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陽明学入門 4

一期一会の中に人生がある。一回限りである。
 その日は二度と巡ってこない。したがって、この一回限りに総てを賭
(か)ける。
 桜はそういう「一期一会の花」である。

 一期一会……。
 生涯に、ただ一度だけ見
(まみ)えることをいう。
 縁とはそういうものである。
 季節は確かに四季を廻る。だが、今年と翌年は同じものでない。去年とも異なる。その年限りの一回限りである。言わば、一度
(ひとたび)だけのことであり、今だけなのである。
 そして「縁」は、たった一回の邂逅
(かいこう)による。
 これこそ「何かの縁
(えにし)」である。つまり一回限りの縁である邂逅である。

 季節は廻り、四季は繰り返すが、繰り返しても、何一つ同じ季節は廻ってこない。風景は毎年同じように映るが、決して同じものでない。人生もこれと同じである。
 人生を味わい楽しむ喜怒哀楽の中には、王陽明が言わんとした真理が自然の中に存在する。鋭敏なる観察眼こそ、賢者の知であり、理
(ことわり)である。見逃すべきではないだろう。大自然の変化の中にこそヒントがあり、またその人の護身能力までもが問われるところである。

 幾ら首から下の肉体が頑丈でも、花火大会に出掛けて将棋倒しの惨事に遭えば圧死することもあろうし、あるいは火山にトレッキングに出掛けて噴火に遭遇すれば火砕流の猛威に灼
(や)かれることもあろう。

 人の集まるところには行くな。人が込み合う時期は避けよとは、実に古人のよき明言である。
 一回限りの幸・不幸を司る「縁」に注視し、その見えない部分を洞察することである。有機結合している連続性の見えない部分を探って観じることである。それが「何か」を探求することである。

 では何をか。
 真理は「縁」の中にある。禍福は糾
(あざな)える縄の如しの中の因縁に隠れる。縁こそ人生の出遭いであり、幸も不幸も綯(な)い交ぜで、それはの一回限りの、善きも悪きも「縁」である。

 世の凡夫がよく言う、「明日があるさ」ではない。見逃したものは戻って来ない。明後日すらない。今日であり、今である。この今の「縁」をどう捉えるか。
 禍福はこの中にある。
 洞察一つで、その後の運命も変わろう。対処一つで迎えることもあろうし、逃がすこともある。

 今を失う者は一生を失う者である。
 今は……、今日は……、その時その場限りのもの。もう再び廻ってくることはない。縁も同じである。総ては縁起より出
(いず)る。禍福はここより始まる。



●傍観者

 人間として生まれて来て、一番恐ろしいものは何か。
 一番恐ろしき、筆舌に尽くし難い恐怖は、どういうものだろうか。
 それは残酷な戦争の惨状であろうか。それとも幽霊などの化け物、あるいは実
(げに)に恐ろしき魑魅魍魎(ちみ‐もうりょう)などの類(たぐい)だろうか。
 または肉食系の、弱者を軽視する強持
(こわ‐も)ての、その種の性格粗暴者だろうか。更には、過激思想に染まる人のことであろうか。

 人間界で一番恐ろしいもの……。それは何か。
 実に恐ろしきもの……。
 言わずと知れたことである。
 それは人間界に生息しながら、何もしない人間である。何事も為
(な)さざる無行動・無関心なる、世の中を厭世観(えんせい‐かん)で傍観する傍観者であり、無気力なる“しらけ人間”である。良知を致さぬ、良心を眠らせた者である。

 思考しない。行動をしない。見て見らぬ振りをする。考えも無く、善悪を考えることもしない。
 現代の世に一番多い、「ただ人の真似だけしていれば安全とか、それが無難で間違いがない」と思い込み、短見なる安直な考えに取り憑
(つ)かれ、“人がしていることを真似だけしていれば、間違いない……”と高を括(くく)り、安全地帯に逃げ込んだ人間である。
 世の中を真摯に生きるのでなく、また人生を語るのでもなく、ただ白々しい眼で傍観だけをしている人間である。
 斯
(か)くして、人は「志」が無ければそうなる。

 志がない。
 しらけて世の中を見る。何事に対しても無関心である。自分には無関係と嘯
(うそぶ)く……。
 世の中の動きの本質を見ない。善悪を正すために良知を致さない。心即理を理解しない。致良知の心の本体を蔑ろにする。物事の上に良知を正しく発揮しない。道理を行うに当り実践的でない。口先ばかりの理想論となる。二言が混ざる。口争いばかりが先行する……。こうした世の中は虚しい。

