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陽明学入門 12

人間活動の方向性を分けるのに、理性的方向と利性的方向の二手に分かれることは、孔子と老子では一致していた。
 また、理性的行為を善とし、利性的行為を悪とすることも一致していた。

 ところが、孔子の理性的行為は積極性を帯びて「剛」とし、利性的行為を「柔」とするのに対し、老子は理性的行為が消極性を帯びこれを「柔」とし、利性行為が積極性を帯びて「剛」と茄子点ではそのニュアンスが両者間では隔たっていた。

 こうした見解の違いは、何も孔子た老子に限ったことではなく、釈迦もキリストにおいてもその相違があった。



●運命を決定する邂逅

 本旨から「派」なるものが生じ、そこから分派現象を起こす。また超個的な理をもって、随順することとは別に、ある教学を触媒として自己創造が行われる場合がある。
 その場合、派生したものを私意邪心の類ととるか、流門に反旗を翻
(ひるがえ)す伝承破壊ととるかは、「疑わなければ学問の進歩はない」とする学究の徒へ向けての、この道学の戒めであった。

 また、南宋の朱熹
(しゅき)が、北宋以来の潮流に基づいて大成した儒学の体系である朱子門流にとっては疑いを持つとは、学問や人生を根本から疑って懸かると言うのではなく、完結したであろうと思われる教学体系そしての、随順し、かつ適応し得ぬ自己に対して疑問を持つ程度にしか考えず、王陽明のような、学問とか人生とかの根幹を揺るがすような、衝動的な儒学が明代に出現しようとは、体制側の学問となっていた朱子学本流は、後のこうした現象に対し、全く予測もつかなかったことである。

 更に、朱子学の性即理説に対して心即理説、後に致良知説、晩年には無善無悪説を唱えていく革命的な陽明学は朱子学者が予想不可能な高い境地に達していた。
 そのうえ陽明学は、理よりも心の自由なる裁量によって良知を図り、経典の権威の相対化、更には欲望肯定的な理の索定などの新思潮が生まれたことは、これまで以上に驚きであったに違いない。

 さて、儒学としての朱子学が生まれるに当り、初期の根底には朱子の「禅」に対する傾倒と入れ揚げがあった。陽明学へのプロセスを辿るには、先ず禅の研究から始めねばならない。つまり、仏教の研究も必要不可欠となる。

 そもそも儒学の背景には人間像と思想構造を解明するという目的が横たわっているため、中国哲学を学ばんとすれば、仏教を抜きには考えられない。仏教の知識が必要となるのである。仏典の読書力も必要で、併
(あわ)せてインド哲学理解も大事な要素となる。単に外来宗教の亜流とは考えてはならないのである。
 また、特に朱子学の場合、宋代のおける禅の影響が多大である。これを無視することは出来ないのである。その中でも華厳宗や禅宗の影響が大きい。

 最初、朱熹は禅宗の熱烈なる信奉者だった。一時期、禅に入れ揚げた人物だった。
 ところが、朱子を初めとして、宋代の朱子学者らが、やがて烈しく仏教を攻撃し始めるのである。
 それは仏教に対して、また禅に対して、罵詈雑言
(ばり‐ぞうごん)と言われるような暴言を浴びせ掛け、徹底的に叩くのである。だが、その実、攻撃理由は「仏教(特に禅に対して)は信ずるに足りぬ」ということではなかった。決して「低級なる宗教だ」と卑下していないのである。
 むしろ逆で、仏教と言うのは真実を装う、深入りして近付き過ぎると「危険思想」であるとして攻撃し、かつ警告するのであった。恐れのようなものを抱いているのである。
 これは考えてみれば、実に奇妙は言い分である。

 更に不可解なるは、「真実を装う」としながらも、ではその根拠を証明するために、その中に入り込んで正体を暴
(あば)けばいいものの、それをせずに、また攻撃媒体である仏教の超克をし得た確証すら示せないのであった。

 斯く
(か)して、朱子学者が言った「真実を装う」という規定した命題が何であるか、釈然としなかったのである。
 また、超克し得たと言う根拠すら存在しなかった。そして、仏教攻撃しはじめた時期より、次に禅の焼き直しと嘲笑され揶揄
(やゆ)された陽明学が朱子学の中から擡頭(たいとう)してくる。
 しかしこの陽明学も、僅か五十年足らずの朱子の死後、陽明学派には分裂に兆しが見え始める。
 まことに目紛しい動きなのである。
 これも人間現象界の「変化しつづける」という、刻々と変化して留まることのない無常なのだろうか。

