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続・刀屋物語 30

桜木のある風景。

巻藁に向かって構へた所。(昭和13年12月20日発行の(株)雄山閣『日本刀剣の研究』より)

巴刀を振上げ氣合を計る所。(昭和13年12月20日発行の(株)雄山閣『日本刀剣の研究』より)

刀を振冠り正に切下ろす瞬間。(昭和13年12月20日発行の(株)雄山閣『日本刀剣の研究』より)


試刀術の実用刀販売。
わが西郷派独特の居掛用の据物台。



●大志を抱き

 しかし、老医師の言った「花は桜木、人は武士」という意味は、単に武士が桜木並みに優れているという事ではなかった。奥深い意味があった。
 真の武士は、大志を抱き、人の意見を聞く推量を持っている……。そのように言った。
 武士は大志を抱き、その志を行動原理に置いている。そして懐
(ふところ)には玉(ぎょく)を抱いている。
 その玉こそ、信念の証
(あかし)と言った。そのように老医師は言った。
 信念の士であり、節義の固い烈士だと言った。
 花は桜木、人は武士……。
 私はそのように理解したのである。同時に心の霧は霽
(は)れた。それによって信念の烈士になれたからである。

 その顕著なものが近代では明治維新だろう。
 明治維新は一種の革命であった。確かに革命だったが、これは非常にコストの低い革命であった。戊辰戦争や西南戦争の犠牲者を含めても2万人から3万人程度で、流血がつきものの革命にしては、実にコストに低い革命であった。
 この革命を敢えて呼称するならば、外圧によって国内が幕府軍の佐幕派と西南雄藩で組織された薩長土肥の連合軍との倒幕派との内戦であった。
 特に倒幕派はイギリス
(スコッチメーソン)とフランス(大東社)のフリーメーソンの武器商人の援助によって軍事指導されていた事実あり、列強支配下の中での内戦であった。つまりフリーメーソンによって起こされた「フリーメーソン革命」であった。背後には日本を植民地化する魂胆があったからである。

 ところが背後のカラクリを逸早く見抜いたのが、吉田松陰をはじめとする、日本の独立を維持する下級武士の階級であった。この階級の武士は、自らの武士と言う特権を放棄して、近代化路線を選択した階級であり、武士の特権放棄により明治維新は歴史的にも大きな意義を持つのである。
 また、武士の特権放棄は廃藩置県
(明治4年(1871)7月に行われた地方制度改革で、全国の藩を廃して府県が置かれ、中央集権化が完全に達成)により、更に特権の放棄が明白となった。このとき武士は一斉解雇されたのである。つまり武士とその家族180万人という大量解雇されることにより、廃藩置県がなったのである。同時にこれまで年貢を徴収していた藩主も要らなくなり、藩政は廃止されることになる。これは武士の特権を廃止し、武士階級を収奪することにより達成されたのは廃藩置県であった。

 この背景の裏には、西欧列強の圧力のもとでは日本が植民地になるのは必定であり、これを阻止するには日本が脱皮して近代化を図る以外なかった。自ら欧米文明を取り入れて国力を付けていく以外他に選択肢はなかったのである。そう言う状況下で、幕藩体制では対応し切れないと検
(み)たのである。これが明治維新の真髄だった。
 維新の背景には武士が自らの特権を放棄した革命により、成功したのであって、奇
(く)しくも内戦が、日本を東西に二分する割譲まで発展しなかったことである。その手前で食い止めたのが、武士の特権放棄によって為(な)されたのであった。

 武士団の起こりは平安末期から鎌倉初期に懸けてのことだが、武士はもともと自らが持っていた地域の平和のために自己犠牲的に働くと言う使命感を持っていた。公共の利益のために私心を捨て、わが身一身を投げ打って、武士的な行動規範によって保持されていた。つまりエトスである。
 このエトスは戦国期を経て、徳川の世になっても消えることはなく、幕末期においては藩の枠を超えて列強の圧力と言う危機に対し、日本の国家的危機を救ったのである。これがナショナル的な意識であり、ネーションの萌芽であった。

