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陽明学入門 9

西国平戸。
 筆者は幼少年時代を平戸で送った。唱歌『われは海の子』そして、船舶が岸壁に接岸する際の緊張。船のエンジンと逆回転のスクリュー音。どれもこれも懐かしい。
 そして嘉永三年
(1850)八月、蝉しぐれの中を、吉田松陰は平戸藩家老の葉山左内に遭うために平戸を訪れている。
 筆者も夏の暑い真っ盛り、松陰が大日本の愛国にかけて奔走したあの古
(いにしえ)を重ね合わせて想い偲ぶのである。(写真は、たびら平戸口から臨む平戸海峡と最教寺)



●発動の機

 世の中は不可解な動きからをする意図的構図がある。そして奇怪なることは、マスコミが提供しているニュースにどれだけの真実が存在し、またそれに反してどれだけの偽りがあるか、また報道される正しく伝えられているのか、歪(ゆが)められているのか、それを確(しっか)りと見極めねばならない。

 現代は情報過多の時代であり、主観と客観が入り乱れ、清濁
(せいだく)(あわ)せ呑むこの人間界の構造は、同時にまた善悪綯い交ぜの環境空間でもある。当然この時空には、真偽も錯綜するのであるから、人はそれぞれに自らの感覚に照らし合わせて、好き嫌いや肌合いなどもあり、近ければ好意を持ち、遠ければ反撥するように出来ている。
 そこには真贋というよりも、こういう感覚的なものが先行しているように思う。そして、正も邪も好みに合えば「正」となり、合わねば「邪」となる場合もある。正邪は、正しいかどうかよりも、近いか遠いかで判断され易く、フィーリングとしての肌合いもあろう。
 こう言うものを総て併せ呑んで、現代の世は誰もが異口同音にして「民主的」と言うのであろうか。あるいはそれに遵わねばならないと言うのであろうか……。

 そういう背景下で、私たち日本人が見たショッキングな出来事は、1963年に起きた米合衆国35代大統領のジョン ・F・ケネディ
(民主党)暗殺事件であった。テキサス州ダラスで遊説中暗殺された。
 そしてケネディ兄弟は、何とも奇妙だが、当時の司法長官で弟のロバートも、1968年の大統領選出馬準備中に暗殺された。

 この暗殺に日本人の多くが驚愕
(きょうがく)した。
 二十世紀最大の、そして最も文化的で法治国家のアメリカで、白昼堂々とその国の最高指導者が暗殺されたからである。
 更に不可解なのは、兇弾に無慙
(むざん)に頭を吹き飛ばされた最高指導者の暗殺が、たった一人の犯人の狙撃によって成功したことであり、その犯人は実に頼りない男であり、この不可解な事件に、当時の日本人は二重の驚きだったのである。

 それにも関わらず、その後の調査においては、到底その男一人の実行ではこの大それた犯行は不可能であるのに、その偽り報道は真実として納得せねばならないと云うことが、またアメリカと言う民主国家で、かつ法治国家である強大国の見解であった。
 また、更に驚かされることは、この事件に関与したと思われるその組織に対して、証言しようとした証言者が六十人以上も疑惑に満ちた死に方をしていることである。当時の疑惑は、疑惑の儘、不可解な出来事として放置されたままである。真相は解明できなかった。あるいは解明してはならぬものであったのだろうか。
 こうなると、一体、アメリカの唱える“民主主義デモクラシー”とは何だろうか?……。
 「アメリカ大統領暗殺史」を考えても実に奇妙である。

 ケネディ以前には、まず第16代米国大統領のエイブラハム・リンカーン
(共和党)の暗殺事件が1865年4月に起こった。続いて、第20代大統領のジェームズ・ガーフィールド(共和党)の暗殺事件が1881年7月に起こった。更に、第25代大統領のウィリアム・マッキンリー(共和党)の暗殺事件が1901年9月に起こった。
 アメリカの民主国家とは、大統領が暗殺されることにより、時代が変わっていくのだろうか。
 あるいは、それにより幕引きが行われ、時代は意図的に人工的な人脈構造をもって、闇の勢力の思惑で変化させられるのであろうか。
 また、「大統領の首」とは、高級労働者の“挿替
(すげかえ)人形”なのだろうか。不都合になったら、替えるというような……。

 リンカーン大統領は1865年に暗殺された。就任したのは1861年3月だった。これは日本では吉田松陰が斬首
(安政6年(1859)10月27日)された二年後のことである。
 そして、このような欧米と言う外国を、幕末の日本人は、どう検
(み)て居たのであろうか。

