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続・刀屋物語 33

加賀象嵌鐔(表)銘:無銘
加賀象嵌鐔(裏)



●乾坤一擲

 昭和40年代半前後ばのことである。
 しかし、いいものは時代を超越する。
 当時、大卒者の初任給は四万円程度だった。その当時に、私は時給一万五千円を貰っていたのである。
 世の大学生のアルバイトとして、学生の分際のバイトとしては無茶苦茶に高い報酬である。そのように思われていた。

 特に、医者の家では吹っかけた……というより、それなりに余計な苦労するからである。それを含めた報酬であった。
 苦労の中には、自分の手差しもあるし、時間外奉仕もある。今で言えば、サービス残業のようなものだ。単に残業すればいいと云うものではない。
 それだけに気苦労がある。成績不振にはそれだけで責任も被せられ、依頼主の親からは冷ややかな無言の叱責がある。宿題屋や補習屋の家庭教師とは全く違った一面があった。気楽に時間給を稼げばいいと云うものではなかった。

 安かろう悪かろうではない。高い物には、それだけのコストが掛かっている。このコストの意味を理解する人は少ない。しかし、皆が皆、これが分からない訳でない。
 いい物を高く売る。こういう考えがあってもいいと思うのである。
 だが反面、責任は重い。

 こうしたところにも作用と反作用が働くのである。人間はこの現象から逃れられない。
 余計な気苦労も、請負料に含まれねばならない。これまでの惰性を正さねばならないのである。それに伴う生活習慣も一掃する必要があった。母親の過保護は、徹底的に叩く必要があった。これらを一新しなければならなかった。刷新に伴う苦労である。どうしたら分かってもらえるかの工夫もいる。その思考もしなければならない。
 脳漿
(のうしょう)を搾り出すほどの創意がいる。安易な勉学指導と言うわけにはいかない。責任を抱えての勉学指導である。これを請負うには、請負人の度量を要する。そして責任を負って請負う以上、勝たねばならない。その意味からすれば、修羅道を行く生き方である。

 受験戦争と言う戦いの場では、その戦いが次元の高い聖戦であろうと、また次元の低い泥仕合であろうと、あくまで勝つ事が前提になる。要するに受験は合格しなければ意味がない。幾ら努力した過程が素晴らしくても、不合格ならば何の評価もない。評価されるのは結果だけである。
 また戦いを演じる人が、幾ら人格高潔であっても、如何に正義を標榜し、聖戦を謳
(うた)っていても、また学問や教養の度合いが大きく、知力や財力に優れていても、負けてしまえば一巻の終りである。

 これとは逆に、戦争の場において姦雄と蔑まれた者でも、極悪非道であっても、氏素性がハッキリしない、その流脈に亜流や傍流や、更には濁流が混じっていても、しかしそれでも何年掛かっても信念を失わず、最終的には目的を達成し、勝てばいいのである。勝つことだけに執念を燃やし、脳漿
を搾り出し考え続け、目的意識を明確にすればいいのである。
 勝たなければ意味がない。その過程は、一切評価されない。途中の努力は評価されない。

 評価の対象になるのは、遣り通した実践力だけである。遣り通すだけの実践力のない者は、結局は人生舞台から消え去る他ない。モラルとか理想などの形而上の要素も勿論大事であるが、それを目的意識を明確にさせて実践するだけの力を備えねば意味がないのである。
 更に言及すれば、人間の歴史においては、後世の人々が目にとめるのは勝利のみである。その勝利も、どういう手段で勝ったかはあまり問題にしない。勝てば官軍である。勝ち方のストーリーはどうでもいい。最終的には勝てばいいのである。勝てばストーリーは、後でどうでもなるのである。