 つまり、ここに武士の、わが身一身を投げ打って国事のために奔走すると言う行動様式を生み出したのである。
 更に驚愕すべきは、難航が予想された廃藩置県であるが、これは予想とは裏腹に、実にスムーズにいったのである。こういう事の運びの裏には、先見の明を持った武士が各地に沢山いて、武士が自らの特権を放棄し、全員解雇されることを百も承知で、日本の独立のために力を貸したということが大きかったのである。
 もし、当時武士が存在していなかったら、日本は間違いなく西欧列強の植民地にされていたことであろう。これを阻止したのが武士であった。
 そしてその原動力となったのが、彼等の持っている志であった。
 当時の武士の志は、国事に奔走するという公共のための奉仕であったが、国家の利益のために自己否定をするという行動に踏み切ったのは、やはり武士と言う階級が幕末にも存在していたからである。

 花は桜木、人は武士……。
 この言葉の裏には、やはり「志」が存在していた。
 明治維新を経て、大正昭和へと時代が移り変わった。昭和も戦前・戦中・戦後と三つに時代が区分された。区分ごとに人々の意識も随分と変わった。
 戦後生まれの団塊の世代。
 私はこの世代に生まれたのであった。

 しかし、その当時の世の中は、私の志を成就させる条件を揃えていなかった。
 当時は全共闘華やかしき頃だった。多くの団塊の世代の同年層は、赤い革命の実現を夢見ていた。
 世の中が赤く変えられようとしていた時代である。赤い嵐が吹き荒れた。誰もがマルクス・レーニン主義に赤く染め上げられていた。

 大学へ講義を受けに行くと、構内には「スト」の立て看板が至る所に立てかけられ、蹶起集会を促す立て看板の洪水だった。構内の至る所には「解放区」なるものが登場し、それぞれに区劃では、集会を促すハンドマイクを抱えての喧伝の“噛ませ犬的”なガナリ声で溢れていた。それぞれの派閥は、自派の絶対正義の立場で自己宣伝を行い、一方、他派に対しては侮蔑をもって見下す行為が罷
(まか)り通っていた。至る所で陰湿な内ゲバも頻発(ひんぱつ)していた。

 何を以て学問とするのか。
 此処で何を学ぼうするのか。
 大学は“革命ごっこ”の盛り場だった。勝手に入り込んで来た「革命屋」と思
(おぼ)しき、学生擬きや労働者によって占拠され、構内の至る所に“解放区”が作られた。

 休講に継ぐ休講で、講義はろくすっぽ行われることは殆どなかった。既に、ろくなところではない場所になり始めていた。
 いつ行っても休講、休講の連続で、やがて大学へ通う足も疎
(おろそ)かになり、次第に大学からは遠ざかっていた。学舎(まなびや)としての魅力がなくなり始めていた。
 大学と言うところに魅力を失い始めていたのかも知れない。そして大半の学生達の暴力的な言動やその振る舞い……。

 そういうものを見ていると、大学とは最高学府のような場所には見えなくなっていたからである。自分で描いた大学の像は、瓦解寸前だった。
 昭和40年代半ば当時、大学としてまともに機能していたのは、医学部やその他理工系学部の一部だけであったろうか。赤い風に吹かれつつも、何とか機能していたように思える。

 それに変わり、一方新鮮に見えて来たものもあった。大学以外に新鮮なものが心を捉え始めていた。
 家庭教師と刀屋商売と、刀剣市に出掛けたり、研ぎ師吉藤先生のところに入り浸りで「拵師」の勉強をしていた。大学から離れて、別の角度から違う世界を見ると、それらは非常に新鮮に映ったものである。
 大学を出て、ホワイトカラーの職に……という近未来展望図も、私にとっては色褪
(いろ‐あ)せたものに見え始めていた。家計をそこに求め、その職で消費生活を楽しむという構成に、何か虚しいものを感じ始めていた。