 これを「果敢ない」と想えば、また仏教的であるから実に妙なものである。
 そして、こうした以降の構図を考えれば、最初、禅に入れ揚げた朱子が禅から離れ、陽明は禅に近付いて禅の焼き直しとして指摘されたのは奇妙な縁であった。

 さて、この頃になると陽明学には大きく分けて、三つの分派が生じた。
 一つは、朱子学との距離が大きくなればなるほど、理の固定
(窮理)が失われると危惧(きぐ)し、禅から離れ、最も朱子学に近い右派と名付けられる陽明学右派である。
 次に二つ目は、既に理の固定的性格
は失われたと考え、自己の良知を十分に発揮して致良知を目指し、国教とされた朱子学から離れ、禅に近い陽明学左派であり、そして三つ目は、そのどちらにも偏らない、中間に位置する陽明学中道派である。

陽明学分派 性 質 格物致知 理の定義 良知観
右 派 朱子学に近く禅に遠い 理の固定 理が失われることを危惧・懸念 新朱子学的
中道派 朱子学・禅とも中道 心即理 心即理を維持するも実践に遠い 唯心論的
左 派 朱子学に遠く禅に近い 心の固定 理が失われとして心に向かう 現成論的

 これら三派間では度々に「良知説」の性格について討論がなされたが、明代末(1600年代前半頃で、中期以降になると宦官(かんがん)の力が増大し、また度々、侵略の憂き目に遭い北方からはモンゴル族と南方からは倭寇(わこう)の侵略の北虜南倭(ほくりょ‐なんわ)に悩まされ、更には農民反乱が続発し、遂に李自成に北京を占領され、朱元璋(太祖)以来の約276年続いた明朝は十七世紀に滅亡する)には、王竜渓(おう‐りゅうけい)や王心斎(おう‐しんざい)を中心とした左派が優性を極めた。
 王竜渓は「良知現成論」を説いた人物として知られる。

 この王竜渓なる人物。なかなかの曲者であり、一筋縄では行かぬ人物であった。また王陽明と出遭うまでに伝説まで持つ人物なのである。
 この人物は若い頃、任侠の道に入れ揚げ、かつ気負い、日々博奕場と酒屋を行き来する放蕩
(ほうとう)三昧の生活に明け暮れていた。この青年に奇(く)しくも目を付けたのが、王陽明であった。

 陽明はこの青年とじっくりと話してみたいと思う。しかし、なかなかその機会が訪れない。
 そこで陽明は、門人に一人に博奕場に出入りさせ、この青年に近付けと指令を出した。門人に博奕を張らせて、更に飲めや歌えのドンチャン騒ぎを遣らせたのである。

 竜渓なる青年は、これをみて大いに笑い「腐儒学者でも博奕はするのか」と冷笑したのであるが、博奕場に遣らされた門人は「私の師匠のところでは、毎日この調子で馬鹿騒ぎをしています」と言ったところ、竜渓は空いた口が塞がらないというか、唖然
(あぜん)として、大いに驚いたと言う。
 そこで竜渓は是非一度、いま巷
(ちまた)で噂されている王陽明なる人物に遭ってみたいと好奇心を募らせたのである。なぜなら竜渓は陽明を「俗儒とは異なる桁外れの人物」と検(み)たからである。その剛胆なる風格に惚れ込んだと言うか、一気に胸を打たれたのであった。

 また既に陽明は、軍を率いて戦いを遣らせても、文官でありながら武官の才能も持っていた。司令官として戦地に赴き、軍事組織までこなす文武両道の人であったからである。口先ばかりの、俗世間で云う腐れ儒者ではなかった。
 このこの時代は、朱子学が国教となり、儒学を齧るものはピンからキリまでおり、末端は世間から「腐れ儒者」と揶揄されていた。
 ただし話の信憑性はともかくとして、このような金線で、唯一度だけの邂逅
(かいこう)によって、竜渓は陽明の弟子になるのである。

