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陽明学入門 1

陽明学入門








 人は何を人生の拠り所にして生きているのか。
 この問いに対して、多くの現代日本人は世の中の流脈に流され、流行やファッションに流されて、殆ど考えもせず、漠然と、然も「人真似」をして、人と同じことをしていれば間違いないと言う安易に考えて生きているのではあるまいか。
 そして、こうした生き方を選択した人は、その殆どが倫理観を持っていない。

 現に、「倫理観とは」と質問をすると、この問いに対して明確に答えられないばかりか、果たしてその人個人に対しても、如何なるものか、あるいは倫理観があるのか無いのか、これ自体が釈然としないのである。
 あると言えばあるが如く、ないと言えば無いが如く、ただそのレベルで、然も軽薄に、また混沌とした現世を相手に、この程度の考え方で生きているのではないかと思える節もあるのである。

 しかし、筆者は、この混沌とした世の中にも、一つ、何人でも果たし得ない、一つの「何か」が存在していると思うのである。

 それは「誠」を顕す至誠である。
 至誠こそ、往時の日本人が持ち得た一種独特の「まこと」に対する情熱ではなかったか。
 これを本章では、「まこと」とは何かという事について説き明かしていきたいと考えるのである。



●至誠

 人には、誰でも「まごころ」という要素がある。そこ要素が誰にでも、心の底に残っている。
 人によっては、その要素が極小になったり、極大になったりの違いがあるが、その根っこは誰しも持ち合わせているのである。

 また、人は至誠に敏感に反応し易く、その生き方についても、偽りのない、嘘から離れた真実の心で人生を全うしたいと考えている人も少なくない。そういう「まごころ」で人生を往生し、最後の斉野まで摺れで貫き通し、自らの人生を老いたいと考えている人も少なくないであろう。

 その根元にあるものは、極めて誠実なる心は、天に通じるのではないかという至誠心であり、至誠を貫いて人生を思う存分生き、悔い無く往生したいと考えることから発する。心を術と言うべき「心術」が此処にあるのである。

 「まごころ」を、真心と書く。誠の心であり、嘘や偽りのない真実の心をこう言う。
 また赤心であり、赤誠にも通じる。この赤誠は、「真っ赤な心」であり、例えば物事の中心を指す「芯
(しん)」という意味でもある。
 物事の芯が真っ赤であれば、それは生命活動を指し、生きている証
(あかし)であり、これにより人は天命を知るのである。自らが天から生かされていることを知るのである。

 人は、自らの努力などの奮闘することで、生きているのではない。
 人が生きる根元には「生かされている」という中心なる芯の働きが無ければ、人は一秒たりとも生きることは出来ない。生かされるから生きているのであり、生かされなければ、死ぬ意外ないし、そもそも生命活動など、人自らが単独で出来る訳がない。
 人は生かされているから、生きているのである。これは自分の力で生きているのではなく、生かされているから生きているのである。

 では、誰によって生かされているのか。
 取りも直さず、「天」である。天によって生かされている。
 また、生かされる因縁があるから、生きているのであって、この因縁が消滅すれば、人は一秒たりとも生きることは出来ない。死ぬ以外ない。

 それゆえ生かされる理由を知りたいと思うのが、また人間である。
 人は、なぜ生かされるのかを考える。誰によって生かされているのかを考える。
 これを突き詰めていけば、天に回帰するであろう。
 そして「天の働き」というものに眼を向ける筈である。
 では、天の働きとはなにか。
 誠を求める者に祝福をする。
 人として、賢明に生きる者に、先ずは祝福する。

 賢明とは、学ぶと言う意味が込められ、また「学問をする」という学徒の気持ちのある者への、エールを送る作用がある。
 この世は、作用に対して反作用が働く。作用のみの一方的働きだけではない。作用を起こせば、必ず反作用が働く。現象界の掟
(おきて)であり、法則である。

 この法則に従えば、「まこと」をもってすれば、ある種の働きが天に通じ、それは自分の反映されるという働きがあるのである。
 では、「まこと」とは何か。
 往時の日本人が長らく考え続けて来たテーマである。
 それは先ず「誠実」に反映されるだろう。

