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続・刀屋物語 37

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刀の斬れ味は、焼刃(やきば)で決まる。この焼刃が、また日本刀の美しさを形作っている。焼刃とは、刃文のことである。
 刃文は光源と約30度の角度の位置で刀身を透かして見ると、刃と鉄地の境に白く光って見える部分があり、この部分が焼刃であり、これは美しい種々の刃文を構成している。

 刃文部には、大小の粒子から構成されている事が分かり、大粒の粒子は肉眼でも見えるほどである。この見える部分を刀剣鑑定上では「沸
(にえ)」または「錵(にえ)」と云う。刃と地肌との境目に銀砂をふりかけたように輝いているところを云う。
 また肉眼では見え辛く小さい粒子を「匂
(におい)」と云う。

 更に「斬れ味」は拵
(こしらえ)の造りで斬れ味を補佐している。
 特に、柄は斬れ味と密接な関係を持ち、柄握りのよさが斬れ味の決め手となった。
 また、こういう拵を打刀拵
(うちがたな‐こしらえ)という。
 江戸期に入ると戦国期の実用拵とは異なり、然程の装飾性は求められず、シンプルな拵となった。鞘の装飾は黒絽
(くろ)漆塗が一般的であった。その一方で、鞘部には多彩な装飾が施された。

 小柄は棒小柄というもので、地板嵌め込み式ではなく、下地に直接彫刻を施したものである。表には種々の彫金がなされ、裏には銘が彫られている。
 また小柄の中には、柄頭の部分に海老の背の丸みをそのまま曲線に当て、それを模した巧みなデザインのものある。
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●心の翳り

 預かった『肥前国忠吉』を持って、研師の吉藤清志郎先生のところに参上したのは、三月の下旬だった。桜は昨年と同じように綻(ほころ)びに始め、八分咲きというところであった。
 そして師匠は私の貌
(かお)を見るなり、「何か出物があったか?」と問うた。
 さて、これにどう応えるべきか、暫
(しばら)く躊躇(ちゅうちょ)した。何と答えるべきか……。

 そして「五字忠です」と答えた。
 「なに!?」
 「だから、五字忠です」
 「わしの訊き間違いか、それとも耄碌
(もうろく)が始まったのか……」
 「だから、五字忠ですと申し上げております」
 「五字忠とな?……。ここまでハッキリ言われると、どうもわしの聞き違いでないらしい」
 「最初期の『肥前国忠吉』です」
 「さて、最初期の『肥前国忠吉』ときなさったか。どれどれ……」
 それは勿体ぶって「鑑
(み)てしんぜよう」という態度だった。鼻であしらって、まったく私を信用していなかった。その態度が横柄であることに顕われていた。貌には「またどうせ……」という見下したような仕種(しぐさ)が貼り付いていたのである。

 私は刀袋から『忠吉』を取り出し、先生に渡した。
 “どれどれ”という態度は、未だに崩れていなかった。
 「まあしかし、中々いい拵だなあ」
 外装を見て好き勝手な注釈を付けている。
 そして「ほーッ、この拵に仕込んだ鐔は、何と後藤一乗の金工鐔……。
 さてさて、どういう業物が仕込まれていることやら……」と、独り言のように呟
(つぶ)きながら鞘を払うのであった。
 私は、心の中で「さて、如何……」と叫んでいた。何だか勝負に挑む気持ちになっていた。
 そして異変が起こった。
 「うう……ん……」と、暫く唸り声が続いたのである。
 私はこの唸り声を聴いて、「どうだ、驚いたか」という勝ち誇った気持ちを味わっていた。

 そして唸り声が止んだ途端、「何処で手に入れた!」と、厳しく問い質
(ただ)すように訊くのであった。その眼は、睨(にら)み据えていた。言い訳を許さないという厳しいものだった。
 「勘違いしないで下さい。これは自分の物ではありません……」
 「分かっておる。だから何処で手に入れたと訊いておる」
 「研ぎを頼まれました」
 「研ぎ?……はて、研ぎとな……」
 「そうです」
 「人間、それなりに陽気が良くなると、人間の肌にも脂
(あぶら)が乗って来る……」
 「はあ?……」
 私は合点しかねた。
 何を言っているか、さっぱり分からなかった。理解しかねたのである。それに“陽気”と“人間の肌の脂”のことである。これが、そう関係あるのか。

