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陽明学入門 3

至誠……。
 至誠は、先ず自分の「居住まい」を正すことから始まる。
 静坐し、静から動への「行い」に至る気勢を確保する。
 そのとき坐の姿勢を正し、良心を観じ、それが心と連動していなけばならない。行いは、心より発する。

 知行合一……。
 それは中心に、「まこと」が貫いている態
(さま)を指す。一体であることをいう。知と行が分裂していないことを言う。二筋ではなく、一筋である。

 中心を貫く。真理に迫る。
 それは日本独特の真
(まこと)に対する思考概念で、また嘘や偽りのない「まごころ」の現れであった。
 そして「まごころ」は、あらゆる先入観や固定観念、更にはこれまでの思い込みを一切捨てて、無垢になる心の状態から発露するものであると解釈された。

 それはまた、朱子学の「理」のみを中心課題に据え、理優位主義の、文化的装飾や道徳歴に美辞麗句を並べる概念的虚飾を廃し、人とは、人の心とは、どうあるべきかということを真剣に向かい合う真摯な姿勢を示すものが「陽明学」であった。
 「陽明学派」は理優位主義の、知識優先の、例えば“専門主義”とか“専門家”といいう知識一辺倒の、それだけの論理に留まる輩が後生大事に、挙げ奉る、この種の「理イコール科学的」という科学一辺倒主義に反旗を翻したとも言える。

 人は、本性や本然を隠す生き物である。
 矛盾し、虚実があり、裏表があるのが人間である。ゆえに表だけを見せて、虚栄を張る生き物である。しかし、この次元に留まっていては、人格の向上はない。
 ゆえに虚構に酔ってはならぬ。
 知識階級の権威筋の美辞麗句に惑わされてはならぬ。自分の行為や行動に迷いがあってはならぬ。横槍を衝かれて、直ぐに信念を曲げるようなものであってはならぬ。

 「志」は最後まで貫け。志こそ行動原理である。
 こう教えるのが、陽明学の「まごころ」であり、誠であり、誠を更に発展させての「至誠」であった。

 至誠こそ、日本人の行き着いた最終結果であった。
 至誠は、「まごころ」によって発露される。「まごころ」は無心なる、無私なる心から起こる。

 ゆえに心の片隅に蔓延る「雑念雑想を棄
(す)てよ」と説く。
 これらを一掃するためには、先ず無垢となり、謙虚になり、真摯を投入し、虚心をもって「まごころ」を発露させよとある。それは良心に遵
(したが)い、虚勢も装飾もない、ありのままの状態から、自らを修養させねばならぬ説いたのが、「陽明学」であった。



●良心に誓って

 明治維新は外圧によって起こった。幕末の倒幕運動は、西欧列強の植民地主義や帝国主義から始まった。
 これまでの燻
(くすぶ)っていた尊皇攘夷思想が、外圧によって、一気に燃え上がったのである。
 西欧列強の圧力こそ、日本を脅かす外敵となり、国難となったのである。
 世は、西欧列強が仕掛けた阿片戦争で中国大陸は、てんやわんやの大童
(おおわらわ)だった。そして、遂に奪われた。その次なる鉾先は、日本に向いていた。日本危うしとなった。

 阿片戦争は、清朝の阿片禁輸措置から、イギリスと清国との間に起こった戦争である。そして遂に清国が敗北した。その敗北の結果、次ぎなる鉾先は日本に向いた。西欧が狙いをつけた鉾先は日本だった。

 また清国は、強大な西洋の科学技術に屈し、列強との不平等条約締結したうえに、中国の半植民地化の起点となるのである。その不平等条約は南京条約
【註】阿片戦争の清国の敗北の結果、1842年8月、長江上に停泊したイギリス海軍戦列艦コーンウォリス艦上で、イギリスと清国の間に締結された条約であり、実質上は香港の割譲さて、更に広東(カントン)・廈門(アモイ)・福州・寧波(ニンポー)・上海の五港の開港が要求され、賠償金の2100万$を四年分割で支払いなどを約した)が顕著である。
 日本も、西欧列強の次なるターゲットにされようとしていたのである。これは元寇以来の国難であった。

