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陽明学入門 6

人は何を以て生きるのか。何を以て生き甲斐にするのか。そして生き甲斐の心底に、今以て脈打つものは何か。
 人の命は有限である。無限でない。限られた範囲内の命である。生まれた以上、命の有限は決定されており、そこに人の寿命がある。生まれた以上、死なねばならぬ。人の人生は死に向かって、刻々と近付いていると言えよう。死刑宣告をされたも同じである。

 しかし、命の終わるまでのこの期間は、収斂
(しゅうれん)された期間であるとも言えよう。
 この期間を、如何に、どうして濃厚に過ごすかが、後世の人に対して畏敬の視線が向けられるところである。
 つまり、後進者に対して、ただの素通りされる人間か、精神的支柱になりうるべき「志」を持った人間かの判断に隔てられよう。

 人は、自分の外に抗
(あらが)うことによって、生を全うする。抗いながら生きている。
 そして、後世で問われることは、その時代をどのように抗い、どう時代の舵取りをしたかである。ここが後人の注視の的となる。

 その的が、後人の激発する心を奮い立たせる起爆剤になれば、その時代の、その時点での愚挙と思える行動であっても、壮烈なる死に態
(ざま)が、またその人の、依って以て道に殉じた死に態として高く評価されることもあろう。
 煩悶
(はんもん)して、もはや言うことは無い……と言う死諌も、人の「狂」の現れである。
 時は流れる。淡々と、悠々と、然
(しか)も時には激流のように烈しく……。
 あたかも、人の心思錯乱を無視したように……。
 ただ在
(あ)り、ただ静寂に、ただ制して止まず、かつ乱雑に林立するように……。そこに在る。



●今は蓄える

 無駄に動かない。無理をしない。事に当たり斑(むら)を起こさない。そして浪費しない。
 ただ、今は力を蓄積するのみ。
 才能は内に隠し、外に示さない。ゆえに蓄える。貯める。貯めて、内なる威力を高める。

 したたかに時機
(とき)を待つ……。
 仕掛ける時機を待つ。待って耐え忍ぶだけである。
 我慢する。辛抱する。じっくりと観察して、時機の状況判断を正確にする。そして秋
(とき)のタイミングを計る。秒読み計る……。

 ゆえに汐時
(しおどき)知る、無駄に動かない。
 「狂」は、“いざ”というときの最後の最後の「切り札」に取っておく……。
 起爆の威力は、蓄えた力の分だけ比例する。今は忍んで力を蓄えることにある。
 「狂」は、言わば特異点……。
 これは行動原理の原則である。

 ある日突然、何かが起こる。何かが運命へ変転する。
 特異点に達する時期を、したたかに待つ。辛抱強く待つ。刃は、見えないところに忍ばせておく。忍ぶことこそ、「狂」の発火剤。他に何があろう。
 そういう行動律がある。
 斯
(か)くして、今は蓄える。
 蓄えるとは、則ち学ぶことである。知を蓄え、かつ行を用いるときを待って、無駄に浪費しない。成就への原理原則である。これにより、知行合一は成る。

 孔子曰
(いわ)く。
 「知を好みて学を好まざれば、その弊は蕩
(とう)」とある。
 知識だけを身につけても、それは単に物知りであるだけだからである。
 何故なら知識は、肉体の一部の大脳皮質の薄っぺらな襞
(ひだ)に記憶を留(とど)めたからに過ぎないからである。学校で講義を聴き、あるいはそれに付随する参考書を読むだけで身につけたもので、ただこれだけでは信念になり得ず、また「志」という行動力にもなり得ないからである。
 志としての根本的なものは、知ることだけではなく、知を「道」として学び、その「道」において、権威が加わらねば役に立つものでない。知っているだけでは何もならない。暗唱した記憶に過ぎない。

 では権威とは何か。
 次に、権威を明確にするために登場するのが「見識」である。
 見識とは例えば、ある問題が発生して、その解決策を導く手順を示すものである。
 解決策を見出すに当り、その策は一手だけでなく、他にも種々の方法がある。知識人が得た知識を出し合えば、一つの問題を処理するに当り、いろいろな見方があり、その何
(いず)れかを用いれば問題は解決する。その手法の根本は知識からなる。知がベースとなることは言うまでもない。