 幕末から明治に懸けて、日本は維新に揺れ動き、激動の時代を迎えていた。
 一方、西洋列強は産業革命後の経済展開をアジアに求め、その捌け口を、先ず中国大陸に定め、続いて朝鮮半島、更には極東の日本へと鉾先
(ほこさき)を向けようとしていた。

 清朝は阿片戦争で敗北を帰し、その後、植民地政策の鉾先を朝鮮半島に狙いを定めていた。そして更に「南下し、日本へ」と言うシナリオが出来上がっていた。
 日本では攘夷思想が擡頭
(たいとう)し、それが激化してくる。倒幕運動はますます激しさを増し、日本は二分されたような「佐幕」対「討幕」の内紛状態となって、また勢力構想は「幕府」対「西南雄藩」と言う構図が出来上がっていた。尊王攘夷の討幕に反対して、幕府の政策を是認する構造である。そして、西洋列強は阿片戦争後、次のターゲットを日本に定めていた。
 これを「国難」と捉えたのが、吉田松陰らであった。

 嘉永二年
(1849)、松陰は長州藩の兵学師範として、藩首脳から海防について意見を求められた。
 そこで松陰は、『水陸戦略』と題した上疏
(じょうそ)を藩に提出した。そこには兵学者としての松陰の戦略思想が論じられ、「海防」について記されていた。
 「最近、名家が海防を論じているのを見ますと、外国が巨砲、大艦を持つことを恐れ、これには弓矢や銃砲の連発で対抗すべきだと論じております。勿論これらは戦闘についての論で、決して奇策とか奇手というものではありません。これは単に甲越の古い戦法を言っているに過ぎません」

 松陰がいった「甲越の古い戦法」とは、甲州の武田信玄と越後の上杉謙信以来の古戦法を指し、当然これには山鹿
(やまが)流兵学も含まれている。
 松陰の戦略思想の中には、既に山鹿流は古い戦闘でしか無く、単に白兵戦を論じて時代遅れになっていると言うことを指摘したかったのである。更には、「死に狂い」と称される、山本常朝以来の「葉隠論語」と言われた葉隠武士道すら、もうこの時代には適合しないと看做
(みな)していたのかも知れない。

 現に、河井継之助などは、古い武士道思想で戦う精神戦を否定し、長岡藩に西洋式軍装を施すと言う構想を描き、ガトリング砲
Gatling/円筒型に束ねた多数の銃身を回転させ弾丸を連射する機関砲)を購入し、もはや武士の死に狂いが通用する時代でなくなっていることを知覚していたのである。
 しかし、“武士の死に狂いが通用する時代でない”を全面否定したのではない。松陰と継之助の共通項を考えれば「陽明学研究者」である。陽明学者でないにしても、陽明学により霊性面において感化されたことは間違いなかった。何故なら両者は、行動原理が知行合一に一致しているからである。

 松陰の場合は、おおいに「死に狂い」こそ、歴史を動かす原動力であることを感得していたようである。それは松陰のその後の生き方を「狂」と「猛」で実践してみせたところに見られる。
 これを「まごころ」の表れと検
(み)る。だが「狂」とは狂人のことでない。また「猛」は猛々しい猪武者のことでない。即実践の必修条件なのである。

 「狂」と「猛」は、『奇』を顕し、事の望んで疾風の如き奇襲を用いて意表を衝
(つ)き、普通とは異なる「奇を衒(てら)う」の不思議さを併せ持つのである。
 そのためには「狂」であり、「猛」でなければならない。時代を動かすには、常套手段を用いての尋常なことでは成就しないのである。これまでの生温い“甘えの構造”から訣別しなければならない。
 松陰が、自らの号に「二十一回猛士」を挙げていることから明白である。事を当たるに対しての決意なのである。

 これは現代風に云うなら、現代の平和ボケと生温い、例えば時間通りに会社に出勤して、タイムレコーダーにカードをガチャン通せば、それで給料が貰えると言うケチな考えを棄
(す)て、甘えの構造からの脱却であった。
 これを徳川期の平穏な、良き時代に置き換えて考察すれば明白となるだろう。この時代は平和で実にいい時代であった。町人文化も開花して、大いに伝統や文化を発展させた。