 その危機を声を大にして訴えていたのが、吉田松陰らの兵学に通じた志士達である。
 松陰の眼目は、常に海外事情に注視していた。西欧の動きを注目していた。
 安政元年
(嘉永7年/1854)、ペリーが日米和親条約締結の為に米艦渡来の際に、松陰は足軽の金子重之輔と共に下田で、密航を企た。その結果、捕らえられ、野山獄に幽囚された。
 後に萩の松下村塾で、幕末・明治期の指導者
(久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義ら)を教育した。

 また安政五年
(1858)には、幕府が朝廷を無視して、無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、老中首座である間部詮勝(まなべ‐あきかつ)の暗殺を計画するが、果たしても弟子の久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)らが反対して、襲撃の同調ならず、暗殺計画は頓挫する。その結果再び捕えられて、野山獄に幽囚された。
 そして松陰は、安政六年
(1859)には安政の大獄に連座し、江戸に檻送(かんそう)され、評定所で取り調べの結果、斬首刑が申し渡された。享年三十(満29歳没)

萩の街 松下村塾

 この間、「陽明学」は日本では、松陰を含めて熱心に読まれていた。実践学あるいは行動学として、その真価があると看做されていたからである。松陰は陽明学に通じていたよ言えよう。その影響力は、松陰が死した後も継続した。
 そして、日本陽明学派の中江藤樹以来の日本流に解釈された『陽明学』は、一方で、世の腐敗や不平等を正す革命的な学問として、幕末に開花したと言えよう。
 現に、明治維新はその顕著な現れであった。一つの革命の嵐として、時代を吹き抜けて行ったのである。

 ところが、中国では陽明学は忘れられていた。王陽明以来の陽明学は、清朝期には中国人民から忘れ去られる運命を辿っていたのである。
 だが、清朝末期の動乱期の日清戦争以後、明治日本に、清末の知識人が注目するようになると、中国本土では、再びこれまで衰微していた陽明学が注目されるようになった。
 日本が日清戦争に勝利した頃からである。そして日露戦争に勝利した。
 果たして日本の勝利の秘訣に、陽明学か絡んでいると検
(み)たからである。

 明治期において、中国からの留学生が増加の一途を辿るが、そうした学生達にも、この明治期の陽明学熱が伝わり、新しい中国の国造りを考える若い思想家や社会運動家の多くは、日本陽明学を自国に持ち帰って逆輸入し、以降中国でも盛んに読まれるようになった。
 佐藤一斎の言葉を借りれば、松陰の「死して朽ちず」は継続していたのである。

 後に『今文公羊伝』
【註】しゅんじゅうくようでん/孔子の弟子子夏が、公羊高に伝えた学。また孔子の理想を現実の政治に実現しようとする政治思想)を掲げる康有為こう‐ゆうい/清末民初にかけての思想家で政治家。更に書家。1858〜1927)は、吉田松陰の『幽室文稿』【註】安政五年の文集で、幕府の開国政策を非難し、兵学者の立場で、西洋の進歩的兵学採用を訴え、更に西洋歩兵論は足軽・農民の登用を説き、後に高杉晋作が結成した『奇兵隊』発想の基となる。松陰なくして奇兵隊は生まれなかった)を含む陽明学を研究したといわれる。
 近世において、吉田松陰の与えた影響は日本列島だけでなく、大陸にも、半島にも、広く深く、隅々まで影響を及ぼしたのである。

 日本では近世、幕末から明治の中期に掛けて、日本人は「良心」について問うようになった。
 特に良心に問う思想は、幕末から明治期においてである。
 キリスト教国などと違い、日本では「神の名にかけて」と誓う変わりに、「良心に誓って」という、善を命じ、悪を退ける道徳意識が盛んであった。

