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金銭哲学と金運考 3

金は天下の回りもの。必要な人のところには、必要な分だけ廻って来る。
 金の流れに堰
(せき)を作り、必要以上に自分の懐に貯め込むと、循環する道筋が途絶え、やがては金銭的動脈硬化を起こす。それがまた、見ていても気の毒なくらい惨めで、富みは、諸刃の刃(やいば)で切り裂かれることになる。あたかも、それは太鼓の皮を切り裂くが如し。金銭は諸刃の剣であるから、遣い道を誤るとその反作用は大きい。

 打てば響くのが太鼓であるが、太鼓の皮が切り裂かれては、太鼓としての遣い道のない。叩いて呼べども、人が集まらない状態となる。太鼓は響く皮があることで人が集まって来るが、皮がズタズタに切り裂かれていては、太鼓の用は為
(な)さない。破れ太鼓では用を為さない。

 しかし、このことに気付かない現代人は多い。

 自分自身を傷付け、危険な状態でも、自らの皮を中毒患者のように、訳も分からず切り裂いている人が居る。
 金銭は遣い道を誤ってはなるまい。もし、財産の確保と、隠匿に必死になるような状態に陥ったのなら、それは没落の暗示であると思った方がよいであろう。貯め込む金は循環することを失い、確実に、然も着実に、人の心を蝕んで行くからである。



●金運に関する書籍について

 金運を得るには、金運信仰をしても、本当の効果は得られない。
 昨今は若いタレント等に、ウソの証言をさせて、某占い作家が、金運信仰をすることによって大金運を掴むとした神頼みを流行させているが、これは瞞
(まやか)しであり、どうして「貸借対照表」や「損益計算書」の数字が読めない人が、大金運など掴む事が出来るであろうか。ドンブリ勘定では、金運など呼び込めないのである。

 金銭哲学は神頼みではなく、自分自身に課せられた浪費癖を抑制し、制御する、金銭に対する意識なのである。こうした意識は、狂わせないばかりでなく、また、金運と言う妄想を抱かず、出納帳での数字に強くなる事だ。これを失うと、浪費が始まり、金は自分の手許
(てもと)から、どんどん逃げて行ってしまう。
 自分の「資産の部」と「負債の部」の判断を出来ない人が、果たして金運を掴むチャンスに恵まれるであるうか。おそらく、借金の為に借金を繰り返す人である。これこそが金融経済の利息が利息を生む、消費社会の構造を明確にしているのである。

 人間社会には、多くの無知が蔓延
(まんえん)している。
 その一つが、金銭の持つ本当の威力を知らないことである。多くの人を相手に、大きく口を広げて横たわっているのは、金の威力を知らないと言う「無知」からくる落とし穴である。金への無知は、人をこうした落とし穴に陥れる。そして無知が恐怖と欲望を増幅させ、感情によって仕掛けられた、落とし穴と言う罠
(わな)は、無知であればある程、容易に嵌り込んでしまうものなのである。逆に言えば、金貸が儲かる経済構造は、此処にある。

 その一つが「金運信仰」という愚かしい考え方である。果たして、金銭を神のように拝んで、金はやって来るのであろうか。拝む方が賢いのではなく、拝ませる方が賢いのである。
 よく、一般的な金運信仰として、日本では稲荷信仰が上げられる。
 稲荷尊
(いなりそん)は、五穀(ごこく)を司る倉稲魂(うかのみたま)を祀(まつ)ったものであるが、御食津神(みけつかみ)を三狐神(みけつかみ)と付会(ふえ)して、稲荷の神の使いとする俗信から、「お狐様」の俗称で親しまれている。

 稲荷信仰は、農耕神信仰から商業神や屋敷神など多岐の信仰に拡大し、全国的に広まった信仰である。京都市伏見区稲荷山の西麓にある伏見稲荷大社を中心とし、各地に稲荷社が勧請されている。そして狐を神使とする。

 近代に於ては、各種産業の守護神として一般の信仰を集めた。稲荷社に参詣することを「福参り」ともいう。これは二月の初午
(はつうま)の日に行なわれ、この日を蚕(蚕日待(かいこまちび)とも言い「おしら講」とも言う。関東の養蚕地で蚕の神を祭る行事。女ばかりの会合で多く正月に行われる)や牛馬の祭日とする。
稲荷神社と言う魔界。稲荷信仰は、農耕神信仰から商業神・屋敷神などから信仰されたが、その背景には、お伽話(お‐とぎばなし)の『花咲爺(はなさか‐じじい)』などに見られるように、一種の金に絡む問題が隠されていた。
 この話の内容は、枯木に花を咲かせたという翁のお伽噺である。更に、愛犬報恩の物語に、欲の深い老人の物真似や失敗談を加えたものだが、常に金銭が絡み、権勢側の支配欲に従順になる庶民の姿が描かれている。また、この話ができがあったのが、室町末期か江戸初期頃だったことから、時の体制下の庶民のあり方が、従順に忍従することを示唆している節がある。
 さて、こうした事が一種の信仰であり、神聖なもの(絶対者・神をも含む)に対する畏怖(いふ)からこれを行なうのは構わないのであるが、いつしか共同の利益を求め、宗教の体系を構成し、集団性および共通性を有するようになると、もうこれは感情と言う欲望だけが露出する表現性が浮上して来る。

