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続・刀屋物語 24

末古刀の『行光』で、嘉元(鎌倉後期の後二条天皇朝の年号で、乾元2年8月5日(1303年9月16日)改元、嘉元4年12月14日(1307年1月18日)徳治に改元)の頃と思われる。
 新藤五国光門、刃文小乱れ細直乱刃足入り錵
(にえ)あり。



●往時の残酷を通じて見えてくる日本人の血の因子

 刀剣の「斬れ味」を試すには試刀する以外ない。
 試刀術をもって、その斬れ具合を検
(み)るしかない。そして刀剣の鑑定と言うのは、真偽を鑑別し、良否を審査するには少なくとも、下記の「7つのポイント」の事項を吟味せねばなるまい。

よく斬れるか否かの斬れ味を試す。
鍛錬の際の火加減および鉄の強柔を検ること。
折れ曲がりの試みを致すこと。
錵匂の浅深、刃文の巧拙、刀姿やその品位。
中茎および銘の真偽を知ること。
刀剣の年代とその刀工についての出来事。
刀身の反り、恰好、釣合、肉置のこと。

 以上の7つのポイントを詳細に審査しなければならない。
 この審査なしに、刀剣の鑑定は正確に出来たとは言えないのである。つまり一番肝心な「斬れ味」を試さずして、正しく鑑定したとは言えないのである。
 つまり「鑑立て」は美術的な表面の美しさを検
(み)るだけでなく、実用的な「斬れ味」まで試して始めて完結すると言うことである。

 しかし現代の世は、斬れ味までを鑑定して、その評価を下すことはあまり遣らないようであるし、既にこうした鑑定法は、今の時代には廃
(すた)れてしまっているようである。
 私の知っている刀鍛冶の人の中に、こうした斬れ味を試す、昔ながらの刀工もいるが、もう今の時代では、極めて小数の人になってしまった。
 知人の、ある現代刀工は打ち降ろしたばかりの刀身をもって、ブロックを一枚横向きにし、これを縦にして斬る人がいた。ブロックの場合、斬るとは云わず、叩き折るという感じであるが、刀身は曲がりもせず刃こぼれも殆どなく、こうした試し斬りをした上で研師に廻すと言うのであった。しかしこうした試し斬りで確認して刀を造る人は少なくなってしまったようである。多くの現代刀工は、美の追求が第一義であるようだ。

 また、昭和以前の現代刀や明治・大正の現代刀においても、今の世にこれらの刀剣の斬れ味を試すことはなく、またそれ以前の新々刀・新刀・末古刀・古刀などの時代別した刀剣についても、既に美術品のもで評価されているため、斬れ味のほどの審査は行われないまま、産地と刀工銘だけで上位美術品となったり、単に大業物・業物などや最上作・上々作・上作・中上作・中作などの表面からの出来映えの評価で留まり、斬れ味未確認になっている物も少なくない。そして、それらは刀剣の番付価格に反映されている。実用面より、美術面のみが強調されているようだ。

 また刀剣愛好家はこの番付により、自分の所持刀の評価を下しているようだが、この評価と斬れ味は、必ずしも一致するものではない。
 更には、種々の団体は発行している認定書や鑑定書の類
(たぐい)に至っても、それは斬れ味を確認した上での証書でないことは明白であり、単に表面から見た鑑定範囲に留まっている。その奥の奥を見抜いたものでない。
 これらの鑑立てはあくまで鉄地や地肌の美を追求した表面的なものである。斬れ味は除外されている。

 したがって、鑑定者や審査者は刀姿や刀身のバランスなどを考慮して、深部から鑑立てを下したものでもなく、表面だけ見ているので、往時の所持者が自分の身長や腕の長さなどを考慮して、中茎
なかご/中心、中子、茎とも)を「摺(すり)上げ」【註】摺上げには「磨上(すりあげ)」と「大磨上」の二種)てしまって短くなり、既にそれだけで刀身のバランスは狂ってしまった物もある。摺上げると、まず反りが変わって来る。中茎が短くなるからだ。
 本来、反りは尖先
(きっさき)頂点から中茎尻(なかご‐しり)までを云う。現代のように尖先頂点から棟区までをいうのでない。
 更に反りには大きく分けて「京反」
【註】笠木反、鳥居反、華表反、丸反などで「陰の反り」を指す)と「腰反」【註】備前反などで「陽の反」を指す。またこういう反を竹の子反ともいう)がある。
 これについては、太刀などの多い「折り返し銘」も同じだろう。斬れ味を検
(み)て試験した実用刀としては、元来のバランスを失っているかも知れない。

