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続・刀屋物語 2

尚道館刀剣部では武具全般も取り扱っている。火縄銃もその一つである。写真は火縄銃と水牛角の火薬入れならびに革の弾袋である。



●向学精神

 人間は学ぶ生き物である。
 自身で墓穴を掘らない為には、まず「学ぶ」ということであり、この学びの中から次なるステップへと向上して行かなければならない。真贋を見抜き、違いははっきりさせ、いい物を愛
(め)でる眼を持たなければならない。

 「向上」とは、学ぶことから始まる。知らないことを教わることから始まる。
 その教わる手段は直接上級者についてその意見をよく聞き、考え方や思想を研究する必要もあろうし、単に勉強するだけなら大鑑などの書籍からも学ぶことが出来る。
 しかし最後の詰めは実物を検
(み)て、その素晴らしさに感動を覚えねば本物を見抜く眼力は養えまい。そうした物に数多く触れることである。
 刀の場合、重要美術刀剣と並みの保存刀剣との違いを何度も眼で往復させて格の違いを学ばなければならない。

 少しばかりの刀剣知識と、生齧
(なま‐かじ)りの鑑定勉強だけで目利きになることはあり得ない。目利きになるには、大いに失敗し、大いに騙され、多額な月謝を払わされたことに口惜しさを噛み締めなければ本当の目利きにはならないものである。何度も騙され、何度も繰り返し失敗し、「あの時は、自分はあそこが甘かった」という反省が無ければ本当の眼力は養われない。

 第一、人生は、少しばかり齧っただけで勝ち続けるような甘い人生であっては、人生そのものにも面白みは生まれない。
 人生は、一筋縄ではいかないところに、またその面白さがある。だから、人生を真摯に考える者は、間違いを繰り返す度に「今度こそは……」と真剣になる。それを繰り返せば、真剣度も更に極まるだろう。物事に、真剣に取り組む態度が生まれる。真剣に、真摯に人生を慎重に考えるようになる。それは失敗し騙され、幾度も苦い経験を積むからである。
 一度だけで諦めるような、飽き易
(やす)の好き易では、どうにもならない。とことん意地を張り通すことである。毅然とした態度を養うことである。小事大事に拘らず、真剣に向かい合うことである。口惜しさに挑戦して行くことである。そして敗因の出所を追求する。

 この追求無しに、眼の勝負で勝つことは出来ない。微妙な贋作とに違いを見破る努力をする。
 努力は決して実ることは無いが、それでも努力を惜しまないことだ。寝食を忘れて……、そういう気持ちが大事だ。
 諦めない限り、最後の最後の、敗者復活戦に挑戦することが出来る。その為には深い努力をする。徒労も糞も無い。とことん知り、とことん学ぶ。なりふり構わず徹底的に学ぶ……、これが大事だ。
 分からないことは知ったかぶりをするのではなく、上級者からの教えを乞う。そうして頭を下げれば下げるほど、その人は次第に偉くなる。偉くないのは頭の下げ方が足らないからだ。
 人間は頭を下げた分だけ偉くなるようになっている。したがって偉い人は、過去にそれだけ優秀な師に蹤
(つ)いて、頭を下げて来たと言う歴史を持つ。経歴に頭を下げて来た偉勲が刻まれている。それだけに偉い。バカでない。バカでない眼力を持っている。
 そうして徐々に勝者への軌跡を歩き始めるのである。その軌道に乗る。その道の第一人者の軌道の上に乗れる。勝者の道だ。

 それには大いに失敗し、大いに騙され、何度も悔し涙を飲んで、反省に反省を重ねて行かなければならない。経済面も保身では何もならない。一文無し寸前のところまで切羽詰まらなければならない。知識ではなく、実学を積まなければならない。
 生齧りの勉強で得意満面になり、楽天的な思考で、勝ちを納めることは絶対にないのだ。
 順風満帆などと言う、物事が簡単に自分の思い通りの動いてしまう、そんな人生など、この世には存在しない。大いに苦労するようになっている。
 人生は、したたかであってこそ、人生なのだ。
 だから人間の方もそれに応じたしたたかさが必要になる。口先だけで、遣
(や)り込めるばかりでは、人生に対してタフになれない。遣り込められたことを顧みて、口惜しさを忘れず、それをバネにしなければならない。

