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続・刀屋物語 40

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裁縫の用語に「直線断ち」という言葉がある。直線上に真っ直ぐ断つことを、こう呼ぶ。その他、意味合いとして「真面目」というものも含まれる。
 また「折目」という言葉から、「折目が正しい」という言葉が生まれた。折目がきちんとしていて、礼儀正しい事も、このように呼ぶ。
 更に折目を追求すれば、繊細さの顕われであり、折目正しさは「皺
(しわ)がよらない」という意味がある。
 種類は違うが刀の世界にも、真面目なものがあり、折目の正しさをイメージさせるものがある。そういうものは、鑑ていて清々しさを観じさせる。



●運気を呼ぶ霊剣の定義

 人間世界、特に社会を構成している“大人の世界”は自分の吐いた言葉と、行動が一致していることが条件として付き纏うのが普通である。これが常識となっている。自分の履行できないことを口にして、後に履行できない状況に陥って泣き言を云うのは、愚者することだ。

 不言実行を違
(たが)えた場合、周囲の人は実行出来ないことを吐いた人間に対し、世間は容赦のない呵責の鉾先を向ける。それだけ言葉は重い。言葉は決して弄(もてあそ)んでならないのである。弄べば、それだけ重みが失われる。人間も軽く見られる。
 しかし、この「重み」を、よく理解できない“幼児大人”も少なくない。古い言葉で云えば「武士の風上にもおけない」と指弾され、以降相手にされないのが普通である。
 ところが現代は、奇なる世の中。
 風上にもおけない、この手合いが大きな貌をして言葉を弄び、好き勝手の暴言を吐き、自ら恥を曝
(さら)け出し、自分が恥知らずな「武士に二言はない」という不言実行すら実行出来ないでいる。これでは信用を失おう。

 この世の中は、人間が寄せ集まって凭
(もた)れ合いの共同体を構築しているように見えて、実は個人個人はエゴイズム剥き出しの個人主義に奔っているため、個は小さく孤立した核化された「孤立体」である。
 また仲間と言っても、顔見知り程度、挨拶を交わす程度、居酒屋で一緒に酒呑む程度の“その程度”の付き合いの『凭れ合い共同体』である。
 つまり現代と言う社会は、誰かの庇護を当てに出来ない個人主義の世界であり、こういう世界は尚更、言葉に責任を負わされるように条件付けられている。
 そこで今度は文章による「契約」というものが資本主義とともに起こり、ウェーバーの著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』からも分るように、近代資本主義は総て契約によって実行される現実が生まれた。
 これにより、本来の意味が、ずっしりと重く被さるのである。

 しかし、それでもこれを解さない者がいる。幼児大人の類
(たぐい)だ。
 言葉を弄べば、それだけ自分を追い詰めることになるのだが、それが分からない。信用は日増しに悪化するのだが、その悪化に気付かない。人に信用と信頼をイメージさせようとするのなら、自分自ら不言実行を行動して示すべきである。行動してこそ、信用と信頼が得られるのである。
 だが、決断力の疎
(うと)い人間は、この意味が理解出来ない。

 人間は警戒心を剥
(む)き出しにし、石橋を叩いて渡るような態度であまりにも慎重に遣り過ぎると、失敗し易い。決断力が疎いからだ。
 また、目的意識が明確でないからだ。
 疎く、明確でない者は、その行動様式が、あたかも石橋を叩いて渡るような態度で、慎重に遣り過ぎるという態度に明確に顕われている。それは、ケチで狡
(ずる)いと言う性格をも顕している。側面には人を当てにし、庇護者の傘の下に入ることを画策している。まさに、虎の威を借る狐である。

 サラリーマンで云うならば、何処かの上場会社の中間管理職程度の地位にあり、その地位が自分の実力そのものを顕し、世間からそのように評価されているという思い上がりである。会社などの地位は、丸裸にされて世間に放り出されれば、これまで平身低頭をしていた下請け業者すら鼻も引っかけないようになる。自分が偉いのではなく、現役としての役職の権限が偉いだけなのである。その錯覚に気付かないのが、この地位に止まっている管理職の会社員である。
 これはまた、失敗の性格でもある。
 臆病者は、こういう性格の持ち主である。脱サラして商売を始めると、立ち所に失敗して窮するのが、こう言う類の人間である。