 「脂が載って来る……と言ったのじゃ」
 「脂がどうかしましたか?……」
 「どうかしましたか?って、察しが悪いな。いいか春はなあ、刀身に抵抗を感じ、手応えを感じる。実に斬り難い。春とはそう言う季節だ、分かるか?……」
 摩擦のことを言っているのであろうか。
 あるいは冶金学でいう、鉄地の中にある鋼のマルテンサイトとトルースタイトの関係を言っているのだろうか。更には、仕上げ工程である、「拭い」を掛けて、柔らかいトルースタイトの部分は早く摺
(す)り減って研がれ、マルテンサイトのような硬い部分が、そのまま残り錵(にえ)の部分を形成する光線の乱反射を言っているのだろうか。
 そして、それは何か、人間の肌の脂と密接に関係する何かがあるのだろうか。
 「人間の脂ですか……、それに春の陽気……」
 謎解きのような問答が始まった。

 「刀はなあ、斬る時の時節
(じせつ)を検(み)る。そうして遣うものじゃ。それに、その相手もな……」
 ますます謎めいたことを言う。
 「うん……」私は唸ったままだった。
 「そう、唸らんでもよかろう。この刀は、もしかすると御様刀
(おためしとう)。そもそも、この重みと反りが物語っている……」
 「うム……」
 御様刀の意味を即刻訊き返したかった。
 わが師匠は重大なヒントのようなことを喋り始めたのである。

 さて、吉藤清志郎先生であるが、私はこの先生を気易く「爺さま」とは呼べない。
 山下芳衛先生は、時として「爺さま」と呼ぶことがあった。あるいは心の中では、いつも「爺さま」と呼んでいた。
 この違いは何処なら来るのであろうか。

 知り遭
(あ)った歳月が物を言っているのだろうか。その長さだろうか。それだけに、話していても他人行儀のところがある。簡単には近付けない何かがある。
 吉藤先生は知り遭って間もない。僅か二年数ヶ月である。
 ところが山下芳衛先生は、私が幼児期から知っている。いわば親代わりでもあった。その親近感だろうか。
 そのために呼称が違っているようだ。

 いったい吉藤先生は、何を言いたいのだろうか。
 あるいは預かった『肥前国忠吉』が、いつの時代にか、人を介錯した御様刀として遣われたのだろうか。それは想像する以外ない。
 五字忠を預かる際、M家の老医師は、大業物を手にして「曇っていると思いませんか?……」自信なげに訊いたことである。こと言葉が気に掛かるのであった。そして私の鑑た感じも、何処か全体的に曇っていた。その曇りが何なのか、私にはよく分からない。

 「人はそれぞれの道に賭
(か)けて、日々精進し努力を傾ける。神経を研ぎ澄まし、ぎりぎりまで自分を追い込み精進に精進を重ねる。道の大家と言うものは、そういうものである。しかし、人である以上、こうした精進の過程にも乱れが生じる。人の心は、常に揺れ動いているものよ。未熟なればな。それが時として烈(はげ)しく揺れ動く……。

 悟りを得たと言う坊主でも、自称「悟り」である。結局は「生悟り」の域を出ない。
 仏道に入っても真物
(ほんもの)の悟りを得る者は大していない。大半は、仕事や労働もせずに、口先ばかりで説法を説いて偉そうなことを言うが、悟ったといっても口先坐三寸である。生悟りを、偉そうに自負に摺り変えている。本当に偉い坊主は滅多にいない。

 これと同じように、手練と言う者でも、多くは小手先の器用さに物を言わせる。その程度の手練よ……。芸達者であるが、所詮
(しょせん)そこまでの器用貧乏……。
 手練を全うするには、日々の努力だけではどうにもならん。鉄の如き心を持っていたとしても、その心は、時と場所に変化して常に揺れるものよ。
 此処に精進道の難しさがある。
 如何に武技を能
(よ)くしても、人間の躰に周期があり、それが波打っている以上、武の道と称したところで、また道に準じたところで、魂不在であれば、武技は心の揺れに負ける。技は、己(おの)が心に敗れる。
 この五字忠には、そういう人の心の翳
(かげ)りが顕われている……」
 この大家がこうまで言うのであるから、そこには重みのある言葉が並んだ。無視出来ない言葉である。

 「この五字忠は、かつて御様刀に遣われたと言うのですか」
 「その翳りがある」それは可能性を言っているのだろう。
 中
(あた)らずと雖(いえど)も遠からずだろう。
 もしかすると、名人の目から見て、的中しているのかも知れない。
 「……………」
 「武魂とは修羅か、地獄かに堕
(お)ちれば、翳りとともに迷いが顕われ、魂までもが揺れ動く。不動から遠ざかる。ときには冥界(めいかい)の地獄道になることもある……」
 このように意味ありげに何かを語らんとするが、大凡
(おおよそ)の見当はついても、その真相は未だに不明だった。

