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続・刀屋物語 35

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世の中に「帯に短し襷に長し」という中途半端な物がある。縁起物を考えた場合、破魔の効力を持ち霊剣の風格を具える刀剣は意外に少ないものである。需(もと)めても需まらず、意図せぬときに思いがけずに掘り出すことがある。



●競争連鎖

 梃子(てこ)という組織的な集団で猟(か)られ、策に嵌(は)まると、自分ではどうすることもできない事態に陥ることがある。
 吊り上げが、次々に連鎖するからである。
 場の雰囲気も白熱するだけでなく、連鎖により高騰が起こるのである。
 競りの構図の中に、競り負けがあるが、また競り勝ちもあり、実際には勝ちでありながら、蓋を開けてみれば「掴まされていた」という結果を招く場合もある。白熱した連鎖が招く現象である。

 見事に填
(は)められ、ババ抜きに嵌まったのである。
 とにかく私はM君の合格祝いに際し、縁起物としての売り物が用意出来なかったのである。吊り上げられ、気付いたら、二束三文のババを掴まされていた。
 また、「これは」と、思うものは組織集団の梃子で、土俵際で見事に“うっちゃり”を喰った感じだった。
 売買する場合は、その本音として自分が売る場合は千円でも二千円でも高く売りたいと思う。また逆に買う場合は千円でも二千円でも安く買いたいと思う。慾を掻けば掻くほど、そう思うのは人情だろう。

 しかし実際には、この“色気”が危ない。
 こうした色気を出すと、「山売り」や「抱き合わせ」の叩き売りの憂き目に相、その仕掛けによって反作用の結果、ババ抜きした結果を掴まされる。結果的にはそういう風になってしまう。
 競りで売買すると、駆引きが未熟だとそうなる。
 競り負けて、まさに「鳶に油揚」の構図の中に填められたのである。
 いい物を目の前で攫
(さらわ)われたという観があった。

 こうして縁起物になるべき物が、遂に手に入らなかったのである。
 幾ら売りたくても、物がなければ売れないのである。贋作のボロ刀では駄目であった。そういうボロは縁起物にならない。真物
(ほんもの)に限られた。そう言う物でなければ「破魔」の効力がない。霊剣の条件を満たしていなければならない。
 しかし、探すとなると大変である。

 市場で、いいと思っていても、それは眼の錯覚である場合が多い。最初いいと思っても、鈍刀
(なまくら)であることが少なくない。人間の眼は、それほど錯覚に騙され易い。肉の眼はあてにはならない。
 時が経てば、こうした錯覚は、次第に眼の呪縛から解ける。後で見ると、場の雰囲気で呪縛されていたことが分かる。買い急ぎの観があった。場の白熱に煽
(あお)られた。渦に巻き込まれたのである。そう言う反省が起こる。
 それに、こうした物は、時間が経つと、売買のチャンスとタイミングを逸する。

 市場での売買は、買手は単に自己資金を用意して、それで仕入れを済ますと言う訳でない。買手でありながら、また売手にもなるのである。市場で同時に二つの行為をするのである。これが売買であり、自己資金とともに自己の持ち物を売却し、新たな者を手に入れるのである。この二つを同時にこなさねばならない。買うだけではないし、また売るだけでもない。そして、買い急ぎがあったり、売り急ぎがある。
 ゆえに、つい急いでしまう。焦りが出る。
 売買するには、いつがいいか、それが分からないからである。時期によって、時間によって、売買に高低差が出るからである。

 焦りは禁物である。
 “バスに乗り遅れるな”の焦りで行動すると、ろくなことがない。
 しかし時間の経過は恐ろしい。
 何事も、ほんの数秒で勝負が決まる。そして、勝負の中で蓋
(ふた)を開ければ、「競り合い」と言う白熱現象の中で、幻覚のトリックに嵌まっていたことが分かる。

 また、人は時間の経過を、逆に恐れたりする。
 そのために、別の物で買い急いだりするものである。実体のない焦りから「今を逃しては……」と、ありもしない妄想に取り憑かれる。
 こうした妄想は日常茶飯事に起こっている。

 昨今も、消費税の5%から8%になる際、消費税に搦
(から)めた買い急ぎ現象が美術マニアの経済現象として顕われたが、こうしたことも時間の経過を恐れての人間の行動原理の一貫を覗かせている。背後に利に対する損得勘定が働いているからである。だがこうした損得が、時として妄想を呼ぶこともある。ありもしない妄想を呼ぶのである。
 本来、急がなくともいいものを、周囲に引き摺られて急
(せ)かされるのである。他人ばかりに、儲けさせてはなるまいという気持ちが働く。そこで、自分の便乗すると言う行為である。これは一種の顛落(てんらく)の構図とも言える。
 而して、人は買い急ぐものである。妄想に取り憑かれるものである。周囲に引き摺られて躍らされるのである。

 こうした現象が顕著に顕われるのが株式市場である。
 株価は暴落もするが、また急騰もする。株価が急騰する場合は、多くの人たちが突然金持ちになり、それを周囲で見ていた人が投機に参加するのである。人々が株価急騰により熱狂するのは、今も昔も変わりない。老若男女を問わず、富者も貧者も同じようになって熱狂し、多くが投機に奔
(はし)る。

