運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
陽明学入門 1
陽明学入門 2
陽明学入門 3
陽明学入門 4
陽明学入門 5
陽明学入門 6
陽明学入門 7
陽明学入門 8
陽明学入門 9
陽明学入門 10
陽明学入門 11
陽明学入門 12
陽明学入門 13
陽明学入門 14
陽明学入門 15
陽明学入門 16
陽明学入門 17
陽明学入門 18
陽明学入門 19
陽明学入門 20
陽明学入門 21
陽明学入門 22
陽明学入門 23
陽明学入門 24
陽明学入門 25
陽明学入門 26
陽明学入門 27
陽明学入門 28
陽明学入門 29
陽明学入門 30
陽明学入門 31
home > 陽明学入門 > 陽明学入門 17
陽明学入門 17

山地の静かなる静寂。
 そこには緩やかな山時間が流れている。多忙なる気忙しい、都会の“都会時間”とは異なる。
 総てがゆっくりと、あたかも牧歌的である。

 しかし現代は、この種の時間に中々目切り遭えない。総てが足早に通過していく。そして現代人は、足早に時代を通過する、通過のための行動律に遵っているようにも思える。
 果たして現代人はそれだけの存在であったのだろうか……。



●壺中に天という楽しみ方

 人について語ろう。先ずは人間の種属である。
 人間には二種類がいる。大別すれば、君子と小人である。
 まず、最初に小人とは如何なるものか。
 つまり、現代の生温い人真似だけをして、それに「右へ倣
(なら)え」をしていれば無難と考える安全地帯に居る消極的人間のことである。

 一方、そうした殻から抜け出し、積極的に自分の進むべき方向を見定め、その道に邁進する志を掲げた人間である。これを君子と言う。

 前者は、「甘えの構造」の中に、どっぷりで依頼型の思考を持ち、後者は自力で自前をモットーとする人である。また、他力思考か、自力思考かの思考力も異なる。依頼型か、そうでないかである。

 前者は煽
(おだ)てたり褒(ほ)めたりするとそれに気をよくして伸びていく人であり、後者はそういうものを必要とせず、自力で自前で前向きに道を切り拓いていく人である。そして、両者は比較した場合、前者は些か自分の思い込みがあって、賞罰に敏感に反応するため小人的な要素を持ち、謙虚さを忘れると、傲慢(ごうまん)に陥って道を踏む外す人である。これは、心の在り方が本来的に外れているからである。

 人を使役する場合に、前者のような小人向けの方法論として、煽てたり褒めたりして、アメと鞭
(むち)を使い分けつつ上手に従わせる方法もあるが、一方で、この種の小人を根本から叩き直すために、あたかもアメリカ海兵隊のように、小人の短見的思考と軽薄な行動理念と先入観を叩き出し駆逐するために、まず人格破壊を行って過去の先入観や思い上がりなどを取り除き、その後、戦闘現場で遣い物になる筋金入りの戦士を作り上げていく方法もあるようだ。

 しかしアメと鞭も、遣い方を誤れば、欲に転び易く、合理主義だけでは、単に“金太郎飴”のような規格型人間を作り出すだけであって、個性は喪失していくであろう。
 更には、この種の製造機で規格化されれば、ひたすら失態することを恐れる警戒心が旺盛になり、プラス加算式の採点法がとれなくなり、マイナス点の差っ引きだけを気にして、性格が萎縮し、そこまでの部品で終わる場合も少なくない。

 ただ、巣食われる利点を探すとするならば、後者のように自力型人間は、自分に直面した試煉を、自己形成に応用でき、試煉や鍛錬を一種の「下済み生活」と考え、そこから這い上がる原動力に変換でくる可能性を持っている。
 また、『論語』でいう、「君子は愛に過
(あやま)り、小人は忍に傷(やぶ)る」とあるが、君子と小人が同じ失敗をするにしても、失敗にも「その人らしい失敗がある」と言うのである。

 一番有名な話は、『後漢書』
(「方術伝」下巻)の“費長房”の項である。
 費長房
(ひ‐ちょうぼう)が薬売りの壷公(ここう)という老翁とともに壺中に入って、別世界の楽しみをした故事である。

 この費長房は一時期、河南省汝南
(じょなん)の郡庁の役人をしていたが、ある日の夕方、庁舎の二階から下を見ていると、郡庁の城壁に露天商の店が並んでいた。その店の中で、薬売りの一老翁がいて、老翁が店仕舞をしていた。そうした情景を費長房は見ていたのであった。すると、老翁は城壁の傍(そば)に置いてあった壷の中に、隠れて消えてしまったのである。
 費長房はそれを見て、《今の老人は間違いなく、仙人だな》と思うのである。

