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陽明学入門 2

無の概念は、万有を生み出し、万有の根源となるもの。
 有と無との対立を絶したものとされ、インド思想に見られ、老子などに説かれ、西洋にも古くからある。



●絶対無

 中身のないこと、実体のないものを「虚」という。
 あるいは相手の油断に乗じて、そこに付け込むことを「虚を衝く」という。
 しかし、「虚」あるいは「虚空」というのは、「虚無」と混同してはならない。また、虚しいものを虚無とも言う。
 上辺だけのものであり、嘘などもこれに含まれる。ゆえに虚構や虚言もこれに入ろう。更に虚栄や虚名、虚仮
(こけ)もこれに入る。
 一方、私心がなかったり、邪心を持たなければ虚心であり、謙虚である。
 この意味からすれば、前者と後者は天地の差ほどあると言えよう。

 さて、虚無主義ではニヒリズム
(nihilism)になり、真理や道徳的価値の客観的根拠を認めない立場が派生する。
 古くは老荘
【註】老子と荘子をいい、老子は清静・恬淡(てんたん)・無為・自然に帰すれば乱離なしと説き、荘子は内編(逍遥遊・斉物論など)は多くの寓言によって、万物は斉同で生死などの差別を超越することを説いた)の哲学、仏教の空観、近代ではニーチェFriedrich Wilhelm Nietzsche/ドイツの哲学者。キリスト教倫理思想を弱者の奴隷道徳とし、強者の主人道徳を説いた。1844〜1900)、二十世紀ではシェストフLev Shestov/ロシアの哲学者で、フランスに亡命した。真理は理性を超えるものとし、存在の非合理的根源を追求し、不安の哲学として、第一次大戦後に迎えられた。著に『ドストエフスキーとニーチェ(悲劇の哲学)』『真理とはなにか』などある。1866〜1938)などが虚無主義を唱え、伝統的な既成の秩序や価値を否定した。

 これをよく著したものが、ツルゲーネフの小説『父と子』である。
 既成の秩序や価値を否定する主人公を、ニヒリストと呼んで以来、当時のロシアの革命的民主主義者が、この名を好んで遣い、ニヒリズムならびにニヒリストは日本でも遣われるようになり、日本語訳では、虚無党と訳し、後に一般化されるようになる。

 そして、伝統的な既成の秩序や価値を否定し、生存は無意味とする態度が露骨になる。これには無意味な生存に安住する逃避的な傾向と、既成の文化や制度を破壊しようとする反抗的な傾向とが見られ、後にロシア革命の原動力的階級闘争に利用される事になる革命主義者の多くは、既成の文化や制度を破壊しようとする反抗的な暴力によって、暴力闘争により、革命を遂行させると言う意図が明白となる。

 革命主義者達は異口同音にして、体制側の既成概念で構築された人生の生き方を無意味であると一蹴
(いっしゅう)し、また既成概念を破壊し尽くす事で、階級闘争が成就すると信じられて来た。
 そして、虚空は「空虚」という絶望的な単なる否定に遣われる事が多い。
 しかしこれは間違った考え方である。

 空虚には、破壊の頽廃思想
(たいはい‐しそう)が漂うが、虚空が無尽蔵を現わす言葉である。千変万化の働きを示す言葉である。つまり、仏道的な「空」の思想である。事物は縁起によって成り立ち、永遠不変の固定的実体がないということを説いている。

 「無」の哲学は奥に、途方もない知性を感じないでもないが、頭に頼った知識上の無ではない。むしろ無の上を超越した「無」が存在するのである。これを虚空と言うのであろう。
 虚空は「何でもない空間」のことであり、それは一切の物事を包含しつつも、総ての存在は妨げないという特性を持ったものを指す。

 したがって、単なる「無」として捉えてしまえば、特定存在の欠如となり、何らかの有の否定となる危険がある。更には、否定や禁止を表す助字になってしまう。また、この扱いは非常に難しく、慎重を要しなければならない。

 無から誘導される自然な形は、有の否定ではなく、万有を生み出し、万有の根源となるものと考えるべきであろう。またこうした思想に至れば、有と無との対立を超越し、インド思想に見られ、老子などに説かれる「絶対無」でなければならない。

