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続・刀屋物語 26

皮鉄に用いる鍛造用の瓢箪型の鉄素材の南蛮鉄。

南蛮鉄で鍛えられた『豊前住正信作之』の短刀。

 よく練れた鉄地が美しく、乱れて中丸に返る鮮明なる小沸出来の小互の目刃を焼いた見事な作である。南蛮鉄を遣った鍛えが現代刀工としても資料的に貴重な一振り。

(表銘)豊前住正信作之 (裏銘)南部鉄鍛 七四年十二月末日



●経済的不自由の輪廻の輪からの解脱

 この話は、昭和43年頃の話である。
 世間は、全共闘の行方を占っていた時代であり、大学紛争に際し、諸大学に結成された新左翼系ないし、無党派の学生組織が共闘会議を組み、大暴れしていた時代である。

 一方私は、無縁であった。興味がなかった。革命を信じるほど楽天家でなかった。目的は別にあり、志は私の懐
(ふところ)の中で“玉(ぎょく)”として暖められていた。
 玉は、人生を楽観的に見て消費するほど、私の目的はヤワでなかった。
 自らの境遇を顧みてあくせくしないことも大事だが、人生を楽観視するほどヤワな大局観も抱いていなかった。
 こだわることもないが、小さな隙間を見過ごして、蟻の穴から堤も崩れる愚も招きたくはなかった。見過ごせば、千丈の堤も蟻穴
(ぎけつ)より崩る……の窮地に陥るのである。
 しかし、視る方向を転ずれば狭義も広義もない。わが道を、信ずるままに進めば良い。したがって革命とは無縁であった。

 さて、私が博多の書店で、山田浅右衛門の事を記載した書籍を見付けたのは、確か土居町だったと思う。
 今その書店があるか否かは分からないが、確かこの本は『日本刀物語』と題した本だったように思う。当時その本を手に入れた。
 あるいは私の記憶違いで、別のタイトル名であったかも知れない。何しろ、度重なる引っ越しで、この本を紛失してしまっている。しかし内容は憶えている。

 この書店では、後に私の「夜の禁断書」になる『山頭火全集』も入手したので、その頃のことを以外にも克明に憶えているのである。
 山頭火の句集は、夜読むと頭が冴え、遂に眠られなくなり、魂が揺すぶられる思いがするから、私はこれを「夜の禁断の書」にしていた。

 駆け出しの刀屋をはじめたのは確か、大学の二年頃の満20歳になったばかりの時と思う。まだ残暑の残る季節だった。
 この頃、大学と吉藤先生の刀剣研磨処と、また豊山八幡神社境内に道場を構えていたので、その三拠点間を行き来し、更にその折を見て、武術の師匠であった山下芳衛先生のところにも貌
(かお)を出す日課をこなしていた。
 その上この合間を縫って、板前見習いとして割烹料理屋の厨房にもアルバイトに出掛けていた。この当時は学業以外にも多忙な日々を送っていた。

 更に、刀剣の購入資金に困窮しつつあった私は、山田浅右衛門家に因
(ちな)んだ訳でないが、武術一辺倒ではなく、「商い」にも精を出した。また猪武者(いのむしゃ)と蔑(さげ)まれるのを跳ね返すために、私は自分なりに考えて、この頃から新聞広告に「プロの家庭教師」と銘打って、あたかも人目を引くような横行(おうぎょう)な広告を出し、大学受験の高校生を対象に現役合格を謳(うた)い文句に、一風変わった特異な家庭教師を始めた。
 これを始めたのは、先ず人脈の開拓を目的とした。そのためには世で云う、旧家と言う「地元の名士」に当りをつけなければならなかった。
 私は一介の貧乏人の師弟だった。脛
(すね)を齧(かじ)る親もいなかった。底辺の生まれだから、親から受け継ぐような資産や財産もなく、また人脈もなく、ただあるのは一応健康な五体と、少しばかりの知力であった。その知力をもって、高校生対象の、自称「プロの家庭教師業」を始めたのである。

 私は幼少年期から親戚中を盥
(たらい)回しされて育った。
 思えば、そういう盥回しされた日々を回想し、此処から這
(は)い上がる道を模索し始めたのが、この時期だったように思う。当時を思えば、過去を振り返って、いい想い出はそんなに無かったように思う。
 小学一年から三年一学期頃まで、平戸の母方の伯母の家に預けられた。そして、やっと母の長い闘病生活が一段落して恢復
(かいふく)し、父母の許(もと)で暮らしていたが、それから半年も経たないうちに、再び母の病気がぶり返し、今度は本格的と言うか、正真正銘の「親戚中の盥回し」の憂き目にあった。そこは佐賀県有田の陶芸業の家だった。この頃が一番辛かったように思う。

 そこで「他人の冷や飯」という、同じ曽川の親族でありながら、血が遠いということで、“一ランク下”と云うか、更には二等も三等も下と云うか、そういう冷ややかな扱いを受けて、丁稚奉公に上がった小僧のような真似をさせられたことがあった。
 そこの家の子が食事をしている間、給仕の真似をして、私一人が使い走りさせられ、それは終わって後片付けをして、やっと食事にありつけるという有様だったが、その頃には食べる物は量も少なく、肉類は残っておらず、汁物は冷めたものばかりで、そういう冷や飯を自分で飯櫃
(おひつ)の底に貼り付いたような麦混じりのご飯を茶碗によそい、腹にかき込むと言う日々だった。
 この頃、よくテレビで宣伝されていた日本人へ向けてのメッセージが「タンパク質が足りないよ」だった。
 私はまさに、タンパク質の足りない欠食児童だったのである。