 これは、長岡藩の河井継之助
(かわい‐つぐのすけ)が佐久間象山の噂を聞いて弟子になろうと思い、出掛けたところ、運良く面会は叶ったものの、象山の先がいけなかった。継之助は象山に洋式銃の打ち方を習おうと教えを請うた。
 ところが象山は違った。
 世間で噂されているような人物とは異なっていた。
 更に継之助が想像した人物とは違っていた。象山は、ひと回りも、ふた回りの小さな人物だった。
 継之助は、ただただ愕然
(がくせん)としたのであった。
 「何だ、こんな人だったのか……」
 このように落胆の声を発したに違いない。
 実際に検てみたら、佐久間象山は尊大で、小人物だった。当時の知識人だったかも知れないが、自分を等身大以上に見せ掛ける人だった。そこに、継之助は失望した。

 象山は継之助に、このように言った。
 「まず蘭学を学び、ついでに機能を究理して、然
(しか)る後に銃を撃て」と。
 これを聴いて継之助は唖然とした。
 鉄砲の引金を引くのに、「まず蘭学を学び……」という言葉に対し、「何をバカな……」と思ったことだろう。

 継之助は佐久間象山と言う人物を、巨人視していた自分のバカさ加減に失望したのである。
 それというのも、継之助自身は既に洋式銃は初めてだとしても、火縄銃の操作くらいは知っていたからである。火縄銃では、それなりの腕前も持ち、どちらかといえば、腕に覚えのある方だった。

 私の知人に、何人かの猟友会の人がいるが、この人たちは猟銃も扱うし、クレー射撃のライフル銃も扱う。多くはウィンチェスターなどの銃で、わざわざ海外で手に入れて現在でも愛用している。
 しかし、この人たちから銃を扱うのに、英語が堪能でないとライフル銃は扱えないとは一度も聞いたことがない。

 現に暴力団でも、拳銃を隠し持っていて、敵対側にそれを遣う際に、英語やその他の外国語を勉強して、銃操作を習ったとは、一度も聞いたことがないからである。引金を引くのに、英語は無用なのである。英語が分らなくても、引金は引けるのである。

 考えれば、象山は傲慢
(ごうまん)以外の何ものでもなかった。単に尊大な態度をとって、継之助から嫌われただけであった。
 もし、このとき象山が継之助に「まず蘭学を学び……」などと勿体
(もったい)つけずに、すんなり洋式銃の扱い方と射撃法を教えていたら、継之助の人生は変わっていたろうし、その後の日本の姿も違ったものになっていたであろう。
 また、象山自身のその後の人生も変わっていたであろう。
 継之助と象山のコンビで、二人三脚の運命が展開していたとしたら、また、この滾
(たぎ)った時代の変化は違った現象が顕われていたであろう。

 少なくとも、用心深く、慎重で、ナポレオンの実戦兵法の何たるかを知っていた継之助が、もし象山を師と仰いでいたら、ここに「互いに砥石関係」が出来上がり、象山も、易々とは河上彦斎
(かわかみ‐げんさい)に斬られなかったであろう。ちなみに河上彦斎の河上は、川上と書かれる場合もある。

 もし継之助が象山を師を仰いでいたら、受難に対し“周囲に警戒せよ”とか、馬術の下手な象山に“馬に乗る際のアドバイス”くらいはしたであろう。象山は日本馬術が下手だったので、通称「だんらく」
という、縦方向に高い和鞍に変えて洋鞍(ようあん)を用いていた。これは洋学者としてのことではなく、自分の馬術の下手な腕前を隠すためだったとも云われる。

 その証拠に、象山の詩の「騰々たる快馬洋鞍軽し……云々」等の文句を見い出す事が出来、更に「兵士は騎兵調練も調い申すに御座なく候にては、御武備に整い候とは申し上げ難く……」などの、乗馬に対する心掛けや、馬上における銃撃戦なども建議しているが、その一方で、彼は馬術に対する論策や戦闘などの研究は怠っていたようである。要するに、口先ばかりの理論家の様相が強い。

 更に象山は、熱烈な西洋崇拝の開国論者で、些か狂気の部分もあった。
 しかし、当時は西洋事情を知る日本屈指の学者でもあった。西洋列強の科学文明を取り入れることに吝
(やぶさか)ではなかった。
 こうした人間に対し、反感を持つ者も多かった。
 それゆえ狙われていたとも云える。そのくせ無防備だった。
 象山を切った下手人は河上彦斎である。彦斎は攘夷派であった。