 しかし、こういう穏やかで、平和な世の中は、異国の侵略に脆
(もろ)い。一旦冒されれば、『お遠山の金さん』とか『大岡越前』の名裁きでも決着はつかない。また海外から侵略を受ければ、杜甫の『春望』も幻想であり、国破れて山河などもない。どこもここも敵国の植民地である。先祖の墓まで踏み荒らされる。もしかすると、国名すら世界地図から消えるかも知れない。
 既に時は、風雲急を告げているのである。

 松陰は微温湯
(ぬるまゆ)に浸かる、この種の人間の留まる自分からの訣別であったのである。
 まさに、ここに陽明学で云う事に及んでの「事上磨錬」の実践が問われるのである。日本人の行動律が試されるのである。
 国難が迫り、足許に火が点
(つ)いているのに、のうのうとしていられない。危機が迫っているのである。したがって「行うとき」が来ていたのである。それはまた、馴(な)れ合いになった「古きもの因習」からの訣別でもあった。

 更には、密航未遂事件後、萩の野山獄に幽閉されたときに著した『講孟余話』からも、国難が迫ったことが見て取れる。

 したがって、古戦法を前面否定したのではない。いいものはいいのである。しかし、過去の因習に染まった悪癖は削ぎ落していなければならない。
 古きものにもいい伝統は沢山ある。
 「死に狂い」も、先覚者としては数歩先に霧の中を進む者の宿命だと感じていたのかも知れない。
 見事に死んでみせる……、それも後進者へのメッセージである。また、この「狂」により後の明治維新の原動力となったことは事実であり、日本は西欧の植民地主義の餌食にならずに済んだ。

 その他方で、古戦法を基本において、西洋流の「新しい軍法」を用いなければならないという考え方を示したのである。温故知新が同居していた。昔の物事を研究し、適合点を探して吟味し、そこから新しい知識や見解を得ることを、決して軽視しなかったのである。

 松陰の示した海防的なる戦法は次の通りであった。
 それによれば「漁船を2、30艘集合させ、一艘に4、5人を乗せ、めいめいが2、30目玉筒一梃を充て構え、敵船に接近して銃窓から狙い定めて乱射する……」とあり、これは戦国期の戦争職人集団の鉄砲衆といわれた「舟鉄砲」という戦術によく似ている。そして「敵船に乗り込み、抜刀をもって斬り進む」とある。戦法として、斯くのような戦いからがあったことを兵学師範として熟知していたのであろう。

 今から考えれば、実に稚拙な考えであるが、当時を考えれば幕末とは云え、海外への渡航は禁止で、かる鎖国の只中であり、当時の日本人は外国を知らない。また西欧の軍艦も見たことがなかった。船と言えば、漁船程度で、大型船と言っても、千石船程度であった。
 そのために、かつて武勇でならした長州藩では「外国の軍艦と雖
(いえど)も恐れるに足らず」という、井の中の蛙的な思い込みや先入観が先行したいたのである。

 長州藩の兵学師範であり、また小さい頃から神童として持て囃され、天才の名を恣
(ほしいまま)にしていた松陰にして、この程度の上疏できなかったのである。
 つまり、当時の日本人の軍事知識は、「的が大きければそれだけ当たり易い」という程度のもので、破壊力とか武器の特性や効果と言うものが全く計算外のところに飛んでいたのである。この程度の軍事思想しかもたないのであるから、西欧を指す「外国」を考えることは、雲を掴むようなことであった。

 既に『孫子の兵法』でいう「敵を知る」という兵法のイロハさえ、泰平に狎
(な)れた世では見失っていたのである。江戸期の武士は戦国期の武士と異なり、もう戦争職人ではなくなっていた。
 海外と交易を閉ざして、井の中の蛙になれば、当然情報量も少なくなり、泰平の世の眠りを貪ってしまうのである。

 江戸時代は確かに平和でいい時代であったが、それはミクロ的な江戸時代観であり、マクロ的には、敵を知らずに、己まで殆
(あや)うくしていた時代であったと言えよう。
 つまり、当時の日本人は大局観に欠け、グローバル的に物事を観測する全体像を検
(み)る思考の根本である「戦略思想」と言うものが完全に抜け落ちていたのである。物事を観る観察点は近視眼的であった。