日本は古来より乾坤一擲の場面において、自力努力により、窮極の局面を刀剣によって切り拓いて来た民族である。

 そして努力する自力のよって、「天命」という他力一乗が働くことを知っていた。これこそ心象化現象の最たる威力だった。

 画は骨董市で入札した絶品の一幅の『日本武尊』の画。
画/興純敬写筆

 乾坤一擲の決戦において、勝てばそれだけでよく、負けた場合などの杞憂(きゆう)は無用なのである。勝った時のことだけを考えればいい。その強烈なイメージが心象化現象を生む。それが現実のものとなる。負けた時などの悪想念が加われば、それだけでその事のみが押し寄せる。したがって杞憂は無用なのである。
 戦いは理論的に言えば、作戦の失敗した場合においても、そういう事は何も考慮する必要がないのである。
 乾坤一擲である。そう言う場合に想像するのは「勝った時」のイメージだけである。それ以外のイメージは一切無用のである。

 歴史を振り返れば、織田信長は今川義元との桶狭間の戦いにおいて、この決戦に負けた場合、「どうしたらいいか?」などの配慮をしただろうか。そうした杞憂があっただろうか。
 況
(ま)して、『列子天瑞』に出て来るような、天地が崩れて落ちるのを憂えたというそうした懸念があっただろうか。
 また、かの豊臣秀吉は、山崎の決戦前夜、万一の場合の敗戦収拾策を準備していたであろうか。
 更には、日本海戦を戦った東郷平八郎は、この海戦に敗れたらどうしたらいいか?などを考えていただろうか。そうした取り越し苦労は皆無だった。勝つことだけを心に強烈にイメージしていたのである。それ以外なかった。

 そして日本海戦に敗れてその後の事は?……などと一切考えていなかった事は、その質問に対する東郷の回答で明白となる。
 「この海戦に敗れたらどうなるか?……などと、私はそんな場合について一度も考えた事がない」と答えたことで、皇国の興廃が懸る乾坤一擲の、その時の凌
(しの)ぎ方で明白となっている。
 「敗れたらどうなるか?」は愚問だった。
 敗れたら、国は滅ぶだけである。それ以外に可能性はないだろう。敗北して滅亡し属国になる以外、可能性はない。

 こう言うことは、何も事前に考えて、敗戦収拾策など考える必要はないのである。勝てばいい。とにかく勝てばいいのである。敗戦収拾策など無用なのである。負けたら、それで終わりなのである。
 運命を賭
(と)して戦う以上、落した命は戻って来る訳はない。死ねば終わりである。敗者復活戦などと言う、スポーツのルールで死んだ命は蘇(よみがえ)ることはない。一度きりで遣り直しが利かない。それだけに緊張する。緊張が故に、神経も遣う。細い神経だと持たない。図太さがいる。

 こうした図太さは自らで養うか、そういう度量をもって生まれて来た人間でないとカバー出来る訳もない。生まれながらに躱
(かわ)す才能を最初から持っているか、持ってないとすれば、後天の努力で自分の躱す技術を身に付けるしかない。運も、そうした側面に付く。
 勝つことを100%信じて、よき心象化現象が働くように異象の起こることを呼び込めば、そこに奇跡が起こる。これが他力一乗である。それも、徹底的に努力する他力である。人任せではない。人事を尽くすのだ。人間の遣れることは総て遣る。そして天命を待つ。

 しかし、階級が中より下に向かうと、取り越し苦労をする階層が多くなる。度量がないからだ。したがって伎倆
(ぎりょう)も小さい。努力する他力を怠ったからである。
 また、そのように訓練出来るチャンスに恵まれなかったのである。したがって、不確定要素に恐れを抱く。不安定を嫌い、危険を嫌う。これが不定愁訴を招く。明白な器質的疾患が見られないのに異常を訴え、さまざまなありもしない自覚症状を訴える病状を招く。やがてこれは鬱状態を招くのである。
 対岸の火事は観る分には面白いが、自分が遭遇するとなると事情が異なる。
 またそういう予兆も恐れる。
 恐れるあまりに、来てもいない、明日のことを憂う人がいる。かくして「恐れるものは皆来る」の心象化現象が一気に顕われ、それに圧倒されて潰れて行く。

