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陽明学入門 10

季節は移り変わる。四季を経て移り変わっていく。
 この四季を人間の四期に譬えて生・老・病・死のサイクルに準えることもある。
 吉田松陰は『留魂録』の中に、自らの四季を見事に表現してみせている。

 『留魂録』の一節には、こうある。
 「今日死を決するの安心は四時
(四季)の順環(循環)に於て得る所あり」として、穀物の収穫に譬えた死生観を語っている。ここには人間の四期があり、人はこの循環を廻って使命を終え、次の世代に託すとしている。

 これは落葉にも譬
(たと)えられよう。
 大樹の枝に繁った若葉は春に芽を出して、夏には立派な若葉となる。その若葉は秋になって色づき、冬に差し掛かる頃、病葉となって葉は落ちていく。しかし地面に落ちて、使命はそれで終わったのではない。地面に落ちて次の世代のための養分となる。
 そして再び生命は繰り返されるのである。



●何故かの追求

 産業革命後の西欧諸国とはどういう国家群だったか。
 その国家群では、誰が支配するのか。
 それは国家を形成する権力支配か。その権力支配中枢は何を動かし、一方で、どう言う指令で動いたり動かされたりするのか。
 また、植民地主義と帝国主義に興じる西欧列強とは、そもそも如何なる国家群なのか。
 その国家の指導者は、人民から選ばれるのか。それとも、支配中枢を構成する立役者を、更に深部の奥の院の指令者が指名するのか。

 かつて吉田松陰が密航を企てたアメリカ合衆国は大統領命令で、東インド艦隊司令長官のマシュー・ペリー
Matthew Calbraith Perry/ペルリ。漢字名は彼理。1794〜1858)に、第13代アメリカ合衆国大統領のミラード・フィルモアの親書を持たせ日本へ出航させた。
 出航目的は鎖国している日本を開港させるため任だった。更に、航路的に最短距離でアジアへ達する太平洋航路の開発ならびに寄港地
(カムチャツカ半島からオホーツク海まで進出するようになった捕鯨船の寄港地)を確保するとともに、またアジア貿易ではイギリスを出し抜く目的があったと思われる。

 しかしペリーの腹積もりは、武力行使が隠されており、鎖国日本が開港しなかった場合は周辺の島々を占領することも辞さなかったようだ。
 大統領の親書には、「日米和親条約」
(表向きは日米両国間おいて、今後永久に和親が結ばれることを信条にして、寄港の際の利便性を重視したものに見えるが、要するに植民地政策の一環に組み込まれた経済開発地域で橋頭堡的な取り決め)であり開港を迫ることであったが、同時に十八世紀後半からの世界状況はイギリスを発端として始まった産業革命であり、また産業革命後の欧米諸国の政治並びに経済の急激な変化を危惧してのことであった。この時に国際経済競争が始まっていたのである。イギリスは蒸気船の世界では造船王国になっていた。

 西欧列強は、自国製品の販売市場とその原料の確保を目指してアジアに需
(もと)めた。
 これは原料供給地・商品市場・資本輸出地をなし、政治上も主権を有しない完全な属領を意味した。これにより列強の植民地政策が始まる。弱肉強食の理論だった。

 経済の裏には政治が隠れている。政治の裏には経済目的がある。経済目的を達成するためには武力行使を辞さない。政治・経済・軍事は三つ巴の関係である。
 要するに富者が、ますます肥る構造が中枢にある。そして多くの野心家達は、この中枢に接近しようと奮闘する。生産割当や共同販売を行うためにシンジケートに近付こうと画策する。
 シンジケートは中枢に近付くほど、見返りの利権も大きい。同時に、作用に対しての反作用も大きい。何を以て、これに贖うかが野心家の提供課題である。

 富者
(金持ちと言う意味ではない。強い権力をもつ者の意。奥の院を指し、厖大な智慧と胆識の持ち主でもある。指令塔としての中枢頭脳の意。エスタブリッシュメントなどのエリートを牛耳る中枢最上階層)は経済をコントロールし、自分に有利になるため政治を牛耳ろうとする。政治支配は、また軍事支配である。
 もし言うことを聞かない者には、大人しく恭順させるために、遠慮のない暴力を遣う。力で屈服させる。征服する。そして次々に属領化していく。支配し、下部に置く。
 支配された方は、死までは賜
(たまわ)らないが、魂は売らなければならならない。これは屈辱意外の何ものでもないであろう。
 では、「魂」とは何だろう。

