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続・刀屋物語 38

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刀剣市場の価格変動は株式の変動のように目紛しくはないが、時代を反映して上下を繰り返し、健全なる確(しっか)りした業物の刀剣は上昇傾向にあるが、一方において、こうした健全なる刀剣が市場に出回ることが少なくなり、その反映として、中作程度のものが業者間で売買されている。
 このクラス
(「保存」や「マル特」程度からそれ以下)は、現在は価格的に値下がり傾向にある。

 平成26年6月現在の日本経済の株式上昇などに伴い、景気回復とともに上作物ならびに、最上作物が脚光を浴びると言う市状の実情が顕著になり始めた。これらは値上がり傾向にあるようだ。
 また、上作以上の刀剣類が、脚光を浴びる背景には、日本国内ばかりでなく、海外の刀剣愛好家が、こうした価格の底上げをしているものと思われる。

 この現象下で、中作以下は値下がり傾向にあり、上作以上が値上がり傾向にある。つまりランク的に言えば、「特別保存」以上である。重要刀剣以上のクラスは依然として高値を付けている。

 健全なる、良い刀剣類は、やはり現状においては2割方高くなっているのが市状の実情である。
 つまり良質なるものは「高い」ということである。これは刀剣に付随する小道具類も同じようだ。
 更には最近の傾向として、「拵付」の物が好まれれている。

 これは刀剣愛好家の世代交替とも言うべき現象で、かつては、刀剣はその刀剣自体が評価されていたのに対し、昨今は、刀剣は拵一式が健全に揃って「刀剣」という感覚や意識の違いが反映されているようだ。
 したがって、白鞘だけの物よりも、良質な拵一式が付いた刀剣は人気を博しているようだ。



●新生

 物は生まれ変わる。
 いよいよ、預りの『肥前国忠吉』の研ぎ直された顔と対面することになった。
 大業物の最初期の『肥前国忠吉』である。その辺のマル特如きの刀でない。況
(ま)して、甲種マル特以上の大業物。更には重要刀剣以上に匹敵する大業物である。
 手が揮い得ると言っても良い。
 曇りが落された『五字忠』と対面するのである。

 名人の研ぎによって、かつての曇りを拭い棄
(す)て、新たに蘇(よみがえ)ったのである。新生したのである。物が生まれ変わった瞬間に遭遇するのである。
 さて、『五字忠』は、どう変わったか……。
 興味津々であった。

 刀架けに掛けた『五字忠』を取りに向かう足取り、またそれを持って来る足取りに、私は注視した。
 私の観察眼が、わが師匠の足取りに注がれた。その足取りを見ていると、迷いのない足取りのように思われた。
 卑微
(ひび)の者に見られるそれとは根本的に違っていた。
 “この人は、何の迷いもなく、己が魂を曇らせる外邪も、何も存在しないのだ”ということを確
(しか)と見た思いがした。悟りを得た人間の立ち居振る舞いであった。いい動作であった。

 吉藤先生は『五字忠』を握って、私に渡そうとしていることろだった。しかし、直ぐには手渡さない。
 勿体をつけて、何か一言、云いたそうであった。
 そして、開口一番に喋った言葉は「人は欲望によって滅ぶ……」と発したことである。
 それを突然に切り出したのである。唐突と言ってよい。
 これを受けて私は反射的に、「はあ?……」と返事をする以外なかった。
 余りにも唐突な言葉だったからである。そして私の心には、「欲望」というものが引っ掛かり、暫
(しばら)く余韻を曳いたのである。

 人間には欲望がある。
 人は欲望を滾
(たぎ)らせて生きている。現象界は欲望が渦巻く世界である。
 この影響を受けずに生きている人間など、殆ど居ないであろう。
 無私に徹して高潔を気取り、粉骨砕身の態度を執ったところで、所詮それはポーズに過ぎない。どんな硬骨漢でも、いざとなれば保身を図る。
 そして根底には慾が渦巻いている。

 慾を否定出来る勇気のある者は、そうざらにはいない。
 初期は理想を追っていても、俗世の垢
(あか)に染まり、やがて色褪せて来る。俗に染まる。誰もが俗人的になる。人は垢に染まる世界に生きている。
 人は、一口に「初心に帰れ」とか、「無私になれ」と気易くに言うが、これほど難しい人生の課題はない。中々そうはなれない。
 そう思いつつも、俗世の垢に身を委ねて揉
(も)まれて、行き着くところまで行くのがオチである。
 それは、私とて例外ではなかった。
 刀屋は俗世の垢に揉まれて、駆引きと言う条件において、相手の腹の中を腹算用で読みながら、売買を展開するからである。どうしても、経験者はしたたかにならざるを得ない。また、揉まれた分だけ、したたかになる。