 絶対無とは、無から有が循環し、それが巡る事をいう。それが一直線ではなく、円の軌道にある時、円周上の有と無はこの軌道の上を限りなく循環するのである。途切れのない円であり、円周上の循環運動はエネルギーが失墜しない限り、無限に繰り返される。無から有が発生し、有はやがて無に戻ると言う概念である。その円周上の円において、無と有が無限に繰り返される事を言う。終りなき、「無間
(むげん)」である。絶え間のないことをいうのだ。

 つまり、人間と宇宙は精神的かつ道徳的な、これを実学とする実践学なのである。この実践学こそ、「知行合一
(ちこう‐ごういつ)」であり、知として学んだ事は、行いの上で実践することにより、その知が、生きて「智慧(ちえ)」となることを説いているのである。

 陽明学の祖・王陽明は、これを「知行合一説」で説明し、朱熹
しゅき/南宋の大儒19歳で進士に合格、官途のかたわら究学、周敦頤しゅう‐とんい)、程頤(ていい)らの学説を総合、いわゆる性理学を集大成した。著に『朱子文集』『朱子語類』『四書集注』『資治通鑑綱目』『近思録』など。後世、朱子と敬称、その学を朱子学といい、江戸時代の儒学に多大の影響を与えた。1130〜1200)の先知後行説が「致知」の「知」を経験的知識とし、広く知を致して事物の理を究めてこそ、これを実践しうるとしたのに対して、王陽明は「致知」の「知」を「良知」であるとし、知は行のもとであり、行は知の発現であるとし、知と行とを同時一源のもの捉えたのである。

 この点において、智慧は単なる知識の集積でないという事が分かるであろう。則
(すなわ)ち陽明学では、人生のおける実際的な「知」は、智慧(ちえ)の行為であると説くのである。



●良知を発言する事こそ陽明学の極意

 陽明学は、内なる自己を求めて「良知」を発現する事である。良知こそ、「修己」の目標である。
 さて、儒学は「敬」を中心とする学問である。
 則ち、朱子学でいう「致良知」を中心とする儒学は、後に陽明学が形成され、この陽明学こそ「誠」を中心とする学問であった。

 陽明学は「誠」を中心課題にして以来、これまでの儒学思想は一転することになる。
 儒学が此処に来て変遷したのは、「誠」を取り上げたことであった。
 そして日本では、陽明学が日本独特の陽明学派へとして中江藤樹
(なかえ‐とうじゅ)を祖とする「日本陽明学派」が確立されることになる。日本流に構築された「誠」を中心とする儒学の形成であった。
 そしてこの「誠」は、幕末から明治に至って開花する。

日本の幕開けは、外圧の砲艦外交によってはじまった。

 吉田松陰は幕末において、尊皇の志士達に「至誠」を重んじ、また、かの新撰組ですら、その局旗は「誠」であった。赤誠を意味していると思われる。
 また、武士道において誠こそ「徳」の現れであり、誠は儒学で言う「中庸」の意味を持つ。

 更に、誠の文字を分解すると、「言」と「成」からで来ていると分析することが出来る。
 つまり、言語として言うからには、その語には二言があっては成らないと言う意味であろう。
 則ち、「一筋」を指す。二筋ではないのである。ただ一筋である。一途
(いちず)な「まごころ」で生涯を貫くことであった。
 ゆえにこうした志を、また至誠といい、根本には誠の一字があるのである。一心に、「道に殉じる」ということであり。また換言すれば、道のために「依って以て死ぬ」ということになる。

 斯
(か)くして、「誠」を重要視するのは、江戸時代前期の儒学者・伊藤仁斎(いとう‐じんさい)以来の伝統となった。
 仁斎は初め朱子学を修めたが、後に孔子・孟子の原典に帰ることを主張して、更に朱子学を批判を行った。それは一つには朱子学が体制側の学問として形骸化して固定し、権力の学問になりつつあったことへの懸念であったかも知れない。
 後に仁斎は、京都堀川に『古義堂』を開塾し、門弟は三千だったともいう。

 ちなみに、堀川を隔てた対岸には、奇
(く)しくも朱子学の一派である『崎門学(きもんがく)』の創始者であり、また垂加神道の創始者である神道家の山崎闇斎(やまざき‐あんざい)の『闇斎塾』があったという。後に闇斎の学は『崎門学』と呼称され、この学は「闇斎思想」として、水戸学や国学、更には幕末の尊王攘夷思想にも多大な影響を与えた。

