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続・刀屋物語 25
日本人の美学的意識は他民族にはない、独特のものである。
 古美術の骨董市場でも、往時の日本人の芸術作品は多く見ることが出来る。それだけかつての日本人も芸術性に富み、感性が旺盛だったと言えるだろう。しかし、その反面……という残忍なる側面もあるようだ。



●妖艶なる血の残映

 さて、日本人とはどういう民族か。
 また、過去の経緯と現代を比較して、日本人の一面には何が存在しているのか、それを吟味しなければ、求道に当りその一切は見えてこまい。
 確かに日本人は、美学の感性を持ち得た民族である。
 しかしそれは日本人の一局面に過ぎない。

 「生き胴」斬りの凄まじい処刑の仕方一つ考えても、ここには血の怨念が確かに残留している。その残留の血が、日本人には流れているようである。これは男女に限らず、である。
 この禊
(みそぎ)をせずに、日本人の感性つまり超感情は、崇高な次元にまで達して浄化されることはない。
 人は生きながらに、超感情に達するまでその求道者となって、道を求めなければならない。武の道も、その中にあろうと考える。

 したがって美学のみに目を奪われることなく、一方の感情から起こったであろうと考えられる怨念も昇華しなければ、それは決して超感情には辿り着くことが出来ないのである。頭で理解しただけでは、枝葉末節の付け焼き刃で終わる。付け焼き刃では要は為
(な)さない。根本を吟味してみる必要があろう。

 私の私観ではあるが、平和の尊さを知るには、戦争の怕
(こわ)さや悲惨さを知っていなければならないと思うのである。これを体験して、平和の有難さが分かる。口先で唱えるヒステリックなシュプレヒコールだけでは、平和は訪れないのである。
 そもそも武器を遠ざけるだけで平和が訪れると考えるのは、余りにも幼児的である。

 戦争と言う最悪な残虐行為の中を通じて、この悲惨さを通してしか、平和の尊さや有難さは感じ取れないと言うのが人間である。人間の正体は感情の生き物であり、感情によって憎しみが生まれ、恨みや怨念が派生している。根源には自他の抗争と、それに抗
(あらが)うための抵抗が起因しているのである。
 また、殺された者やその家族が、殺した者を憎み、恨みを持つのは総て感情から起こる動機に端を発している。
 それは日本人のみに留まらず、世界共通の人類の感情の原理である。

この一幅の画の中には、侘び寂びの世界の日本人の感性が秘められているが、同時にそれは残虐への裏返しか……。

 さて、日本人は感性の敏感な国民と言われていた。
 日本人の一面を見ると、確かに文学や美
術、更には建築や造園技術を見る限り、そこには日本人の繊細な感性と美意識が働き、日本の古くからの文化遺産の中には、日本人にしか感じ取れない他国には例を見ないほどの特異性と芸術性がある。また日本人は、そう言う感性を発達させて来た。

 更には精神面において、日本人の最も大きな影響を与えたのは仏教であり、仏教の背景にはジャーマニズム的な神道の根本が横たわっていて、それをベースに仏教の思想を取り入れた。万物の憐れみや、慈悲の心を説く感性はキリスト教などと比較しても、実に対象的であり、その限りにおいては残忍性など一切見受けられない。
 生きとし生けるものの一切が苦海にあって、物の哀れを説く日本仏教では、仏門の修行者が諸国行脚の雲水行一つするにしても錫杖
(しゃくじょう)を突き、また鳴らし、このようにして歩く背景には、一匹の虫も踏み潰すまいと言う慈悲の現れがあった。
 仏教精神が培った日本人の性格にも、当然、温和な心の佇まいがあり、その一面を見る限りにおいては崇高ですらある。

 ところが、これだけでは全体像を見ていないことになる。
 日本人の持つ慈悲に心は、日本人の特性に一局面を見たに過ぎないのである。そしてこれだけでは日本人の本質を決して言い表しているものにはならない。