 「人は地位や権力にしがみついたり、それを得ようとして奔走するのは、確かに欲望に違いない」
 これは聞きようによっては、悟人の言葉であり、俗世の垢に揉まれながら、辿り着いた先が、欲望をも包含する真の硬骨漢の感想であったかも知れない。
 そうなると、吉藤先生は職人としての悟りの境地を開いているのかも知れない。私には到底理解できず、また辿り着きようもない遠い目標のように思われた。しかし、理想はそうありたいと願う。
 「……………」
 私はこう言われて、黙って聴く以外なかった。耳を傾ける以外なかった。それも人生の勉強である。20歳そこそこの若造は、この時期、先達の行いや言動から、大いに学ばねばならないのである。

 「しかし、名声を求めて正義ぶるのも、また欲望である。ゆえに、人は欲望によって滅ぶ。だがなあ、欲望を制御し、細小限度に押し止めることで、滅びを回避する方法がある。慾
(よく)に躍らされる人生は極力避けねばならぬ……」
 「……………」
 言っている意味はよく解るが、それと新生した『五字忠』との対面に、どう関係があるのだろう。
 果たして、お得意の禅問答か。

 ときどき吉藤先生は、東洋的な哲学談を挟んで、禅問答のようなことを言う。
 こういうのを、「表現に厳色が加わる」というのだろうか。
 禅問答であるから、私としても、その謎解きに苦慮する。そして謎解きを考え続ける者は、もしかすると老いることを知らないのかも知れないと思うのである。謎解きの謎解きを考えるのだろう。
 考える。
 考え続ける……、いい行為だと思う。

 そして恪整
(かくせい)を崩さないのは、吉藤先生独特のポーズだろう。
 つまり、真摯
(しんし)に真心を込めて何事にも当たるという姿勢である。それは決して非凡とは言い難く、常に日々精進する外貌(がいぼう)が一挙手一投足に顕われていた。それだけに隙がない。後ろにも眼があるようだ。

 「わしは『忠吉』を研いでいるとき、はたと思った」
 「どういうことでしょう?」
 「その最中、孔子の言葉が思い浮かんだのだ。
 『論語』は云う。
 “天を怨
(うら)まず、人を尤(とが)めず、下学(かがく)して上達す。吾を知る者は、それ天か”と……」
 今度は論語の一節から問答を始めたようだった。
 それにしても前置きが長い。
 久し対面に勿体が付く。
 
 「……………」
 更に黙って聴いた。言いたいことは云わせて、黙って聞き役の廻る方が賢明である。

 “天を怨
(うら)まず、人を尤(とが)めず、下学(かがく)して上達す。吾を知る者は、それ天か”
 論語を深く勉強した訳ではないが、言っていることは大体解る。
 ここで云う「下学
(かがく)」とは、身近なものから学べということである。

 論語にある通り、日常の身近な所から学んで、次第に深遠な学問に進んで行くために、解るところから始めよということである。
 解ることから始め、それを徐々に難しくして、易より難へと移行させよと言うことである。最後は徐々に難解になって行くのであるが、これは日本刀の勉強も同じであった。

 時よしと思えば、今日が吉日なのだ。「今」なのだ。
 そして学ぶ。
 学んで吸収する。
 分らねば、苦労して探求するか、智者に着いて学べばいい。学ぶことが見識を深めるのである。多忙を理由に放置すれば、それまで、である。
 故に、今を発心
(ほっしん)とする。
 仏道にもある通り、今を菩提心の起こす時と解釈して、思い立ったが吉日なのだ。

 更に日本刀は、単に書物で勉強したり、写真を見て、それから学んだだけでは用を為さない、実学と言うものが要求される。実際の多くの現物を鑑
(み)て、その実物の重さを、わが手の裡(うち)に感じなければならないのである。
 講釈だけでは通用しない。
 日本刀は書籍と言う紙面の世界からだけでは到底学び切れない。実物を手にする場数の多さが物を言う。鑑てきた経験が物を言う。
 それには多く鑑て、実物から真物を感じることである。書籍はあくまで補助的なことにしか役に立たない。単なる知識であり、実践ではない。