 誠実……。
 それは、根本に真心が籠
(こも)っていて、然も真摯に、極めて口先で言うばかりの誠だけでなく、真なる「まじめさ」が存在することである。
 真なる真面目さとは、思い込みではない。
 現代人の多くは、自分が真面目と思い込んでいる老若男女が多いようである。

 ところが、こういう手合いは、必ずしも真面目でなく、ただ思い込みによる先入観と固定観念で、自らが他者に比べて、「あいつより俺の方が真面目だ」という比較意識で他を比べているだけである。危険な思い込みであり、危ない先入観と言えよう。
 この思考の背景には、孫子とが欠如していることは明白であり、それは真面目と言うより、他者と比べた悪しき優越感である。危険な思い込みと言えよう。

 そのくせに、このような自身を真面目と思い込んでいる先入観の持ち主は、心の何処かで、誠実を否定している節が少なからず、見受けられる。
 他者を非難し、攻撃し、指弾する時のは、真面目が消え、誠実が消滅するものである。そして、自己満足に浸るものである。そもそも、此処が危ないのである。殆
(あや)ういのである。

 さて、往時の日本人にあって現代の日本人に欠如しているもの、それは何か。
 誠実さの欠如である。
 昨今は、世の中が混沌として来たために、しらけムードと無関心が日本人の中に蔓延し、暴漢的立場をとる“可もなく不可もない”というこの手の手合いが急増している。
 此処に、誠実の欠如がある。
 つまり、誠実こそ、往時の日本人の心情であったのだが、現代のここにきて、それは殆ど消滅したと言う実情である。
 そして、何もかもが曖昧になり、かつ専門家任せになった。

 自分の尻拭いすら専門家任せであり、自ら単独では何一つ出来ないと言うのが実情である。
 かつては倫理として存在した誠実が、ここにきて失われ、消滅したと言うことである。
 既に、誠実は確固たる倫理として、日本人から剥離
(はくり)してしまっているのである。
 つい最近まで生き続けていた誠実さが、殆ど消滅状態になり、既に「まこと」など何処にも存在しないような殺伐とした状況に陥っているのである。

 誠実とか、真心と言えば、一見堅苦しいように思いがちである。
 しかし、日本人が本来持ち得た真面目さとか、素直さは、「誠」の一字があったから、それが倫理的な究極の拠
(よ)り所になったのではあるまいか。

 しかし、ここにきて日本人の誠実も薄れたような気がする。
 これまで心の中に生き続けていた、日本人に連綿として続いてきた誠実も、威力を失う、誰もが現代流に流されているような気すらするのである。誠実が曖昧模糊として来たのである。

 かつて、特に幕末から明治に掛けて、これまでの日本人の倫理観と言えばまさに「誠」であった。かの新撰組が掲げた「誠」の一文字に代表されたような生き態
(ざま)こそ、日本人の当時の正体であった。また、それは倫理的な究極の行き着くところであり、心の拠り所であった。
 日本人が、日本刀に対して限りない霊器として、また神器として尊崇の念を抱くのも、「誠」があり、それに対して「真心」が倫理としての大きな役割を果たしていたからである。

 だが、昨今はどうだろうか。
 誠とか、真心と言う真摯な日本人の心は、眠らされてしまった観がある。霊的神性が曇らされた観がある。そして心が日本精神でなく、欧米の合理主義や体系主義に重きを置き、“科学的”という言葉に魅了されてしまうのは何故だろう。

 誠を重視し、真心をもって他と接する真摯な態度は、今日の日本人に失われつつあるのは何故だろう。
 歴史を振り返り、誠や真心を重視する、明治維新以来の日本人の心には、かの西田幾多郎が、これを『善の研究』という著書からも窺えるように、西田自身、誠を重視し、真心を人生の生き態
(ざま)の姿勢として捉え、これを道徳的規範に置いたことは注目に値するところである。
 更に言及すれば、善悪を弁別する客観的かつ普遍的な基準は、おそらく誠や真心を置いては他にないとしているところに、西田が言わんとする善の、内面的な要素があるように思うのである。
 それは、西田自身が「活動説」と名付けたものである。