 また現代は、圧倒され、潰されて行く精神的軋轢
(あつれき)の病的現象に、「うつ病」なる精神病が猛威を揮い始めた。ありもしない事を、前もって思い悩み、それを憂い、心労に心を疲弊させ、没落して行く現代の病的現象である。そして、日本の精神医療はアメリカやカナダより50年以上遅れていると言われるから、一旦罹病すると、再び元の健康体を取り戻す事は殆ど不可能である。

 日本の遅れた精神医療は、抗うつ剤などの精神安定剤を遣い、これにより治癒させようとするからだ。しかし一旦、抗うつ剤の使用を始めると、最初は軽い薬剤でも徐々に効かなくなるので、次第に抗うつ効果の大きな物が投与されて、一進一退を繰り返しながら悪化の方向へと向かい、晩年まで生きられたとしても他の病気と合併症を起こして、精神科で入院したまま死んで逝く人もいる。
 人間は、一度掛けられた暗示の呪縛からは中々抜け出せないようだ。一度掛かると半永久的に呪縛される。恢復
(かいふく)の見込み無しと言えるだろう。

 人間の思い込みや、固定観念を消去させるためには、過去の先入観を刷新する必要があり、それだけに多大な智恵を必要とする。ここに時間と金が掛かる。

 ヤワな環境で育った鈍
(なまく)らは、戦闘用の筋金入りの鋭利な刃物に鍛え直さねばならない。再びの焼き直しは利かないから、それも最初からとなる。基本姿勢の指導が必要となる。先入観などの無用なものを引き摺っていたのでは、戦いの邪魔になる。引き摺った、無駄な物は一切消去しなければならない。
 受験は、受験地獄とも言うが、また受験戦争とも言われた。それは受験する側の主観にもより、受験生を抱える父母の主観にもよる。
 しかし受験生は、志望校合格を目指して戦争をしているのである。日々自分と戦っているのである。
 自分の将来の生死を賭
(か)けて、人生の計の理想を追い掛け、戦争をしているのである。戦って、生き残らねばならなかった。この戦いに敗れれば、未来はないのである。それを教える事が、勉強を指導する以上に大変だった。

 しかし、私にも一つの確信があった。
 世の常識に反して、自分の信念を押し通すことだった。大志を抱いてそれを信念で押し切ることだった。
 この時代、新参の予備校が福岡県にもぼつぼつ出来始め、また小・中学生を対象にした学習塾や進学塾が出来始めた頃である。

 当時、北部九州は東京や大阪などに比べて地方の田舎都市であった。まだ東京を知らない人が随分いた。東京に行ったと言うことだけで、ステータスだった時代である。地方都市の都会化は、まだまだの時代であったし、この時代、例えば博多から東京まで行くにも、特急寝台や急行寝台を利用しての、約20時間程度掛かった時代である。
 あるいは新幹線は当時東京大阪間だけであり、所要時間は約6時間30分、それに大阪までの博多からの特急時間は7時間前後であったから、新幹線を利用しても13時間前後掛かった時代である。時間的には大変に長い道程だった。
 それだけに地方都市は東京や大阪などと比べて、文化的にもかなり遅れていたのである。最新情報や流行・ファッションなどは、映画やテレビや雑誌などを通じてしか入手する事が出来なかった。

 勉学や受験勉強の仕方も、東京や大阪には随分と予備校があったが、九州・福岡県では予備校は博多中心であり、北九州は一、二を数えるほどだった。予備校と言う感覚も、地方都市では遅れていたのである。当時の日本人には中央進出思考があり、本格的に学問やその他の芸術や文化を勉強するには東京に出なければならないと考えていた時代である。
 あたかも芸術家が“おフランス”と名付けて、芸術の都パリに殺到したように……。

