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陽明学入門 21

出口の先に何を検(み)るか。そこを何処と検るか。
 世に「見通し」という言葉がある。将来や他人の心中などを見抜き察知することを言う。洞察力も見通しが利かなければ、物事の本質を見抜くことは出来ない。
 総て、先の先を検て、そこに何が存在するかを把握しなければならない。

 では見通しが利くための条件は何か。
 心が澄んでいなければならない。曇っていては先が見通せない。
 心を磨いて曇りを取り除き、澄んだ状態に維持できていなければならない。磨くことを怠れば、心は直ぐに曇ってしまう精神作用を起こしてしまうのである。



●理想郷

 良知を得れば、危険や異変なども察知できるようになる。また、予期しない不意打ちにも対処できる術(すべ)を知る。
 つまり「知る」ことは、心に余裕が出来ると言うことである。
 また、この余裕が心を安らがせ、不安や心配から解き放つのである。

 例えば、何らかの損が生じた場合、損に襲われたとしても余裕で躱せるゆとりを持つ。
 しかし余裕が無いと、心は縛られて不自由となる。
 この不自由は偏ることで起こる。偏
(かたよ)ると、またワンパターンになり易いからである。
 一辺倒に凝り固まることは、殆
(あや)うい。

 例えば、人間は同じ生活を繰り返し、それが習慣として心の蓄積されると、そのスタイルに身も心の定着してしまうことになる。習慣的になれてしまうのである。そして定着すると、それが一番善いスタイルとして、もうそこから出られなくなるのである。
 それは習慣的になれてしまうことであった。

 そうなると、変化を見なくなり、無変が躰
(からだ)に染み付いてしまい、その都度の変化が少なくなって、大きな変化を好まなくなってしまう。安全圏に逃げ込んでしまうのである。逃げの、消極的な考え方を抱くようになる。それがやがて当り前となる。

 仮に、何処かで異変が起こったとしても、それを見逃して「変化無し」と受け止めたり、それ以外の感覚で受け止めて、微妙な違いを見逃してしまう。要するに感覚の不感症に陥る。感じなくなることである。明日も今日の延長だと思い込んでしまうのである。そうなると殆うい。これが「狎
(な)れ」の恐ろしさである。

 狎れは、鋭敏なる感覚を鈍らせ、かつ曇らせる。観察眼を失わせる。
 こうなると、不思議を不思議と思わなくなり、また感動してもそれは一時的な、「うわーかわいい」とか「うわーすごい」で終わり、感動も感激も物の数秒で消滅してしまう。現代とは、感動も感激も、映像文化が強烈に眼に迫るため、感覚器が狎れから退化した時代だと言えよう。

 そして、こうした狎れの中で、自分自身で自覚し、知行合一を致すことは極めて難しい時代だと言えよう。現代人の精神的退化が歎かれるところである。
 知行合一に一致は難解であり、朱子学の「知行論」と含めて、陽明学の知行合一説は難しく、特に同時に一致すると言う行為が如何に難解か分ろうと言うものである。単に、志を立てたからと言って、それで成就に向かう訳ではない。志があるからと言って、それを願うだけではどうにもならあに。行動を必要とする。行いが伴わねばならない。

 また、朱子は人間の本具する良知良能の自然的な働きに一切任せさえすれば、他に何も必要とするものは無いと言い切っているが、こうした結論は余りにも楽天主義的な象徴に過ぎない。
 良知を得たからと言って、また知っているからと言って、その範囲に留まっていては知行は発揮されない。

 しかし朱子とて、人間に本来具わっている天理の尊厳とその実現可能だとする、それを信ずる点においては決して人後に落ちることはないのである。それはそれで認められるべき論理である。
 だが、難しいのは客体の側にも主体の側にも、また観客界の側にも、その実現を妨げる諸条件はさまざまに存在し、これを避けたり迂回して良知良能の実現は難しく、その防壁策として、力に頼り過ぎるのは余りにも短見である。また、それを実行する実践者を無視した暴論であると言えよう。

 また「悟り」という行為の中にも、難解なる問題点は種々存在している。
 悟りとは「迷いが解ける」とある。真理を会得するとある。そして、それを察知すると言うのである。

 しかし、この意味自体が難しい。自覚であろうが、人間は客体世界を観察し、それを理解したと自身で確認することが難しいのである。これには相当なる観察眼が要るからである。
 物事を注視することを観察という。物事の真に姿を明確に間違いないように理解することを観察と言う。また観察する能力をもって物事を注視することを観察眼と言う。そういう眼を持っていることを見識と言う。
 したがって、単なる知識のみではどうにもならないのである。物事を検
(み)る見識がいる。実体を観抜く眼である。