 しかし、象山を狙っていたのは、彦斎だけではなかった。西洋気触れを憎む者は他にもいた。
 屈指の学者として尊敬を集めていると言うことは、その他方にそれと同数の過激派の攘夷の志士も居たのである。これに気付かなかった象山は間抜けであり、この滾った時代の危機意識に欠けていたということからして、単なる無力な学者の域をでない。
 もし、このとき継之助を側近においていたら事情も変わっていたであろう。
 だが、それは実現されなかった。
 そして遂に祟る。それは傲慢より、祟りが悪夢となって現実化したと言えよう。

 河上彦斉は、馬に乗っている象山の右脚に、擦れ違い態に、抜打で第一打
(初太刀第一打は、平戸脱藩浪士の松浦虎之介という説もあるが)を加えられ、しかし致命的な傷は負っていなかった。象山にも十分に反撃を加えるチャンスがあった。それでも反撃の意は示さなかった。この時点で完全に戦意を失い、無慙に挫かれていた。

 本来ならば、馬に乗っているのであるから、馬上から河上彦斉の頭部に抜打で、逆に仕留める事も十分に可能であったのだが、剣術に未熟な象山は、自分の刀を抜く事もなく、逃げ出したのだから、何とも情けない話である。
 そして遂に、二之太刀で止めを刺された。

 象山の運命は、継之助との邂逅の瞬間に断たれたと言うべきであろう。
 そして継之助は、陽明学は象山に学ばず、象山の師匠であった佐藤一斎の、象山とは同門弟子であった山田方谷
(やまだ‐ほうこく)を師匠を仰いだのである。

 佐久間象山は、継之助との折角の邂逅も、自らの小人
(しょうじん)振りが仇(あだ)となり、無に帰してしまったのである。運を捕り逃がしたのである。運命を甘く見ていた、作用に対する反作用である。しっぺ返しが起こったと言うべきだろう。
 ここから象山の「運の尽き」が始まるのである。

 象山に失望した継之助は、此処から離れた。邂逅
(かいこう)は幻想に終わった。二人の出遭いは継之助の失望から御破算になった。
 継之助に言わせれば、佐久間象山は「何だ、がっかり」の人物だったのである。
 人の出遭いは、ほんの何かが影響して、縁を結ばないこともあるのである。
 私自身も、これまで「何だ、がっかり」の人物をよく見て来た。
 また、「何だ、がっかり」の人物を、私以外の目上から、彼奴は、「しかじか、こうこう」と指摘されたこともある。それも、侮蔑した言葉で……。

 斯くして、ここで云いたいのは「人と人の出遭いによる邂逅一つ」で、その人のその後の運命は大きく異なった結果が出ると言うことである。あたかも運命の特異点
(シンドラーポイント)と言うべき「どんでん返し」のような結末である。人生には「回り舞台」の仕掛けが存在するのである。
 思えば、邂逅は人間と人間を結ぶ一つの、その後の運命を180度ひっくり返してしまうような、そういう特異点に値するものであろう。

 思えば、竜渓は陽明との出遭いによって、陽明学の左派の代表者になっていくのだが、竜渓自身、わが師、陽明を観て、「超侠不羈
(ちょうきょう‐ふき)(手に負えない勇み肌のいきな、才識すぐれて常規で律しがたい自由なる人物)と言い放っている。
 竜渓のこの表現からすれば、王陽明なる人物は、官職人でありながら自由人そしての風格を備え、実に型破りで、一方で世間の「並み」の俗人とは一線を画した人物と言うことになろうか。

 これは今日の高級官僚を考えてみれば一目瞭然となろう。
 かつての旧陸海軍の軍隊官僚とは然程変わらない、昨今の高級官僚は高禄をもって召し抱えられているくせに、その一方でエリート人として、夜郎自大的な高慢なる一面を拭い去ってはいない。そういうものを旧態依然の伝統として引き継いでいる。

 王陽明自身も当時では高級官僚であり、それも武人でありながら儒学に通じ、戦略家でありながら、文官の才もあり、また第一線の現場にいて戦地の司令官のような役職を荷なっていた。
 まさに文武両道で「友文尚武」の人であり、かつ人を感化する才能もあった。
 竜渓も陽明に感化された一人であった。また、陽明学左派のもう一人の王心斎も陽明に感化された人物であった。
 戦地の司令官として活躍したのが、『宸濠
(しんごう)の乱』(寧王(ねいおう)の乱。寧王朱宸濠が帝位を狙い挙兵した事件)の平定である。この乱の平定により、陽明こと王守仁の名は一躍有名になる。