 ところが昭和40年代半ば頃を機に、地方都市にも予備校が急増して行った。これまでの「勉強習いの寺小屋」が、学習塾とか進学塾と言う風に名前を変えたのも、この頃からだった。
 確かに、学校の授業を補習する街の教育機関は殖えた。大半は補習塾という施設である。
 だが、殖えた割りには、その一方で予備校や塾の増加で、小・中・高校生の学力の低下が比例する現代の不思議は、私には何とも不思議に思えたのである。
 一体これはどういう事であったのか。

 当時の時代を準
(なぞら)えて、教える側の“船頭多数にして、船の舵取りはままならず、進路不明……”と、私には映ったのである。
 船頭は、それぞれに方向を示して、あれやこれやという。それに翻弄
(ほんろう)されて、子供達の創意工夫などの思考力が低下したからである。幾つかの方法論を、あれやこれやと論(あげつら)った。
 だが、的確な方向は不明確だった。混沌としていた。故に、学力、学力……という割には成績は上がらず、実力は養成されず、然
(しか)も総ては徒労に終わった。学問で世に立つ筈の敗北者の大量生産である。

 では、その元凶は何処にあるのか。
 理由はただ一つ。
 非能率な、空回りの学習を強制する勉強のさせ方である。私は直ぐに、そう睨
(にら)んだのである。
 振り返れば、私が大学受験の頃、北九州
(博多の方にはあったようだが)には進学塾や予備校は殆ど存在しなかった。そう言う補習設備や施設は皆無に近かった。ただ補習授業をする学校はあったようだ。
 しかし現役高校生でも、予備校や塾に行って学習指導を受けているという話は聞いたことがない。基本は、自宅で自学自習すると言うものであり、こうした形での大学受験であった。

 また、現役合格出来なくても、予備校などに行かず、一年間“宅浪”をして翌年の受験で合格を決めるというのが浪人生のパタンであった。
 私以前の先輩たちは、より少ない時間で、より誇り高く、毅然と、悠々と学問の道を拓いているのであったのである。

 道を拓く……。
 それも他者の力を借りずに、自分の自力で道を拓く。かつてはそう言う時代であった。
 それは学問だけではなかったように思う。
 総ての道は、拓けているように思えた。信念を据え、高い志を持ち、それに邁進すれば一見閉ざされているように見える道でも、拓かれたものである。

 私のような、中学三年で働き盛りの父を失い、母子家庭に甘んじながら、自身がアルバイトして高校の学費を払い、更に大学に進学するという行為は、私自身には不可能なことではなかった。そういう近い位置に上級学校は、私には映ったものである。自力で、自前でカバー出来たものである。

 家が貧しいからとか、自身に学問がないからという言い訳は、あくまで自分の不努力をする言い訳であり、実は、本気になって学問をする気持ちであれば、安く行ける大学は幾らでもあったし、少しばかり成績がよければ、奨学金すら楽々に受けられた時代である。中には、条件付きだが返金不要と言うものまであった。
 また、医学部では産業医という条件付きでの大学もあった。産業医としてある一定期間年季奉公すれば、多額の補助金が出る制度である。更には、私大の「全特待生」という学費無料の大学もあった。

 特に私大医学部では、こうした枠が毎年数席設けられていたのである。医師国家試験の合格率を上げるためである。これによって下位に属する医科大学でも、国家試験の合格率にバランスをとる経営が行われていたのである。
 かつては貧乏でも、頭があれば医者になれた時代であった。学閥さえこだわらなければ、タダで行ける大学は幾らでもあった。
 但し、大学へ行くには才能が必要だった。

 フルネームは避けるが、昭和四十年代当時、K医科大学などは、500満点中20点しかとれない学生が大半を占めていた。それだけに悪評が高かった。多くは家業が医者の、裏口入学のドラ息子たちだった。彼等が学力特待生の肥やしになった。
 親たちは裏口の入学金を、数億円から数十億円も払った。開業医の子弟のための独占機関として設立されたものだった。
 一方、これに反して成績優秀者は全特待で医学部に通っていた。一切がタダであった。生活費まで貰っている特待生もいた。
 この特待生が、後で自分の大学に500満点中20点しかとれない学生がいることを知って、自殺した学生までいた。