 そして吉藤先生が云いたいことは、自分の行為が何をしたか、またどういう生き方をもって、依
(よ)って以て、道とともに死ぬ、その己の足跡を知るのは、天をおいて他にないと言っているのであろう。それを、心静かに想い、静かな湖面のような、心を、鏡のようにせよと言うことなのであろう。そこに澄み渡った、何かが派生すると言うのであろう。

 この、澄み渡ったものが、則
(すなわ)ち、刀剣の研ぎに顕われるのだろう。
 湖面のように澄み渡った研ぎ……。
 そういうものを見たいと言う誘惑に駆られていいた。
 刀剣は単に、砥石だけで磨ぐのではない。
 最終仕上げは人間の指で磨ぐ。
 湖面のように澄み渡らせるのは、人間の指が行う。最終仕上げは道具の砥石でなく、人間の躰の一部でそれを行う。
 その指により、刀身の肌は平面でなく微妙に丸みを持った、接点が「点」だけの状態が出現するのである。この湖面が則ち、微妙に丸みを帯びた鏡である。

 鏡……。湖面のような鏡……。凪
(なぎ)の状態の鏡……。
 それは心の鏡。澄み切った鏡。
 此処には、湖面のような静寂があるようだ。
 波だっていない平静である。この湖面のような鏡を、吉藤先生は「静」と呼ばれていた。
 静は動かないのではない。物音もせず、静かだが、そこには神秘的な霊気を漂わせているのである。それを表現出来るのは、研ぎ職人として最高の研師と言うのであった。
 何事にも動じない心が練れているからこそ、最高の仕事が出来るのであろう。これが職人魂なのだろう。

 研師も、考えれば二通りのタイプがある。
 自分の腕を誇り、順番待ちをさせて尊大ぶる研師と、一方、吉藤先生のように、自分の信念において研磨を承る研師で、先生のような研師は、気に入らぬと研ぎを断ってしまう職人である。研ぎたくない刀もあると言う。
 それは職人の目で検
(み)ているからであろう。
 偏屈と言えば偏屈であるが、偏屈は元々職人気質の職人だけにしか持たないものであった。
 つまり金のために研ぐのではない。自分の信念において、これと言った刀を研いでみたと仕事を承るのである。
 本来、職人と言うのは金銭至上主義の、金の亡者ではなかった。況して拝金主義者ではなかった。
 職人は職人である。職人には職人魂があった。

 それに吉藤先生が仕事着としている白装束は、神事に関する一翼を担うという自負から着ているもので、霊力を持つ霊剣を研ぐという信念から来ているものである。手当たり次第、研がないのである。
 神事に関わることをしている自負と言うものが、そこにはあった。
 つまり、刀剣所持者とその刀を検て研ぐのである。所持者の人格が、それに値しなければ磨
(と)がない。余所(よそ)を廻れと言う。

 ところが磨ぎの仕事を師匠は承けた。
 何故か。
 M家から預かった『肥前国忠吉』は、磨がれたのである。断らずに研いだのである。検
(み)て、磨ぐ気が早々に起こったのだろう。それも意外にも早く、他の順番を通り越してのことだった。
 何かを「観じた」のだろう。感性がそうさせたのだろう。
 この経緯に、何かがあったことを予感させるのである。故に、その経緯を辿ってみたかった。

 「禍福は糾
(あざな)える縄の如しという。一方、こうした状況下にあっても、禍いを転じて、福と成す力を持つものが霊剣と言うもの……」
 十八番
(おはこ)の一席が始まった。
 霊剣の定義を語らせたら、止まるところがない。
 そう言いながら忠吉を渡し、遂に、私の手に握られた。緊張する一瞬であった。

 さて、研ぎのほどは……。
 ゆっくりと鞘を払った。
 そこに新たに新生した忠吉の刀姿を鑑
(み)た。
 実にいい。
 新生していた。
 他に言葉がない。見事に研ぎ上がっていたのである。
 こういう物を霊剣と言うのだろう。
 その確信があった。
 もう、それは単なる物ではなかった。また道具でもなかった。
 霊器として新生していた。神器と言っても言い霊気を携えていた。
 そこにはきらりと光るものがあった。閃光
(せんこう)を感じさせるものがあった。
 霊剣は新生するのである。その正体を見た。感動である。
 研ぎで、表情を変えるのである。これが真物
(ほんもの)の姿だった。
 『肥前国忠吉』は紛れもなく、新生していた。かつてあった翳りは拭われていた。曇りすらない。