 それだけで厭世観だけが募る。そういうふうに考える人の世の捉え方は、惨めであり、やがては自殺願望まで持つことになってしまう。
 そして最後は、人間は死ねばお仕舞いよ……となる。
 何と虚しいではないか。

 これはあたかも、生きている時は少しもいいことはなかった。故にこの世に生きて、どんなに苦しんでも、一度死んでしまえば、その後は極楽浄土へ行ける……と思い込んでいる人がいる。念仏宗の考え方である。

 だが、生においてでさえ、楽を得ずして、何故死した後に楽があり得ようか。どうして極楽浄土に辿り着けようか。まさに、これこそ自殺願望を抱く者の心理ではないか。
 人間の死を取り違えてしまった無慙
(むざん)な錯覚から起こった厭世観である。
 未
(いま)だに生を得ずして、死んだからといってどうして楽を得ようか。なにゆえ浄土に辿り着けようか。

 また、かの人は言う。
 「生きているうちは何にも楽しくなかった。何もいい事はなかった。振り返れば下らぬ人生だった。ゆえに死ぬ時だけは大往生してみたい。西方の阿弥陀仏の膝元に行きたい」
 そう願う死は、果たして大往生だろうか。
 これは、死ねば、きっと“わが世の春が来る”と思い込んでいる錯覚である。死ねば果たして、そのような桃源郷があるのか。極楽が存在するのか。
 これは極楽往生を錯覚しているだけでなく、過去世
(かこぜ)を含めて現象界を甘く見ているからであろう。

 甘えの構造の中に自分を閉じ込めていては、墓穴を掘ってしまうだろう。あたかも、信長のように……。
 織田信長は、懐の深い秀吉を検
(み)る目で明智光秀を検ていた。それは甘い見識眼だった。ゆえに、本能寺で寝首を掻かれることになる。
 そして信長の、天下布武の武力統一姿勢は些か傲慢過ぎたのではないか。傲慢になれば、人間は九分通り完成していても、最後の総仕上げでしくじる。
 何事も甘く見ないことである。一寸の虫にも五分の魂である。見下さないことだ。

 ゆえに総てに対して、土壇場に遣って来る荘厳を軽視してはなるまい。問題は、最初でもなく、途中でもなく、最後の最後である。この最後を甘く考えないことである。
 だが、世に「最後」を甘く考える人の何と多いことか……。

 死ぬ時だけは大往生してみたい……。
 甘い考えであり、果たされぬ願望であろう。
 あたかも、一年中貧乏をしている人が、せめて年末と正月だけは金持ちになりたいと願う気持ち……。一年中病気ばかりしている人が年の初めだけは清々しくありたいと欲する気持ち……。
 これは最後を甘く見ているから、現実的でない果たせない気持ちを抱くのだろう。
 こういう願望だけで、最後がどうして荘厳であり得よう。
 今を蔑ろにしているからである。今を見逃しているからである。今を正さずして、どうして最後が荘厳であり得よう。

 世の中に、「思い立ったが吉日」という言葉がある。
 その「吉日」は、今しかないからである。「今」を真剣に生き、今を明日に廻さないことである。今を蔑ろにしないことである。
 行動をする人間は、「今」を最高の秋
(とき)と考え、「今」を先送りせず、「知」と「行」を一致させることである。両者を一筋にすることである。

 「明日があるさ」ではない。実は「今しか無い」のである。
 遣れば出来るではない。「必ず遣ろう!斯
(か)くして出来る!」であろう。
 遣りもしない者が、思い込みの未来形で何が出来ると言うのか。出来る訳がない。
 今のことを安易に先送りしてはならない。
 今を見逃してはならない。今と言う、今日と言う吉日を、明日に送ったり、明後日に求めてはならないのである。
 今日を知ったら今日しか無く、今を知ったら今しかない。今は、明日や明後日にあるのではない。今は、「今」しかない。

 しかし世の中には、九星気学のような占いを殊更
(ことさら)信じて、「今日は日が悪いから先に延ばそうとか、あの場所に今日行くのは方位が悪いから、方位のいい日を選んで……」などと、その日を蔑ろにして、後日に持ち越そうと考える占いマニアが居る。
 こうしたマニアは、今日を、今を、無駄に見送る人である。人生を無駄遣いしている人である。そして、今日は何もしない。結局、一生を何もしないで終わるのである。
 果たして恐ろしい考え方に取り憑かれたものである。
 何故なら、歳月は人を待たないからである。
 知行合一の発動のときは、「今」しかないからである。