 また、慎重が過ぎれば、臆病風に取り憑かれる。
 一歩前へ、という行動がとれなくなる。積極性を失う。
 ついには失敗するかも知れない恐怖から、実行は止めておこうとなる。
 こうなると決断など出来る訳がない。かくして積極性が消滅する。以降、秋
(とき)がきても時期尚早と一蹴したり、今日は暦(こよみ)の上で仏滅だから厄日は止めておこうとか、方位が悪いから出掛けるのは止めようとなる。かくして臆病風に取り憑(つ)かれ、動きが取れなくなってしまう。
 運を逃がす典型的なパターンといえよう。臆病者はまた、運を掴む経験を持たず、その訓練もされていないことである。サラリーマンはその典型と言えよう。

 また、それはサラリーマンだけでなく、他の業界人にも多い。
 例えば、芸能界やスポーツ界で一世を風靡
(ふうび)し勇名を馳せ、この人が片手間に会社を遣ったり、飲食業を経営して失敗し、多額な借金を抱えるというのも、実は世の中を良く知らないし、そもそも井の中の蛙であったことが失敗の原因に繋がっている。失敗しても自学症状を伴わない人がいる。
 世の中全体が、自分の有名人としての知名度や、所属組織の地位や肩書きで動いていると錯覚したところに失敗の原因があったのである。
 決断力なども、性格に違いで判断力が人それぞれに違う。また判断力が鈍ければ、それだけ好機のタイミングを逃す。逃す原因は、迷いがあるからだ。心が澄み渡ってないからだ。

 決断したら、直ぐに遣
(や)る方が良い。行動に移す方がいい。迷えばそれまでだ。そこで前途が閉ざされる。
 早さが成功の鍵であり、早さが成功に導いてくれる。秋
(とき)が熟しているのに、躊躇(ためらい)いや迷いは禁物である。それだけに勘を研ぎ澄ます鍛錬が必要である。
 刀屋には、「これぞ」と直観したものに即応する運動神経がいる。反射神経と言う勘もいる。
 この「勘」という反射神経が欠如していれば、自分の目指す物は横から攫
(さら)われ、同業者から横取りされる。
 人は迷ったとき、既に成功から遠ざかっている。

 幸運や好機はいつまでも、その場で足踏みして俟
(ま)ってはくれない。
 幸運の女神には、前髪はあるが、後ろは禿
(はげ)である。
 前髪を掴むタイミングを逃がすと、後ろを追い掛けて女神の後ろ髪を掴もうとしても、禿げているから簡単には掴めない。かくして折角のチャンスが失われる。

 好機とは、目の前を疾走する馬車のようなものである。
 この好機の馬車に乗るためには、前に立ち塞がって馬車を止めるか、馬車を追って飛び乗るかしかない。それが出来なければ、その機会は虧失
(きしつ)し、もう同じものは再び巡って来ない。

 日本刀を持つと、運が良くなる。
 繰り返し言い続けた事である。
 その理由は、日本刀は折れず曲がらず、よく切れるという特徴から考えると、世界の刃物の中で、類を見ない超一級のものと言えるからである。
 一方諸外国の刃物と言えば、兇器であり、人殺しの道具としての意味しか持たない。あるいは鳥獣に肉を解体する道具である。そして、この道具を日本人のように鑑賞すると言うことは殆どない。
 何故なら、刃物は「人を殺傷する不浄なもの」であるからだ。

 心ある人は、不浄な、歪
(いびつ)な物体を見て、それを鑑賞しようと言う気は起こらない。
 畸形
(きけい)な道具としての刃物は、あくまで畸形な道具であるからだ。道具以外の何ものでもない。
 特に刃物の中でも、四悪刀は畸形した歪な道具である。霊的には悪霊の住処になっている。邪なるものが貼り付いている。刀の形体を為
(な)していても、刀ではない。
 持つ者に禍いを齎す凶器である。

