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陽明学入門 14

水は上から下へと流れる。流水の自然法則である。流れている以上、澱まない。濁らない。
 しかし、止まれば澱み、濁り、やがては腐る。
 腐っては、「物
(こと)を格(ただ)し、知を致す」ことはできなくなる。工夫(功夫)することが止まらないことなのであるが、工夫の難所は、格物致知に集中する難しさである。

 だが、まず「意を誠にする」ことにより、工夫の糸口が見えてくる。意が誠なら、まず心の自ずから正しくなり、身もまた自ずから修まる。意は誠において一致し、そこに集中していなければならない。

 つまり、「心を正す」ことも、「身を修める」ことも、それぞれは工夫
の場を異にし、『身を修める』には喜怒哀楽の既に発した「巳発」の場で、もう一つは『心を正す』ための「未発」の場でなされると言う。心が正しければ、それは「中」であり、身が修まっていれば、それは「和」であると陽明学は教える。
 そして、根本に帰着するところは「誠」である。誠こそ、良知の現れであった。



●仁と不仁

 そもそも思想と言うのは、先人の直観的な異様と理論的な反省を繰り返して構築された思惟の結果から齎された思考体系を、単に丸覚えしてそれを記憶に留めることでない。
 『伝習録』でも『近思録』でも、何ページの何処に何が書いてあったか、それを暗記したところで、ただそれらの事柄について知っているだけのことで、結局その域を出るものではない。知識として記憶の中に留まっているだけである。
 しかし、そういう「記憶の抽出し」も、やがては老朽化して忘れ去られていくものである。人の記憶はその人の死によって、一切が無に帰するだけである。

 したがって、記憶の抽出しの応用編は、行って遣うことにある。その行いがなければ、知行論にはなり得ない。但し思想は、『近思録』のように整然と整理され抽出しに納まり易いものもあるし、逆に陽明学思想を手引書として編纂
(へんさん)された『伝習録』においては、もともとが陽明学自体、規制の枠内に納まりきれない部分を有しているため、行儀よく整然の並ばないところがある。
 絶対唯心論であるため、あたかも心の自由性の躍動によって幅をもって厖大化するとともに、立体的膨らみがあるため、こうしたものは既成概念では整理が付かないところがある。
 陽明学と朱子学を比べると、こうした違いの一面もあるのである。

 これを中国の官僚登用採用試験の科挙
【註】隋代に始まり、唐では秀才・進士・明経などの六科に分かれ、経典・詩文などが中心であったが、宋代になると、科目は進士中心となり、解試・省試・殿試の三段階からなった)という制度から考えると、答案用紙を作る側からすれば、陽明学のような何処に躍動して転ずるか分らない学よりも、理的には整然と整理され体系立っているように思える朱子学の方が、出題側にも作業し易い学と云える。つまりこういう意味で、朱子学は官学にもなり、官僚学にもなり得たと云えるであろう。ここにこそ朱子学が体制側の学問になり得た根拠があった。
 最初から答えのあるものは、出題者も白黒は明快になって採点し易いからである。それに比べて陽明学は心学的要素が濃厚で、それだけに膨らみがあり、解答がないものになれば問答自体が難解になるところが出てくるようである。

 さて、日本では遣隋使以来、推古天皇朝から中国文化が仏教とともに齎され、遣唐使へと受け継がれてその後も、国際情勢や大陸文化を学ぶために、十数回にわたって日本から唐へ派遣された。しかし、これらの、当時は世界でも最高水準の文化を導入しながらも、日本で採用されたかったものが二つある。
 それは宦官と科挙の制度だった。日本ではこれが拒まれ、ついにこの二つだけは取り入れなかった。

 しかし、宋代に起こった朱子学は、それ以前の儒学とともに日本にも入り、孔子の説いた修己治人論は国を治める学として珍重された。
 斯
(か)くして朱子学は中国では国教学となり、日本でも徳川期の儒者達が異口同音にして唱えた「万世のために太平を開き」が経綸方策の第一線で活躍するようになった。
 そして徳川期の朱子学の原形は、北宋の『近思録』の編纂により、学問体系がこれまで深く掘り下げて内面を探ることよりも、広く歴史を極め文物制度に関心を持つ傾向が強くなって行く。
 物への探求となり、朱子学は、後の陽明学が心学であるのに対し、物学へと変化し、心を動かすよりも、その側面から物へと移行して思想形成の反省資料を提示する結果を招くのである。