 斬れ味は、外観から見ただけでは分からないものである。
 斬れ味を知るには、試刀するのが一番である。試さずして斬れ味を知ることは、一般世人には困難なことである。
 また刀の取扱を生業とする刀屋においても、鉄地や刃のみを検
(み)て斬れ味の優劣を判定することは至難の業(わざ)である。

 刀剣とは、実は斬れそうで斬れざるものであり、斬れまいと思うものが実は能
(よ)く斬れたりする。これだけ不思議な物体なのである。
 それは何故か。
 霊器なるが故に、所有者の人格や品格にに依存する。
 刀剣には「霊剣」と言う高貴な霊的物体があるのである。霊剣は超物体であるため、表面からの鑑立てでは決して分かるものでない。実用面を試して始めて分かる。

 つまり霊剣の霊剣たる所以は、外観より見た「目利き」の眼をもってしても、斬れ味のことは容易には分からないことであり、然
(しか)らば如何にすればよいかということになるが、やはり試し斬り以外に手はないのである。
 刀は試して見る以外その斬れ味は分からない。これが一番の近道である。
 そして往時の武士は試し斬りに人間の屍骸
(しがい)を遣った。

試しの据物斬り。
 屍骸を土壇の上に載せてこれを斬るので「据物斬り」という。

 据物斬りをいつの頃から行われたか定かでないが、記録には「織田信長の家臣に谷大膳亮
(たに‐だいぜんのすけ)という人有り、ある日鷹野に出たところ山陰に死人があった。それを見て一つ刀を試してみようと思い、屍骸を田の畦(あぜ)に載せて斬ってみた。何の刀であるか、記録がないから分からんが非常によく斬れ且(か)つまた、なんとも斬り具合が至極よいので、これより土壇を築いてその上に載せて斬ることにしたのが始まりである」と記されている。

 また「谷大膳亮という人は、羽柴秀吉が播州
(ばんしゅう)の別所長治(べっしょ‐ながはる)を攻める時に従って戦死している」とあり、これが「天正七年(1539)で年五十歳というから、土壇を築いて据物斬りをはじめたのは天文の末あたりか……」と記されている。(井上和夫著『残酷の日本史』より)

斬れ味を試した刀の中茎。
 その後の慶長の頃より寛文、延宝、貞享と続き、江戸では山野加右衛尉永久、同勘十郎久英などの据物斬りの大家がいた。試し斬りをして斬れ味のよかった刀には、中茎に金象嵌
(きんぞうがん)にて「二ツ胴落し」とか「三ツ胴落し」と試銘を入れた。

 長年刀屋をしていると、刀剣市場で度々この業物の刀に出くわすことがある。試し斬りをして斬れ味を確認しているので、出来も大業物に入り、大半は重要刀剣クラス以上で、白鞘の状態で、金額も600万円前後である。刀姿もよく、バランスも取れて名刀の名に相応しい物が多い。

 かつては刀剣を試すのに、打ち首・獄門になった死刑囚などの屍骸(しがい)が遣われた。そうした罪人の肉体を斬って、その斬れ味を試した。
 しかし文明国を標榜した明治以来の日本では、そうした事はしなくなり、また戦前戦中の昭和も御代になっても豚や山羊、犬などを斬ることは容易ではなくなり、況
(ま)して平成の世では、これらの蛮行は動物愛護からも完全に出来なくなってしまった。また現行法や市町村条例で公衆衛生上から死者の屍骸は、喪主に火葬が義務づけられている。したがって時代が違う。
 こうしたことを試すのは濡らした巻き藁
(わら)か濡れ蓙(ござ)の類で、これならば試刀経験を積み上げて行く鍛錬になろう。

 さて、「刃味試し」の沿革を挙げれば、先ずは今日のように、藁や蓙を試し斬りする以前の沿革の大要として、これが最も盛んな時代から述べて行くことにしよう。
 刀の刃味つまり斬れ味だが、刀剣の試しはかなり古い時代から試されていたようである。
 そしてその沿革を調査するに従い日本人の残酷な血の因子の足跡を辿ることになる。