 しかし、藩に上疏した松陰であったが、松陰の先見の明とも云うべきところは、自分の上書した内容に対し「これらの儀、席上の空論のみにて」と予
(あらかじ)めに断っているのである。
 また、一見稚拙に思える兵の用い方を、その兵用に当たっては、正攻法で用いる場合の兵を「正兵」とし、ゲリラ戦法などの奇襲でも散る兵を「奇兵」としていることである。軍略を想起したことは兵法師範としても人後にも落ちないであろう。
 流石、松陰という現代の戦法から考えても、その発想性の奇抜さには頭が下がる。
 これは、敵が海上戦で突破線を破って上陸して来た場合のことを想定している。
 もしそうなった場合に、どうするかまでを計算に入れて「ゲリラ戦を展開せよ」としているのである。

 ゲリラ戦の展開。
 則
(すなわ)ち、奇兵の重要性を説いているのである。
 その証拠に、松陰の『海防論』には、敵を“賊”と看做して「賊は上陸した後のその地は未熟の地で、味方の友軍は熟地なれば、ここに奇兵の働きをもって攪乱し、味方は専ら正兵をもって骨子となし、変化して賊を破り候」とある。
 この考え方は今日でも有効であり、その有効性は内紛地域で立証済みである。

 この根本にあったのは『孫子の兵法』であろう。
 松陰は、孫子が言わんとする隠れた「幽」なる部分を逸早く見抜き、戦いは単に正攻法をもって勝つのではないと言うことを読み解いていたのである。つまり、孫子の言葉に隠れていた有機的なる結合部分の「幽」なる部分を『孫子の兵法』から読み解いていたと言えよう。
 松陰の『孫子の兵法』について解釈力と、有機的な隠れた部分の推察力は、江戸中期の儒学者で古文辞学を唱道の達人といわれた荻生徂徠
(おぎゅう‐そらい)の孫子解釈以上であったと言われる。
 松陰は、漢詩の才からも窺えるように、漢学にはズバ抜けた分析力を持っていたのである。

 中国の思想の根本にあるのは『易経』である。
 『易経』は言葉少なめに、如何なる解釈でも出来るような恐ろしい一面をもっている。解読者が無能で、ただ文字通りに解釈してしまえば、言葉の羅列はただ耳に響きのいいように伝わって、本当の隠れた部分の深さを見落としてしまう筈である。その最たるものが『論語』であり、また『孫子の兵法』であろう。
 その見落としは、以降の思想に大きな誤解を生み、偏見までもを作り出してしまう。そうした誘導により、以降さまざまな誤訳が展開されてしまう。

 その最たるものが『易経』であり、その思想を受け継いだ『孫子の兵法』にまで流れ込み、本来の兵法から遠く掛け離れた誤訳と誤解によって、後世の人間を惑
(まど)わしてしまう。
 この「惑い」に現代人は古典研究に、大いに惑乱しているのある。
 何故なら、漢字と言うのは一文字の意味が深く、そこには文字の並び順が変わっただけで、全く違ったものになるからである。同時に文字の裏には、目に見えない有機的な繋がりを持ち、隠れた部分を読み解かなければならないからである。

 その典型は『論語』であり、日本人の論語観は、中国や半島とは異なる孔子の思想とは異なる解釈のされ方で、現代まで引き摺っていると言えよう。
 『論語』の修正やその後の研究は、一旦は朱子学によって、保護されるべき国学として宋代に至り開花するが、この開花の背景には朱子学が体制側の学問として適合したためであり、この適合は陽明学が生まれて反論が出て来るまでは、国教として大手を振って闊歩
(かっぽ)した時代があった。

 日本に朱子学が入って来たのは江戸時代のことであり、これは日本のみに留まらず、朝鮮王朝・ベトナムなどにも導入され、日本では藤原惺窩
(せいか)・林羅山(らざん)・木下順庵(じゅんあん)・室鳩巣(むろ‐きゅうそ)・山崎闇斎(あんざい)・古賀精里(せいり)・柴野栗山(りつざん)・尾藤二洲(にしゅう)らが朱子学派と呼ばれる「宋学」を構築した。宋代に確立した新しい儒学として朱子学は、日本では体制側の学問として大いに持て囃(はや)されたのである。

 「宋学」の特徴は、北宋の四聖人といわれる周敦頤
(しゅうとんい)・張載(ちょうさい)・程コウ(ていこう)・程頤(ていい)らが説いた「陰陽五行説」などの伝統的観念や、老荘の学ならびに仏教の哲理や世界観を取り込んで儒学を新しく体系づけ、南宋では朱熹(朱子)が集大成したもので、漢・唐の訓詁学に対して、理学・性理学・道学を含めたものをいい、これは日本ならびに近世東アジアの思想に大きな影響を及ぼしたのである。
 したがって徳川幕府も体制側の学問として、朱子学は大いに奨励したのである。