 「活動説」の立場をとれば、そこには内面的要素が縦横の述べられ、これを西田は「最も厳粛なる内面の要素」としていることである。
 この「厳粛なる内面の要素」とは、「さまざまな内面的要素が最も調和し、かつ統一された状態を指し、それが単なる欲望や、無意識から発した先導的衝動でない」としていることである。

 これを、西田はまた「至誠」という言葉で云い表し、つまり至誠とは「善行を行う際に必要不可欠な要素」としている点である。そして、西田のよれば、善行とは至誠の発露であり、それが善であるか悪であるかは、至誠の基準によるとしているところである。
 これこそ偽りを離脱した真実の心、すなわち「まごころ」であった。

 更に西田によれば、人間は真心を基準に、善悪の弁別をする客観的かつ普遍的な原則は一切存在しないとしているところである。
 ここに西田の唱える「活動説」の大きな意味がある。
 そして「活動説」こそ、至誠を致す原動力であった。



●まごころを中心軸に据えた陽明学

 人間は、日常の人生を経験しつつ、その行為の中で自分を日々鍛錬し、心身ともに磨いて行かなければならない。そうすれば、確
(しっか)りとした自己を確立できる。
 静中であろうと、動中であろうと、いつ如何なる時にでも、冷静に対処する事が出来るのである。そして、この対処の為の実学が、『陽明学』なのである。

 一般人が考える『陽明学』は、一見危険思想のように看做
(みな)される。
 しかし、危険思想でも、また、単なる理想論でもない。この思想の中には、溌溂
(はつらつ)たる魂の躍動があり、厳しい現実の中で、如何にしたら自己が磨けるか、これを実践的な助言として教示するのである。
 換言すれば、西田の唱えた「活動説」に極めて酷似する。
 根底に、誠実とか、誠があり、それが一種独特の倫理観を齎し、活動説こそ西田の言わんとすることを代弁しているからである。

 さて、人生と言うものは、今は若いと思っていても、やがて歳をとり、ここから急速に老衰の世界へと運ばれて行く。そして、四十の初老の声を聞いたかと思えば、もう直五十の声を聞く。
 十年ひと昔というが、人生は余りにも短い。
 五十の折り返し点を超えれば、嫌でもこの事を意識させられる。この意識こそ、その思惟
(しい)は、一層“切ないもの”に違いない。
 陶淵明
(とう‐えんめい)の言葉を挙げるまでもなく、「盛年重ねて来らず」であり、若い盛りは一生のうちに二度とは来ないから、その時代を空しく過ごしてはならないということにもなろう。

 また、「少年老い易く学成り難し」
【註】一説には、朱子の作とされる)からも分ろう。
 歳月の経つのは早いのでありる。光陰矢の如しである。自分は未だ若いと思っていても、直ぐに老い、月日は瞬く間に流れて行く。それに反して、学問は中々なし難い。寸刻を惜しんで勉学に励まねばならない。

 学問とはそういうものであり、人間はある意味で生涯学徒とも言える。
 老いたからと言って、学ぶことを停止するのは許されない。老いても学び続けねばならない。
 佐藤一斎が言うように、老いても、そこで学ぶことを停止してはならないのである。
 一斎はいう。
 「老いて学べば、死しても朽ちず」と。
 この意義は大きかろう。

 さて、人生を論
(あげつら)い、「酔生夢死」という言葉がある。
 何の為
(な)すところもなく、徒(いたず)らに一生を費える事である。何か行おうとしながら、もう気付いたら五十の半ばに達していたなどという事は、よくあることだ。
 出来る事なら、こうした人生は避けたいところである。そして、意義のある人生を送りたいと思うのは、万人の願いであろう。

 陽明学は、こうした人生の模索者に、実学としての大いなる勇気を与えるものである。
 思うに、人生は楽な生き方を誰もが選ぶ。出来る事なら、辛酸な苦労はしたくない。楽しみの多い方が、いいに決まっている。しかし、人生における楽しみなど、実に少ないものである。
 したがって、陽明学は快楽を追い求める実学ではなく、人生の辛酸において、その窮地から見事に生還し、「九死に一生を得る」実学である。