 「実にいいですね」
 私は感嘆の声を挙げた。余りの磨ぎの見事さに、それ以上の言葉は出て来なかった。
 一言、「いい」としか言いようがなかった。それ以上の言葉は無用であった。
 禍いを転じて福と成すだけの力がなければ、それは物でしかないし、霊剣でもない。
 しかし、忠吉には霊剣の風格を具えていた。
 凄い大業物
(おおわざもの)と言ってよかった。大業物が真の姿を見せ付けるようだった。深入りすれば、魅入られるような怕さを持っていた。

 暫くの間、霊剣の鑑賞に浸った。
 最高の部類に入る大業物の真の姿を見た。曇りはすっかり拭い去られていた。そんなものは何処にもなかった。血の翳りもなかった。
 見事な研ぎだったのである。
 このクラスの大業物を、最高の研ぎで仕上げ、こうした刀を一度でいいから手に入れてみたいものだ……。
 それは私の率直な感想だった。

 また、そのためにも、以降刀屋を続けて行く覚悟が決まったようなものだった。こう言う天下の大業物を見ると、覚悟にも闘志が湧く。こういう大業物で勝負してみたいと思う。

 よく磨ぎ上がった日本刀。
 日本人の感性の細やかさと、芸術性の高さを見た思いがした。
 この背景には職人の魂がある。
 最高と磨ぎは、鑑る者を圧倒するだけでなく、感銘すら与える。大いに感動を与える。その感動が、以降の鑑賞力を高めて行くのである。これぞ、真の芸術。美の極み。そういう自負が、自らは、そうした美術工芸に関わらなくとも、何故かそうした誇らしげなものを観じるのである。
 日本人ならであろう。
 これはナショナリズムと言う、そういう民族主義の過激なものから起こるものでない。
 単に、日本人とに本当の結びつきの強さを知るのである。
 日本刀は、単に刃物としての道具ではない。
 光の交錯で大いなる感動を呼ぶ。
 そして約30度の角度で光りに透かしてみる。

 私のこうした行動をみて、「ほーッ、鑑かたを覚えたか」という、舌打ちとも思える吉藤先生の小さな声が飛んだ。
 先生は、これを私の進歩と検たのだろうか。
 もし、そうだとすると私の入門審査は合格と言うことか。
 先生は、あえて弟子を取らない人であったが、私は異端の末席にもおいていいと思ったのだろう。
 それは「鑑かたを覚えたか」という言葉が雄弁に物語っているようだった。

 光を当て、透かしてみた。
 その角度は約30度。
 これを光の位置を僅かに変化させながら鑑る。
 その角度に白く浮び上がるものが刃文である。
 浮いている……と、そう思ったのである。
 刃文は、忠吉特有の「小錵付きの互の目乱れ」である。足太く入り、中直刃二重刃足入れ。
 まさに「謂
(い)うこと無し」であった。
 私自身も、短いような長い旅路を踏破して来たような気になった。
 一段階を跳躍したのだろうか。

刀の刃文を構成する粒子の大小。日本刀の美しさは刃文を構成する焼刃で決まると言われる。刃文部分の粒子は大小の粒からなる。大粒子は肉眼でも識別出来るほどで、これを鑑定上、「錵(にえ)」と呼び、識別出来ないほど小さな粒子を「匂(におい)」と呼ぶ。

 焼刃の部分を光に透かして見ると、鑑る部位が乱反射し、肉眼には白く映る部分である。この部分を刃文と言う。そこに刀剣特有の美が表出する。

 実に日本刀の美しさは、地鉄
(じがね)の折り返し鍛錬の結果とともに、そこから生じた鍛え肌の模様が美しく、また刃文は地鉄鍛えの焼き入れによって生じたもので、焼き入れの際、焼刃土の微妙な材質の異なりから生じた組成の偏りにより、美的な形状を成し浮き足って来るものである。

 刃文とは焼刃のことである。
 基本的には直刃とか乱刃であるが、この形状は刀工独自の美的センスによるものである。したがってこの形状も様々なものがある。更にこの形状は、日本刀鑑定上、最も大きな見所となるのである。