 さて、問題解決に当り、ある解決策が提示されたとしよう。
 ところが、知識の応酬は必ずしも一枚岩の考え方から起こったものでない。まだ一枚岩になり得ていない。考え方は種々あり、手法も多数あって分裂している。一致を見ない。
 ある人は、自分はこう考えると論ずる。また、ある人は、こうあるべきだと喝破する。斯くして議論は白熱するが、分裂状態では纏まりようが無い。だが知識の応酬では話は纏
(まと)まらない。物別れが続く。

 これは言わば、知識人と、ときの権力幕僚との見解の違いと言うべきものであろう。
 知識人にとって、彼らの唱える一般原理は胆汁明快であるにも関わらず、時の体制を担う体制側幕僚は、時代を牽引する現場実務の専門家と言う自負があるため、それぞれの長所と短所を論じ合う上において立場上の意見の喰い違いが起こる。

 つまり現場の専門家は、知識人の、例えばユートピア的構想などは全く理解し得ない。
 「こうあるべきだ」というユートピア的構想は、実際的に現場を担う専門家からすれば、実にリアルティの欠けるものに映り、承認しかね、李とんと実際との対立は深まるばかりである。
 此処に至って、急進派と保守派の対立が生まれ、急進は左派となり、保守は右派となる。これこそ政治力学の原理原則であり、この上に人の世の基本的生格があるといって良かろう。

 それゆえ急進派はどうしてもユートピアン的な「知」を持ち出し、保守派はリアリストとして実際的な事象を担ぎ出して、「行」を論い、急進派の言を制圧しようとする。つまり実務としての専門家群は「右」に惹き付けられ、また倫理展開の知識は「左」への傾くのが知識層の常套手段である。
 ゆえに左右は擦れ違い、平行線を辿る。状況としては、中庸より大きく逸脱し、現実には偏ったものは浮上する。
 何故なら、それぞれが固有の性格を帯びているからである。

 では何故纏まらないのか。
 「左」は理性
(ドイツ語/Vernunftを持ち、「右」は知性(ドイツ語/Verstandを持つ……と,こう言ったのは、ナチ党時の哲学者メラー・ファン・デン・ブルックArthur Moeller van den Bruck/右翼ナショナリストで哲学者ならびに思想家。神聖ローマ帝国を第一帝制(962)とし、次にビスマルクの強力な指導力のもとに成立した第二帝制(1871)とし、その後を継ぐドイツ民族による三度目の帝国を「第三帝国」と看做し、これを神秘主義的な「千年王国」として想起した。ちなみに千年王国とは、キリスト教世界において,終末にあたってキリストが再臨し,1000年間統治すると信じられた王国のことであり、この王国は正義と平和が支配する理想的世界をいい、ヒトラーはこの思想に、現世の至福の王国を重ね、その到来に大いに魅惑された。そして当時の賢明なる頭脳を持つドイツ国民も。1876〜1925)である。

 理知は左右に分裂し、またユートピアンとリアリストも論理と実務で分裂する。民主的なる制度を持ち込めば、必ずこのような路程を辿る。
 決議において議論に集まった知識階級の最終判断は、人それぞれの人格、学識経験、体験、あるいはそれを通じて得た悟り、更には過去の功績などが入り交じり、白熱しただけで一本化できない。これでは一枚岩になりようが無いのである。したがって、更に煮詰める。解決に至る道を模索する。
 一方、実務派は論理に弱く、かつ着想に不得手のため一般原理を闘いとなると、後の出来る事は適用に伴う難点を指摘したり、嫌がらせをするだけとなる。斯くしていつまで経っても平行線を辿る。

 此処で登場するのが、最終判断を下すために、見識が必要になってくる。知識のぶつけ合いでは解決策は見出せない。
 「斯くあるべきだ」と判断するのは「見識」である。知識ではない。
 そして登場した見識は、高ければ高いほどいい。

