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陽明学入門 5

月輪(がちりん)は、密教で言う衆生(しゅじょう)に本来そなわっている清浄な悟りの心を言う。
 ゆえに衆生の清浄な心の本質を象徴する月輪を観想する行為を言う。
 陽明学では、これを譬
(たと)えて「まごころ」に置き換える。「まごころ」がどうあるべきか、これを月に譬えて、「心の鏡」に置き換える。心の鏡が曇っていないか、濁っていないかを問う。

 もし、そのような場合、どうするかを教えるのが陽明学であり、朱子学のように曇ったまま、濁ったままの状態で「知」の詰め込みはせず、それを「行」としない。この違いが、陽明学と朱子学の違いであろう。
 つまり「性」優先ではなく、「心」優先なのである。これが朱子学の性即理説に対して、心即理説なのである。本然の性は理に他ならないと言うのと真っ向から対立する。
 何故なら、程頤
(ていい)以来の性即理の命題を奉じて、不純な気質を変化させるこの自己か現実から起こる理は格物致知の方法論に過ぎないからである。

 そこで陽明学は言う。
 心を濁ったままで状態にしておいて、仮に波風を止めて澄ませたとしても、心の映る月が曇った月では、心の本然が発揮されないばかりでなく、心と言う鏡を雲らせてそのままにして、月を映し出そうとするようなものであから、果たしてその月は、「まごころ」に映し出した月と言えるだろうか?……と問うのである。
 例えば、自己修養を遂げた人物が為政者となる
(修己治人)ことで、天下泰平が果たして実現するのだろうか。
 答えは、否である。

 現に、日本では最優秀のエリートと集めていると言われる各省庁の高級官僚の中にも贈収賄などの不祥事を引き起こして指弾されるクズは居る。
 要するに、群を抜く知能でも、心が不善であれば、行いであるモラルすら無関係となり、ある一定比率でどうしようもない心を腐らせた知能エリートと言う人間もいるのである。

 知行合一は、徹頭徹尾、最初から終わりまで一筋なる心である。その源流は、心から発した一筋なるものなのである。陽明学の知行合一は、心一本の「本体」と言う。
 これは朱子学の『知行論』の説くところに非
(あら)ず。

 単に実践的性格をもった行動哲学は、朱子学にも存在する。朱子学にも「知行論」がある。
 知行合一は、実践的性格を充分に兼ね備えているのである。実践的性格は、何も陽明学だけの専売特許ではない。

 問題にすべきは、客観界の事物に準じた、単なる知識によって行動が発せられるものではない。
 行動の根元が、何処にあるのか?……が問題になるのであって、安直に考える知と行の一体ではない。その一体を説くのは、むしろ朱子学の得意とするところである。
 朱子学でも、「知と行の一体」を力説しているのである。

 だが、陽明学が知行合一の「知」と「行」の二字の、その意味を問題にするのではない。
 陽明学では、根元が心を中心に据えた「本心または本然か」に焦点を当てているのであって、ただ知と行の一体化を論じているのではない。それを問題にしているのではない。最大の関心事は、単純明快なる「本心または本然か」である。つまり、心の据え方が、どうあるべきかを問うのである。

 つまり、心を疎外した知行は、それが如何に博識の域に達し、名分で綴
(つづ)られ、あるいは篤実な行いであっても、更には、忠実なる行動が伴っていても、心から出ていないものであれば単に、虚飾・装飾に過ぎないということである。その種のものは、本心を満足させるに至らないのである。陽明学では、この点を重要視する。
 したがって、仮に、知と行が一致していても、陽明学で説かれる「知行合一」とは似ても似つかないのである。
 これにより、月輪がどういうふうに映っているかが分るであろう。



●見識を知行合一で検る

 陽明学は、単に知識を追求する学でない。
 知識は知っているだけの、それだけのことでしかない。また、知識だけで人生の喜怒哀楽を理解することは出来ない。
 人間界の「心」と「情」は一筋縄ではいかない媒体である。ここが人情の険しいところであり、人生の道の厳しいところである。