 四悪刀は、どう考えても、心の拠
(よ)り所にはなり得ない。鑑賞する箇所が存在しない。単なる殺傷の道具に過ぎない。忌み嫌われ、不浄なものである。こういう物を鑑て、鑑賞に耐えられ、心の拠り所になるだろうか。
 況
(ま)して霊器などではない。禍いを運んで来る凶器である。放置すれば危険な物である。

 それに比べて、霊器とはそういうものでない。
 日本刀も、確かに太古から十六世紀の戦国期に掛けては、確かに人殺しの道具だった。刀で多くの人が殺された。
 この道具は「国取物語」の争奪戦に遣われた。戦乱を狂奔する凶器に過ぎなかった。幾多の人命を奪って来た。
 しかし、こうした道具を、やがては見方を変える時が遣って来た。心の拠り所として、これを鑑賞すると言う美の世界が生まれた。
 故に、日本刀は神聖なるものへと進化を遂げたのである。霊剣とは、鑑賞する箇所を具えている物を言う。
 鑑賞される事により、刀の所持する意味は変わった。

霊的な器を持っている物は、みな霊剣である。

 神聖なものとして、何処までも最高のものを求めると言う意識が、日本人の感性の中に生まれ、日本刀に芸術性と実用性を見出したのである。したがって、美の傑作品として最高の物へとなり得たのである。
 その最高の物を、心の拠り所にする。
 これこそが「心の余裕」を齎す呼び水となり得るもので、その余裕は、あらゆるところに波及して行った。まず運気を得るのである。
 当然、運勢にも関わって来る。良い方に向かう。

 運気は、霊気を旺盛にするからである。
 その条件は、刀が鑑賞することにより、精神の安定剤的な役割を果たし、波立つ心を鎮め、拠り所としての威力を発揮したからである。
 鑑賞は、感性によって導き出される。

 また「余裕」は、心を安定させ、不動を齎し、安定は波立つものを鎮
(しず)め、鏡のように澄み渡り、勇気凛々(りんりん)とさせ、精神統一の条件を満たすものとなるのである。
 精神統一で、正安定を刀剣に求める場合、刀剣自体が、人を殺傷する道具でないことが分って来る。

 普通、精神統一などというと呼吸法なので心を鎮め、安定を得る事で統一を図るという遣り方があるが、これは一歩間違えば、逆に精神を病む場合がある。その最たるものが、呼気過多
【註】深い呼吸のし過ぎで、酸素過多により脳に大量の酸素が送られ、脳の暴慢状態を観じる事になる。こうなると呼吸初期に観じていた幸福感や充実感が薄れ、やがて消滅する。以降、頭がボーとした状態になり、これは明らかに停止しなければならない危険信号なのであるが、無理して押し通すと、極度の恐怖心や、ストレスから起こる緊張感や強迫観念が出るようになる。また、喜怒哀楽の感情が殆ど消滅し、表情として無表情になる。最も危険な精神障害である)による禅病などの精神障害である。
 この種の精神障害を、かつては禅病などと称した。

 一口に“精神統一”と安易に言うが、この行為は非常に難しい。長時間安定を保つ事は難しい。
 極度の緊張感を有するため、年間単位で持続させる事が難しいのである。緊張を生じさせると言う事は、逆の意味で緊張に対するその反動として、病的なストレスが起こるからである。
 かの有名は臨済禅の江戸中期の禅僧・白隠禅師すら坐禅の修行途中、禅病を患い、それを治すために京都白川山中に棲
(す)む白幽という仙人から、養生の秘法を教わり、禅病を克服した経緯がある。かの名人でも、遣り過ぎてストレス状態を長引かせれば、こうした精神障害が顕われるのである。呼吸法は、注意を払いながら行うべきである。
 名人でも、それくらい精神を統一する事が難しい。況して、素人はその比でない。