 今を見逃す場合に多いのは、「理」を客観的に捉え、物事の縁起を主観的に求めなかった場合である。つまり、「知」と「行」が分裂している場合である。
 知行を分裂させている人に多く見られることは、功績や手柄を誇り、また自分の学的や学閥をひけらかす人である。また自分の知識力を自慢する人である。そして人間としての価値を外側だけに需
(もと)める人である。
 一部の陽明学研究者にも見られるようだ。
 そして二言目には、知行合一を持ち出してくる。そのうえ心の本体を不在にしたままで……。

 知と行の合一。
 これは朱子学以来に持ち越された「知行論」にも重大な問題を提起し、朱子学の知行論は知と行の両者が一致しない場合が多い。心の本体が不在であるためである。

 朱子学で言う知行論は、理を客観的に求めたことにある。
 ゆえに、主宰し、それを実行する主宰者が不在である。心からいずる主宰者が不明確である。単に、客観界に事物を求めているからである。傍観し、観測しているに過ぎない。
 少なくとも、心から……ではあるまい。



●知行合一

 一方、陽明学は晩年の王陽明が提起した「致良知説」の先蹤
(せんしょう)になった如く、孟子をよく理解したことから起こり、陽明は心即理説を、更に「致良知説」へと展開させたことは、まさに儒学としては革命的だったと言えよう。
 これを基底にしたことは、その後の儒学に大きな一大変革の方向性を与えたことになる。陽明学の思想は、此処から始まったと言えよう。その代表的なものが「知行合一説」である。

 しかし、知行合一のその真意は、意外にも難しく、それを体感的に理解することは容易ではない。知識で認識することではないからである。
 知行合一を体感するに当り、あたかも心技体を連想させる。それはまた、心技体の一致や一体化を想わせるからである。

 昨今の武道で言う「心技体」は、これを重視するべき重要事項と挙げ、精神・技術・肉体の三つの要素の一致ならびに一体であることを説いている。
 御尤もなことで、斯く非
(あら)んと言うべきだが、何ともこれがまた釈然としない。
 心技体……。
 以上の三者の一致……。
 こう論ずる以上、御尤もと言う他ない、

 だが、心技体の根本なる所在が不明である。根本なる所在は、一体何処なのか。何処に所在するのか。
 心なのか、技なのか、躰
(からだ)なのか。
 何ともその根本が釈然としない。

 例えば、近代剣道を挙げ、剣道書籍を読んで検
(み)ると、興味深い文章に行き当たる。
 この書籍には次のように記されている。
 「一剣は万剣を生み、万剣は一剣に帰す」と。
 これを俚諺
(りげん)と称している以上、往時からこの諺(ことわざ)は存在したのであろう。
 しかし、不明なところがある。
 果たして、万剣を生む、最初の一剣は何処から生ずるのか?……。何から起こるのか?……。
 この最初の一剣は、何処に帰属するのか?……。それはどう言う性質のものか?……。
 あるいは有機的なる形態をもち、隠れた部分に根元があるのか?……。
 更には、知から起こるのか、理から起こるのか。

 しかし、この剣道書籍は、これを「基本に始まって基本に帰る」としている。
 つまり、「基本」とは何処にあるのか?……。何処を発信源とするのか!
 この基本の所在を明確にしていない。あるいはこの著書を書いた作者自身が、基本の所在が明確でないのでは?……との疑問が生ずる。伝承された言葉だけを記憶しているのか?……と。
 果たしてこの著者の言う、基本の所在ならびに、一剣の出所とは何処から発するものであろうか。その所在が明確でない。

 次に、この書籍は心技体を「三殺法」と言う名で紹介し、「三殺法とは相手を攻める方法で、気・剣・技の一致が最高の打突
(だとつ)なので、相手にこの一致をさせないように気を殺し、竹刀を殺し、技を殺して攻める」とある。
 これは剣道の判定で言う、有効打突のことか?……。
 それは何処から出るのか。
 分ったような分らないような、つまり、攻める刹那
(せつな)の出所である。これは何処から出るのであろうか。
 果たして「気」なのだろうか、「剣」なのだろうか、それとも「技」なのだろうか。何
(いず)れが本体なのであろうか……。

 注釈として、剣道の古伝の教えとして、「気・剣・体」を示し、「心・気・力」を示し、更には「一眼・二足・三胆・四力」など説明しているが、これらは何処から発するのであろうか。
 また、これらが一致するとして、その一致の所在は何処なのか。

