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断食行法記 5

体質の陰陽

 体質には「陰性体質」と「陽性体質」があると言うことを把握しておかなければならない。陰性体質の人は基礎体温が低く、寒がりやで性格的にはおとなしく、行動も消極的で、いわば女性的な体質と言える。
 また、陽性体質の人は、基礎体温が高く、性格的にも血の気が多く、行動も積極的で、いわば男性的な体質である。前者は神経質で、後者は楽天家である。しかし健康体であるならば、いずれの体質にも偏らず、中間に位置する「中庸」の体躯が必要となる。

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◇第三十日目(4月23日)
 睡眠時間が短くなり、しかも短眠術を実行している為か、それでも昼間は眠気に襲われない。近頃の睡眠時間は、3〜4時間程度であろう。
 しかし日常生活に支障はない。このころになると、段々人間の躰のカラクリが徐々に分かって来た。
 断食を通じて、「そうだったのか」と思い当たることが多々あったのである。これは断食の実践者でないと分からない。幾ら頭で理解いようとしても、躰を通じて学んでいないと分からないことである。実践した者と、そうでない者との違いである。この違いを、私は実践者として目
(ま)の当たりにしたのである。
 今日は午前三時頃目が覚めた。
 早いと思ったが、道場に行く。結跏趺坐で精神統一を行う。

 目醒めは非常に良かった。頭もスッキリと冴え渡っている。爽快である。身も軽い。ただ難点をいえば、ふわふわと浮き上がるような感覚が、多少気味悪く感じる。あたかも地に足がつかないと言う感じである。
 一瞬「一体これはどうした事か?……」と思う。
 瞑想して、自由に任せると、頭が道場の天井から突き出たような感じになり、躰が膨張して行く覚醒
(かくせい)を感じた。おそらく錯覚には間違いないが、このような覚醒を覚えたのである。
 次に丹田の感覚を実感する。丹田が意識出来た。掌
(てのひら)を丹田に当ててみる。気の発信源としての丹田から力を感じる。丹田での気感を感じるのである。明瞭(めいりょう)に自覚出来る。

本来の躰を取り戻して行く。

 下腹部に腹圧がかかるのを注意しながら、内気が下腹部にどんどん集まって来る。快いものと思う。
 まず、ゆっくりと吐気を行った。限界まで、思いきり、重たく吐き出すのである。次に吸気を行う。軽く、後頭部に突き抜けるような感覚で、静かに、軽く、ゆっくりと吸い込むのである。吸い込み切れなくなるくらいまで吸い込み、吐納
(とのう)を交互に繰り返す。回数が増えるに従って、快い覚醒(かくせい)が徐々に増して来る。

 吸気にと吐気に併せて、丹田を意識しつつ、陽気の発生を促す。
 吐納を繰り返すと、丹田に陽気が起り、熱感を感じる。吐納は丹田に送り込む意識で、ここに陽気を集中させる。丹田に集中した陽気は、丹田一杯に充満して来る。太陽神経叢
(たいよう‐しんけい‐そう)に陽気が充満して行く覚醒を感じた後、陽気は周天(しゅうてん)の回路を循環しようとする。
 まず、会陰
(えいん)に下がり、そこから背後の命門に向かおうとする。命門に総ての気が吸い寄せられるような感覚が起る。
 そして命門から陽気が脊柱
(せきちゅう)を登り始める。督脈(とくみゃく)の経路を通って、次に唖門(あもん)に居たり、頭の頂上の泥丸(でいがん)を経由して印堂(いんどう)、人中(じんちゅう)と降りて、陽気は天突(てんとつ)に至る。更に胸を降り、再び丹田に帰る。これを経験すると、体内が自然の清気で満たされたようになり、自然と一体になって行く雄大な覚醒を覚えるのである。

 気を感じるとは、自然に溶け込み、自然と一体になって、霊肉が融和する事をいう。また自他の境目を無くす事をいう。宇宙と吾
(われ)が、一体意志を持ち、宇宙意識を体験する事なのである。