 これは一方で、脱亜入欧の福沢諭吉らの西洋紹介の思想の影響も当然あろうが、その根本には、奇
(く)しくも陽明学があった。陽明学の「良知」が多大な影響を持ち、この思想が往時の日本人に定着していったのである。

 自らの良心に事の善悪を問い、その良心で判断し、良心の命ずるところに遵って行動を起こす。これが日本人の行動原理であった。
 良心に恥じないことをしたい。日本人の心ある者の考え方であった。

 そして、この行動こそ、「天」であるとしたのである。天の働きであるから、天の働きに通じた良心は、そのまま天であるとしたのである。
 ここに一個人の欲望を有する「私」など存在せず、無私として、天の命に遵
(したが)うという思想が、その当時の時代を動かした。

 人の世は、今を満足し、今に留まり、今に定着し、そこで安心しているだけでは危うくなる。
 あたかも、流れる水が停滞すると、やがて腐れると言う現象を起こすのと同様であり、人の世は変化を常とする。

 この「腐れ」が世の腐敗を招き、人の心まで腐らせて、この腐れた澱
(よど)みは次々に伝染し、世の中全体を覆うことになる。旧(ふる)きものは権力に胡座をかき、安座を好み、新旧交代の新陳代謝を停滞させ、慢性病化するのである。
 こうした沈殿状態に対し、ある種の抗体勢力が働き、耐性作用が発生する。作用に対して、反作用の現象界の、起こるべき現象である。現象界では固定化を嫌い、支配的になることを嫌うのである。

 この現象界においては、人間とて例外ではない。人間すら現象界の一員である。
 人々の心が荒
(すさ)び、澱み、腐敗すると、それに抗(あらが)って相反する力が働くようになる。反作用である。作用が働けば働くほど、反作用の反動も大きい。
 時代で言えば、幕末から明治に掛けてであった。
 またこの時代、海外から外圧が懸かったため、その動きは早められ、一種の刺戟剤になったことは否めないだろう。西洋の体系科学に対しての、反動とも言うべき日本精神運動であった。これが尊皇攘夷であった。
 このようにして近世の日本では、陽明学の影響が、実に大きかったのである。
 陽明学は、心に焦点を当てたために、日本人は良心とは何かということに覚醒したのである。

 しかし、陽明学の根本思想は「良知」であり、西洋の理詰めで論議を展開する、論理主義ではなかった。行動主義であった。あるいは実践の名をもって行われる、行動においての「狂」すら認める一面があった。

 一方で誠を示す「まごころ」が、遂に日本では至誠にまで変化した。
 つまり、陽明学の良知は誠実であり、日本に至ってこれが至誠にまで変化した。したがって、誠実と至誠を比較すれば、微妙に異なっていることが分る。
 何故なら、人の行いの中に、次ぎなる時代を変革する起爆剤の「狂」があり、狂は中心を貫く、何処までも「まごころ」の狂でなければならなかったからである。中心を外しては、「中庸」から外れるからである。

 此処に、王陽明の問題にした良知と、日本人の考えた「狂」に依って致す「まごころ」の日本人特有の極地は、微妙なるズレの意識があり、そのズレが倫理観まで影響を及ぼし、遂に、至誠に至った。
 これを「まごころ」の極地と解してもいいであろう。
 まさに吉田松陰の「狂」は、その境地まで至ったのではないか。

 しかし現代日本人は、その「まごころ」の極地どころか、「まごころ」の破片すら失ってしまったように見える。心を忘れて、金・物・色に狂って、欲の権化のようにも映る。心が蔑
(ないがし)ろにされている実情があるようだ。
 ここに至って、私たち日本人は、もう一度、我々の先祖が親しんだ日本的なる「まごころ」に注視し、「陽明学」をじっくりと読み直す必要があろう。加えて、これから先きの日本の姿を再検討しつつ、また国家のあり方や、その方向性を示すグランドデザインを再検討して、思索の基礎固めを行う必要があるのではあるまいか。
 行うに当ってである。