 一方、仁斎は四端
(したん)の心【註】仁・義・礼・智の道に進む糸口である、惻隠(そくいん)・羞悪(しゅうお)・辞譲・是非の四つの心)や、孟子の「人は生まれながらにして持つ四端の心」である性善説を唱え、これを「後世あるいは持敬をもって宗旨となし、あるいは致良知をもって宗旨となし、未だ忠信をもって主となすもの非(あら)ず」と論じた。
 自ら『古義学』を主唱し、その主著として『論語古義』『孟子古義』『語孟字義』『中庸発揮』などで忠信を主張したのである。この当時は体制側の学問として朱子学が支配的であった。

 ところが仁斎は、学問的には体系を整えていた朱子学的経典解釈を廃
(はい)して、根本に迫るものを探求していた。つまり朱子学形体では、あまりにも非儒教的な思想と検(み)たのである。それを不純と検たのである。ゆえに朱子学的経典などのテキストを廃止した。そしてそれに変わり、実証主義的な方法を模索した。

 更に、朱子学の「理」の思想に反して、「情」を究極的な真価に置き、本体の喜怒哀楽は情の中にあるのではないのかと検たのである。
 人は喜怒哀楽の中に人生を体験する。つまり側面には常に「情」の働きがあり、情は「心」の為
(な)せる技である。

 朱子学に見られる客観的な、第三者の目で見るような、所謂
(いわゆる)よそよそしく映る理屈より、人間の血の通った心を、また情を観察し、そこに人間的な働きがあることを悟ったのである。理屈で人は計れないとしたのである。

 此処に至までには紆余曲折
(うよ‐きょくせつ)はあるものの、辿り着いたのは忠信であり、また「誠」であった。
 「誠」を重視する傾向がこのときより儒学界に擡頭
(たいとう)し、この誠をもって幕末まで駆け巡るのである。そして、この誠こそ、陽明学が掲げた儒学思想であり、誠の明言は陽明学にあって朱子学には希薄なものであった。

 また「誠」を掲げる伝統の中には、「誠」を繰り返し問う日本独自の風潮があり、日本人は爾来
(じらい)、誠の大意である「まごころ」に対して、常に自問自答して来た民族であるとも言える。
 更に「誠とは何か」と問えば、これ自体が難解な命題であるが、江戸中期の儒学者・細井平洲
(ほそい‐へいしゅう)によれば、「内心と表向きと一筋にして、外と内の二筋にならぬこと」とある。
 双方は表裏が分裂してはならないと言うことであろう。表裏は「一枚岩であるべし」ということを力説している。
 これはまた、ゆえに己を欺
(あざむ)かぬことに繋がるのである。

 細井平洲は、後に米沢藩主・上杉鷹山
(うえすぎ‐ようざん)に招喚されて、藩校興譲館の設立や藩政改革の参与を勤め、また尾張藩の藩校明倫堂の督学も勤めている。そして領民教化に努めたことでも知られる。

 この当時の細井平洲の誠意識は、おそらく「誠実」ということであったであろう。
 誠実という意味から解釈すれば、誠実一筋でいいと云うことになる。
 これを客観的かつ普遍的な理法で考慮すれば、誠実以外に何もあり得ず、ただ誠実だけという意味に取れなくもない。つまり、誠実一筋であるから、誠実以外に何もあり得ず、ただ誠実と言うことになる。
 そして誠実を挙げた場合、至誠とは少しばかり微細な差異が生じていることに気付く。

 日本人が、近世から近代に掛けて持ち得た意識は、誠実を更に一歩踏み込んだ「至誠」でなかったかと思うのである。至誠に至って、誠は真に「まごころ」となり得た。
 誠実だけでは「まごころ」の意味合いが薄いからである。

 誠実だけでは、その意味合いとして、他人との関わりや仕事面などに対して、真面目で、嘘偽りのないものが籠
(こも)っているという自己の内面を指すが、至誠になれば「極めて誠実」という一等上の誠実が強調され、遂にはこれが「至誠、天に通ず」まで極めるのである。相手は、内面を貫いて天にまで通ずるような最高の真心を指すのである。