 これらは医学部だけではなかった。
 私大の法学部にもあった。
 司法試験合格率を上げるために、授業料全額免除という私大法学部もあった。
 そうした私大を狙えば、家の貧富など問題ではなかった。給料のようなものや、月々の生活費まで補助してくれる大学まであった。
 昨今はこうしたことがマスコミの槍玉に挙げられて、伸びる芽を摘んでしまって、これを平等というらしいが、換言すればマスコミの焼き餅であるかも知れなかった。こうして近現代日本の歴史の中には、有能な芽を摘み取ってしまった訝
(おか)しな平等主義が蔓延ってしまった。そして、口先の自由は存在するが、生き方の自由とか行動の自由は極めて制限されているのである。

 当時は、まだ本当に自由という時代であり、今日のように大学入試センターの共通テスト
(今日のセンター試験。この名前は共通一次に始まり、マークシート方式になり、共通テストなどと、名称を度々変えた)で縛られることはなかった。創意と工夫が物を言った時代であった。

 私もそれに因
(ちな)み、独自の考え方で大学受験指導をしたことがあった。
 また、逆に「教える能力」のあった者は、自身の創意工夫で、教わりたい生徒というのも容易に探せた時代である。新聞に広告を出せば、直ぐに富豪の家の子弟を探し出すことが出来たのである。
 私の学生時代は、そう言う時代だった。
 学ぼうとする子供たちは幾らでもいた。

 学生運動華々しい学園闘争の時代、私の眼から見たら「教える」という一点について探せば、私のような高額時給にありつけた有難い時代だった。教え方に特異性があれば、その主旨に賛同して、上流階級からの依頼は幾らでもあったのである。私にとっては、これも一種の階級闘争だった。
 人生の計を考え、学問で世に立とうとする子供たちのサポートの一人として、私自身は学園闘争などに目も呉れず、子供たちと共に叫び、共に唱い、共に夢見たのである。赤い革命の、循環論的な輪廻から抜け出すための、私のとっては一種の階級闘争だった。

 しかし現実は、そんなに甘くはなかった。
 学問で世に立つというこの現実は、そんなに甘くなかった。
 先ず第一に、学ぶと言ったところで、基礎力がなければ、どうしようもなかった。指導しても、それは遅々として進まず、歩みは遅い。歩みが遅いだけに、先は暗く、見えないことが多過ぎたのである。だが、信念は捨てずにいた。
 信念さえ捨てずにいれば、心の何処かで確信が生まれる。見事合格させるという確信が生まれる。密やかに勝利への勝利感が湧くのである。確信こそ、私にとっては自信だった。

 不安定な当時の子供らは、力強い者に憧れていた観があった。強者に憧憬
(どうけい)があった。
 それに答えるべき自信が、それになればよかった。強者になればいい。信念を持てばいい。
 受験という不確実性の中で、子供たちは、力強い言葉と、力強い「腕
(かいな)」を需(もと)めていのである。

 “腕”とは、馬を引く腕力である。この力倆ある技を「かいな」といい、その手頸
(てくび)の能力が崇められる。
 馬は、馬方の腕
(かいな)の力で制御出来るのである。
 武術の用語に「腕を返す」という言葉がある。これは馬を馭
(ぎょ)す力のことを言う。
 また、相撲でも「腕を返す」と云う技術用語が出て来る。
 これは相手の脇の下に差し入れた腕の肘
(ひじ)を上へ上げ、相手にまわしを取らせないようにする動きを言う。そのために力倆で養った「ひねり」が加わる。
 これと同様、馬を馭
(ぎょ)す場合、手綱(たづな)を取り馬を制するために、腕に肘を、わが方に引き付けて、返し、遊びを作らないことを言う。これで馬を馭すのである。

