は、未だに不明だが、かくもこのように感情的に罵倒するモラルは、一体何処から来るものであろうか。あるいはこの若者の親はどういう躾をしたのだろうか。どういう礼儀を教えたのだろうか。頸
(くび)を捻らざるを得なくなる。

 私も重大な病気を抱えている故、先はそんなに長くはないが、また娑婆にも長居しようとは思わないが、是非とも冥土の土産で、この若者には是非あってみたいものである。そして願わくは、老いぼれと「真剣で、サシでお手合わせ」などとも……と考えている。余程の、自信家なのだろう。冥土の土産に、この自信家に遭ってみたいものである。

 この種の自信家からは、ワン切り電話とともに、多く罵倒と罵声を頂いたのである。そしてあれから、十一年の歳月が流れた。それでも陰口は消えない。未だに非通知でワン切りが続いている。
 人の噂は七十五日ではなかった。七十五日どころか、十一年以上も続いている。十一年を延べ日数に直すと、四年に一回の閏年も入れて、その全日数は4017日となる。75日の53倍強である。75日が53倍連続して起こったとしても、まだこれらの悪戯は消えないのである。
 悪質なるストーカーより、更に悪質と言えよう。此処までくれは悪質などではなく、悪辣
(あくらつ)である。あるいは人間が壊れているのか。日本人も落ちたものである。

 「お前のことは決して忘れていないぞ……覚えておけ……」などと、脅しを今でも、深夜電話に掛けられることがある。落ちた日本人から、である。
 落ちた日本人は巧妙な手を遣う。公衆を遣い、あるいは非通知にして自分を隠す。実に質が悪い。一人の人間を此処まで徹底して恐喝する理由は何であろうか。あるいは何処か神経の一部が壊れているのだろうか。
 初版本の『大東流・入身投げ』の定価は、本体が1800円で税がプラスされていたから、もしこの御仁がこの本を買って怒り心頭に来たのなら、丸損したとして1890円だが、この程度の金額でいつまでも付け狙われることは、実に腑
(ふ)に落ちない話である。

 そして一旦こうした過ちを起こすと、この修復には十年、十五年、あるいは二十年以上も懸かるかも知れないのである。修復には時間が掛かるものである。あるいは一旦叩くための烙印が押されたら、それは永久に続くのだろうか。
 そこで私は、一つの想起をした。戦法を変えた。運営法を180度回転させた。
 それは昭和30年代、40年代の指導法に戻ることであった。当時の遣り方は、大衆化と違って裾野を広げることは出来ないが、しかし転写においては正しく伝わる。伝承が正しく転写される。

 それを実行するためには、何をすればいいか?……。
 伝達の“また転写”の間違いを抑えるためには、個人教伝しか無いと……気付いたのである。
 その効果は予想通りに刻々と効果を顕し始めている。
 これまで苦しんだ分だけの、反作用か……。そうした好転を暗示する運気が巡って来た。
 そういう現象が起き始めている。
 想起は功を奏した。
 これで一件落着とは行かないが、心ある理解者が、この日本のもまだ居たとは、日本人も捨てたものではないと思うのである。此処に来て、蘇る日本人を見た。大東思想の分かる日本人を見た。それは奇
(く)しくも内輪でなく、部外者に居た。

 これを改善し修復するには、個人の能力に合わせた個人教伝においての、一子相伝ならぬ「一子直伝」が最重要課題と信じるのである。それが想起の動機である。
 また、それが近年当時の深い反省を伴って、その後の展開方法となった。

 道場は、スクールではない。
 一子直伝の場である。そう確信した。
 霊的磁場の拠
(よ)り所であり、かつ、神の「憑代(よりしろ)」である。神が憑(つ)き、鎮座するべき場所である。結界内には、神が降臨する聖域となる。
 神の加護を得るしかあるまい。
 そして、はたと思い当たることがあった。
 私が、わが流は深刻な問題を抱えていると気付き始めたのは平成6年頃からである。同時にその年は、内弟子募集を開始した時期でもあった。一子直伝の計画は、既にこの頃から行動を開始していたのである。

 既にこのときは習志野を去り、愛知県豊橋を経由して、滋賀県大津市瀬田に家族とともに転居していたが、その時に後継者の重要性を私の説いたのが進龍一だった。血筋から誰かを出して、正確な転写の出来る者を「一子相伝」で残しておかなければならない重要性を進は口喧しく説いたのだった。

 そのころ私は、漠然とした行動の中に、何かの暗示が含まれていた。暗示の中には、今後の重大な意味が含まれていた。生き残るための、また名誉挽回するための自然発生的な策である。
 私はその自然体に従った。作為を催さず、素直に従った。捨てる神がある一方、拾う神もあるのである。
 つまり、大衆化以前に戻すことであった。
 一子相伝の場を作ることであった。否、この場合は「一子直伝」だろう。一人ひとりに転写して行くのである。
 こうなったのは、うろ覚えの転写の場を駆逐しなければならないと考え始めた頃からだった。自然体で発した無為自然こそ、それは人知の策より最上であるからだ。