 私は、三歳の頃より行儀作法として始めた武術を通じて、あれからもう60年以上も、根本にある日本人の本質を考え続けて来た。その思考は今もなお継続中である。その過程の中で、私は、日本人は温和で平和を愛する、残忍性皆無の国民とはどうしても決め付けることが出来ず、むしろ現代のこの世にあっても、日本人の残虐性に多く直面して来たのである。
 西洋人は猟りをする民族であるが、先祖から連綿と続く農耕民族の日本人の感性の中にも、やはり猟りをする残虐性が多々含まれている現実に何度も直面したのである。
 つまり、大の虫を活かすためには小の虫を殺す。例えば、明治維新はこの原理で日本全体が動かされたのではなかったか。

 日本人の心の中には柔和と温和が同居している反面、他方では残虐で冷酷な日本人の心という面に、うんざりするほど失望も抱いたりして来た。この冷酷で残虐で、残忍なる心は、何も往時の日本人だけが持っていたのではない。
 現代のこの世にも、この冷酷なる残虐性は連綿として受け継がれ、これに意を解さないだけである。このことを考えれば、その意に解さない張本人らは、裁判所が定義する善良な市民の中の多くおり、つまり「可もなく不可もなく」という、何もしない多くの現代人である。

 この種属
(スピーシーズ)は悪いこともしない変わりに、善なることも何一つしないのである。
 ここに河井継之助が喝破
(かっぱ)した「沈香も焚かず屁も放らず」の、結局可もなく不可もなくの現代日本人のその残虐性を多く見るのである。
 更に国民性を論ずる場合、一国の国民性は柔和か、また残酷なのか、二極相対論で二者択一の中から論じられるものでもない。

 こうした二極論で論すると、ある面だけが強調され、その陰の部分は無視されて、重要な部分は殆ど見えなくなってしまうのである。
 日本人の過去の歴史を紐解くと、今日では想像もできない残忍なことを仕出かしているし、また現代でも、往時の日本人には存在しなかった残虐性に行き当たることがある。
 つまり「習気
(じっけ)」という性格の遺伝的引継は、現代の突然変異として顕われた事象でなく、悪しき性癖の如く数々の残虐行為が、今の世になっても連綿として受け継がれていることになる。
 現代の世に生きる私たち日本人は、同一民族として、日本人の中に潜む残酷の可能性を摘発しない限り、日本人のこれまでの残虐性は昇華して超感情に行き着くことは出来ないであろう。

 しかし現代の世を見ると表面上は、太平天国の如き様相をしている。
 大した争いはなく、誰もがルールを守って平和に日常生活しているように思える。この国には、過去の戦争も徴兵もなく、大した民衆暴動もなく、また言論は何を論じようと自由で思想弾圧もない。現代社会の日本は至極平和のように思える。

 また個人の人権は尊重され、近代国家的な法体制も整い、それらを教育の中で就学者に植え付けて行っている。個人の自由や生命を軽んずる前近代的な悪しき社会制度は一切廃止され、その結果として過度なる残虐な行為は表からは見えなくなった。確かの現代の世はそう映る。
 ところが、日本人の心や精神までもが変わった訳ではない。

 法や教育によって、人間の行動や規範を制御することは出来たとしても、心の奥深いところに存在する潜在的な心的行為までは決して制御することは出来ない。

 室町期の歌人の宗祇
(そうぎ)は言う。
 「人間はみなどす黒い無明
(むみょう)と煩悩(ぼんのう)を持ち、その深い淵を胸に抱え、それがいつ爆発しても不思議ではない。心の裡(うち)に棲(す)む鬼神はいつ猛り狂っても訝(おか)しくないのだ」と。
 人は、日本人に限らず人間である以上、心の裡側には鬼神を棲まわせているのである。
 「残酷」とか「残忍」という、まさに心の裡の顕われは、その中に棲む鬼神の現れである。これを神道的に表現すれば「荒魂
(あらみたま)」の顕われであろう。

万物の霊長と謂(い)われる人間の生命体は、基本的には本体・霊体・幽体・肉体の四分構成からなる。

 人間には霊的世界において、「一霊四魂(いちれい‐しこん)」がある。
 このように言われたのは、真伝の契行を復興した明治の古神道家・川面凡児
(かわづら‐ぼんじ)だった。
 川面凡児は神道関係者ではその名を知らぬものは殆ど居ないという神道家である。
 川面凡児は人間を「一霊二魂」で表現し、直霊
(なおひ)を中枢に据え、魂を和魂(にぎたま)、荒魂の位階で捉えた。
 直霊は宇宙の根源的な意識で神の分霊であり、和魂は精神分野を司り、荒魂は肉体及び細胞組織を司るとされた。そして宇宙の森羅万象は直霊によって霊的に結ばれ、直霊を覚醒させ得る者は、全世界、全宇宙を「感じて知覚すること出来る」としたのである。