 馬を力強い力で引き、馬方は馬を水飲み場まで連れて行き、そして水の飲み方を教えるのである。当時の受験指導はこれに尽きたように思える。その自負があり、私はM君を、彼自身と両親が望む志望大学へと、押し出したのである。
 その意味で、彼は幸せであった。
 何故なら彼は、私と、この人生において出遭
(あ)ったからである。

 一方、そうでない者もいた。
 出遭っていながら、私を卑下し、かつ“高過ぎる時給”などと罵倒する親と生徒もいた。私のことを詐欺師と言った者もいた。そう言う子弟の家からはペテン師呼ばわりされた。
 私を全く理解しない連中である。
 親からは、学生の分際で……と罵られたこともあった。詐欺師呼ばわりされたこともあった。
 それはそれで、いいと思う。
 否定はしない。

 だが、私を罵倒した子供らの未来はどうなったか。その後の人生はどうなったか。
 彼等は“安かろう……、悪かろう……”の罠
(わな)に嵌まった。その他大勢は、その罠に嵌まった。そして、そのような人生を歩くことになる。そこに未来展望などはない。目先のことだけである。

 憧憬すべき学問の時機
(とき)が、“安かろう”の、安物に手を出し、その後、苦役の勉学にすり替えられてしまったのである。そうした学習現場を多く見て来た。
 大半は机にかじりつくポーズの学習法だった。苦行を強いるポーズだった。これでは効果は上がるまい。
 物事をいつも違った眼で検
(み)て解釈し、実践する者が排他的に扱われ、爪弾きされるのは、世の常である。
 しかし、爪弾きされたからといって、失望はしないし、自分に自信は失わない。

 人は、可視的世界での中でしか評価が下せない。
 数歩先が、霧の中だと、その先を見極めることが出来ない。
 ところが、数歩先の霧の向こうを走る先駆者は、往々にして非難と無理解の渦の中に立たされるのは、いつの時代も同様である。決して評価などされない。
 評価がなくとも、しかし先駆者は毅然
(きぜん)として、わが道を行けばいいのである。自力スタイルを崩さなければいいのである。

 安かろう……を好む者が多くいることは、世の常であり、人情から言っても安い方に傾くのは仕方のないことである。
 而
(しか)して、予備校や塾の一斉授業に熱を上げる。一人の講師を大勢で分配しする。こうすると一人当たりの単価は安くなる。無理もないことだ。

 しかしこれでは、成績が上がらないばかりか、志望校の膝元にも到達出来ないのである。安物は見事に、経営と云う言葉に摺り替えられてしまったのだった。
 そして、愉
(たの)しいかるべき貴重な、若い日々の膨大な時間が、諦めと忍耐と苦しい時間にすり替えられてしまったのである。
 安かろう……の次に、悪かろう……が連続して、数珠つなぎになっていた。これこそが、世の中の縮図だった。

 この世の中は、作用と反作用が反復される。それも周期的である。あたかも好景気と不景気が周期的に繰り返すようにである。そういう力が、現象界の何処かで働いているのである。作用に対しては、必ず代償として反作用が起こる。
 安かろう……の正体は、人生を棒に振る“悪かろう”だった。そこには鋳型
(いがた)に嵌(は)まった人生の縮図があった。

 私が六十有余年の人生を行きて来て、切に悟ったことは、人はみな平等でないと言うことであった。
 人間が平等でないからこそ、己に出来ぬものがある。己に足らぬものがある。己に分からぬものがある。己に具
(そな)わらぬ力がある。
 もし、そうした局面に遭遇したなら、その力のある人物を立てればいい。依頼すればいい。
 その人物の見えぬ輩
(やから)は、したがって、人はみな平等と思い込み、目先の慾でその人物の足を引っ張り、やがて己自ら滅びてしまう。

 人間は生まれながらにして、人それぞれに才分がある。能力差がある。それを素直に認めるべきである。同じと思ってはならない。
 人はみな同じで出はない。平等でない。認めるべきは認めるのが、賢者の徳分と言えよう。