 これらのものを克服し、わが意に取り込み、同化していくためには、まず「耐える」ことを学ばねばならない。耐えることを生き方の支柱として、邁進せねばなるまい。
 耐えることを怠って、楽を好み、苦悩や迷いに直面せずに回避すれば、やがて人生の道に迷い、藪の中に迷い込むか、側面に仕掛けられた落し穴に落込んでしまうだろう。

 耐えるとは、また心を鍛えると言うことである。心なくして、心を不在にしておいて、ただの知識の詰め込みだけでは、やがて道を踏み外して、行き着いた先が断崖か、あるいは波頭荒れ狂う大海かも知れない。

 そこで、心の本然、本性をどうするべきかを考えねばならない。
 人間の心は宇宙と同じである。人の心には総て宇宙と同じものが内蔵されている。
 これを人生の喜怒哀楽から考えれば、喜びの心は瑞祥
(ずいしょう)をしるす星雲、怒りは心の荒れた状態である雷鳴や豪雨、哀愁は物の哀れを知りそれを悲しんだり、思い遣って相手に同情をするそよ風や甘露、楽しさは心よい苦しみから解放された悦楽などであり、それらを経験しつつ一方で凛とした一面があり、それは厳しさで、心を甘えさせない灼熱の炎天や秋露の如きものや霜のようなものであろう。

 しかし、人間の心に起こる喜怒哀楽の現象も、時として怒り狂ったかと思えば、時を経て消滅し、その後はからりと晴れて跡を残さない。敢えて蟠
(わだかま)りも残らない。この事から考えれば、人の心の喜怒哀楽は宇宙現象とそっくりに合致するではないか。
 此処に「人の態
(さま)」があるのである。

 人の態こそ、何ぴとと雖
(いえど)も平等に備わっており、誰の心にも等しく内臓されているものである。此処に貧富の差なく、卑賤の差はない。同格であり、同等である。同格・同等において、何を気後れする必要があろう。
 此処には身分の格差た家柄なども無縁である。
 無垢に戻れば、人はこの点において平等であり、平等は単に法の下での平等だけではない。この点においても、平等であり同格・同等なのである。

 ところが世の中を見るにつけ、高い地位に就いたり、名を馳せて有名人になったりすると、何かと担ぎ出されることがある。
 何故、そう言う他者の行為が起こるか。
 それは他でもない、単純な理由からである。あるいは見た目の短見・短識から起こるもので、高い地位に就いたり、テレビなどの度々登場して有名人になり茶の間の人気者になると、それなりの衣服に改め、装飾品を身に纏い、取り巻きを侍
(はべ)らせてちやほやされている、その体(てい)からである。自他ともに偉いと思い込んでいることから起こっている現象に過ぎない。

 一方、低い地位に留まり庶民のその他大勢の中に数えられる階層に甘んじていれば、何かとバカ呼ばわりされたり、威圧されて脅されたり、分けも無く叱咤され、誹謗中傷の的に晒
(さら)されることがあるが、それは他でもない、わが身が身に付けている衣服や装飾品が粗末であるからだ。

 この世は、外面の、また表皮の“見掛け倒し”が物を言う世界である。小人は見掛けに圧倒される者である。
 人からちやほやされて、担ぎ出されたり、取り巻きが侍るのは見掛けであり、またバカにされたり見下されたり侮蔑されるのも表皮の見掛けであり、根本的には人格と無関係である。これに対して、喜ぶことも無いであろうし、腹を立てることもないであろう。そういう見掛けに流されること無く、淡々と「志」を着実に実行すればいいのである。これに何を歎くことがあろう。

 だが、凡夫
(ぼんぷ)の眼は普段、心眼を鍛えていないため、心術の奥義を会得していない。
 ために、見掛け倒しに威圧されて、世の中の汚濁に染まらない人を高潔といい、またそのように判定し、一方、妬みから陥れられて、少しでも汚濁に触れれば、その人が自然体であっても不潔と指弾する。
 この言は偏屈に過ぎず、俗世の俗習から解脱した人を邪者と指弾するに過ぎない。それは他人の過ちを、ただ厳しく指弾して寛大になれないからである。また、こういう人に限り、自分の過ちには寛大なようである。