 属領化は文化の属領という形で、思考の思想統一や事物の規格ならびに価値観統一を行って、一本化を重視する国家規模の戦略がとられる。属領策が練られる。これは自分は不利にならないためのものでなく、恭順されるための支配策である。

 究極には世界統一という「人類規格化」の目標が掲げられている。これにより、地球は一つになると考えられている。人類政策も、究極にはこの課題が掲げられている。世界人類統一あるいはワン・ワールドであろうか。
 そのために「新世界秩序」
New World Order/NWO。国際政治学の用語としては、ポスト冷戦体制の国際秩序を指す。また世界統一政府による地球レベルでの管理社会を指す。世界政府樹立は、実際的には眼に見える独裁制によって成立されるものでなく、地球温暖化や世界金融危機など世界レベルの取り組みが不可欠であるという、いわゆる「グローバルな問題」を創出し、繰り返しマスコミを通じて喧伝することによって国家の廃絶の方向に向かわせ、人民を利用した「多数決原理」により輿論コントロールによって段階的に成し遂げて目的を達成し、将来的には、現在の主権独立国家体制や国際連合を廃止して、新秩序に取り替えることを目指す条理。あるいは国際連合を乗っ取りすり替わることも)が必要だと言う。
 まさしく富者の論理である。

 ところが、地球上には風土や気候、文化や伝統、歴史や宗教などの色分けされた地域性があり、規格困難場所も存在する。文化侵攻では一筋縄でいかない。そこで武力行使が必要となる。言うことを聞かない者には、聞けと言う最後の脅しが残っている。
 力は正義なり……。
 この背後に響いているものは、自然淘汰説というダーウィンが提唱した自然選択とか人為淘汰というものだけではないだろう。別の意味がある。

 貧者は富者から啖われる。愚者か賢者から見下される。後進国は先進国に付け入られる。果たしてそれだけだろうか。
 況
(ま)して、社会ダーウィニズムなどばかりではないだろう。社会には闘争と優勝劣敗の原理が支配する生存競争や適者生存の、自然が介入するどう言うものばかりでなく、威嚇や恐喝も含まれている。

 人類の世界は、力の「脅し」によって、国際社会の深部を形成している。政治理論も経済理論も総てこの中に集約されている。これを政治力学とも言う。国家間の力関係を指す。
 背後に富者
の存在がある。牛耳る者のことである。
 そして政治は、ある富者群を頂点として「世界支配層」を形成し、その階層から大統領とか首相と言う操り人形が指名される。
 その指名手順を、つまり選挙という形で構成する。構成は飽くまで「民主」という名の下にあり、人民から選ばれた者は、高級労働者として、頂点からそれぞれに役割が配分される。

 人民の人民による人民のための……。
 リンカーンがアメリカ合衆国北東部のゲティスバーグでの演説の一節は、日本人にもよく知られるところである。
 この地で、リンカーンは「人民の人民による人民のための政治」と演説した。
 そして今日でも社会科教師は、民主主義を説明するとき、この言葉を教材として繰り返し上げて来たに違いない。

 ところが、多くの戦後の日本人は、言葉の理解において、根本的に間違った概念を抱いてしまったこともまた事実のようである。誰もが民主政治の原則のように思い込んでいる。
 英文では、この原則を次のように言い回していることは、日本人でもよく知られることである。
 「the government of the people,by the people,for the people」
 この英文は多くの日本人が、中学の社会科か英語の授業で暗記させられたものである。私もその一人であった。

 「people=人民」に注視して、次のようなユートピア的な抽象的観念の内容が導き出される。
 そもそも、これには政治に関して個人や政党に関わり無く、政治の主導を握る側は客観的な意図を含んでいるからである。そこから奥に隠れたものを洞察しなければならない。