 罪人を斬って、刀の斬れ味を試したというのは、源平時代には既にあったようで、その後も継続されて行われ、源平の戦時には「生き胴斬り」あるいは「生き吊り胴」というものもあったそうだが、これは罪人や敵の武将、更には破戒僧、特に尼が懐妊した尼僧は掟破りと捉え、両腕を後ろ手に縄で縛り上げて大木などの枝に吊るし、生きたままの人間を斬ったとある。これらは盛んに戦国期から行われていたものであるといわれる。
 江戸期における刑罰には『幕府法』というものが出来て、こうした刑罰は行われなくなったが、諸藩では、幕末まで行われていたようである。

生き胴斬りの斬殺の囚人の吊り下げ方。
 この図は本来、牢内での仕置部屋の『吊るし責め』の責めに遣う柱と縄の縛りの図であるが、この責めは両手を後ろで縛り、吊るして責める拷問である。この拷問の体勢で「生き胴斬り」を行うのである。

 生き胴斬りに遣われる柱は大木であり、大木の枝に囚人を吊るして、図のような体勢で囚人が生きたまま、先ず銅が袈裟斬りで払い落され、次に頭部が逆さまになった瞬間、首を落としたのである。
 囚人の斬殺刑には、刀の斬れ味を試す意図も含まれていた。
(井上和夫著『残酷の日本史』より)

 この場合の斬り方は、大半は袈裟懸けに斬るのであるが、中には「三ッ胴」というものがあり、まず袈裟懸けなどで胴を斬り落とし、胴が斬り落されれば、腰から下がなくなるので、斬った途端に頭の方が下を向き、その瞬間を狙って、下を向いたところを、今度は首を斬り落とすのである。つまり瞬時にして躰を三つに切断する処刑である。
 こういう斬り方を「生き胴」という。

 さて、この残酷・残虐の一瞬である。
 真剣をもってする果し合いなどの決闘で、胴を払われ腰から下が切り落とされた場合、斬られた方は前に斃
(たお)れるが、それは足に何かを引っ掛けて転んだと判断するようで、両手をガサガサ動かして手をついて立ち上がろうとすると言うことが何かの本の実話として上がっていた。胴を払われ、腰から下がなくなると先ず前の目に担って斃れるので、これを転んだと判断するようだ。
 つまりその場合人間の脳は正常に生きていて、判断力もあるということである。
 これを生き胴斬りに喩えると、腰から下は失っていても、脳は生きていると言うことになり、その瞬間に逆さまになるが、首を落とすまではまだ生きていて脳の働きはその刹那においても活動していることになる。あるいは首を落とされても、脳は生きているのかも知れない。完全に働きが制止するには何秒か懸かるようである。

 井上和夫著の『残酷の日本史』によれば、加賀藩では刑場に「土壇場」という盛り土を作り、ここに罪人を載せて胴を真二つに切断したという記録があったという。
 この生き胴斬りは、役人二人が胴と首を同時に切断するものであった。
 また加賀藩では、これらの刑を延宝8年
(1681)と元治元年(1864)に「生き胴」を執行している。

 更に「生き袈裟」という斬り方もあった。
 この斬り方は、罪人を生きた状態で、肩から胸まで一気に袈裟懸けにする斬り方である。
 次に「重ね胴」という斬り方で、罪人を生きたまま二人重ね、一息に二人のどうを斬る処刑法である。
 また生きたままではないが『日本書紀』の「祟峻紀
(すしゅんき)」には、罪人の死体を八つに斬り、八ヵ国に散梟(ちらしくしさし)したとある。

 散梟とは、梟首
(きょうしゅ)のことで、斬罪に処せられた人の首を木に架けて晒(さら)すことで晒し首をいい、あるいは晒し肉のことをいう。処刑法も凄まじいが、処刑した後の屍骸を晒し者にするという残虐性も人間ならではの業(ごう)ではないかと思うのである。
 善なる人間の裏には、別の残虐な裏の貌
(かお)を見る思いである。