 人生における現実は、そんなに甘くない。
 他人から謂
(いわ)れのない誹謗中傷(ひぼう‐ちゅうしょう)を受けたり、故意に陥れられたり、裏切られたり寝首を掻かれたり、專(もっぱ)ら窮地に遭遇する立場に立たされ、追い詰められ、あるいは土壇場で寝返られ、屈辱的な恥をかかされ、二進(にっち)も三進(さっち)も行かなくなる時がある。
 こうした時に、どういう毅然
(きぜん)とした態度を示せばいいか、陽明学は教えるのである。

 また、陽明学は、人間は誰でも、窮地に追い込まれた時、単に人生の掟
(おきて)から滅ぼされるのを待つだけではなく、こうした時に、自己に備わる潜在脳力をどう使うか、教えているのである。
 しかし具体的に、この能力をどう感得し、どう使うか、知らなければ、折角の能力も宝の持ち腐れになるし、「事上磨錬
(じじょう‐まれん)」として、己を磨くにも磨きようがなく、それを発揮することができない。
 または、望まれるべきは、時に及んで、事に当るときの能力の磨き方である。

 現代と言う世の中は、現代人は物欲に溺れ、色欲に溺れている為、この世界で繰り返される縮図は、まるで蝸牛
(かくぎゅう)の闘争劇に酷似している。個人は著しく、矮小化(わいしょうか)されている。それぞれは如何にも人間的な規模が小さく、意識的なレベルが低く、誰もが情報の中で埋没しようとしている。

 その反面、肥大化された組織、情報の大氾濫
(だいはんらん)、更には悪しき個人主義と、どれをとってみても、スケールの大きさが感じられない小人(しょうじん)ばかりが多くなっている。その上、人間関係は複雑であり、ストレスを感じ易い社会のとなっている。
 しかしである。
 こうした殺伐とした状況下でも、この中で苦労し、苦難を経験した者こそ、また智者にする現実があるのである。

 智者に学べば、活動こそ、人生の「志」となる。
 志あっての人生である。
 志というのは突然に降って湧いたものでない。
 志、一文字に淵源するところは古く、志は誠と真心をもって成就に近付くと言われたものである。

 この志を持ったことで、また日本は幕末を境に明治維新が起こり、吉田松陰らが先駆者として、当時の混沌とした数歩先の霧の中を疾ったのではなかったか。
 普通、可視世界では、人より一歩先んずることは称賛されるべき事柄である。
 ところが、時代が混沌とし、不可視要素が多い時代では、五里霧中を行く先駆者は、おうおうにして非難と無理解の矢面に立たされ、指弾され、渦の中に埋没する運命を余儀なくされることは、いつの時代も同じであるようだ。

 しかし、松陰が、死しても朽ちなかったのは志があったからである。
 まさに佐藤一斎が論じたように「老いて学べば、死しても朽ちず」であった。
 但し、ここでいう「老いて」は、単に老人と言う意味ではあるまい。
 人間は生・老・病・死の四期を辿る。四期は、大自然の「四季」に譬えられる。春夏秋冬に譬えられる。そして、四季は一巡すると次の新たな春に、生命を委ねる。しかし、生命の根元は、循環する中にあり、値が残っていればその子孫は繁栄すると言う意味でもある。

 こうして人の人生とか、人間そのものについて考えるとき、そこには生き方と言う生き態
(ざま)があり、その一方に、「依って以て死ぬ何か」の探求が人間に課せられているのである。
 つまり、これが「志」であり、また「道」と言ってもよいであろう。



●天に任せる「天命」とは

 陽明学の祖・王陽明は『啾々吟
(しゅうしゅうぎん)』という詩の中に、「天に憑(よ)れば人謀(じんぼう)に非(あら)ず」という詩を詠んでいる。
 啾々とは、虫や小鳥などが小声に鳴く態
(さま)を顕わし、また、しくしくと力なく泣く態をいう。虫や小鳥が鳴く態は自分の意志きら出た事ではないと言っているのである。天に任せて、ただ鳴いているだけだというのである。
 これを例えれば、「虚空」ということになろうか。