 その意図的なものから探り出すと、聴衆に向けての訴えはベンサムの「最大多数の最大幸福」のユートピアニズムが張り付いていて、実際のアメリカ社会の階級に対し、万一それに向けて妬みとか復讐が発生すれば、その準備として「平等と自由」が飛び出してくる仕掛けになっている。
 こうして、平等と言う環境を出現させるのである。

 the government of the people=人民の政治=人民による政治=人民のための政治

 更に「government
(ガヴァンメント)」を、日本訳では「政府」と訳さず、“政治”と誤訳したことである。
 ガヴァンメントは国家の「政府」、または各地方公共団体などの「行政府」、ならびに「統治者」を意味する語である。だが標榜は、自由民主主義の最高理念をスローガンにしている。
 そして、本来の訳語の「政府」を遣ってではどうなか。
 the government of the people=人民の政府=人民による政府=人民のための政府

 この構図から読み解けば「人民による政府」は、被選挙人の人民が政府をつくるということになり、「人民のための政府」となれば、政府の設立目的が人民の福利ということになる。
 ここまでは理解可能だが、一番難解なのは「人民の政府」である。
 それは人民政府と言うことでなく、「政府の人民」であるから、政府が統治する人民支配と言うことなのである。人民は政府から監督され管理され監視される「支配されるもの」となるのである。
 これはあたかも家畜を髣髴
(ほうふつ)とさせるではないか。人民が政府から飼育されると採(と)れなくもない。

 これを裏から見れば、民主主義体制と言うのは、国民に“焼き印”と言う背番号を捺して、政府が人民を統治して、国家と言う柵
(さく)内で、監督し管理し監視し家畜化するとも受け止められる。
 私たち日本人の多くは、民主主義を世界最高の政治システムと教え込まれ、リンカーン大統領の名文句に誑
(たぶら)かされて、分けも分らず民主主義に入れ揚げて来たのである。その政治的畸形(きけい)が「戦後民主主義」と「一国平和主義」だった。
 そしてこういう結末に至ったのは、共和党のエイブラハム・リンカーンが演説した「人民の政府ではなく、人民を統治し支配する政府」であった。

 戦後、つまり日本の敗戦後であるが、アメリカの押し付けた「民主主義」は、人民を統治し支配する民主主義シスレムを標榜した政府であった。そして日本人は、リンカーンの名文句を誤解したばかりか、誤訳に至るような“隠れた思想上の深いもの”が背後に控えているように思うのである。

 しかし、一方で戦後の日本の繁栄は、この誤訳の御陰で「戦後民主主義」なるものが、日本人の思い込みによって派生したことも、また事実であった。
 つまり日本人の想像した民主主義のイメージから、種々の解釈が生まれたからである。あたかも、派生商品取引からデリバティブという金融工学によって価格変動が起こるように……。

 自由に変動する予測不可能な不規則こそ、先には、得体の知れない自由が存在していて、時には極大となり極小となり、成功すると、この政府の下では自分が何処までの位置を掴むかという不文律の暗示があるようにも思える。
 特にこの期待は、中産階級に向けて発信されたように思う。

 ただし、「戦後民主主義」なるものには経済変動に応じて、その振幅も大きく上下することを忘れてはなるまい。世界動向にも敏感である。経済もその中に包含されている。
 デリバティブなる金融派生商品が先物取引をする以上、それだけにリスクが絡むもとも併せて覚悟しておかねばならない。この側面を知らねば、非常に恐ろしい結末を招く場合もあり、それは株式においても同様なのである。

 アメリカのデモクラシーの特徴は、この国独特の階級志向が国民の中に根付いているようである。
 つまり「自由」とは、自分の存在の意味を、努力によって勝ち取ることが出来る幻想とともに、また自転車操業のように、一人ひとりが奮闘しつづけることが、要するに「誰もが一廉の人物」であり、裏を返せば、特別なエリートを除いて、「誰もが一廉の人物と言うことは、誰一人重要な人物は存在しない」ということになる。