 それゆえ、自分の苦しみには歯を食いしばれずに弱音を挙げ、他人の苦しみには安易に見過ごしてしまうのである。
 偏にこれは、見識が無いためであろう。

 では見識とは何か。
 現代特有の現象の一つに、知識のみで、事の処理に当たろうとしていることである。その結果、見識を鍛錬する努力が蔑ろにされたようだ。
 知識のみで、単に専門家的な知識を所有することを“科学的”と題して、知識優先なることを憚
(はばか)らない考え方である。
 しかし、その考えでは、知識を活用して、智慧
(ちえ)に変換という発想にまで至らない。知識のみで留まってしまう。

 また本来、知識は智慧に変換する課題が残されていたのではないか。
 つまり、人生の教訓と言った智慧の分野である。この智慧こそ哲学的な要素であった。
 ゆえに智慧は、人間を変えるような人生の教訓でなければならない。有機的に結びつかない空白的な知識の集積だけでは、それは殆ど智慧になり得ない。ただ知っているだけの範囲に止まる。
 「行」が伴って、始めて智慧になり得る。
 『陽明学』でいう「知行合一」は此処にある。

 例えば、一つの問題の見方や検討策は、初期では知識が物を言う。知識が針路を示す。その意味では活用することは大いにある。
 しかし知識だけでは問題解決にならない。先へ進まない。机上の空論に止まる。議論すると言う程度に留まる。
 実践が伴わないから、仮に知識に達観していたところで、現実問題として起こった事柄は対処出来ない。

 現実問題をどうするかは、これまでに得た経験や体験、更には人格や判断力や実行力が物を言う。この場合の条件は、見識がある場合に限られる。
 斯
(か)くして、見識を持ち得た場合、陽明学の知行合一は、ぐんーんと理想に近付いてくる。



●胆識を知行合一で検る

 しかし、見識だけでも、まだ足らない。
 何が足らないのか。

 見識だけでは、それが高度であればあるほど、一方でその見識の高さを、低級な俗人は理解できない。理解できないから俗人からは臆病な意見や、時期尚早などの消極的な意見が続出する。したがって、反撥や反対に遭
(あ)う。
 また反対者や敵対者から横槍が入り、阻止され妨害すら受ける。
 しかし、こうした反対や妨害を排除して、決断と実行で、押し通るのが胆識である。こうした実践する能力を「胆識」と言う。

 だが現代社会には、最も欠乏している人材が胆識力の所有者である。
 また、この社会では胆識を養成する方法すら知らなくなってしまっている。
 つまり、現代社会は知識一点張りで、専門家と言われる技術者が幅を利かせ、その一方で反省や節度が失われてしまったということである。現代社会は知識の狂態に躍っている社会であるかも知れない。
 その証拠に、昨今の政治屋どもが、何れもドングリの背比べに止まっているのは、胆識者が欠乏しているからである。
 では、「胆識」について、詳しく語ってみよう。

 現実処理能力は、本来は見識に裏付けされた「肚
(はら)」が物を言う。
 つまり、この「肚」こそ胆識力である。また「度量」とも言う。
 此処からが陽明学の知行合一説の重要課題となってくる。

 そもそも知識は、人間の脳内に、断片的に記憶していると言うそれだけの、単なる大脳の働きに過ぎない。したがって、知識だけの単体では行動力になり得ない。
 ただ、教科書の何ページに何が書いてあったか、それを知ってるだけである。

 ところが、これに精神活動の理想が生まれたり、志が生じて来ると、それは知識を遣うための智慧へと変換されて行く。
 つまり、理想とか志を持つと、それが行動力に結びつき、「行い」が生じて、その経験や体験を積んで、これが智慧に変換される。この智慧が、高度化されたものが見識である。
 見識によって、道徳的基盤を判断し、あるいは心理状態を推測する智慧が生まれるのである。

 こうした見識をもって、人は人生活動をする。
 この人生活動の基本は、自分で学び取った見識をもって行われる生命の活動であるから、他人から借りることは出来ない。自分自身で、自力で行わなければならない。
 したがって「付け焼き刃的」なものでは不可である。自力修行を通じて、見識を身につける以外ないのである。

 だが、見識を用いて生命活動を続けたとしても、見識レベルでは、まだまだ駄目である。
 見識を理想や志に載せて用いたとしても、現実に起こった大事を処理することは出来ない。また見識レベルでは、このの処理が出来ない場合が多い。
 何故なら、現実には様々な矛盾が生じるからである。