 かつてイギリスで「南海泡沫
(なんかい‐ほうまつ)事件」なるものがあった。
 1711年、イギリスで「南海会社」が設立された。この会社はイギリス政府から南米における通商独占権を与えられた。
 本来、南米はスペイン領であり、イギリス船の貿易は厳しく制限されていた。ためにイギリスと南米間は貿易があまり盛んではなかった。

 ところが、南海会社の設立を気に、株価が上昇し始めたのである。このときスペインが貿易制限を緩めたという風説が流れたのである。また、これらに尾鰭が付き、作り話やありもしない噂が流れた。これらが巷
(ちまた)を駆け抜けたのである。そして同社の株価は異常な高値を付けて急騰し始めたのである。
 このとき株価を押し上げる材料は何一つなかったが、それが異常な事が起こり始めた。同社は、一部の投資家に対し、価格が下落していた国債を額面で計算して、株式購入の資金として充当していたが、これがどうしたことか、下落しても訝
(おか)しくないのに同社の株価は急騰したのである。この急騰に老若男女を問わず、貧富を問わず、殺到して購入したので、急騰の要因を招いたのである。株価は上がりに上がった。天井知らずの勢いだった。
 そうして同社の株価が急騰すると、会社側も一緒になって虚偽の情報を流し、会社ぐるみで詐欺を始めたのである。
 これに投機筋は躍った。
 誰もが株主になり買うに買われ、南海会社の株を持つ者は踊りに躍ったのである。しかし株主は、会社の将来を買ったのではなかった。単に高値を付けた急騰する株式に殺到したのである。

 「他人が多く買うから、株価は更に値上がりするだろう」と考えて、急騰の株式に飛びついたのである。
 よく考えると、この急騰現象は「他力本願型のバブル」を招いていた。

 かの有名なアイザック・ニュートン
Isaac Newton/微積分法を発明し、光のスペクトル分析などとともにニュートン力学体系を建設し、万有引力の原理を導入したことで知られる。1642〜1727)も、南海会社の株に飛びついたのである。
 天才物理学者ニュートンも、同社の株を購入したのである。しかし、彼は「天体運動ならば計算出来るが、群集心理から起こった、株式に群がる群衆の狂気は計算出来なかった」のである。
 狂気を計る法則は見出せなかった。

 最初、ニュートンは「南海会社の株式は高過ぎる」と正しく理解した。そこで、一度は保有する同社の株を売った。
 ところが、また後に同社の株を大量に購入したのである。
 これは、大勢の人が株に狂って、買いに買いまくっているのに、自分一人、指を銜
(くわ)えて見ていていいのか。自分も、人と同じように儲けたいと思ったからである。この天才物理学者にして、この態(ざま)である。

 後に、大量に南海会社の株を買ったニュートンは、株式が暴落して大損するのである。
 これは天才物理学者のニュートンですら、人間として愚かな真似をするなどと揶揄
(やゆ)するべきものだろうか。その程度の結論で片付けられるだろうか。
 根は深いのだ。
 場の雰囲気にも人を狂わす何かがある。
 当時のイギリスでは、狂喜した株価の急騰する乱舞があったのである。
 また、人間は、その程度の見え透いた詐欺に騙されるほど、投機に夢中になったのである。南海会社のような会社は、同社一社ではなかった。他にも多く設立され、最後は泡のように消えた。故に、バブルが弾けて、後に「泡沫会社」と言われたのである。

 これの同じようなことを、日本人も「平成バブル
(平成元年を挟んだ、1980年代後半から90年代初頭にかけて起こった地価・株価の高騰)」で経験している。
 実は「バブル」と云う言葉は、1700年代のこの時が起源だったと言う。泡沫会社がバブルの由来であると言う。
 人が買うから自分も買う。人が儲けているから自分も儲けたい。人間の共通した心理である。
 そのために「バスに乗り遅れるな」となる。
 これは刀剣をはじめとする、古美術の世界も同じである。この世界にもこうした現象は起こる。
 この世界にも「バスに乗り遅れるな」という心理が働いている。

 しかし買い急いだ場合、結果論から言って、逆にいい物が入手出来ない場合が多いようだ。買い急ぎで、冷静な判断を狂わせるからだ。
 買った後、何ヵ月か半年ほど経って、買い急いだ物を静かに見ると、そこには多くの欠点が浮上して来ることが多い。買い急いだために、大した物でもない美術品を、高値で掴まされたという反省が起こるのである。
 更に、梃子に嵌まって掴まされた場合は、競り勝って獲得した物であるから、相場値より高い場合がある。
 巧妙な梃子集団の策に掛かり、蓋を開ければ、二束三文の物を、正価には届かない高値で買わされたということに気付かされる場合がある。場の雰囲気で、呑まれるからである。
 入手した当初、耽美の心の酔って寄り付いたのだが、時間が経つと、耽美は欠点へと変わっていく。興醒めるのである。

 そして、二束三文を高値で買わされる行為の裏には、仕掛人の企てもあるが、わざと資金不足に陥らせ、やがて価値ある物が出てきた場合、その買いを阻止する行為が、場の雰囲気にある事だ。その雰囲気に搦め捕られる場合があるのである。また、買い急いでいることを周囲から読まれることだ。白熱仕掛人や詐欺師はそこに眼を付ける。