 むしろ、安らぎを得て、心を鎮める映像的なものがいい。
 世の中には、見て安らぎを得るものも多い。観る事により心を鎮め、癒しを齎すものも多くある。趣味人のそれは、その最たるものであろう。
 趣味に興じる事も、安らぎを得ることであり、また癒しを齎してくれるものなのである。
 何事かを鑑賞し、それを確
(しか)と見ると言う行為の中にも、精神統一に匹敵する安全なる統一法があるのである。
 統一は、静寂の中に派生する。騒音の中にない。また、夜の巷の都会の騒音と、ネオンぎらつく綺麗処の、水商売の芸妓
(げいき)の嬌声の中にない。
 鎮まると、騒音は削除され、深閑たる静けさら訪れる。

 一方、鏡の如き静けさを求めて「鑑
(み)る統一法」もある。
 刀剣鑑賞もその一つであろう。

静寂の中の刀剣鑑賞の精神統一法。
 刀を「鑑る」という行為の中には、自分自身の原点を確認する「初心」に帰るという心情が含まれる。
 則ち、「鑑る」ことにおいて、「自分とは何か」という原点に振り返ろうとする行為である。自分を深く掘り下げようとする探求の心が生まれる。それを「鑑る」ことに重ね合わせるのである。

 鑑ることによって心が静まるもの、また無心に回帰するものを「癒し」といい、それ以外のものをただの“見ている”だけのもの、“見られる”だれのものということになる。見ているもの、また見られているものには何の感動も生まれないし、鎮まる要素も具えていない。況(ま)して心の拠り所などなりようがない。精神性のないものは、単なる物体である。心に影響する「何か」がない。
 刀剣は、鑑賞する進化の過程で「鑑
る統一法」なるものが生まれた。殺傷の道具を超越してしまったのである。
 つまり、人を斬るものから、高次元への移行が行われたのである。

 この次元に至って、鑑賞するものに変わった。
 人を斬って危害を加え、殺傷するものでなく、自分の心の裡
(うち)に潜む、心の魔を斬るものである。紛れもなく魔を断つものである。そして無明を断ち斬るものなのである。

 心ある日本人なら、一家に一振り日本刀を置くべきである。このことで、所持者の運勢は勢いを帯び、良い方へと好転して行くのである。
 但し、いい物に限りである。四悪刀では、逆に運勢を悪くし、様々な禍いを引き寄せる。注意すべき点である。

 思えば「運」とは、寔
(まこと)に不思議な大自然の摂理である。
 古人は、運を大自然の摂理をこのように捉え、そして、今に伝えている。それを克明に記しているのが『古事記』であろう。
 この書には、大自然の摂理が、その生い立ちとともに記されている。
 「運」を考えれば、人間の知識を超えたところで、「何か」が作用していることが分る。それは大きな力である。人智をもって変更出来ない。遵
(したが)うしなない。任せるしかない。
 その大きなものが時と場所に、「何か」が関与し、人間に禍福を与えている。それが事象となり、現世に顕われる。人間の身の上に表面化する。

 また「明暗」という分かれ目があり、一つの選択肢となり、事象が起こる度にその結果が福であったり、禍いであったりする。ここには眼に見えない、闇に隠れた正邪がある。その奥に両者が包含されている。その正邪を、人間は自分の肉の眼で確認出来ないだけである。それは不可視世界のものであるからだ。

 一方で、人間を幸福に導くのは、その人の知識であり、才能であり、努力であり、その実行力であり、こうした実力が物を言うとしているが、しかしその条件だけで、幸福になれるとは限らないようだ。
 そういうものに、プラスになる「何か」が加わらなければ、運は働かず、猪突猛進の猪武者
(いのむしゃ)的な努力だけでは、また「他力一乗(たりき‐いちじょう)」も働きようがない。一直線の、前進、前進の向こう見ずだけでは成就を見ない。
 したがって運は、努力する他力で支えられていると言えよう。
 この他力こそ、「天命」と言うものであり、天命が自分に左右する力を与えるのは、プラスになる「何か」が要るのである。