 別の生き方がある筈だ。そういう意識が強くなり始めていた。
 この頃から、ホワイトカラーの未来から、異次元の職人への未来を夢想し始めていた。職人の世界こそ、私のとっては異次元に映り始めていた。家庭教師もよく考えれば、ただ受験だけを成功させる職人のように思え始めていたのである。
 それに道場もあったし、刀屋として刀剣市場に出入りする運転資金も一応確保しつつあったし、食うに困らない財力を蓄えつつあった。
 大学へ行っても講義自体が、休講の連続では学びようがない。遠ざかるのも無理はない。

 人は働いて賃金を取得し、その金で食糧を買う。衣類も買えば、映画も観て喫茶店にも出入りする。家賃や光熱費も払いこれらは「家計」と呼び、循環の一翼を担う。つまり家計は、労働と言う本源的な生産要素を提供し、かつ最終的な消費を行う。
 一方、家計が供給する労働においては、賃金を支払うことにより労働力を確保し、消費する生産物を作り出す生産主体を「企業」と呼び、企業は資本主義の鉄則に従い、何処までも利潤の追求を目的とする。そして企業もまた循環の一翼を担う。

 次に、家計と企業から税金を徴収し、その集金した金によって公共のサービスを提供する。これを「政府」と呼ぶ。政府は家計より労働力の提供を受け、企業より購入したものを消費する。
 しかし、それは必ずしも利潤の追求はしない。目的は公的給付金の形で国民に還元し、かつ所得の再分配を行う。これは人間社会の経済循環の仕組みである。

 だが、ここにも奇なる一面がある。
 風が吹けば桶屋が儲かるという連鎖反応もみられる。背後には「ツケ」の盥
(たらい)回しがあるのは周知の通りである。
 ツケは必ず払わされる。

 この世は反作用が働く故に、代償は必ず払わねばならない。
 清濁
(せいだく)併せ呑む、善悪綯(な)い交ぜのこの世の中は、実に不合理は一面が露出しており、また矛盾多き側面が控えており、人は期待と思惑に胸を膨らませ、人々の心理にはプラシーボ効果のような心理的現象に左右され、効果については必ず副作用を伴い、効果の伴うものは一時的なカンフル剤に過ぎず、賢愚が混戦状態になって複雑に絡み付いているのであった。
 まさに幸不幸も絡み付き、“禍福
(かふく)は糾(あざな)える縄の如し”の構造を構築していた。

 時は風雲急を告げるように映っていた。誰もの眼にそのように映っていた。創意工夫のないその他大勢が、革命を夢見てデモで群れた時代だった。
 群集心理によって、「共産主義者でなければ人に非ず」の時代でもあった。誰もがインターナショナルを口ずさんだ時代である。

 皆が赤旗に「右へ倣
(なら)え」をして、一斉に同じことをしていた。戦後教育の幼児化政策のためだろう。日教組の仕業だった。
 均一な幼児大人が大量に誕生した。赤旗の波で日本中が埋まっていた。日本列島は無政府主義者で溢れ、密かに革命が囁
(ささや)かれる時代であり、全共闘が猛威を揮った時代であった。
 中小の企業や商店の小売業者などは、「もし革命がなった暁には、うちを宜しくお願いします」などと言って革命戦士に対してシンパサイダーのような役割を果たして、寄付金などを投じていた。

 この時代、マルクスの『資本論』が多く読まれ、またマルクスの「労働価値説」は、マルクス経済学の骨子をなして誰からも真髄のように崇められていた。これは日本に見られた戦後の異常現象であった。当時の同世代の学生や労働者は、マルクス・レーニン主義に没頭した。そして異常現象の怪奇はこれからだった。
 マルキストであろうとなかろうと、レーニンの『帝国主義論』を熟読していないと、集会には議論にも入れてもらえない時代であった。