 そして私たちが考えなければならない事は、御利益
(ごりやく)を願い、奔走する祖の姿は、魔界のそれであると言う事だ。
 魔界のものはマイナスのエネルギーから発し、「魔」をもって御利益とするところに魔界の想念が潜んでいる。

 つまり金持ちになる為の、金運信仰に当たり、神棚を用意し、これを拝むと言う露骨な表現性である。果たして、信仰だけで本当に金運を得る事が出来るのであろうか。

人はまるで、パチンコ屋のネオンに惹き付けられるように、稲荷神社の魔界の灯りに、ふらふらと惹き付けられる。

 システムと言う、複数の要素が有機的に関係して、機能を発揮する間はいいが、これは作られた当初のみである。作られた当初は、全体的に纏まり、組織的、系統的仕組みは活動エネルギーが旺盛であるので、非常によく働き、生命力も旺盛である。しかし、システムと言うものは、人間の頭脳より派生したもので、時代を重ねると共に疲労が顕われる。

 人間の人体においても、年齢と共に故障箇所が多くなるように、システムにも、自体の予測不可能な事象に支障が来してくる。
 特に、稲荷信仰などの魔界のマイナス・イメージで作り上げたものは、このエネルギーが逆行し、人間に災いを齎
(もたら)す元凶となる。

 また、魔界を形成する土地のエネルギーも、次第に威力を失い、魔物が住み着く本拠地となる。時間や空間の疲弊
(ひへい)に耐えられなくなるのである。
 それは丁度、地理風水で言えば、喩
(たと)えば竜神は、鬼神にして、呪いの神である。この呪いの神というのが、此処に位置する神が「魔界の神」であるということを克明に顕わしている。
 したがって、これを風水思想に当て嵌めて、考えれば、竜の気が立ち顕われる水の流れが大事であるが、水は時間と共に涸
(か)れる場合がある。水が涸れれば、竜神は機能を発揮しなくなる。

 水の欠乏で、竜神は封じられ、隠蔽
(いんぺい)され、これと引き換えに「魔的な雅(みや)び」が姿を現わす。魔的なものがあらわれるという現象は、瞬間的に何かを突き破るエネルギーの噴射であるから、こうしたものは、人為的に仕組まれる場合が多い。
 喩
(たと)えば、株価の暴落などである。人為的に仕組まれ、魔が噴出した瞬間が、仕組まれた結果として上下動向をする。
 一般人の多くは、こうした上下動向の仕掛人に踊らされてい溜と言っても過言ではない。煽動
(せんどう)され、踊らされると言うのが、その他大勢の「大衆」という生き物の実体である。これは経済生活にも如実に顕われる。

 もし貧乏が発生し、金詰まり現象が派生すると言う事実は、実はこうした無知と、貧乏であると言う恐怖が招き入れている現象なのである。
 まず、金は拝むよりは、金と言う生き物を「どう扱うか」と言うことが大事である。金と言う、金銭の多少を唯一の条件として、物事を判断しようとする「金銭尽
(きんせんずく)」の強欲さは禁物である。これは心に巣喰う恐怖となり、多くの人は、こうしたものに翻弄(ほんろう)されているのである。

 「金運」等と称した書籍には、金銭信仰や運勢論以外、何一つ書かれていない。金は信仰や運で転がり込むのではなく、これは「扱い方」で決定されてしまうのである。
 昨今は「金運」等と称して、金儲けに至る「神業
(かみわざ)」を書籍に著してマニアル化し、こうした祀(まつ)り方をすれば良くなる等といった愚かしい信仰が流行しているが、金銭と言う生き物に対し、こうした方法論は一切ない。
 神棚を祀
(まつ)ると言う行為は、神との交流の場を求めて遣(や)る行いではなく、こうした、拝んだり、柏手かしわで/神を拝む時、手のひらを打ち合せて鳴らすこと)を叩く等の、祭事を行なったりするのは、単なる形式であり、型の一部に過ぎないのである。

 しかし、博奕
(ばくち)に手を染め、小ギャンブルを含めてこうしたものに手を出し始めると、縁起を担ぐようになる。金運が少しでも授かるように、拝みたくなる。だが、この時、既にその人の金運は逃げ始めているのである。神仏に手を合わせ、神頼みが始まれば、それは衰運の兆候であると言える。

 肝心なのは、拝む時の正しい想念であり、型を踏むのは、高き想念で、唸
(ねん)を念じ易くする方法論に過ぎない。念じることは、やがて唸(うな)りとなるのである。
 したがって、「金運」と聞けば、何でもかんでも拝んで、礼拝すれば良いと言うものではない。むしろ利己的な気持ちで拝めば、利己的な世界との交流が始まり、かえって貪欲な悪霊に見入られてしまうことになる。

 そして金を追う意識は、目先の事のみに囚
(とら)われてしまって、本来近付くべきはずの神仏の世界からは、遥か遠くに離れてしまい、邪気に汚染されてしまうものなのである。
 特に、自分の為に利益誘導する、自分だけの限定された狭き神は、小さく凝り固まった自己の願望すら破壊してしまうのである。