 他人の冷や飯と、丁稚小僧のような扱いを受けるのが厭
(いや)で厭で、遂にその家から逃げ出したこともあり、もう再び、その家に戻ることはなかった。以降盥回しされることもなかったが、しかし今度は、佐賀県嬉野の八歳上の異母の姉の家に預けられた。姉は嬉野温泉で芸妓(げいぎ)の置屋をしていた。此処は居心地がよかった。一年半ほど居たであろうか。
 他人の冷や飯より断然優遇されていたが、これがよかったのやら、悪かったのやら、よくは分からないが、しかし血が近いだけに、他人の冷や飯よりは数段上だった。それを考えれば、確かによかったのだろう。一方で、異母でも姉弟という関係で、血が近いだけに過保護であったのかも知れない。

 そして佐賀県嬉野から北九州に舞い戻ったのが、小学校高学年の頃だった。転校摺れして戻って来た観があった。
 当時の子供としては、親戚中を盥回しされ、親戚と雖
(いえど)も他人の冷や飯を食わされて来たのであるから、こうした環境下で、自然に身に付くのが「人の顔色」である。顔を観察し、その顔色を読むのが必然的に上手くなる。今から起こるであろうことも、顔色から読む術を覚えたように思う。防衛本能が敏感になるため叱責には、先を予期してはしっこい振る舞いをすることになる。そういう要領や狡猾さも覚える。

 叱られるな……と、そういう気を察知すれば、何とかそうならないように回避しようとする。こうしたことは防衛本能が自然と、そのように働いてしまうのであろう。
 また、生きるためにご機嫌伺いをしてお追従することも覚え、相手を立てることも覚えた。そのように、必然的に育った子供が、今度は再び北九州八幡へと舞い戻って来たのである。

 小学校時代は、転校、転校の連続だった。
 低学年の時期を除き、行く先々の学校では“転校生扱い”と言うより、バカにされる日々だった。転校、転校の連続が得体の知れない人間を思わせ、根無し草と軽蔑されていたからであろう。
 当時、私と同じような転校生に、旅芸人の同級生がいた。この同級生は一ヵ月ほど学校に留まるのだが、その後は何処かに行ってしまう。何処に行ってしまったのか分からないが、陰口として“根無し草扱い”されていたから、私もそのように考えられていたのであろう。転校、転校の連続の中では、転校先で親切にされたと言う記憶がない。冷ややかに扱われたことだけが印象的に憶えている。

 そして北九州八幡に舞い戻ったとき、級友から「お前は何月何日生まれだ?」と訊かれて、「8月1日だ」と答えたところ、八月が盆の時期であり、「盆の時期に生まれたから、お前はボンクラ
(別解によると「盆の暗い時期」という意)だ」ということになった。

 やがてニックネームが「ボンクラ」となり、また中学に上がる直前に際し、頭を丸刈りにすると、頭が“絶壁のように尖
(とが)って、凄い勾配”をしていることから、侮蔑と罵倒を含めて「傾斜面」と渾名され、口惜しい思いをしたことがあるが、この思いはこれではでは終わらなかった。

 昭和23年の団塊の世代である。ベビーブーマー世代である。あたかも終戦直後の“蝗
(いなご)の大量発生”のような、大量発生時期に生まれたのである。近年では高齢化社会の“災い”の一つに数えられる世代である。
 当時、小学校には同年代の子供がわんさかいた。路地にも、大通りの道路にも、同年代の子供で何処も彼処も溢れていたように思う。何処からでも子供が降って湧くようだった。

 学校でも児童数が多いだけに、一クラスも50人前後いて、ごった返すような毎日だった。
 一応、北九州八幡も周辺地域では「鉄の都」と称されていて、私のような頭のレベルで末席を汚すような、穢
(きたな)らしいゴミ同然の子供は、今で云う苛め以上に酷い目に遭(あ)ったことがある。
 災難と云う言葉で片付ければそれまでだが、しかしそれにしても、同年代の子供から苛められ、また何故か担任教師から苛められ、この時期は立つ瀬がないと言う有様で、学校内では教師側のビンタをはじめとする「体罰有り」の時代であった。

 こういう体罰を受けても、当時の親は今の時代と異なり、その苦情を学校にぶつけるでもなし、教育委員会にぶつけるふうでもなかった。子供が学校で叩かれて、痣
(あざ)を作って帰宅しても、ただ沈黙し忍従した。
 それは戦前・戦中の「教師は聖職」というイメージが強くあり、聖職に逆らうことへの発言は慎んだものである。今日のように、教師は労働者でなかった。それだけに尊敬の一面もあったが、逆に聖職と言うイメージを親達が持ち続けていたため、学校や教育委員会を相手に訴訟を起こすなどは、以ての外と思い込んでいたのだろう。

 小学校高学年の時
(5年生終わりか6年生始め)に鉄棒から堕(お)ちた際、足を挫(くじ)き、足首の静脈が切れて大怪我を負い入院したことがあった。そのときも親は学校相手に争うことなく、忍従し、沈黙したままであり、治療費を請求することもなかった。数ヵ月ほど入院と手術をしたが、総て父の社会保険で賄(まかな)われた。

 入院費や医療費が学校から出るでわけでもなく、また教育委員会が担当教師の指導ミスに対し、謝罪すると言うこともなかった。
 当時は忍従し、沈黙することが、底辺庶民の常識とする社会通念があったようだ。
 今なら大問題だが、私自身、世の中とはそういうものだと言う諦めがあったように思う。それを言い返しても、負け犬の虚しい遠吠えのように思えたのである。

 そう言う中を、底辺の弱者として周囲から蔑まれつつ、自力で生きて来なければならなかった。それだけ、人より早く大人になったような気もする。
 私にとっては、将来的に検
(み)て、自立のための好ましい構図であったかも知れない。むしろ幸いだっただろう。そう採(と)る方が、今日の自分のある事に、存在意義を見出すことが出来るのである。
 逆に、こういう苛めと蔑みがなければ、今の自分があったかどうか分からない。ここに人生が、改めて「人間万事塞翁
(さいおう)が馬」であることを思い知らされるのである。