 この読みに、「欲しい貌
(かお)」をしていると、引き離されてじらされ、「興味のない貌」をしていると、魔が忍び寄って来て囁(ささや)かれる。顔色を窺(うかが)われ、こうしたことを巧みに読まれてしまうのである。
 潤沢な仕入れ資金を用意した金持ちなら、そう言うこともなかろうが、五十万円から百万円単位の仕入れ資金で遣っている小規模の刀屋は、どうしても周囲に読まれる材料を投げ与えてしまうのである。組織化したブローカー集団の巧妙な策に載せられてしまうのである。
 彼等は性質的に肉食である。呑気なウサギやロバは、立ち所に啖
(く)ってしまうのである。ところが間抜けなロバは、自分が啖われたことにも気付かない。かつては私も、その程度の生き物だった。

 市場のオークション会場も小規模では、場の雰囲気は単なる「競り合い」だが、会場が大きくなると、その巧妙な動きは隠れてしまい、仕掛人の思惑通りに運び、遂に、罠に掛かる場合もある。会場内には暗躍集団が潜んでいる場合があるからだ。こうした集団の組織的な梃子に搦め捕られてしまうのである。
 私も過去にそういう、搦め捕られたことが何度もあった。仕掛けられ、見事に嵌まっていた。

 組織的な梃子に懸かる場合、競り人側に潤沢な仕入れ資金がない場合に狙われる。こう言う時に限って猟られてしまうのである。
 特に、潤沢な資金不足に苦慮している買いの競り人は、心の何処かに「掘り出し物根性」が見え隠れしていて、その根性が、刀剣ブローカー集団に見透かされてしまうためである。
 僅かな金で、大物を手に入れようとする動きを悟られた場合、搦めの罠に掛かる場合がある。猟の材料は事前に用意されているのである。掘り出し物擬きが、用意されているのである。競り人はこれに眼が眩
(くら)む。
 この場合、全盲ならば最初から眩まされる眼を持たないから持たないから問題あるまいが、中途半端な半盲ならば、少しばかり眼が見えるために猟られる掘り出し物が、つい見えてしまい、少しばかり眼が見えることが徒
(あだ)になる。
 ここに興味を示さない全盲と、宝の匂いに反応する半盲との違いがある。

 私が、今でも忘れないのは、荘子の言葉に帰着する一節である。
 荘子曰
(いわ)く「深山に宝有り、宝に心なき者はこれを拾う」という一節がある。
 なかなか蘊蓄
(うんちく)のある言葉である。
 宝籤
(たからくじ)でも、当たりたい当選したいと思っている人は中々当たらず、一方、買っても番号すらろくに見ない人が当たったりするものである。
 これは古美術漁りにも当て嵌まる哲理である。

 掘り出し物などを手にする場合も、眼の色を変えて、掘り出し物に出遭うことを期待している人はなかなか廻り遭
(あ)えず、むしろそういう物に関心を示さない人の方が、掘り出し物に出くわすことがあるが、しかしその人も価値が分からないから、出遭っても猫に小判、豚に真珠である場合が多い。
 こういう人を、ときどき刀剣所持者の中に見る。
 刀剣所持者には、二通りのタイプがある。
 一つは刀剣愛好家であり、刀の蒐集を愉しみにしている人と、もう一つは刀剣には興味がないが、実用の道具として使用するので、仕方なく一振り程度を所持している人である。
 勿論、後者は刀剣を鑑賞するという眼は持たない。ただ所持して、試し斬りなどで使用する場合に具えていると言う程度である。一振りあれば充分と言う人である。

 ところが前者は違う。
 些
(いささ)か鑑賞の眼を持ち、その優劣の判断が付き、次々にいい物を欲しがる人である。
 しかし飽くまで、それは美術刀剣のレベルである。斬るための、それではない。そして前者と後者は、刀剣所持と言う考え方から大きな隔たりがある。
 ところが本来のタイプは、これだけではない。
 些
か鑑賞の眼を持っている人の中にも、タイプは二つに分かれる。
 それは刀剣を、将来値の上がる投資と考える物としての見方と、精神の拠
(よ)り所として心で鑑(み)る見方である。決して、物として検(み)る見方が下品で、心で鑑る方が高級とは言わないが、しかしその差は歴然としている。

 刀剣を美として検
る場合、美の鑑賞は二の次になり、純粋な気持ちは消えてしまう。そして、掘り出し物根性が全面に浮上して来る。
 これを弱者の足掻きと言わねばならないが、つまりこの浅ましさが読まれてしまうのである。こうして読まれると、暗躍集団が擦
(す)り寄って来る。その周囲から愛想笑いを作って、いざって近寄って来る。そういう匂いを嗅ぎ取られるからだ。

 資金が潤沢で、客筋に金持ち客を抱えている刀剣商は、刀剣を競る場合、いい刀の、前の持ち主の経歴を聞いただけで、総てを買い取ってしまうが、資金力の弱い貧乏刀剣商はそうはいかない。
 誰しも、潤沢な資金で「丸ごと」と思うが、私のような貧乏刀剣商の場合は、どうしても掘り出し物根性が蹤
(つ)いて廻る。小さな資金で大きな物を、と考えてしまう。