 しかし、この「高さ」にも欠点がある。高過ぎれば、低俗なる小人
(しょうじん)とは次元が異なるからである。此処が一番厄介なのである。
 レベルに低い小人を、見識者がなだめ、理解させねばならないからである。そのうえ小人は、理解力に乏しく、論理尽くめでは、蹤
(つ)いて行けなくなる。
 また理解力に欠けるから、新たなことには
分けも分らず反対し、これを妨害しようとする。消極的に安全圏に落ち着こうとする。これは、意見の食い違いでなく、レベルの違いが仇(あだ)を為(な)すのである。
 見識者は理性で物を言うが、小人は感情で物を言う。
 仮に、小人の知性があったとしても、その理性は感情に塗
(まみ)れているから、知は、理を上回らないときがある。斯くして見識者は苦悩する。平行線を辿り、話が纏まらないからである。

 そうなると、見識者に変わり、次ぎなる役者の登場となる。
 低俗なる小人すらも包含し、時には睨
(にら)みをきかせて抑え、あるいは懐に迎え入れ、手玉に取ってしまう腹芸の大役者である。
 この大役者は、反対や妨害を断固排除して、実行に移す実践者である。この実践能力の備わっているものが胆識者である。

 この実践者は判断力や実行力があり、最終的な決断を下す能力を持っている人である。
 つまり、この人は知識を積み、種々の経験や体験から見識を持ち、更には肚
(はら)に坐った覚悟がある。世の中に酸いも甘いも心得ている。人の喜怒哀楽を鎮(しず)めて、道理を縦横に駆使し、説得力を持つのである。
 そもそも陽明学的に言えば、学問とは、その胆識を養うためのものであった。

 孔子をして言わしめた言葉は、「信を好みて学を好まざれば、その弊
(へい)は賊」と。
 則
(すなわ)ち、学問の伴わぬ信義や忠信は、極道の仁義の域を出ない。
 また「直を好みて学を好まざれば、その弊は絞
(こう)」と。
 則ち、率直で朴訥で愚直で極めて真面目であっても、種々の場面や変化に応じた適応力の無い者は、学ばないと、その弊害は、偏狭なる正義感で終わる。世の中にこういう手合いの人は多く、昨今では若者に限らず、いい年をした中高年や老齢層まで、この種の自称“真面目人間”が殖えたようである。まさに独善なる偏狭をもって、首を絞めるようなことをするのである。

 頑固や頑迷なども、この種の自称“真面目人間”で、単純に表皮のみに圧倒されて、裏側の隠されたものを見詰めようとしない人である。
 性格は率直で素直だが、物事の見方が一次元的か、よく検
(み)たとして二次元平面的である。物事に、裏表があり、それに奥行きがあることを知らない。愚直の儘、それを全うすればいいものの、少しばかりの知をひけらかして入らぬ口出しをする。
 要するに、愚直に徹しきれない場合、自称“真面目人間”は本性の愚を放棄して混ぜ返してしまうのである。

 この種の人間に対して、孔子は次のように戒めている。
 「物事の裏表をよく吟味しないくせに、口にすべきでないことを軽々しく喋り、その根拠が不明確なくせに喋りは躁
そう/せかせかとして、けたたましい。躁鬱病(気分が高揚している躁状態とふさいでいる鬱状態とが交互に出現することで双極性障害)の「躁」もこの字を書くため分裂を指摘しているのだろうか)で、本来、言うべき時に沈黙して隠(いん)を決め込む。こうした手合いは、相手の気持ちなど構わずに物を言う。これを瞽/盲のことで、または盲瞽で理知に暗いこと)という」と。

 更に「勇を好みて学を好まざれば、その弊は乱」
 則ち、勇ましいことが矢鱈好きだが、学問は心得ない。そう言う輩
(やから)は、秩序を乱す猪武者(いのむしゃ)だから、世に弊害を齎すと。
 あたかも『水滸伝』に出て来る黒旋風の李逵
(りき)のような者であろう。
 かつて孔子は、子路
(しろ)の勇気を「暴虎馮河(ぼうこ‐ひょうが)」と指弾し、虎と素手で闘い、大河を徒歩で渡るようなものだと酷評し、この勇気の持ち主を「事に臨んでおそれ、謀(はかりごと)を好んで成る」ことこそ、真の勇気であると諭(さと)した。