 では、見識を養うにはどうすればいいのか。
 その基本は、知らざる事は、飽くまで知らずとなすことであろう。知らねば、学べばいい。知ったかぶりが一番いけない。曖昧なものだけでは何もならない。
 知らなければ、頭を下げて謙虚に教えを請い、学べばいいのである。そして、知らない事を知らないとするのも、また「行」なのである。
 知らない事は学べばいい。学ぶと言う行動の中にこそ、見識を養う秘訣がある。
 そして、次に行動である。行う事である。

 行動の第一は、口で説くことでない。口先だけでは何もならない。黙って行う事である。
 その場合、行動の第一は、まず口数を少なくして、多く行うことである。多く行い、絶えず研究して物事を真髄・真相に迫り、絶えず探求していくことである。
 これを行動の第一義とする。
 また行動を起こす場合は、礼儀を守り「礼に即した道」を踏むことである。道を踏まねば、行動だけでは傍若無人を免れない。愚行になってしまう。愚を犯さないためにも、口数の多さは慎まねばならない。

 「礼」を行動の基準に考えれば、是非の判断も下し易くなる。礼儀の有無で確認できる。
 例えば、あなたが人から何らかの依頼を受ける場合である。
 この時に「礼」を基準にして考えると、受けるべきかそうでないかは明確になる。
 例えば、保証人などの依頼を受ける場合、まず礼を基準にして考えれば是非の判断は下し易くなる。

 「礼儀と言う物指し」で考えればいいのである。
 例えば、金銭貸借の依頼ごとに置き換えてみよう。
 こうした依頼ごとに対し、依頼者は必ず、「絶対に迷惑はかけない。オレという人間を信用しろ」などという。
 更には、駄目押しとして「武士に二言はない」と言う。だから迷惑はかけないと言う。
 世の中にはこう言う手合いが多く、それが親戚筋であったり、知人であると尚更である。義理人情も絡むから、その判断基準が難しい。きっぱりと断れないこともある。

 しかし、「絶対に迷惑をかけない」と言った人間に、絶対に保証人に迷惑をかけなかった人間は、この世には一人も居ないと言う事を、心して知るべきであろう。
 また、「絶対」という言葉を軽々しく使う人間は、霊的に言っても「格」の低い人間である。言霊の重要性を知らない人間あるからだ。本来の「光透波
(ことば)」の意味を知らないからである。

 一口で保証人と言うが、この保証人は、“保証債務を負う保証人”である。
 法律上これを「連帯保証人」と言う。この場合の保証人は、債務者と同等の責任を帯びる。同等に履行しなければならない保証債務を帯びるのである。
 これは手形の裏書人と同じである。裏書きすることで、手形上の権利を譲渡してしまう。手形法は厳格である。
 それと同じように連帯保証人の履行義務も厳格である。
 これは、身柄引き受けや、身元などを保証する、単なる「身許
(みもと)保証人」とは訳が違う。
 法的には、連帯保証債務を債務者と同じ責任を負うのであるから、債権者は連帯保証人に金額請求を行っても構わないのである。

 そして重要なことは、保証人が主たる債務者と連帯して、連帯保証人は履行する義務を負う保証債務を責務とすることだ。
 また、普通の保証人と異なって、連帯保証人は催告や検索の抗弁権
(請求権の行使に対抗して、その作用を阻止しうる権利)を持たないということである。
 更に他にも、既に保証人を立てて、数人の債務者がいる場合、これは「連帯債務」という状態が発生する。
 同一の内容の債務について数人が連帯債務を負う事である。一見これは、一人の連帯保証債務でなく、複数だから、いいように思う。あるいは債権者も保証する人間が多くて安心できるように思える。
 ところが、これには落し穴がある。

 数人で、同一内容の債務に、連帯債務を行い、最後にあなたの所に連帯保証人の依頼が廻って来て、これにあなたが署名捺印し、数人の中の連帯保証人になったとしよう。
 だが、依頼者が支払の不履行を企て、債権者があなたの所に取り立てに来て、月々の支払のうち、一ヵ月分でも、一部金でも、あなたが保証人として立て替えれば、あなたが以降の支払一切を履行した事になり、他の債務者の債務は総べて消滅する債務関係を作ることだ。つまり、あなた一人がババ
(婆抜きゲームのジョーカー)を掴まされ、貧乏クジを引いたことになる。