 日本刀の刃文は冶金学
(やきんがく)からいうと、比較的堅いマルテンサイトと、それよりも軟らかいトルースタイトから構成されている。
 細かくて堅いマルテンサイトは乱反射して白く光り、軟らかいトルースタイトは研ぐことにより削られて低い位置に下がり、そこには堅い部分の粒子だけが錵となり、また匂となって残る。

 刃文を浮き立たせるには、最後の総仕上げは人間の手の指である。
 特に、親指の腹で研ぎ上げて行く。
 こうすることで、幽
(かす)かに刃文が浮き足って来る。大小の粒子が研がれているからである。

 日本刀の場合は、剃刀や包丁などと違い、横研ぎではなく「縦研ぎ」である。縦に研いで平面ではない、微妙な曲面を付ける。
 この最終作業で平面の接点が、限りなく平面に近付く曲面となる。この微妙な平面ではない曲面が焼刃である刃文を浮き立たせる。錵や匂が美しく浮き足って来る。
 そして、こういう組成構造で出来た日本刀を「名刀」と言うのである。

 名刀は、よく斬れる。斬れ味がいい。
 その斬れ味を決定するものが何か。
 実は冶金学から言うと、マルテンサイトとトルースタイトの組成による。つまり、焼刃の組成をなす刃文が斬れ味を決定するのである。

 では、刃文と斬れ味がどう関係あるのか。
 刃文があると言うことは、焼刃があるということだ。
 刃文がある刀で、切断する物体を斬った場合、刀が物体の間を通過するとき、物体に接する接触面はマルテンサイトの粒状の面だけとなる。
 軟らかい、低くなったトルースタイトの部分は接触面には触れないから、触れる総面積は極めて小さくなり、それに従い摩擦力も小さくなる。
 摩擦が少ないと言うことは、それだけ斬れ味が良いことになる。

 かつて肉屋は、肉切り包丁を鉄棒などに擦
(こす)り付け、故意に包丁に凸凹の疵(きず)を生じさせ、肉と包丁の接触面を小さくして斬れ味を倍増することをしていたが、日本刀の刃文の原理と同じことをしていたのである。

 ちなみに霊剣の霊力は、霊能力のそれとは違う。
 だが、霊剣を手に入れたからと言って、その持ち主が霊能者的な能力が身に付くと言うものではない。
 また、そういう興味本位のものでない。
 破魔の威力を持つのである。遠いところから加護するのである。邪なるものを取り除いて、所持者に幸福を齎すのである。

 霊剣は、悪気を払う威力があるとされる。
 刀剣を所持すると、運が良くなるとは、周囲の魔を悉
(ことごと)く打ち砕く破魔の威力を持って遮断するからである。霊剣は刀剣自体が、外邪や悪霊の住処(すみか)になりようがない。邪や魔は、敬遠して寄り付かない。四悪刀とは根本的に違うからである。四悪刀は、その所持者に冥(くら)い陰を投げ掛け、生きながらに冥府に引き込もうとするが、霊剣はそう言う兇悪は働かない。所持者に爽快を齎す。心の霧を払う役割を担っている。ゆえに霊剣と言う。

 刀剣を所持すると運が良くなる。ただし、霊剣相当を言う。破魔の威力を具えている物を言う。
 これを繰り返し論じて来た。
 では、なぜ運が良くなるのか。

 刀剣に魔を払う威力があるからである。邪を退ける。外邪の侵入を許さない。
 したがって運が好転する。これが良くなる背景を担う。それを担った物が霊剣である。
 先ず第一に、経済的不自由を解決する。経済的なる空竭
(くうけつ)した現実を遠ざける。浪費を抑え、不自由からの蹂躙(じゅうりん)を解く。
 しかし、刀剣ならば何でもよいと言う訳でない。四悪刀では、逆に不幸を招く。凶事を齎す。外邪を呼び込むからだ。
 そして悪霊の住処
(すみか)となる。危険、此の上も無いことだ。素人考えで、四悪刀を安易に入手してはならない。敬遠すべき代物である。

 そもそも刀剣所持は、真摯なる人柄に相応しい、それなりの威力を持つ物でなければならない。後銘はともかくとして、真面目な物でなければならない。無垢で、生
(うぶ)が残っていれば、つまり、破魔の役目を担ってくれる。これがなければ、刀剣を所持する意味はない。
 一方四悪刀は凶を招く。