 更に、アメリカでは政治的にも法的にも、表向きは平等を認めているくせに、国民の心底には「おれは十把一絡げは御免だ」という意識も働いているようだ。
 特に、中産階級では多く、日本で言えば自身に「中流の上」と思い込んでいる連中であろうか。
 法的には平等であっても、意識的とか実質的には、総ての点で平等ではないのである。
 その最たるものは人種問題であろう。
 日本人が、ハリウッド映画や大リーグで観る自由な趣は、現実とは違うのである。

 その顕著な現れが「個人主義」である。
 かの天下に有名な、福沢諭吉先生も次のように言っておられる。
 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずといへり」と。
 有名な『学問のすゝめ』に出て来る言葉である。

 個人主義は、弊害の一面をもっている。最も弊害なのは、競争主義に奔って、遂には能力主義に陥るからである。弱者は“負け組”に与
(くみ)され、強者は“勝ち組”として“負け組”の上に君臨する。そうなると、もう平等などは何処にもない。

 だが、そもそも個人主義の原点は、近代的なデモクラシーを前提とした平等主義なのである。
 「人は生まれながらにして平等である」
 この言葉こそ、福沢諭吉大先生の最も言いたい言葉ではなかったか。
 そこで福沢諭吉は、学問を挙げて、人間の平等関係を説いているのである。
 近代的なるデモクラシーを理解するには、「学問と平等」の関係が理解できないと、つまり近代的なる基本的人権が理解できないのである。

 諭吉大先生はこう言うのだ。
 定義は、人間は生まれながらに平等である。
 だが、この言葉には「しかし」がつく。
 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずといへり」という言葉には、まさしく「しかし」がつくのである。
 有機的関連性が隠された「しかし」の裏には、社会には貴賤がある。富者が居る。ゆえに貧富の差がある。そのうえ賢愚の差や、学校には学閥の区別すらある。企業でも大小があって、そこに帰属する社員にしても、企業閥と言うものがあって、優越感すら蔓延
(はびこ)っている。

 そこで諭吉大先生の言葉巧みなるところは、「学ばざれば賤。学ばざれば貧。学ばざれば愚……」と、矢継ぎ早に繋げ、この裏に隠された意味を、人は学んで、学んだ知識をもって、知識を能力として身につけ、それを社会に自己活躍させる権利を、何ぴとと雖
(いえど)も、平等に与えられているというのである。
 実に巧い平等の言い逃れである。

 この平等の意味は、戦後民主主義を詰め込まれた現代日本人の意識とは程遠いようである。
 つまり、福沢の言いたかったことは、平等主義の上に能力主義が君臨していたのである。
 この意味からすれば、素質や才能からなる、その優劣を競う能力主義は、近代社会の基本的な概念となる訳である。

 振り返れば、江戸時代も確かに能力主義だった。
 ところが、この時代の能力主義と、今日で言う能力主義は随分と異なる。
 江戸時代の能力主義は適材適所によって振り分けられる能力主義で、今日の能力主義は、自分で努力し、学を極めてその能力を自分で身に付けた後の能力主義である。
 つまり、学に適さない素質も才能もない者は“負け組”に与され、上部に“勝ち組”を頂くことになる。
 この構造は何か。

 民主主義デモクラシーと言うのは、個人主義とか自由主義と言う背景をもって、その基本には、努力後の結果において「不平等を認める」という社会構造をもったシステムでもあった訳だ。つまり、競争原理において“勝ち組”は弱者である“負け組”の上に君臨しても宜しいという仕組みだったのである。そして“負け組
”は淘汰される。これが社会ダーウィニズム(social Darwinism)の言わんとするところである。淘汰に負けた者は消滅していく。これを「社会進化」と言い、民主主義と密接な関係をもっている。民主主義下では自然淘汰の法則により、社会が歴史的かつ必然的に変化し、発達すると信じられている。

 更に国家規模でこの構造を明かすなら、強国は弱国の上に君臨しても宜しいというのが、国際政治で言う力関係であり、この力関係を指して、平等を掲げる民主主義デモクラシーというのである。
 これを人民に向ければどうなるか。

 繰り返すが民主主義体制は、政府が人民を統治し支配し、その際における監督し管理し監視する内部警察機構は厳戒であり、こういう形態の政府が一旦出来上がってしまうと、人民側からの改革は絶望的になり、人民は、国家と言う国内に設けられた柵
(さく)の中で、階級化され、機能化され、最終的には家畜化されるであろう。