 また「剛を好みて学を好まざれば、その弊は狂」と。
 則ち、剛胆で強気一点張りでは節度が無く、反省することもない。そうなると運命の流れに狂態が生じる。
 例えば昭和初期の軍閥の狂態振りである。
 軍人が一方的に政治に介入して、戦争に猛り狂い、短見なる判断から日本列島を負け戦に誘導し、焦土に導くような狂態愚行である。当時の軍首脳は、狂態愚行を地で行ったのではなかったか。ここに先の大戦に敗れた、彼らの敗戦責任は免れないであろう。
 この狂態愚行の裏には、帝国主義的蛮行が政治的軍事的欲望に重なったからである。

 民族や国家間の政治的軍事的闘争は、その根底には経済的成長が潜んでいる。この経済的成長こそ国家の欲望である。
 近代において、富の形成は先ず資源と領土であり、それに続いて食糧、貴金属の類、工業製品、更には労働力である。時の権力を牛耳る支配体制の潜在的欲望は拡散・膨張の方向にあるときは、現支配領域で富の形成には満足がいかないから、長い時間をかけて経済成長を待つよりは、最も手っ取り早くて効率のいい方法として軍事力を駆使される。これは今も昔も変わっていない。

 つまり、弱小の近隣民族や国家に進攻し、征服を企てる。征服した後、そこから富を掠奪
(りゃくだつ)しようと企む。軍事力に物を言わせて簒奪(さんだつ)する。
 これこそ最も効率のよい方法である。
 この事実は、人類の歴史が雄弁に物語っている。古代から現代に至るまでの数々の戦争の歴史は、まさに簒奪を目論んでの軍事力の駆使ではなかったか。

 国家の富の形成を、民族ならびに他の敵対国家と対峙する場合、圧倒的強大でなければならないと検
(み)たのは帝国主義的かつ植民地主義的狂態蛮行が先行したためではなかったか。
 そしてこの“狂態蛮行主義”は、西欧の、十八世紀頃から擡頭
(たいとう)し、それは帝国主義あるいは植民地主義となって、一つの流脈によって人工的に導かれた観が強い。
 その当時、日本も西欧列強の植民地のターゲットに狙いが定められていたのである。
 だが佐幕派は、自らの足許に火か点いて燃えているのにも気付かぬほど鈍感だった。



●狂と猛

 日本では十九世紀の幕末にかけて、ある特定の目的、あるいはある流脈の意図を持った隠微な集団が日本列島を暗躍し、水面下で日本内紛を企んだ痕跡である。
 つまり、佐幕派と倒幕派の攻防戦である。これが権力の争奪戦でもあった。
 この構図を逸早く見抜いたのが、西欧列強の智謀陣営だった。

 ロスチャイルド家を総帥とする国際ユダヤ金融資本の新世界秩序を画策するワンワールド勢力である。既にロスチャイルド家は、ワーテルローの戦い
【註】1815年ウェリントンの率いるイギリス軍とブリュッハーの率いるプロイセン軍とがナポレオン軍を撃破した戦い。乱世の計略に長けるロスチャイルド家は、最後の最後までナポレオンを食い物にした)で情報網を駆使し、これを機に天文学的な数字の資金力をわが物のしていた。

 以降、この勢力は争奪戦をする双方に軍資金援助と武器を提供し、日本人同士を争わせる構図を画策していた。また双方は内紛のためにそれぞれに代理人を立て、走狗まで仕立てた。現に戊辰戦争は、その顕著な現れであった。

 ちなみに、「狂」は吉田松陰の行動律であった「狂と猛」の“狂”とは異なる。
 要約すれば、松陰の「狂と猛」は、時の老中で、眠れる呑気なウサギの『間部詮勝
(まなべ‐あきかつ)暗殺計画』の言い出したことから始まり、これはペリー艦隊により、海外密航を企てた以上に取り巻きの目を狂おしいものに映させたことに起こった。群を抜いた天才と雖(いえど)も、時として矛盾や混乱においては、短見的な目からすれば滑稽にすら映り、単に異常とさえ見えて狂人を彷彿とさせるものである。単に、無分別に猛り狂っているように映る。