 そもそも人間は矛盾の塊
(かたまり)のような生き物であるから、異論が生じた場合、これを制して理想を現実に向けるには「肚」が居る。この「肚」が胆識である。度量である。
 途中で様々な利害関係の錯綜もあり、これらを抑え込んで実践しなければならない力が、決断力である。

 世の中は広いが、広い世の中で、胆識を備えた人は実に少ない。その数は限りがあり、寥々
(りょうりょう)りしたものである。
 だが、見識の胆識が加わらない理想論は、結局、儚
(はかな)い空虚な絵物語で終わるのである。
 この世には、才能と素質に恵まれながらも、運に恵まれず、理想や志を虚しく費やして人生をリタイヤする人の、何と多いことか。
 才能人も素質人も、「肚」の養成が出来ていない場合、運にも見放されてしまうのである。
 では、「肚」を造るには、どうしたらよいか。

 私の場合は、浪人時代にその「風懐
(ふうかい)」とも言うべきものを独学で学んだ。
 学ぶために、日本中を何処でも請い歩いた。師を需
(もと)めて請い歩いた。良書も探し求めた。所謂(いわゆる)腹中有書の類である。
 しかし、それでも未
(ま)だ足りない。
 人の出遭いと、本当の出遭いは同義であるからだ。書物にも求めるだけでなく人にも求めたのである。邂逅
(かいこう)を求めた。
 自力移動で、分らないところを習うために乞い歩いた。若い頃から、そう言う性癖があったのである。
 だが、この性癖は見聞として、以降功を奏した。

 その結果、人生、常に白紙をもって事あるごとに、これを学んだのである。
 初心が第一だった。人生のカンバスは真っ白であることが求められた。
 一旦、自身を皆無状態にリセットし、履歴や経歴を捨て、新たなカンバスの上に、これまで温めて来た理想と志を描いたことである。そこに本来の「初心」がある。
 行き詰まれば初心に戻ればいいのである。

 さて、人間の価値とは、肩書きや地位、名誉や財産など、何も無いという丸裸状態になってこれまでにはない、本当の正体を顕すのではないだろうか。
 多くの世人は、自分の身の上に幾重にも、この世ならではの墓場まで持って行けない。そう言う有限物質を身に纏
(まと)っている。それで自分を誇示し、自分の力を見せ付けようとする。
 一種の虚像であり、また自己を等身大以上に大きく見せ掛けて、夜郎自大に陥ったり、あるいは尊大になって、自分より弱い者を見下すことである。
 そして、優越感を抱く。快感に浸ろうとする。

 「俺は凄いんだぞ……」
 野望を抱く、大半の人間の心情である。
 「俺の人生はこんなものでない……」
 そう凄む人がいる。これも心情から発した負け惜しみの意地である。意地が言わせた負けん気である。分らないことは無い。しかし、一方で負け犬の遠吠えのようにも響く。何処か虚しい。
 だが、依怙地
(いこじ)は継続しなけれbならない。虚しくても構わない。
 したがって、凄くなければならないのである。この凄味こそ、意地であった。

 野望達成には「凄さ」が必要だからである。
 凄さをもって、一気に野望の階段を駆け上がる。
 更には、見掛け倒しの有限物質が必要になる。
 地位や名誉といったものも、その最たるものであり、会社と運命を伴にする会社人間などは、“会社の肩書き”イコール“自分の実力”と思い上がっている節もあるようだ。会社のネームバリュー
(知名度の高さ)が、いつの間にか、自分の実力に移行している。これにより、こういう組織に所属するものは思い上がる。
 同時に、側面には「俺は偉いんだぞ」という肩書きを誇示する思い上がりが、快感となり側面に自惚れが生じる。

 ところが、自惚れは丸裸になると、幻想だったことに気付かされる。
 こういう会社人間を自称するサラリーマンは、会社や組織の肩書きを捨てて、浪人になって見れば、その実力が如何程の物であったか、思い知らされるだろう。浪人して丸裸になれば、直ぐに馬脚を現してしまう。
 これが実は、自分の思い上がった「実力の正体」だったのである。