●礼とは身を慎む術である

 儒学で言う「礼」の起こりは、人間同士の摩擦をできるだけ少なくすることに、工夫
(功夫)が凝らされた学問である。
 人間同士で考えた場合、人は誰しも仲良くすることが好ましいが、そうでない場合もある。
 つまり、「合性」の問題もある。

 この合性は“相性”のことであるが、ここで云う相性は、九星気学などで言う相尅関係との相性でない。
 つまり、人間の性格は九星気学で分類された僅か“九通り”の相性ではない。その程度に、人間は単純には出来ていない。もっと複雑であり、その絡み付きは、まさに有機的である。合性は有機的結合から起こるものであり、結合の根が同一なる根に由来しない場合、それは相容れないものになるようだ。

 万物は有機的結合を形成しつつ、肉の眼には見えない不可視部分も含めて、人間関係が成り立っているのである。そして有機的結合をしている以上、此処には善悪綯
(な)い交ぜの人間と言う有機体が存在し、また、この有機体は清濁(せいだく)(あわ)せ呑む生き物である。
 それゆえ、人と人の関係には接する部分に、当然のことながら、例えば、伴に何かをする場合、自分と相手は、その行為に対して遣り易いか否かなどの行動上の性質の違いが現れる。
 つまり「合性」である。
 伴にした場合、行為そのものが心地よいか、そうでないかである。
 この感覚や感性のよって馴染まねば、その合性は悪いと言うことになる。

 合性は肉の眼に確認できない。
 また合性を、理屈で解釈しても、どうにもならない。眼に見えない「何か」が複雑に絡み、隠された部分に「気」のようなものが存在するようである。雰囲気なども、そもそも地球を取り巻く気体がその要素であるため、そこに漂う気から感じる誤差は起こる筈である。

 これは友人や夫婦においても同じだろう。
 また同僚においても、更には上役や部下においても同じで、所謂
(いわゆる)合性が悪くてぎくしゃくする場合がある。
 そもそも気が合わなければ、そうなってしまう。そして、自分がその人と合性がいいか悪いか、最初の出遭いの時に、ほぼ決定されるようである。
 つまり、勘がそうさせるのである。

 これは、顔見知りでなくても、擦れ違っただけで、勘の働く人は、それを読み取ってしまう。気に異様なものを感じる。
 何となく、気が合わない。虫が好かない。そういう感覚は、勘から起こるものである。
 勘は、感性なる気の蒐集レーダーから測定されるもので、雰囲気や周囲に漂う大気の異なりを読み取るもので、この解読結果から、自他との誤差の違いを読むものである。敏感な人ほど、この読みも深く、異様も異常も直ぐに勘付くのである。
 合っていれば、また一致していれば「可」、そうでなければ「不可」となる。

 では、逆に合性がいいと言うのは、どう言う場合をいうか。
 これは長らくその人と長時間同席しても、肩が凝らず、無駄な気も遣わずに済み、一緒に居ると何故か心が安らぐ。更には圧迫感も感じないという場合は、その人と合性がいいと言えるである。

 これは単に性格の問題でなく、合性の問題である。性格の不一致は、自他が存在している以上、最初から存在している。そもそも性格など一致する訳でない。自他がある以上、最初から一致はしていない。これまでの生活環境も、教養のほども、物の考え方も異なる訳であるから、これらの一線を超えて、悉くが一致することや共感するよ言うことはあり得ない。
 一見、意気投合したようにその状況が観測されたとしても、本然は微妙に異なっているのである。
 性格が一致するかそうではなく、合性が合うか合わないかである。合性が合えば、生活環境も教養の差も、思考力なども、これら一切を超越してしまうものなのである。用の為
(な)せる技である。