 これは換言すれば、人民をして強制する権力であり、この権力下では永遠に統治される構図が生まれるのである。
 日本が仮に、アメリカの属国状態を強いられるのなら、第51番目の州として「民主」の名の下に永久統治が確立されたことになる。
 何故なら、平等主義は「正義は力なり」にも関与しているからである。

 更に民主主義を探求すればするほど、「民主主義」と「国家権力」は、水と油のような存在であり、どう混ぜ合わせても混ざらない。相互関係を見出せないのである。双方は何処までも対立する概念が否めないのである。

 体制と言うのはいつの時代も、悪の代名詞としての概念が植え付けられるから、批判し、抗い、やがては被支配者側は、その立場を逆転させることに執念を燃やすのである。
 その顕著な例はロシア革命であり、更に古くはフランス革命であった。根底で執念を燃やすのは、人間の抱える欲望である。その欲望の底には支配欲が存在し、また富の独占であり、権力とその地位を勝ち取ることである。階級闘争への執念は、ここに回帰されよう。
 古代から現代に至るまでの、闘争という名の数々の戦争は、原動力が欲望であったことを明快にする。そして残念ながら、人民のものでなかったことも明快になる。

 日本の敗戦後の近現代史は、民主主義観で彩られているが、所謂「戦後民主主義」とは「力こそ正義」を振り回すアメリカの民主主義の概念とは根本的に違っているようだ。
 そして「戦後民主主義」が蔓延る側面には、自由、平等、話し合い、議論、資本主義、自由主義経済、金銭至上主義、自己主張、暴力、個人主義
(昨今では悪しき個人主義に変貌しているが)、一方で無政府主義、そして無責任までもが付随したことである。

 また、「戦後民主主義」の現代日本人が抱いている概念は、個人主義からも分るように権力を行使しない政府こそ正義であり、また権力的でない政府こそ、正しい政治を遂行しているという、現実的には、実行不可能なことを、国民は概念として描いている人も少なくない。
 “非武装中立”と言う考え方もそうであるし、“権力的でない政府”もそうである。これがあくまでもユートピアニズムに過ぎない。

 しかし、これらは大いに矛盾する。こういう大矛盾を抱えていては、現実社会の安定や秩序は図れないのである。理想は大事だが、理想論に走り、実現不可能な空想物語では困るのである。
 民主主義とは、権力に矛盾しないというのは幻想であり、権力を前提として、民主主義国家の強さを指標するものでなければならないのである。

 では、「力こそ正義」を振り回す『民主主義』とは何だろう。
 民主主義の理念の中には、市民性・国民的資質・主権国民などが基本事項をして盛り込まれ、民主国家の経済者の構成員である国民は、それに相応しい知識と恣意的決断力を持ち、自立した個人主義を全うすると言う社会システムである。

 先ず日本の近世から、当時、擡頭
(たいとう)しつつある十九世紀の初めに、フランスの哲学者デステュット・ド・トラシーDestutt de Tracy/啓蒙主義リベラリズムを、フランス革命後に広めようとしたフランスのリベラル学派の創始者。1754〜1836)が唱えた観念学(感覚主義者的な意。現代ではイデオロギーとして使われる)を検証し、単に思想傾向だけに留まらず、政治や社会の形態にまで迫らなければならない。
 政治に働き、社会に働くルール形態の追求こそ、概念の探求となる。

 さて、近年は「民主」と云う言葉は、世界規模で流布されている。誰もが標榜する。そして多くは、いい言葉の意味で遣われている。
 しかし、日本人の考える「戦後民主主義」と、他国で唱えられている「民主主義」は、果たして同一のものであろうか。
 否、現代日本人が抱いている戦後民主主義下の個人的人権と、欧米が民主主義の基本として抱いている個人主義とは全く別のものであるらしい。

 陽明学は時の知識階級の言に、常に「なぜか」を追求する「学」である。
 朱子学から進展した陽明学は、主体的なる心の本体において何故かを追求する。その意味では心学である。心の在
(あ)り方を問題にする。
 昨今で言えば、底辺の裾野を検
(み)て、その現状の悲惨さを直ぐさま感得し、「こうした状況はなぜか」を考えなければならない。黙殺されて、素通りしてはならないのである。