 しかし吉藤先生は、既にこの五字忠が、かつて御様刀に遣われたのではないか?……ということまでを察知しているようであった。
 それを「心の翳り」と表現したに違いない。思えば恐ろしいことであった。更に思えば、翳りは同時に、人の怨念が反映されているのではないか……。
 推測すれば、ここまで繋がって来る。

 「実は研ぎを依頼されて入りますが……」と恐る恐る切り出した。
 「よかろう。直ぐに研いでしんぜよう……」二つ返事だった。
 二つ返事を徐
(おもむろ)に言い放ち、私は五字忠を託した。
 途中、世間話を介して、私は吉藤先生の研磨処を後にした。
 御様刀に遣われたであろう経緯を訊きたかったが、あえて深くは追求しなかった。突っ込んだことを訊き出せなかったが、古い刀ほど、多くの人の手を渡り歩き、そこには戸籍以外に、刀剣そのものの年輪が刻まれていると思うのであった。それは素人風情の知るところではなかった。
 しかしそれにしても……、と思う。

 御様刀……。
 それは人の首を打った刀……。
 右袈裟か、左袈裟か、一文字払いから知らないが、紛れもなく人を斬った刀……。
 あるいは罪人の首を刎
(は)ねた刀……。

 私の心の中には、そういう忌まわしいものが付き纏った。
 あたかも粘着質のような、粘り着く膠漆
(こうしつ)を感じさせるものであった。それは親密というような粘りではない。もっと冥(くら)い、ドロドロとした人間の慾と縄張りに絡み付く、そういうものとして、私には感じられた。それは翳りとなり、やがて刀剣までもを曇らせてしまうものようだった。

 吉藤先生が「心の翳
(かげ)り」と称したのは、そういう意味までもが一切含まれていたのかも知れない。
 そしてそれが、現代の世になって、封印が解かれ、浮上して来たのかも知れない。
 それは人の怨念だろうか……

 それが冥
(くら)い翳りを作り出しているのかも知れない。

 今は三月下旬。
 桜の花も八分咲きと言うところである。
 八分咲きに準
(なぞら)えて、吉藤先生は「陽気が良くなると、人間の肌にも脂(あぶら)が乗って来る」と言ったのである。この陽気に、古(いにしえ)の者が打たれたのであろうか。それも介錯のような、首を打たれて……。
 その真意は分からないが、もしかすると五字忠に纏わりつく曇りは、これが浮上したのかも知れない。

 吉藤先生の感性は、長年の職人としての腕を持つ以上、それは当然、私以上に優れている。私如きが及ぶところでない。研師としての職人の感性と言うものがある。
 その感性で、研師はその履歴まで見抜いてしまうのである。そしてもっと深く探求すれば、戸籍まで行き当ててしまうだろう。
 戸籍は単に刀の出所を示す、人間の戸籍謄本のようなものでない。
 勿論、刀剣に付随されている「銃砲刀剣類登録証」は、法律が定めた戸籍には違いない。

 だが、本当の戸籍はこうした法の表面上のことではない。もっと暗い真相が隠されている。そこには死闘を演じて斬り合った履歴が刻まれている筈だ。
 それは血腥
(ち‐なまぐさ)い死闘の履歴である。その根源には“血”が、死闘の履歴に媒介していると言う。その指摘が、私の心には衝撃波のようになって伝わった。

 その時季は春……。
 人間の脂が載る春……。
 血の滾
(たぎ)る春。血の騒ぐ春……。
 血と春が、いったい何処で結びつくのだろうか。
 あるいは春はまた、人間の血腥い潜在的な意識が深層部に隠れているのかも知れない。そう連想する以外ない。

 その一方で、人は春、閉ざされた冬から醒める時期であり、その反動で花を愛
(め)でたりする。
 特に、桜の花に対する日本人の愛で方は、他民族とは違う。桜を愛でる感性は、日本人の遺伝子の中に連綿と受け継がれている。
 花は桜木、人は武士……の言葉も、その連綿性を顕している。
 この異なるところに、日本人の不思議があると思うのであるが、その深層部には血の纏
(まつわ)り以外に、花を愛で、山河を眺め、季節の移ろいに大自然の奥深さを感じ、その心をもって描き顕す繊細な絵心が日本人にはある。そこに大自然や神仏に対しての畏敬の念がある。
 日本人は往々にして、大自然に対して畏敬の念を持つ。
 その畏敬の念で、荒
(すさ)んだが心が洗われるのかも知れない。