 この異常現象と言うか、珍現象と言うか、反マルキストでもマルキストに議論を吹っかけるには、まずレーニンの『帝国主義論』が出発点である。この本の読みが浅いと、相手にもしてもらえない時代であった。
 しかし、サムエルソン大先生らの定理
(正しくは「ヘクシャ・オーリン・サムエルソンの定理」)の前には奇(く)しくも萎(しぼ)み、当時の時代の最先端を行っていると自称していたマルクス経済学者らは、今日ではすっかり見向きもされない無意味なものになってしまったが、当時は熱烈なマルクス・レーニン教の信者が多くいた。頭が下がるほど熱心な信者である。
 その信者の殆どは、頭の天辺から爪先まで大人だが、肝心な頭の中身が幼児のままだった。

 オーストリア学派のヴィーザー・ベーム・バヴェルクが指摘したにも拘
(かかわ)らず、アダム・スミスやリカードら以来の「価格」が、どうやって決定されるかのメカニズムに、マルクスの単純労働における労働時間に振り回された。
 ところがマルクス・レーニン教の教義における「労働価値説」の説明は、上手く出来ていると思い込んでしまった。循環論であることに気付かなかったからだ。
 更に思考力が、単純労働時間で説かれた「労働価値説」の循環論に誑
(たぶら)かされ、その循環たるべき罠(わな)に嵌まり、老人になっても循環論の非が見抜けないのであった。

 この程度の「まやかし」の罠に、しかし、見抜けないようでは頭の中身まで大人である筈がない。
 躰
(からだ)付きは大人であっても、頭の中身や思考力は幼児である。
 このようにして日本には、単細胞の“幼児大人”が誕生したのである。何不自由なく育てられ、母親の過保護に順応して、中産階級の子弟に見られた当時の特長である。
 団塊の世代と言われた“その他大勢”の日本人が生まれたあの昭和40年代、同時に幼児大人が赤旗を振り、独善的な革命を試みたのであった。
 これらは戦後教育の間違いから起こった弊害であったと言えよう。

 自由と平等の中では、間違った自由と平等しか存在しなかった。
 そこに見たのは、精神の貧困の光景である。子供が大人になり切れない貧弱な幼児大人の光景だった。驚くべき光景である。また、それが罷り通っていた。

 あたかもカエルになり損ねたオタマジャクシという観があった。こういうのを生物学上では、「幼態成熟」と言うらしいが、オタマジャクシは充分に養分が与えられて居心地がよくなると、カエルになるのを忘れ、オタマジャクシのままで大きくなる畸形
(きけい)現象をいうらしい。
 これを過保護で育った人間に喩
(たと)えれば、「幼児大人」という幼態成熟である。

 その背景には、自分の周囲の環境だけをよくし、自分大事の自己中で「自分だけは」という意識が強くなると、自らの贅沢のために消費が行われ、生活水準を高くして物質的な便利さや、栄養豊富な食元ばかりを与えられた結果、智恵のない、居心地のよさに溺れてしまうらしい。こうして幼態成熟した幼児大人が出現するのである。
 こうした幼児大人は、いい歳をしているくせに大抵は“無礼”である。
 自分が無礼を働いていることすら気付かないのだから、思考は幼児なのだが、私を含む団塊の世代層には、無礼な、礼儀知らずの幼児大人が多く排出したのである。

 左翼運動と反戦運動に傾き、赤旗を振ることこそ、絶対正義と信じていた戦後の捻れ教育を受けた団塊の世代層は、特に日本の国家を毛嫌いした。国家権力を徹底的に憎んだ。日の丸こそ、軍国主義の象徴と決めつけた。日の丸の旗を赤く塗りつぶすことを好んだ。そのようにマスコミも誘導した。
 今でも、あの時代のことを想い出す……。『朝日』のように赤いことこそ絶対正義だった。逆に、赤くなければ指弾される。寄って集
(たか)って村八分にされる。一種の恐怖の時代であった。