 ふと何気なく、爪
(つめ)を視(き)てみる。断食後の爪である。
 かつて体重が105kgあった時は、爪は実に脆
(もろ)かった。蜜柑(みかん)の皮を剥(む)いたり、槍や杖の稽古を下だけで、それ等が指先に当ると曲ったり折れたりした。生爪を剥がした事もある。それが最近ではなくなった。爪も断食によって健康になったようだ。故障箇所を修復をする白血球の動きも活発なためであろう。計量測定すると体重72.0kgだった。コンマ以下が微妙に変化しているようだった。この数値が性格には定まらないのである。
 しかし、かつての105kgから72kgに減量したのであるから、以前の肉体から33kg減量されたことになり、おおかた小学生一人分をこれまで、私は無駄に担ぎ廻っていたことになる。想えば、これが私の無駄な人生の重荷であり、減った分だけ軽くなったのは当然であるが、その減量分、これ以降の肉体の有効利用も思索出来るような考えに至っていた。じっくりと人生を見詰め直すことにも、大きな進展があったように思うのである。もし、かつて無駄に担ぎ廻っていた小学生一人分相当の肉の中に種々の病気が紛れ込んでいたとするならば、併せてそれも持っていってもらったような気になっていた。単に軽くなったというだけでなく、これまでとは違った別の人生観が見え始めて来たのである。こういうのを一種の「悟り」というのだろうか。
 振り返れば、私に限らず、人は迷いの中で種々の重荷を背負って喘
(あえ)いでいるのである。その喘ぎは貧富の差には関わりなく、「捨てれば楽になる」という真理があるのにも関わらず、捨てずに背負い込んでいるのである。頭では分かっていても、それが出来ないのである。
 悟り切った、例えば禅坊主でも、自分は悟ったと言いながら、その悟りは“生悟り”が多く、悟ったと言う迷いを背負って、自分は悟った振りをしているのである。
 私たちの人生にも、捨てれば随分楽になるものを担ぎ廻っている。肩書きや地位、名誉や財産、それに家族と言った重荷を担ぎ廻り、そこに悩みがあり、迷いがあるのである。
 捨てれば楽になる……。
 簡単な言葉だが、これを実践するのが如何に難しいか、それは断食を私のように長期間遣った者でなければ分からないようである。

 人間の躰は、治るように努めれば、確かに確固たる信念が要
(い)るが、その信念を貫けば、自然治癒力が働いて、自然と治って行くものなのである。治る努力を惜しまず、それを疑わず、懸命に人事を尽くすだけつくし、努力するだけ努力して、後は天命に任せれば良いのである。これを「他力一乗(たりき‐いちじょう)」というのである。
 生きる因縁があれば、名医が見放した病人でも、何年も何十年も生きるのである。因縁によって支えられ、そこに「生きる」という必然が起るのである。

 人間には便秘の元を引き起こす宿便なるものが存在する。
 便秘はやがて宿便になり、宿便は大腸癌、または蜘蛛膜下
(くもまっか)出血を招き寄せる。その最初は動物性脂肪過剰でニキビや吹き出物が表面に現われるが、これを薬等で抑えると、表面的には治ったように見えて、実は内部では宿便の悪因が進行しているのである。
 殊に、若い女性に多く、偏頭痛等が発作的に起こす。これは血管の収縮が起こっている為で、酷くなると視野の異常、後頭葉部分に周期的群発的に痛みが現れる。

 これは血管が収縮と拡張を繰り返している為の異常な状態である。原因は動物性脂肪の過剰摂取であるが、カルシウム不足
(治療としてはカルシウム拮抗剤を用いる)からも起因している。この症状に罹(かか)っている人は、目の回りに痙攣(けいれん)が起こっており、その部分がキリキリと痛む。
 これは両方起こることは稀
(まれ)で、どちらか一方に起こるのである。しかし、この痛みは血管のむくみがおさまると一週間程で消えてしまい、また、一年後くらいに血管がむくんでに再びやってくる。癌、もしくは蜘蛛膜下出血が進行した為である。宿便は恐るべき症状であると知るべきであろう。

 私が断食を始めて2〜3週間過ぎた頃、腰の部分と腹の部分が極端にへこみ出した。長年の、おそらく数十年の腹に溜め込んだ老廃物質が排除された為である。腸壁には、多くの老廃物質が付着している。
 腸壁の全表面積は、テニスコート一面程をいわれているが、この広さに、宿便、黒便、砂便、結石、脂肪塊
(しぼうかい)、寄生虫、細菌、仮性糞石(かせい‐ふんせき)、粘液毒素などの老廃物が腸壁の絨毛の襞(ひだ)の中に停滞し、潜んでいる。これらが種々の慢性病を引き起こすのであるが、断食をすれば、これらは2週間目くらいから排泄されはじめる。その為に、断食後は躰が非常に軽くなることを覚えるのである。