 また、金のない場合は意識しなくとも、自然と掘り出し物を探す構図と同じになる。安い物しか買えないからである。あるいは、浅ましさが前面に出て、いい物を安く手に入れようと企てる。
 競りでは対手が存在する。張り合う場合が必ずいる。
 掘り出し物で、自分が手に入れたい時には、対手と張り合う結果となり、勝つために、旧悪めいたあくどさを披露することになってしまう。背後には金銭が付き纏う構図があるからだ。そのために鎬
(しのぎ)を削る。それに儲けと慾が絡んでいる。
 更に、掘り出し物入手には、どこまでも金銭が蹤いて廻る。金銭の話がつきものである。

 さて、金銭の話をすると、如何にも下品に思う人がいるが、私は金銭の話をしても、それは下品とは思わない。金銭こそ、明確にさせるべき媒体であるからだ。
 経済は金銭が媒介して市場経済を形作っている。この媒体を明確に出来ない場合、人のよさに付け込まれ、不払いや不履行が発生する。
 人間の経済生活や最低限度の人間の権利を保証しているのは、人間が生きられる、生活出来る暮らしに必要な金である。人間と言う動物が、他の動物と違っている最大の特徴は、何よりも生きるために金を欲しがることである。

 それでいて、金の話をすると卑しいとか、下品だと思い込んでいる人は意外にも多い。
 客として私の店に来店する人の中には、「おたくで買った刀は誰にも売りませんから、私のために少しばかり負けてくれませんか」という人がいたり、「次のボーナスが入るまで俟
(ま)ってくれませんか」などと言って、支払いの都合を持ち出す人がいる。こういう人は、好機を逃す人である。

 しかし、前者の客には、「そんなことを言わずに、もし売る段になったら、うんと設けて売って下さい」といい、陳列の中の刀剣の値段を負けることはしないし、また後者の客には「刀は日常生活とは無関係です。好きで買うのですから、当店では俟つことはしません。もしお望みなら、お金を作って分割ではなく、現金一括で綺麗な買い方をして下さい。そうしないと俟たせて買った物に、運の良くなるようないいことは起こりませんよ。世の中は作用と反作用で成り立っていますから、自分の行為に運が反映されてます。売れ残って、ボーナスまで残っていればいいのですが、当店では一ヵ月で商品が入れ替わってしまいます。またのご縁を……」といって体よく断り、こうした客には「俟つ」という考えを起こさないようにしている。

 刀剣を所持すると言うことは、霊器霊剣を入手することである。破魔の効力を持つ霊剣を手に入れることである。ゆえに自分を護る縁起物と言うことになる。縁起物を値切ったり、またそれを入手するのに支払いを俟たせては、その資格があるまい。
 例えば、神社仏閣で御守りや護符を入手するのに、これを値切ったり、俟ってくれなどと言って、売主側の神社仏閣ではその条件を呑み、快く販売してくれるだろうか。
 また、御守りや護符を、月賦で販売したと言うことも聞いたことがない。

 刀剣店では月賦販売をしているところも多々あるようだ。
 私の店でも以前はカードなどでローン販売もしていたが、それに頼る客が殖えたため、もう随分前からそういう客には売らないようにしている。
 刀屋も客を選ぶのである。客相を観るのである。
 縁起物を売るのに、縁起物の意味が理解出来ないようでは、破魔の効力も薄れ、霊剣も、ただの鉄屑の棒切れに成り下がろう。

 月賦販売のその手の刀剣で買っても、買った買い物は、それなりに価値があろう。
 しかし、現金一括の縁起物からは大きく逸してしまう。
 縁起物には、チャンスが一回だけである。
 二匹目の泥鰌
(どじょう)は、もう柳の下にはいない。柳の下に何時も泥鰌は居るとは限らない。
 一度、柳の下の泥鰌を捕らえた方と言って、常にその場所にいるとは限らないのである。また、一度幸運を手にしたからと言って、同じ方法で二度目の幸運を手に入れられるとは限らないのである。

 好機は、二度も三度も訪れることはない。
 売る方も、買手の人間性やその性格を胸算用して読むからである。そして現実として、世に中には縁起物を扱う場合、幸せ販売人としては「売りたくない人間」という者がいる。
 刀剣を投機と考えている類
(たぐい)も、その中に含まれる。

 私は長年刀屋をして来た。
 そして振り返ることだが、老いた今、理解不足の者に売ってしまったことを多いに悔やむし、愧
(はじ)ることもある。
 禍いは、買った方ばかりではなく、売った方にも反作用が起こるのである。
 売主も幸運を掴もうと思うなら、幸運を掴もうと思っている人に売らなければならない。「後で」などと、先送りする幸運不履行者には売らねばよかったと、近年は思う、今日この頃である。ケチや好機知らずに売ると、その思念そのものが、売主にも反映されてしまうからである。