 これまでの儒学の規模が、北宋の周敦頤
しゅうとんい/濂渓)・張載ちょうさい/横渠)・程コウていこう/明道)・程頤ていい/伊川)以来のものが広大化してこれらを手引書として一書に編纂したものが『近思録』であった。

 また、程明道は明道先生と称され、朱子学ならびいに陽明学の源流の一人であり、弟の伊川とあわせ「二程子」と呼ばれた人物である。そしてその中でも、「仁」を説き、また「不仁」に着目した。
 心において、他人の苦しみや痛みなどの痛痒
(つうよう)を感じないことを「不仁」といい、感じることを「仁」と考え、天地万物を自分が事のように体感して一体になることを認識する「仁」を体得ことこそ急務であるとした。そして、「仁」を得るには「誠敬」の心を持たねばならないとしたのである。

 誠敬とは、「まごころ」で事にあたり、起居動作をつつしむことを云う。
 こうした「心」に対する体系付けをしたことが、陽明学の、また心学へと発展していくのである。そして「心」を主体においている以上、当然、心には「霊性」があり、更には「霊的神性」があるのである。誠敬を極めた人は、神性にまで及ぶのである。心学と言う所以である。

 しかし一方で、朱子学は国教学化したため、朱子学派は陽明学派のように大きな分派を見せることがなかった。心は二の次にされ、経済優先の政策下に組み込まれた。
 そもそも経済とは、本来の意味は、国を治め人民を救うことであり、経国済民を意味する。今日で云う「economy」と云う意味ではない。

 国を治め人民を救うことが第一義であり、それは満人王朝が、「夷狄討つべし」をスローガンに掲げた朱子学が、国教化して、その学を採用する大胆な政治路線を取り入れたことによる。
 だが、やがて陰湿な朱子一尊主義が唱えられ、一方、陽明学は危険思想で犯罪性の高い学だと喧伝されるに至る。陽明学の異端視は、この頃より始まったものと言える。

 また異端視傾向は日本においても同じように扱われたらしく、「寛政異学の禁」には蘭学とともに陽明学も含まれていたのである。体制側の学としては相応しくない学問であったらしい。
 それはまた、朱子学と異なり、先の述べた記憶の抽出しに納まりきれないという自由性の躍動が敬遠されたのだろうか。

 中国では、日本の鎌倉時代には朱子学は没し、その後、朱子学の名は、徳川期に入って広汎な流行を来すのである。何ともこの歴史的はズレが不思議である。
 以降、日本では林羅山たによって、朱子の哲学が政治学として関心を持たれるのである。そして朱子学を体制側の学問とし、それ以外を国を惑わず異学としたのである。

 朱子学を端的に言えば、「理」または「物」の哲学であろうか。
 更に、「理」の面においては、理学または性理学と呼ばれるように「理」を尊重する学問なのである。勿論その裏側には「物」が張り付いていることは言うまでもない。
 「理」の持つ意味は、理念、道理、倫理、論理、理論などのさまざまなものが含まれるが、朱子自身もこれらについては細分化したわけでなく、ただ禅や禅擬いの儒学の欠陥を指摘する時は、心の確立に重点を置いていて、そこには見るべきものがあるが、客観界を構成する条理に対しては冥
(くら)かったようである。

 それは行動意欲の面に顕われた。
 つまり心の活動が恣意的となるのである。勝手気侭になってしまうのである。制御する策がなく、そのような状態にあって現実界とは噛み合ぬ空転状態が起こるのである。

 世界を構成する気には、そこに必ず存在根拠ならびに法則としての理があると捉えたことは、これが主体であるにせよ客体であるにせよ、多様化を伴うことで、これは人間においては気質の性であろう。また理気世界観では本然の性となり、本然は理に他ならないとする考えは、そこに心の力だけで押しきれない、気そのものの主体構成の勢いがある筈である。