 その知覚には「超感情」も含まれる。
 そして川面凡児の言霊学体系は、「禊祓
(みそぎはらえ)」の結果、入境した鎮魂の体験を通じて、鳥船(とりふね)、振魂(ふりたま)、雄健(おたけび)、雄結(おこぼり)、伊吹(いぶき)といわれる奇霊なる神事を以て、これが契となり、祓えとなるとした。そして、この一霊に幸魂(さきみたま)と奇魂(くしみたま)を加えて「一霊四魂」の霊的思想が生まれた。【註】川面凡児の場合は真身魂を加えているので「五魂」となる)

 さて、荒魂であるが、俗に「荒」の字に惑わされて、これを“あらぶる神”と混同してしまう人が多いようであるが、この考え方は誤りである。
 例えば、伊勢神宮の内宮の別宮に「荒祭宮」は天照大御神の外宮の別宮で多賀宮には豊受大御神の荒魂を鎮祭しているが、これは「荒々しい魂」の意味でない。この場合の「荒
(あら)」は、“あれ”の「生」とか「現」のことであり、荒れ狂うという意味でない。だが、意味を取り違えれば、「暴挙」とも誤解される。しかしそう云うものでない。更には狂った感情を云うものでもない。

 だが、現実に“荒ふる神”の魔神
(まじん)に取り憑かれたような行動に至り、その行為が残虐に奔(はし)らせたかのような痕跡を現代に見ることが出来る。
 まさに中庸を外すと、このような暴挙に及ぶというような残酷の魂を現代人も抱えているのではないか?と疑う残虐性の現れを見ることが出来る。そうなると、現代人と雖
(いえど)も爆薬を抱えて毎日を暮らしているようなもので、これがいつ暴挙に変換して表面化するかも知れないという人心穏やかでない一面もある。
 そして現代人と雖も、心中の魔神の爆発に対し、総ての人は殆どと言っていいほど無防備ではあるまいか。ただ自分はそうした暴挙に及ばないと、高を括
(くく)っているのではあるまいか。誰も、「自分に限り」と言うような……。

 しかし、暴挙に及ぶ激しい感情の“荒ふる神”の魂を、その行為を誰もが抱えているのである。そうなると、万一の場合、制御不能となる。自分ではどうしようもないような、他動的に動かされ、一挙に残虐に及ぶのである。
 残虐とは、「血のしたたる残酷行為」のことである。
 それは「土佐絵」などを見れば、明確になろう。

 土佐絵は土佐派の画風であるが、そこに描かれている絵は、大半が「恐ろしくて、かつ美しい」と言うものが多いようである。それは情念が絡んでいるからであろう。あやしくて狂おしいほどの血の妖艶さまでもが絡んでいる。まさに人情カラクリを見るようである。
 土佐人でない私などは“どろどろ”としているという印象を受ける。それは深層部に「血」というものを感じるからだ。
 「血」以外にも、別の感性をもって表現する人があろうが、血と聞けば、その「したたり」である。したたりという脂を何故このように好むのだろうか。
 あるいは脂と見立てる感性が狂っているのだろうか。

 しかし私には、土佐絵から窺えるのは、血であり、血が滴
(したた)る「脂」である。血よりも、脂の方が滴ると言う表現はピッタリ来るものである。
 土佐絵の多くの絵には「血のしたたり」がある物が多い。それは血のしたたりが“美しい”と錯覚を起こすものなのであろうか。
 あるいは狂おしいばかりの“情念”が絡んでいるのであろうか。
 しかし、それにしても「迫力!」である。単に言葉で表現する迫力でない。まさに迫力!である。凄まじいばかりの迫力である。
 見れば見るほど「血と魂の残酷」が漂っているように思われる。そして、それは同時に日本人の血の残酷、魂の残酷と言い表していいのかも知れない。血だけに、何とも凄まじい迫力がある。