 本来保証人は、各個人間の信頼関係で派生するものである。義理や強制で派生するものではない。義理深くて、人情に厚く、お人好しの人間は連帯保証人の罠に嵌って、一生を台無しにする者が少なくない。
 頼み事をされた時は、まず「礼儀と言う物指し」で、その人間を計ってみることである。そしたら、その人間が、どの程度の人間か、見えて来る筈である。
 このように人を検
(み)ることも学問の一環である。観察眼を養い、見識を深めることも、学問の根底にはあるのである。

 そもそも学問は鍛錬されることにある。
 学んで鍛えられなくてはならない。一部を知っているだけでは何もならないのである。
 その学問鍛錬の中に、孔子は教学精神を説いているが、その根本には、「仁を好みて学を好まざれば、その弊は愚」とあるように、この愚を犯さないためには盲目にならないことが大事であり、知識だけに眩
(くら)まされて盲目になると、それは単に物知りだから、そういう知識は記憶の範囲のものである。記憶の範疇(はんちゅう)から出るものでない。大脳皮質の作用に過ぎず、それだけでは「知行」が行えない。知行の一致は見ない。
 行に至るのは、もっと根本的な「権威」というものがいる。権威が加わらないと、知識は役には立たないのである。

 学校に行って講義を受けて、それで知識を得たとしても、あるいは参考書を読んで何らかの知識を得たとしても、これだけでは、人間の信念とか、行動力にはならないのである。それを行動力に変換するには権威が加わらねばならないのである。権威が加わってこそ、それは見識となり得る。
 見識なって、それは信念になったり、その後の人生の生き態
(ざま)の行動力になる。

 則ち、理論では現実化できないのである。
 かの毛沢東ですら「革命的論理なくして、革命的実践はあり得ない」と言っている。
 理論と実践の一致は、何も陽明学だけの専売特許ではないのである。現象界の至る所で、理論と実践の一致が説かれているのである。
 だがこれを逆説的に見れば、格言や箴言、更には教訓や語録などの言行で知行の一致が喧
(やかま)しく言われることは、それだけに理論と実践が如何に難解か、このことが雄弁に物語っているのである。

 知行合一。
 一言でそう言い放つ。
 心即理。
 しかし、これがなかなか難解であり、口先だけで唱えられるものでない。実践が難しい。

 心即理。
 これは日々実践を心掛け、自らの学問を鍛錬していかなければ、実際的でないし、それを「行う」という形で顕していかねば見識にまで到達しない。単に知っているだけで終わる。
 それだけに、そうした知り得る人生を歩いただけでは、幸運にも「よき死」に恵まれて、せめて生きを引き取る間際に「嗚呼
(ああ)……、本当に善き、面白き人生だった」と感慨深く死んでいくことは出来ないのである。大往生を得るのは容易でない。

 つまり、現象界の喜怒哀楽の生を通じて、もっと根本的な「生きた悟り」を知り、「真実の智慧」を知るためには、単に学校で講義を受けたり参考書の読書で知り得た、だらだらとした長ったらしい概念や論理からでは得られるものではないのである。その裏付けには、行動が伴っていなければならないのである。

 見識とは、このようにして身に付けていくものであり、経験や体験と、精神とが凝結
(ぎょうけつ)することが大事で、また片言隻句によって悟るものであり、長ければいいと言うものでない。
 つまり、「片言隻句
(へんげん‐ぜっく)」である。
 それはダラダラとした理論ではない。一つの文言であり、ほんの短い言葉から起こる。箴言に一言で済むのである。

 『一休さん』の愛唱で名高い、かの一休宗純は、舟の中で鴉が「かあー」と鳴いた声に悟ったと言う。
 「片言隻句」は、何も人間が発する言葉だけではない。
 凡夫だったら、鴉の鳴き声などに悟りを感じる人は居ない。
 だが、観察眼が巧みで、物事をよく見ている人は、常に本質を衝こうとしているから、鴉の一声で、世の中を悟ることが出来るのである。そこに「片言隻句」がある。

 そして、その「一言」は、経験を積めば積むほど、更には教養が深くなればなるほど、まざまざと身につまされて来て、現実感を帯びてくるのである。
 則ち、これは人間の「成長」というもので、これまでの愚行が賢行に変わっていくのである。これを見識というのである。

 人間が成長して行く過程には、確かに知識と言うものが介入してくるが、それは単に大脳皮質に刻まれた記憶の断片に過ぎない。記憶を断片的に所有していても、それだけで行動力とはならない。
 ところが、人間は不思議なことに、そこに精神活動が生まれると、「理想」というものが登場してくる。この理想が志であり、志が向かうところを「理想郷」という。人はその理想郷に向かって旅をするものである。
 理想郷に向かうことこそ志であり、志が知識と結びつくと、正邪の判断力が出来て、またそれが心理的判断の秘訣ともなる。こうした判断する能力を見識と言う。