 ─────博多周辺の土居町周辺を歩いていた時である。
 その途中、ある書画骨董を扱う古美術商の画廊の前で、一幅の掛け軸の救われるような画
(え)を見た。観音像である。
 その観音像に血と相殺させるような、一種の救われをこの画に鑑
(み)た。暫(しばら)く、そのウインドウの前に立っていたと思う。
 鑑て、心が洗われるような感じを抱いた。ウインド越しに暫く佇
(たたず)んでいたと思うのだが、どれほどだったか正確には憶えていない。もう45年以上も前のことである。

 そして、それから45年以上も経った六十半ばを過ぎた頃、そっくりではないが、極めてよく似た『観音龍図像』の一幅の掛け軸を古物市場で発見した。直ぐに入札した。
 それに「救い」を検
(み)たからである。
 そのときの入札価格は、市場値で15,000円ほどだったと記憶している。

 45年前、吉藤先生から翳りから血を連想させられ、それが一種の忌まわしさを感じ、更にドロドロとした絡み付きを、当時は一幅の掛け軸が、私の心を爽やかにさせてくれたのであるが、その時と同じような壮快感で、当時とよく似た『観音龍図像』の一幅を落札していたのである。落札価格が、〆
(しめ)て15,000円ほどだった。
 この一幅には「救い」があった。

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『観音龍図像』の掛け軸の一幅。この一幅は平成26年2月に、筆者が骨董市で落札したものである。かつて、この画に非常によく似た観音像の画を45年以上も前に見たからだ。
 そして何故か異様に、この画に惹
(ひ)かれたのである。
 また、穢れが洗い流されるようで、荒んだ心が救われるようであった。
 まさに、この一幅には「救い」があった。

 筆者は、当時救われた爽快なものを感じた憶えがある。その憶えを辿って、再び、よく似た『観音龍図像』の掛け軸を入札したのである。
 世の中には救われなければならぬ人間がいる。
 自ら「救い」を需
(もと)めていなくても、救われなければならぬ人間がいる。その者に自覚症状がないだけである。

 そしてこの「救い」の一幅は、平成26年5月6日、救われなければならぬ人間に無償で提供した。感謝されることは全く期待していないが……本人は親心が感得出来ただろうか。

 『観音龍図像』の一幅は「血穢れ」というものを、また心の穢れを洗い流してくれる感覚に囚われた。
 画には、血塗られた血腥い足跡を残すものもあるが、一方で、人の心の穢れを洗い流すものもある。

 それは血腥いものとは対象的に、大自然の、宇宙の深遠さを感じさせる懐の深さを、人の眼に迫る大迫力を持っている。
 血を好む奇人のものとは違う。
 花鳥風月を愛でる、心がもって描き出すものである。そして、それ以外のものもある。奇なるものがある。それは実に対象的であるが、そうでない、奇なるものは、一方でいたずらに世人の好奇心を煽り、あたかも奇怪な怨霊画のようなもので、また人間の歴史の中には持て囃
(はや)されたものが存在する。血塗られた画である。
 好奇の眼で鑑られる、その手の猟奇画である。世の中には血を題材にした画がある。

 猟奇画の作者は、決して上辺だけの美しさを求めて画にしたのではあるまい。人間の心の奥底の深層部の粘着性なるものの表現にこだわったと思われる。
 そして云う。
 美しいものだけが画ではないと。
 人の心を打たなければ、画ではないと。
 作者の表現形が迫り来るものでなければならないと。
 而
(しか)して、血塗られた世にも忌まわしい猟奇画が生まれた。

 武芸の画の中にも『斬首画』なるものがある。
 御様刀の刃に下る斬首の凄まじい画がある。刀剣を以て霊肉を、霊と肉とを切り離す凄まじいものである。
 更に、凄まじさは「生き胴斬り」で、その頂点に達する。
 生き様
(ためし)として、刀の斬れ味を試すために、罪人、あるいは死を命じられた者が様(ため)される。罪を犯して様される者、政争で敗れて反対勢力から粛清される者。
 様
(ため)される者は様々である。
 しかし様
(ため)される以上、必ず命を絶たれる。そこで生は絶たれる。
 世に「生き胴斬り」なる画がある。
 その画には試し斬りの痕跡をとどめる。