 ところが、幕府は朱子学を正学とし、それ以外の学問を異学として排斥したのである。
 有名な「寛政異学の禁」であり、時の老中・松平定信は、寛政の改革の諸政策の一つに「異学の禁」を定めた。
 寛政二年
(1790)松平定信が林大学頭に宛てて出した「朱子学を正学とし……」にはじまり、主に旗本や御家人の子弟を教育するための江戸学問所と称された昌平黌(しょうへいこう)での異学教授を禁止する旨の諭達のでる。
 また、この背後には、徳島藩儒から昌平黌教官となり、松平定信に「寛政異学の禁」を建議した江戸後期の寛政の三博士と言われた柴野栗山の働きかけがあった。
 更に七年後には、幕府は昌平黌を林家から接収して、幕府直轄の昌平坂学問所に改め、教学政策を推進したのである。

 したがって、『陽明学』については、当然体制を揺るがす学問として「異学の禁」に抵触するを免れなかった。
 現に江戸後期の陽明学者である大塩平八郎は「天保の飢饉」救済を嘆願し、町奉行にこれを請うが、入れられず、蔵書を売り払って窮民を救うことを決意する。これが大坂に救民と幕政批判ので挙兵した「大塩平八郎の乱」である。
 以降『陽明学』は危険視される。

 現代でも陽明学と聞けば、危険思想の哲学として、危険なる行動をする危ない学問と、あたかも毒薬のように毛嫌いされている。
 しかし、この考え方が短見である。
 陽明学は真心をもって物事を捕える「心即理」の学問であり、「まごころ」をもってすれば、以心伝心並みに通じる人間同士の心の共通性を貫徹した学問であった。心学というべきものである。その貫徹力は、岩をも貫く意志力であり、また至誠であり、ここに「志」の原点があった。
 「志」をもって、わが道を邁進する。
 この志こそ、「まごころ」の現れあった。志を行動で顕在化するには「まごころ」以外ないのである。

 この考えは、松陰の行動にも見ることが出来、松陰は「まごころ」を前面に打ち出し、松下村塾の塾生を教化して行ったのである。
 但し、松陰が筋金入りの陽明学者であったかどうかは疑問だが、一時期、陽明学に感化されたことは疑いようもなく、現に感銘すらしているからである。
 ちなみに、一時は儒学・国学・史学・神道を基幹とした水戸学にも感銘を覚えたが、会沢正志斎
(あいざわ‐せいしさい)が尊皇攘夷から体制派へと変貌したため一旦は感動した水戸学への気持ちも薄れていったようだ。松陰にとっては、陽明学も水戸学も学問の通過点であったようだ。

 後に、高杉晋作が「奇兵隊」を結成するときの思想に大いに助けられ、天に託す「天命」の根本には、真心を中心に据えて、松陰の唱えた「奇兵」をこれに用いたのである。
 但しここで云う天命は、『中庸』でいう「天の命ずる之を性と謂う」とは少し違っているようで、天寿と云う意味があり、天から与えられた命を全うするということで、精一杯の自己燃焼と考えられる。自力努力で自己の生き態
(ざま)の完全燃焼ということである。

 奇兵は私事に動くのではない無私の兵隊であり、無私であるからこそ、状況判断が巧みであり、「如何様にも変化して、賊に対して謀
(はかりごと)これあるべくと候」とし、ゆえに「奇となりて神出鬼没」と称したのである。この根本原理には、「心即理」の行動原理があることが分ろう。
 その根拠として、高杉晋作は師の松陰の『水陸戦略』を熟読していたに違いないと思われる。
 それによれば、師の松陰の先見の明が窺われ、ここに記された奇襲戦術
(奇兵術)は、中国の兵法である古典の『六韜』【註】太公望の作とされる)から出ているが、松陰自身の海外事情に明るいことである。

 当時の日本は、徳川体制下で今日のような安穏とした“事勿れ主義”と“一国平和”の論理が先行していた。あたかも民主主義神話の上に胡座をかいた、平和ボケ感覚である。これを松陰は厳しく指弾したのである。国難来るを感知していたからである。
 松陰は、外国の軍隊が攻め込んでくると、危険信号を発していた。
 ところが、幕閣支持派の連中は、「何の根拠をもってそのようなことを言うのか」と反論を露にした。