 黙って何時間一緒に居ても飽きない。この場合、合性が合っていると言えよう。
 この場合、一線に曳かれた格差は問題ではない。
 また、相手方も自分が居ても迷惑になっていない。しっくりいっている。こういう場合、その相手とは合性がいいと言えるだろう。

 逆に同レベルでも、気を遣ったり、言葉も一々吟味して、慎重に話さないと、揚げ足を取られてしまうと言うのは、合性が悪い場合である。そうなると、合性が拗
(こじ)れて、憎悪になる場合もある。

 また、合性が悪いと、現代では本能や感情の異常が起こり、ここに人格異常が起こることになり、社会規範に相反する行為が浮上することになる。また、そういう一方的な感情に走り、やがて制御が利かなくなってしまう。
 憎悪は、人間同士を敵対関係に追い込み、互いに憎み合う元凶になることもあるのである。人間関係の難しいところである。それは、それぞれに合性と言うレベル的な誤差が存在しているからである。
 そうなると、相手の心の中まで土足で踏み込んでしまう愚行に至ることがある。

 愚者は、こうした配慮まで欠けるので、些細なこと、微細なことに気付かない。いい気になって相手に深入りし、相手の心の中まで土足で踏み込んで、「無礼な奴」と反感を買ってしまうのである。

 そこに怨
(うら)みが起こり、怨念と課したりする場合もある。
 そうしたものが、心底に巣食うことになる。そしてそれは、いつ発火しても訝
(おか)しくない火種となったりもする。キレる行為はこのような心から起こるのであろう。
 そこで、こうした摩擦を避けるためにも、昔から「親しき仲にも礼義あり」という格言があった。礼を欠かさないことである。

 これは、相手を見くびるな、甘く見るな、甘えるなということであり、自分を律することで、奇
(く)しくも相手の懐(ふところ)に深さがあればいいが、その深さが狭量だと、思わぬしっぺ返しを喰らうことになる。
 また譬
(たと)え、聖賢君子のように懐が大きくても、土足での、ズカズカ踏み込むような無礼は、絶対に避けるべきであろう。
 特に、相手が目上の場合は、注意しなければならない。非を検
(み)られて、その後の引き立ては皆無になってしまう。

 また、目下に対しても、土足で踏み込まれることを嫌う者が居る。こういう場合も人間として、また人の道として、安易な考えでの行動は避けるべきである。
 人を見下したり、甘く視たり、舐
(な)めて懸かることはよくない。それは弱年者であっても同じである。決して見下してはならない。一寸の虫にも、五分の魂である。
 劣るもの、弱いもの、小さいもの、貧なるものにも、存在する以上、それなりの意地を持っている。それを侮ってはならない。軽く検
(み)てはならない。

 如何なる場合も、一線を画し、相手を見くびらず、甘く見ず、「親しき仲にも礼義あり」という格言さえ肝に命じて、その禁を冒しさえしなければ、自分の身の安全は保てるのである。寝首を掻かれずに済む。

 そして「親しき仲にも礼義あり」というのは換言すれば、互いに犯されず、また犯さないことを言うのであるから、これこそ自己を全うする最大の護身術にもなる。わざわざ好んで、殆
(あやう)きに近寄らずである。その被害半径に内接する近距離に近付かなければいいのである。
 これそこ「君子は危うきに近寄らず」である。
 君子は身を慎み、危険を冒さず、禍
(わざわい)を招くような愚を避けることをいう。

 この格言として、例えば声である。
 「雉
(きじ)も鳴かずば打たれまい」という禍回避術を、日本人なら知っていよう。
 これは、音を立てずというのではなく、深読みすれば、禍に巻き込まれるような場所には近付かないと言うことにも通ずる。
 大勢人の集まるところにな行かない。興味本位で面白がらない。弱者を甘く見ず、からかわない。あいつより、俺の方がましであるなどと優越感をもたない。
 こうした愚行は、陽明学の「まごころ」に照らし合わせれば、雑念雑想であったことが分る。