 そして他力一乗が働く「運とは何か」ということを考えた場合、そこには「天賦
(てんぷ)の智慧」というものが働かない限り、安易に幸せを望んでも、そういうものが容易に近寄って来ないと言うことである。
 また、「幸せ」という感覚も、人それぞれであり、その基準も人によって異なるようである。
 しかし、「運」を考えた場合、運を齎す条件は、やはり「心の余裕」と言うものが、人間の行動原理に関与していて、それが種々の余裕に顕われ、そこに人の「遊び心」を齎してくれたり、「ユーモア」も齎すものだと考えられるのである。

 現代は科学万能主義である。
 「科学的」という言葉が、大勢に持て囃
(はや)される時代である。
 一方、「運」と云う言葉を持ち出せば、非科学の最たるものと指弾される時代でもある。未科学を非科学と言う時代だ。
 そして「時代遅れ」と侮蔑とともに一蹴される。
 そのような科学を、拝金主義者の金のように崇める時代なのである。
 しかし、見方を変えれば「運」こそ、この世の真理の一端を担っていることが分る。
 「運」の哲学は、こうした側面に横たわっている。
 何故なら、運が良ければ禍いを取り除き、福を招くことが出来るからである。また、わが生命を危険から護ることも出来るからである。

 更に「運」を挙げれば、これまで多くに人々は、主観の違いにより大きな誤解を招いていることが分る。
 例えば、「運命」と言う言葉である。
 運命とは、人間の意志にかかわりなく、身の上に巡って来る吉凶・禍福をいう。
 また、人間の作為や知識を超越した力が、人生に左右していることが分る。
 人生はまさに、天の命によって支配されているのであり、将来の成り行きは、努力とともに運を善くしなければ、運命の陰陽に烈しく翻弄
(ほんろう)され、人生の荒波に揉まれ、木の葉のような小さな舟はやがて転覆して、運が尽き、それで絶えるかも知れない。
 また今、現象化しつつある禍いも、そこから派生するかも知れない。手当てしないで放置すれば、禍いの亀裂は大きくなって行こう。

 運を振り返れば、現代人は「科学的」と云う言葉を信奉するあまり、根本的な「運の原理」を見失い、大半の人は、運命と宿命を混同し、誤解して来たように思うのである。これを併
(あわ)せて、一緒くたに「運」としているようである。
 つまり、運命と宿命の定義付けが明確でないのである。

 まず宿命を考えれば、宿とは、その人がもって生まれた約束事に規制され、これは変更したくても、どうにもならない。
 例えば、先天の気の事象に支配され、男で生まれたり女で生まれたり、あるいは富豪の資産家の家に生まれたり、極貧の家に生まれると言う、最初から固定されたものである。
 一方、運命の運とは、その約束事において「約束を運ぶ」と解釈される。これは後天の気の影響を受けるからである。後から充分に修正が利くのである。

 運命。
 それは「命を運ぶ」のである。人の命は「運」というものに運ばれている。
 変転極まりない現世において、猫の目のように豹変
(ひょうへん)するこの世の中は、現代人が、そこに生まれて来たという「命」があり、ある人は男、ある人は女として生まれて来る。中には、肉体が男であっても心情は女であったり、女の躰をしていても心情は男と言う人もいるだろう。内面の外面が異なっている場合である。そういう定めの宿に生まれる人もいる。
 これも人間として生まれた掟
(おきて)としての約束事であり、本人自身はどうにも出来ない、こうしたものを宿命と言う。大半は先天の気の支配を受けるからだ。

 一方、運命と言うと、同じ現代の世にありながら、同じ男でありながら野望を抱いて生きる人もいるであろうし、平均的なサラリーマンとして、中流の上程度で満足して生きるという人も居よう。
 つまり同じ現代の世にありながら、過酷な自己努力を自身に課し、人生を修練の場と捉え、富豪への道、芸術への道、芸能への道、肉体を遣ってのスポーツへの道などの、自己を修練の場に置いて抗
(あらが)って行く人と、並みの平均的サラリーマンで満足し、それで一生を終える人とがいるのである。
 これは生まれた後の、後天の気を受けて、その環境の中で培養して行くものである。此処に努力する他力が存在する。これは宿命でなく、まさに運命である。自分の責任により全うするものである。