 だが松陰の心には、戦闘者たる最後の覚悟があり、「狂」こそ、いよいよ人生道の最後の総仕上げに差し掛かった先駆者としての宿命を自覚するようなものであった。
 先駆者は総仕上げにおいて、ある種の自覚を観ずるものである。
 その総仕上げとは何か。
 松陰自身、「狂」に走る以外なかったと推測され、先駆者として孤独な闘いであったと想い計られる。狂おしい以外ないのである。眠れる呑気なウサギへの死諌だったかも知れない。

 それは松陰の『狂夫の言』にも窺
(うかが)われるように、その末尾に「人は私を狂夫というが、私は猛士であって狂夫でない」と書いているが、敢えて言うなら、そもそも言説に「狂夫の言」とあることから、既に覚悟の上であったのだろう。
 これを知行合一の「行」の面から論じれば、先ず世間の目への孤独なる挑戦であり、かつ世間に対する皮肉であろう。
 言うならば、既にこのとき「狂と猛」は重なり合っているのである。一枚岩であった。

 更に紐解けば、松陰の『講孟余話』
【註】尽心下篇第三十七章『講孟剳記(さっき)解説』をいう。孟子には「孟子尽心」があり、人が本来もっている徳性を十分にみがき育てること並びに「孟子梁恵王」には、心のありたけを尽くすことがある。『講孟余話』は『孟子』に関する注釈と見解をまとめた書物。また松陰が監獄にいた頃や出獄して、幽閉されている時の講義をまとめたもの)には、「狂」について論じられている。
 それによると、まず「何を以て狂というか」が、この章に関して論証されるべき命題であり、「狂」とは何かが投げ掛けられており、それを主張するテーゼは、先ず「何か」と迫ることから始まっている。
 そして「志」について、問うのである。

 「志」とは何か。
 松陰の志は「国を繁栄させるために民を励まし叱咤激励」ことに尽きるであろう。
 言わば、元寇以来の国難来るの状況下に、太平の世に眠れる呑気なウサギを叱咤し、かつ民を激励したものと思われる。
 ゆえに、陽明学で言う「貧賤艱難は人生の逆境であるが、順なる者は怠り易く境逆なる者は勵み易し」とあるから、これを事上磨錬と解釈することが出来る。そして続くのは、「怠れば則ち失ひ勵めば得るは、是れ人の常なり」とあるから、これは可もなく不可もないと言う人のことを指すのであろう。

 続いて「吾れ罪を獲て獄に下り……」とするところは、猛というより「狂」であろう。
 これは核心にせまる態
(さま)を「狂」と言ってもいいであろう。その「狂」によれば、言・行を顧みず、また行・言を顧みないからである。

 その「言・行を顧みず、また行・言を顧みない」とする行為・行動の中に、一点の曇りも無いことに注目したい。
 これは疑いもなく、愛国心と、国を根本から慈しむ誠
(まごころ)の現れ、至誠の現れがあるのではあるまいか。この一点の曇りも無い情熱と至誠は、松陰の行動蹶起の安政五年の末、残された命の寿命は僅かに一年足らずである。

 人は、寿命で死ぬ。
 人の死は、決してそれ以外のことでは死なない。
 世間では、人は病気で死ぬなどと軽薄に思われているが、人の寿命の尽きるのは病気で死ぬのでもなく、また事故や事件に遭遇して死ぬのでもない。寿命で死ぬ。

 よく愚者は、「もし、あの時、あの場所に居なければ……」などと、死者の最後をそのように回想し、こじつけるが、その短見なる思い込みは、人の死んだ直接的な死因と結びつかない。
 しかし、世の多くは“あの時、あの場所に居なければ……”を安易に結びつけ、そう思い込んでしまう。これは現象界の直接的死因ではない。況
(ま)して起因でもなく、原因でもなく、死との因子でもない。