 私は当時、M君と同じような子弟の家庭教師を、もう一軒請負っていたが、こうして一年目の請負業は二軒とも成功したのである。
 但しM君の場合、駿馬が駿馬としての自覚がなかったから、駄馬擬きを駿馬として自覚させるのに大層手間が掛かったのである。しかし駄馬擬きは眼を醒まし、ついに駿馬に戻った。



●合格祝賀会

 私は、M君宅での合格祝賀会に招待された。
 私が家庭教師を請負って、一年後の事である。
 この一年は長いようで、また短いようであった。そして、“山高ければ谷深し”という作用と反作用が此処にも働いていた。

 最初は長いと感じ、後半になると実に短く感じた。あたかも加速度がついたように、だった。一気に攻略したと言う感じであった。
 待ちかねた最終目的を果たす時が遣って来た……という感じはしなかった。あまりにも呆気なく決められてしまい、合格が感動的と言うほどのドラマチックでなかったからである。それは、攻略が「一気」と言う感じであったかも知れない。
 最終目的を果たす。最初はそう思っていた。
 しかし……という懸念もあった。あっさり決められてしまっては、その準備に間に合わなかった。

 一方で、大学に殆ど行かなくなった私は、昭和40年代半ば、二足の草鞋ならぬ、三足の草鞋を履いて「道場事業部」の完成のために奔走していた。
 資産家の家に生まれなかった者は、自分で資産を作る以外なかった。そのために三足の草鞋を履いて奔走していた。
 一足目に道場経営。二足目に刀屋。三足目に家庭教師。
 これを一週間周期で、緻密なるローテーションをこなしていたのである。
 その三足の草鞋は、それぞれは関連性を持った周期で動いていたのである。

 M君の請負人として、まず彼を志望大学へと送り込んだが、しかし最終目的の「刀を縁起のもとして売込むという目的」は果たすことが出来なかった。取り止めたというべきかも知れない。
 その理由は、売る物がなかったのである。刀剣市場で縁起物を入手出来なかったのである。
 中途半端な物しかなかったのである。入手に失敗したと言ってよかった。
 買手に相応しい、まさに売る物がなかったのである。何れも、縁起物としては帯に長し、襷に短しだった。

 私の信念はあくまで自前主義だった。自前で調達する。自前で調達出来ない以上、他店から借りて来ることは出来ない。
 昨今は、ネットワークによって他店から「借りて来る」という売込み方法が流行っているが、これは些かトラブルになり易い。歩合や取分を廻
(めぐ)ってのトラブルである。こうしたトラブルの懸念は、昭和40年代に既に発生しており、こうした背景に刀剣ブルーカー達が暗躍していた。詐欺師達のリベートを廻る詐欺に巻き込まれる恐れもあった。
 そこで、自前で揃えた物となるが、これは思うように揃わないことがある。

 とてもでないが、重要刀剣には及ばない物ばかりだった。これでは第一、縁起物として役に立たない。単なる刀剣趣味の程度の、コレクターに押し売りをするだけになってしまう。したがって、縁起物の売込みを断念したのである。
 遂に、縁起物の話をすることなく、請負業の目的を達した私は、慎んで身を退いたのである。そう決めたのである。
 売込みは止めたのである。売る物がないのである。これでは身を退く以外ない。
 物事は思惑通りには運ばないものである。
 合格の熱気で溢れ返っている時に、役目を終えた者は去るべきなのである。長居をしてはならない。

 人は、進退の時を間違わねば、身は何とか保てるものである。
 そのためには、身の慎み方を知って居ればいい。
 私は身の慎み方を選んだ。そして身の保つ方を選んだ。
 まず、第一志望大学に送り込むことにより、私の役目は終えた。終えた以上、このまま去るのが、進退を保つ唯一の方法だと考えたのである。