大腸の構造

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 この日の食餌は午前七時に朝食を取り、玄米の粥
(かゆ)を湯呑み茶碗に一杯と、ハクサイの漬物少々と、リンゴを四分の一摺り降ろしたもの。
 夕食は午後四時で、玄米の粥
(かゆ)を湯呑み茶碗に一杯と、梅干一個と、リンゴを四分の一摺(す)り降ろしたもの。
 朝夕とも、食餌
(しょくじ)時間を一時間掛け、自然に食道に墜(お)ちるまでよく噛むという事を徹底し、唾液と混ぜ合わせる事であった。噛めば噛むほど、唾液と混ざりあって、消ガン効果が増すのである。

 原稿整理が終って就寝の床につく。消灯時間は午後十一時半くらい。床に就くと、眠りに入る時間が早い為か、直ぐに眠りにつけるようになっていた。
 遂にこの日の夕刻をきして、私は断食30日間をやり抜いていた。それも、一切の甘えをしない、水だけの断食であった。昨今は、苦しい水断食は避けてオレンジジュースを飲む断食やバナナだけを過ごす断食、更には動タンパクの牛乳を飲んでの断食があるが、こういう断食も、一言で云えば断食中の固形の物を入れるのは、そもそも人間の口がそれだけ「卑しい存在である」ということを物語っているのである。
 人間は性欲はさておいても、食欲だけは絶対に断つことは出来ない。生命を維持するための根本的な本能であるからだ。ここに断食の難しさがあると言えよう。
 しかし、期間を限定してその期間内に、自分の肉のリフレッシュを図ることは決して悪いことでない。肉の細胞が代るだけでなく、この代謝を通じて思考まで変化し、頭脳は以前に較べて幾分でも変化して来るのである。

 断食30日……。
 水だけの「水断食」ではないが、転びながらも、半断食の態勢を執
(と)って、ここまで継続して来た。
 少なくとも、私にとっては貴重な「空腹トレーニング」の鍛錬であった。
 これは私にとって、大きな自信になり得た。
 しかし、これで終わったのではない。これから先もまだまだ続くのである。大きな体験をいい教訓にしながら、以降の断食を想ってみた。
 それは「ゆとり」とか「余裕」という武術にも通じる教訓であった。
 一般に、「ゆとり」とか「余裕」というと、何か隙
(すき)だらけの人間のように思われがちだが、これは隙を作ることではない。
 本来、隙と、ゆとりや余裕は似ても似つかない心の状態であり、隙がないからゆとりがあるのである。隙がないから余裕があるのである。この違いを間違わないようにしたいものである。
 これが私の、断食30日目にして悟った一つの教訓であった。



◇第三十一日目(4月24日)
 午前三時、気持ち良く目が覚めた。今までになく目覚めが気持ちいい。
 床の中で結跏趺坐を行い精神統一を図る。いつになく集中力が高まっているので、あれこれと雑念が起らない。直ちに精神統一がなされる。だが、これには相当な訓練を要するのは言うまでもない。
 迷いもなく、苦悩もないと言う状態が訪れ、心身共に宇宙と一体であると言うイメージがなされる。恐れるものはなく、捨てるものすらないのである。
 他人から奪われるものもなく、また失うものもない。
 物事に執着する気持ちがない。実に自然である。新鮮な清気が、まるで森林の中を散歩しているような時のように、体内に注がれて来る。躰一杯に充満する。躰の損傷した箇所が、それ等の清気で洗い流され、痛みと疲れを根源から癒
(いや)してくれるような状態に至っている。何もかもが一新する。清気を得て、元気が充満する。

 午前四、時道場に向かう。一時間一人稽古。躰は軽やかで、腰の切れや、腰の安定がよい。
 あつて肥っている時は、腰の切れや、腰痛持ちであった。腹が前に付き出ている為、腰の背後の筋肉が前腹に引き摺られ、また、贅肉が邪魔して、動きもスムーズでなかった。スピードも不充分であった。
 ここで言うスピードとは、物理的な速度のスピードを指すのではない。動きに対応出来る速さをいう。これは必ずしも目で視て、速いと感じるものでなければならないというものではない。間に合えばいいのである。間を用いるスピードの事である。あるいは「拍子」といってもよい。