 人生でタフに生きて行くには、図太いしたたかさが必要である。不屈の精神だ。ネバーギブアップの精神だ。
 一筋縄で、簡単に締め括
(くく)られるようでは情けない。締め括られてもその縄を喰い千切る耐性がいる。耐えることだ。
 簡単にギブアップしないだけの、粘りと反発力を持っていなければならない。「どんでん返し」を企むだけの根性がいる。それには耐性を付け、「いつか見ておれ……」という憤りがいる。私怨
(しえん)に憤怒(ふんぬ)する怒りも必要だろう。
 怒りの無い、八方美人の可もなく不可もなくの、沈香も焚
(た)かず屁も放らずの、その程度の人間ではしたたかになれない。タフになれない。



●ケチと臆病

 世の中に、“知ったかぶりと言う輩
(やから)”がいる。
 知ったかぶりをするのは、臆病の証拠だ。またケチの証拠でもある。知らないことを学ぶと、金が掛かると思い込んでいるからである。それに伴う動力が掛ると思い込んでいるからである。
 また意識、無意識に関わらず、心理の裡には出来ればタダで人から理解され、認められ、その余裕をもって心に自覚し、またそれを梃
(てこ)にして躍進したいと目論むからである。躍進することで活力が増進されると思い込んでいるのである。その活力は、社会にまで還元され、世間の誰もがその恩恵に預かることが出来ると自負している。

 だが、この場合、「世間」とは具体的には自分を認めた人間のみを指す。それが自分を支持する仲間であったり同僚であったりする。とにかく、ちやほやされることを好む人間である。そして、そもそもが“目立ちたがり屋”である。人気者になりたいのである。人気者はタダでその資格を得ようとするから、その行為には心の淋しさが付き纏う。自己中
(エゴイズム)の影がちらついているからである。

 だが臆病とケチだけは、これは過去世
(かこぜ)からの習気(じっけ)だから、自分の意志力だけでは改めていくことが出来ない。生まれながらの性癖であり、過去世から引き摺った、どうにもならない欠点である。
 人間はある程度の欠点は、自分の努力で改良して行くことが出来る。徐々に正して行くことが出来る。
 だが、臆病とケチだけはどうしても治らない。バカに付ける薬が無いのと同じだ。

 人間には誰もが欠点を抱えている。必ず何処かに足りない部分がある。ちょっと訝
(おか)しいと思われる箇所だ。
 常識派と意識させる人でも、何処か非常識の箇所がある。
 だか、こうした箇所は後天の自己努力である程度克服出来る。殆どの箇所は気の働きにより補正が効く。年齢を重ねればそれが顕著になってくる。自分の粘り強さなどを鍛える努力は有効である。

 しかし、男女を通して絶対に矯正出来ないものがある。人間はそうしたものを抱えている人は少なくない。それは「臆病」と「ケチ」である。
 これだけは、如何に努力をしても徒労に終わり、絶対に矯正出来ない。過去世からの習気であるからだ。
 そして臆病の場合、努力で治ると言うものでなく、決して矯正出来ない生理現象であるからだ。幾ら思念で抑え込んでも、肉体反応の方が先立つからである。大したことでないでも、例えば高いところに登ると足が竦
(すく)むなどは、幾ら頑張っても思念では抑えられない。高低位置の数値の多少に拘(かかわ)らず、怖いものは怖いのである。臆病は則ち、“怖がり”なのである。状況を想像しただけでも、鳥肌の方が先立つのである。思念で、理性で抑えられるものでない。

 一方ケチも同じだ。
 ケチなる感覚を有している者は、人間社会が凭
(もた)れ合いの構造で出来ていることを知らない。だから持ちつ持たれつの感覚が理解出来ない。
 したがって独り善がりで連帯感が無い。人の為に無償で何かをしようとする意識が欠落している。自分一人である。
 こうした者は間違いなく「忘恩の徒」に成り下がっている。施しを受けても恩義を感じないのである。恩義など恩義と思わず直ぐに忘れてしまうのである。恩義を自分の記憶の中に長く留めておけないのである。

 また、施しをしたら損をすると思い込んでいるのである。
 この種属
(スピーシーズ)は自分のことしか眼中にないエゴイストである。こうした者は、また人から敬遠される為、人が集まって来ない。誰からも相手にされなくなる。仮に相手にされていても、目明きでない、心を雲らせたその手の人間しか寄り添わず、したがって孤立していて、実に少数異端派である。
 また、自分の立場を的確に読むことも出来ない。進んで事を為
(な)す積極性に乏しい。それはケチだからである。

 こうした者に無理矢理何かを提案させても、「時期尚早……」などと抜かしてその意見に具体的な対抗策が無く、ただ億劫
(おっくう)だから積極的なことを控えるのである。したがって言うことに説得力が無い。当てにすると失望させられる。こうした人間は、窓際にしか置けないのである。