 そして絶対に忘れてはならないことは、同じ金でも、労働によって神徳により頂いた金と、ツキやメグリによって、博打等で得た金とは、全く違うと言うことを強く認識すべきである。
 「金運」あるいは「金の儲かる法」等と称した書籍は、一種の「HOW TOもの」と看做
(みな)されるが、金運がつき、金儲けが簡単に出来るのなら、本など書かずに、著者自らが自分で儲けてしまえば良さそうなのであるが、もっともこうした著者が、ベストセラー作家として持て囃(はや)されるのであるから、著者自身が中々抜け目のない、狡賢い人間であると言うことが分かる。

 これは丁度、金運祈願の戎
(えびす)神社にお参りする人よりも、「戎神社」が儲かると言うわけで、また、易者にしても、人の運勢が良く分かると言うのであれば、寒空の夜中に立つ必要もなく、自分で立て卦(け)を自分に使って、もっと大金持ちになっても良さそうなはずだがが、どうしたことか、こうした易者や占い師には出会った事が一度もない。
 ギャンブルだって、自分がやるよりも、人にやらせる方が絶対に儲かるのである。

 運勢や金運を扱った書籍の多くは、自分がやるよりも他人にやらせて、それを傍観
(ぼうかん)すると言うものであり、もし、こうした書籍がベストセラーになって、年間何十万冊、何百万冊もの人が読むのなら、それだけで不況等はないはずであるし、世の中は幸せな人で溢れていなければならないはずである。
 しかし事は、思うように運ばない。

 これは一体どうしたことであろうか。
 即ち、表面に現れた結果だけしか見えない人は、「簡単」で、しかも「直ぐに結果の得られるもの」に飛びつくからである。つまり「期待」という、他力本願を信じて、尋ね歩いているからである。そして金銭哲学に対する実務等を、後回しにしてしまう。

 果たして貧乏をしている人が、金銭信仰や運勢以外の知識を持ち、『貸借対照表』や『損益計算書』の数字に通じているであろうか。
 また「資産の部」と「負債の部」の違いを明確に把握しているであろうか。
 金持ちになる為には、金銭信仰や運勢の知識を詰め込むのではなく、資産と負債を違いを知り、まず資産を買わねばならないのである。これが金持ちになる為の第一の鉄則であり、神棚に手を合わせて拝んだり、九星気学の方位や日取りを勉強して、それに合わせて行動をすることではないのである。

 貧乏で、金詰まり現象にいつもヒイヒイ言っている人は、『貸借対照表』や『損益計算書』の意味が解らず、また人生の設計も立てられないから、金に困るようになるのである。
 もしあなたが、金詰まりで悩んでいるのでしたら、まず「資産」と言う数字に強くならなければならず、この意識が欠けていれば、幾ら金銭信仰や占いを信じて動いても、全くの徒労努力と言うものなのである。

 上流階級の28分の72の「28」に属する金持ちは、資産を手に入れ、逆に72分の28に属する中流階級以下の人は負債を手に入れるのである。またユダヤ黄金率は、資産全体の28%が金持ちのものであり、このうち負債の72%が中流階級以下の人のものであると言われる。

 そして負債を買うから、貧乏で、金詰まり現象にいつもヒイヒイ言っているのである。
 こうした悪循環から抜け出す為には、まず負債を買わないことであり、浪費の為の浪費の借金をしないことなのである。
 しかし現実は、多くの人が負債を抱え、死ぬまで負債を払い続けるラットレースに与
(くみ)されているのである。まず、こうしたラットレースの輪から、抜け出さなければならない。



●正常な金銭感覚を持つ

 フランスの諺(ことわざ)に「金は良き召し使い、そして悪しき主人なり」というのがあります。また、「金は麻薬なり……」という諌言もある。

 金と言うものは、程々に入ってきて、その枠内で適当に循環し、回転している間はいいのですが、こうした循環に飽き足らず、欲を出し、少しでも背伸びをすると、立場が逆転してしまい金の奴隸になって、それこそ地獄の様相を呈します。金は麻薬の観があるのである。そして金銭に対する感覚は、これが一旦崩れてしまうと、麻痺に要する時間は差程かからない。

 また、金は自分の手許に置いて、適当に遣い、枠内で循環している間はいいのであるが、買物や旅行や飲食をするのに、クレジットカードやサラ金カード等を遣い始めると、最後にはその虜
(とりこ)になって、この底無し地獄から抜け出せなくなる。
 その結果、戸籍を汚したり、身を売ったり、臟噐売買の罠
(わな)に掛かったり、人身売買組織のカモになり、身包み剥(は)がれて売り飛ばされると言うのは、芝居の上での作り話でなく、現実に存在し、これまでに培った理性も分別も、人生の設計までもを犧牲にしなければならない。また、あらゆる常識を投げ捨てて、獣同様の動物に成り下がるしかない。

 こうした愚行を避ける為にも、金銭哲学を上手に身に付け、『貸借対照表』や『損益計算書』くらいのものは熟知しておく必要がある。貧しさの根元は、収入が少ない事ではなく、収入内で生活する智慧
(ちえ)を持たない事であり、少ない収入を上手に遣(や)り繰りしながら創意工夫をして、現状と言う局面を乗り切るしかないのである。

 正常な金銭感覚が身につけば、借金で買物をしたり、旅行をしたり、飲食をしたりという生活の在
(あ)り方が間違っている事に気付く。また、充分な頭金(不足分を借金する時は、全体の二分の一を用意するのが常識)を用意せず、マイホームを建てたり、車を買ったりと言う事が間違いである事に気付く。そして大ローンで買った、これらの総ての物が、実は資産ではなく負債である事に気付くのである。
 安易に、「家賃感覚……」等という販売業者の口車には乗るべきではなく、慎重の上にも慎重を帰すべきである。