 見識は、しかし知識のように付焼き刃的なものが不可能であるから、人から借りたり、受け売りをしたりなどのことが出来ない。自分自身で鍛錬して、自己錬磨しかないのである。積み上げて行くしかないのである。そうした後に、人は志に描いた理想郷を垣間みることが出来る。



●善人と言う名の無力な悪人こそ愧じ

 現代の世で言う“善人”は、つまり“無力な善人”ということであり、この無力な善人は、何もしない、換言すれば「善人と言う名の無力な悪人」である。大して悪いこともしない代わりに、善いこともしないのである。
 “無力な悪人”だから、法律に抵触する大それた悪は働かない。生命を危険に晒
(さら)す利害の絡んだ殺人や強盗などは遣らない。

 遣らかすのは、小さな悪に限ってのことである。
 小さな悪とは、だいたいが公衆マナー違反などであり、歩きスマホ、公共交通機関内でのスマホ通話、カメラ付携帯電話での書籍撮影、運転中の携帯電話通話、ポイ捨て煙草、人が見ていない時間帯の進入禁止の侵入通り抜け、駐車違反、人の落した五百円玉以下の着服、賭け麻雀・賭け将棋・賭け碁などの賭博違反、ホテトルやソープでの売春法違反、仲間内だけで盛り上がっての人の迷惑も返り見ずの大騒ぎなどで、他にもあろうが、この程度の小悪事である。
 以上のものは、生活習慣的な取るに足りないものと思い込まれている小事であるから、中々直し難いものである。
 陽明学の「心即理」から言えば、心の曇りや濁りから顕われる小事である。

 殺人や強盗などの大それた悪は働かないが、以上のような小さな悪は働く。そして自称“真面目に生きている人間”と言う。
 可もなく不可もなく、かつ沈香
(じんこう)も焚かず屁もひらずの、無力な善人であり、また無力な悪人のことである。

 可もなく不可もなくというのは、善にも悪にも偏らないという意味ではない。また、それ自体で中庸を顕しているものでもない。
 善でもなく悪でもないというのは、状況次第では善にも傾くし、悪にも傾くと言うことである。
 不安定で転び易いのである。何れかの危険を孕
(はら)んでいることである。
 しかし、圧倒的な善にはなり難い。

 こうした場合、変化が如実になるのは善い方に変わるのは殆ど可能性がなく、悪い方に変化するのが人間の常である。人間はいい方にはなかなか変化しない。ところが、悪い方には即座に変化してしまう。
 人は時代とともに変わるものである。しかし、いい方に変わることは滅多にない。大抵は悪い方に変わることが多い。

 中庸は不動の位置を示すが、善悪不動は、いつ何時そこから動いてしまうか分らない。人の心は常に揺れ動く。これは浮動を顕しているからである。
 静止することを知らないからである。
 いい時には穏やかだが、ひとたび豹変して悪い事態が発生すれば、人間が狂い易いものである。

 「貧にしては其
(そ)の取らざる所を視る」という語がある。
 人間は何ぴとも懐具合がよく、万事が好調に動いている時は比較的おだやかであり、また滅多なことではボロも出さない。

 とことが、その同じ人間が、一旦窮地に追いこなれたり、苦境に立たされたり、貧乏に追い込まれて「困った状態」が発生すれば、そこで豹変するから不思議なものである。
 「まさかあの人が……」と言うような事件や事故を起こす場合は、人が、ある時点を転機に豹変するということを顕している。人の心は不動ではない。いつも揺れ動いている。

 そう言う場合、邪
(よこしま)なる金品を分っていても、それを無力な善人は、「人が見ていないから分るものか」と高を括り、つい自分のものにしてしまう。
 また、人が見ていないからと言うことで、天を甘く見て、例えば、車の運転中に携帯電話などを掛けたりする。
 これは人が見ていないという、見られていないことに自信があるからである。それは横に警察官が同乗していないと言う理由と同義であるからだ。
 もし横に警察官が同乗していたら、無力な善人は絶対にこういう行為をしない。無力な善人は、また小心でもある。強い者には弱く、弱い者には強い。
 ところが現実に、肉の眼しか信用しない無力な善人は、居ないことを、これ幸いと思う。人が見ていなければ、何事も大胆になる。