 自分が偉いのではなく、また、自分に実力があるから凄いのではなく、単に会社のネームバリューであり、浪人すれば、この自惚れは単に幻想だったことに気付かされるだろう。
 実は、ちっとも凄くもなく、偉くもなかったのである。総て、組織の力だった。
 しかし、この幻想に酔ったまま、生涯を「酔い痴
(し)れ人生」で終わる人も少なくないようだ。

 私は自分の六十有余年の人生の中で、「酔い痴れ人生」で潰えて行くそういう、死生観を解決出来ない人を数多く見て来た。
 単刀直入に言えば、自分の死生観が未だに解決出来ず、迷いに迷い、その手の人生に、幻想を抱いたまま満足を得ている人である。

 自分が何者なのか、最後まで分らず、妄信的で、夢に酔い痴れて最終目標は最後まで夢が叶わず、そして、この世に未練を引き引き摺って死んで行く人である。それも死生観を未解決のままにして……。
 そして、こう言う人の死して潰れて行く、結末に至るシナリオを検
(み)てみると、まず自分の実力を買い被り、自身で自分が何者なのか、それを探求しなかったと言う一語に尽きるのである。

 自己を掘り下げることもなく、ただ世の中に流され、気付いたら老いて、病を患っていたという現実に直面する。振り返れば、実に内容の薄い、探求心の無い人生を送って来ていることだった。
 そういう人は、人生に対する免疫が殆どなかったのである。そして、死について勉強することすら、怠ったのである。

 人生は、生きることばかりを考えたらいいのではない。生と同時に老いることを考え、病むことを考え、そして死んで逝くことを考えねばならない。
 しかし、これを放棄したらどうなるか。
 これでは死生観は解決できまい。
 臨終の土壇場に坐らされて、じたばたするのは、この種の人である。

 この種の人は、意地があり、負けん気があり、かつ依怙地で頑固であるが、直截的な立ち振る舞い方を知らないため、結果的に息詰り、どん詰まり、土壇場に来て二進も三進もいかなくなる。憤懣やる方ない人生で最後を潰える人が多いようである。
 残念なことに、怒り心頭にきた「狂」の、持って行き場を知らなかったためである。

 それは「知」で負けたのではなく、また「行」が悪くて潰えたのでもない。それが根本的に出る心の本体の所在が明確でなかったためである。
 つまり、学んで「知」を知り、学んで「行」の何たるかを知る。それを知った上で、智慧としてこれらを集積する。集積したものが見識となる。そしてこの見識をどう用いるかである。そこまでの努力が根本的に抜け落ちていたのである。

 知識から学んで見識を知り、それを智慧に変換してその智慧を充分に堆積させる。その堆積させたものを自在に操る操作をする。その操作の発露は、飽くまで心の本体である。発露は常に心に帰属する。「まごころ」である。

 「まごこと」をもって行動する。
 況
(ま)して行動にも言動にも、二心がなく、二言が無い。極めて無垢で、純粋で、心の鏡は曇っておらず、濁っておらず、物事を正確に映し出す準備が整っている。この準備万端の状態にあって、「まごころ」という見地から総てを包含し、包容し、然も寛大さまで備えている。聞く耳の準備も整っている。多くを聞いてやろうと思う。訴えを門前払いせず、根気よく、よく聞こうと思う。

 更に、質素倹約に励み、慎みを知り、かつフランシスコ・ザビエルは言ったように、清貧を旨としている。
 ザビエル神父は言った。
 「日本人にはキリスト教国民のもっていない特質がある。それは武士が如何に貧しくとも、その貧しい武士が、豪商と同等に尊敬されていることだった。清貧なる貧しさを、少しも恥だと思っている人はいなかった」と。

 この神父は、当時の日本人の「清貧」さについて、驚きと感激の念を表しているのである。
 これはまた、生と死の二元大局が導いた「死生観を解決した胆力」であろう。その胆力を知る「胆識」を弁
(わきま)えた思想でもあった。あるいは揺らがない心の「不動心」であろう。
 日々、死をわが心に充
(あ)て生きる。これこそが、依って以て死ぬ道である。仮に、その道に殉じて斃(たお)れたとしても悔いの無い生き方である。この生き方こそ、根底には「胆識」が存在していたのである。