 本来ならば、体制側にべったりの、決して夜郎自大的な尾鰭・尻鰭を付けていてもおかしくはないのだが、そういうところが感じられない自由人的な風格を持っていたと言うのである。この風格こそ、当時の子弟とを結びつける金銭になっていたのであろう。

 後に竜渓は「良知現成論」を唱えるが、これは陽明が良知の無的性格である「無善無悪」を極めるに当り、その思考に当たる道筋が、あたかも盤上を珠
(たま)が前後左右に自由自在に転がるようにその動きに準(なぞら)えて、思うが儘の自由の中に「良知説」の真髄があるのではないかと、悟りとしての価値観を発見するのである。堅苦しい既成概念に囚われていては自由は本当に訪れないのである。

 つまり竜渓は、これまでの堅苦しい既成概念を信奉する道徳的感覚から人間は解放されねば、良知の発動はあり得ないと悟るのである。ここに道徳的感覚からの絶対解放論とも云うべきものが、竜渓の掲げた「良知現成論」であった。

 「良知現成論」の言わんとするところは、良知の俊敏なる間髪入れに「即」状態を致すには、発動能力にあると検
(み)たのである。この刹那を竜渓は情熱的なる信頼をおいたのである。
 陽明学の「知行合一」に至る良知を致すことは非常に難しいことである。悟人と雖
(いえど)も簡単にはいかないものである。かなりの探求を尽くした達人でも、知と行が即一致とは中々為(な)し難い筈である。
 つまり私が、先に述べた陽明学の実践者を「行主知従」と「知主行従」に分類したのは、良知を致すと言うこの刹那の難しさにあるからである。この難しさを抜きに、陽明学の真髄には迫れないのである。

 王竜渓の「良知現成論」によれば、良知を鍛えようとしたり、良知の曇りを取り除こうとすれば、意識自体が既に良知を対象化して、本来の良知が機能的には皆無になるか、残存していてもそれは弱った状態で、例えば「こうしなければいけない」などの自己念が忍び込むと言うのである。
 したがって、良知は自由に放たれていて、しかしいつ何時でも発出できる状態になって、然も無意識の緊張状態になっていなければならないと言うのである。
 これはあたかも、わが国の武術の教訓である『牡丹下の猫』を髣髴
(ほうふつ)とさせる。

 「良知現成論」の論ずるとことは、良知を崩壊させたり弱めないためには、常に良知を自由に解き放ち、「今日ただいま」の「今の今の、その今の秒刻みされた、更に秒を刻んだ刹那」の瞬間に、完全円満に具足されている知覚しなければならないと言うのである。もう一々用意しなくても、そこに充分に備わっていつでも発出できるという状態を信ずるということで、敢えていえば、この「信ずる」すら概念に想い描くことはないと言うのである。
 つまり、本当の自由自在で、あるいはこれこそが自由奔放と言うのであろう。
 これを竜渓は「良知の現成」といい、彼の説かんとする「良知現成論」の根幹をなしている。

 この論理は、良知が常に現在にあって円満かつ成就しているという境地であり、敢えて云えば、まさに無意識の緊張であり、『牡丹下の猫』を髣髴とさせるのである。まさに竜渓ならではの心血を注いだ工夫
(功夫)だったと言えよう。
 学問というのは、学べば学ぶほど疑いが出て来るから、それを「問い」といい、学ぶことにおいての「その学においての疑問」である。疑問が生じない学は、本来「学問をしている」とはならないのである。

 昨今の大学や大学院で指導が行われているこの種の教えは、単なる知識を集積させているだけに過ぎない。まだ到底、学問をするという域には達していないのである。
 したがって、こういう門閥から、知識人は排出することは出来ても、真の学問人は中々排出できないのである。単に記憶力による暗記能力の優れた者だけを世に排出し、最初から解答のある答案用紙に答えを出せる者はいても、最初から答えの存在しない創意工夫を必要とする答案用紙には、一行も解答できない、記憶力だけではどうにも成らない答案には答えが出せないというのが実情のようである。