 朱子学は江戸中期以降になると、形骸化して権力側の固定化された学問に落ち着いてしまう。
 したがって探求すれば、その主体は「理」であり、理は客観的普遍的な理法に終始してしまいがちである。

林羅山像

 その顕著な現れは、江戸初期の幕府の朱子学派儒学者である林羅山(はやし‐らざん)が唱えた『三徳抄』にみる「学問の道は先ず理を極めて、智を致すをはじめとす。理にかなうは善なり。理に背くは悪なり」といった善悪の弁別を基準とする「理」を中心に据えた一辺倒の思想であり、肝心要の「情」の面において「誠」が欠落しているのである。
 単刀直入に言えば、人間不在であり、また心の不在である。中心課題は「理」であり、「理のみを論
(あげつら)っている。
 つまり『三徳抄』は、万物は「理」と「気」から構成される「理気二元論」を説き、理法が諸現象を支配するのと同じく、理性が情欲を支配することを理想とする二元論であった。

 更に朱子学で言う、天は理気未分の太極であって、これは自然ならびに人文の一切の事物に内在化すると説くもので、天は気によって万象を創造し、また理によって万象を主宰するものである「天の働き」を指し、この天の働きこそ人の道に置き換えられるもので、天の働きを人の道に模して、その道を全うするために、先ず実践し、その履行が肝心で、それは「格物」
【註】格物致知(かくぶつ‐ちち)であり、古代中国における思想であり、朱子学では、「物の理に致る」と読み、事物に本来そなわる理に窮め至ることと解した。ちなみに「格物学」といえば旧称の物理学のことになる)よりはじまるとしたのである。

 ところがこれでは、理の強調ばかりで肝心要な「人の道」と称しながらも、人が居ないのである。人不在である。
 だが、人があってこそ天を感じることが出来るのであって、人不在では天もありようがない。
 つまり、天の理気二元では人不在であり、情の原点をなす心が伴わねば致しようがないという説が、後に王陽明のよって唱えられるのである。これが『陽明学』であり、陽明学の考え方では、「格物致知」を、「物事をただす」と読み、心の良知を発揮することによって社会のあり方をただすと説いたのである。



●誠をどう捉えるか

 この「心の良知」こそ、誠であった。誠無くして良知無しである。
 陽明学は、朱子学の「誠の欠落」を指摘したのである。そして「誠を重視して、ひたすら「まごころ」を追求したのである。これは日本流に解釈すれば「至誠」となる。そして、この根本には陽明学の、「先天的道徳知としての自己の良知を十分に発揮し、これを『致良知』といい、それによって社会的な物事に正しく処するこのと『格物』を目指す」としたのである。

 この「格物を目指」す考え方に「知行合一説」があり、陽明学では、「致知」の「知」を「良知」であるとし、知は行のもとであり、行は知の発現であるとし、知と行とを同時一源のものと捉えたのである。ここに王陽明の特異なる思想の源泉があった。

 しかし、朱子学では朱熹
しゅき/朱子の意)の「先知後行説」が説かれ、「致知」の「知」を経験的知識とし、広く知を致して事物の理を究めてこそ、これを実践し得るとしてのである。
 これはまた、「致良知」で良知を致すことである。
 致良知は、もともと孟子の言である。

 これは先天的な道徳知を指し、王陽明はこれを借りて、心即理説を更に展開させて、致良知説へと導いたのである。つまり、良知は心を本体とするものであり、心より理が発出するのであって、これは良知を物事の上に正しく発揮すれば道理が実践的に成立するとしたのである。
 心を物事の主体において、それより理が出ると唱えたのである。これが「心即理説」である。
 この意味からすれば、朱子学の「世界を構成する気には、そこに必ず存在根拠ならびに法則としての理がある」とする考え方とは対象的である。

 更に、朱子学の理は種々の物が多く存在し、また複雑多岐に亘る。
 理気世界観を説く「理気論」は、確かに研究されるべき多くの問題を宿し、今日の物理学にも匹敵するものであるが、しかし眼に見えない心の側面は、まだ未開の儘であり、未科学分野として多くの課題が残されている。