 この場合は主体並びに客体の理の在り方を、細かく追求してこそ万事万物に貫徹する理があり、その方法論として格物致知・居敬窮理・主一無適などを挙げているが、本来ならば主観と客観の事物相互間を究極的一理が貫かねばならぬ。
 心を絶対主体として、合理的方向付けで止まるべき理が恣意的な活動をしては、理は却
(かえ)って心の自由性を奪い、萎縮(いしゅく)させてしまうだけである。

 江戸中期の儒学者・太宰春台
だざい‐しゅんだい/但馬出石(いずし)藩に仕え、後に辞して荻生徂徠に学ぶ。経書・経済に通じ、また近世中国語にも詳しかった。著の『聖学問答』は有名。)は自著の『聖学問答』の中で朱子学批判を行っている。

 畢竟(ひっきょう)宋儒(朱子学)ハ、天地ノ活物ナルコトエヲ知ラズ。理ヲ以テ推量(おしはから)ントルスハ、天地ヲ死物ニシタルナリ。是ヨリ推(おし)テ、天ヲモ命(めい)ヲモ人ノ性(せい)ヲモ、都(すべ)テ理ナリト説ク。

『聖学問答』より  

 春台は、絶対主体なる心が動いては、どうにもならないとして、そこを衝いたのである。
 学問と言う、これを信奉し、特に自分の信奉する学のみを特定的に絶対視し、更には、いま自分が学究している学のみをこの世の中で最高として墨守することは、一方で他の学を頭から否定し、異端邪説として一蹴する悪しき行動や言動が出かねない。見苦しい詰り合いである。

 宋代から明代に懸けて、得意絶頂瀬あった朱子学は、その学を信奉する儒学者らを有頂天にさせていたであろうが、例えば陽明学に悪罵を浴びせ掛け自己満足の思い上がりに留まり、こうした奢
(おご)る意識がやがて衰退を招くのである。つまり、人間の思惑は、奢った時点で膠着(こうちゃく)するという現象を招くのである。
 現象界は変化し、動いて止まない。万物は、わが一人だけ変化するのでなく、連動して変化している。

 したがって、先人の思想が如何に優れたものであっても、その信奉者は知識を身に付けるだけの時点で留まってはならない。更に発展し、進化させていく糸口を見付けて、あらゆる方向に展開し、また派生するものを探さねばならない。変化させ、発展させることが肝心なのである。これを怠ると、如何に優れた思想であっても、完璧と思い込んだ時点で崩壊する。

 これは武術などの流派にも云えることであろう。
 日本の多くの武術の流派は、大半が伝統ではなく、単に先代の伝承であり、本来の伝統をもって、自流に工夫を凝らし、時代に併せて変化・発展させていく気概に乏しい。あたかも骨董品の如きである。
 骨董品は骨董品としての良さは勿論あろうが、それに留まっていては、やがては衰退を招く。単に、武技に奔走するだけでなく、また格闘の優劣を競うのでもなく、心と言う内面の観測を怠ると、暴力的な危険な面だけを露
(あらわ)にし、強(し)いては文人から眉を潜められ“悍(おぞま)しい”と云われるのがオチであろう。

 世には、武技とか格闘といえば大戦当時の白兵戦の残酷を連想して、眉をしかめ、闘いと言えば悍しいといって表情をする人達が意外にも多い。平和主義をひたすら信じる人達は、戦争のメカニズムを探って、なぜ人は闘うのか、なぜ人は争を起こすのかなどは殆ど探求しない。その人間の、その時、その場の深層心理すら研究しない。
 ただ戦争と云う言葉や兵器を遠ざければ、戦争はなくなると固く信じている人達である。

 したがって、真の平和主義に徹するならば、こういう人達にも馴染める説得ある、新たな平和主義を武術修行者側からもその倫理や論理を用意しておかねばならないのである。
 昨今に見られるような、自流の優を誇り、他流を詰
(なじ)る、そういう自流の絶対真実性のみを墨守する考えでは、暴力が主体になるため、これは「仁」ではなく、人の痛みが分らない「不仁」となり、時代に取り残されていくだろう。