 僅かな貯えや、足りない分はローンで……と言う安易な考えは捨てるべきであり、今はじっとして、耐える時期なのに、これを無視して無理をすると、やがては支払に行き詰まり、支払の為の支払が始まり、後は坂道を転げ落ちるような地獄へと転落していくのだ。



●中産階級がラットレースに嵌るメカニズム

 ラットレースに与されてしまう大きな要因は、ローンに対して余りにも無自覚であるからだ。
 まず、マイホーム主義的思考の人が、一番先に、こういした罠
(わな)に嵌(はま)り易いタイプの階級層と言えよう。
 喩えば、最初、金銭的には何も不自由してなく、順調に大学あるいは専門学校を卒業し、会社に勤めたとしよう。就職して二、三年も経つと、仕事に段々慣れて来て、金銭的にも余裕が出来はじめ、貯金も少しずつ溜まり始める。

 更に、就職後五年もすれば、預金額も2、3百万と、独身貴族時代がやって来て、海外旅行をしたり、あるいは預金の一部を頭金にして、マイカーを購入したり、その他の便利な電化製品も買い揃
(そろ)えていく。
 この時点では男性も女性も、ほぼ同じラインに並ぶ。就業して所得を得ている人であれば、余り大差はないだろう。

 ところが、ここからが変化が起こり始める。最初は狭いアパート等に住んでいて、いつの間にか、知り合った異性と恋愛関係に入る。そしてその後、同棲し、同棲後、結婚へと至る。現代では、中産階級層の、男女の恋愛結婚のパターンは、これと似たり寄ったりであろう。

 本来ならば、上流階級層で行われている結婚へのプロセスは、女性の場合、処女のまま嫁に行くと言うのが、「乙女の夢」であったのであるが、マスコミや世論の誘導により、性モラルが崩れ、こうした処女は、中間階級以下の子弟では、殆ど探すのが困難になった。階級が下がる程、処女意識は低く、世相に流される風潮があるようだ。

 さて、恋愛によって男女が結婚することになる。結婚すれば、今まで住んでいたアパートは狭くなり、ここで広いマンションへと引っ越しを始める。
 二人が一つの場所で住むのであるから、一人で暮らすよりは諸経費の出費も割安になることに気付く。安くなった分だけ、貯金に回せて、最初はこうした共働きが功を奏したように映りはじめる。「割安感」という錯覚に陥るのである。
 最近の流行語に「激安」などの言葉があるが、これは庶民に安易な消費を促す金銭麻痺の言葉であると言えよう。そして、言葉のマジックに嵌り、正しい金銭感覚を失って行く。

 さて、若い夫婦は、次に子供を生む事を考える。妻は子供を生む為の準備をして仕事を辞め、専業主婦として家庭に落ち着く。日本では、こうした結婚と、結婚後の人生設計が一番多い形のようである。
 やがて最初の子供が生まれる。更に、一人っ子では寂しいと言うわけで、二人目を生む計画を立てる。そして無事二人目が生まれ、これから親子四人の生活が始まる。

 子供も段々大きくなり、新婚当時引っ越したマンションでは手狭になり、思い切って、今まで溜め込んだ貯金を頭金にしてマイホームを建てることを決意する。そのマイホームの支払い年数は30年程度であり、夫の定年の頃に、やっとその払いが終わるという形である。家が完成し、引っ越しが行なわれ、引っ越し後の生活は、最初はマイホームを持ったことから非常に嬉しく、楽しいものである。誰にも邪魔されない塒
(ねぐら)を持っていることが、一種の優越感を生む。

 しかしここにも、既に罠が仕掛けられているのである。不動産取得税と、毎年ごとに払う固定資産税である。
 そして家族構造は、現代の日本では、どうしてもマイホーム構造の家庭が出来上がっている。

 夫は家族の為に、残業を苦にせず働く。やがてマイホーム構造の欠陥が浮上して来る。
 いつの頃からか、夫はこんなはずではなかったと言う、「夫の座」がないことに気付かされる。夫は早朝の満員電車に揺られ、遅くまで働き、たまには憂さ晴らしに、同僚や上司との飲食に付き合い、そして夜遅く帰って来る。
 家庭に帰ると、夫は自分の座がないことに気付かされる。確かに坐
(すわ)るポジションとしての「座」はあるが、それが余りにも小さな事に気付くのである。仕方なく、小さな座に坐らされ、僅かな飲食がそこで振る舞われる。

 一方妻は、大きな座を持ち始める。これがマイホームの恐妻家構造である。
 妻は、家庭の行政及び子供の教育に至るまで、一手に引き受けるようになり、特に受験勉強に関しては、我が夫より、一ランクも二ランクも上の一流大学へと進路が定められる。やがて子供の塾通いが始まる。
 こうした進路設定も、妻の独断で決定され、万一起こるであろう病気や、栄養状態をよくする為の現代栄養学の最新知識までが妻の手に委ねられる。更には、蓄財方法や老後の余生の人生設計まで、妻の手で事が運ばれ、夫は、ただこれを周囲から、一切の口出しをせず、優しく見守ると言うのが夫の課せられた、以降の役割となる。