 更に、中学三年の夏、父が死んだ。
 死ぬ前のことだが、父は八幡製鉄の底辺の職工だった。
 下級軍人だった父は軍隊上がりで、製鉄には途中入社だったので、勤続年数が短い上に、当時は55歳が退職年齢だった。それに仕事上の事故で、溶鉱炉の熱を被って大火傷したこともあり、躰は非常に弱っているようであった。
 そして父の口癖は「人生五十年」であった。

 父と同じ同年代は、大東亜戦争に徴兵された年代であり、また多くが激戦地で戦死しており、この当時の男性の平均年齢が42歳であったから、それよりも長生き出来たと言うことで、父は何故か、先に戦死した英霊に対し常に「申し訳ない」という気持ちを抱いているようだった。

 さて、これを前後して、あるとき級友から「お前のオヤジは、いつ製鉄を退職するのか」という話になり、また級友の父親の多くが八幡製鉄勤務が殆どで、大半は職工であり、それでも私の父より皆年齢が若かった。私が中学の頃、父はもう五十を過ぎていた。自身で言った「人生五十年に達していた」のである。
 そして、「いつ退職するのか」と言う話になった。つまり、父親の退職後の自分の運命が、どうなるのかと言う意味と同義語だった。

 年老いて早く退職すれば、それだけ経済状況は厳しくなり、その家の子弟は、早く就業を開始しなければならない。つまり、高校、大学と言う進学率が、それだけグーンと低くなる。親の脛を齧ることが出来ないのである。
 ところが、親の退職時期が、高校や大学を終えた後になれば、その間、親の援助で学校に行けると言うことになるのである。親の援助がなければ、中学以上の上級学校には行かれない時代であった。
 しかし、救われたことが一つあった。

 それは中学一年の頃から始めた新聞配達が役に立ち、もうこの頃から、大人に混じって働くことを知っていたからである。働いて金を工面することを知っていた。
 齧る親の脛がなければ、自分で働いて自立し、自分の脛を齧ればいい。自分の脛を齧るのに、誰に遠慮がいろうか。何の憚
(はばか)ることもない。自分の勝手次第である。

 そう思うと、父が死んだからといって、思い込みから、経済的不自由になる必要もなかった。
 現実が不自由なら、自分の力で自由を獲得すればいい。それが私の働く原動力になった。
 働けば、金銭が得られるという金銭感覚も身に付いた。働いて得た金銭は自分の物である。これに何に遣おうと勝手であった。
 そして、もう母親の生活費などの面倒も見ていた。
 助かったのは、家が持ち家だったので、僅かな土地家屋の固定資産税を払えば、家賃を払わずに済むと言うことだった。

 中学以上の上級学校も、少しばかり向学心が旺盛だったので、自力で進学することにした。労働と学業を両立させる自信があった。
 親が製鉄だったので、満期を前に親が死ねば、製鉄の職工として三交代で働きつつ、夜は定時制高校に行くと言う制度もあったが、何故かこの道は選択しなかった。むしろ正規の全日制高校へと進んだ。夜間の定時制に行くという気持ちはサラサラなかった。
 全日制でも学費の安い学校は幾らでもあったし、そういう隙間に入り込んで、学業時間外に働きながら学校に通えばいいと考えていた。事実そうした。それに学力特待生と言う制度もあった。

 特待生は何も、体育系の野球で甲子園に出る、そういう特待生だけではなかった。
 昼間、堂々と全日制高校に通い、然
(しか)も夕刻から働けばよかった。また朝は早起きして牛乳配達をした。これは配達単価が高いためにいい収入になった。これが終わって、朝稽古にも出掛けた。六時半から七時過ぎまで遣る。それから学校に出掛けるのである。そして学校が引けて、夕刻になると板前見習いのバイトに出掛けた。
 またこの当時の稽古は、朝が主体で、稽古は日曜も含めて毎日だった。一年365日、道場稽古に毎日通った。

 大学も同じであり、ある程度の「大学に行く才能」を持っていれば、何処の大学でも学費のことは気にせずに行けるのである。学費の安い大学は幾らでもあった。国公立に行けば安いし、私学でも学力特待生を若干募集していたので、わざわざ大学から給料がもらえて行ける大学もあった。
 私大の医学部などは、こうした学力特待生が何処の学校にも五名から十名はいて、医師国家試験の合格率を嵩上
(かさ‐あ)げしているようだった。昭和30年代から40年代当初は、こうした入学が許されていた。裏口入学ならぬ、学力優秀者優遇制度である。

 また当時でも、今ほどではないが、奨学金制度も種々あり、就職後の返済も無用と言うものまであった。そういうものを利用しつつ、行きたいと思うところに何処でも行けた。後は大学に行くだけの学力と才能だけだった。
 今日でも同じだと思うが、大学進学が難しいのはサラリーマン子弟で、親の所得が平均並みか少し上で、一様経済的には困らない程度に日常を過ごし、苦労知らずで、学力も「中の上から下」というランクの子弟が志望校入学には難儀するようである。この階層の大半が、今日でも大学入学に当り困窮するようだ。しかし現実には、学力と才能さえあれば、何処にでも好きな大学に行けるのである。その意味では有名教授やタレント教授の“追っ掛け”も出来る。

 世の中はマルクス経済学者の云う、河上肇の『貧乏物語』のような社会構造にはなったいなかった。この世にはマルクス経済学では片付けられない現実があった。サムエルソンの比較優位説で、階級的分業構造になっているのが市場経済の経済原理だった。
 だから私は、金の掛からない方を選んだ。

 そして大学に入って間もない頃、神社の境内の古い能舞台を改造して、そこを道場にし、道場が終わってからは、隔日で「板前見習い」もして少しばかり手に職も付けたし、二年生になり満20歳なると古物商の鑑札を取って刀屋まで始めていた。それに併せて、効率のよい家庭教師業も始めていた。