 西洋スポーツでいう「スピード」は、多くが無気呼吸によるスピードである。力で、力んだスピードである。呼吸が止まった間まで、筋力だけで動かすスピードである。
 一方武術におけるスピードは、有気呼吸のスピードであり、転身が中心である為、腰の切れと捌きの滑らかさで、力む事がない。いわゆる「自然な動き」である。吐納法を正しく行えば、転身動作の中では、息切れする事がない。
 吐納法が正しければ、息切れしないばかりか、気力が充実して来て、内筋がよく動くようになる。

 西洋スポーツの筋力の用い方は、主に外筋であり、それは肉体力の伴う「外側の力」である。しかし内功を目的として術理が組み立てられている武術は、その殆どが内筋を遣い、骨の部分に非常に近い、内筋を極限まで捻って動かし、これを遣う。これが裡側
(うちがわ)に存在する「内在する力」である。吐納(とのう)が正しければ、外筋を遣う時のように呼吸を一旦止めなくてよい。息を止めて力まなくてよい。動きと共に、呼吸がスムーズになるのである。

 そこで気力が充実する。
 人間の気が通る構造は、足の裏から大地の気を吸い上げ、これが丹田を経由して一つは顔で抜け、もう一つは掌
(てのひら)で抜けるようになっている。これにより、天地の気は人間を真ん中にして循環するのである。ここに天・人・地の気の循環がある。
 特に掌に気が循環すると、弾
(はじ)けんばかりに掌が自然と朝顔形に開く。閉じた指が、弾けんばかりに、外側に反(そ)るのである。こうする事によって、骨の直ぐ近くの内筋は稼動態勢に入るのである。極限まで捻れるのである。それは、あたかも重い物を持ち上げるジャッキのように。

 ジャッキは回転式・揺動式・油圧式などがあるが、いずれも螺子
(ねじ)きり溝の螺旋状(らせん‐じょう)の軌道での上下運動を行う。内筋も、骨を中心としたその周りを、極限まで捻る事によって、上下させ、普段では人力によって比較的重いものを揚げる事が出来るようになるのである。この先端は、「指先」である。指先がよく動けば、また躰全体も動くのである。

 蛸は獲物に巻き付く時、先端の足先から触手の伸ばし、巻き付いて来る。蛇でも、尻尾の先端から巻き付いて来る。象も、鼻で重い丸太等を持ち揚げようとする時、必ず鼻先の先端をまず最初に捲き、先端を捲
(ま)く事により、物を持ち揚げる方法を用いる。彼等は自然の中で本能的に学び取っているのである。要するに、外筋よりも、内筋によって動かされる力である。
 人間も、これを真似ればいいのである。
 指先の先端が動くようにすればいいのである。「動かす事」が目的であり、これを動かす為に外筋力のパワーアップは必要無いのである。筋トレ無用は此処に由来する。
 人間の手や指は、暗がりでこれを見ると、その周囲に白い靄
(もや)がかかっているような発光体を見る事ができる。この発光体は人によって強弱があるが、断食をするとこの発光体が強力になる。この靄のような発光体が、一種のオーラとなって全身を包み込んでいるのである。
 そして、それを確認する時、躰は軽くなったような感覚を受け、宇宙エネルギーが自分の躰の中に注ぎ込まれるような感得を得るのである。

 断食は、肉体的な故障箇所を修復するばかりでなく、精神面への改造も大きく行われ、普段から憑
(つ)き纏(まと)う、雑念や粗雑な固執が一掃されるのである。同時に内気を貯える為に、感受性も高かって行く。この感受性は、特別な訓練をして故意に得るものではなく、断食を行えば誰にでも行った結果の副産物として、これが備わるのである。
 そのイメージ感覚としては、自分と宇宙が一体になり、遠い彼方から発せられる微弱な波動をキャッチする、そんな研ぎ澄まされた感覚に至るのである。微弱な波動エネルギーは、微
(かす)かではあるが、確実に伝わっていると言う覚醒を覚える。微かな、幸運の女神の囁(ささや)きにもとれる。その微弱エネルギーが、やがて私の躰全体を包み込み、それが宇宙意識と重なるイメージを味あうのである。