 そして日本史の中で、明治以降の残酷史を振り返れば、それは近代戦争史の中にも多く登場して来る。
 戦争という異常事態の中では、日本人の限らず、どこの国の民族でも、戦争犯罪と無縁であった軍隊は地球上で存在しない。大なり小なり、どこの国の軍隊も戦場における残虐行為は働いているもので、ただ戦争と言う非日常においての行為の中では、今日私たちが生活をしている日常生活では想像もつくまいが、非日常の中では、有り余る残酷行為が多く存在しているのである。

 同時にそれは、現代人にも残酷・残虐な遺伝情報は内蔵され、それが残虐因子となっていると言えなくもない。
 現に、近年にも起こっている殺人事件などを考えると、恨みによる遺恨が表面化すれば、直ぐさま残虐性は表出するようである。

 特に、これまで可もなく不可もなく、大人しくで、喧嘩などの暴力沙汰は一度も起こしたことがなく、善良な市民と信じられていた人が、一旦逆上して起こす犯罪は常識では考えられないくらい凄まじく、恐ろしいものである。これも「度合い」とか「限度」という自己の許容範囲の限界を知らないからであろう。そうなると臨界点を超えるのは必定であろう。
 しかしこういう事件は、歴史としての題材は取り上げられないにしても、小説の題材になり、度々刑事物や事件物のドラマで登場している。この事件自体が、人間の残虐性を同時に顕しているのではないか。

 残忍と思われる犯行に及んだ者でも、それ以前は冷静で物静かな、一見して弱々しく感じることが多い。とても残虐な殺人事件に及ぶなどの、そう言う凶悪犯には見えない。兇暴なる異常性格はどこにもなく、ある意味で、物静かで紳士然としているように映る。
 ところが、心中の“荒ふる神”の魂が目覚めれば、筆舌に尽くし難い兇暴に及ぶことがある。これこそ血の残酷、魂の残酷と言えるものではないのか。
 そして中庸とか中道と言う観点から考えてみれば、心の制御を失い、この中点を外したことにより、荒れ狂ったと言う痕跡がないでもない。また、そうした兇暴行為に説明がつかない場合もある。

 これは何故だろう。
 私はこれを武の道で解釈し、その制御に中庸と中道を挙げたい。
 中庸は孔子が辿り着いた真理であり、また中道は釈尊が辿り着いた真理である。
 中庸も中道も、何れも偏らないことを説いている。
 人生最大の目的を金銭や物財に求めるのでなく、また男女の恋愛でもなく、ただひたすらバランスの取れる中点を模索して、その点を得て、安定・安住を得るとしているのである。
 この一点を得るために、人は修行すると言うのである。
 つまり、換言すれば「心の拠り所」である。それを需
(もと)めて、人は求道すると言うのである。それには自分を知り、更に自己を掘り下げて「自分とは何か」を探求しなければならない。

 これは換言すれば、神に対して「これで宜
(よろ)しゅう御座いますか」といいう正安定であろう。拠り所を求めることである。あるいは不動心かも知れない。如何なる外圧にもぐらつかない心の安定である。これを需めて人は求道する。
 つまり、これが神に対しての「これで宜しゅう御座いますか」という問い掛けであり、また回答である。
 その回答を需めて、人が求道すると言うのである。それは自身の探求から始まる。この探求を蔑ろにするべきではないだろう。

 眼力による刀剣の「鑑立て」も、元は求道かた始まった。
 そしてこの場合の「鑑
(み)る」は刀剣を通じてその背後にいる作者なり、それを商った人の心の裡側を見るのであり、それはつまり人間を検(み)ると言うことになる。刀剣を鑑るとは、また人間を検ることで、人間を検ると言う点においては、武の世界も人間相手の勝負であるから、人間が検れずして武の道の精進はあり得ない訳であるから、つまり刀剣の鑑立ても、武における対峙者の見立ても同じ局面を見ていることになり、そこからその深層部を読み解いて行かねばならない。

 さて「武」は、一般に「戈
(ほこ)を止める」と云う文字解釈で知られている。
 この意味からすれば、今日の武道は戦闘や争いを止める術と言うことになる。しかしこれは、現代の平和主義から無理矢理捻り出された存在意義の確立理由だろう。