 つまり、こうした教育機関では、人間の学ぶと言うこの根元に、創意工夫の根が存在していないと言うことになる。西洋式の合理的なる体系は唱えるが、肝心なる体系線上には浮かび上がらない「有機的な見えない部分の有効箇所」の洞察に、創意工夫をもって探求することが今の学問から喪失しているのである。

 かつての知識理論の上に次ぎなる知識を載せて、それを堆積させて行くと言うことのみが中心となって、そこから全く奇想天外とも思える「工夫」というものが現代は完全に抜け落ちていると思うのである。
 お行儀の良い、堅苦しい道徳論に囚われて、陽明学流に云うなら「良知独善」というような状態になっているのではないかと思うのである。押し付けがましい独善では何もなるまい。

 更に型破り的に云うなら、陽明学の例えば無善無悪の説について云えば「善を無し悪を去る」とか「天理を存して人欲を去る」となの、理に対する心の優位が示されれば、多くの凡夫は「そうあるべきだ」と言ったような独り合点をしてしまいがちである。しかし、そういうものすら必要ないのである。

 そもそも良知に、形式化されたパターンなどないのである。
 この境地を得るために人間は学ばねばならず、その境地の何たるかを悟れば、「そうあるべきだ」という横槍などは物ともせず、極めていかねばならないのである。
 ここに「こだわる」のではなく、「極める」の道が残されているのである。人は、この道を踏んでいかねばならぬのである。

 私は思うに、王竜渓の工夫には一種独特の情熱的なバイタリティを感じるのである。目前にちらつく妄念など、このバイタリティで一気に打ち砕く迫力すら持っている。
 しかし、それだけに劇薬的でもある。それが一歩間違えば毒薬ともなりかねない。

 何故なら、竜渓の説く「良知現成論」は換言すれば「良知絶対」なるところが存在し、これはまさに「絶対現在論」になりなける危険性があり、この点には一歩な違えば、刹那的衝動に駆られて踊り狂うと言う烈しさがある。感情が昂
(たかぶ)れば前後見境もなくなって一気に行動に及び、行は知を上回り、結果論としては暴徒と化すような蹶起の決行に奔ったり、または情欲に一度良知がすり替えられた場合、破廉恥な行為を仕出かすかも知れないのである。

 人間は喜怒哀楽の中で、人生を送っている。この感情はその人が死ぬまで続く。
 だが、人間は自分の持つ感情を感情のまま放置するのでなく、感情をただ抑え付けるだけでなく、感情を生成し、それをやがては「超感情に昇華させるまでの境地に到達しなければ、人としてこの世に生まれて来た価値はない。
 果たして、現代人はここまでに至る学問を極めようとしているか、否か、甚だ疑問である。

 昨今の現代日本人をして、知識はあっても常識がないとはこのことを如実に繁栄させている。
 そして現代人の多くは「菜根」を排し、穀物菜食を嫌い、更には人間の歯の構造を無視して、四ツ足の肉を喰らい、あたかも四ツ足動物が跳ね飛び回るような動作からして、情動的であり、情欲的であり、肉欲的であり、それはあたかも哺乳動物のステップのようにも見える。これは思い過ごしだろうか。
 人間の欲望の根底には、確かに雑念雑想が蔓延
(はびこ)っている。長年生きれば、そういうものが固定観念として堆積し、かつ先入観によって思い込みまで構築している。

 一方で、現代に蔓延る雑念雑想や欲根妄念の種を取り除こうとして、新興宗教などの“心の掃除屋”や“拝み屋”が世の中に横行・徘徊し、無知蒙昧な輩
(やはら)を見付けては取り込み、喰らい込み、カモにして金儲けの道具にしている。
 そして残念なことは、竜渓の説く「良知現成論」は、こうした類
(たぐい)に、「洗脳」と言う過程で、利用されて来た足跡があることを見逃せない。

 何故なら、人の道の修行は、一気に悟りは訪れないからだ。
 如何なる外部からのショック療法を持ってしても、人間が急激に変質するものでない。
 これは運命が特異点に達し、一気に、どんでん返し的に急変するに対して、人間の場合の進歩・向上は、「徐々に……遅々に……」である。
 現代人が突然変移を起こすことは、万に一つもない。
 則
(すなわ)ち、良知を磨くには多大な時間が掛かると言うことである。そして、そこに至るには種々のプロセスがあり、この段階を踏んでステップごとに一段一段、地道に登って行くしかないのである。急激に、ひとっ飛びとはいかない。