 ところが松陰も負けてはいない。
 「フランスとイギリスは、一貫仲違いを知る素振りを見せながら西南から東北に進んでくる。その証拠としてイギリスは既にインドをとり、オーストリアを開き、スマトラなどを島々を拠点において天保年間には満清の乱
まんしん‐の‐らん/1840年の阿片戦争)を起こしたではないか。
 更にはフランスもイギリスも琉球
(開国を迫り、1844年にイギリスとフランスが通商を求めて琉球を来訪。阿片戦争の情報を掴んでいた幕府は、琉球に限って薩摩の対英仏通商を許可し、1847年に薩摩が琉球を英仏に開港)や朝鮮(1966年のフランス人宣教師の処刑事件(キリスト教弾圧事件で、宣教師ピエール・アンリ・ドリエが殉教)を契機として、李氏朝鮮とフランス帝国との間で発生した戦争)に上陸して無法(迫ったことを指すのか?)を働いたではないか」と、その根拠と信憑性のほどを示した。
 更に松陰の熱論は続く。
 「ロシアはどうか。シベリアを開き、カムチャッカに至り、それぞれに都市を構えて軍艦を配備し、海島を占領し、奥蝦夷に迫ろうとしている」と対ロシア情勢を論じた。

 この構図は、日本と言う島国が四方から包囲されたという現状を訴えているのである。
 包囲の根拠は何か。
 その根拠の奥に潜むものは何か。欲望であろうと言う。西欧列強の野望が見え見えでないかと言う。
 そしてこれまで、わが国が、こうした虎視眈々と日本を窺
(うかが)う西欧列強に対し異変に至らせなかったのは、わが国の海防体制に隙(すき)がなかったからである。またそのために、戦いを先送りした観もある。それは攻め入る大義名分が西欧列強になかったからである。

 ところが今は違う。難癖つけて、付け入る隙を探したのである。
 「通商」とは、表面的には体裁よく交易を装って、あたかも商業取引を指すように映るが、それは軍事と無関係でないと読んでいたのであろう。

 松陰は、山陰の片隅の萩の城下から一歩も出ることはこの当時無かったが、僅かに入手したこれだけの海外事情に対して、先見の明とも云うべき洞察力を働かせて、此処まで分析していたのである。
 既にこのとき、松陰は日本列島に押し寄せる外圧の到来を予測していたことになる。

 ちなみに、この当時の長州藩の仮想敵国はロシアだった。したがって、長州藩では日本海に面する海岸の防備に注視し、海防地域を「北浦手当」
【註】北浦沿岸の防備体制。松陰は嘉永2年(1849)6月の20歳の時に外寇御手当御内用掛(おてあてごないようかかり/海防掛)に任命される)と呼んでいたのである。この海岸線は日本海に面しており、ロシアが日本海を渡って侵攻するのではないかと懸念されていたのである。ロシアの位置からして、侵攻には日本海経由だ最短距離で、ロシア極東部でシベリアの門戸であるウラジヴォストークVladivostok/浦塩斯徳)がら攻め入れば容易であり、その際、侵攻目標の要所は何処かということが以前より研究されており、見張所が置かれていたのである。

 そして、このときの松陰は『廻浦紀略』という記録書を著し、海岸線の防衛態勢を述べているのである。
 「大川と言うところ台場に宜し。城山、烟硝倉
(えんしょうぐら)に宜し。海外に面する部分は、軽便の砲十門ばけりを備え、臨機の守禦(しゅぎょ)をなすべし。兵士5、6名をおき、民丁をして銃砲に熟せしめば可ならん」と手記に述べている。
 松陰が踏査
(とうさ)した海岸線の終着は下関であった。

 この地には代々の大年寄りの伊藤家があり、廻船問屋のを営む豪商で、また長府藩の本陣でもあった名家であり、当主は木工之助
(もくのすけ)といった。木工之助は号を靜斎と称し、松陰が北浦巡視の際、また九州遊学の際などに来訪して親交を結んでいる。そのときに松陰は、靜斎から平戸藩家老葉山左内(はやま‐さない)を紹介され、これにより大いに海外事情に通じるのである。
 松陰はこの頃、藩内に在書するめぼしい本は殆ど読み尽くし、左内が九州きっての蔵書家と聞いて葉山家を訪れたいと思うのである。

 左内は参勤交代のおり藩主について江戸に出る度に、あらゆる書籍を買い漁っていた。
 また、左内自身が陽朱陰王と評された佐藤一斎の弟子であり、蔵書は儒学のみならず、内外に通じた西洋書なども蔵していた。この書籍は貴重な情報源と看做し、九州遊学の計画を立て、西洋の情報を得ることで、松陰の将来はこれにより決定付けられることになるのである。