 丹田
(下丹田であり、「気海」と言う部位)に気と心の沈め、一点に集中する意識を集めると、速やかに精神統一がなされ、身体に於ての丹田は「気海」のみではない事に気付く。「気海」が下丹田であるならば、丹田は上から順に「泥丸(でいがん)」の部分、「印堂」の部分、「天突」の部分、胃の部分、臍上の「中院」の部分、臍下の「関元」の部分、「会陰」の部分の七つである事に気付く。
 また、丹田は大きく分ければ、上丹田、中丹田、下丹田である。この三箇所を充分に意識し、覚醒させる事で、宇宙意識を観
(かん)じる事が容易になる。
 上丹田は眉間
(みけん)の奥の大脳の中心部分から垂直に直上した頂上部に「泥丸」なるところがある。経絡の経穴には、泥丸なる名称はないが、宇宙意識を観(かん)じる時の一種のアンテナのような働きをする箇所である。これを「神(しん)」という。
 「神」は宇宙の根源と自分の意識を結び付けるところである。

 次に、中丹田は胸の中央部分に存在し、胃を中心とした「いのち」を司さどる処で、体内の気を「精神的エネルギー」に変え、「神」に変換する働きを持っている。
 最後の下丹田は、練精的な生命エネルギーを下腹部に集め、中丹田の胃の部分に「いのち」を吹き込む働きを持っている。
 以上の三つが三位一体となって、宇宙意識と結びつくのである。
 こうした各々の意識を感得するには、霊能的な特殊な能力がなくても訓練する事で可能になり、断食などは、こうした訓練開発に大きな効果がある。

 私は未だ感得済みではないが、先代の山下芳衛
(ほうえい)先生の話によれば、人間は有気呼吸することによって、呼吸法では最も至難の業とされる「胎息(たいそく)」という高級な呼吸法が可能になると言う。
 「胎息」とは、胎児の呼吸法であり、胎児が母親の体内に居る時に行っていた呼吸法である。あるいは冬場に冬眠する野生動物も、「胎息」を行っていると言う。
 これは肺による呼吸法ではなく、心と身体が練精されて、生命エネルギーに溶け込み、生物電流化された「気」と一体となって宇宙と融合し、安らかな平安を意識する事によって可能になると言われている。人間も、母親の体内の中では、羊水に揺られて、この呼吸法をしていたのである。しかし、生まれ出た途端に、この呼吸法を忘れてしまうのである。

 気を体感して宇宙意識を感受すると言う事は、精神と肉体、人間と宇宙、大自然の法則と宇宙現象の本質を知ることであり、一見異質に見える各々が、実は相対的に対立しているのではなく、同根から出発している事が分かるのである。元は、「宇宙の一滴
(ひとしずく)」から始まったのである。

 「宇宙の一滴」の根源に迫れば、そこのは安らかな平安を感得すると言う。また、そこで観じる感得は、同根意識であり、自他の垣根が取り払われている同格意識で物事を見る思考が生まれる。「平等」などという、高所から微生物を見下す傲慢
(ごうまん)な考え方ではなく、宇宙の総ての事象や生き物が「同格意識」で捉える事ができるようになるのである。自分が人間経験の中で長い間に作り上げた固定観念や先入観と言う垣根を取り払えば、自他が同根であると言う事が見えて来る。今まで、自他離別であった思考が、自他同根意識によって一変する。

 「融合する」とは、自他の垣根を取り払い、総てと解け合う事なのである。それは静寂な平安が意識出来て、はじめて可能になるのである。
 人間は、この平安が、心に訪れるまで、人生と言う「修行の場」で訓練を繰り返さなければならないのである。そして「修行の場」に課せられている定義は、苦悩であり、苦しみ、悩み、また迷う事で、吾
(わ)が魂は洗われ、磨かれるのである。
 こうして洗い浄
(きよ)められれば、物質主義に走る自分の欲望が徐々に減速して来る。価値観が金や物で無い事に気付く。したがって、人と人が争う事もなくなり、生死に執着する事も大きな意味を為(な)さないようになって来る。
 何ものにも囚われる事の無い「平安」が訪れるのである。顕界
げんかい/この世)の騒がしい騒音を離れて、都会の夜の喧騒(けんそう)も無縁となる。顕界とは別世界の次元で、心の安息を得るのである。静寂を得るのである。