 翌日も待ち構えて、夕刻の店仕舞の頃、そこへ行って、「私は昨日、あなたが壷の中に消えるのを見ましたが、あなたは仙人でしょう。きっとそうでしょ。是非、私も壷の中に連れて行って下さるまいか」と言うのだった。
 それは半ば懇願であり、半ば談判であり、強引に老翁にせがんだのであった。しかし、この願いは最初断られた。

 それ以来、費長房は壷の中に入りたい一心で、壷公の世話をやき、壷公も費長房の誠実さを認めるようになった。そしてついに頼み込んで、壷の中に入る機会を得た。すると忽
(たちま)ち壷の中に引き摺り込まれ、ふと気付くと、非常に景色のいい所に出ていた。

 そこには金殿玉楼
(きんでん‐ぎょくろう)があり、広い庭園には種々の珍しい樹や花が一杯咲き乱れ、泉水(せんすい)なども至る所に設けられ、誠に目を見張るばかりの素晴らしい世界だった。
 また、大層見事な金や玉で飾った建物があり、その中に案内された。そこは一つの小天地であり、別世界だった。侍女たちから美酒
(びしゅ)や佳肴(かこう)の、大変な持て成しを受けた。そして歓待さて帰ってくるのである。回想すると、そこはまさに「壺中の天」だったのである。

 壺中の天……。
 この「壷中」とは、別天地あるいは仙境のことであり、あるいは「悟りの妙境」である。更には、自身の心の「内面世界」のことである。
 人間はどんな境地にあっても、自分だけの内面世界を作り得る譬
(たと)えだ。
 これは如何なる“壺中の天”を持つかによって、人間の風致
(ふうち)が決まるものである。人間の“あじわい”の点は此処にあるといっても過言ではない。意外な人が、意外な特技を持っているものである。
 壺中の天こそ、なかなか奥床しいものなのである。

 そして「壷中天あり」の教えるところは、“壷中”を単に仙人の棲む仙境とするのでなく、今の自分が棲む現実世界のことを指すのである。それは壷中が実は自分の職場であったり、あるいは我が家であったりするのである。

 一方、ここは日常生活の修羅場であり、「私が」という我執
(がしゅう)を断ち切れば、何ものにも囚われない大きな心を持つことができ、これ啓発すれば、譬え狭い我が家もそのまま、素晴らしい壺中の別天地であるいうことを教えている。
 また、人間関係が複雑な自分の勤める職場も、考えようで、そのままそこは「桃源郷」となるのである。そうすれば一日24時間、精一杯生き、更に充実感あふれる一日を過ごすことが出来るのである。



●思想破壊と言う国難

 自由をタテマエにする以上、個人がどう生活するか、個人の自由であり、これに干渉することは出来ない。とやかく言われる
(いわ)れは無い。
 政治が極端化すれば、その捌け口を需
(もと)めて戦争に発展するのであれば、根本には経済状況がこれに結びついていると言えよう。

 しかし、経済的不自由者の数と政変とは密接に関係があるようだ。
 これを無視しては、誰かが得をし、誰かが損をする図式が解決されないからである。得する者がいれば、損する者が出るのは当然である。
 更に、国土とその国の国民の生活圏や活動域も密接に絡み、そうした生活に関する経済活動も、体制側は無視出来なくなる。

 歴史を見れば、特に1900年以前のヨーロッパに注目すれば、これらの事が浮上してくる。
 当時のヨーロッパでは機械文明さしずめ蒸気機関の発明は産業革命を押し進め、これにより生産製品の販路拡大のルートを需めて、結局これが植民地獲得競争に拍車を掛けた。

 また、その結果、第一次世界大戦が起こった。
 そして時を同じくする頃、社会主義思想が進展し、1917年にロシア革命が成立した。ロマノフ王朝の専制政治が倒壊した。
 つまり、官僚・実務を専門とする保守派のリアリストの「右側」が倒れて、一方の知識人や理論家によるユートピアンの「左側」が、これに取って代わる事になったのである。ロマノフ王朝倒壊の最大の要因は王朝ブレーンの理論に弱く、着想に弱い思考が時代をマンネリ化していたためである。

 しかし、左側は左側で、特徴的な弱点が存在するならば、理論を実行に移す実務力の弱さにあった。
 そして以降のソビエト・ロシアでは、権力を掌握した側が、革命当時の初心に掲げた起点の記憶を薄めていき、遂には初期に掲げた理論さえも軽視して行ったのである。
 これはどの社会の歴史でも、かつての「左」政党も政治家も、一旦政権の座に就くと、現実に接して、これまでの「ユートピア的理想の理論一本槍」から、ユートピアニズムを金繰
(かなぐり)捨てて捨てて、「右」に傾いていくのである。