 平戸藩には山鹿流兵学の宗家の山鹿万介がいた。松陰は「軍学稽古」という理由で九州遊学の許可を得た。
 そして平戸に向かう際の旅の哲学とも云うべき『西遊日記』を遺したのである。
 「道を学び自分を完成するためには、古今の歴史や現在の世の中のことを知らなければならない。しかし、一室に閉じ籠
(とじこも)って本を読めば充分であると考える人が多いが、一室に籠っての自学自習は生きている証(あかし)としての心が伴わない。生き物には必ず機がある。生き物が静止しては、機を逃す。機に触れるには物事に接し、感動しなければならない。そういう場面に遭遇して動の働きを知る。こういう機会を得ることが出来るのが旅である」と。

 まことに陽明学的な、人間の心を活性化させる言を述べ、機の発動を需
(もと)めて、九州平戸に向かったのである。そして、此処には人の行動律を示す「知」と「行」の一致があった。この一致を「合一」と考えていいだろう。
 この合一において、人の心は活性化される。
 松陰は活性化されて、溌溂
(はつらつ)とした「発動の機」を得たのである。
 これを機に、いろいろな人との出遭いがあった。
 同時に風物への接触も齎され、松陰の目的は、葉山左内の蔵書を読むと言う大きな課題があり、かつそれにより海外事情を得るという、物事の実体に迫ろうとしていた。

 松陰は、嘉永三年八月二十五日、萩を出発した。そしてその行程は、萩を出て長崎、平戸、長崎、熊本を経由して萩に戻る旅程を辿った。
 また「発動の機」に至ったプロ説を考えてみると、当時の国禁を犯し海外見聞という壮大な夢の挫折が、旅に明け暮れる以降の松陰の生き態
(ざま)を決定付けているようにも思える。
 そして後に松陰は、多くの門人を松下村塾から送り出すのであるが、未来への的確な予見を得るために、兵学師範でなければ考えもつかない「飛耳長目
(ひじちょうもく)」なる情報収集の遣り方を教え、刻々と変化する世の動きを観察する奇手を助言しているのである。
 更に奇なるは、諜報において、酒も飲むべし、詩も賦すべしと、自らも一種独特の風流心を忘れなかったのである。この助言こそ、松陰は旅の本質を知り抜いていたと言えよう。

 では、松陰の教えた奇手である「飛耳長目」には、如何なる目的が横たわっていたのであろうか。
 おそらく対外危機感を抱いていたのであろう。
 また、当時の西洋の科学技術は、日本とは比べ物にならないような、ずば抜けたものであると想起していたのだろう。

 平戸滞在中、松陰は山鹿流の宗家を継承している平戸藩家老格の山鹿万介と会見するも、万介は当時病んでおり、然
(しか)も高齢であり、親しく話を聞く機会はなかった。
 一方、葉山左内も平戸藩家老であり、実に多忙の身であった。平戸に来訪した松陰に対し、一々話を聞いてやる暇すらなかったのである。そこで、蔵書を松陰に解放したのである。また松陰にとっても、この方が都合がよく、左内としては精一杯の遇し方であったのだろう。斯くして両者の利害は一致した。

 松陰は左内の蔵書を読み漁るとともに、また平戸藩の砲術家であった豊島権平が所蔵している書籍に触れることが出来た。松陰が観るこれらの蔵書は萩では見ることの出来ない新知識と新情報が満載されていたのである。松陰を大いに刺戟したのである。

 その一冊に『聖武記附録』なるものがあって、これは清国の魏源
ぎげん/新思想の提唱者として中国を「世界に目を開かせる」のスローガンを知識人。著に『海国図志』50巻ならびに、『聖武記』『道光洋艘征撫記』『元史新編』などがある。1794〜1856)という兵法に通じた思想家が書いた兵書であった。
 この兵書には、阿片戦争におけるイギリスの中国侵略の非道さを記録とその論評が記されたものであり、また教訓として、「夷の長技を師とし以て夷を制す」と論を展開しつつ、一方で「外国の先進技術を学ぶことでその侵略から防御する」という戦略的思想と同時に植民地のターゲットとして逃れる策を明快にしているのである。

 松陰は、この書に釘付けになった。
 そして、物凄い読書力で読破したのである。
 「阿片戦争で揺れる清よりも、その危機に晒
(さら)されているのは日本ではないのか」と。
 日本こそ、西力東漸の危機感を真剣に受け止めるべきではないのかと。
 魏源の『海国図志』は吉田松陰や佐久間象山らによって読まれ、この頃より迅速なる対抗措置として体制転換の必要性が問われ、この策が日本中に広まっていくのである。