 若い時に比べ、刀剣を縁起物と理解し、霊器・霊験の効力を持つことを知らない者には売りたくないと言う気持ちが起こる。少しばかり人間勉強をしたからだ。
 世の中には、「この人だけには売りたくない」と思う人がいる。
 そういう、客の貌をして来店する人には、話していても、何故かけんもほろろになってしまう。つい売手の無愛想が貌に出る。時間の無駄はしたくないと思う。お客さまは神様ではないからだ。
 また刀屋は、薄利多売のディスカウント・ショップとは違う。運を扱う商売である。運が絡む以上、人を見る。その人のレベルを検
(み)る。当然売りたくない“その程度のレベル”もいる。

 また売手の心理として、刀剣を所持するに相応しいか否かの、人間の「格」を検
るからである。
 検られたが最後、値踏みされた人間は哀れである。
 長年刀屋を遣っていると、金のないのに無理して買う、その手の「哀れ」を観ることがある。
 何故なら刀剣は、経済的自由人でないと、刀剣は所持してはならないと思うのである。そうしなければ、運を呼び込む縁起物にはならない。縁起物が値切られない道理である。

 また、目利きの刀屋は、仕入れた刀剣類に定価を付ける際、市場価格に高くても、三割程度の下駄を履かせているのが普通である。これ以上の下駄を履かせると目利きの客は逃げてしまうし、四悪刀のボロ刀だけで、特保
(特別保存刀剣)以上のいい物を置かないと、そっぽを向かれることもある。
 私が学生時代やっていた刀屋は、確かに目利きの師匠について、手取り足取りを受けていたが、やがり眼力は利くと言うほどではなく、甘さがあり、また大きなことを言って吹っかけたりもしていたようだ。若気の至りと言うが、今となっては愧るばかりである。

 しかしそれは、また試煉のときだった。運命から鍛えられている時だった。そして、そういう試煉を経験しつつ、価格値の試行錯誤を繰り返し、常識ある三割定価へと落ち着いて行くものなのである。
 目利きの客から「高い」と思われればそれまでであり、客は去る。気付くと閑古鳥が啼いている場合も少なくない。

 目利きの客に去られたくなければ、価格の勉強が必要である。物を検
(み)る眼を養っておかなければならない。同時に「鑑る眼」もである。その中に「価格の先端」というものを勉強して行くからである。そして「物の価値」と言うものを覚えて行く。
 目利きの客は、幸せと商売繁盛の福の神を運んで来る、好機を携えた幸福訪問者であるからだ。店は、幸福訪問者によって栄えて行くのである。幸福訪問者は、本当の物の値段と言うものを知っている。

 これが、「物には値段がある」という所以である。この道理を知るようになる。
 つまり、5万円で仕入れた物は6万5千円が定価だし、10万円で仕入れ物は13万円が定価である。また30万円で仕入れた物は39万円が定価であり、100万円で仕入れた物は130万円が定価である。値の張る物は、それだけ利幅も大きくなる。
 そしていい物は高く、そうでない物は、その程度で落ち着く。こうして価格の先端を知ると、「いい物を高く売る」という道理が分かって来る。頂点に立ついい物は、絶対数が圧倒的に少ないからである。値が這っても当然である。その道理を学ぶ。

 しかし素人同士の売立会などでは、最初から定価は、刀剣書籍の番付のままで篦棒
(べらぼう)に高い定価が付けられて交換会が行われている場合がある。
 どこかで値切って、安く仕入れて来た刀剣・小道具類を、素人同士の交換会で販売する遣り方である。こうした交換会では、講釈巧みな玄人肌の話術をもった人間が何人かいて、某
(なにがし)かの鑑定書をちらつかせたり、巧みな話術で、叩き買いして持ち込んだ物が交換という形の売買が行われる。
 それゆえ欠点もある。

 その欠点とは、疵
(きず)があったり、“ふくら”の埋め跡や修正があったり、寸足らずだったり、銘が悪かったり、登録証に偽造らしい痕跡があったりの、プロの業界では嫌われる欠点である。
 ところが、売立会では「口で売る」ため、ミソもクソも一緒になっている場合がある。そして叩き買いの形跡が残る。
 悪かろう、安かろうの形跡である。それを何も知らぬ、興味本位の素人が買う。あるいは口車に乗せられて買わされる。

 これは物を買う場合に見られる人間現象だが、物を買う場合に必ず値切って買わないと気が済まない人がいる。
 ところが、古美術の世界では絶対に値切っては、店の主人からだけではなく、その店に出入りしている周囲に人から嫌われるものである。また買った後に、返品することも嫌われる。こうした返品や、約束反故をションベンという。ションベンは、特に忌み嫌われる。
 値切ったり、ションベンをする客は、一度でもそう言うことをすると、その店では「出入りはご遠慮を」と言うことにもなる。締め出しを喰う。

 また、そうした客の来店を許す店は、そういうションベン客のために、最初からそれなりの高値の定価が付けられていて、実際の市場値よりも高く売ったりする。更にションベンをする客に対しては、よい物は最初から見せないようになり、金庫の中や蔵の中に隠されてしまう。
 ションベン客は、自身の人間性や器量のほどを値踏みされているのである。ところが、そういうことを本人は知らない。検
(み)られる自覚症状がない。