 また独占意識が侵攻すれば、本来自由なる人間の行動律に歯止めを掛け、必然の勢いを失うだろう。
 行動律の自由を蔑ろにすれば、その武技も含む心技体は抑圧される魔剣となり、自らで墓穴を掘る元凶となろう。学ぶべきは変化・発展の中に自由性を見出すことである。
 その自由性を見出す中に、人の生命の尊厳があり、心の躍動が存在するのである。そして、心即理であるならば、躍動する心の制御する行いこそ、真の意味での知行合一に通じるのである。



●艱難

 陽明学を研究して行くと、この学は単に朱子学に対する異端観が感じられると言うより、そもそも既に述べたように朱子学の、それとは異なり、教学的弁別意識が希薄であるとともに、比較すれば異端と言うより、次元に問題があると思うのである。
 つまり、論理の高低差である。

 何故なら、入門書である『伝習録』は、朱子学に対する『近思録』に譬
(たと)えられて対比されるようであるが、この書は朱子自身の生の言葉が全く見られないのが特長である。

 種々の解説をした複数の『近思録』を探索して繰り返し読むと、この書の内容は、形式的論理学の様相を極め、それから類推すれば、ほぼ理解が可能であるのに対し、『伝習録』は、『近思録』とは異なる一種の次元の理論を生み、更に次ぎなる理論が起こって、それがあたかも連鎖して、遂には理論を超えてしまう絶対主体が、心的作用に、縦横自在に躍動しているのである。
 ここに陽明学の云う「心即理」という概念が働いているように思うのである。これが心の哲学として、画期的な、あるいは革命的な躍進だったと言えよう。

 この躍動こそ、形式的論理学の『近思録』との違いが、まさに如実になってくるのである。
 両者は、どちらが優れているか否かではなく、問題を提起する「土俵の次元」が異なっているのである。

 その特長は『伝習録』には絶対主体なる良知があり、それゆえに躍動自体がそのままの生き生きとする表現型を超え、理論として捉えられない側面を持ち、二次元平面の画面からは食
(は)み出した感覚を覚えるのである。
 つまり、人智の眼に捕えられない隠れた部分が存在し、また、未だかつて理論としては整備し尽くされていない、驚くべき実質を持っているのである。
 『伝習録』と『近思録』の決定な相違点は、此処にあると言えよう。

 昨今は、世の中の不穏につけて、過去を振り返り、明治維新をその維新前夜に戻し、それを実証し、あるいは顧みるために陽明学の研究をする人が殖
(ふ)えている。
 ところが、これらの求学の人に多い陽明学理解は、単に朱子学と陽明学に入門書を比較して、その相違を数直線上において、左派とか右派の相違のみを学習しているに過ぎず、最も肝心な縦軸の上下の異なりを、殆どの人が見逃しているのである。

 この意味においては、天才・吉田松陰らがその違いを早々と見抜いていたと思われる。
 それが恐らく、松陰が知行合一を「狂」と捉えていたことに他ならない。松陰は「狂」こそ、知行合一と捉えたのである。
 もし、松陰の「狂」としての捉えからがなかった場合、以降の行動は存在しなかったであろう。

 一般に、吉田松陰は『陽明学者でなかった』とする神道系学者の論
(あげつら)う説が有力である。これに逆説的な意見を投ずるならば、確かに松陰は陽明学の学者ではなかったであろう。
 そもそも学者は学者であり、学者の範疇
(はんちゅう)から出るものでなく、学者の域に留まるからである。理論だけ掲げて、それ以上動こうとしない。

 ところが、陽明学に知行合一を「狂」と見て取った松陰は、行動を起こした。蹶起しなければならないと覚悟した。この行動こそ、知行合一として評価されるべきである。
 激動の時代は、まさに激動であり、今日のような「水面下の暗躍した諜報戦」の時代、外見に確認できる動きは、凡夫
(ぼんぷ)には感得できない。同じ激動でも、表面化と水面下の動きとは、天と地ほどの差があるのである。

 松陰は、肉の眼で確認できる表の動きと、裏で蠢
(うごめ)く水面下の動きを鋭い洞察力で感知していたに違いない。こうした動きは凡夫には容易に感得できないものである。時代の霧の中を一歩先ゆく先覚者ならではなの孤独な感得力である。