 中国の古書『春秋左氏伝』は一般に『左伝』という名で知られているが、左丘明の著と伝えられ、「春秋」の注釈書で、春秋三伝の一つに数えられる書物で、三伝のうち最も文にすぐれ、史実に詳しいとされる古書だが、この中には「止戈武」の文字が窺える。
 つまり本来、武は消極的なものとして陰の部分を担ったもので、表面には出るべきものでないが、いつのころからか人類は自己の存続のために知恵と知能を遣い、自然界を支配するために「武」をこの世界で応用し始めた。
 またこの応用術が、国家形成以降、国家概念の一つになったりした。自民族の存続と支配を続行するために他民族を威圧し、あるいは侵略して奪う。このために「武」を用い始めたのである。戦争のメカニズムも、これを背景に発生するのである。

 そして更に突き詰めれば、武と言う文字は本来は足首を顕す「趾」であり、これを古代の武器である「戈」と組み合わせたものである。
 「戈」とは、人間の手で鉤形
(かぎがた)の武器を敵に打ち込む象形文字であり、この状態を「行動」で見ると、敵に対して攻撃に移る体勢を表したものである。つまり、ここには臨機応変なる人間の緊張が顕されており、防衛本能と闘争本能が同居していることになる。そして、戈を用いるのが「術」である。
 この術には、防衛面から考えれば防ぐとなり、闘争面から考えれば攻めとなる。表裏一体で、攻防が見て取れる。

 人類は攻防の術の発展の中で、最初の原始共産社会より出て、氏族国家を形成したり、部族国家を形成するに至った。また部族国家の形成には血縁集団や民族集団あるいは地縁集団で構築するに至った。こうした集団や国家を発展させるためには攻防の術を心得ていなければならず、狩猟採集の生活圏を保護するためには、敵を倒すために武技を身体行動として身につけておく必要があり、これが「戦闘術」となった。

 この術には、まず歯を武器にして咬むことから始まり、次に手に棍棒などの武器を持ち叩く、打つ、払う、躱す、刺すといった武器術に発展し、また手足を武器にして殴る、突く、蹴るなどの行為に及び、対峙者が強ければ逃げる、避ける、弱ければ追う、更に対峙者が知に劣れば計る、陥れる、迷わせるなどの、詭道と思われるあらゆるものを駆使して、攻防戦を繰り返したのである。
 そして兵法では、迷わせて、迷う者は「運気が下がったから迷う」とある。

 人間は疑心暗鬼の陥ると、必ず疑う心が大きくなり、疑いから迷いが起こり、今まで味方として活躍した者まで疑い、遂には運気を低下させ、没落して亡びるのである。
 亡びるとは、迷いの心から起こり、それが疑う心になり、遂には運気を低下させ、最後は滅ぶのである。こうして亡んで、どれだけの者は家を没落させて行ったことか。

 現代の今の世でも、暗躍がある。隠微な暗躍集団が、ある意図の元に動いている。
 平和ボケした日本人の目から見れば、表面的な攻防のための暴力は水面下に潜って見えなくなったが、しかし水面下では人類発生以来の攻防は原始からその延長線上にある。技術が専門化し、単に暗躍の工作や技術が高度になっただけである。それ故見え難くなったが、しかし存在している。戦争が消滅しない理由である。
 しかし、これが抑止出来ないようでは、人間の知恵は余りにも浅ましいことになる。

 したがって抑止弁として中庸並びに中道の中点バランスが必要になって来る。何れにも傾き過ぎてはならないのである。中点で制止して左右のバランスをとらねばならない。中点のバランスが取れて、人は正安定を得る。不動心を得る。



●御様御用

 日本刀についての古人の教えがある。
 「予
(よ)思ふに凡(おおよ)そ刀は武用也、人を斬るに能(よ)く切れ、甲冑に打ち当てたる時に不折不曲を本とす。治平の器に非ず、去れば何の作よりも右の意を要(かなめ)とす」

 また山田浅右衛門は、江戸期の御様御用
(おためしごよう)という刀剣の試し斬りの御用を勤めていたことで有名である。歴代の当主には「朝右衛門」を名乗った人物もいる。
 山田家は死刑執行人も兼ね、首切り浅右衛門で有名であり、試刀術の大家であった。試し斬りの名手として歴史的にも名高い。