 そして、「生きたまま斬る」という残酷な処刑の目的に、「刀の斬れ味に対する試し斬り」というものが、もう一つの目的として存在理由になっていたとすれば、これをどう解釈すべきか。
 大名行列の前を横切っただけで無礼打ちにされたり、武家の妻女で不義密通を働いた同士が二人重ねられて斬り捨てられたり、主君が家臣や奥女中たちに課せた御手討ちなどは、やはり刀の斬れ味を試すものであったかも知れない。
 恐怖はまさに、此処にこそ存在するのではないか。
 更にである。
 生きたまま斬られた容疑者が、実は真犯人ではなく、真犯人は別にいて、その者は逮捕されることがなく、ために濡れ衣を着せられて斬殺という刑の執行に及んだとすれば、それをどう考えるべきか。冤罪である。これをどう考えるべきか。あるいは死なねばならぬ咎
(とが)があったと言えるのか。

 さて、江戸時代以前の裁判は、「お白洲裁判」である。
 お白洲では町奉行が検事を勤め、また裁判官を勤める。一人二役である。そして、求刑おとび判決は逮捕・起訴された時点でほぼ確立されている。お白洲裁判のシナリオである。

 このシナリオにおいては、今日のように民主国家・法治国家で行われてるデモクラシー裁判とは全く違っていて、疑わしきだけで処刑された。
 ところが、デモクラシー裁判では「疑わしきは被告人の利益」である。疑わしき者は処罰の対象にならないのである。

 しかしである。
 このデモクラシーの時代にあっても、今日の日本人の頭の中は江戸時代のレベルと同じ思想を抱き、法治国家の国民でありながら、現代の日本にあっても、国民の多くは前近代的である。思考が前近代的なる「大岡裁き」や「遠山の金さん裁き」で凝り固まっている。
 したがって、法治国家を標榜
(ひょうぼう)する日本でも、近代科学の方法論的な追求が充分に行われていない。
 その顕著な例が「田中角栄裁判」だった。

 田中角栄裁判は、当時の裁判所が捜査当局によって作られた捏造
(ねつぞう)証拠により、最初から有罪判決を下す江戸時代的なお白洲裁判だった。この裁判に、デモクラシー裁判で知られるようなリーガール・マインド(近代的法意識)が欠如していたことは明白である。

 日本人の「裁判観」は多くの人が、未だに江戸時代的な裁判観しか持ち得ず、常識的で優秀と思われる人でも、リーガール・マインドが欠如している人が多い。コメンテーターやジャーナリストの中には、この種の人が多いように思われる。そのうえ自分の主観と感情で物を言う場合が多いようだ。頭の中は江戸時代の裁判観のままである。この裁判観で田中角栄は有罪判決が申し渡された。求刑イコール判決の図式であった。

 つまり、多くの日本人の頭の中には、「容疑者イコール犯罪者」と云う図式が、江戸時代的な裁判観で注入されており、「大岡裁き」や「遠山の金さん裁き」があり、この裁きは、一つの復讐法廷と化している。角栄裁判は、まさに復讐法廷での前近代的な裁判だった。
 何故なら、裁判官は検事の求刑通りの有罪判決を下したからである。疑わしきは、罰されたのである。

 当時の日本人は、求刑イコール判決と言う江戸時代的なお白洲で、田中角栄を復讐裁判の槍玉に挙げていたから、この裁判は、最初から有罪判決が確定された裁判であった。
 当時に社会党国会議員などは、田中角栄に有罪の求刑が下ったとき、それをあたかも判決視して、提灯行列をしたと言うから、呆れるよりも、日本人ほどデモクラシー裁判の近代法を少しも理解していない点に愕然
(がくぜん)としたものである。そして頭の中は、江戸時代のままでの思想しか持ち得ない国民性を世界に向けて暴露したことになる。法治国家とは云い難い側面を見た思いである。
 封建時代の権力は恐ろしいというが、むしろ近代の絶対権力の方が遥かに恐ろし過ぎるのである。

 何故なら、この現代にあっても、もし仮に国会の決議で裁判所がそれを合法だと認めた場合、それを政府が実行したとすると、その動きは誰にも止められないのである。
 更にである。
 政府と裁判所と国会がつるんで合意の上で、実行したとなると、もう誰に求められなくなる。そのうえ三権分立のチェック・アンド・バランスが独立していなかったら、絶対権力から国民の生命と財産は守れないことになる。この状況は江戸時代より悪いと言えよう。