 だが果たして、どうだろうか?……と思うのである。時は刻々と変化するのである。
 歴史を固定したものと捉えるのは、愚である。
 したがって、その論には、何故か神道系学者の短見を感じられずにはいられないのである。
 仮に、そうでなかったとしても、松陰の行動には実に陽明学的で、その行動原理をそのまま応用したのではないかと言うところが見られるのである。

 また、佐久間象山の弟子になろうと思い、邂逅を求めた河井継之助ですら、象山の人柄を嫌って、象山の師であった佐藤一斎と同じ同門の山田方谷
(やまだ‐ほうこく)の門に入門して、陽明学の手解きを受けているのである。
 この意味から考えれば、幕末から明治に懸けて、当時の行動原理は、まさに陽明学的である。陽明学の良知を知らずに、滾
(たぎ)った時代の行動様式はなかったものと思われるのである。

 そして、現代に至っても、陽明学が危険なる学問として敬遠され、喰わずもの嫌いで煙たかがられているのは、彼
(か)の国の明代当時の朱子学者・羅整庵(ら‐せいあん)らの軽率なる指摘が尾を曳いたものとも思えるのである。仮性後遺症であるとともに、また日本も中国の文化に対して、それだけ畏敬の念を払っていたのであろう。

 当時、陽明はこうした朱子学者の振る舞いに対し、『朱子晩年定論』は、已
(や)むを得ず作ったものだとし、それは『伝習録』中巻の「羅整庵宛て書簡」に記されている。陽明は『定論』の不備をある程度認め、しかし、この『定論』こそ陽明自身の思想であり、また聖人になるための学としている。

 こうした陽明の遣り方は、一部の学者の失笑を招いたことは事実であろうが、見方を変えれば、陽明の思想は実体験の中で体得したものであるから、陽明の胸中には自分の思想に対する疑いは全くと言っていいほどなかった。
 また、この時代は朱子が神聖視され、学問の公共性について喝破されるに至ったのである。

 「致知」の二文字こそ、孔門の正法眼蔵である。
 あるいは三字をもって「致良知」としても同じであり、これを知って、はじめて道を知るといえる。また、これを体得してこそ「徳」といえる。人の徳は、ここに回帰する。

 だが、道を間違って学べば異端となるし、これから外れれば説論も邪説となる。また、このことが分らなければ冥行となり、つまり、これをもって危険思想と指弾される。
 しかし、工夫を施せば良知は再び顕われ、前方に塞がる魑魅魍魎
(ちみ‐もうりょう)と雖(いえど)も良知によって打ち砕かれる。これが陽明の建学の精神だった。

 つまり陽明が云うように良知に至れば、あたかも太陽が悪魔をその光で打ち砕くと言うのである。光の照射は悪罵どもが隠れ場がないようにして、そのためにはまず私心
【註】喜怒哀懼の度が過ぎたものを「私意」といい、私心とは区別する。また毀誉褒貶の評判を気にしての得失打算を「人欲」という。物を追う私欲とは区別する。微妙に違うことに注意)を駆逐し、また光景によって、人間は天然自然に絶対霊性を得て充実鍛錬に努めるべきだとしている。しかし、行動学としては内容が難しく、かつ「良知」は至難の業である。容易には実践できない。

 ただ行動学の要諦として最も分り易いのは「狂」の一文字で行動原理を顕し、「狂」に賭
(か)けて前進することであった。これこそ屁理屈も、小難しい理論も必要ない。ただ「狂」を致せばいいのである。消極的な常人ではないことをすればいいのである。
 恐らく幕末から明治に懸けて、日本人の激動の時代を駆け抜けた行動学は「狂」の一字に尽きるのではないかと思うのである。こういう時代は精力的に、積極的に動かねばならないのである。行動によって、自らの存在を示さねばならないのである。

 「狂」こそ、知行合一の姿を変えた行動原理であったと思うのである。
 この劇薬的で、効き目は、覿面
(てきめん)なる「狂」こそ、知っている以上、それは必ず行いに顕われると言うこの単純明快な「心即理」に発現されたもので、これを逆から言えば、知っているのに行いが伴わないのは、結局知らないことなのである。此処にこそ「狂」の、常人では成し遂げられない心即理の行動原理があったと言えよう。
 思えば、何と、劇薬的ではないか。そして遣い方を誤れば、それが毒薬ともなり、一気に命を奪ってしまうのである。