 運に乗れば、人がそれぞれの夢と、願望を成就することが出来るであろうし、運に見放されれば、才能や素質があっても、自分の思い描いたことは成就されないまま一生を過ごし、それで生命の火は消えて行く。才能や素質だけではどうにもならないのである。それにプラス「運」がいる。
 運に見放されれば、それまでである。
 運を良くしなければならないのである。運が良くなければ、願いも夢も達成されない。これらは自然発生的に訪れるものではない。自分から近付いて行くものである。

鉄が齎す鐔の芸術。
 刀剣の小道具として付随する鐔は、刀剣装具の一部である。実用と鑑賞を兼ねて小さな領域の中で調和し、装着することで柄とのバランスを整える役割を持っている。
 材質は山銅という赤銅用に洗練された地金を始めとして、素銅・銀流そして無鍛鉄や錬鍛鉄などがあり、形状も図柄も様々である。

 また、命を燃やす場合、完全燃焼で烈(はげ)しく燃える場合と、不完全燃焼気味でチョロチョロしか燃えない違いもある。
 その格差の根本には、体力や体格もあろうし、それに関与する精神力の強弱もあろう。人それぞれに、その差は異なる。長短もあるし、強弱もあるし、善し悪しと言う優劣もある。
 しかし、運とは「努力する他力」である。この裡側
(うちがわ)にある。外にはない。

 これは体力や体格とは別に、根本を司る「いい体質」という面において、他力が関与しているのである。条件と言う体質の状態をよくして行けば、体力や体格に頼ることなく運勢も切り拓いて行けるのである。後天の気は、努力する他力に支配されているのである。
 この条件下において、天命と言う、「他力一乗
」が働くのである。

 この働きを促進するために、人は「心の拠
(よ)り所」を求めるのである。
 その場合、体質は健全でなければならず、しかし体力や体格の肉体面より、内面的な精神面を司る「生かされている」という感性において、その感じ方が大きく物を言うのである。科学万能主義、科学一辺倒主義だけでは駄目である。
 これらを加味した、裡
(うち)なる秘めた力の発動が必要なのである。

 私は心の拠り所として、「日本刀の鑑賞」というものを、これまで挙げて来た。
 日本刀を鑑賞する……。
 これぞ、「鑑る統一法」である。
 鑑ることで深遠なるものが見えて来る。それは日本人の叡智に接することである。表面のみに止まらず、裡なる深部を鑑るからである。
 日本刀の中に、日本人の叡智が集積され、長い歴史と伝統なって堆積されている。これに迫らずして、刀剣を「鑑る」という行為は生まれない。

 「運」は自分自身で切り拓いて行くものである。他人の助言で左右されるものでない。また、そういう外野の意見に振り回されると、他力が働きようもない。禍いに翻弄
(ほんろう)されるばかりである。
 しかし、確固たる信念がない場合、他人の「まやかし」に左右され、志が揺らいでしまう。

 志を不動のものにし、確固たる信念で未来に突き進んで行くためには、当然の如く「心の拠り所」を定めおいて、信念に準ずる命を燃やさねばならない。その燃焼において、志は、自分の描いた理想へと、一歩二歩と近付いて行くことが出来るのである。やがては開花することもあろう。
 それには大自然の理
(ことわり)を知らねばならない。

 地球上には東西南北という『八門遁甲』で言う「方角」がある。そして方角は、それぞれに対向性と、磁石のような吸引性を持っている。
 そこには相生と相剋がある。

 しかし、これも大自然の理であるから、根本を知らねば「運」を上手に働かせる方法はなく、安易に“運を良くする”と言う願望だけではどうにもならない。
 実理が分っていなければ、心の拠り所も正しく作用しないのである。むしろ拠り所と思ったものが、実は反作用として働き、禍いを齎している場合も少なくない。法則に逆らっていれば、それだけ皺
(しわ)寄せが来る。