 こうした物は、所持したが最後、外邪を呼び込んで、所持者に種々の禍いを齎し、同時に親兄弟姉妹、家族までもを巻き込んで、それぞれの運を衰退させて行く。同居者は謂
(いわ)れのない現象に迷惑を被る。不思議なことに、追跡調査をすれば、四悪刀を所持する者と、四悪刀を売買してこれにより些(いささ)かの利益を得た者は、それ以降の運勢があまり捗々(はかばか)しくないようだ。物事が順調に進まず、トラブル続きであるようだ。

 その場合の刀は、一種の自分の分身であると考えれば良い。
 自分の躰と同体の刀が、曲がったり、錆びたり、また欠けたりしていては、分身が機能する状態になっていないのだから、本体である自らの躰も正しく機能する訳がない。この機能不全が、肉体的かつ精神的には種々の病気やトラブルを発生させる。つまり凶事を招くと言うことである。
 こう言う物の購入や、仲介・売買は阻止せねばなるまい。気易く乗るべきでない。

 「破魔」に限り、効力を持つ。魔を破る力が備わっていてこそ、刀は心の拠り所となる。
 それが刀剣を所持する目的なのである。この目的は、必ず達成されなければなるまい。
 物事は本義に向かわねばならぬ。
 本義に向かえば、何事も好転する。好転にないのは本義から外れているからである。
 本義は「道」と解釈していい。
 道は、天道であるとともに、また人の道でもある。

 それに、道は一つ。
 一つ故に、天地を造分する。万物を化成する。その総ては、みな一つの根源から発したものであるから、大本に属するものが、また道と言えよう。
 道は造分する。
 造分は造り分ける。そして化成する。
 化成は成長させる。
 形を変えて別の物を作り出す。
 日本刀も、形を変えて造分されたものに他ならない。健全ならば、よしとする。決して不健全であってはならない。歪んだり、曲がったり、途中で折れたり、欠けたりしてはならない。無垢で、生で健全でなければならない。健全に意義がある。

 意義ある健全こそ、人を育む。人に幸せを齎す。
 これは時間とともに、「価値」という幸せが齎されるからである。時は、万物を育成する。本来そのように働いている。但し、健全なる条件においてである。
 未熟のままの不健全では、未熟のままで潰える。枯死する。
 こうなると哀れだ。
 時も、生き物であることを知らねばなるまい。

 刀剣所持者は、運気向上を目指して、時とともに自分を育成していると言うことを感得する必要があろう。生育を、心に強く念じる意義が此処にある。ゆえに結果として「運が良くなる」と言う事象が顕われる。それは未熟を脱して、自己の心象化が生育したからである。何故なら、心象化を発揮させるためには、強い意志と祈願が必要だからである。

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刀剣類は茶器などに比べて、心象的な美の捉え方は、あまりしないものである。感じると言うより、直に「鑑る」という点で茶器並びにその他の骨董とは異なっているようだ。

 しかし、日本刀にも「感じる」という鑑方がある。感じる場合、絵画と同じように同等の接し方において、鑑賞するのであるが、これを一歩進めた鑑賞法が日本刀にはある。

 日本刀を理解する上で、その背景にある歴史・刀工・産地の伝統、そしてその技術などを加味して鑑賞のポイントにすると、刀剣にはそれを感じるための「智」の部分は必要になって来る。
 単に書籍上から得る知識ではなく、実際に鑑て、その奥に霊的なものを感じなければ、それは本当に感じると言うことにはならない。

 鑑て感じる。
 この行為の中に、霊的なものを感じる何かがある。
 感じれば、心の拠
(よ)り所を所持者に齎すからである。感じることは、ただ鑑ること以上に深遠なものの存在を知ることであり、また感じれば、自分の運すらも、その運気が向上していることまでもを感じることが出来るのである。
 運がいい。
 そう感じれば、心の中に描く心象化現象の働きを得て、それが実際に現実化するのがこの現象の奇なるところである。その、「奇なる」をもって、心のは余裕が生まれる。
 刀剣を鑑る行為は、所持する者に余裕を与えるからである。

 人は、心の拠り所として鑑ることにより、気持ちを落ち着け、鏡のような静寂な湖面は、静和
(せいか)を齎してくれるからである。心の波風を鎮(しず)める。感情を柔和にし、イライラを目から中和する。怒りっぽい人間には冷静さを宿す。