 ここにマイホーム構造を持った家庭構造の「妻主夫従」の倒錯した、家長不在の家庭が出来上がる。
 さてこうして、結婚から子供の出産、マイホームの購入、それに伴う不動産取得税と、毎年ごとに払う固定資産税、当然収入も上がり、支出も増え、同時に所得税も上がる。また、マイホームを手に入れたことで、新居に合わせて、車庫に納まる少し大きめのファミリーカーを購入し、家具や電化製品も買い揃える。

 こうして子供も大きくなり、教育費の支出も次第に大きくなって行く。しかし、住宅ローンや車のローンで負債を抱え込み、知らぬ間に、ラットレースの罠に嵌ったことに自覚症状はない。ローンで購入すると言うことに麻痺
(まひ)し、その背後に、金利か掛かっていると言うことを見落としてしまうのである。
 夫は家族を抱えて、懸命に働かねばならない。収入が増えれば税金も高くなり、日本の累進課税制度は、こうしたマイホーム型家庭構造を直撃する。

 更にこうした現状に、今までクレジットカードで買った、様々なローン請求が追い打ちをかける。そしてこの夫婦は、自分達の消費癖が収入を増やしている必然性に全く気付かないまま、ジリジリと金詰まり現象に陥って行くのである。そして最も大きな罪状は、マイホームや自家用車等の、ローン支払中の不動産や動産を、「自分の資産」と思い込んでいることである。

 こうしたラットレースに与
(くみ)しているのは、何も個人ばかりではない。今日の中小の企業体や、個人経営の商店も、こうしたラットレースに嵌って、自転車操業をしている経営者が少なくないのである。



●物と言う生命体

 物と言う存在は、一種の生命体である。したがって、この生命体は、これをよく生かす人の処に集まる法則を持っている。物は「生きもの」である。生命体である。
 肉体も物である。そこには、「物」としての生命体がある。だから「物」は、総
(すべ)て生きている。道具も、衣類も、大地も、住まいも、金銭も総てみな生きている。そこには生命がある。

 こうした物は、大切に、大事に、心から慈しみ、労って使えば、その持ち主と為に喜んで働き、喜んで仕えてくれる。
 一方、粗末に、投げやりに、残酷に酷使すれば、持ち主に反抗するだけではなく、時には憤怒
(ふんぬ)を露(あらわ)にして、大きな反撃を試みるのである。

 例えば、怪我をするという事故が起る。あるいは病気になる。交通事故に遭
(あ)う。パチンコや競馬や競輪などの小ギャンブルで、なけなしの虎の子を失う。金銭を騙(だま)し取られる。詐欺にあう。リストラされる。倒産する。
 こうした不幸現象に見舞われるのは、「物」を大事にしなかった為である。大切に慈しみ、愛情を注がなかった為である。物は、ただ酷使すれば、反抗し、ついには反撃を試みるのである。

 自分の肉体を、「自分の物」と考え違いして、苛め抜き、酷使すれば、必ずこの後遺症が出る。何処か故障する。これが怪我であり、病気である。
 朝晩、道具を拝むようにして働く職人や農夫は、その道具で怪我をするという事は殆ど無い。仮に怪我をしても、軽症で済み、治りも早い。逆に、不平や不満の言い、愚痴
(ぐち)をこぼし、仇敵を憎むように、奴隷の如く、物を酷使すれば、物は人間に反抗を企てる。

 仕事に精魂
(せいこん)を傾け、吾(わ)が魂を打ち込むように、また物の有り難さを知り、物によって自分が生かされている事を知っている人は、物の手入れが良く、物を大事にする。物の寿命を伸ばし切る。決して、仇敵を憎むような、残酷な酷使はしない。

 物と言うも実体は、吾
(わ)が手足の如く、意の儘(まま)に使い、才能や素質を傲慢(ごうまん)に振りかざすように使うだけでは駄目である。衣服にしても、単に好みで色や柄を選択し、形が気に入っているだけという考え方で、着こなすだけでは駄目である。

 職人や生産者は生産品を、農夫は農産物を、我が子のように愛するが如く、慈しんで育てなければならない。こうした借り物に、殺生与奪の権利は人間側にない。
 世の中には、生き物を育て、この生き物を換金して生きている生産者がいる。特に、牛や豚を飼い、それを丸々と肥らせて、歩けない程に畸形
(きけい)に育て上げ、霜降り肉と称して、これを仲買人に高く売り付け、財を肥やす傲慢な生産者がいる。畸形に育て、高く売りつけるのである。そして、これを口が驕(おご)る人間に喰わせる為に、屠殺する者がいる。
 このプロセスを見ただけで、彼等は「物を大事に使い、慈しんでいる」と言えるだろうか。
 また、屠殺後の動物達の魂が、どのように苦しんで沈み、冥界
(めいかい)で迷っているか、その現実を考えた事があるだろうか。

 総ての「物」を象徴し、これを財の頂点においたものが、「金銭」である。
 「金」という生き物は、「物」の中でも非常に敏感な生き物である。したがって、金銭と言う生き物は、これを大切にする人に集まって来る。決して、浪費家などには集まらない。