 このとき私は、プロの家庭教師を遣っていた。つまり、アマチュアでない、まさにプロの家庭教師だった。
 プロとは、大学入学を保証する「プロの受験指導」の事である。志望校に合格させることを謳
(うた)い文句に、新聞に広告を出し、家庭教師を将来の事業拡充のための橋頭堡(きょうとうほ)とし、これを足掛かりにして人脈を開拓する作戦を立てたのである。この作戦は見事に図に当たった。人脈作りに以降功を奏することになる。
 そして当時、私の時給は1万円から1万5千円だった。この時給から、鐚
(びた)一文も負けることはしなかった。私は安売りはしない主義である。それは今も昔も変わりない。

 この当時の1万円から1万5千円という金額は、誰が考えても、あるいは今でも篦棒
(べらぼう)に高い時給である。
 しかし時給が高いからと言って、依頼主が全くいないと言う訳でなかった。むしろこの場合、高い方が、依頼が殺到したことを覚えている。世の中は“安かろう悪かろう”では動いていないのである。

 高級品とは、こういうメカニズムによって、高級品を理解出来る富豪へと売れて行き、そして捌けて行くのかも知れないという自信を抱いたことがある。
 私は薄利多売のディスカウント・ショップを遣っているのではなかった。高級品のみを扱うのである。人間社会の「階級」に目を向けたのである。
 したがって、買手も高級品を手にするに相応しい人物のみを相手にした。これは何故か、刀屋と共通点があった。
 刀は、日常無くても困る必需品でない。鑑
(み)る目を持った人だけが鑑ればいい。売買は買手のみに権利があるのではない。売手にも、誰に売り、誰に売らないかの権利があるのである。高級品は買手市場ではなく売手市場なのである。

 そして、家庭教師を引き受けるか引き受けないか、それは依頼主が決めるのではない。請負人の私が決めるのである。選択権は、こちらにあった。
 私の方がその家の師弟に、「これは……」と思って眼鏡に叶えば、引き受けるという策を立て、こちらの方が、依頼主の親子面接をすると言う、私本位の特別受注のような派遣引受業を遣ったのである。自らが派遣事業者であり、自らが派遣員だった。

 こうして一年間引き受けて、私の目的は「合格の暁
(あかつき)には……」という最終目的の策を、胸に秘めていた。
 しかしその策は、早々と明かせなかった。それを明かせば下心が見えてしまう。今は明かせないのである。刀屋であることすら明かせないのである。刀屋であることも、合格の日まで俟
(ま)たねばならなかった。
 合格の暁には、私の刀屋で重要クラス以上の刀剣を「合格祝いの縁起物」として購入して頂くと言う、秘めた目的があった。また、これは縁起物なので、必ず断らずに買ってくれると信じていた。

 そのためには、引き受ける家の資産状況や所得状況を地元の『名士録』や『紳士録』を通じて知らねばならなかった。つまり所得番付である。
 また美術品の志向なども考慮に入れねばならなかった。風流人であるか、否かの「遊び心」のほども。

 私は「遊び心」イコール「損する余裕」と解していた。
 親がこの種の人でなければ、高級品を買ってくれる遊び心など、存在しないことになる。これでは最終目的が達せられないのである。
 そのためには、その条件として、受験希望者を第一希望大学へと確実の合格させることであった。
 私の家庭教師は兼業はプランAだけでなく、プランBまであった。プランBまで達成されて、私の目的は始めて達成されるのである。

 いま振り返れば、無謀な事をしたと思わないでもない。あるいはそうだったかも知れない。おそらく無謀なことをしたのだろう。
 しかし、大見得を切った観があったことは否めない。あるいは自信過剰の“張ったり”だったろうか。
 それでも、人は志と信念があれば信じるものである。情熱の負けるものである。したがって熱っぽく語ればいい。熱弁で捲
(ま)けばいい。自立が早かったためか、それだけしたたかだった。

 私は自分の眼鏡
(めがね)に叶(かな)った生徒のみを引き受けたから、受け持った生徒は、総て志望大学へと送り込むことが出来た。熱弁が功を奏したとも云えよう。
 それは、私が頑張ったのではなく、生徒が頑張ったのである。生徒が優秀だったからである。プロの家庭教師のポイントは、最初から学力優秀者を手に入れればいい。これは予備校や進学塾が、学力優秀なる者を集めた「特Aクラス」を見れば納得いくだろう。経営者の考え方で見れば、並みの学力を上位クラスまで引き揚げることが、如何に大変か、雄弁に物語っていることである。したがって、これにより合格率を高め、不合格者が出ても、これで帳尻を合わせているのである。

 生徒を第一志望の大学に合格させたのは、私がプロの家庭教師として、必ずしも受験指導の技術を持っていたからではない。そんな技術など、学生の分際の私などにあろう筈がない。生徒の方に頑張れる頭脳と、勉強するに適した体質を持っていたからである。総じて、そこに帰着する。
 しかし、これは私のとっては一大事だったので、後は「度胸一番」で突き進む以外無かった。この両者の相乗効果であろう。

 大見得を切った根拠は、ただただ志望校の合格を狙って、その助言をし、策を授け、その気にさせただけであり、私の方が、その気になる生徒を選抜して、「これは……」と思う生徒を指導したまでのことである。
 あるいは唆
(そそのか)すようなことを言って、その気にさせただけである。そう言う生徒は、何故か私の夢に喰い付いた。

 逆に、その気になる確率が少ない者は、最初から引き受ける気はなかった。トラブルの元兇であるからだ。
 ヒントと策を与えただけで興味を抱き、勝手に勉強し始めるのは、成績上位の生徒に限られていた。頭の構造がよく出来ていて、それに敏感に反応し、創意と工夫を惜しまない頭の回転の速い生徒に限られていた。そのためには性格的にも素直でなければならなかった。
 一方、中から下は駄目であった。その階級のガリ勉型は自信過剰で、優越感も強い割りには、いざとなると依頼型であった。
 勉学には依頼心が強く、目的意識が明確でなく、第一志望のみならず、第二志望があり再三志望があり、第一・第二・第三を外せば、最後は合格すれば何処でもいいという、そう言うのを相手にすると、労多く利少なしである。まさにトラブル・メーカーだった。間違いなく家庭教師の所為
(せい)にされる。