 普通、試し斬りは打ち首・獄門になった死刑囚などの屍骸
(しがい)が遣われた。そうした罪人の肉体を斬って、その斬れ味を試した。
 ところが、既に源平の頃には「生き胴斬り」あるいは「生き吊り胴」というものもあったという。試される方は、何らかの罪を追う。あるいは遺恨を持つ敵の将兵であった。
 罪人や敵の武将、更には破戒僧、特に尼が懐妊した尼僧は掟破りと捉え、両腕を後ろ手に縄で縛り上げて大木などの枝に吊るし、生きたままの人間を斬ったとある。これらは盛んに戦国期から行われていたものであるといわれる。
 江戸期における刑罰には『幕府法』というものが出来て、こうした刑罰は行われなくなったが、諸藩では、幕末まで行われていたようである。

 生き胴斬りに遣われる柱は大木であり、大木の枝に囚人を吊るして、図のような体勢で囚人が生きたまま、先ず銅が袈裟斬りで払い落され、次に頭部が逆さまになった瞬間、首を落としたのである。
 囚人の斬殺刑には、刀の斬れ味を試す意図も含まれていた。
 この場合の斬り方は、大半は袈裟懸けに斬るのであるが、中には「三ッ胴」というものがあり、まず袈裟懸けなどで胴を斬り落とし、胴が斬り落されれば、腰から下がなくなるので、斬った途端に頭の方が下を向き、その瞬間を狙って、下を向いたところを、今度は首を斬り落とすのである。つまり瞬時にして躰を三つに切断する処刑である。
 こういう斬り方を「生き胴」という。

 生き様
(ため)しとは文字通り、刀の斬れ味を試すために生きた人間を斬ること。
 様
(ため)すために、罪人が作られる。罪人がみな罪人でないかも知れない。あるいは冤罪(えんざい)かも知れない。犯さないでも済む罪を犯した者が、生殺しにされるのである。
 この側面を検
(み)た場合、人間の生命より、刀の方が貴重であると言うことになる。生命より、道具の方が大事と言う考え方である。
 そもそも刀とは、人間が造り出したもの。
 つまりは、単に道具に過ぎない。道具を道具と検
た場合、此処には殺傷の不必要がある。だが道具は、何処までいっても道具に過ぎない。
 更に道具の最たるは、この道具をもって生きた人間を斬り、生き様
(ため)しにすることである。人を斬って、斬れ味の善し悪しを検る。此処に人間の生命を軽視する考え方がある。

 想像上から作られた時代劇の人間の生命の、何と軽いことよ……。
 人間はまるで大根のように斬り棄
(す)てられ、斬った主役は、その手で祝杯の酒の盃を持つ。人を斬る手も、祝杯を持つ手も同じである。かつて本当にそんな武士がいただろうか。
 みな娯楽のために作られた作り話である。
 心情として、何人も斬った主役の侍が、その後、人を手掛けた何の罪の呵責もなく、酒を酌み交わすシーンなど普通では考えられない。もし、現実にこういう人間がいたら性格粗暴者か精神異常者であろう。その異常者が、時代劇では悪を成敗した英雄として祀
(まつ)り上げられる。何たる不可解。何たる矛盾……。

 人間に命は地球よりも重いと暴言する一方、人間を大根のように斬りまくる、日本刀を誤解させてしまう軽薄な時代劇を演出してみせる。時代考証も出鱈目である。それは娯楽とは言え、公共の電波を遣って放映し、素人を誤解させて、間違った日本刀観を植え付けているのである。マスメディアの恐ろしさだ。

 次に「打ち首」について論じよう。
 打ち首になるのは、まさに罪人の処刑である。
 処刑される罪人は土壇場に引き立てられ、目隠しをされる。首斬り役人は試刀術の手練の域にある者がこれに当たる。そして有無も言わさず一刀の下
(もと)に首を打つ。
 斬られた首は前方の血溜穴へと転がり堕
(お)ちる。
 上肢の上体はその斬り口の頸動脈から心臓の鼓動に併せて、ドクドクと血が吹き出る。最初は勢いよく一斗樽
いっと‐だる/1斗は1升(しょう)の10倍で、18.039リットルに当たる)をひっくり返したように、ピューッ、ピューッと3、40cm前後飛び、これが4、5回続き、次第に弱くなり、樽をひっくり返したようになってただダラダラと流れるだけになって終熄に向かう。
 首は落とされても一斗樽をひっくり返したような現象が起こるのは、まだ心臓が動いているからであろう。
 あるいは、ほんの数秒脳もまだ覚醒されていて、自分の首が堕ちて行く光景や景色を打たれた者が見ているのかも知れない。