 また、怕
(こわ)いのは、臆病が、何かの気紛れで発言して案を持ち出す場合、案は発するが結論として、必ず「止めておこう」と言う結論で締め括ることだ。したがって結論に辿り着くまでに、莫迦に時間を啖(く)う。結論に至るまでの時間が長い。屁理屈をこねるからだ。その挙げ句、時間を啖うだけ喰って、後に何も無い。そして結論は……と言えば、自己満足と自己説得に終始する。お粗末である。

 私はかつて、こうしたお粗末な会合に招かれて、意見を訊かれたことがあった。確かに意見は訊かれたが、それは参考意見までに……と言う程度の軽い扱いがなされ、何かを収穫し、また相手方に実りある物を授けたと言う気持ちも生まれなかった。ただ徒労を強制されただけであった。無味乾燥な疲れを感じただけであった。
 この種属は粘っこく、更には愚痴っぽい。消極論者の特徴である。
 ケチと臆病を相手にすると、結論は「ただの参考意見として……」程度に、締め括られてしまう。

 特に刀屋をしていると、ただの参考意見程度で済ませるケチと臆病者が遣ってくる。
 ウィンドウを開けさせ、保管庫を開けさせ、訊くだけ訊き、ありったけの物を引っ張り出すだけ引っ張り出させて、最後は参考意見として……拝聴するだけで、決して買わない。これ以上、人をバカにした行為はあるまい。間抜けなのは、最初から買う気のない冷やかしに手玉に取られたことだった。
 これは労多く利少ないというものではない。利など何処にも存在しないのである。利不在なのである。相手にすると利不在であるのが、ケチと臆病である。自分勝手で、いわば自己自閉症である。客としては迷惑な客である。

 こうした迷惑者も、若い頃には分からなかった。相手の意図が見抜けなかった。ケチと臆病なる性格が読み取れなかった。しかし歳を重ねるに従い、また経験を積んで行くに従い、こうした人間の狡さや穢さが見抜けるようになった。年の功である。
 また、精神的成長の未熟な者に見られる自分勝手な思い込みに耽る……、そうした野心と我欲は旺盛だが、ちっともいくじがないという自負心過大な者も、刀屋を通じて人間勉強することが出来た。
 長年刀屋を遣っていると、野心と我欲で固く武装した、そうした人間も観察することが出来る。年配者でも、未だに野心と我欲が吹っ切れていない湿った人間を見ることがある。

 これは刀を蒐集し、またそれを学ぼうとする人間の中にも度々見られ、一方で人に指導する立場の者にも見られる。
 湿った人間は、涼やかさと爽やかさが無いのである。それだけに欲望も、目論みも、また野心までもが吹き切れておらず、何処か謙虚な姿勢を欠いているのである。教える側であっても、教えを乞うに値しない人間である。面
(つら)が湿っているのである。

 一方、師として好ましい人物は「面が乾いている人」である。
 目利きでありながら物に溺れず、爽やかさと涼やかさを持っているのである。そうした人は我欲で、また功名心で刀剣を愛しているのでないから、仮にその人が刀剣商だとしたら、決して売り惜しみはしない。さらりと売り捌いてしまう。儲けを三割以内に留め、それ以上の高値で売らない。次から次へと廻ることを第一義にしている。
 素人と玄人の違いは、素人は刀に溺れ刀を歪
(いびつ)な愛で可愛がるが、玄人はそれがなく、売れれば何でも売るし、譬え売った儲けが千円二千円でもさらりとした売り方をするのである。素人は廻らないが、玄人は廻すのである。

 ところが一儲けを企んでいる、鬱勃
(うつぼつ)たる功名心と野心を抑え切れない刀剣商は、湧き上がるような狡猾さで巧妙で損得の烈しい商いをする。素人の場合は、この逆も言える。
 刀屋は単に刀剣を売っているだけでない。刀剣類を売買するのである。売るだけでなく、持ち込まれた物は値段に応じては買うこともある。あるいは委託する場合もあるし、委託した物を依頼で市場で売り捌くこともある。その為に売り主の仕入れ先を明確にしなければならない義務を負わされている。これを『古物台帳』に明確に記入しなければならない。

 この場合、売り手の身分確認をして購入するのである。満20歳以上で、それが盗難品ではなく、歴
(れっ)きとした本人の持ち物で、免許証や健康保険証どを提示してもらった上で、住所氏名を記録してその風体までもを記入するのである。相手が同業の古物商である場合や市場仲間ならば、これらは無用だが、素人の場合こうした確認の義務が課せられている。