 これは武術あるいは剣術で云うと、自分の一之太刀を信じず、相手方外されれば、二之太刀、三之太刀で攻めるという「後がある」ということであり、「初太刀に総てを賭
(か)ける」という気概が欠けているのと同じである。これは自分を「甘えの構造」の中に置いているからである。初太刀に総てを賭け、それが外されれば玉砕すると言う戦闘しそうに立っていないからである。
 勝負は、二之太刀、三之太刀のあることを考えず、初太刀に総てを賭けるべきである。そういう行動律で動いている現役の受験生でなければならなかった。一浪以上をした生徒は、“受験擦
(ず)れ”して、実に指導し難いのである。

 そのためには、一から教えるような出来の悪い生徒は、金持ちでも断った。
 同じエネルギーを遣うにしても、出来のいいのと、悪いのとは雲泥の差があった。出来の悪いのは、人間的にも自惚れが強く、自信過剰で、そのくせ劣等感も強い。人を侮れば直ちに優越感を抱く。一浪以上をした生徒ならば、既に“受験擦
(ず)れ”して遣り難い。受験指導して来た経験からである。

 また、中の上と意識する階級は、自分の上位を見ず、常に下位ばかりを見ている。そのために、自分より下位の階級を見て、「あれより増しだ」と強い自負心があり、ために優越感に陥り易い欠点を持っていた。考え方も、下位を見下すから残忍である。その意味では、最上階層や最下位層よりも質
(たち)が悪い。
 それはあたかも、会社員として雇用側の遣われるうちはいいが、会社役員として重役に起用され、雇用者を遣う側に廻ると、即座にボロと欠点を出すタイプである。支配階級と被支配階級のズレとギャップである。これが逆転すると、「残忍」という形で表出する。これは長年、人間を見て来た経験による。
 相手にしたくない、敬遠したい階層だった。

 一方、上手く選抜すれば、裕福で、大らかな子弟に遭遇することがあった。
 素直で頭の回転が早く、摺れてもおらず、将来学問で世に立ち、そのうえロマンがあって、私の策に共鳴しそうな子弟を受け持ち、そうした生徒を二人程度確保し、大方一年 間、それぞれに週2程度で受験指導したことであった。
 指導回数によって多少の差はあるが時給が1万円から1万5千円だから、一回2時間指導で、週2のローテーションで回すから、一軒廻って一ヵ月では約20万円から24万円ほどになる。これを二軒の請け負いで掛け持ちしていたから、大方一ヵ月で50万円弱を稼ぎ出していた。
 当時、大学生がする商売としてはいい商売であった。
 しかし、それで得た金を元手に、刀剣を買い込んで行った。無用な出費は出来るだけ抑え、大半を刀剣購入資金に当てたのである。

 大方の刀剣市場の仕組みも理解出来ていたので、50万円ほどの金を種金にして購入した刀剣を、次に70万円から100万円で程度で売却するのである。それを元手に翌月には、家庭教師て得た金と併せて200万円クラスの物を購入する。
 こうして次々にランクを引き上げて行ったのである。
 しかし引き上げると言っても、順調に伸びた訳でない。
 時には贋作を掴まされて、吉藤先生に鑑定してもらって、唖然
(あぜん)としたこともあった。
 これは何も大金を投じて……という口惜しさより、自分の眼力のなさと未熟さに唖然としたものである。
 率直に云えば、自分自身に腹が立ったのである。恨みの鉾先
(ほこさき)は自分にあった。
 未熟な眼力で、何度『虎徹』の贋作に填
(は)められたことであろう。これまでの儲けを根刮ぎ持って行かれたこともある。

 贋作の多くは、実に見事に『長曽祢興里入道乕』とか『長曽祢虎徹入道興里』とか、更には“ハネ虎”で有名な『長曽祢興里虎徹入道』の寛文初期の銘が入っていた。呆
(あき)れるくらいに見事な銘であった。
 そもそも『虎徹』の贋作だけで一冊の本が出来ると言うから、この研究だけでも相当に奥深いものがある。
 最初『虎徹』の贋作を掴まされ、それを吉藤先生に鑑定してもらったところ、「贋作だ!」と一蹴されたことがあった。内心では「やはり……」という気持ちがあった。その覚悟は出来ていた。
 しかし、夢と期待を抱き過ぎるのも、ほどほどにしないと、最後は命まで持って行かれることになる。
 また、この時に出遭った書籍が『菜根譚』だった。『菜根譚』には「ほどほどにして、わが身が保たれる」とある。

 人生は甘くないと言うが、むしろ背後に、魔が引き込む運命が控えているから、こちらの方が恐ろしい。人間には意地になる一面があるからだ。そういう“こだわり”は、サラリと捨てなければならない。
 先ずは、「口惜しさ」よりも「損する余裕」を養う方が先決だった。
 この余裕だけを持っていれば、人生はそう簡単にギブ・アップしないのである。背負った禍
(わざわい)は、自らの自浄努力で、福に変えればいいのである。

 吉藤先生は贋作の『虎徹』擬きを指して、こう言った。
 「素人目にはよく出来た物と映ろうが、第一、時代が違う。虎徹は新刀で江戸初期。それから察すれば、新々刀や明治以降の現代刀ではない。中茎
(なかご)を見れば想像がつこう!」それば頭からの罵倒だった。
 その指摘は、あたかも「お前の目は節穴か!」と云わんばかりだった。あるいは初歩的な間違いを指摘されたようだった。
 私はこの叱責に、恐縮するばかりでなく、自分の未熟を徹底的に思い知らされた感じであった。あまりにも知らな過ぎた。
 無言で“申し訳ありません”と頭を垂れていた。穴があれば入りたいほどだった。
 「しかし損するだけの余裕がなければ、人間は大成できん。人の世をしたたかに生き残れない。往生際悪く生き残ったとしても動物的では駄目で、人間的な生き残り方が必要だ。ここに人間と動物の違いがある。人は耐えるものだ。この屈辱、耐えることが出来るか!」とこう喝破
(かっぱ)されて、思わず絶句し、苦悶(くもん)したことがあったが、思い直し、角度を変えて、物事全体を根本から見詰め直すことも必要だった。そう促されたように思料する。これが出来ない限り、大成はなるまい。