 例えば教科書である。
 歴史の教科書は実に酷いものであった。日本の教科書であるにも関わらず、日本のことを意図的に悪く記述していた。
 その内容たつものは実に酷いもので、先人の過失を悪意的にねじ曲げ、海外の反日感情を煽るような言葉を用い、こうした記述を、当時の編集者は喜んで書き込んでいたのである。敢えて悪く書いたのである。その余韻は、今もなお引き摺っている。そう言う編集者が多い。
 どうして時刻の歴史教科書について、このように悪意に満ちて、日本人が、日本人と自分の先祖のことを悪く言う。そして自虐的史観と謝罪史観に意図的に塗りつぶされて、偏向教科書が罷
(まか)り通った時代であった。

 更にこの時代は、細分化されて専門化され、ミクロ的に、個は盛んに細胞分裂していた。重箱の隅をほじくるような、人の揚げ足を取ることが流行した時代であり、その余韻は今でも引き摺っている。
 狭く、深くを旨とし、マクロ的な大局観が日本人から失われた時代でもあった。
 細胞成分の悪い分子は、指弾され、槍玉に挙げられていた。故に、家計のために酷使され、また企業のために酷使された。

 日中平和友好条約が調印されたのは、1972年のことである。
 日本と中国は両国の共同声明に基づき、78年に北京で調印された日本と中国間での平和条約である。この条約の主旨は平和五原則を基礎とし、覇権反対などを規定であった。
 この当時、私は70年代初頭の出来事を度々テレビで視聴したことがあった。
 両国の国歌が演奏されて、この中で、日本の国歌が演奏されたとき、椅子に着座で股を開いて坐ったままの成人が、テレビで大きく映し出されたことがあった。日本国歌には起立すらしなかった。しかしこの成人は、中国の国歌が演奏されるや否や、誰よりも早く、勢いよく起立して直立不動になったのである。

 今にして思えば、当時のこの成人も、私と同じか、あるいはもっと年長かも知れない。生きていればいい歳になっている筈で、今でもこのような日本を毛嫌いする態度を決め込んでいるのだろう。そして、「いい年をした年寄りが……」と、今でも想い出されることがある。
 このいい年をした年寄り世代だが、その大半はマルクス主義の歴史観を未だに卒業していない。卒業していないどころか、その九割方が、そこに身を沈めて物事を見ているのである。少しもマルクス主義を克服していないのである。未だにマルクス主義の呪縛から解き放たれていないのである。

 考えれば、日本はそれほど悪い国か……と思い至ることがある。
 私観だが、日本が悪い国というのは、ある意味でこうした礼儀知らずがいるから、日本は悪い国かも知れないと思い当たるのである。戦後教育の弊害は、一クラス五十人の教室の教育現場ばかりではなく、心の貧しさにも弊害を及ぼしているようである。

 それに、もう一つ想い出されることがある。
 それは「自分は家が貧しかったので高等教育は受かられなかった……」と、当時を回想する人が居ることである。
 しかし、これはウソである。
 このウソを証明すれば、貧しい家の子供でも、学問をする才能があれば、幾らでも上級学校に行く条件は揃っていた。
 戦前・戦中には地域ごとに有徳の士という資産家などの富豪がいて、学問をする才能のある子供に対しては積極的に学資援助をしていた。

 特に戦前においては、貧しい村の子供でも、学校に行けない子供がいるとそれを支える民間の福祉制度が存在していた。また極貧の子供でも学力優秀であれば、それを支えて最低でも高等小学校まで送り出し、旧制中学
以降に関しては、東京などへ出し、代議士の家の書生になって勉強をすることも許されたし、旧制高等学校や大学にも行けた。
 大学を出た後は高等文官試験を合格して高級官吏になり、出世して行く例も多くあった。
 福岡県でも、広田弘毅
(福岡市生れ。東大卒。玄洋社の一員。駐ソ大使。斎藤・岡田両内閣の外相。2.26事件後組閣。近衛内閣外相。第二次大戦後、A級戦犯として絞首刑)らはそも最も顕著な例であろう。
 広田は、貧しき石材店の子弟だった。決して裕福ではなかった。それでも周囲が、広田の才を惜しんだ。
 戦前には、日本を支えた学力能力主義という民間援助システムが多く存在していたのである。
 かくして家が貧しいから上級学校に行けなかっあっという根も葉もないウソは、これによって崩れることになる。