 今の日本を顧みて、歎く人は多い。
 彼
(か)の人は、「明治は遠くなりにけり」といって、古きよき時代を懐かしみ昔はよかったといい、また彼の人は現代社会の理不尽を詰りながら、その不合理を正せないまま泣き寝入りして道理に合わぬと呟(つぶや)きながら、更に彼の人は「俺の人生こんなもの」と呪いながら、何の解決もなく人生を潰えていく。そして、「それでいいのか」と考えたり、反省もしない。ただ流されるだけである。抗(あらが)おうとしない。

 つまり、顧みているようで、実は顧みず、実に感傷的なのである。
 その退廃した一部を曝
(さら)け出したのが、今日に流行を見せる居酒屋ブームの、如何ともし難い哀愁や、一日の憂さ晴らしではあるまいか。一杯引っ掛けて家路につく……。
 ところが、あの哀愁に、果たして国を思う根っこが感じられるだろうか。
 またパチンコや、その他の公営ギャンブルに現
(うつつ)を抜かし、五万取ったの六万取ったのが、果たして人生に大きな意味を持つのだろうか。喜怒哀楽に明け暮れている時ではないだろう。
 ただ無力・無能を曝
(さら)け出しているだけである。

 人の真似をしていれば安全だ。間違いない……。これはただ、時代に流されるだけ……という退廃ぶりが感じられるのである。
 それを、「だからいいんだよ」という御仁
(ごじん)も居よいが、土台が腐っていては、足の自分の足許すら覚束無くなるのである。現代人の多くは、この「自分の足許」の意味を全く理解していていないようである。
 国破れて山河はないのである。地上から国家そのものが消滅する。所属する国がなくなれば、人権は剥奪され、大ローンでやっと手に入れたマイホームすらなくなるのである。

 あれは、あれでいい……。
 果たして楽観的に、そう言えるだろうか。言い切れるだろうか。
 人には、それぞれの憩いの場であろう。マイホームも憩いの場と言えるだろう。
 また、家庭サービスの中にも、家族揃っての旅行も、旅先ではそれぞれの楽しみ方があろう。家族全員で、海外旅行に出掛けるのも、憩いの場を求めてのことであろう。
 だが、帰国したら、もう帰る国はなかったということもあり得る。自分の居場所はなかった。これは決して荒唐無稽な話ではあるまい。昨今の世では、あり得ることだ。

 安全も、タダではなくなった時代である。不慮の事故や事件は、いつ襲い掛かるかも知れない。
 現実にはあり得ない危機を煽
(あお)って、いまのマイホームライフに難癖をつける気持ちはない。
 しかし、自らの人生を、そのように結論付けるのは、些
(いささ)か問題である。短絡的である。

 何故なら、世界は不穏を呈しはじめたからである。暗黒の闇が、表の世界を呑もうとしているからである。これこそ、国難来たるではないか。
 眼に見えない艱難
(かんなん)が迫り、いつそれが襲うかも知れないのである。安全だと思ってで掛けたところが、実は危険と隣り合わせだったと言うのが、今日の現実社会である。

 忌まわしい大惨事を起こした花火大会も、活火山の噴火の遭遇も、また外国の美術館での銃撃事件も、更に格安航空会社の故意に墜落したことが疑われている航空機墜落事故などを考えれば、既に安全神話は崩壊したことを雄弁に物語っている。他人事ではないのである。
 善と悪との識別も不明になり、敵味方の境目も曖昧
(あいまい)になったのである。人間不信が濃厚になった時代である。
 艱難は、既に自分の側面に貼り付いたと考えるべきであろう。

 この状況は、幕末の艱難迫る“あの時代”と符合する。多くの点で重なり合うのである。
 かつて、黒船は太平洋を渡って東から来たが、今度は北と西から来るであろう。
 特に、北からは濃厚である。