 そして売り込み方だが、おおかた美術品と言うのは世の常として、「買う時は高く、買い売る時は安くなる」というのが現世にあっては、半ば常識となっているが、とにかく売るのであるから「安いのが当り前」である。安く売るのが嫌なら売らなければいい。それでも素人は決して自分の持ち物を安くは言わない。高く言う。値を釣り上げて一円でも高く買って欲しいと願っている。高くて当り前だと思い込んでいる。
 そもそもここに間違いの元兇があるのである。世の中を甘く観ている実情があるのである。

 投機が目的で、換金の際に値上がりを期待するような考え方で刀剣類を蒐集するのなら、美術品は最初から扱わず、持ち金は総て銀行預金をするか、その他の株式や投資信託に注ぎ込めばいい。何も刀剣を蒐集することは無いのだ。刀剣は投資の対象物でない。
 ところがこういうことを無視して、刀剣を投資と思い込んで蒐集する素人がいる。よく勉強しないくせに、刀は高価でいつでも換金出来る商品と思い込んでいるのである。ここに素人の怕さがあるのである。

 この怕さが、時として刀屋の悪口となる。
 換金を目的に蒐集したり、投資を目的に美術品を蒐集する素人は、他人を褒
(ほ)める心の余裕に欠けているので、相当な僻(ひが)み屋が多い。そうした僻み屋から吐かれた罵詈雑言(ばり‐ぞうごん)は、海中でイカが墨を吐くが如く辺りを暗くする。そう言う態度をするのは、心に余裕が無いからである。

 本来、刀剣蒐集は投機が目的でないから、値上がりを期待してそれを所持すると言うのは間違った考え方である。そういうものは度外視して観賞し、その中から精神面を正す……、あるいは心の張りを得る……ために、本来は蒐集するものである。その気持ちが第一になければならない。それが値上がりを期待する……、それでは投機家と同じである。

 刀は市場がある以上、絶えず相場が変動を繰り返している。世の中の動向や景気と連動している。それが市場に反映される。相場は常に動いているのである。美術品類は世界の金持ちに連携されて、常に動いているのである。
 だが、素人や駆け出しの刀屋は、その総合的な仕組みが分からない。常に表面だけしか観ていない。また表面しか見ず、甘さの中にいて特典を来たいしているような人間こそが、ケチと臆病なのである。ケチと臆病は客の中だけにいるのではなく、刀屋の中にも居るのである。



●この世は値踏み見本市

 人は誰でも他人を警戒して生きている。
 肚には「騙されないぞ」という身構える気持ちが巣食っている。人を観ながら用心する。
 こう言う場合に一番安心するのは、「あの人は率直で正直な人だ」と認めた場合である。認めない者に対しては「あの男は腹黒いのではないか?」と疑って掛っている。
 しかし、現象界では心象化現象があり、それはその人と裏返しになっている。疑念は疑念を呼ぶ。疑えば、疑うような人間が自分の周りを取り巻く。

 一方、面が渇き、野望も欲望も吹き飛んでいる人間ならば、またそれに相応しい者が集まってくる。爽やかな人が集まってくる。問題なのは、集まった者の人間性とレベルである。
 低くきは低くきを集め、高きは高きを集める。類は友を呼ぶの譬
(たと)えである。

 世間を観察する基準の一つに「率直」という評定がある。
 また率直と言う評定を得ることこそ、世の中を処して行く一番の近道だろう。奥歯に物が挟まったような発言をしたり沈黙をしたりでは、疑念ばかりを抱かれ、信用されず、そして好人物としての評価は中々下されないのである。

 率直……。
 それは正直に心に抱いていることを包み隠さず言うことである。白か黒を明確に言うことである。どっちつかずの灰色の中間色であってはならない。八方美人を弄
(ろう)していては信用度は、がた落ちになる。
 そのためには批判すべきところは堂々と批判し、然
(しか)も、その批判が的を突いて適格を極めていなければならない。中途半端が一番いけない。
 批判は悪口と違うが、仮にそれが悪口のように聴こえても、それを淡白に言えば、その臨機応変さによって、人の信用を得るものである。率直さがそうさせるのである。忌憚の無さがそうさせるのである。

 私は六十の齢
(よわい)を超えるまで、批判も悪口も、当人の前では出来るだけ控えるようにして来た。客においてもそうだった。
 ところが控えた結果、ろくなことにはならなかった。率直さが欠け、忌憚の無さが欠け、的確さが、あるいは控えめ的八方美人で信用度が損なわれていたのである。そのために勘違いする者まで出た。安易に希望的観測に縋
(すが)らせただけに過ぎなかった。甘えの構造の中で、游泳を楽しませただけに過ぎなかった。