 残念がることよりも、先ずは勉強だった。贋作の造りを認識し、贋作の作風を脳裡
(のうり)に焼き付けることだった。贋作を造った作者の気持ちを考えることであった。贋作者の気持ちになることが、贋作を見破る唯一の方法なのである。贋作から逃げるのではなく、贋作の中に入り込んで行くのである。そうすることで、贋作と私の鑑立ては一つになることが出来る。そして眼力が出来て来る。
 つまり作品を通じて「作者」の人間性を検
(み)るのである。
 また認定書や鑑定書の“お墨付き”を簡単に信じないことであった。こう言うものは、素人騙しである。だから素人を引っ掛けるために認定書や鑑定書がある。実は刀屋も認定書や鑑定書が付いていれば売り易い。
 しかし、ところがである。

 そういう偽
(いつわり)のお墨付きは、世の中にゴマンと出回っているのである。目的は素人を騙すためである。
 したがって、私文書偽造があっても当然である。無い方が訝
(おか)しい。此処から疑うべきである。
 そして騙されれば、それは「損する余裕」を理解するためには、自分を大成させるための「有難い月謝だ」と思い、この屈辱を耐え忍ぶことが出来る心の度量を得ることが大事であった。
 もうこのとき小規模ながらも、事業家としての道を歩いていたのである。

 事業家には「破損する余裕」の心の度量が必要だった。
 損を気にするような小人
(しょうじん)では、将来が見えて来ないし、勘も養えない。緊張感も得ない。
 また損しても、損した部分を無理に取り返そうとせず、それは捨てておき、次の新たな奇手を考えればいいのである。この奇手こそ、創意工夫であった。
 損に対し、また損させた相手に対し、怒りを露
(あらわ)にするのは、自分の間抜けを自分で煽(あお)るようなものだった。

 世の中の損する余裕のない人間の大半は、自分が損を被ったことに、怒り心頭に来て荒れ狂うだろう。それはその時の感情で仕方ないが、荒れ狂っていては、「損する余裕」まで学ぶことは出来ない。一方で、毅然とした態度は「損する余裕」があるからこの態度がとれるのである。
 私が幸運だったことは、それを学ぶ機会を得たからであり、損を被るから、もう刀屋は辞めようとは思わなかったことである。もう一度気持ちをリセットして、最初から勉強し直そう……となったのである。
 損に怒り狂うのは、度量の狭い小人
(しょうじん)である。
 小人の域から解放されるためには、「損する余裕」を学ぶことが先決であった。

 そして事業をすることは「損することもある」という市場経済の現実も学んだのである。現に市場経済は、損得が入り乱れているではないか。市場では、損と得が綯
(な)い交ぜなのである。
 この世界には、騙そうとする詐欺師がゴマンと居る。詐欺師に掛からないようにするには、詐欺師を知らなければならない。その実体と手口を知り、詐欺師の気持ちが理解できなければならない。言わば、彼等は知能ギャングだ。知能犯だ。表面は紳士然である。
 そのうえ金融法にも詳しい。現在では海外古美術のオークションを通じて、国際金融法にも通じている。経済動向までもを読む。こうした手合いに掛かると、並みの目利きでは対抗出来ない。

 刀剣の世界は、今や世界規模である。この世界に巧妙な奇手を遣う詐欺師が横行する。それを見抜くのは眼力である。同時に人間勉強である。その場数を多く経験した方が勝つ。彼等から為
(し)て遣られずに済む。
 物事を検
(み)るとは、人間を検るということであった。此処では人間勉強の成果が試されるのである。あたかも「御様御用(おためしごよう)」のように。

 目利きと詐欺師の接点は、真物か贋作かの「鑑立て力」が物を言う。
 鑑立てが確
(しっか)りしてしておれば、贋作を前に躍らされなくて済む。目先の事に、一喜一憂しなくても済む。禁物は、有頂天に舞い上がることである。

 一喜一憂は禁物である。博奕打ちの心理になっては身を滅ぼす。真贋判定は投機でない。そして有頂天に舞い上がると、その隙を突かれて、魔が忍び込んで来ることも学んだのである。
 今更ながらに、好事魔が多し……は、実にいい格言だと思うのである。順風満帆に事が運んでいる時が一番危ないのである。
 僅かな好事に浮かれている時ではなかった。
 このとき、貧乏人には身に余る大金を手にしたことがある。その有頂天に舞い上がった隙を突かれたのかも知れない。

 しかしこれに舞い上がり、好事魔が多しを知らず、「損する余裕」を知らなかったら、その後の私の人生は「口惜しいだけの恨みの人生」に早変わりしていて、この歳まで生き残れず、早々と崩れて、とっくに人生を諦め、路上生活者になっていたかも知れない。こうならなかったのは、並みの人間には及びもつかない「損する余裕」を学んだからである。
 私が始めた商売の時給1万円から1万5千円は、「損する余裕」の第一歩であったかも知れない。

 他の級友は一時間5百円から1千円程度だったから、彼らと比較すれば雲泥の差であった。
 しかし、私の場合はプロの家庭教師を標榜していたから、志望校合格まで保証しなければならなかった。それも第一志望の合格である。何しろ金額の桁が違う。桁違いだから、それだけ責任も重い。所謂
(いわゆる)剣術で云う「初太刀に総てを賭(か)ける」である。初太刀が外されれば、二之太刀、三之太刀はない。後は自分が斬られるだけである。
 万一、不合格であった場合は、他の級友のように頬っ被りは出来なかった。罵声を浴びても、カエルの面に小便では済まされなかった。
 それだけに生徒と、その親を同時に検
(み)て、その中身を判断するには、より慎重を期した。これを外せば、志望校合格を豪語している以上、大問題になる恐れが充分にあった。