 さて、御様御用の役目自体は、腰物奉行の支配下にあった。
 しかし山田浅右衛門家は旗本や御家人ではない。徳川家の幕臣でもないし、他の藩の藩士でもない。山田家の身分は、実際には浪人の立場であった。代々が浪々の身である。

 山田浅右衛門家は浪人の身であり、幕府からの決まった知行を受け取ることはなかった。しかし種々・多方面からの礼金などの心付けがあり、これが収入源となって山田家は大変に裕福であったという。一般の浪人とは、全く違っていた。それは「次元の違い」であったかも知れない。あるいは発想の違いかも知れない。
 それは何故か。

 山田浅右衛門家は処刑した罪人の屍骸
(しがい)を拝領することが許されていたからである。
 これらの屍骸は拝領した後、殆どが刀の試し切りに遣われていたからである。
 この時代の武家では、刀の斬れ味を試すには、実際に人間を斬って、試すのが一番であると言うことが半ば常識になっていたからである。
 試し斬りの依頼は、方々の諸侯・旗本・町家の富豪商人の愛刀家からあり、これ自体が大きな収入源になっていたと言う。その収入高は三、四万石の大名並みと云われた。

山田流の試し箇所と名称図

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 また罪人の数が足りず、試し斬り分に依頼された刀の数に追いつかないため、一度斬り据えた屍骸を再び縫(ぬ)い直し、一体の屍骸を何度も遣って斬ったと言う。また浅右衛門自身、自ら試し斬りを行う武士に対して、自分が拝領した屍骸そのものを売却しあったともある。それでの謝礼もかなりあったと言う。
 更に、試し斬りの経験を生かして、刀剣の鑑定も行っている。

 それは斬れ味をベースに、刀剣の産地と作刀した刀工銘を照らし合わせ、こうした念入りに調査から、刀剣の位列も作成しているのである。
 こうなると斬れ味のほどが一目瞭然となり、美術刀剣はまた実用刀剣としての価値も定まり、美術・実用の両方の面からその真偽が明白となり、それを試刀することによって実際に検証されたのである。

 鑑定を依頼されれば、手数料を受け取っていたが、後には礼金へと性質が変化し、また鑑定依頼の人脈を通じて、名刀と思われる刀剣の購入を世話することもあった。このようなルートが出来ると、買う側も自分の命を預ける刀剣に、その信頼は前にも況して一等も二等も高くなるのである。
 これこそ刀剣が「心の拠り所」となるシンボル的なものであった。

 そして山田浅右衛門家の刀剣鑑定のほどは、地肌などを鑑定する表面の美的センスだけでなく、実用面も試験しているため、その刀剣としんの価値観は一致しているものとして高く評価かされた。それだけ試刀術の大家は武士階級から信用を得ていたことになる。

 そして奇なる商売は、副収入として山田浅右衛門家は、斬死した屍骸から五臓六腑や脳、更には六腑の中でも胆嚢
(たんのう)に目を付け、十二指腸に排出する胆汁等を抽出しそれを原料として、労咳ろうがい/肺結核の漢方名)に効くといわれる丸薬を製造していたという。これらの丸薬は、山田丸・浅右衛門丸・人胆丸・仁胆・浅山丸などの名で販売されというのである。但し、実際に肺結核に効いたか否かは不明。
 こうして山田浅右衛門家は、莫大な収入を得ていたという。

 しかし、こうして得た莫大な金子
(きんす)は、死んでいった者達への供養に惜しみなく遣われたとある。
 東京都池袋の祥雲寺には、六代目・浅右衛門吉昌が建立したといわれる髻塚
(まげづか)という慰霊塔が残っている。
 罪人の首を打つに当り、彼等の今際
(いまわ)の際(きわ)の世辞を理解するため、三代目以降は俳諧を学んだとあり、俳号を所持していたという。また三代目の浅右衛門吉継は「浅」の“あさ”を昇る朝日の「朝」の一字に置き換え、『朝右衛門』としたとある。
 「首斬り朝」の異名を持つ浅右衛門は、ここから起こったとも云われる。これらは近年劇画などになって有名である。