 人間の「慾」というのは中々根深いところに横たわっているため、執着し過ぎると、落し穴に落ちることがある。
 したがって値切ることや、約束反故も人間としていい行為とは言えない。またそう言う行為で、真の縁起物は入手出来ない。縁起物は「運を招く破魔」の威力を持つ。
 ところが、こういう物を入手する場合、売手は買手の心理や人間性を読むから、出来るだけこうした人間に売りたくないと思うようになる。既に、こうした心理が働く裏に「禍いの不運」が絡み付くのである。かくしてションベン客は、運を取り逃がす。
 運の良い人と、悪い人の差はこうしたところにも、その原因が転がっている。

 そもそも刀は縁起物である。霊験
(れいげん)に由来する。徳を従えた霊妙なる力は、縁起物ゆえである。
 縁起物をローンで買い取って、また途中不履行などを起こして、どこに運の良くなる要素が転がっていると言うのか。
 日本刀は、日常生活とは無関係である。好きで買うことを第一とする。利生
(りしょう)を効験とする。
 縁起物は、直接日常生活とは関係ない。なくても支障はない。霊験が働かなくても、人間は生きていける。
 生活の中に、日本刀がなくても普通の生活は出来るし、そうした物は日常生活とは無関係である。
 今の時代、刀剣を所持することの、必要性の要素は何処にもない。
 しかし、心の拠
(よ)り所もないことになる。運に、勢いも持たないことになる。だが、それだけでも生きていける。運が良かろうが悪かろうが、それに満足すれば、それでよしとなる。

 一方で、人間は平等ではない。
 したがって、平等でない人間の頭上に授かる運も、また平等ではない。
 運は、掴む人とそうでない人がいる。運のいい人と悪い人がいる。これこそ、人間の頭上に吊り掛かる「運の不平等」である。効験も顕われる人と、顕われない人がいる。その意味で平等ではない。人間は、みな平等と思ってはならない。

 したがって運のない人は、一方で、お人好しのような金銭感覚に欠如する人が多く、更に理財の才もない。ケチでせこくて、惜しむくせに経済観念が欠如している。こういう無能な人は、人生の送り方が下降線を辿る生き方をしているようだ。
 下降線を辿るのは、何も運に恵まれないサラリーマンばかりではない。出世に目がでないサラリーマンばかりではない。自営業者にもいる。商売が、並み以下という、そういう商いをする人がいる。
 それは、そもそも商売の仕掛けや仕組みが悪いからだ。
 仕掛けや仕組みが悪いて、幾ら商売に励んでも「笊に水」である。働けど働けど、暮らしは楽にならない。笊に水を遣らかしている人は、商売人でも性格が頑迷である。頑固だけではなく、迷いの多い、頑迷者である場合が少なくない。迷い人の特性である、悪しき性格が商売に出るのである。したがって、いつも経済的不自由に苛まされている。

 商売に下降線を辿る道具類を扱う古物商や、刀剣商なども、運の不平等に苛まされる人がいる。市場で、そう言う人を見る。
 つまり、古物商売をしている人でも、また何年やっていても目利きでない人がいる。こうした人は、運の不平等に苛まされているようだ。視野が狭く、見通しが利かないからである。
 商売の仕方に、如何わしい画策があったりすると、そうした不運の反作用を受ける場合がある。反作用の反動をもろに受ける。

 珍品や奇品が出ても、猫に小判。豚に真珠。
 見逃すのだ。
 したがって、いい加減な値段で売買されている。
 刀屋の場合、鈍刀に高値を付けたり、珍品奇品に検
(み)る眼がなくて安値を付けたり、その価格が出鱈目である場合が少なくない。これは正価というより、変動する市状の価格の先端が理解できないためであろう。そして勉強不足もある。

 私の若い時は、実にそうであった。
 価格の先端を知らず、また勉強不足でもあった。そのためにお人好しな面が出て、その足許を見られ、最後の最後で「うっちゃり」を喰うのである。
 学生時代の刀屋商売は、実にこうした連続に日々であった。しなくてもいい徒労努力をしていた。

 M君の合格祝いの縁起物を用意出来なかったのも、足許を見られて保身物を入手出来なかったからである。勉強不足が祟っていた。それに潤沢な仕入れ資金が欠如しているから、泣きっ面に蜂である。

 しかし、潤沢な資金がないでも足許を見られずに、自分の好きな道を楽しむ手段も幾らでもある。
 毎月、ある刀剣会の市場に貌を出しているが、そこで老齢に達した研師と貌を合わす。
 「お早う御座います」の声から始まり、尊敬を込めてこの研師の老人を、私は「先生」と呼んでいる。

 先生は、ときどき私の知らないことを披露してくれる。あたかも手品のように、である。
 また、私の鑑定の鑑
(み)立てに相槌を打ってくれる。
 「これは、新々刀に見事に化けていますが現代刀ですね」というと、「さよう。中茎
(なかご)がいじられている」と言う風に、同感の相槌を打ってくれるのである。
 あるとき、中茎抜きの道具を忘れて、中茎が中々抜けなくて苦慮しているとき、先生は、その辺の転がっている鉄鐔を一枚取り上げて、その鍔の耳で見事に抜いてみせたのも、研師の先生だった。そしてこの研師の先生と、かつての、ご存命だった頃の刀剣の師匠だった吉藤清志郎先生と、つい、その姿を重ねて見てしまうことがある。