 また、『聖武記附録』は阿片戦争
(1840〜42)の終わった道光22年(清朝の8代皇帝宣宗の頃で1842)に書かれたもので、西欧の新式武器が論じられているとともに、その武器と戦った経験が記されており、実に価値の高い実践記録だったのである。これにより松陰の西洋兵学の関心は一気に高まったのである。そして確信したことは、これまでの古典の日本の兵学を是正することこそ急務であると感得するのである。
 更には、その説得力として、「それ外夷を制馭
(せいぎょ)する者は、必ず先ず夷情(いじょう)を洞(うかが)う」と云う言葉が、松陰の心に響いたのである。

 兵法家は、まず敵の情報を仕入れなければならない。敵を知ることから始めねばならない。
 したがって、阿片戦争の実践記録は、実に貴重な体験談で、記された一つ一つが実に重みのある佳語であった。
 松陰が平戸藩家老の葉山左内邸の蔵書の『聖武記附録』を読んだのが、嘉永三年
(1850)八月末のことである。既に戦争から八年が経過していた。

 後に松陰は、攘夷論の課題に、阿片戦争の非道なる侵略の警鐘を鳴らして、東洋植民地化政策に対する西欧列強の警戒を促したが、これは単に排外思想ではなかった。この根底には、欧米の事情に精通して、先進文明を積極的に取り入れ、西欧にも劣らない法治国家へと日本を向かわせねばならないという確信のもとに、その実行を移そうと、海外密航を計画する。それは奇
(く)しくも、平戸で葉山左内の蔵書の『聖武記附録』を読んだときから始まったと言えよう。
 書籍に書かれた教訓を、松陰は知行合一の行動律により、実行に移したのである。心底には得た「知」は、至誠を貫いて実行せねばならないのである。目前に国難が迫っていたからである。

 では、松陰の西欧列強の、かくもこのように「知りたい」と思う、その原動力は何だったか。
 また、西欧に危機感を感じるその感覚は何処から起こるものであるか。
 漠然とした危機意識は、おそらく西欧諸国の得体の知れない「何か」に敏感に反応していたのであろう。その特徴として忽然と表れたのが、ペリー来航と言う砲艦外交の日本への迫り方であった。
 あたかも見ず知らずの他人の家に、銃砲を持って土足で踏み込んで来るような、礼儀知らずで、無礼千万な輩
(やから)と思ったのである。砲艦四隻で、砲門を開けば江戸市中をいつでも火の海に出来ると云わんばかりだった。

 このとき松陰の心には、キリスト教を国教とする、西欧の国家群に対し懐疑の念が起こったと言えよう。
 「西欧とは如何なるものか?」と。
 無理難題な対外政策を押し付け、清国を啖
(く)ったように、この日本もその餌食にして啖うのか?……という不可解なる疑念を抱いたのだろう。
 そして、それは誰からの指令なのか?……と。
 それくらいの鋭い洞察力はあった筈である。
 同時に松陰は、ほぼ「西欧の輪郭」を自らの霊性でイメージしたのではあるまいか。

 彼
(か)の国々(西欧列強)は、自由民主主義以来の「力こそ正義」を振り回す弱肉強食の論理で物事を考える国家群ではないのか?と……。
 それが砲艦を差し向けての植民地主義であり帝国主義であった。

 ゆえにその正体を見極めるために、国禁を犯し、海外見聞という行動に及んだのではないのか?……という推理が成り立つのである。
 この行動の中には、単に西洋兵学の関心だけでなく、また迅速なる対抗措置として、体制転換の必要性のみではなく、もっと根本に坐する「西欧の実体」を検証してみたいと言う心の渇望から始まったのではないか。西欧の正体の骨子に迫ろうとしたのではないか。西洋科学の好奇心だけでなく、それを超えたもっと深い西洋思想的な意味合いがその背景に意図として隠れているのではないかと、それを洞察しようとしたのではないかと思うのである。

 何故なら、松陰の洞察力は実に鋭く、『論語』から、孔子や孟子すら批判を浴びせ掛けるような思考が出来る天才であるからだ。
 この背景に、陽明学そのものは見当たらないにしても、陽明学的な行動律を見出すのである。
 今は「行動のとき」と検
(み)たのだろう。



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