 昭和30年代から40年代にかけて、団塊の世代と言われた年齢層は、例えば当時、一クラス50人であったが、このうちの半分か三分の二くらいしか高校に進学しなかった。更に大学進学となると、高校のクラス編制は進学組と就職組の二つになされ、これが約半々くらいであったと思う。それに進学組であっても、大学に行かずに就職する者もいた。

 この当時、世代的な人数が多い割には、大学進学率は今より非常に低かったのである。同学年で、大学まで行った者は半数以下だっただろう。その当時、大学は「才能がある人が行く」という最高学府に対する尊敬の念があったからである。
 明治以来、「学士」という言葉に、日本人が尊敬を抱いていた。
 ところが、これが崩壊し出したのが戦後であり、敗戦から二十年も経つと、学士と云う言葉は次第に色褪せ始めていた。近年は、更にそれが顕著になった。

 貧しいから高校に行けなかった……、大学に行けなかった……というのは、紛れもなくウソである。
 当時このことは早く囁かれたが、実際には大ウソだった。
 家が貧しくとも、頭を使えば学費など幾らでも捻り出せたし、学力優秀であれば奨学金をもらいながら高等教育を受けることが出来る。おまけに学費の安い大学は幾らでもあった。それなのに“家が貧しかった”というのは大ウソである。

 しかし、大学へ行く才能があっても行かない人もいた。
 既にこの頃、色褪せた大学は魅力を感じられない現象が起こっていたからである。平等と言う名の崩壊が始まっていた。したがって、才能があっても大学を断念して、手に職を付けた人もいた。実の謙虚な人たちだった。素直な生き方を選択した人たちだった。賢明な選択である。可もなく不可もなくの、ノンポリ学生より余程ましだった。

 要は、自分を誤摩化しているからである。
 だが別に大学を出たから、その人が立派な人間であるという訳でもない。ただ出ただけであり、先の勝負はそれからである。学問をもって世に立とうとする人ならば、こうしたことは“御茶の子さいさい”で通過し、難所もひょいひょい躱
(かわ)して当然である。こういう事は難儀ではない。
 これが出来なければ、学問では世に立てない。したがって学問以外の職種に就けばいいのである。しかし、世の中にはこれを理解できない者が多い。先んずれば人を制す……の妄想に囚われているからである。


 ─────当時のことを振り返れば、私は家庭教師の生徒だったM君の事を思い出す。彼に再三「君は学問で世に立つ気持ちがあるのか?」ということを、常に問い詰めていたように思う。
 彼の『人生の計』は、いったい何処にあるのか?……を。
 それが明確でなければ、学問で世に立つことなど止めろと叱咤した。その度にM君はうなだれ、自分の人生をどうするか、まごついている様子を見せた。

 心が貧弱であるばかりでなく、信念も貧弱だった。当時のM君が、ひ弱な少年であったことは間違いなかった。
 私が受験指導をするに当り、何度か、M君の父親とも度々衝突することがあった。
 そして衝突して、私の遣り方に異を唱えると、決まって父親は「私は国立一期校の医学部を出ている」という言葉を口にするのであった。

 その言葉の裏には「お前のような、高が学生の分際で、何がプロの家庭教師だ」という見下しがあったと思われる。
 だから度々、自分が成功者のような錯覚とともに「国立一期校」の学閥が出て来るのだった。しかし、私に学閥を自慢されても困るのであった。