 更に、「剣道の技術は、技と間合と機会を集中一致させたもので、固定した技を絶えず変化させて……
(中略)……変化している間合と機会とに一致させ、目標を捕える動作である。このために稽古の苦しみがあり、成功したときの喜びを感ずることができる」としている。

 苦しみ……成功……。その所在は何処か?……。

 さて、行動する以上、躰
(からだ)が伴い、物理的な現象により、躰を伴わせて動いてこそ、その人の行いは主宰者となれるのである。知識を捏(こ)ねくり回したところで、主体不在では、実践が伴わず、ただの机上の空論になってしまうのである。
 また、気・剣・体と論ずる以上、その主宰・主体が明確でない。出所が釈然としない。

 これと同じように、知行合一の説明や解釈である。
 一応の陽明学の研究者でも、「知行合一」の説明や解説を「知っていることは、必ず行うことである」と説明したり、「知と行が緊密に結びついて、これが均等に一体化していることである」と解説する人がいるが、これは朱子学の『知行論』の説くところと殆ど同じで、陽明学的なる説明ではない。
 この程度の説明や解説は、朱子学者でも、誰もが口にするところであり、陽明学としての確たる説明にはならない。

 陽明学の見地から論ずれば、知ることにせよ、行うことにせよ、人間の行動原理の基底には、本心・本然の根元から実行に至ったということであり、問題にされるべきは本心であり、あるいは本然そのものである。

 一般的に、しばしば論じられることであるが、『陽明学』は単に実践的性格をもった行動哲学と解されているようだが、一般論として、実践的性格を挙げるならば、朱子学にも「知行論」の中で論ずるように、それなりの実践的性格を充分に兼ね備えているのである。実践的性格は、何も陽明学だけの専売特許ではない。
 つまり、両者の実践的性格なるものに対しての優劣を競うのは、知行合一を説くだけでは適切ではない。

 問題にすべきは、客観界
【註】総ての主観に客観的実在を反映し、その反映の背後に知識があるとする普遍的妥当性を論証する領域界)の事物に準じた、単なる知識によって行動が発せられるのではなく、行動の根元が、何処にあるのか?……が問題になるのであって、安直に考える知と行の一体ではない。その一体を説くのは、むしろ朱子学の得意とするところである。
 朱子学でも、「知と行の一体」を力説している。

 陽明学が問題にしている点は、「知と行の一体」ではない。
 また、それらの一体化を説いているのでもない。
 陽明学では、根元が「本心または本然か」に焦点を当てているのであって、ただ知と行の一体化を論じているのではない。最大の関心事は、単純明快なる「本心または本然か」である。

 つまり、心を疎外した知行は、それが如何に博識の域に達し、名分で綴
(つづ)られ、あるいは篤実な行いであっても、更には、忠実なる行動が伴っていても、心から出ていないものであれば単に、虚飾・装飾に過ぎないということである。その種のものは、心を満足させるに至らないのである。陽明学では、この点を重要視する。
 したがって、仮に、知と行が一致していても、陽明学で説かれる「知行合一」とは似ても似つかないのである。

 陽明学は心一筋であり、心一本であり、心に二心のないことを強調するのである。
 ゆえに、知と行が分裂していないことが何よりも肝心であり、更には、分裂させない心が一筋であることである。知と行の二筋ではない。一枚岩であり、一つの岩から出ている以上、岩は岩である。一枚岩は、岩以外ではあるまい。
 徹頭徹尾、最初から終わりまで一筋なる心であり、その源流は、心から発した一筋なるものなのである。陽明学の知行合一は、心一本の「本体」と言うのである。

 一般に、陽明学の知行合一を解する場合、「知」と「行」の二文字に囚われて、これを相対させたり、両輪の輪に据えて、両輪無くば……などのこの解釈で論ずる研究者が居るが、これでは的を得ていない。
 つまり知と行の両輪ばかりに解釈の焦点を当て、これのみが主力に置かれ、背後に隠された有機的なる結合部分を、多くの研究者は見逃しているようである。そして最初から、心など念頭に置かずに説明している人も多いようである。
 こうした研究者の多くは、人間の本然である心を軽視しているからであって、陽明学を、単なる知識に留めているからであろう。