 それはそれとして、ともあれ近世の日本人が朱子学の理を正面から受け止め、それを次ぎなるステップとして客観的普遍的な理法の自覚を探求し、倫理の分野まで迫り、遂に陽明学に辿り着いたとする歴史的な流れの中には、日本人の本然を目覚めさせる「誠」に対する考え方があったことは確かなようである。そしてこの倫理観は、その後の日本人の生き方にまで発展した。

 つまり、陽明学に辿り着いて、誠を自覚し、「まごころ」に触れ、「ただ誠実だけでよいのか」という疑問点の突き当たったことである。
 次に、誠の捉え方に苦悶
(くもん)が始まったのである。誠を、どう捉えるかである。

 確固たる誠の捉え方……。
 それは何か。
 ここに誠の捉え方の苦悶が始まった。
 当時の学究の徒の日本人は陽明学によって、人間の本然は理の他ならないとする朱子学を否定して、心の域まで辿り着いたのであるが、では、心と言う「情」の処し方を一体どうしたらいいか。この難解な課題に直面したのである。

 人の「情」は、喜怒哀楽の中からなる。人生観である。
 朱熹が唱えた「本然の性は理」だけではなかった。性即理の命題は此処に遠退いた。更に、不純な気質を変化されるのは理でなく、心であった。この心のあり方をどう捉えるか、これが陽明学であり、近世の日本人は此処まで辿り着いたのであるが、そこから先の追求も忘れはしなかった。

 つまり、誠実と言ったところで、それだけでは嘘もつくことはあるし、不真面目で不純なる心を起こすこともある。
 よく言う「魔が差した」などは、誠実な人でも起こり得る現象である。不注意や気の弛
(ゆる)みからも起こる。したがって、誠実な人でも時として嘘をつく。
 また誠実なるが故に、不真面目な一面も持っていようし、不純なり卑しい面も、心の何処かには巣食っている筈である。そうした微量なるものが、心底には残留している筈である。
 しかし、誠を尽くすためには、こうした微量なるものすら総て駆逐しておかねばならない。微量なるものを皆無状態にしておかねばならない。
 さて、どうするか。

 これまでの朱子学では、雑念雑想を完全に駆逐することが出来なかった。理を前面に打ち立てて、理詰めで論破する理だけでは、不純なものは、微量と雖
(いえど)も根底に残留してしまった。
 しかし、情を司る「心」の面に注視したことで、「誠」なるものに行き着いた。
 誠は「まごころ」だった。その「まごころ」を陽明学は重視した。
 つまり換言すれば陽明学は「誠意」を重視したことになる。

 しかし、これも日本人流に考えて、確かに「誠」の倫理には非常に近いようであるが、それは「心即理」の考え方であり、そこには陽明学の「理」は理解できようが、「まこと」を掲げて、心に迫るまでには至らなかった。
 つまり陽明学では、ひたすら「誠実」を追求したのである。
 ところが、日本陽明学派は、確かに誠実の強調は特に注目に値するが、この場合「良知」をどう処理するかとなった。これを問題にするか否かであった。

 人間の内面には潜在する能力を持っている。この能力は普段は発露しない。眠ったままである。
 この内在する能力を意識的かつ反省的に呼び起こすにはどうするか。また、これを実体的にどう捉えるか。あるいは捨て置くのか。

 近世の日本人は陽明学に親近感を抱いた。またこれが主導的な近代思想の教学となり得た。その先駆者の一人に吉田松陰らが挙げられる。
 だが、道徳的能力を内面に、実体的にどう捉えるかという考え方には蹤
(つ)いて行けなかった面も否めない。つまり、「誠」の解釈である誠実とする考え方である。
 誠実だけでは、嘘もつくし不真面目になったり、不純な心まで、時と場合の応じては浮上することもある。誠実な人でも、完全に雑念雑想を駆逐できていない場合は浮上することもある。
 単にこれは、自己意識の問題として片付けられることではあるまい。

 況して、道徳的能力といってもその能力には個人差がある。その強弱もあり、意志力もある。
 こうなると、残るのは「志」の有無に懸かってくる。
 志を貫くか否かは、勿論、誠をもって致すことは当然ではあるが、「誠を致す」とはどう言うことなのか。
 ここで志の貫徹のために、はじめて「至誠」という言葉が登場するのである。



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