 当時の大学受験は、国立大学は一期校と二期校に分かれ、一期校とは旧帝大
(帝国大学令により東京大学が帝国大学となり、次に京都帝国大学が設立、その後東北・九州・北海道・京城・台北・大阪・名古屋の各帝国大学が設置)か、旧帝大に付随する国立大学のことで、二期校とは地方の都道府県にある戦後に出来た国立大学か、旧制高等学校が格上げになった大学のことである。更に公立の県立大学や市立大学もあった。

 要するに、受験対象の国公立大学は、現実には同時期に三種類あったのである。
 したがって、それぞれに受験日も違ったのである。上手く受験日をずらせば、少なくとも二校以上の大学が受験できたのである。一次試験も二次試験も別れていた。それに、私立大学は国立より受験日が早いために、今より受験の機会は多くあった。それで受験者は大抵、何処かの大学に落ち着くのであった。
 こうしたズレを利用した受験指導が、当時はあったのである。


 ─────M君の親に顔を合わせる度に、父親の言う「国立一期校」を聞いて、それがどうした?……というのが、私の感想だった。
 出身大学の学閥自慢も困ったものである。
 受験屋職人に一期校も二期校もなかった。目的は唯一つ。それは第一志望に合格させることのみである。
 その気持ちの裏には、「なんで今時、一期校が自慢出来るか……」と言うのと同時に、また「評価されるのは受験に奔走する、その過程の努力でなく、合格か不合格かの結果だけだ……」という信念を持っていたからである。
 信念は通るものである。
 信念を通して突き進む者には、鬼神も道を譲ると言うが、そう言う効果が少しずつ現れ始めていた。

 やがて「結果だけ」の言葉にも、M君の父親は耳を傾けたのであった。私の救われたのは、過程の努力でなく結果だけである。結果がその努力の跡すら物語る……ただ、それだけだった。
 私の受験指導方法も、親自身にある程度の、私に対する理解力と、親自身のIQと財力がなければ叶うことではなかった。

 普通、家庭教師を雇えるような財力のある家の大半は、親自身の教養とIQが低いために、総てを家庭教師任せにしてしまう。そのくせ短期に見て「効果薄」だと目くじらを立てて、「教え方が悪い」と喚
(わめ)き立てる。受験を長期的展望で捉えることが出来ないためである。「中の上」と自負する家では、夫婦双方が何処かの大学出であっても、その子弟に対する長期展望は、殆ど見えていなかったと言えるのである。

 当時、理解力、IQ、財力の三拍子が揃っていたのは医家であった。医家を狙い撃ちして家庭教師をした。
 幸運にも、M君の親は理解力があり、同時に社会的なIQも人並み以上に持ち、更には地元では資産家であったということがM君自身の受験を扶
(たす)けているようにも思われた。また、過保護的だが、恵まれた受験環境にあったということだ。救われた点を上げれば、これだけだった。

 しかし問題はあった。
 このようにある程度、私の遣り方は理解はされていたが、例えば、受験指導以外に背筋力のトレーニングとか、禅宗の寺に通って、多額のお布施を払い、坐禅をするなどの行為は殆ど認められることはなかった。多くは自腹であり、またこれらについては、私個人のボランティアの慈善事業だった。受験屋職人は、時としてボランティアも勤めねばならなかった。
 「基礎体力と基礎体質の養成」ということに殆ど理解を示してもらえなかった。それに時間と金が掛かることには、無理解であった。

 ただ、こうした状況下、M君の祖父だけは別格だった。
 この人は何処か武人と言う一面があり、駄馬でも駿馬の如く乗りこなし、驍将
(ぎょうしょう)という姿が窺(うかが)われたからである。それだけに尊敬に値する人だった。
 私はこの人と顔を会わす度に「大先生
(おおせんせい)」と呼称して、普段から尊敬の念を抱いていた。
 私の指導法に援護射撃をしてくれるのは、この元軍医の爺さまだけであった。当時も、陰では激励してくれていたのではないかと思うのである。この人とは、不思議と馬が合ったのかも知れない。



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