 したがって、重要なのは『伝習録』上巻に出てくる高弟の徐愛
じょあい/字は曰仁(えつじん)、号は横山。中国明代の陽明学者で、伝習録序文と上巻十四条の筆録者。陽明と同郷で、早くから陽明に師事し、陽明の妹を娶った。また陽明から、「曰仁はわが門の顔回だ」と評されたが、奇(く)しくも顔回(がんかい)と同じ31歳で病没している。1487〜1517)と陽明との知行合一に関しての問答で、師匠・陽明は「知行の本体」と論じていることから、「本体の知」ならびに「本体の行」が共に合致し、これが一本化され、かつ、その根元が「心」であるとして、「本体」の正体を明かしているのである。
 この正体こそ、心であった。本体である心は、朱子学には登場しない。



●知行合一が働かない条件

 縁は起こらないことがある。縁は結ばれないことがある。縁は失われることがある。
 それはどういう因子から来るか。
 大将の器でない者や、『陽明学』を単なる知識として捉え、暗記的に言葉や専門用語を知っているだけの者が、この学を勉強した場合である。
 更に、本体の「心」が伴わない場合である。心を軽視した場合である。
 学問をしたと言っても、知っているだけのことであって、心が伴わなければ知識の範疇
(はんちゅう)を超越することはない。死んだ知識である。見識に応用できない知識である。

 この種の者が、陽明学を勉強したとしても、それは知識として、記憶に留めたに過ぎないからである。この場合、幾ら“知行合一説が、陽明学の中心課題”だと認識し、その課題だけを知識として記憶していても、この行動哲学は全く用を為
(な)さない。心と言う本体不在であるからだ。

 陽明学は「知」と「行」の本体を心をするのである。
 それは先ず、心の清掃から始まる。その清掃は、心からこれまで蓄積された固定観念や先入観などの思い込みを駆逐して、雑念や雑想を追い払うことから始まる。これを駆逐することで、本来の自分の真の姿が見えてくるからである。「まごころ」を映し出すためである。
 これまで見逃して来た雑念や雑想を、一杯詰め込んだままでは、自分の真の姿を観
(み)ようとしても不可能である。

 それはあたかも、波風が立っている水面に月を映してみるようなものである。
 雑念や雑想を駆逐しないで、固定観念や先入観などの思い込みが波立っていれば、心の澄んだ月など映し出せようが無い。「まごころ」を発露させるには、まず心を澄みわたらせることである。

 また、心を濁ったままで状態にしておいて、仮に波風を止めて澄ませたとしても、心の映る月が曇った月であろう。それは心と言う鏡を雲らせてそのままにして、月を映し出そうとするようなものである。果たしてその月は、「まごころ」に映し出した月と言えるだろうか。
 「まごころ」こそ、陽明学の最初に行うべき心術鍛錬だった。

 何故なら、陽明学は賢人智謀の「行動学」であり、大将の器を持つ者だけが理解しうる『帝王学』であるからだ。
 この器に非
(あら)ざる者は、幾ら知識として、何処に、何が書いてあるか知っていたとしても、それは実践学にもならないし、行動学にもなり得ない。知である。そして、その知は、固定観念や先入観などの思い込みによって汚染されている場合が多い。
 だが、汚染されていても、朱子学で言知行合一は果たせる。

 現に、記載されたページを開けば、その行為は行であろうが、それ以上の何ものでもない。
 心不在であり、人間不在であるからだ。その知も行も濁ったままで、心の鏡は曇ったままであるからだ。
 曇らされていては、正確は極めない。況
(ま)して、陽明学で言う知行合一などあり得ない。

 更に言及すれば、“知行合一が働かない条件”に、最も顕著なのは、例えば解り易く言うと、「自分の一ヵ月先、二ヵ月先の行動計画がはっきりしない」と考えている人である。多忙を口にする人である。
 仕事の多忙に忙殺されていては、心に主体性がなくなる。

 陽明学で言う「まごころ」を発露させるためには、まず余裕か肝心であり、譬え仕事に忙殺されていても、心に余裕を持ちたいものである。心の余裕を持とうと思うなら、普段から心術の鍛錬をしておいて、心に安定を確保しておかねばならない。
 周囲が騒然としていても、また夜の喧騒などの雑音に悩まされず、自己に「まごころ」の澄み渡った境地を確立し、落ち着きを得る心術を鍛錬しておかなければならない。暇を見付けては静寂なるところで、澄み渡る心を維持し、確保すべきであろう。