 こうした胆識は、感覚による閃
(ひらめ)きなどから発する悟りでない。
 況
(ま)して“生悟り”から来るものでもない。感覚をもって閃きから起こる思いつき的な悟りは、これを開こうと努めれば、仮にこの方法で悟りが開いたとしても、やがて直ぐに迷いが生じてくる。而して永遠的なものでない。
 心の本体と連動されていなかったからである。
 斯くして再び迷いが起こり、結局、閃きから起こった悟りは生悟りであったと言うことを思い知らされるのである。

 生悟りは、根元に欲が巣食っている。
 こうしたいとか、こうなりたい、こうあるべきだという欲がこびりついていて、それが他に影響を与えようとする。つまり主義主張のようなものである。
 他者に耳を傾けず、かつ独善的である。
 独善的なるが故に、心に巣食うものは欲望であり、結局は私利を計る売名行為や名誉欲のようなものに化し易く、無垢なる本然の心は二の次になってしまう。無私が失われる。利己となる。

 日本人は勤勉だと言う。
 今でこそ、勤勉は死語に近くなったが、少なくとも昭和三十年代から四十年代にかけての日本人は、とにかく勤勉だった。戦後の復興のためによく働いた。
 だが、勤勉と言う意味を解釈すれば、本来は実践に励む道徳と解すべきであるが、残念なことに世間から、あるいは世界から、財産を増やすために働く手段と誤解されたようである。
 現にこのとき日本人は、エコノミックアニマルと揶揄
(やゆ)された。国際的侮蔑語である。これに当時の企業戦士は甘んじたのである。

 また、倹約と言えば、本来は利益に趨
(はし)らないと言うことであったのだが、世間では、これをケチと称した。
 つまり、勤勉も倹約も、小人
(しょうじん)感覚から感得すれば、私利を計る道具と看做(みな)されたのである。残念な事である。

 だが、こうした中にも、誠実であり、至誠を貫けば、また別のものが見えてくる。
 相手が小人であったとしても、相手を誠心誠意、信じれ対応すれば、仮に相手が極めて狭量なる人物であったとしても、こちらは誠実に対応し、至誠を貫いたのだから、「まこと」を致したことになる。
 ところが、相手を狡猾
(こうかつ)な人間かも知れないと疑って懸かれば、あいては必ずしも狡猾でないにも関わらず、こちらが疑って懸かったのだから、こちらは相手以上に狡猾な振る舞いをしたことになる。

 かつてある国の宰相が「騙されるくらいなら、こちらから騙してやった方がましだ」と言ったが、これは誠実なる至誠を貫く人間のすることではあるまい。
 知行合一も、このようにして胆識を検証していけば、何を以て胆識と言うか、徐々に正体が明快なってくる筈である。

 胆識に至るプロセスは、最初、知識から始まった。知ることから始まった。
 知識を得て、蓄えた知識を智慧に変換するために、腹に蔵
(おさ)める作業をした。ここでの知識は、単に記憶する断片的な知識でない。有機的結合を持つものである。

 そもそも知識とは、本を読んだり、他者から話を聞いたり、学校で講義を受けて一方的に入ってくるそうした実に初歩的なもので、それ自体では単なる断片であり、薄っぺらなものである。
 況
(ま)して有機的結合性を持たない。途切れ途切れであって、知識として機能するものでない。単に記憶に留めているという程度のものである。

 更に一方的に入ったものであるから、学問の次元にまで達していない。
 学問とは、学べば学ぶほど、疑問が生じて、学ぶと言うことに対して問いが出てくると言うのが学問であるから、一方方向では学問と言えず、単に何らかの事柄を記憶に留めている程度に過ぎない。

 これを見識に変えて次元を高めるには、経験や体験を積まなければならない。
 この積み上げが、やがて見識となる。知っていることだけでなく、その「知」を生かすのである。つまり、陽明学的に言えば「行」である。
 「行」を通じて、知識は見識に変換される。
 しかし、見識を得たからと言って、それで解決したのではない。最終的なものでない。
 「知」と「行」を一致させた後こそ、大きな課題が残されているのである。山場はこれからである。それを次に説明しよう。



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