 だが、王竜渓の功績を上げるなら、陽明学と朱子学の違いを克明にし、良知説の解釈を朱子学と鮮明にしたのは彼の御陰であり、ここに一線を画す「けじめ」が出来たと言うことである。
 朱子学との決定的な訣別を遂げるに至ったのは、竜渓の功績である。

 つまり、陽明学が日本に紹介され、先ず最初、中江藤樹が日本陽明学派の祖となった。
 もともと藤樹は朱子学者であった。儒学としての朱子学を信奉していた。ところが、後に陽明学へと転向した。

 その転向の切っ掛けになったのが、良知説の解釈を廻ってのことであった。そして藤樹は、王竜渓の思想に触れて、朱子学を棄
(す)て、陽明学に転向したという非常に興味深い経緯がある。
 陽明学右派の筆頭には羅念庵
(らい‐ねんあん)がいて、仮に藤樹が右派(朱子学に近い陽明学思想)の思想に触れて、朱子学より転向したと言うことは考え難いのである。
 だからこそ、竜渓の明代末における人間解放運動は、一際インパクトがあるものであり、以降に大きな影響を与えているのである。
 これも偏に、書物を通じた邂逅であった。

 そして、人は、たった一回限りの邂逅を得て、特異なる人生に踏み込み、自分流の流儀に変え、運命を自分の方に惹
(ひ)き寄せるのである。
 またそこには、自力精神があるとともに、この「自力」こそ、自前で世に志を立てる「立志の精神」であった。これは、“棚ぼた式”の他力本願ではなかった。
 さまに「努力する他力」であった。努力する他力を「他力一乗」という。
 この他力一乗こそ『牡丹下の猫』の挿話が、人の運命に関わっていることを明確にさせてくれるのである。

 斯
(か)くして、「良知現成論」の論者・王竜渓は、良知説の真髄を「朱子学からの訣別にある」と検たのである。このけじめ意識こそ、人間を人間に立ち返らせ「人間解放学」であった。
 そして、今の世を憂うならな、現代人に一番欠けているものは、人間が人間てあると言うこの根本精神ではあるまいか。

 経済優先の、更には金融経済に大きく左右される現代の近代資本主義流の人生計画では、どうにもならない時期に至っていると思うのである。
 考えれば、地球温暖化にしても、人口爆発にしても、産業革命以降の「物優位」の物質至上主義が招いた結果からではなかったか。そして金銭至上主義は、一方で科学万能主義の密接に絡み合っている。資本主義市場経済を成り立たせるには、「科学こそ万能」と考える知識の集積を第一義に考える思考法が横行している。
 これは知識からの転換期と言うより、人間解放の転換期なのである。

 人は、現在より精神性を高め、人間的に進化しなければならない。
 安易に、金・物・色に存続し、それに随行するような現代流の生活様式での生き方が正しい訳でなく、また能力別に階級化された世の中の民主主義システムが正しい訳でもなく、また民主主義すら正しく機能している訳でない。特に戦後民主主義は異常である。
 このシステムには、既に欠陥は派生し至る所に波及し、歪
(ひず)みすら生じている。そのうえ老朽化していることに気付かねばならない。

 しかし、多くの現代人は、その欠陥、則ち「多数決の原理」に疑いを持ちながら、これまでの既成概念を現代の世に生きる道徳概念として受け入れ、世の中に流され、流される中にも、その中で要領よく泳ぎきろうと誰もが躍起になっている。これは果たして、人間解放の論理に照らし合わせて、人間らしい生き方と云えるだろうか。

 ここには、かつて陽明学の左派としてならした王竜渓や王心斎
(おう‐しんさい)の人間解放運動の、真の意味での良知を考える域にまで達するどころか、ますます人間性を失い、人間解放とは逆行する域からを現代人は逆行しているように思うのである。

 自分だけよければいいと云う悪しき個人主義に塗
(まみ)れ、その生き方をよしとしている。
 つまり野心をぎらつかせて、誰もが金持ちになることばかりを考えて、自分の能力を国家や企業に切り売りしているようにすら思えるのである。
 このような悪しき個人主義が地球規模では派生すれば、その先はどうなるか想像に難くない。
 今こそ、人間解放に目覚める秋
(とき)ではないかと思うのである。



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