 かつて富豪と言われた人達は、金銭を持ち歩く時、胴巻きに入れ、現金を我が子のように肌身は出さず持ち歩いた。また、ある金持ちは、各々の札に、アイロンで伸
(の)しをかけ、皺(しわ)を伸ばして大切に札入れに入れた。人込みの雑踏の中を歩く時は、札入れをしっかりと押さえて、隙(すき)をつくらなかった。
 しかし、こうした事は、金銭を大事にする表皮的な、ほんの一面であり、本当に大事にしていると言うことには当たらない。

 金銭を大事にするとは、無駄遣いをしない事であり、更には、使う時には、充分に生かしきって、これまでダムの水をコツコツと堰
(せき)止め、溜め切った水を一気に、有効に遣う事である。これが物を生かし、充分に遣い切ると言う頂点なのである。

 物は紛
(まぎ)れもない生命体である。物は、人間と同じように生きている。それは肉体を見れば明らかであろう。生きているものを生かし切る事が大事である。酷使するのではなく、生かし切る為には、愛情を持ち、慈しんで、大事に使うことが肝要なのだ。

 人が、徳に高い人に集まり、その教えを請
(こ)おうと、その人の許(もと)に集まるのは、徳に高い人が、多くの智慧(ちえ)を授け、その教えを何人にも平等に説いている為である。また、徳の高い人は、人と言う一種の物を、大事にし、大切にし、愛情をもって慈しみ、そうした心の度量と、何人も同等であり同等であるという平等観が人々を惹(ひ)き付けて止まないのである。

 徳の高い人は、人を理解している。人を理解するからこそ、また物も、少しでもよく働かせてくれる人の処に集まるのである。
 傲慢人に、徳の高い人間は居ない。ただ中傷誹謗するだけで、こうした愚行を正義と考える愚か者に、人は集まらない。一度訪問したら、傲慢を見抜かれて、次に訪問する事はない。

 傲慢人ほど、「ケチ」である。物に執着は強いが、大事に愛情をもって慈しんでいない。ケチケチするのは、物を生かして遣っていない証拠である。これが金銭ならば、全く生かして遣っていない。ただの出し惜しみをしているだけである。資産家でも、出し惜しみをすれば、ただの一介の金持ちではあろうが、「有徳の士」とは言えない。
 有徳の士は、必要とあらば、大胆に、喜んで直ぐにこれを出すものである。それは、金銭の働きを充分に知っているからだ。

 我欲で、金銭を一人占めし、自分の為にのみ遣う事を目的に貯蓄する者は、活動したい、世に出て働きたい、我が子を、親の手許
(てもと)に、勝手に縛り付けておくようなものである。箱入り息子、箱入り娘にした結末が、一体どうなるか、想像に難しくない。単に世間知らずだけでは済まされず、人に喰われ、人生に躓(つまず)く暗示は明白であろう。

 昔から、「可愛い子には旅をさせろ」と言うではないか。見聞を広め、智慧
(ちえ)を養い、こうした真の愛情と、慈しみが必要ではないか。
 金銭が、生き物であり、働きを欲しているとするならば、まさに自分の手許
(てもと)にある金は、我が子同然であり、やはり見聞を広める為に「旅」をさせねばならない。これは慰安旅行の類(たぐい)の旅ではなく、苦行の旅である。

 また金銭は、その人の努力と「物を大切にする心」に正比例し、欲心に反比例する法則を持っている。財貨と言うものは、喜んで働く人間の許
(もと)に自然に集まる仕組みを持っている。したがって、欲心のあった分だけ、差し引かれてその人に支払われる。

 本来、大富豪と言われた人達は、もともと無欲至誠であった人達だ。「無私」を自覚し、無欲至誠の境地に至って、「神」は彼等に、金と言う「物」を集結させたに過ぎない。しかし世の中には、大富豪達を指差して多額の報酬を要求し、金銭を請求する卑しき輩
(やから)と決めつける風潮がある。これこそが、羨望(せんぼう)の最たるもので、貧乏人が金持ちになれない決定的な理由と言えるだろう。

 取るべき金を取り、請求すべき金銭を請求して、値切らせる事なく、また相手に妥協する事なく、請求する事は、もともと金銭は神から借りた物であり、神を介在にして商行為をしているのであるから、何ら愧
(は)ずべき行為でない。これこそ筋(すじ)を糺(ただ)し、筋目を立ている毅然(きぜん)とした行為であると言える。

 しかし、人の働きと言うものは、金銭によって値打をつけられるものではなく、また、仕事量や時間などで、正確に計算されるものではない。問題は、働く人が、心から喜んで働いているか、時間潰しに、いやいや働いているかにかかる。心から自分の仕事に喜びを観
(かん)じ、神から生かされていることを本当に知っている人は、やがて理財を為して富豪の道を歩く事になるかも知れないし、自分の仕事を蔑(さげす)み、いやいやながらに働いている人は、いつまでたっても貧乏から抜け出せない暗示が一生つき纏(まと)うであろう。

 したがって、人の働きは千差万別であり、今日のように金融経済が実体経済を凌
(しの)ぐ勢いで驀進(ばくしん)している世の中では、金が金を生むシステムが出来上がっているとしても、やはり基本は、「まこと」を傾けて、一心に働いているか、否かに掛かって来る。

 この実体を長い目で見ると、やはり「まこと」を傾けて働いている人間は、どんなに不況が襲っても、生活に困らないだけの金銭を得る事が出来、「まこと」を傾けない者は、不況と共に大打撃を受け、経営者ならば不況の煽
(あお)りを喰(く)らうだけでなく、これまでにやらかした不正が次々に発覚し、その不誠実さが世に問われる事になる。