 江戸時代の「お白洲裁判」は最初から、奉行は検事と裁判官を兼ねているのだから、検事的な裁判が実行されれば有罪求刑は起訴された時点で、最初から確定的であり、同時に有罪求刑は裁判官の判決も同じだから、どうしても「疑わしきは有罪確定」となってしまう。それも起訴された時点で、有罪は最初から確定されていたことになる。
 こういう裁判観で、容疑者が逮捕・起訴された場合は、この時点で有罪確定と言うことになる。

 もし、かの時代にあって「生き胴斬り」の判決が下されれば、その処刑は必ず執行されることになる。こういう点にも、日本人の残忍で残酷な一面が転がっているといえよう。
 それにマスコミが「憎々しい犯人像」を作り上げ、こうした捏造
(ねつぞう)により、冤罪で死刑囚が処刑されたとなれば、これ以上の悲惨なことはあるまい。

 これは日本に限らず、東洋圏にも西洋圏にも、中世には最も盛んになって残酷な刑罰法が存在している。
 西洋の「火炙りの刑」では、囚人をロープで吊るして火炙りにするのだが、火の熱さで囚人がロープを握って上に這
(は)い上がらないよう、わざわざ囚人の両手首を落し、これを公開処刑で火炙りにして見せしめをしている。公開処刑は大衆に向けての「見せしめ」であり、如何にも復讐的である。
 火炙りだけではなく、磔
はりつけ/張付け。柱に縛りつけ、左右の脇腹から槍で突き殺す処刑)・獄門ごくもん/斬罪に処せられた囚人の首を獄屋の門に晒す)なども、その最たるものであろう。

刑罰/磔刑(はりつけ‐けい)

 これを考えれば、日本人も同じようなもので、日本民族の中にも、先祖の残虐性なる血はあるように思われる。この残虐性を含めて、綺麗事ばかりに目を向けるのではなく、残虐な一面も考えてみる必要があろう。

 一般に日本人と言えば、俳句や和歌、更には茶道や華道、そして香道といった分野で花鳥風月を愛し、侘び寂びの繊細な美意識を持ち、また人情の機微もあるのだが、この部分を眺
(なが)めれば、まさに柔和な国民性と言うものが浮かび上がって来る。

 しかしその一方で、美学や芸術とは無縁の、残虐なる一面の歴史も抱えている。
 その日本人の残虐性が一気に吹き上げたのが、先の大戦での日本軍
(陸海軍とも。そして海軍のそれは陸軍以上だった。特に特攻隊のそれは)の行った、一部の軍人と一部の部隊による残虐なる蛮行であろう。未だに世界から日本が先の大戦で指弾されるのは、この蛮行による。
 また、蛮行の一部は故意に捏造されたものである。

 この蛮行に対して、残虐行為の犠牲にあった人数は、大陸や半島や、そして日本側の調査による犠牲者数は違っているが、小数に見積もったとしても、日本人の過去の歴史から、蛮行が決して行われなかったという分けにはいくまい。犠牲者数に違いがあっても、事実蛮行の行為自体は否定出来ない。

 当時の日本軍の一部の軍人と一部の部隊による残虐なる蛮行は、総て「東京裁判
(極東国際軍事裁判)」で決着がついた思っている日本国民も多いようだが、戦犯容疑で処刑されたのは、その殆どが下級の将兵であり、また彼等の罪自体も微罪で、言い掛かり的に処刑されたもの将兵が大半だった。
 つまり、絞首刑や銃殺刑に処された多くは下っ端であり、大物は殆どが法の網の目を潜り、戦後も安穏とした生活を満喫している。戦犯容疑を上手く潜り抜けた人物の中には、戦後の日本を動かしたリーダーに祀
(まつ)り上げ足れた者も少なくないのである。
 陸海軍の高級軍人だった将官や佐官の禊
(みそぎ)は未だに行われていない。多くの英霊は浮ばれないまま彷徨っている。

 最も悪辣
(あくらつ)な大物は戦犯容疑が帳消しにされ、総て処罰も処刑されずに不問にされたばかりか、戦後の日本のリーダとして、国会議員になったり陰の政府を構築して、政財界に大きな影響を及ぼし、したたかに生き残った連中である。その最たる日本最大の戦犯が、大本営の一参謀だった辻政信らであろう。