 人の世は、美術品と同じく、絶えざる「値踏みの総合見本市」である。
 常に誰かによって競
(せ)られている。したがって何人と雖(いえど)も、競(せ)られている。如何程の人物か、常に値踏みされている。
 私がこの実体を心の底から感得し、目から鱗状態になったのは、何と齢六十を過ぎてからであった。気付くのに些
(いささ)か鈍感な観がしないでもない。
 人間は私に限らず、人は誰でも思い込みで生きているから、気付くのが遅い場合もあり、中には気付かないまま一生を終える人もいる。
 しかし、人の世はまさしく値踏みの市
(いち)である。
 刀剣に限らず、競りに加わる気構えで、出来るだけ正価に近付き、高くもなく安くもなく、指値で値段を言い当てる眼力が無ければ世の中には役に立たないのである。
 そして持ち物自慢の大半は指値でなく、高値で掴まされている場合が少なくない。持ち物自慢もケチと臆病がいることを知らねばならない。

 更に加えて言えば、私は総本部尚道館という道場を経営している。指導は「個人教伝」を中心に、他は末娘に任せて「女子護身柔術」を遣らせているが、個人教伝は古式の大衆化以前の指導方法を執り、他の合気道の道場のように一斉授業式の稽古は行っていない。
 特に個人教伝に際しては、「住民票」を持参させ、わが流指定の「念書」に署名し、この厳格をもって晴れて入門となり、門人見習いとして半年が経過した後、次は門人心得となり、更に半年を経過して門人の域に達する。これだけで古伝の指導に則っているが、更には金銭面も入門金3万円、月謝5千円、一回教伝を受けるごとに1万5千円ほど掛かる。
 以上の金額が安いか高いかは個人の経済力と、物を買う場合の値踏みの眼力にもよろうが、北九州のような地方の田舎では、この金額を訊いただけで仰天する者がいる。高いと言うのだ。
 今年も、入門に際して話だけ訊き来た者が十名ほど遣って来たが、十名が十名口を揃えて「高い」とほざいた。それも、内容も訊かずに、である。金に心を奪われていたからであろう。逆の意味で北九州のこの者たちは、自分が値踏みをされていることに気付かないのである。

 そこで私は云った。「あなたの命の値段は如何程でしょうか?」と。
 これを訊いて一瞬驚いた貌をした者も居たが、大半は“何と高い道場だろう……”と言う印象を持ったまま引き揚げて行った。
 事実北九州では月謝が4、5千円と言うのが相場のようだ。こうしたところは体育館や公共の武道場を借りて、指導者はサラリーマンの片手間でというレベルの人である。

 灯台下暗し、という諺
(ことわざ)がある。
 近所から習いに来ている者は一人もいない。小倉南北を合わせてとなると数名で、北九州全体となると若松区から一時間も掛けて来る者だけである。これこそ、灯台下暗しの最たるものであろう。
 そして輪を福岡県全体に広げると若干多くなり、個人教伝の大半の門人は遠くは韓国
(Seoul・大邱)や台湾(高雄)、国内では宮城(仙台)や東京(八王子)、兵庫(神戸)、京都(左京区・舞鶴)、大阪(豊中)、滋賀(大津)、奈良(大和高田)、岡山(倉敷)、広島(三原・尾道)などから遣って来る人が殆どである。まさに灯台下暗しと言うか、自分の命の値段が分かる人は北九州の田舎には殆ど居ないようである。余所(よそ)者の寄せ集まりで、そういう文化の育たない土地柄である。

 それに千葉には、支部が三ヵ所点在するが、此処からの者で門人許可を得た者は一人もいない。ただの道場生会員のみである。わが流では門人と会員の明確な区別がなされ、門人を自分の命の値段を知る玄人志望、会員を趣味人と、何れかの二つに分けているのである。
 これは双方の考え方の違いからである。
 つまり、支部で武儀の稽古をしながら、残念なことに命の値段を知り、直伝を受けている者は皆無と言うことである。趣味人の世界に終始しているのである。

 人は値踏みをされている。
 そのことを知っているのは、ほんの一握りの思考する苦労人だけだろう。あとはみな自分が値踏みをされていることを気付かないし、知らないでいる。また、知ろうともしない。
 知らない者に、本当の物の価値など分かる筈が無い。自分の命の値段が安いか高いか、それ自体を言い当てられない者に、真贋を見抜く眼力は持ち合わせていないのである。重ね重ね残念なことだ。



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