 無用のことは言わなければよかった、しなければよかった、ちょっかい出さねばよかった、行かなければよかった、そうでなければ禍
(わざわい)を招かないで済んでいたのである。

 また、禍に近付かなければ、不慮の事故や事件に巻き込まれなくても済み、大自然の怒りや禁に触れて死んだり、不逞の輩
(やから)に遭遇して殺されたりもしないで済む。食を正せば、病気にも罹病しなくて済む。四ツ足を喰らわねば、性(さが)の同じ哺乳動物から恨まれたり、憎まれたり、怨念や冥(くら)い陰を投げつけられることもない。
 殺生をしない。殺生をしたものを口にしない。美食に振り回されない。それらに惑わされない。総て、事足りていることを自覚すればいい。『菜根譚』の示すところである。

 普段から足るを知っていれば、不摂生をしなくても済む。誤りは正せばいい。直ぐに修正が効く。そして無駄が省ける。無駄なエネルギーを遣わなく済む。エネルギーは自分の娯楽だけのために遣うものでなく、また興味本位に弄
(もてあそ)ぶものでもない。
 大事のために、整え、備え、“いざ”というときに取っておくべき「切り札」である。「切り札」を安易に浪費してはなるまい。

 ゆえに長寿を保ち、命を全う出来る。
 命を全うして、命の循環を知り、「人とは何か」「人生とは何か」「死とは何か」「道とは何か」などが探求できる。
 この「何か」を突き詰め、更には、自己を深く掘り下げることが出来る。

 その中心は「心」であり、心の核には「まごころ」が輝いていなければならなかったことが分るであろう。興味本意、娯楽本意では、中心課題がないことが分ろう。ゆえに行動に輝きがない。
 輝きが無ければ、「まごころ」は発露しない。
 ゆえに輝きの有無によって、他者との接触も結果が異なってくるのである。

 防戦も、戦う以上、こうした接触・觝触の時代に入ったと言えよう。
 基本は、大勢人の集まるところに近付かないことである。流行に囃し立てられないことである。若いことは若気に至りがあったとしても、壮年粗過ぎて、老齢期に入って、若作りをして若者と同じ群れに交わって、面白がることやお祭り騒ぎに加担することは、身を危うくする元凶であろう。元凶か禍根であるから、禍根は悟れば断つべきである。

 しかし、目紛しく変化する現代、危険の圏内に入ってしまった場合は、どうするか。
 運悪く、誘発的に必然的に何ものかと敵対し、運悪く対峙したらどうするか。対峙して矢面に立たされたらどうするか。

 だが、対峙した場合にでも、両者の根底には、その場その時の状況判断と言うものがあり、危険に対する感覚も、その感覚自体が「礼」の根本であり、これは人間同士の摩擦を避ける最大の術となり得るのである。
 つまり、武術的に言うならば、相手との駆引きにおいて、相手の気を誘発させたり、それを消滅させたり、また外していなすというのは、何も遣りや刀を持って争う場合の術ではない。最初から外すことも出来るのである。
 「礼」をもって、自らの襟を正すのもその一つであろう。

 礼の体得者であれば、腕力や武技を競って争わなくても、言葉と真摯なる態度だけで、相手の殺気を殺すことも出来るのである。そして殺気を殺す場合に、必要となるのが「用心」である。
 単なる警戒心ではない。
 心を用いるのである。「まごころ」を充
(あ)てるのである。
 真摯なる態度であり、その態度は「まごころ」より発する。心の心底を正すのである。これを正す術を「心術」という。



●用心と事情磨練

 固定観念や先入観、あるいは思い込みを一旦脱ぎ捨てる。そして、これまでの文化的かつ文明的なる装備を剥奪
(はくだつ)して、「なまの人間」に着目する。
 虚飾したものは一旦棄
(す)てる。過去の固定観念は棄てる。思い込みは消去する。