 辻はこのグループの指揮官に選ばれた人物だった。
 一方で、辻は服部卓四郎にコントロールされていた人物でもあった。
 また児玉誉士夫、天野辰夫、本間憲一郎、井本熊雄と井本と深い繋がりのある宇垣一成、木村篤太郎、緒方竹虎、森田正夫、渡辺達夫らと、陸軍中野学校出身の一部のメンバーらだった。辻が国会議員に立候補した際には日本全国に50万人の支持者が居たといわれる。
 このグループからは、一人も戦犯容疑者は出ていないし、仮に戦犯容疑者として逮捕されても、直ぐに釈放されて、大手を振って、戦後は高級軍人としての恩給を貰いながら、安穏とした生活を満喫している。
 果たしてこれも、大の虫を活かして小の虫を殺す論法か。

 そうなると、小の虫は殺される運命から免れないのか。
 本来近代デモクラシーは、国民の主権を絶対的にするものではなかったのか。故に、何者もそれを侵すことは出来ず、またその行使は国民の自由に任されるものではなかったのか。
 つまりである。
 デモクラシー下では、主権者たる国民はまた絶対者と言う意味である。
 全くその通りと答える日本人が大半だろう。

 しかし、これこそが実に恐ろしい背後に隠されたものがあったのだ。
 これは江戸時代の「お白洲裁判」以上に恐ろしいものが隠されていたのである。
 日本人の考えるこの場合の絶対者というのは絶対君主をイメージするようであるが、実はそうではない。

 デモクラシー国家では、そこの国の国民は主権者たる国民が絶対者なのである。これが絶対君主と言う意味ではない。主権者たる国民がつまり絶対者なのである。
 とすれば、この絶対者は群れを率いいて明君になることも出来れば、暴君になることも出来る。
 主権は「絶対」を謳
(うた)われているのだから、国民こそ絶対者。これに異存がある者はいまい。
 しかし主権者たる絶対者が愚民化すればどうなるか。
 こうなった場合、主権の名の下に、どんな暴挙か起こったとしても、それは遂行されることになる。

 かつての前近代社会において、主権の名をもって、どんな暴挙もなし得るという事実は、これほど恐ろしいものはなかったのである。
 幕末から明治以前は、伝統主義が支配的であった。
 この支配下では、専制君主と雖
(いえど)も伝統主義的な習慣を無視することが出来なかった。
 これが最も分かり易いのは、徳川五代将軍の綱吉の頃で、綱吉の権力がどんなに大きかったか、歴史を見れば一目瞭然だろう。

 かの有名な『忠臣蔵』の根幹をなした「松の廊下の刃傷事件」の判決である。
 将軍・綱吉の即刻切腹と改易の判決は、あたかも検事と裁判官を兼業した即断と思われる。それも即日判決であり、問答無用の観すらある。
 これは江戸時代が依然、伝承主義に基づいて廻っていた頃の社会常識としては、余りにも権力的であるからだ。即刻切腹と言い伏し、また改易と一蹴している。この言は絶対者的である。

 この絶対者的な判決が、実は考えれば考えるほど、一方で絶対権力を感じて、これまでの江戸期の伝統主義を覆
(くつがえ)し、絶対権力主義が一人歩きしたようにも思えるのである。ここに綱吉の暴君的な振る舞いを感じるのである。
 その一方で、天皇への尊王心も厚かったと言うから、これは絶対者としても矛盾であった。

 さて、綱吉の生母は桂昌院
(けいしょういん)の名で広く知られており、また綱吉は上州館林藩主から宗家を継ぎ、越後の高田騒動を親裁しことで知られる。この意味では、この時期の綱吉は名君だっただろう。
 また堀田正俊を大老に任じ、譜代大名・旗本・代官の綱紀を粛正し、天和の治と称される善政を実現したとある。この点においても名君としての足跡は残している。

 しかし、治世の後半には側用人牧野成貞・柳沢吉保
(やなぎさわ‐よしやす)を重用し、「服忌(ぶっき)令」や「生類(しょうるい)憐みの令」を出し、社会の文明化を推進したが、人民を苦しめ、犬公方(いぬくぼう)と渾名された。これこそ暴君の最たるものであっただろう。
 それだけに、その権力は絶大であった。