 また、「一斗樽をひっくり返したような……」という形容は正論だろう。
 これは私が、先の大戦当時、下級兵士として従軍した人から確
(しか)と聴いたからである。
 その人の話によると、大戦末期、激戦地で、敵軍の砲撃を避けて洞窟に潜んでいて、その中に両腕を失った負傷兵がいたと言う。その負傷兵は、失った両腕の部分に蛆
(うじ)が湧き、非常に痛がって苦しんでいるようだったと言う。
 そこに、中尉の階級を付けた将校が遣って来て、「武士の情けだ。そんに苦しいのなら介錯して楽にして遣ろう」と言ったそうである。
 負傷兵はそれを「お願いします」という分けでもなく、ただ無言で引き立てられ正座させられて、首を差し出し、その首を将校が、軍刀で一刀の下
(もと)に首を打ったと言うのである。
 その人は当時の模様を、私にリアルで聴かせてくれたことがあった。
 そのときにも、「一斗樽をひっくり返したような……」という形容を使ったのである。

 更に、「軍刀で一刀の下に打った」という形容から、将校の使った軍刀は、将校用に配給した陸軍の官品の素延べ刀ではなく、それなりの業物であったと考えられる。また腕にも覚えがあったのだろう。
 それから一ヵ月後、日本は無条件降伏したと言う。何とも、後味の悪い話である。
 また、後味の悪い話は他にも聴いた。

 戦地で敗戦を迎えた日、日本軍将兵の中には日本の無条件降伏をよしとせず、最後の突撃を行って、敵に一泡吹かせようと、負け将棋をもう一番もう一番と、遣らかそうとした軍人がいたと言う。

 私は昭和40年代前半に大学時代を送ったが、その頃、刀屋とともに道場も開いていて、その道場には、まだ日本陸海軍で兵役を経験した人が多く通っていた。
 私が20歳前後のとき、その従軍した人達は、まだ40代後半から60代前半であり、当時の模様をよく知っていた。そして「復員軍人」という言葉も、殆ど聴かなくなったとは云え、少なからず聴かれる時代でもあった。
 戦後29年間もフィリピン・ルバング島のジャングルに潜伏し ていた小野田元陸軍少尉が、日本に帰国したのは昭和49年
(1974)のことである。
 それより以前の、横井庄一伍長がグアム派遣から約28昭和47年
(1972)に帰国したのは57歳の時であった。そして今でも憶えているのは、「恥ずかしながら帰って参りました」が、その年の流行語となったことであった。

 こうして日本の戦後は、まだ解決していなかったのである。終戦直後は、まだ続いていたのである。
 そうした未解決の中で、当時、もっと後味の悪い話を聴いたことがある。
 上官を斬った将校の話である。
 その将校の行為を、現場で見たと言う人から聴いた話である。敗戦時の実話である。
 私に語ってくれた元下士官の、わが道場の門弟は当時伍長で、戦地で敗戦を迎えたと言う。この部隊の部隊長
(聞くところによると士官学校出の大尉)は解散命令を出した。
 ところが、中に上官の解散命令に従わない一人の将校
(聞くところによると兵隊上がりの特務少尉)がいた。

 そして命令に従わなかった将校は、部隊長に向かってこう言った。
 「多くの戦友や部下を喪
(うしな)っておいて、おめおめと日本に帰国出来るか。五体満足で、故国の土を踏むのが恥ずかしい。恥を知れ!」と怒鳴り、次に出た行動が、つかつかと部隊長に歩み寄り、軍刀を抜いて「ご免!」と大声で叫び、抜刀とともに上官を斬り棄(す)てたというのである。日本は戦争に負けたのだ。何と往生際の悪い行為だろう。

 斬る際「ご免!」は、何を意味するか定かでないが、果たして礼儀であろうか。
 それにしても何とも後味が悪い。
 これだけの行為をするのであるから、部隊長を斬り倒した将校は、その場で同時に切腹していなければならない。それくらいの上官に対する命令違反の罪はあろう。罰されて当然だが、法で罰される以前に、自分も上官を斬ったという責任において、自らの命を絶つべきだろう。

 しかし、年配の道場の門人から聴いた話は、その将校は切腹もせず、また戦後、処罰されたと言う話も聴いたことがないと言う。何と云う後味の悪い話だろう。
 もし戦後、死なずに生き残ったのなら、この将校は斬った部隊長の遺族に、どう詫びたのだろうか。あるいは頬っ被りしたのであろうか。