歴 代
山田浅右衛門家
年 代
初 代
山田浅右衛門貞武(さだたけ)
1657年 〜 1716年
二 代
山田浅右衛門吉時(よしとき)
?〜1744年
三 代
山田浅右衛門吉継(よしつぐ)
1705年 〜 1770年
四 代
山田浅右衛門吉寛(よしひろ)
1736年 〜 1786年
五 代
山田浅右衛門吉睦(よしむつ)
1767年 〜 1823年
六 代
山田朝右衛門吉昌(よしまさ)
1787年 〜 1852年
七 代
山田朝右衛門吉利(よしとし)
1813年 〜 1884年
八 代
山田浅右衛門吉豊(よしとよ)
1839年 〜 1882年
九 代
山田吉亮(よしふさ)
1854年 〜 1911年


 徳川幕府瓦解後は、八代目・山田浅右衛門吉豊とその弟山田吉亮は「東京府囚獄掛斬役」として明治新政府に出仕したが、明治3年
(1870)の弁官(太政官に直属し、左右に分かれ左弁官は中務・式部・治部・民部の4省。右弁官は兵部・刑部・大蔵・宮内の4省を管掌)達により、刑死者の試し斬りと人胆等の取り扱いが禁止され、明治13年以降は、死刑は絞首刑となり斬首刑は廃止された。
 山田吉亮は斬役から、以降市ヶ谷監獄の書記官となり、翌年末には退職して、山田浅右衛門家は九代に亘るその役目を終えた。

九代目の山田吉亮の写真。
 筆者はこの写真を昭和40年代の初めか半ば頃に、博多のある本屋で発見して、この本を直ぐに購入した。
 しかし肝心なる当時の書籍は、その後、度重なる引っ越しで、いつの間には紛失してしまった。

 私は学生のとき刀屋を始めて間もない頃、博多のある書店で、刀剣関係の本に、山田吉亮の写真が口絵のページに掲載されていた。そして直ぐに惹(ひ)き付けられた。写真から、妙なるものを感じたのである。
 その時の印象を今でも、実に克明に覚えているのである。
 それ以来、私を捉えて離さなかった。そして、その刀剣書籍は、物語風になっていて、記載内容を、当時実に興味深く読んだことがある。

 特に印象に残ったのは、山田浅右衛門家では、「斬死した屍骸から五臓六腑や脳、更には六腑の中でも胆嚢
(たんのう)に目を付け、十二指腸に排出する胆汁等を抽出しそれを原料として、労咳に効くといわれる丸薬を製造していた」というこの箇所であった。

 これは「熊胆
(くまのい)」の発想であり、胆汁を含んだままの熊の胆嚢を干したものを丸薬状にした物で、熊も哺乳動物、そして人間も哺乳動物とすれば、当然、人間の胆嚢も熊と同様、腹痛・気付・強壮用として用い、珍重されるべきものと検(み)たのだろう。おそらく屍骸を斬っていて、そのことに気付いたのだろう。これを更に進めて、滋養強壮の薬として「労咳に効くのでは?」と考えたのかも知れない。直観力というべきか。
 私は、この箇所を当時、自分の道場の「道場事業部」の発想と重ね合わせて、道場も事業を興さねばならないと痛切に感じたことがある。未来展望の直観力として……。

 また、刀剣の「御様御用」の試刀を通じて、刀剣鑑定を行っていたと言う箇所も、実に興味深かった。
 後に、これは実際に道場事業部の発想と重なり、私が刀屋を始める切っ掛けとなったものであった。事実、数年後には八幡西区黒崎の商店街の中で「大東美術商会」なる刀剣店を開店した。そこで刀剣類と陶芸類を商った。
 山田浅右衛門の物語は、私に深い感銘を与えたのである。特に、試刀の大家・山田家は、また理財の才に秀でていたから、代々経済的自由を獲得していたのである。
 この、一見並みの人間では考え付かない奇想天外な山田浅右衛門の発想を、私は実業家として大いに気に入ったのである。山田浅右衛門の理財の才である。
 何故なら、山田浅右衛門家は往時の武芸者が陥る経済的不自由から早々と解放され、既に経済的自由を得ていたからである。