 陽明学の教えるところは、朱子学や老荘あるいは仏教を介して追求したことは、確かに真摯であっても、しかし、存在の基底に触れるものではなかった。既成概念に寄り掛っただけであった。
 そのうえボロ隠しのために、綻
(ほころ)びを繕(つくろ)う意識までもが絡み付いていた。更には、美辞麗句まで絡み付いていた。
 それだけに「なまの人間」は、容易には観察できないのである。
 ホンネは隠され、タテマエだけなのである。したがって無垢でない。
 無垢でない以上、なまの人間は観察できない訳である。美辞麗句や理論武装した観念的装飾が纏わり付いていれば、それだけで殆
(あや)うくなる。物事が複雑化して、単純でないから誤差を測定したり、理論武当に躱(かわ)されて実体を見誤るからである。

 では、一旦無垢になる方法には、どう言う「奇手」があるか。発想の転換を計る、如何なる測定方法があるか。そして測定結果に基づいて、如何なる変革が起こるか。
 そこで「事上磨錬」というものが登場する。
 簡単に言えば、難局に遭遇してそれに抗
(あらが)いつつ、難局を乗り越えて行くと言う自己錬磨である。

 この自己錬磨を致したとき、人間は、ひと回りもふた回りも大きくなり、成長すると言うものである。
 この背景には人間の苦悩がある。
 この苦悩に苦しみ抜いて、苦悶を繰り返した後、かつての「生身の人間」は以前より一層飛躍し、成長すると言うことである。

 しかし、難局に遭遇しなかった場合、あるいは難局や苦難を避けて、それに挑まなかった場合、そこで人間の成長は止まると言うことなのである。
 難事に際して、自分がどう振る舞うか、それを用心することと同時に、克服する事上磨錬なる鍛錬法は、人に問うのである。
 「逃げますか、挑みますか」と。

 逃げた場合は、その人はそこで成長が止まり、以後は余生の生きる屍
(しかばね)であろう。
 一方逃げずに踏み止まり、苦悩に耐えつつ、苦悶
(くもん)を繰り返し、大いに悩み、さんざん悩み抜いて、迷いに迷った末、人間らしい路程を進んだとき、あるいはそれを通過して解決策を見出したとき、その人は、以前のその人でない筈である。風雪に耐えた人となる。

 事上磨錬は、人が難局に遭遇することによって、人を活かすと言っているのである。その体験から強くなると言っている。
 王陽明は、人間修行にあたり、事上磨錬を説いた。
 人の行動や考えは、単に観念的に考えるだけでなく、実際行動の中で知識を磨き、それを通じて「人格を錬成する」ことを説いたのである。
 そして、この事上磨錬こそ、「知行合一説」と大変深い関わり合いを持っていたのある。

 自己を修養するためには、単に思索だけではどうにもならない。単に静止して思い耽っても、それは空想の域を出ない。事に当たり行動を起こさねばならない。そのように向かうように行動が伴わねばならない。行動が伴ってこそ、自己修養は、良知に一致する結果が齎されるのである。
 したがって、思う、想起する、夢想するだけの、ただの想念の範囲を出ないものでは、それ自体が空虚である。
 それは虚しいだけである。現象界では実現されない。念じたものは実現されなければ意味がない。心象化現象は「行い」によって成就する。

 陽明学は、朱子学に対峙
(たいじ)する。悉(ことごと)くが対峙する。
 この対峙点は、朱子学が禅的な静の坐に固執するものに対し、陽明学は、静から動へと移行する良知の発露を説いたものである。そして、実際問題に遭遇することにより、事の起こりにあたり、自らの行動により対処することで、人格が磨かれるとしたのである。

 坐して静坐し、あるいは瞑想にふけって坐禅し、ただの雑念消去の瞑想だけでないとした。良知は、瞑想からだけ生まれるのでないとした。
 瞑することから抜け出し、思念は動きを起こし、行動を伴い、実際問題を対処していくことで、本当に人格が磨けるとしたのである。悉
くが実践学である。人間ならではの行動学である。



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