 私はそんな覚醒を感得しながら、道場で数時間を過ごしていた。
 道場から戻った後、朝風呂に入る。ふと自らの皮膚に目が行く。今まで、約二年間も悩まされていた皮膚病は、ほぼ完全な形で治っていた。これは紛れもなく断食の効用であった。
 なぜ断食によって皮膚病が治ったかと言うと、自らの体内に眠っていた自然治癒力が機能を始め、食を断つ事で、錆び付いていた回路が開かれたという事である。閉鎖されていた回路が開かれる事により、薬の効果とは異なる治癒力が働くのである。その治癒力は、十年以上も遡
(さかのぼ)った、以前の肉体を蘇らせるのである。
 肉体が若返るだけではない。それは副産物に過ぎない。中心課題であった病気が治るのだ。慢性的に悩まされる内因性の病気は、現代医学では完治させきらない難所がある。それは造血に於いて、根本的な考え方が違っているからである。

 「腸造血説」と「骨髓造血説」では、天地の差ほども違う。
 これが根本的に違う為、治療法もおのずと違って来る。しかし現代医学は「骨髓造血説」の仮説の上に成り立ち、「血液は骨髓で造られる」という思想で、今日の医療が行われている。
 また、現代医学の欠陥は、患者の症状のみに目を奪われて、病的状態にある「人間そのもの」を忘れてしまっている。
 医が「仁術」といわれた時代は、既に過去のものになってしまった。

 人間が病気になると言う事は、それなりの理由があり、そこには確固たる病因がある。
 例えば、熱が出たから解熱剤を投与する。下痢状態だから下痢止めをすると言った治療は、その時、その場では応急措置としてはよいであろうが、本質的な病気を治しているとは考えられない。
 発熱をしたり、下痢症状にあると言う事は、生体にその必要があるからである。なぜ、こうした症状が顕れたかという根本の病因を明らかにし、それを取り除く「根本治療」こそ、医師たる者の最大の任務であったはずだ。しかしこの任務を、全うする医師は非常に少なくなったのである。

 現在、ガンは不治の病とされ、死病とされている。しかし、ガンが死病と謂れながらも、ガンに冒され、余命告知されたにもかかわらず、告知期間以上に長寿を全うしている人は少なくない。この事は、「ガンが死病でない」という確たる証拠でもある。
 それにも関わらず、現代社会では、ガンの死亡率が非常に高くなっている。
 ある不調を訴える人が、病院に行き、検査を受け、ガンと診断され、専門医の言に従って、摘出手術か抗癌剤を投与され、それで完治したと言う話は殆ど聞かないし、実際に病院で以上のような治療を受け、その殆どが五年未満に死に絶えると言うのが、今日のガン疾患に対する医療現場の実情である。

 一方ガンであると告知されながら、専門医とは別の選択をし、例えば「腸造血説」を支持する医師の自然食療法等を行って、命拾いをしている人も、何人もいるのである。
 こうした差が出るのは、ガンに対する医療姿勢の違いでハッキリ顕われているという事である。
 また、現代栄養学の理論上の間違いもあり、偏った栄養観、偏った生活観が、一層ガンを治り難いものにしているのである。

 人間は確かに栄養を摂らなければならない。栄養を摂らなければ、生命の維持は出来ない。
 だからといって、栄養を摂り過ぎれば間違いなく病気になる。何事に於いても、「過ぎたるは猶
(なお)、及ばさるが如し」である。度を過ぎてしまったものは、程度に達しないものと同じで、どちらも正しい「中庸(ちゅうよう)の道」ではないのだ。
 拮抗が崩れるからである。
 生体をあらゆる角度から見直し、組織機能を調べると、例えば食事一つにしても、減食をし、粗食小食に徹した時の方が、快適に働くものなのである。

 断食をすれば、断食を開始して二週間目頃から赤血球の活動が盛んになる。その効用が、自然治癒力と結びついて、心身に新しい生命力が蘇るのである。
 貧困で微弱だったエネルギーが、炎の火力を増すのである。そしてこうしたエネルギーが、宇宙エネルギーと結びついた時、難病や奇病が駆逐されるのである。
 それと同時に、病気が駆逐されるだけではなく、今まで錆び付いて閉ざされた超常回路が開け、超常的な力を得易い状態になるのである。病気が治り、感覚が研ぎ澄まされるという事である。

 私が、これまで悩まされ続けていた皮膚病が、治った理由は以上の事による。
 更に付け加えて追言すれば、皮膚病は決して皮膚表面の病気ではないという事である。一種の慢性的な内臓疾患であり、内臓がよくなれば表面に吹き出した、種々の皮膚疾患は自然と治って行くという事である。