 したがって親子面接には「検
る」ということに充分に力を入れ、これに自分の「眼力のほど」を託したのである。この時に、人間を検る勉強を本格的に学習していたのかも知れない。そして、自分の眼力が未熟で、狂っていれば、目も当てられないのである。それだけに緊張する。
 また、その緊張感があったからこそ、知識の上だけでなく、陽明学の「知行合一」が大いに役に立ち、知は行いの実践を通じて成就されるという考え方を学んだような気もする。
 知行合一という哲学を通じて、それは同時に「緊張する」と言うことも学んだのである。
 神経は、小心者の細い神経でも、訓練次第で太くなると言うことを併せて学んだのである。

 つまり、陽明学の知行合一に照らし合わせるならば、受験指導は志望校に合格させるという事が出来て、その実が評価される。奮闘努力した途中経過は評価されない。
 更に、偏差値は無用だった。
 偏差値で大学に合格出来る訳でない。また指導者が受験指導に当り、どのように熱弁を揮って親身に指導したか、そういうことは合格とは何の関係もない。ただ合格させることだけに掛かる。途中の熱弁指導の奮闘努力の経過は一切評価されない。
 私の特異な指導法は、陽明学的であったかも知れない。結果重視である。途中経過の努力に価値があるのではない。

 まさに私にとっては、乾坤一擲
(けんこん‐いってき)の緊張感だった。この緊張感は、また目利きの緊張感でもあった。物を検(み)る場合の真贋判定の緊張である。
 私はこの緊張が嫌いではなかった。
 むしろ、背水の陣的な「もう、これ以上後がない」という緊張が好きであった。
 背水の陣にはその陣を利用して、「十面埋伏
(まいふく)の計」というのがあるが、三国志時代、袁紹と曹操が「倉亭の戦い」で用いた作戦である。このとき曹操は参謀の程イクの策を採(と)った。左右に五隊ずつ合計十隊を伏兵にして、敵を囲んで攻める計である。しかし立案の根本には、背水の陣があったのは云うまでもない。
 これは袁紹の「五星の陣」を左右から押し込むようにして討つ作戦である。攻撃よりも防御を主とした作戦であることが分かる。
 この作戦が功を奏するかそうでないかは、追撃の快さに敵を誘い込むことである。深追いに危険を侵させるのである。そして、これで敵の命運は尽きる。まさに緊張する一瞬である。

 私は、その一点に賭
(か)ける緊張が好きであった。この緊張が、私の場合生きる張り合いになり、奮闘の原動力になるのである。それは刺客から「命を狙われている」ような緊張感であった。

 そしてこの当時、私は懇切丁寧の教えないことを指導方針の第一義に置いた。乾坤一擲の、この緊張の瞬間に、何を狼狽
(うろた)えて、あれこれと言い過ぎ、教え過ぎる必要があろう。無言で、示せばいいのである。
 本来、人間の正体は「横着者」である。
 懇切丁寧に熱弁を揮って教え過ぎると、それに寄り掛ろうとするのが人間の正体である。懇切丁寧は、出来る人間も駄目にする。
 横着者は、よく観察すると「依頼型の目」をしているのである。この目をした者は、自分で格闘して、道を切り拓こうとしない。安易に教えてもらって、前へ進もうとする。したがって、私は「教えない」ことに徹した。

 この「教えない」ことは、吉藤先生から学んだのである。
 私は確かに、鞘製作や柄製作に柄巻きは教わったが、「自分で検
(み)て研究し、模倣して上手に真似て、盗んで覚えろ主義」だったので、教わったと言っても、決して手順通りに懇切丁寧な手取り足取りではなかった。また、そう言うところを殆ど見せても貰えなかった。ひたすら真似るしかなかった。
 ただ、先生の作品があっただけであり、「これを真似よ」程度のアドバイスであり、それを自分で“ああでもない、こうでもない……”と暗中模索して、困窮の末、工夫する探究心が起こり、吉藤先生の作品に近付こうとしたのである。自分なりの創意工夫で、真物に近付こうとしたのである。
 しかし、吉藤先生も大したものである。
 私がポイントを外した時だけ、今まで知らなかった智恵を授けてくれるのである。この授け方は重々しい存在観があった。この意味で、よき師であった。教えないことを信条とし「懇切丁寧でない」ところは、実によき師であった。

 私は、この応用編を家庭教師に試してみたのである。
 有能なる生徒なら、この試みは、必ず功を奏すると踏んだのである。しかし、懇切丁寧に教えては、遂に出来る生徒も、やがて横着者になる。依頼心が強くなる。
 人間は底辺の横着者に併せて低空飛行するものなのである。そうなると、教えてもらうことに頼るようになる。努力も止まる。以前以上に後退する。頭も退化し、思考が短絡的になる。
 その愚を踏ませてはなるまい。そこまで指導を誤ってはなるまい。
 口を開けて、親の運ぶ餌を俟
(ま)っているような雛鳥(ひなどり)では、優秀な子孫は残せない。早期から自立心旺盛でなければならない。

 人間の正体は「横着者」なのである。横着者に併せて低空飛行する生き物なのである。
 この本性だけを理解しておけばいいのである。それ以外のことは無用だった。
 それだけに、その勝算はあり、教えないことが、実は多くを学ばせることになると確信していたのである。指導者側は、方向性を無言で示せばいいのである。あたかも無言で示した『黙示録』のように。

 当時、新聞に広告を出し、これを三回ほど打ち、依頼を受けたのは十五、六軒ほどの家からあったが、成績が下位で、伸び悩んでいる家の子弟は始めから断り、成績上位の、策を授けて奮闘しそうな、そういう生徒をこの中から、一年間に二人だけ選び出すのである。この一点に絞って、私の受験指導を理解してくれるコミュニケーション・ツールの橋頭堡
(きょうとうほ)を求めて奔走したのである。このツールが無ければ、互いは理解し合えないからである。