 例えば、某花火大会に出掛け、帰り際、事故に遭遇して将棋倒しになって死んだのは、もし、あの時、あの場所に居なければ……で済んだのであろうか。
 また、火山噴火が続いている山にトレッキングに出掛けて、噴火事故の巻き込まれ、もし、あの時、あの場所に居なければ……ということだけで、その人は難を逃れたのであろうか。
 現に、その場所に居合わせながら、同じ条件下で、事故の遭遇したにも関わらず、死ななかった人もいる。もしかすると、死ななかった人は、死んだ人の真横に居たのかも知れない。
 この場には、その時に下された人の命の果敢なさがあり、天の運命の生きる者と死する者の運命の明暗が、明確にされ選別されている。

 こうして人の運命を追求して行くと、人間の死は、もし、あの時、あの場所に居なければ……とか、かの人は病気で死んだ……などの推測は成り立たなくなる。
 現に、同じ病気に罹りながら、更には末期の状態も、かの人よりも悪化しているのにも関わらず、かの人より長命を保つ人もいる。
 一体死ぬ人と、そうでない人との、この格差は何処から起こるものであろうか。

 人は寿命で死ぬ……というこの事実が浮き彫りになれば、人は事件・事故・病気では死なないという人間の可視的洞察の所謂
(いわゆる)“科学的”という判断だけでは、人の死の行方は予知できないのである。
 逆に予知した人もいる。

 例えば、自分の死の予知をした松陰の行動に振り返ってみたい。
 時代の五里霧中の先端を行くという先覚者は、また自分の死を知る予知者であったともいえる。
 したがって予知者は、自分の人生を安穏として生きているのではない。常に、死の予知を自覚しながら、時代の先端を走っていたのである。ゆえに、可視世界から見れば、不可視世界の、例えば松陰の行動は異常に見えた。異常者のように狂っているように見えた。

 だが予知者は、そうした異常性を観ずることは無い。極めて健全である。健全な頭脳で行動している。後世の出来事すら、手に取るように把握していたかも知れない。
 むしろ自分の死後の志士達の理想像を、松陰は意識して死を覚悟の上で、霊的なる行動を実践し、その理想像たらんと、既に志士達の心の中に生き続けることを選んだのではなかったろうか。

 それは斬首と言う死刑の瞬間に向かって、秒読みが開始されたと言っても過言ではあるまい。
 その根底には、収斂
(しゅうれん)された残された時間を、実に有効に使っているのである。
 松陰の『留魂録』はそれを雄弁に物語っている。
 この期間を、松陰は実に濃厚に遣い、決して無駄な浪費をしていない。完全に、完璧に、信じられないほどの濃密さで、この残された濃厚なる時間を有効に生きているのである。

 つまり、この期間の濃厚な時間の過ごし方は、例えば、老齢期の余命を生きる現代の八十代、九十代の老人の生き態
(ざま)に比べれば、遥かに充実していて、その密度は非常に高いと言えるだろう。安穏として生きていない。濃厚なる時間を有効に使っているのである。
 これは現代の老齢期に達した「団塊の世代」以上の老齢者に比べれば、実に対象的である。そこには松陰の「知行合一」の陽明学的行動律があるからである。

 老いれば、残された時間は極めて短くなる。
 「老境」という人生を象徴する人間のクライマックスの時期は、実に短いものである。この短い時間を有効に使わねば、人間としてこの世に生まれて来た価値は無い。
 これは残された時間を逆算すれば明白なことである。

 昨今の厚生労働省の表現や各種保険などの介護が発生する時期を挙げれば、65歳以上となっているが、この65歳以上になって過去を振り返れば、その65年の人生の中で、どういう生き方をして来たかとなると、その過ぎ去って行く経過において、その間どれだけ美食を喰らったり、美衣を着て、何台の高級乗用車を乗り回したかとか、プール付きの豪邸に棲
(す)んだとか、宝石貴金属類で身を飾り贅沢をしたかとか、どれだけ多くの異性と交わり恋愛遊戯に明け暮れたかとか、あるいは苦労に苦労を重ね、如何に苦しんだかということの自伝的なことに終始しているが、こうしたことはあまり問題にならない。