 しかし、去り際、M君の祖父が私に最後まで興味を持っていた所為
(せい)もあり、「まだ何か遣り残したことがありませんか」と声を掛けてくれたのである。
 あたかも意味ありげに、鎌を掛けているようであった。
 あるいは私の魂胆を見抜いていたのかも知れない。
 この老人は、元軍医の老医師だった。陰の私の唯一の理解者であった。それに奇妙な素振りをしているところを度々見たことがあった。
 もしかすると、好き者かも知れないという期待もあった。それ故、遣り残したことがないかと訊いたのかも知れない。

 「最後に、どうですか……。先ずは、お茶でも一服さしあげましょう」
 このように言って、一年前と同じようなことを切り出したのである。何か言いたげであった。
 私は、この「最後」に付き合った。
 そして一服した後、碁の一局でも所望するのであろうか。

 しかし意外だった。
 隣の部屋から、何かごそごそと長持のような函
(はこ)を抱えて来たのである。長方形であるから、碁盤などはいる訳がない。それ以外のものだ。
 それは「これを見て下さい」と言わんばかりだった。
 長持の中には、刀袋に入った三振りの刀剣が横たわっていた。袋の房
(ふさ)を解かないでも、その中身が刀剣であるのは一目瞭然であった。
 刀袋は三振りとも金襴極上のネル入の袋で、房はしなやかな正絹房だった。安物のペラペラという感じではなかった。何だか曰
(いわ)くありげだった。
 長持の中から一振りを掴み取り、房紐を解き、中から拵
(こしらえ)付きの大刀が顕われた。その拵の出来が見事で、刀身は肥前刀というのである。鞘を払って中身を見せて頂いた。

 「どうです」
 こう訊かれて唸った。
 「肥前国忠吉……でしょうか?……、それも五字忠吉という……」
 恐る恐る訊いてみた。
 刃文は小錵付、互の目乱足太く入り、中直刃二重刃足入る。
 わざわざ中茎の銘を見らずとも、恐らく間違いあるまい。研ぎ師の師匠・吉藤先生が語られた通りのもののようだった。これまで肥前刀を数多く見て来たが、これほどまでの凄い大業物は見たことがなかった。

 「さよう、五字忠の異称の……」
 五字忠といえば初代忠吉であり、慶長年間の物である。
 私のような素人風情が、おいそれと手の出せる代物でない。桁違いであった。
 M家にはこうした名刀が存在する以上、私のような駆け出しの刀屋が売込むような縁起物は存在しない。また売込んでも、鼻であしらわれるだけだろう。
 これを見せられたとき、私は浅はかな策を用いて縁起物と称し、売込まずによかったと思った。売込んだ後に、五字忠のような大業物を見せられては、大恥をかくところだった。

 それにしても売る物がなかった。縁起物としての売る物がなかったのである。
 最終目的は達せられずに頓挫した。
 “合格祝いに”と、予々
(かねがね)当りをつけていた物を直前になって攫(さら)われたのであった。まさに鳶(とんび)に油揚だった。自分の物になると思っていたものが、思いかけず横合いから奪われ、持っていかれたのである。鳶に油揚を攫われるが如くだった。
 それというのも、「梃子
(てこ)」という巧妙な仕掛けによって、まんまと目の前で攫われたのであった。

 梃子とは刀剣商仲間では「合力」などといって、吊り上げを図る巧妙な仕掛けであり、これが連鎖を起こすと値が異様に吊り上がるのである。ブローカー同士が合力により、梃子と言う巧妙な手法と連鎖で値を吊り上げるのである。売り仲間が合従
(がっしょう)するのである。攻守同盟を作るのである。そして時には、攻守同盟が連衡策に出て、この連合同盟は市場内で勢力を拡大し、縦横に好き勝手をするのである。

 これに掛かると、もう一匹狼では歯が立たなくなる。況して、素人風情では阻止能力がない。目の前で、いま一歩のところで好き勝手にされる。まさに、鳶に油揚を攫われる如くだった。いい物はみな持っていかれるのである。売買において梃子を遣られると防ぎようがない。
 その「梃子」という、巧妙な仕掛けを紹介することにしよう。



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