 したがって、刀剣を心の拠り所として考える場合、単に日本刀を所持していればいいと云うものではない。それには条件がある。
 せっかく日本刀を所持していても、所持した刀が凶の運命に誘導する「四悪刀」ではどうしようもなく、所持したがために以降の人生は魑魅魍魎
(ちみ‐もうりょう)に悩まされ、それらに左右される憂いの人生が俟(ま)っていることすらあるのである。

 こうした「危険」も識
(し)るべきであろう。
 理
(ことわり)に疎(うと)くては、運は開きようがないのである。
 四悪刀というものは極力敬遠され、いい物を正しい気持ちで所有し、以降も心の拠り所として日本刀を鑑賞されれば幸いである。

 『続・刀屋物語』は本ページをもって終了するが、これまでの刀屋人生を振り返れば、総てが順風満帆に運んだことはなく、むしろ難儀をしたことの方が多かった。難儀の連続だった。負け戦の連続だった。この世界は、一筋縄では行かない世界である。

 眼の勝負で古美術の世界を見る人生の生き態
(ざま)は、サラリーマンのそれとは雲泥の差を観じるほど、格闘に次ぐ格闘であり、資金不足で、「もはやこれまで」と言うのが何度もあった。
 人間は「慾」と言う煩悩
(ぼんのう)に煽られて生きる生き物である。
 そして刀剣を始めとする古美術を扱う商いをすると、つい「天下の名品の掘り出しは勝手次第」と思い込んでしまうのだが、またこれが一筋縄ではいかない難事業で、そういう天下の名品にお目に掛かったり、これを入手したり、目零れというものが殆どなかったのである。掘り出し物は稀
(まれ)である。

 目零れは、この世界には滅多にない。
 これは正直な、率直な感想である。
 また、幾ら安いからと言って、それに甘んじて値の下がるのを俟
(ま)っていては、自分の方には中々落ちまいものである。そういう甘い考えで、値下がりを期待していると、横から、“鳶に油揚”である。また、迷うと同じ事になる。
 この世界は「甘えを許さない世界」なのである。
 甘えを許さないからこそ、刀剣市場や古物市場に出掛けて言っても、その回数を重ねるごとに、落札のコツを覚えるものなのである。市で同業者と鍔迫り合いをする要領と駆引きを覚える。

 そのコツと同時に、品物を選ぶ眼も肥えて来て、物の評価や、「今」と言う時間の先端にある適正価格と言うものが分って来るのである。その基準において価格は常に変動し、今の評価の基準も分って来るものなのである。
 こうして、簡単にはくたばらない方法を学ぶ。
 コツを覚えて行くことは、落札条件を容易にし、先端価格以上に高ければ見送り、それ相当であれば入札するという市場原理が働いていることも分るようになり、自分の手持ちの資金で、無理することなく、また掘り出し物狙いをすることもなく、堅実にマイペースで商って行くことの大きな収穫を得たのである。
 それは勝つことではなく、負けないことの「生き残る」ということを学んだのである。息あるうちは、耐えて生き延びるのである。

 また愉
(たの)しみは他にもある。それは市場での「競り」や「入札」状況である。
 競売で、どういう品物が誰の手に落ちたか、誰が何に幾らの金額を入札したかなどの、それを知るのも愉
しみであり、この愉しみは同時に、人間を知る大きな人生勉強に繋がった。
 そして、古美術品市場に天下の名品ばかりが、そんなに無尽蔵に出る訳がないというのも、また事実であった。
 むしろ名品とは名ばかりの、下らぬ物が多く、偽物が贋作がかなりの量混じっていた。ミソもクソも一緒くたなのである。

 また、ミソは安いところにあり、それでいて真蹟
(しんせき)保証しないところに奇(く)しくも存在するのである。
 人間現象界は、また奇なる時空があり、偽物や贋作の声するところに真物があり、逆に真物らしい物らしく見えている中に、実は人々に崇
(あが)められる偽物が存在したりするのである。
 その見分けの責任は、総て売買人の自己責任だった。売買人任せなのである。ここに刀屋商売の勝手次第があった。