 浅はかな日本刀観では、刀は単なる道具になり易い。
 日本刀は人間殺傷の道具でない。
 古来より、「武士
(もののふ)の心の拠り所」であった。霊気を具えた霊剣であった。この霊剣を、殺傷の道具に使えば、必ず後味の悪い事が起こる。自らが誤って殺傷の道具として一番最初に遣ったのなら、やはり終わりも、わが手で吾(われ)を始末するべきであろう。それくらいの重要な責任はある。
 それが出来ないのなら最初から、刀など所持するべきでない。刀は、なくても日常生活に何の支障もないからである。なくても充分に人生は満喫出来るのである。
 むしろ現代社会では、無用の長物である。
 刀剣は、刀剣を鑑賞すべき教養を有した人が所持するべきなのである。後味の悪い話を聴く度に、それをつくづく痛感するのである。


 ─────研ぎ上がったということを吉藤先生から電話で報告を受けたので、さっそく参上した。
 しかし、予想下以上に、意外にも早い研ぎ上がりであった。
 そして先生は、いきなり私の貌を見て、こう言った。
 「行
(こう)に徳有り」
 「はあ?……」
 私は唖然
(あぜん)とするがいなかった。この先生は時々分けの分からない禅問答をして、人を試す癖があった。
 「知らんのか、行
に徳有りだ」
 「不勉強でして、……何とも申し訳ありません」
 「今後、不勉強を慎め」
 「はあ、気を付けます」と、気易い返事をした。
 「さて、行
に徳有りだ。また行に、九徳有りともいう」
 「九徳ですか……」
 「行には九つの徳がある。この徳を人間の判断材料に遣う。そのことは『尚書
(しょうしょ)(皐陶謨(こうよう‐ぼ)/書経の別名だが、「九徳」は皐陶の謀で、賢臣皐陶に禹王が問うたことに由来)に出ている。よく勉強しとけ」
 「今後、肝の命じます」調子のいい相槌を打っていた。

 「一つ目の徳は、寛
(かん)にして栗(りつ)だ。二つ目の徳は、柔(じゅう)にして立(りゅう)。三つ目の徳は、愿(げん)にして恭(きょう)。四つ目の徳は、乱(らん)にして敬(けい)。五つ目の徳は、擾(じょう)にして毅(き)。六つ目の徳は、直(ちょく)にして温(おん)。七つ目の徳は、簡(かん)にして廉(れん)。八つ目の徳は、剛(ごう)にして塞(さい)。九つ目の徳は、彊(きょう)にして義(ぎ)。これらを具えておれば、徳があると言える。さて……」と、言いかけて、その先を止めた。
 「以上を併せて、行に九徳有り、ですか……」
 「さよう」
 「要約すれば、人を検
(み)る基準と言うことですね。逆に言えば、九つの徳のうち、一つも持ち合わせないのは、ある意味で、小人(しょうじん)と言うことですか?……」
 「そうだ。取るに足らぬ、一廉
(ひとかど)の人物ではないと言うことだ。よって小人」
 「なるほど……」感心したように相槌を打つと、直ぐに「寛
にして栗とは、これだけで一徳」と切り返して来た。
 独学とは云え、中々の博学である。哲学者の域だ。
 「つまり、寛
と栗でワンセット」
 「そうじゃ。一方だけでは徳にはならん。両方揃って一徳を成す。人間における行動においては、そういうものを徳と言う。寛
にして栗、つまり緩やかで寛(ひろ)いようで、然(しか)も厳しい。こういうのを行動あるいは行為の徳という」
 中々蘊蓄
(うんちく)のある言葉だった。

 「ますます感服致しました」
 「わしの好きなのは二つ目の徳だ。柔
にして立……。
 則
(すなわ)ち、柔らかいようでありながら、実は硬い。これはまさに日本刀そのものを顕している。日本刀はその形態から言って、まさに徳の現れである。日本刀は二重構造により構成されている。中身の柔らかい“餡(あん)こ”を、外側の硬い鋼(はがね)が包んでいる。日本刀の構造である。これこそ徳の現れ……」
 「行動や行為に顕われる徳とは、また愿
にして恭という言葉からも分かりますように、素直で控えめというのも、何処か武の道に通じているように思います。謙譲をよく言い表しています。しかし乱にして敬が、“今イチ”ピンと来ません」