 そして、結果的に金銭に苦しむ者は、何事に対しても「不誠実」であり、結局、金と言う生き物の実体を知らない為に、金の為に不幸になる暗示を背負っているのである。
 金と言う生き物は、その人の働きの「まこと」に応じて分配され、これが「神」から与えられるというのは、世界共通の道理であり、過去の歴史を手本とした総合体験の哲理であろう。

 しかしである。欲が無ければ、金銭には恵まれないと言う道理も考えるべきであろう。求めるから、これに応じて反応が起り、それを駆り立てるものは「人間の欲望」である。これはスポーツ選手や格闘技家が「強くなりたい」と思う願望と酷似する。
 スポーツ選手や格闘技家が、「まこと」だけ、「無欲至誠」だけで、試合に勝つことができない。敗けてばかりで、勝つ事の出来ない選手は、ファンも付かず、人気も生まれず、軽蔑されるばかりであろう。その選手が至誠人であっても、敗けてばかりでは勝負師として情けない限りである。「強くなりたい」と思う先取だけが、勝者になって行く仕組みがある。

 これを考えれば、強欲な人ほど金を貯める。しかし金の為に、その人が倖
(しあわせ)になったかと考えた場合、これには少なからず疑念が生まれる。これは、スポーツ選手や格闘技家も同じ事が言えるのである。
 「強くなって試合に勝ち続けるチャンピオン」が、永遠にチャンプとして君臨する事は出来ない。やがてその座を追われる時が来る。過去の栄光は齢と共に、人々の記憶から消滅して行く。それだけではない。晩年は、もしこのチャンプが無学なら、更に老後は哀れであろう。

 幕末の剣豪・榊原鍵吉
(さかきばら‐けんきち)が明治の世になっても、理財の才がなかった為に剣術遣いとしてサーカスの曲芸師まで身を落とした事は何とも哀れであった。榊原鍵吉には剣術を求める真摯(しんし)な気持ちと「まこと」は存在したが、惜しいかな、彼には理財の才がなかった。いわば道場経営術だ。
 これは無刀流の達人として知られ、禅の大家としての後世の武術家に尊敬をあつめた山岡鉄舟
(やまおか‐てっしゅう)とは対照的であった。

 また、天下の名横綱として名を為した双葉山が、晩年、新興宗教に嵌
(はま)り、現人神(あらひとがみ)と名乗る平凡な中年女性(この人は誇大妄想的な精神分裂病だった)の教団に馳(は)せ参じ、この教団に、手入れの入った警察官と大乱闘を演じている。

 そして、ひと晩留置所に留め置かれ、釈放された時に語った言葉は、
 「自分は悲しいかな、学問がなかった。あの中
(女性教祖が璽光尊と名乗る新興宗教)に、己を導くものがあるのではないかと探究するうちに、ああ言う結果になってしまった」と、ぽつりと吐いたと言う。これもなた、宮本武蔵とは対照的であった。
中央の力士は横綱・双葉山。また太刀持・名寄岩らを従える。木鶏と言われて広く勇名を馳せ、努力の人だったが……(昭和13年5月の写真)
 武蔵は13歳から28歳まで、60回以上の試合に及び、悉々
(ことごと)く勝利したが、この勝利に溺れることなく、30歳過ぎると試合をぷっつり止め、剣を筆に持ち変えて、書家となり、水墨画家となった。老いて熊本細川領に定住した時は、禅僧を師として、瞑想に耽る傍(かたわ)ら、『五輪書』を綴(つづ)ったことは有名である。

 今にして思えば、横綱・双葉山も、もし教育があり、教養と言うものを身に着けていたら、武蔵のような方向に転進する事が出来、名横綱の伝説は永久不滅のものになり得たであろう。
 更には、武蔵の説く、空・風・火・水・地という、宇宙構成の根元であるエレメントを、彼の才能や素質とともに探究し、もし、これと一体となる秘訣を掴んでいたら、双葉山こそ、「無心の強さ」について、もっと現代的な言葉で、明確に語ることが出来たのではあるまいか。
 そして人生の機微を知る、若者から道を請われる幸運を手にしたのではあるまいか。

 しかし、惜しいかな、双葉山には、過去の栄光以外に、「今」を光らせる道標は、後世の人間に示唆することは出来なかった。ここに双葉山の悲劇があり、他にもスポーツや格闘技で慣らした多くの選手達の晩年の悲劇がある。双葉山こそ、何とも惜しい人物である。

 一方、大富豪として江戸時代に有名を馳せた紀伊国屋文左衛門
(きのくにや‐ぶんざえもん)はどうであったろうか。
 紀伊国屋文左衛門は江戸中期の豪商であり、幕府御用達の材木商で、町人の中にあっては巨万の財をなした人物である。巨万の財力に物を言わせ、豪遊して、紀文大尽
(きぶん‐だいじん)と称せられた大富豪であった。しかし、彼は晩年、落魄(らくはく)して哀れな死に方をしている。

 また、江戸末期の豪商・銭屋五兵衛
(ぜにや‐ごへい)はどうだったであろうか。
 銭屋五兵衛は屋号を清水屋と称し、回米と米相場で巨富を築いた人物である。しかし、やはり晩年は、河北潟埋立工事を行なって漁民の怨みを買い、罪を得て、獄中で病死している。