 感情家は、何事かに直ぐ反応して興奮する行為に奔
(はしら)らせるが、こうした行為は小人のそれと変わりない。何故なら安易な興奮や激怒は、隙を作るからである。隙さえなくなれば、人間はまた冷静さを取り戻すものである。
 感情は超感情の世界にまで移入出来てこそ、喜怒哀楽が齎す感情から解放され、その後に超感情の世界に辿り着くのである。
 これを悟人は「余裕」という。

 この余裕の域に達すれば、損得勘定はなくなり、また相対的な勝負にもこだわらなくて済むようになる。
 鑑ると言う行為を通じて、静和を得るのである。そこに平穏を見る。安らぎを感じる。
 それはゆとりとなり、余裕となる。
 疾
(と)うに損得勘定や相対的な勝負の勝敗の世界からは解決されている。人間性の向上は、相対ではなく絶対なる物を追求することにより、人は精神を向上させて行く。刀剣にはその呼び水になる効能もあり、これこそ刀剣のもつ効用だろう。

 また、この効用は絶望の縁に立たされた場合も、特効薬になり得る。
 絶望は悪意が招くものである。何者かが発する悪意が、吾に到達した場合、一切の行為の中に絶望の種子が紛れ込んでいる。それを中和する効能を持っているのである。それは「鎮まる」ということで顕著になる。そして「驕
(おご)り」までもを鎮める。愚者の域から引き離す。拠り所が出来るために、安易に他人に諂(へつら)わなくなる。同等・同格意識で堂々と他人に対峙出来る。

 更に凄いのは、刀剣鑑賞により、「一
(いつ)」いつなる気持ちが感得出来る。
 さて、「一」とは何であるのか。
 まず、「一」とは、混じりっけのないことを言う。ゆえに「壱」ともいう。純粋を顕す。無垢を顕す。事の一番最初を顕す。
 道家
(どうか)の狭義によれば、次のように説かれている。
 「これ初め太始
(たいし)、道は一(いつ)に立つ。天地を造分(ぞうぶん)し、万物を化成(かせい)す。およそ一の属(ぞく)はみな一に从(したが)う」

 物事の本質に向かえば、「一
(いつ)」である。太始は元始(げんし)である。
 また道は、天道であると同時に、人の道である。
 造分は、造り分けるの意味であり、化成は成長されると言う意味を持つ。更には成長した後、形を変えて別の物に進化することを言う。時は刻々と万物を変化させる。この変化の元始は「一」である。
 「一
(いつ)」に回帰する事こそ、そこには宇宙との一体感がある。この一体感を瞑想出来るのが、刀剣鑑賞の瞬間であり、その時間である。

 邪を払う。
 魔を退ける。
 そういう効力を刀剣は持つ。霊剣の所以である。
 その意味で『肥前国忠吉』は、まさに霊剣の名に相応しい大業物であった。
 あと私の残された仕事は、『五字忠』を依頼主の届け、その集金をするだけであった。
 私は吉藤先生が見事に研ぎ上げた『五字忠』を携えて、一路、佐賀唐津への向かった。
 こういう見事な職人の研いだ刀を所持して、顧客へ届けるという行為は何とも誇らしいものである。刀屋をしていて、商品として物体の域を超えた霊器を依頼者に届けるというのは、何とも清々しいものである。

 そして、研ぎの依頼を承けたM家を再度訪問するのは、以前のように、縁起物を最終目的として売りつけるという商売上の次元を超えていたから、これこそ商売抜きの、儲け抜きの「神聖なるもの」が理解出来る者しか分らない、そういうものを自らが配達しているという気持ちと自負に誇らしい者を感じるのであった。
 これは四悪刀の欠点箇所の何
(いずれ)かを、研ぎで誤摩化して配達するのではなかった。
 大業物を、最上の研ぎで研ぎ上げ、その自負が配達に当り、胸を張るだけの誇らしい気持ちを湧き立たせてくれるのである。

 自分が刀屋であることを自覚した。
 いつの間にか幸せ販売人であると同時に、刀屋が、ふと、幸せ配達人という、幸せを配達する、その意味での縁起物を届けているという誇らしげな自負が沸々
(ふつふつ)を湧き起こって来るのであった。



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