 外圧である。
 水面下で暗躍する工作員を介した外圧は裡側
(うちがわ)からも滅びの種を撒(ま)き、外からも北と西から軋轢(あつれき)が掛かるのである。
 この現象は歴史が繰り返すのではない。
 人間の考える思考が、当時の人間の判断と符合するだけである。人間の思考は時代が違っても、思考回路は同じなのである。同じことを考える。

 幕末の頃、吉田松陰は北を意識していた。長州藩の仮想敵国がロシアであったからだ。
 北から攻めてくる。松陰の霊性から感じた危機意識だった。
 そして、現代の世でも、攻めるとなれば北である。あるいは西か西北であろう。
 松陰の時代には、ここに防衛網を設置しようと考えた。外圧は太平洋を渡ってくるのではなく、まず第一打は、日本海を渡ってくる可能性が濃厚である。

 その同じ回路で物事を考えるのであるから、似通った現象が顕われるが、これは往時の人と思考が同じで、歴史が繰り返されたのではない。思考が、同じ回路を遣って働くのである。
 昨今の世の不穏を考えても、植民地主義ならびに帝国主義が猛威を揮った、あの時代に酷似するのである。

 現代人は、あの時代と同じ思考回路で、形を変えた植民地主義の戦略的グランドデザインで、物事を考えているからであろう。闇の帝王は、また桁外れの富者は「北から」と指令を出したようである。
 現に、今日の実情を見れば、多発する地域紛争は治まるどころか激化し、拡大の一途にある。
 平和への願いは空しく響くばかりである。むしろ平和を高らかに謳
(うた)えば謳うほど、世界の緊張は高まるばかりである。

 こうした現実下での不安定な世界動向を伝えるニュースや報道は、事態の表面部分だけを伝えて肝心なる深層部に迫らない。また、平和主義とマイホーム主義などの悪しき個人主義は、こいうした真相や理由を伝えることはせず、専門家と言われる有識者層に独占され、重要なる情報は庶民レベルでは知りようもない。
 更に情報過多の時代、溢れんばかりの情報は人心の目を眩
(くら)ませ、意識を混乱させ、正しい判断を奪うものばかりが錯綜(さくそう)している。

 そのうえ未
(いま)だに市民社会が確立できない被独立国家日本は、命令されるがままに世界の危険地帯に足を踏み入れ、“グローバル化政策”に躍らされて驚喜しているが、そのうち多くの財産と生命は奪われることになるであろう。
 世界の紛争地域は拡大方向に向かっているからだ。その右回り旋風が、島国日本に到達するのも時間の問題と思われる。

 これは国際化されたことと無縁ではない。
 また、国際社会にはテロ組織やNGO
non-governmental organizations/民間人や民間団体のつくる機構・組織)などの国際機関、多国籍企業などが登場したことにもよろう。
 更に、類共通の課題になってきた環境問題も、地球規模での対応が求められる一方、先進国と後進国のと格差の問題も紛争の派生材料になっている。グローバル化とグローバル経済が急激に進む中、従来の紛争は大きく姿を変えようとしている。その背景に、弱体化するアメリカ国力と、その終焉を暗示するものがある。

 チベット紛争、北朝鮮による拉致問題や核問題、新疆ウイグル地区の紛争、シリア・イラク・イラン・アフガニスタン紛争、ソマリア紛争、資源に端を発するロシア・ウクライナ紛争並びにボリビア紛争、更には紀元前から続くパレスチナなど、また残虐なアラブ独裁体制に伴うテロテロ戦争を含む果てしない修羅の道が、日本の前途に展開されているのである。
 世界は国際政治への舞台と転換し、世界情勢は今までにも況
(ま)して洞察力と分析力を必要とする時代になった。日本の運命は、目紛しく動く世界動向を冷徹に見抜く力がなければ、日本列島はやがてなり行かなくなるだろう。

 そして日本は東洋でも極東に位置し、日本人は先の大戦で敗北し、アメリカに占領されたとはいえ、まだ徹底的な日本列島自体が植民地にされた歴史も経験も持たない。祖国を奪われた経験を一度もしていないのである。
 古来より日本列島に住み着いた日本人は、農耕民族としてこの地に数万年住み着き、日本人として本州の東北より東側、九州、四国などの地は、此処で日本人として純粋培養されて来た連綿として続いた歴史を持っている。