 「それはじゃなあ、実は、乱の中に敬があるのではない。
 普通、乱といえば争いを想像したり、格闘や、更には秩序の崩壊などを想うようだが、実はそうではない。
 乱と言う事象を、検
(み)る角度を変えて観察すれば、窮乏(きゅうぼう)や疲弊(ひへい)を打ち砕くという策という意味を持つ。打開策を見出すことだ。
 打開策を見出して、今の戦々恐々
(せんせん‐きょうきょう)たる現状を打破することを言う。そう解釈すれば、乱の本当の意味が解けよう。
 つまりじゃ。乱れていながらも、恭
(うやうや)しくして、敬の一字を全うすれば、惰性やマンネリから招いた常人のダラダラ人生は、乱によって打ち毀(こわ)す打開策となる。刷新と捉えれば分かり易かろう。乱とて、好意的な解釈が可能となる。単に、秩序破壊とは限らん」
 「なるほど……」
 「尋常思考に囚われないことだ。つまり常識を打破することを乱と言う」
 「目から鱗
(うろこ)です」
 私は藤吉先生の、この解釈を非常に面白い答えと捉えた。常人より、一歩も二歩も進んでいた。並みの爺さまではなかった。

 「乱の解釈を間違える者は多い。『論語』にはなあ。子
(し)は、怪力乱神を語らずとある。そして他方、武王曰(いわ)く、予(われ)に乱臣(らんしん)十人有りともある。この違い、解るか」
 「孔子は超能力や霊的なことは一切語りませんでしたからねえ。また怪異なる超自然現象も語らず、暴力や紊乱
(びんらん)についても、煽動や秘密は証(あか)そうとしませんでした。天子の善い政治をもって人民に奉仕し、平天下を理想として、秩序や風紀を乱すを好まず、闘争などの騒乱を好みませんでした……」
 「だがなあ、武王については違った。この解釈が別の意味を持つ。特に、乱臣十人有りの箇所だ」
 「さて、武王に十人の世を乱す臣が居
(お)りましたでしょうか……」
 「そこじゃよ。その解釈を間違うと大変なことになる。ここでいう乱臣とは、悪臣ではない。そもそも武王に悪臣などいたなどと聞いたことがない。そう言う記録はない。そこでだ。肝心なる解釈となる」
 「と申しますと……」一瞬身を乗り出した。

 「乱をもっと深く掘り下げて、その原意を探り当てねばならぬ。そもそもの元の意義をじゃ。これを知ることにより、乱の意味が分かって来る。乱の原意は、乱れたものを治めるという意味がある。
 つまりじゃ、乱臣とは紊乱を正す力倆と技倆を持った人間を指す」
 「なるほど……」
 「こういう器を持った賢臣が、武王には十人揃っていたと言う。
 武王とは、既に承知の筈であろうが周王朝の祖である。太公望は渭水
(いすい)の浜に釣糸を垂れて、世を避けていたが、文王に用いられ、武王を助けて殷を滅ぼしたという経緯を持つ。後世では、武王は明君として知られている。
 そして有名なのが、
文王に用いられ、武王を助けて殷(いん)を滅ぼしたということは周知の通りだ。
 また弟・周公旦
(しゅうこうたん)を補佐とし、太公望を師とし、殷の紂王(ちゅうおう)を討ち、天下を統一したことでも知られる。
 つまり、乱を正しく解釈すれば、敬という以上、乱にして敬という言葉を、原意に基づいて理解する必要があるのだ」
 「ますます目から鱗です」
 独学とは云え、吉藤先生はまさに博学の域に達していた。

 しかし、こうして話している間に、研ぎを依頼した肥前国忠吉はどうなったか、その研ぎ具合が気に掛かり始めた。
 「分っておる」
 それは云われなくとも心得ていると云う風な回答であった。
 これでやっと研ぎを依頼した『五字忠』の、研ぎ上がった新たな貌と初顔合わせすることが出来る。
 これまでの長ったらしい講釈と云うか、解釈と言うか、初顔合わせに至る道を、吉藤先生は示されたように思われるのであった。

 私自身、居住まいを正し、襟
(えり)を正して、彊(きょう)にして義を示す秋(とき)だった。つまり、強くて正しい姿を示さねばならなかった。また、それが剛(ごう)にして塞(さい)に回帰されるのだろう。
 則
(すなわち、剛(つよ)いが充実しているということである。
 更には、簡
(かん)にして廉(れん)。則ち、大まかであるが潔い。
 直
(ちょく)にして温(おん)。則ち、真っ直ぐだが温かい。
 擾
(じょう)にして毅(き)。則ち、こたごたして乱れているが、しかし外部の力に屈せず毅(つよ)いという連鎖反応を起こすのであった。



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