 その絶大ぶりを見せ付けたのが、「赤穂事件」の処理である。
 この事件は、元禄14年
(1701)3月14日、霊元天皇の勅使馳走役の播磨赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさの‐たくみのかみ‐ながのり)が、江戸城松之廊下で指南役の吉良義央(きら‐よしなか)を斬りつけたことから始まる。
 これが世に云う「松の廊下の刃傷事件」である。
 但し、浅野内匠頭が斬りつけた刀は、刃渡り25cmほどの装飾拵がされた「小サ刀」という刀で、突いたり斬ったりする実用刀ではなく、大名などの身分の者が差すアクセサリー的な小刀であった。

 しかし、アクセサリー的な小刀といっても、いやしくも大名が指す刀である。それも五万石クラスの大名が指す小刀である。
 幾らアクセサリー的な物と言っても、今日のような模造刀ではなく、また儀礼用の指揮刀でもなく、名工が鍛えた名刀に数えられる大業物である。その辺の、何処にでもあると言う刀ではない。それで斬り掛かり、吉良上野介義央
(きら‐こうずけのすけ‐よしなか)の額に疵を負わせた。この刃傷沙汰により、将軍・綱吉は即日切腹と改易を命じた。
 一方、高家
(こうけ)として幕府の典礼・儀式を司る義央は辞職した。
 内匠頭はその後、陸奥一関藩主・田村右京大夫建顕の江戸上屋敷でお預けの身になった。

 綱吉の命は、幕府の正検使役として、大目付の庄田安利によって宣告された。
 この宣告が終わると、内匠頭長矩の後ろには幕府徒目付
(かちめつけ)が左右に二人付い、庭先の切腹場(臨時に用意された15畳の切腹場)へと移されると、幕府検使役の立会いのもと、幕府徒目付の磯田武大夫の介錯で切腹して果てたとある。

 遺恨はここから始まった。
 内匠頭長矩は幕府の取調役に対し「遺恨あり」としか答えておず、この刃傷事件の真相は不明である。
 しかし、大石内蔵助良雄以下の遺臣は藩主の「遺恨あり」に敏感に反応した。そして赤穂事件が起こった。
 翌年12月14日、47人の赤穂義士が吉良義央邸を襲撃して、義央の首級をあげた事件との併称して歴史には記された。
 では、なぜ赤穂事件が起こったのか。

 まず浅野内匠頭
に注視したい。
 諸説では、浅野内匠頭は精神障害者であったという説もあり、また内匠頭自身が当時鬱
(うつ)状態で治療を受けていたという説や、内匠頭の母方の叔父にあたる内藤忠勝という人がいて刃傷沙汰を犯して切腹させられている事実もあり、それが遺伝的に刃傷事件を起こす要素があったという説もあるが、ここではそれに触れず、徳川将軍家の権力と言うものに焦点を当てたい。

 赤穂藩は5万3500石の大名である。浅野内匠頭は赤穂藩の藩主である。その藩主を「不快」の一蹴で切腹に至らしめているのである。これだけで綱吉の力が絶大であったことが分かろう。
 また綱吉は尊皇心が厚いことで有名である。朝廷との儀式を台無しにされたことに激怒した。その激怒の背景には、生母の桂昌院を正
(しょう)四位から従三位にするため朝廷との儀式を企てたともいわれ、またそのとき柳沢吉保はそのために粉骨砕身の働きをしたため綱吉に気に入られたとも云われる。こうした背景には前近代社会であっても、依然として伝統主義的な束縛があったことが分かろう。
 それでいて内匠頭には、絶対者的で暴君的である。切腹と改易の鶴の一声で判決を下した。

 浅野家は五万石クラスの小大名と言われているが、これは石高から見た判断であり、実質は決して小大名でない。その内実は中大名の上位である。この当時、260諸侯と云われているが、大多数は一万石とか二万石で、五万石以上となると数えるほどしか存在しなかった。その赤穂藩は塩を生産し、米以外にも大きな副収入があった。

 赤穂藩主・浅野内匠頭は天守閣を具えた居城を持っていた。これだけで赤穂藩の財力規模が分かろう。
 更に浅野内匠頭が切腹したとき、城下に早馬を疾
(はし)らせる組織網を持っていた。これだけで赤穂藩の組織はかなりなものであることが分かる。
 そういう組織網を持った藩主を、綱吉は「不快」の一言で切腹させているのだから、その権力は絶大であったろう。まさにこの意味では絶対者であった。時の最高権力者である。