 重要なのは65歳を過ぎた、そこからの時間である。死ぬまでの時間は、逆算すれば、生まれてから「人生五十年」と言われた時代があったから、それを折返し点にしても、50年であるが、その50年を65歳から重ねて、果たして以後、100歳を越えた年齢まで生きられるかどうか、疑問である。
 平均寿命も日本では男が「79.64年」で、女が「86.39年」である。
 これは『平成22年簡易生命表』による。更に詳細を究めれば、前年と比較して男は「0.05年」上回り、女は「0.05年」下回ったということである。

 この数値の変化は、単に平均寿命の年齢が上下していると言うことであり、永遠に伸び続けると言うことではないらしい。環境の変化でも変わろうし、事件や事故においても、あるいは食べ物の質と量の変化でも変わろう。

 さて、老齢と定義される65歳を起点に、死ぬまでの期間を計算すれば、男の生きられる平均期間は大目に見積って死にまでに16年弱、女の場合は死ぬまでに22年弱となる。
 いわば、この期間が実に濃厚な時間となる訳だ。

 さて、この老境に入った時期に、人間はどのようにして自分のクライマックスを描き、有終の美を飾るかと言うことである。老境の時期の一日は、若い頃の暇を持て余した一日とは大いに違おう。この時期の一日一日は実の重要な意味をもって来る。
 つまり、この時期に入って、過去を振り返り、「あの頃は良かったな、愉しかったな、随分といい事をして来たな、あるいは恥多き日々だった」などと、人生を振り返ってその辺の回想にふけるか、人生の幸不幸を超越して、「今からが正念場」と思うか、その違いが克明になると言うことである。

 昨今の老人は、往時の人に比べれば長寿記録の更新中にあるらしい。したがって寿命も延びた。
 昔の人より残された時間が長くなり、しかしそれでいながら、動物的な余生を送っている人も少なくないようだ。ただ動物的に生きていると言う人も少なくない。
 これでは老い方が美しいとは言い難い。
 また一方で、美しく老いるということが、極めて難しくなったのも現代特有の現象のように思う。誰もが、ただ死から逃げ回るばかりである。
 老・病・死の段階に入って、死から逃げ回るばかりである。
 少なくとも、僅か三十歳で死んだ吉田松陰に比べれば、現代人が八十、九十、百と生きたところで、松蔭以上の濃厚に生きたということは言い難く、その生の使命すら、全うしていないように思うのである。

 それは一言。
 「狂」の欠如であろう。
 また、「狂」を賭けてもいいほどの「志」が無いからであろう。現代は「志」を喪失した時代である。

 松陰の「狂」は、行動に対し、そこには畏敬の念を勝ち取るほどの凄まじさがあり、後進者達を垂範する強烈な個性が、凄まじいほどに滲
(にじ)み出ているのである。
 つまり、これが松陰の「狂」の実態であった。「狂」への思考である。

 この「狂」に振り返れば、時の幕府に暴威を揮い、抗
(あらが)い、立ち向かおうとするのも、また「狂」ではなかったか。
 何故なら、幕府は安政の大獄をもって、抗う者達を蹂躙
(じゅうりん)し、有無も言わさず処刑した。抗う者も「狂」であるなら、これを処罰する方も「狂」ではなかったのか。
 激動の時代を生きるためには、「狂」を以て、自らが猛り狂うしかなかったのである。この「猛り狂い」こそ、松陰の唱えた「狂と猛」ではなかったか。

 行動学は、静止した大人しい素質を、学問で養うだけではなかった。養って叡智をもって、実践に応用したと言うべきであろう。
 そして学問で得た叡智は、当時の安政の大獄で血塗られた旧時代の体制側の保守思考の厚い壁をぶち破る突破口になったことは歴史が証明するところである。

 ゆえに高杉晋作は自らが松陰の「狂」に呼応し、『西海一狂生』と号し、自分の行動を「狂挙」と称したのではなかったか。
 これはまた、深層部に大自然が、地球が、世界が連動されていて、この時代を猛然と邁進する原動力になったのではあるまいか。
 暴発すれば猛然と邁進しという、人としては殆ど利害損失を顧みない生き方をしてみせたのである。斯くして、この時代は「狂」によって牽引されたと言えよう。
 あたかも、人生を生きる上で「あなたの命の値段は幾らですか?」と問わんばかりに……。
 更には「あなたの命は、どれくらいの価値がありますか?」と……。



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