 しかし残念なことに、現代の世は、何処も彼処も騒音塗れである。
 更に困ったことは、日本文化や日本精神が忘れ去られ、マスメディアの大半は公共放送を通じて、欧米文化である躰を揺するような音楽ばかりを流している。時には、脳の静寂を破壊するロック調の騒がしい音まで家庭の茶の間に送り込んでいる。静寂の確保が難しくなり、心の鍛錬に不適当な環境が、都会のみならず、地方の田舎にまで都会化が押し進められている。
 そうした現実に、現代人は都会の喧噪から離脱して工夫することも要求されているようだ。

 心に主体性を持つことを「心術」と言う。これは静寂な中で鍛錬される。
 主体性の無い心では、自己を見失う。
 また客観界に頼るような心では、心までが諸々の知識や環境や事態の変化に振り回されて、心の主体性は確保できなくなるであろう。

 つまり、こういう人は、自分の人生を自覚しつつ生きていないのである。単に、傍観者のように客観界に心が奪われているのである。ゆえに自分の人生を自覚せず、心に主体性が無いと言えるのである。これでは、知行合一など働きようが無い。

 二言目には、陽明学だとか武士道だとかをほざくくせに、高々自分の一ヵ月先、二ヵ月先の行動計画が示せないようでは、自ら人生を懸命に、かつ真剣に生きていない証拠でもある。

 それだけに世の中を甘く見ているだけでなく、自分までもを「甘えの構造」の中に閉じ込めて、この世に生きる自分を客観的に傍観的に検
(み)て厭世的に生きているのであろう。
 例えば、「俺の人生はこんなもの……」というような諦めと、また柵
(しがらみ)に重さを観じつつ……。
 自身が背負う家族・種々のローン・地位や名誉などの柵を重く観じている人は、現代特有の現象かも知れない。
 これは「中くらいの生き方」ではなく、悪しき中途半端な生き方である。そして、己のための人生である筈なのに、柵のための人生になってしまっているのである。

 口では、実践第一のようなことをいいながら、実は示せない理由に、仕事を持ち出したり、多忙を持ち出したり、はたまた家庭サービスや家族旅行を持ち出したりして、そのせいにして行動計画が示せないとする人がいるが、こういう人は、自分の足許
(あしもと)に火が点(つ)きながらも、まだ寝ているような人である。
 当然、これでは無防備であるから、不意の事故や事件に遭遇しても、これらが感知できずに巻き込まれて、下手をすれば命を失う人であろう。
 つまり、「自分の命の値段」が分っていない人である。

 知と行を分裂させていては何もならず、それが一体化していても、心が波立っていたり、曇ったり、濁っていたりでは、本体である心が「まごころ」状態になれない。斯くして「まごころ」から出た行動が行われなければ、二心があることになり、二言があることになる。
 心の二つあってはならず、言に二つを吐いてはならず、また真の心の主体性を損なってはならず、更には喜怒哀楽が欠如していたのでは、分裂以前の問題であろう。その程度の在
(あ)り来たりでは、隠れた部分に存在する有機的な繋がりなど見抜ける訳も無かろう。先入観で汚染されているだけである。

 知と行の二筋どころか、最初から分裂に至る次元にまで達していないからである。単に暗記のレベルで知っているだけで、全く人間界で応用が利かないのである。お粗末と言う他ない。

 では、大将の器とは何か。
 単に、リーダーシップだけでない。
 指導者としての地位または任務の座に就き、その統率力や能力を発揮して、全体を取りまとめるだけのことではない。更には、力倆
(りきりょう)や資質が問われて、経験が物を言うのでもなければ、才能が物を言う訳でもない。況して暗記力や記憶力の善し悪しは問題ではない。

 根底には「まごころ」が無ければならぬ。「まごころ」の発露が無ければならぬ。
 人間の世の喜怒哀楽を理解する心と情を解し、「誠」があってこそ、はじめて指導者と言えるのである。単に古くからその道に居て、古参であるというだけでは、大将の器を満たす者としては不適当であろう。居る存在ではなく、誠を発露する存在でなければならない。

 つまり、地位も適当にあり、任務遂行に当り申し分なく、指導者としての資質、人生体験や経験、能力や才能、それに術科的な伎倆、全体を掌握する統制並びに統率力を兼ね備えた人物こそ、まさに大将の器であり、その中心には人の心情を知り、これをよく理解し、大きな志を持っていることである。
 志の成就を全うすることこそ『帝王学』の要
(かなめ)であり、役職を欲しがったり、地位や社会的名誉を欲しがる輩(やから)は、その限りではない。底辺に位置する、最下位レベルよりも、悪質と言えよう。



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