 そして、そういう生徒の家は、年間所得が三千万円以上の個人医院の開業医であり、資産概算なども税務署が発表する長者番付の『名士録』や『紳士録』を通じて調査し、医療法人でない医者の子弟を相手にしたのである。
 大半の開業医は、わが子に「是非とも白衣……」と思っているから、私の時給が一時間1万円から1万5千円だとしても、それは決して高いとは思わないような金額である。

 もしこれが中程度のサラリーマンの子弟で、生徒の成績も、県立普通校の進学科で中程度となると、親は「高額なる時給1万円から1万5千円の月謝を出したのだから……」という高飛車な態度となり、何日間か過ぎて、成績向上の兆しがなければ、そのことについて指弾されることは目に見えていた。このレベルは受験指導ではトラブル・メーカーであった。
 私は当時から自称「中流の上」という階級を危険視していた。“自称”だけに自惚れが強いのである。

 また、私の最終目的の狙いである「合格の暁に、重要クラス以上の刀剣を縁起物として購入して頂く」という目論見も外れてしまう。1千万円クラスの刀剣を、財力的に買える訳が無い。
 この当時は昭和30年代の高度形成成長の余韻
(よいん)を引き摺っていたために、世間では一応好景気に湧いていて、重要刀剣や重要美術刀剣は1千万円前後の小売価格を付けていた。ドルショックやオイルショックの前で、古美術品や刀が高騰していた時代である。
 この時代に、中程度のサラリーマンの財力では、高級美術品購入は最初から無理であり、私の最終目的は果たせないばかりか、人脈すら開拓することが出来ない。私にとって、並みの人間相手では駄目であったのである。最初から富豪か資産家に限られていた。

 この事実に気付いたのは、山田浅右衛門家の物語が大いに参考になったのである。
 もし、この物語を知らなかったら、私の脳裡には「道場事業部」の発想は、生まれて来なかったであろう。
 また、山田浅右衛門家では、「斬死した屍骸から五臓六腑や脳、更には六腑の中でも胆嚢
(たんのう)に目を付け、十二指腸に排出する胆汁等を抽出しそれを原料として、労咳に効くといわれる丸薬を製造していた」というこの箇所を知らなかったら、道場も、事業を興さねばならないという行動にも至らず、ただ漠然と刀屋を遣って、金銭のみを追い掛け、人脈の開拓など、考えも及ばなかったであろう。

 私が、山田浅右衛門家の物語から大いなるヒントを頂いたのは、これまで噂されていた、美術刀剣を実用刀として試し、その斬れ味から「刀剣の位列」も作成したという箇所である。これによって、ある程度の真贋判定がつくからである。この意味では、代々の山田家は実学主義者であった。
 実学主義という面に、私は一つの策として、その後の人生に大いなる収穫を得ていたのである。

 また物語によれば、それが縁で刀剣鑑定の依頼に準じて、方々の諸侯・旗本・町家の富豪商人らの人脈を通じ、名刀を世話したとあるから、この「世話」こそ、私が考えた「合格の暁には、縁起物として私の刀屋で高級刀剣を買ってもらう」という発想に結びついたのである。私の家庭教師の目的は、この最終目的まで達成されて始めて総てが成就する。

 つまり、一年間を通じて家庭教師をし、志望校の合格させ、その合格が祝いの縁起物である高級刀剣の購入成立まで及んで、始めて成就する計画だったのである。何とか辛うじて“やっと”という状態で、生徒を医学部の合格させただけでは意味が無いのである。
 必ず第一志望の医学部に合格させなければ成就しないのであった。第一志望だけで、他に第二、第三があってはならなかったのである。目標は第一志望のみである。またそれで終わりでは、何のために智恵と策を授けたか分からないのである。
 恐らく当時、「合格の暁に縁起物を売る」というこのような発想で、刀を売る刀屋は、日本中何処を探してもいなかったであろう。あるいは今でも、いないかも知れない。

 そう言う発想に至らないのは、学問で世に立つ人間を養成するのと、刀屋商売とは、必ずしも結びつかないからである。しかし刀剣売買には、眼力が要る。
 この眼力の目を、私は少しばかり、生徒とその親選びに向けたのである。
 受験生を志望校に合格させるには、生徒の頭の善し悪しだけでも駄目で、これを側面からサポートする親の態度と物わかりのよさも必要とするのである。
 そうなると職種も限られて来る。親が頭が良くて、子もその血筋にあるのは、法曹界に携わる職種か、個人医院を開業している医者の家だけである。これはユダヤ人の家系を見ても明らかである。

 ユダヤ人に、医者や弁護士、あるいは銀行家が大いには優秀な血筋から来るものである。これを見ても、その血縁的な遺伝は明白であり、生物学上から見ても、鳶
(とんび)は鷹にはならないのである。やはり鷹は鷹から生まれる。
 私はそこに焦点を絞り、医療法人経営でない、地元の名士的な立場にある個人の開業医の子弟のみを絞り込んで指導に当たったのである。この思惑は、見事に的中した。

 その指導の根本には、今では不思議に思うかも知れないが、人間は向学心があれば、「勉強は、一人で始める」と言う一種の法則のようなものを発見したからである。
 一方、勉強癖のない者は、決して成績は上がらず、聞き分けもわるい。背筋力が弱いから、長時間同じ姿勢で集中することが出来ない。これでは教える方も苦労する。これこそ、労多くて利少なしである。
 また子供の学力は、親の所得額に比例するのである。階級的に言っても、鳶
から鷹が生まれない道理であった。

 一方、頭脳明晰で出来のいい生徒は、ヒントを与え、策を授ければそれを理解して、自分一人で勉強を遣ってくれて、勝手に成績を上げて行く。つまり、家庭教師は何のためにいるかというと、「お守り」のような安全弁なのである。この安全弁が働いている条件下において、出来のいい生徒は、更に「目から鱗」状態になって、天才的な才能を発揮することがあるのである。
 私は奇しくも、そう言う生徒に廻り遭
(あ)ったことがあった。



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