 中には何処の会や市場に持って行っても、競売・入札が入らない物があるのである。買手が付かない、そんなことがあるのである。
 こうした物を掴まされ、ババ抜きの憂き目に遭い、真贋判定の厳格な洗礼を受けつつ、刀屋商売は自然の眼が開けて行くものなのである。この商売はまた、開眼のための勉強と努力が必要なのである。これを怠ると、商売上がったりである。

 また煩悩の火に煽
(あお)られて、慾にほだされると、刀屋は忽(たちま)ち狡(ずる)くてケチで、並みの古道具屋に成り下がってしまう。始末やけじめと、ケチの区別もつかなくなる。才覚も失われる。
 こういう愚行を避けるためには、まず一に勉強、二に荷勉強である。そして場数を多く踏むことであった。
 場数を多く踏まなければ、眼の勝負には勝てない。勝てないだけでなく、生き延びれない。

 また冷静なる眼力とともに、落ち着きと、ふてぶてしさもいる。
 経験が物を言う世界である。眼力と度胸と勘が物を言う世界である。それ以外に存在しない。
 先ずは、学ぶ事から始まる。
 頭を低くして学ぶ事から始まる。
 奢
(おご)っては駄目である。謙虚で、学ぶことから始まるのである。習うことだ。
 そして経験を積む。

 また経験が、教訓となり、多くの教訓は失敗と不手際の集積である。その判例といっていい。
 その間、何回かピンチの洗礼を受けて、窮し、「もはやこれまで」という状況に追い込まれる事もある。それを乗り越えると、その先に何がああるように思えて来る。人は、その「何か」に向かって挑んでいくものである。
 そして私の場合、些か職人の刀装技術を持っていたからである。拵師として、鞘を製作し、柄巻をし刀装に関する技術が、夜逃げや自己破産から身を護ったと言えよう。だが、売買一辺倒の刀屋だったら、疾
(と)うに人生は終わっているだろう。

 刀屋は、大いに贋作を掴まれることから始まる。
 その洗礼を受けて、一人前になって行く。同時に、人間勉強から得る人生道の醍醐味はサラリーマンの比ではない。広く人間を知ることになる。古
(いにしえ)の作品の勉強にもなる。眼が肥える。昔を想像することができる。

 サラリーマンは会社役員とは異なる。そのために、ご機嫌伺いという無駄な気を遣わねばならない。
 ところが、職人は違う。
 職人は職人として毅然としていられる。サービス残業や土日出張などをして上司のご機嫌取りをしなくてすみ、智慧と行動で世の中を渡り歩いて行く実行力こそ、日本刀に賭けた刀屋の誇りなのである。
 私には、資産はないが暖簾がある。一つの商魂である。商いに賭けた魂である。

 世に、「士魂商才
(しこん‐しょうさい)」と云う言葉がある。
 一般的には、「武士の精神」と「商人の才」とを兼備することを指しているようだが、それだけではなく、実は武士あるいは武芸者などの武人は、自らの“腕が立つ”という事は、同時に“理財の才”もあり、最低限度の「困らない日常」を過ごしていけるという、“日常生活の経済面にも強かった側面”を云い顕わした言葉であると確信している。
 安易に揶揄される“武士の商法”ではない。
 あくまで士魂商才である。士道を商いに変換しただけである。
 その自負が、落差の激しい人生でも銷沈
(しょうちん)せず、また荒波の中にあっても毅然として胸を張る。その原動力が、実は刀屋の暖簾だったのである。

 ちなみに、私は学生時代より吉藤清志郎先生の『刀剣研磨処』に足繁く通い、研ぎと漆塗りを除く、柄巻きや鞘削りの刀装の技術を学んだが、先生が口癖のように常々「平武和応」ということを云っておられたので、これに因み、この刀装拵の儀法に対し、平武和応流を名乗っている。後に続き、学んでくれる人が顕われれば幸いである。




『続・刀屋物語』  完



平武和応流・刀装拵師




『続・刀屋物語』本篇をもって終わりとしますが、その「続々篇」は『続々・刀屋物語』を第三部として以降に続きます。



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