 但し、同じ皮膚病に数えられる病気の中で、内臓が健康になっても非常に治り難いものがある。それは疥癬
(かいせん)である。
 疥癬は人から人へと移る病気で感染病であり、人間の持つ体温は存在すると事では、疥癬患者が座った椅子等に20〜30分も座っていれば、直ぐに感染する病気である。流行性のウィルスによる皮膚疾患や、疥癬
Sarcoptes scabiei var.hominis/ダニ科ヒゼンダニの節足動物である疥癬虫の寄生によって、生ずる伝染性皮膚病。指間・腕および肘関節の内側、腋わきの下・下腹部・内股などを侵し、酷い痒みを齎す)などの感染性皮膚疾患の伝染病は、急性である為、従来の謂(いわ)れている慢性的な皮膚疾患とは種を異にする。
 この疾患は人の大勢集まる場所や、バスや電車や劇場の座席から20〜30分以内に感染する。
 一方内臓系の慢性疾患は、表皮的には皮膚の上に顕われるが、皮膚だけを治療しても、それは根本治療とはならない。
 例えば、ニキビ、シミ、ソバカス、その他の吹きで物等は、一見皮膚表面の病気と見間違う。しかし、これ等の病気の発信源は、皮膚の表皮には存在しない。腸壁内に隠れている。
 腸壁の宿便や黒便が発信源であり、また長期の便秘もこうした病気を誘引する。

 そもそもの病因は、日本人の食生活が欧米化した事にその元凶がある。欧米化の食文化は、「肉や乳製品を食すること」から始まる。これを日本人が真似して、肉食文化を日本人の食生活様式の中に取り入れ、日常茶飯事化した事にその元凶がある。
 また、街角で気軽に食べられるファーストフードや、ジャンクフード、郊外レストラン等の外食産業での肉や乳製品の過剰摂取も、これまでの元凶に更に輪を掛けて、新たな禍根を作り出している。

 一部の心無い経営者によって商いがされている外食店では、背曲がりハマチや畸形の鶏、骨折した牛や豚を調理して食べさせる店もある。調理法で如何様にも高級料理に化ける。「格安店」や「食べ放題」を売り物にしている店は、この手の人体に有害な食材が多い。
 一方大衆は無知で、「肉はスタミナの元」という神話を信じているため、「格安」の言葉に吊られて飛び込み、自分の胃袋を「ゴミ箱化」する。

 季節ごとに、旬の本当の味を知らない無知なる大衆は、破格値の料理に、まず飛びつく習性がある。そしてこれを長年続ければ、やがて体調に異変を来す。現代の哀れな幻想である。

 慢性の皮膚病の代表格にアトピー性皮膚炎
atopicdermatitis/先天的に過敏な人に生ずる慢性皮膚炎)がある。この病気は、乳児型・幼児型・成人型の三種がある。
 乳児型は主として頭部・顔面の湿潤した湿疹ができる。幼児型は肘窩・膝窩・前頭・側頸などの乾燥した限局性苔癬状の病変へと向かう。幼児型の現象を潜在させつつ、しばしば喘息・鼻炎・花粉症などを伴う。
 特に、男性より女性に多く発生する。しかし、一種のアレルギーと考えられるアトピー性皮膚炎は、現在に至っても、その発症機序は不明である。

 現代医学は、以上のような慢性的な皮膚炎に対し、副腎皮質ホルモン
steroid hormone/ステロイドホルモン。ステロイド核をもつホルモンの総称で、脊椎動物では、精巣・卵巣から分泌される性ホルモン(雄性ホルモン・発情ホルモン・黄体ホルモン)、副腎皮質ホルモンが、また節足動物ではエクジソンがこれに属する)を使用する。しかしこの薬物で、この病気は完治させるまでには至っていない。極めて治り難い病気と言えよう。

 また、三十年周期で大流行すると言われている伝染病の疥癬も、皮膚科の治療では、安息香酸ベンジル
(benzyl)を躰に塗って殺虫するが、この治療法を用いず、断食をすれば、断食14日から20日目くらいで、蜩(せみ)の抜け殻のように一皮剥けて、まるで頭からフケが落ちるような感じで完治する。
 断食して皮膚病が治るのは、繰り返すが、白血球の活動が活発になる為である。白血球の活動が活発になれば、体内の皮下組織や内臓が治るからであって、これこそが根本治療の原点であり、表面だけの枝葉末節的な治療では、本来の病気は中々完治しないと言う事が分かる。