 刀剣会で貌を合わす研師の先生は、博多で研磨処をしているためか、刀剣会場も近くで、地下鉄に乗って刀剣市にやってくる。そして市場に出た刀剣の中から曇りの懸かった、一振り数万円の刀を買い求めて、それを持ち帰り、自分の愉しみとして研ぐのである。この先生が買うのは大抵、五万円以下の脇差しである。決して十万円を超えるものは買わない。一回につき、一振りだけを買い求めるのである。

 研師をしているだけに、鑑立ては確かで、「これは」と思う物を一振りだけ買い求め、それを風呂敷に包んで、会の途中で帰って行くのである。90歳を過ぎた先生であるが、その佇まいも中々見事なもので、重い腰をいつまでも残さず、会場からの去り際もよく、人生を能
(よ)く生きて来たという年輪すら感じさせる。
 そこに私は、尊敬を込めて「先生」と呼んでいるのである。

 かつて吉藤先生から、戦前・戦中の話をよく聴かされたものである。
 先生は軍隊を満期してから、下士官待遇の軍属となり、ある聯隊で軍刀の研師をしていたが、休みの折りはよく刀屋廻りをしたそうである。
 当時、吉藤先生は懐に常時20円
(1944年の昭和19年頃の20円は今の57,000円ほど)くらいの金を用意して風呂敷を持ち、刀屋廻りをしては、アリが餌を運ぶように買い漁っては持ち帰っていたそうである。そうした刀剣類も、戦災で大半は焼けたと言う。そして貴重な刀剣類を、いかに戦争とはいえ、失ったことは残念であったと語っておられた。

 大戦末期の頃、刀屋の主人も徴用で軍隊にとられたため、それに代わってその店の奥さんが細々と刀屋をしていたそうである。その奥さん相手に、やはり刀を買っていたというから、ご自身のことを「病い膏盲に入って、相当なる重症」と言っておられたが、その蒐集癖は、刀剣に魅入られた者として、最後まで「雀百まで躍り忘れず」だったのであろう。

 戦後の食糧難では、多くの古美術品や刀剣類が山のように出回っていたと言うが、いい物は総て米軍が持ち去り、それでもその目を逃れた僅かな物が、骨董屋や刀屋に出回ってことがあったという。
 昭和23年頃から、その後の十年間は、いい物が京都辺りの骨董屋やその周辺の刀屋に多くあったそうだ。
 そしてその手の趣味人は、生活を切り詰めて、こうした物を買い漁ったという。
 生活優先で、喰うことに大変な時代であったから、よほどの好き者でないと古美術や刀剣は見向きもされない時代であった。ある特定の趣味人に限られたようである。贋作が出回る中、時として「これは」という名刀に出くわしたこともあると言う。

 また、その頃の刀工も細々とした生活をしていたと言う。
 この時代、北九州から夜行列車に乗って大阪や京都の刀屋廻りや、刀工の現代刀の作家を捜して歩き回ったと言うが、京都や兵庫地方周辺に「丹波守」を名乗り、非常に名人芸をこなす刀匠がいて、そこに足繁く通ったそうである。もともと丹波は名刀の産地として知られていた。
 その丹波の地に、現代刀でありながら、新々刀と見間違う、紛らわしい刀を作る人がいて、非常に上手だったという。また当時の蒐集家で、この刀工の刀を好んで買い漁った人がいると言う。

 戦後のドサクサの時代、この新々刀作風の現代刀が、中茎を改造されて出回り、こうした中茎をいらわれた刀が江戸末期の新々刀として出回ったことがあった。正体は現代刀なのだが、あまりの出来映えに、新々刀風に改造され、これが江戸末期の某かの無銘の贋作として利用されたことは残念なことであった。あるいは自分の銘を削られて、某かの後銘が刻み込まれたとも言う。

 この刀匠の作品ならば、現代刀の業物として、今でも立派に通用したからである。贋作者として、汚名を着せられずに済んだかも知れない。心ない者に利用されずに済んだかも知れない。
 世が世ならば、この刀工も、名立たる現代刀工として、大業師の一人に名を残した人であるかも知れない。
 今でも、出来のいい現代刀に、新々刀の後銘が刻まれ、名工の真物によく似た、中茎が改造された刀を時々刀剣市場で見掛けることがある。贋作好きが贋作を作るのである。その心理が、私には理解できない。
 なぜ似せるのか、似た贋作を名立たる名工に求めるのか、この行為自体が不可解である。

 人は怕
(こわ)いと言うが、厳密に言うと、何かの技が出来て、それを遣うと怕いことと、人間がそのものが怕いと言うのは、必ずしも同義でない。
 また、何らかの作為をもって、ある意図の目的で、画策する人間も同じである。それは、人間自身が怕いと言うのと別問題なのである。人間が「意図的なる目的で画策をする」という行為が怕いのである。
 人の、悪意に満ちた行為が怕いのである。人を、そのように奔らせることが怕いのである。贋作を作り出そうとする行為が怕いのである。

 例えば、ここに一振りのよく斬れる刀があったとしよう。そうした場合、その「よく斬れる刀」は、果たして怕いだろうか。
 ところが、この刀を如何わしい何者かが持っていたとする。途端にその刀は怕い物になる。
 特に性格粗暴者などが日本刀を所持すると、その所持した刀は途端に恐ろしいものになる。つまり、刀剣は誰が所持するかで怕さが異なって来るのである。