 こうした大富豪ですら、金と言う生き物を粗末に扱えば、晩年にこのようなしっぺ返しを喰
(く)らい、自己を失意のうちに埋没させてしまうのである。
 このような晩年に思いを致せば、盛運期に傲慢
(ごうまん)に、調子に乗り過ぎて遣り過ぎれば、人から怨みを買った因縁が絡み、晩年には不幸現象が派生していることがわかる。不幸現象は、不浄を齎(もたら)した事が起因し、金の場合、世にそうした不浄な金に苦しめられる実例は意外に多い。
 この事からも分かるように、本当に身に付く金銭を得る人は、やはり「無欲」で「無私」の人であろう。

 大事業家などを検
(み)ると、やはり無欲に人である。何処を探しても、「私」は表面に出て来ない。日頃から質素であり、倹約家であり、自分の為には決して金を遣わない人である。ボロを着て、人の為に走り回る人である。事業は欲心で左右される程、甘いものではない。人の持つ野望や私心に左右されるものではない。
 人の為に働いているという心構えさえ間違っていなければ、事業家は早々企業を破綻
(はたん)に導くものではない。しかし、これが自分の私欲の為とか、創業経営者ならば自分の会社の為などと、思うとその会社は斜陽に向かう。

 したがって、人の為に人事を尽し、仕事そのものが無上の喜びであり、無限の恵を天から享受していると自覚出来れば、歓喜に満ちて健康に働く事が出来、歳を取らずに若々しく、その事業は自ずから成功の路線の上を奔り続けることが可能になる。金銭は、歓喜と共にやって来る習性があり、喜びを致せば、自然にあつまるものなのである。

 かつて江戸末期の篤農家・二宮尊徳
(にのみや‐そんとく)が示した水の例話によれば、徹底した実践主義に則り、農民達に報徳教を説いたとある。報徳教は、自らが陰徳と積善を重ね、節倹を実践・力行すれば、殖産が得られて豊かになると説いた教えである。欲心を起こして水を自分の方にかき寄せると、向うに逃げる性質がある。したがって、この性質をよく理解し、人の為に向うに押し遣れば、水はやがて自分の方に返って来ると教えたのである。
 この真理は、金銭にも物財にも当て嵌
(は)まる。そして人の幸福も、また同じである。

 現象人間界の事象は、「物」を愛する人によって生み出されるのである。これを大切に遣い、生かして遣う人に集まって来るのである。この事は則ち、万物は総て「生き物」であるという思想に回帰するのである。

 資産家は傲慢
(ごうまん)であってはならない。他と比較して、優越感をもつなど、以ての外である。優越感に浸っていては、「有徳の士」【註】徳を備えた人)などになりようがない。だから資産家は、有徳の士になるように、努力を重ねなければならない。
 この努力を怠れば、やがて所有している資産も、運命の陰陽の支配をもって、最後は散財し、総て回収されてしまうであろう。ここに、資産すらも「神からの借り物」であると言うことがわかる。

 金銭も借り物なら、肉体も借り物なのである。
 「借り物」は大事にして遣うと言う事が原則だ。
 この原則を犯せば、必ず反撃が起る。必ずしっぺ返しを喰らう。怪我、事故、病気などの不幸現象がこれである。
 だから「借りた物は返す」ということが、生涯人間に付きまとって来るのである。また、人間が所有すべきものは、何一つないと言う事が分かるであろう。

 物質界は「借り物」で構成されている。しかし、借り物も長期に借用すれば、それが借り物でないような錯覚を抱き、いつの頃からか“自分のもの”と思い込むようになる。マイホーム、マイカー、そして自分の躰も、借り物であることを忘れる。現象を齎す地上界にある総ては借り物なのだが、「マイ」が付けば、自分の物と錯覚し始める。
 これは同時に「資産の部」と「負債の部」の感覚を狂わし、物における自他の区別は明確となり、更には人生の成功・不成功が「物で計られる」という時代を造り出した。

 マイホーム一つ挙げても、豪華な邸宅で庭園があって大きく、プールつきの家がそうであり、マイカーでも高級車を乗り回すことが成功の証とされるようになった。それに豪華な衣服、豪華な宝石類を身に纏い、バカンスにはヨットを浮かべて遊び回り、然も別荘があり、子供の通う学校にも格付けランクがあり、更にこれに加えて銀行の預金額が億単位で、大小の不動産を数多く所有し、長者番付も上位にランクされているなどが成功のシンボルとなっているようだ。

 そして人物評価も、金に糸目をつけない豪毅な男が、男の中の男とされるようになった。こういう人を富豪といい、また自分でもその自負がある。
 さて、こういう人物に憧れて金持ちになりたいとか、あるいは億単位に金が欲しいと望むことを、筆者は決して悪いこととは思わない。そう思わせるような世の中になってしまったからである。
 しかし、願わくば欲に自制を掛けると言う気持ちも適度にもっていて、あまり深望みしないことが金銭中毒にならないコツである。要は経済的に困らない「ほどほど」という限度を知っていることである。此処に来てはじめて人間は「足るを知る」のである。足るを知ることこそ、幸福と隣り合わせの路
(みち)などである。この路から一歩外れると、自制心を失い、そして失ったが最後、人間は欲望の渦の中に引き込まれ抜き差しならぬ状態となる。


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