 これは榊原鍵吉
(さかきばら‐けんきち)が、幕末・明治の剣客として世に名を馳せ、直心影流(じきしんかげ‐りゅう)の達人でありながら、一時期、生活の糧をサーカスの剣術遣いとして身を窶(やつ)し、理財の才がなかったのとは対象的であったからだ。

 山田浅右衛門家の記事が掲載された刀剣関係の本を手に入れた、ちょうどその頃、私は駆け出しの刀屋として、研師の吉藤清志郎先生に師事して、鞘造りから始まって、柄製作や柄巻きに至り、刀剣の勉強をしていたので、刀剣と関連させたこの物語は、「事業」という経済展開から考えても、実の興味深いものであった。武芸者も理財の才がいるということを明確に教えてくれたのである。

 何しろ、山田浅右衛門家では“経済的不自由から抜け出す策”を、早々と切り開いていたからである。猪武者
(いのむしゃ)で武勇だけを誇る猪突猛進的な“向こう見ず”ではなかった。世の中の大局観を把握していた。
 この点に焦点を当てれば、また山田浅右衛門家は経済人でもあった。そして、経済人としての「文武両道の策」を、山田家では早くから確立していたことになる。この確立こそ、明日の喰う米を嘆かずに済む経済的自由ではなかったか。この自由を確立しない限り、幾ら天才的な剣の腕の持ち主でも、斯道に励む道は極められまい。経済的不自由であれば、求道の道は閉ざされる。スポンサーを失えば絶望的になる。

 一口に文武両道などと云うが、本来の文武両道は、まず経済的不自由から解放されて、そうした状況下での文化遺産活動が出来てこそ、これを文武両道と言うのであって、経済的自由を解放しないままに、自称武勇と言う蛮勇に奔っても、それは文化人から一等も二等も下に見られ、単に「蛮行」と揶揄
(やゆ)されて終わりだろう。それでは単に蛮行が失笑されたに過ぎない。武勇も、蛮行と卑しめられては意味がない。
 したがって、スポンサー抜きの自立を誇るものでなければならない。ここに自前主義の大事がる。

 また文化人の眼は、武勇の人を安易に猪武者
と一蹴する傾向がある。文武の順がこれを克明に顕している。常に文が上であり、武が下である。この言葉の列位が、世の中の人間世界の構造を顕している。故に、猪武者では智恵のない愚将と同義になってしまう。武は文の下に来てしまう。

 しかし、そのような武勇を売り物にして、「蛮行」に奔らなかったことは、山田家が、あたかも陽明学で云う「知行合一」の実践を知っていたからではないかと思うのである。まさに山田家の武勇は、智将のそれと同義だった。
 智将とは、文官をも網羅する。武官はもとより、文官も掌握して戦略的立場から策略を用い、力と力のぶつかり合いを回避して精の浪費を抑制する。その抑制する智慧を持った者が智将である。
 私はこの部分に、大いに感銘を受けたのである。

 更に、屍骸から得た丸薬の製造には大変興味を覚えたものである。そして、これがまた、私の刀屋商売を抱き併せとして、これが起点となり、以降何が出来るか模索し始めていたのである。
 私はひたすら考えたのは、どうしたら刀が売れるかと言う、その売り方の模索だった。
 昭和40年代、刀剣は世間に大いに出回っていた。昭和30年代の高度経済成長の余韻を曳いて、この時代は好景気に見舞われていた。事実、刀剣などの美術品は認定書や鑑定書が付きさえすれば、金持ちの床の間の床飾りとしてよく売れていた。私も、暫くその恩恵に預かっていた。

 この時に、大いにそのヒントになったのが、山田浅右衛門家の経済的自由を目指した武人でありながら、一方で経済人でもあるという“この部分”であった。その接点は、私にとって大きなヒントになり得たのである。
 そして売り方の潤滑剤には、高級美術品を買ってくれる人脈の開拓と言うことに気付き、かつて山田浅右衛門家が、鑑定依頼の人脈を通じて、そのパイプを開拓したという箇所に、何か大きなヒントがあるように思われたのである。
 以降、そのヒントをベースに、私の新たな事業に対する刀屋人生が始まったのである。




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