王陽明肖像 王陽明手蹟

 天に任せ、あるいは天命に任せ、その時、その場の思慮は、自分の頭から出た知識では役には立たないを王陽明は言うのである。何故、秋野のに虫が鳴くのか。また何故、小鳥が囀(さえずる)のか。
 それは虫や小鳥の意志ではない。天に任せきっているから、虫と言う習性により、あるいは小鳥と言う習性により、鳴き、囀のである。総べて思慮のない態を顕わしているのである。つまり、意識のない、虚空を顕わしているのである。

 虚空とは、自分の力によらないものであり、自分の知識によらないものを言う。自分の力でなく、天に任せたところに虚空が存在するのである。
 こうした考えて行けば、虚空から一切の物が顕われるのである。

 喩
(たと)えば、食べ物の味を味わう時、したが虚空の状態になっていなければ、本当の食べ物の味は分からない。つまり舌の上が「虚」という状態が必要条件になる。人間が舌で感じる味覚には、鹹・酸・甘・苦の四種の基礎感覚が正常でなければならない。美味しい、不味は、れらが混合し、かつ融合して種々の味や旨みが感じられる。舌の味蕾(みらい)が主な味覚の受容器であり、顔面神経と舌咽神経を介して中枢に伝えられ、これを「味感」というのである。

 こうした味や旨みが正しく感じられる為には、舌が「虚」の状態でなければならない。
 舌に塩辛さが残っていたり、砂糖をなめて甘味が残っていたら、正しく味が舌咽
(ぜついん)神経(延髄のオリーブ後方から出て、頸静脈孔を通り舌根・咽頭に分布する神経)を介して中枢に伝えられない。

 事物を正しく把握する為には、常に「虚」の状態、つまり虚空になる事は必要とされるのである。虚空
(こくう)は一切の物の原点であり、これは一種の巨大な「蔵」である。仏道では、虚空を「蔵」と呼称して「虚空蔵(こくうぞう)」と言うのは、この蔵を象徴的に人格化し、ために「虚空蔵菩薩」と呼んでいるのである。

 この菩薩は、虚空のように、広大無辺の福徳
ふくとく/善行およびそれによって得る福利)や智慧(ちえ)を蔵して、衆生しゅじょう/生きとし生けるものを指し一切の生物あるいは一切の人類や動物。六道を輪廻する存在)の諸願を成就させるという菩薩であり、胎蔵界(たいぞうかい)曼荼羅(まんだら)虚空蔵院の主尊で、そこでは蓮華座(れんげざ)に坐し、五仏宝冠ごぶつ‐ほうかん/金剛界の大日如来が頭上にかぶる冠)を頂き、福徳の如意宝珠にょい‐ほうじゅ/あらゆる願いを叶える不思議な珠。衆生を利益すること限りないことから仏や仏説の象徴とされる)、智慧(ちえ)の宝剣を持つ菩薩である。

 したがって、人間の持つ五官には、働きとして虚空なるものが必要なのである。
 「虚」であるから、物事に応じて、千変万化できるのであり、変応自在が可能になるのである。更にはこれをもって行えば、詰まる事がない。
 行き詰まるのは、知識から出て来た行動である。知識から出た行動は必ず生きずまる。頭の中で、教科書的に考えた知識と言うものは、根源が人間が考える思惟であるから、やがては行き詰まり、八方塞がりとなる。

 希望や未来像は頭で考え、知識から生えられない。知識のみを追求すれば、やがては「道がない」「手が出ない」などの八方塞がりに陥って、希望を失ったり絶望感を感じるものなのである。
 つまり、こうしたものの出処は人間の頭で考え出された、「仮説」という知識であり、この知識に頼ろうとするから、やがては行き詰まるのである。つまり、自分の力によって生きていると言う傲慢
(ごうまん)な過信である。