 人が見ていない。
 しかし、天は見ているのである。人間の、そこを見ているのである。
 だが、霊的にも疎
(うと)い者は、肉の眼しか信じないから、人が見ていないことをいい事にして、小さな不正を働き、平気で恥知らずを遣らかしてしまうのである。
 善か悪かを隔てる場合、「人が見ていない」という現実を踏まえて、見ていないから何かを遣らかすか、また見ていないから、そこでじっと我慢して歯を食いしばり、以降、邪な行為を働かないために反省事項にするかが、人物上下の評定の別れ目になる。

 我慢するか、転ぶかの別れ目を示す話に、江戸中期の儒学者で、六代将軍徳川家宣、七代家継の下で幕政を主導した新井白石と、豪商の河村瑞賢
かわむら‐ずいけん/江戸前期の材木商であり、また土木家で、地理や土木の術に長じ、安治川・淀川・阿武隈川の治水工事に携わり、また東回り・西回り航路を確立たことで知られる。更に、その功労者として、のちに旗本に列せられた。1618〜1699)の物語がある。
 新井白石はその著書の『折たく柴の記』で、自分の生い立ちからを著し、後に河村瑞賢から三千両ほどの地所を引き出物にして、姪の婿養子にと望まれたのであるが、このとき白石は22、3歳の若輩者であったが、支那霊山の「蛇の故事」を持ち出して、これを断った。

 「無名の頃に受けた傷は小さくとも、大名
(だいめい)を得た場合は、その傷も大きくなる。富豪の家に婿入りしたために、あのように偉くなったと、将来、世間から言われたくない」
 こう言い切って、婿養子を断ったのである。
 白石は22、3歳の若輩者であったが、世に此処まで断言できる人間は少ない。富豪のイメージから、多額な金品を連想し、その婿養子となれば、つい転ぶ者も少なくない。
 現実には、金目当てに誘われて転ぶ者も多い。
 転ぶか転ばないか、ここに人物としての違いが出る。

 したがって、今は貧乏であっても慌(あわ)てる事はないのである。
 天は、此処を見ているのである。また、人間は天から見られているのである。
 富貴は天にありと言う。
 これは天が人間を視ていると言うことでもある。
 見られているからには、愧
(は)じる事なく堂々としていればいいのである。胸を張って毅然としていればいいのである。

 天は見ている。また、天から見られている。
 その自覚が良心である。
 人はそう自覚したとき、自らに良心のあることを知る。同時に良知を得る。
 良知を自覚するから、それを即「行い」に変える。恥じなく生きたいと思う。良知をする所以である。
 過ち・欠点・罪などを悟って面目なく思うことこそ、人間の良心を持つ所以である。
 愧じの塊を解きほぐし、分解して、遂には消滅させようとする。それに変わって志が芽生える。目的意識をもって恥じなく生きようとする。

 人は目的を持って生きる。
 志を持って生きる。自らの理想郷に向かって、それを信じて生きるのである。ゆえに日々の鍛錬としての修行を怠らない。
 武士が己
(おの)が心の死を充(あ)てて、恥を知り、愧じなく生きようと、常時戦場と何事も心得て、斯道(しどう)に邁進(まいしん)するのは、志に向かって生きているからである。ゆえに少々の誹謗中傷や揶揄(やゆ)ではへこたれないのである。貶(おと)められれば、それに抗(あらが)う術(すべ)を知る。不屈の精神で前に出る。
 それは、理想郷に確信的な信念を抱いているから、そこに向かっていけるのである。

 志に向かう。理想郷を目指す。その目的意識があれば、積極的な人生の楽しみ方も生まれてくるのである。
 「貧にしては其の取らざる所を視る」
 まさに明言ではないか。

 かの、日本に渡来した最初のイエズス会士フランシスコ・ザビエル
(1541年東洋伝道のためインドからマラッカなどを遍歴し、のち49年(天文18)鹿児島に来日、平戸・山口など日本各地に伝道。1506から1552)は、志を持って生きる当時の武士を、このように表している。
 「日本人はキリスト教国民をもってしても、追いつけない崇高な特質を持っている。それは武士が如何に貧しくとも、その貧しい武士が、裕福な人々から富豪と同じように尊敬されている事である、彼ら武士は、貧しくとも、それを少しも恥だと思う者がいない」
 ザビエルは武士の清貧を讃えているのである。
 それは当時の武士が、徳を讃えた清貧であったからであろう。

 この武士の清貧は、以降、幕末まで、禄の低い下級武士に受け継がれ、遂に陽明学をもって明治維新へと突入していくのである。



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