 その一方で資源的に見れば、この列島にはこれと言った資源がなく、ただ勤勉に真摯に真面目に働いて来たと言うことだけが、平凡なる底辺の日本庶民の誇りである。それだけに、人格的には高潔であり、心の本然は極めて「善」に近く、その一方で、世界の中では救いようがないほど「お人好し」の一面を持っている。これは百年前では美徳で通すことが出来たであろうが、今は違う。激動の世に瀕
(ひん)しているのである。

 しかし、国難来るの危機を感得できる人は実に少ない。
 「狂」になれる人は皆無にも思える。あるいはこの危機を感じ取って、これから雪の泥濘
(ぬかるみ)を歩いていくことになるかも知れない近未来に、どれほどの人が近未来の艱難に気付いているであろうか。

 人間は人間である以上、人間として生きたいと誰もが願う。
 ひとたび人間として生まれた以上、どの時代に生まれようとも、また生まれた国や、如何なる人種に生まれようとも、誰もが人生を幸せに暮らしたいと切に願うものである。その国で平和に暮らしたいと思う。

 清く美しく澄んだ空気の下で、また清水が流れる小川の畔
(ほとり)で糸を垂れ、まさに「小鮒釣りし……」の牧歌的風景の中で、豊かな山脈に囲まれた麓に棲み、平和に安心して暮らせる国家にあって、愛する家族に囲まれ、信頼できる人達を友にし、自らの天職を全うして、生涯を創造的な仕事が満足にできれば至上の喜びであろう。
 時には音楽や美術、更には芸術などの触れ、好みの映画や劇を心から鑑賞して、食文化の世界にも接してその妙を味わい、そうした文化や鑑賞の世界に浸り、時には夜空を眺めて哲学的思索に更
(ふ)けることが出来たら、この世に生まれたことを心より感謝して、その念が尽きず一生涯忘れることはないだろう。

 古代より現代に至るまで、地球はそう言う恩恵を、人間に与えて来た生命体であった。その生命体は人間に充分過ぎるほどの恩恵を与えて来たのである。
 また、地球上の何処に生まれようと、地球は人間に与えた資源を元に真摯に努力を続ければ、何ぴとと雖
(いえど)も充分に幸せに暮らせる構造を持った星だったのである。

 地球を形成する大自然は、巨大な摂理で動く生命体だったのである。
 人間以外の動植物も、肉の眼には見えないが整然とした仕組みの中で総てが恙無
(つつが‐な)く運営されているのである。更に生物学上教えられるのは、人間以外の動植物は、自らは必要とするだけの最小エネルギーがあれば、それだけで充分生きていけるのである。
 ところが、人間だけはそのようにいかなかった。

 人間は水冷式哺乳動物の形体をもちながら、霊長類の頂点に立ち、このサル目ヒト科の動物は、有史以来、大自然が定めた生き方に、いつの時代も違反して来た。この霊長類は、進化的にはモグラ目
(食虫類)から分かれ、歯ならびに四肢は特殊化していないが大脳はよく発達したため、脳の働きで欲と言う「貪る心」を抱いてしまった。つまり、「五欲」である。
 五官という眼・耳・鼻・舌・身の他に、五境という色・声・香・味・触に対する欲望を持つ。これが感覚的欲望である。

 そして、最も厄介な欲望が、財・色・飲食・名
(名誉・地位・階級・学歴・学閥・学位・経歴など)・睡眠を求める欲望である。この欲望が人類の歴史に禍を齎した。必要以上に、これらを欲しがるとことである。
 特に、財の根幹をなす富みにおいては、自然や人間社会から収奪と言う方法を用いて、欲深き人間によって独占されて来たのである。

 人間はいつの時代も無限の欲望を心に秘めて、時としては自然を破壊し、人と争い、自分を有利な立場において、他の弱者を虐げるということを遣って来たのである。
 そして人間世界では、此処から悲劇が始まったと言えよう。まさに、人は生まれながらに罪人であり、かつ罪人は禍
(わざわい)であった。
 だからこそ、禍を避けるためにも道を学び、問答をし、良知を身につけ、知行合一を実践しなければならないのである。滾
(たぎ)った時代では、誠の探求が急務であろう。



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