 しかし「虚」に戻れば、頭で考えるのと異なり、行き詰まる事はない。
 「虚」である限り、行き詰まったら、行き詰まったで「新たな手」が出て来る。これを「奇手」と言う。
 その時はその時の事であり、その時の生死は因縁が導き、因縁が知らせてくれるのである。因縁が生かしてくれるのであるから、因縁がその時になれば、新たな手を教えてくれるのである。
 この新たな手の実体こそ、「天命」であり、おのが命を知るとは、「天命を知る」という事なのである。

 人間は、「切羽
(せっぱ)詰まれば」なんらかの新たな手が出て来るものなのである。切羽詰まるとは、「物事がさし迫る」「全く窮(きゅう)する」「最後のどたん場」などを顕わす語であり、説破と言うものの構造を詳しく述べれば、刀の鍔(つば)の表裏の、柄(つか)と鞘(さや)とに当る部分に添える板金(いたがね)のことである。中ほどに刀身を貫く、刀身断面型の孔(あな)を設け、縁には細かな鏨(たがね)跡の刻みを入れる。

 また切羽は、正しくは切羽脛金
(せっぱはばき)といわれ、脛金(はなき)は鍔元(つばもと)を固める金具であり、刀に手をかけて談判することから「はばき」というのである。此処を固めれば、「抜き差しならぬ状態」となり、抜き差しならぬ判断を、また緊迫した状態を、「切羽が詰まる」というのである。

 切羽は詰まれば、刀の刀身を抜き差しならぬ状態となる。事は逼迫
(ひっぱく)し、もう後が無くなる。こうした窮地(きゅうち)に追い込まれた時、人は、人としての真価が問われる。窮地に追い込まれて、そこで絶望し、命を断つか、それとも天命に任せてその最終判断を仰ぐか、その極限にまで自分を追い込み、こうした時に二つの選択肢が在(あ)るが、後者の諦めない姿勢を貫けば、道は未(まだ)だ残されている事になる。

 この時の道が、「虚から出る秘術」である。
 切羽詰まった所から出て来る、「新たな手」のことである。頭で考える、あれこれは、結局知識の世界の繰り返しでしかない。知識から窮地を脱する方法を得ようとしても、「新たな手」など、出て来るはずがない。

 頭で考えて導きだされた知識では、勝手が違えば役には立たないものである。かえって邪魔になる事が多いであろう。
 したがって「虚」を全うしなければならなくなるのである。その場、その時の「新たな手」が在るはずである。これこそが、「九死に一生を得る」ことなのである。

 その場その時の出た手は、もはや自分の知識から出たものではない。
 此処には、「天が働いた」のである。王陽明が指摘するように、「人謀に非ず」なのだ。人の頭で考えた、謀
(はかりごと)ではないと言う意味である。

 謀には、策謀・無謀・陰謀・謀殺・謀反
(むほん)などの言葉が用いられる。これらは「良くない」ことへの代名詞である。
 だから王陽明は、「天に憑
(よ)る」ことを説き、「天に任(まか)せる」ことを説いているのである。しかし、こうした局面に遭遇して、そんな手が出るか、予(あらかじ)め知る事は出来ない。その局面に遭遇しなければ、因縁に相応しいように働いてくれないからである。ただ、覚えておかなければならない事は、「虚」で行くしかないと言う事だけである。「虚」こそが、自由自在の道なのである。

 これは同時に、武術修行の心得にも通じる。
 どういう手で出るか、因縁による。条件による。したがって「好
(よ)い手」が出て来る為には、稽古量がものを言い、日夜修行する事が必要になってくる。
 武術に限らず、競技武道でもスポーツでも、その動きと変化は千変万化である。あらゆる方向に変化する。心の動きが反映されるからである。
 動きの中では変化が著しく、この変化は、一々頭で考える変化や動きではない。そんな暇は、戦いの現場にはないのである。

 千変万化の変化と動きに耐えられるのは、稽古によって、いわば反射神経を養成し、変応の動きが出来てこそ、これが可能になり、稽古を積んで技を、練りに練って、これが躰に染み付いてこそ、高度に円妙な技が出て来るのであって、これを体現する為には、やはり虚の妙用を深く磨かなければならないのである。
 つまり錬磨である。
 錬磨こそ必定なのである。実践学の教えるところである。



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