 皮膚病に於いて、例えそれが外部からの感染であっても、内部に潜伏していた病因と、外部の伝染病が互いに反応し合い、これが相乗の結果として顕れたもので、両者が特異点に達した時、表面化して来る。これは皮膚病の実体である。
 則
(すなわ)ち、皮膚病は躰の表面の病気ではなく、身体の内部も同じように病魔に蝕まれていると考えねばならない。したがって断食により、内臓を治してやれば、これ等の表皮に吹き出した病気も、やがて感じの方向に向かうのである。
 道場より帰宅後、体重測定。71.0kgであった。コンマ以下が微妙に変化していた。まだ定まってはいないのである。この微妙な変化が、あたかも私の心が揺れ動くのと酷似していた。これまで悟ったと思いっていたのは、果たして生悟りであったのだろうか。人のことを指摘する前に、自分自身を反省せねばならなかった。


 ─────この日の午後、千葉県習志野市に向かう。
 さて、こういう状況が危ないのである。また、この道中に多くの危険が待ち構えているのである。食に対する誘惑である。
 この日は、明日に東京講習会を控えているので、昼過ぎに自宅を出て瀬田から京都駅へ。
 そして新幹線で京都から東京まで。
 この日はうっかりしていてキップの予約をしていなかったが、運良くグリーン車の禁煙席がとれた。二階建のグリーン車の席から車窓の景色を眺めるのが大好きである。いつも京都・東京間、京都・小倉間を往復する時はこの席を利用している。

 昨今はバブルが崩壊したと言いながらも、グリーン車がいつも満席である。景気が悪いのだから、グリーン車がガラ空きであってもいいのだが、これまでの風習は、バブルが崩壊したからといって、贅沢指向は、中々この期
(ご)に及んでも直らないらしい。この風流好みは一方で贅沢好みで、一向に治らない贅沢病に罹ったままであった。
 昨今は益々貧富の格差が拡大していると言う。
 金持ちは益々金持ちになり、貧乏人は益々貧乏になっていっていると言う。貧富の格差は時代が下るごとに増大しつつある。その実感を肌で感じるのである。
 グリーン車の満席の理由は、庶民が無理してグリーン車に座っているのではなく
(中にはそのような人もいるであろうが)、貧富の格差が拡大し、スーパーリッチの富豪層の金が、更に、カネ余り現象を起こしているのであろう。

 東京駅から総武快速でJR津田沼まで。そして津田沼駅には弟子の車が迎えに来ていて、それに乗り、習志野市大久保の習志野綱武館へ。
 午前四時頃、綱武館に到着。綱武館の少年部の稽古を検
(み)る。途中、群馬県高崎市の個人教伝で参加している門人の来客あり。引き続き、午後六時より大人の部の稽古を検る。

 稽古終了後、例の如く宴会を危惧
(きぐ)していたが、案の定そうなってしまった。
 補食期間であるので、飲食は遠慮しようと思っていたが、「まあ、いいじゃありませんか」の一言に、つい誘われて、綱武館の向かいのビルの焼き鳥屋に、ふらふらと入り込んでしまった。そして「まあ、一杯」となったわけである。私にこれを断固断る勇気はなかった。簡単に転んでしまうのである。私には意思堅固な面と意思薄弱な面が同居していて、いつもこの両方が鬩
(せめ)ぎ合うのである。何ともお粗末な精神構造だった。
 例の如く、「じゃあ、折角だから……」となってしまったのである。
 ビールを薦められながら、一杯二杯と重なり、やがて一罎
(ひとびん)二罎(ふたびん)となる。私の口の卑しさであろう。ついに何本飲んだか分からなくなり、飲んで、喰って、腹を満たし、昔の本性が吹き出してしまったのである。あたかも「餓鬼」の如しだった。
 これを一言で表現すれば、「哀れ」以外に言葉はなかった。遂に旧
(もと)の木阿弥に戻ってしまったのである。
 そして、これだけでは収まらなかった。
 弟子宅で二次会となり、ビールと酒とウイスキーのチャンポン。それに焼酎が加わって、何が何だか。
 馬鹿な真似をしたと猛反省しても、後の祭。
 何処で寝入ってしまったのか分からぬまま、意識不明となって寝込んでしまったのである。私の場合、鯨飲
(げいいん)すると、記憶の一コマが完全に消えるのである。否、一コマだけではない。一切が消えて、朝は何も食に溺れるのであった。
 これ以降、果たして哀れな口の卑しき男の前途は如何に?……。



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