 他人に危害を加えてやろうとか、強盗を働こうとする者が刀剣類を所持した場合、その者が刀剣を所持しているから怕いのである。美術品が、人を殺傷する兇器になるからである。
 一方、良識家が刀剣を所持すると、それは怕くない。
 良識家が刀剣を所持しようと、槍を所持しようと、ちっとも怕くない。それは刀剣類が怕いのではなく、それを所持する人間別の、人間の持つ心根が怕いのである。所持するに値しない、そのレベルの人間が持つと、刀剣は途端に恐ろしいものに成り下がる。

 また、錯覚を生む読み間違いから起こる「価格の先端の読み違い」も、実は刀剣類を怕くする材料になる場合がある。刀剣類自体に恐怖を抱く必要はないが、誰がその刀を入札し、それをどんな客に売却するか、で怕さが異なって来る。
 また、どういう目的で刀剣類を購入したのか、これも怕さの対象になろう。

 特に、投機として刀剣類を求めた場合、その怕さは、その所持者によって増幅される。値上がりを期待するからである。あるいは贋作を企てる者も、背後には慾が絡んでいるためか。
 よき刀剣も、所持者によって異なって来るのである。
 特に、所持する資格のない者が持つと、その刀剣は途端に魔剣、魔刀の類
(たぐい)に成り下がる。「銘が悪い」と言われる所以は此処にある。

 こうした悪刀をまんまと掴まされるのである。眼力がないためである。目利きでないと、これに嵌まる。また意図的にそのように動かされてしまう。
 実は、縁起物を用意出来なかったのも、こうした暗躍集団の罠に嵌まり、無駄金を遣わされてその後の仕入れ資金を失っていたからである。かくして眼の前には、天下の名刀が右から左へと流れて去って、私の手には止まらなかった。流れて行くのを、ただ指を銜
(くわ)えて見ているだけである。

昭和40年前半頃の大分県中津市のあるスーパーの広告チラシ。
 これを見ると、当時の物価のほどが分かろう。

 私は縁起物を手に入れようとして、このとき200万円ほどを贋作に投じて、新たな仕入れ資金を失っていた。
 何処の市場でも同じであるが、市場に関係する人々の相場観で売買いが暴走する。これ古美術の世界でも同じである。今これを手に入れれば、近い将来、必ず値上がりすると思えば買い、買うと実際に上がることがある。それを周囲で見ていた人は、そのことを確
(しか)と記憶する。その残像が余韻を曳いて、時節が変わっても暫く残る。それに吊られて相場も動く。それゆえ価格上昇を期待する。市場は白熱し、白熱に躍るのである。
 市場の構造を解析すれば、大体このような構造になっている。

 だが、こうした考え方の相場観が反転すれば、逆の現象が起こる。古美術の世界でも例外ではない。そして怕いのは、直接市場とか、関係のない顧客からの売り注文が殖える場合である。
 これまで100万円前後していた刀剣類が、一挙に四分の一程度の値下がりすることである。購入時は百数十万円した物が、下落により四分の一以下になることである。

 こうなると、刀剣書籍に掲載されている価格番付は、何ら意味をなさないものになり、これまで人気商品であった在銘の刀剣が暴落し、それに併せて、銘だけが上作に分類されている贋作が、普段ならば決して買うことの出来ない私のような底辺の刀屋に廻って来て、「これをどうですか」などとなり、訳も分からぬまま、フラフラと買わされてしまうと言う構図である。

 刀剣商の中には、最初から贋作と知りつつ、敢えてこれを買い、その嵌め込み先を計算している刀剣ブローカーまでいるのである。私は、刀剣市でこうした組織集団のターゲットになったのである。
 価格が下がれば下がったで、それに乗じて儲けようとする者が出て来るのである。

 ことのき、学生の分際で200万円も投じたのである。盲だったといってよい。私にとっては大きな金だった。市場では即日現金払いだから、延べ払い
(当時は5回の延べで、現在は3回の延べ)を除いて分割はない。また延べ払いも、重なれば大きな金額となる。これで夜逃げしたり、破産宣告する刀屋までいる。
 私の場合は、こうした憂き目は免れたが、しかし高い月謝を払ったものである。
 青二才が、まんまとして遣られた観があった。ババと言う贋作を掴まされたのである。貧者には堪える痛い出費だった。何故なら、投じた200万円が、立ち所に半額以下の破格値になってしまうからである。
 そして、もう再び買い繋ぐことは出来なかった。遣い果たしてオケラであったのである。
 縁起物が間に合わず、手当て出来なかったことは、私自身の未熟による。総ては後の祭りだった。

 だが私は元来の楽天家の所為か、最初、痛いような損失もいつしか忘れ、同じことを繰り返すのである。性懲りもなく、である。
 当時、損したことも時間とともに忘れ去り、変な余裕と言うか、不可思議な時間が過ぎ去って行くのを感得していた。そしてこれは、後の「損する余裕」に繋がっていったかも知れない。
 損する余裕は、相手から啖
(く)われたのでない。相手に啖わせてやったという自負が残るからである。



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