 更に目を向けるべきは、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩を介錯した幕府徒目付の磯田武大夫のことである。
 幕府徒目付は江戸幕府及び諸藩に置かれた役職であり、目付支配の統括下にあった。享保年間にはその目付人数は40名程度とされた。役扶持は役高百俵五人扶持と定められていたとある。
 また役目は目付の指揮の下、江戸城内 の宿直、大名登城の監察、旗本の素行調査、幕府諸役人の執務の内偵、城郭修理を願い出た大名家の調査などに当たり、これらの調査を自分の配下の小人・中間・黒鍬者などを駆使して隠密行動を旨としたともある。

 さて、浅野内匠頭は朝廷から「従五位下内匠頭」の官位を戴き、五万石の城主である内匠頭が庭先で切腹するという事は前代未聞である。
 この場での介錯を磯田が行い、最初一之太刀を打ち込んだが内匠頭の気魄
(きはく)に押されて手許が狂い、次に打った二之太刀で漸く内匠頭が切腹を終了したとある。一之太刀で失敗して、二之太刀で何とか……という感じである。
 そうなると「腕前のほどは?」と知りたくなるが、そのことについての記録はないようだ。それゆえ以後は想像するしかあるまいが、世は元禄であり、この時代は武士の力倆も、江戸初期や戦国期に比べて低下していたのではないかと思われる。

 また、磯田武大夫が介錯に遣った差料である。この差料を詳しく説明した資料が乏しい。大名の首を打つ差料である。どういう物が遣われたのか興味深い。一之太刀で打てずに、二度遣り直しているからである。その腕前のほども興味深い。しかしどう考えても手練
(てだれ)とは思えない。

 「生き胴斬り」も、「生き袈裟斬り」も、この頃には廃れていたのかも知れない。
 しかし「介錯」は切腹者を即死させるために遣われる。
 人間は腹を切り裂いて、切腹しただけでは簡単には死なない。また、そう言う死に方をしても多少の時間が掛かる。
 この時代の切腹は、戦国期の一文字腹の深裂き
(腹部に深く切り込み下腸間膜動脈か総腸骨動脈を切り裂く)や十文字腹(最初横に切り裂き、次に下から上へと切り上げ十文字に切り裂き、わが手で内臓を掴み出し、それを遺恨のある家の門に投げつけて果てたとある)の凄まじい切腹と異なり、形式的な切腹に成り下がっていた。
 そのため死の苦痛と負担を軽減させるために行う行為が介錯で、介錯人が背後から切腹者の首を打つのである。そしてこれらは儀礼化して行った。
 儀礼化した以降、介錯は切腹の一部と一体化され、足運びや刀の構え方などまで介錯の作法として儀礼化したのである。

 その作法として、介錯する場合は、首の関節を斬って、首の皮一枚を残し、切腹者が頭の重みで、前のめり状態で死なせることを配慮したと言われる。首を完全に切り落としてしまうと、前のめりにならず、残された屍骸は仰向けに倒れてしまう場合もあるということに具えたとも云う。

 江戸中期以降になると、更に儀礼化は進み、「扇子腹」と言うものが生まれ、扇子を小刀か脇差しに見立てて扇子を腹に当てた状態だけで、その一瞬を狙って介錯したともある。
 しかし刀術の腕に問題がある者は、瞬時に首の関節を切り落とすことが出来ず、手許
(てもと)を誤り、何度も斬り重ねて、刀を損傷させると言うことも起こっている。その顕著なものが、三島由紀夫の切腹の際に、介錯した森田必勝が斬り損なって、刀を曲げたという失態だろう。これは面目を失う行為だった。

 それゆえ介錯人は、刀術に自信のある、特に腕の冴えた者が選ばれたのである。
 また現代でも、介錯の作法は居合道の型と始めとして、古流の居合術にも伝承されているが、もし実際に介錯すれば、現行法では積極的幇助となり、殺人罪に問われる。

 したがって、介錯人は近代では大東亜戦争の頃を最後に大半は消滅したようである。
 しかし消滅したと言っても、それで日本人の残虐性が消滅したと言う訳でない。心の何処かに復讐裁判のような遺恨が燻っているのかも知れない。それが、今は抑止されていると言うことだけなのである。
 復讐に燃えれば、即座に江戸時代的な、お白洲裁判のような権力が吹き荒れるかも知れない。



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