 この側面において、陽明学は心の本然にしたがい「恥」と「罪」の、何れのどちらが重いのかを追求する。
 例えば、見ず知らずの人が道に踞
(うずくま)って苦しんでいたとしよう。この人を見て見らぬ振りをして通り過ぎるか、または事情を訊いて救急機関の応援を求めるなどは、人間の情としての行為である。
 何れを選ぶはその人の人格による。

 これは法的に言えば、見て見らぬ振りをして通り過ぎても法には触れない。その人が放置されて数時間後に死んだとしても、殺人罪には当たらない。そのことは法の知識として多くの人が知っている。
 ところが、人間の情において、見て見らぬ振りをして通り過ぎることが出来ない場合、それを知りながら通り過ぎれば、その人の心には明らかに「人としての恥」が残ろう。

 特に、踞っていた人が、その後、死亡したとなれば、通り掛かった人の心には、「どうしてあの時、何か打つ手があった筈なのに、それをせずに見過ごした」という悔悟の念が起こるだろう。
 また、そのいい訳として「しかし、もしその人が死んだとなれば、自分が後で殺人犯人にされかねない。だから、あの場合は冤罪を被るのが御免だから、足早に通り過ぎたのだ。どうして、自分に罪があろう」と、自己納得して、自分に自分を言い聞かせた場合である。
 しかし、何とも後味が悪い。
 この後味の悪さは何だろう。単なる、間接的な罪の意識だろうか。
 どうもそうではなさそうだ。

 それを陽明学では「良心」というのである。
 良心に従う心の発出を、良知と言う。心即理をいう。良知は、心の本体としての理の発出である。良知に従えば、人間の恥において、決して許されるべきことではない。恥を知ればなおさらだ。
 では、恥は何処から起こるのか。

 この恥意識こそ、人間が人間たる所以
(ゆえん)であり、この点で同じ哺乳動物でありながら、人間と動物を隔てるところである。
 恥と罪の、どちらの比重が重いか、を問うのが、陽明学の「心学」と言われる所以
なのである。

 しかし残念ながら、一応、知識をそれなりに身に付け、誰もが文字の読み書きが出来る現代日本人は、それ故に無条件に、理の権威に対して跪
(ひざまず)き、それを一方で、口惜しいとか、訝(おか)しいと思いながらも、自己の本心の疎外に対し、殆ど疑念を抱かない。それは、まさに自己欺瞞(ぎまん)であろう。自分を偽ったことになる。
 仮に“仕方ない……”で流れても、それは心の片隅に自己欺瞞が残る。同時に、こうした心情は、自己の知る「理」と「心」の一致が見られない場合である。

 したがって、自己の外部に偽善・欺瞞・怠慢・虚妄・虚構理論・攪乱工作・詭弁などが生まれるにも関わらず、ここに度し難い社会的痼疾
(こしつ)が生まれ、かつ、それでありながら、自己の良心すらもその中に流されて、事なかれ主義に奔るのである。結局、無難な方に流れた。
 この正体は、実は自分を偽った自己欺瞞の姿であった。

 二十世紀から、二十一世紀に懸けて、現代人の多くは、自己欺瞞の中に身を置いたのではなかったか。
 専門家という権威に屈したのではなかったか。
 また専門家間にも、上下があり、優劣があり、強弱があり、競争原理の働く中、勝ち誇った専門家と、負かされてばかりいる専門家が存在する。

 その最たるものが、弱肉強力の論理に従い、劣る権威は優秀な権威に諂
(へつら)い、更には権威同士が有力権威に屈し、強者に媚を売り、弱者は跪(ひざまず)かねばならない、「人間の心」の後回しの論理の出現したことであろう。生物的には、これも一つの社会的な食物連鎖のような構造を呈しているようだ。それは国際政治に顕著である。
 現代の世は専門知識が横行しているため、何ぴとと雖
(いえど)も、少しばかりの中途半端な知識を備えているため、強者の権威筋には拝跪(はいき)しなければならない実情があるようだ。



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