 特定の、身体能力があり、聞く耳を持つ、而
(しか)も志を同じくする、そういう同志に対し指導するという遣り方を、近年に展開し始めたのである。
 平成20年になると、それを理解する同志が顕われ始めた。一人、二人、三人とである。聴く耳を持った者が、まだ日本には居た。私の現に耳を傾ける、そうした良識派の武人が、まだ日本には居たのである。崇敬する人達である。
 その指導法は単に、武技のみを指導するのでなく、人生全般に絡む、人間道を展開し「依
(よ)って以て死ぬ道」であった。これに賛同する同志も少なくなかった。

 「この道のために死のう……」という、道のために死ぬ、崇高なものを目指しての、基礎固めから始まる「第一歩」を展開したのである。同志諸氏は、大旆
(たいはい)の下に集まり始めた。侠気の勇士たちであった。男気を持ったサムライたちであった。
 
一子直伝の大事は、この第一歩から始まったのである。
 そしてこの試みは、道場生会員の趣味人とは異なる、別次元の展開であった。
 それに序列を付ければ次のようになる。そしてこの序列は、わが流が実施した昭和30年代から40年代の懸けての指導順位を基礎したものである。

『西郷派大東流・道場序列』
順位
順位別の門人ならびに道場生のこれまでの評価
門 人
第一位
内弟子出身の師範号を持つ者(これまでに一人も居らず)
第二位
長きに渡り、個人教伝課程を受けた皆伝師範ならびに正師範(過去に岡本邦介氏のみ。氏は当時八光流の皆伝師範であり、会得したか否かには関 わりなく二年間に渡り、北九州で五十回以上の宗家直伝を受けた。月に二回以上教伝を受けたように思う)
第三位
道場生として入門し、またはその後、宗家の直伝指導を受け推薦により所定の課程を修了した各技法皆伝者、あるいは正師範・准師範・指導員(正式な る授与式を負えら者をいう)になった支部長・道場長などを肩書きとす。正式直伝者という。
同位は、紋付袴に身を固め、正式に印綬の授与式を終え正師範・准師範・指導員の称号を持つ者。
第四位
本流の指導以上か、いずれかの武道や流派に属し、師範あるいは六段以上の有段者で、現在個人教伝を真摯に礼儀正しく、古式の作法に則って直伝を受けている教伝者。
第五位
尚道館内弟子修学生(四天王・八天狗の養成であるが、内弟子修行に耐えられた一年以上の者。現在までに二名で、この二名も、二年目に挑戦するも挫折し、以後脱落。現在皆無)ならびに個人教伝の直伝を赦された者。
 また、尚道館まで出向き、師範号授与式に参列し、紋付袴の正装に身を正し、宗家より直接、師範帯と師範免許を手渡された者。
正道場生

正会員
第六位
十年以上、何れかの支部道場に所属し、推薦により現在の段位を所得して、紙切れの段位にスライドした、それぞれの師範号を便宜上名乗っている者(正式に師範号料金を納め、紋付袴に身をただし、各師範号授与式を終えた者でない。本来は段位と師範号は別物。また各儀法の修得者でない)
師範といわれる者は、正しくは尚道館まで出向き、紋付袴により恭しく授与式を終えて印綬を受けた者でなければならない。そうでない場合は、一等ランクが落ちる。
 したがって、一等高い門人とは呼ばず、正道場生と呼称する。あるいは一般に道場生と称したり会員と呼ぶ。
准道場生

準会員
第七位
各支部に所属して総ての昇級課程を終了し、正初段以上を実技試験と筆記試験を通じて、本来の「自分の実力と技倆」で取得した者。
第八位
同じく推薦により、初段補または正初段以上を取得した者。
第九位
同じく昇級過程にあり、いすれかの級位を取得する者。
第十位
入門して一年以上を経た白帯(白帯は白帯である以上、いつまで経っても「見習い」である。昇級しない白帯は、第十一位の見習いと同等に扱われる。一年以上経っても、白帯で居る者は“自分は到底その実力でないと”自称「遜(へりくだ)っている」か、昇級で払う昇級料が勿体ないと思い込んでいる輩)
准道場生見習い
第十一位
一年未満の白帯。

 以上がわが流の序列であり、伝統武術の為来(しきた)りから言うと、門人と道場生との格差は如実である。
 修行は極め尽くす修行と趣味人の稽古事に分かれる。極め尽くす修行者は、また求道者でもあり、道を需
(もと)める行為には難解なものが多い。多くの段階を踏んで上に上がって行く。
 技術・才能・素質などがある者でも、一度は自尊心を叩き潰されて、どん底に落ちて見なければならない。
 一切、自己という者を否定されて、涙が出るほど悔し泣きして、苦悩し、迷い、進むべき方向までもを見失いながらも、光明の一点を見つめて、絶望のドン底に叩き落されなければならない。もうこれだけで、求道者は趣味人とは異なる道を進んでいることが感得できよう。どん底から這い上がる自力移動である。

 この一点にこそ、個人教伝の大きな意義を見出すことが出来るのである。
 道は、趣味人のものでなく求道者のものであり、そこには厳粛な秘事があり、それを段階的に踏んで次なるステップに上がって行く礼儀作法を行わねばならない。神仏を媒介させ、神妙に礼儀作法を踏まねばならないのである。
 道場とは霊的な神域でもあり、娑婆とは一線を画した聖域なのである。これを安易に、有耶無耶にして通ることは出来ない。求道者ならば、誰もが通る関門である。そこを通過せずして、向上はあり得ないのである。
 往時より、求道者はこれに命を張り、「依
って以て死ぬ道」を探求したのである。



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