 しかし「右」への傾倒後も、「左」のラベルをつけたままであるから、政治用語や、選挙当時、政党や候補者が掲げた公約などの宣言
(manifesto)はそのままにして、矛盾と混乱を益々増幅させていくのである。
 更には、独裁者の政権の座を守るために粛清と言う、敵対者や反対者を取り締り、シベリア送りにしたり、対立分子は悉
(ことごと)く地上から抹殺してしまうのである。もう此処には、倫理など皆無であることが分ろう。
 斯くして凍土に覆われた彼
(か)の地では、ここに人間牧場なる実験が行われたのである。

 また、これにより資本主義経済市場のおおよそ6分の1が失われたのである。ロシアへの売込みに失敗したため、これによりヨーロッパ経済は没落する。

 第一次世界大戦後、アメリカは大戦への輸出によって発展した重工業の投資、帰還兵による消費の拡張、モータリゼーションのスタートによる自動車工業の躍進などが起こる。
 ヨーロッパの疲弊に伴う対外競争力の相対的上昇が、アメリカにおいては経済の肥大化が顕著になり、アメリカでは工業生産高が世界一となった。金融資本は益々強大化していく。その強大化を背景に、競争企業の吸収が行われ、独占企業の強大化が図られる一方、価格競争力が低下していくのである。そのため独占企業体は利益並びに資産が増大していく。これに伴い、投資増となり、資本家志望と言われる中産階級が増加していくのである。独占企業体の資産や利益は増加の一途を辿る。

 投資額も急騰する。
 株式投機が盛んになり、その背景には資本は消費に向かわず新しい有利な投資先を求めたのである。アメリカ企業の株ブームが白熱していくのである。これにより実質のない思惑値段である相場が急騰するのである。

 また相場急騰に拍車を掛けたのは、米国政府が景気刺激策を取り続け、金利を下げたのである。これは貯えるより消費・購買や設備投資した方が有利であると思わせる方向へと向かった。株ブームが白熱はこうした背景に由来する。この経済動向は、またヨーロッパの資金までもが流れ込むのである。そのためにヨーロッパでは低金利で借りられる資金が欠乏していく。

 この結果、イタリア、オーストリア、ベルギーなどの国は金詰まりとなり、アメリカからの輸入代金が払えなくなったのである。遂にアメリカは輸出停止に踏切る。
 これが起因して、ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落し、1929年10月24日10時25分、世に「暗黒の木曜日
(Black Thursday)」と言われる株式暴落のための大恐慌(The Great Depression)が発生したのである。

 この背景を洞察すると、一国の富の集中は資本と言う概念により、急展開する力を与えた。その国の国民の大多数は、各自の余剰金運営のために知識を駆使して投機先を求める時代と変化するのである。斯くして、これまでの倹約とか勤勉とか、困った人へ手を差し伸べる相互扶助と言う概念が喪失し、金銭を追い掛ける資本家に準ずる生き方が当時の現代人の取るべき道となったのである。金・物・色に誘惑を受ける野望渦巻く時代になったのである。

 一旦、資本と言う概念が出現すると、社会大衆を構成する人民は、衣食住以外に倫理や文化、信仰や政治などを、それぞれの人生観と生活スタイルによって、自由に生活エネルギーに振り分け、それを個人の自由の名の下に消費するという生活総体を構築したのである。
 資本主義下では、消費そのものが生活エネルギーであるから、消費することで精神のバランスを図り、一方において将来に備えて貯蓄と言う概念が生まれるから、当然それに併
(あわ)せて、投資が消費活動の一部に組み込まれることになる。

 投資活動はまた当時の現代流の新たなる消費であったから、此処には投資するために技術、つまり投資技術は生まれ、それがマネーゲームであることは言うまでもない。更に野望を抱き、この道でプロとして成功するためには、まず古い時代の倫理と言う概念を追い払う必要があった。これを追い払うことにより、心を本体とする誠とか真心を駆逐することであった。斯くして時代が下がるごとに、こうした「心」が蔑ろにされ、「心の概念」が失われていく。

 さて、こうなると「心の概念」が根底に無いため、投機的マネーゲームの行き着く先は、往々にして破滅に向かわざるを得ない。
 この破滅は、経済全体の崩壊に伴う人間性の衰頽であり、それはやがて人としての頽廃まで招く。人格が失われるのである。
 投機と言うマネーゲームが、当然食うや食わずにやっと……という現実生活者達にとって、そのゲームの興じるゲーマーの行為は、ゲーマーとして憧れを示す大多数の投資を目論む中産階級達と、資本主義経済に甘んじる以外ない底辺の下層階級者達にとって大きな損失を与えることになる。

 何故なら、民主主義を標榜
(ひょうぼう)して、民主の名に馴染む資本主義に入れ揚げている以上、この政治システム体制は、ここまで来ると崩せないからである。
 この資本主義なるものが、前途に夢多き可能性を秘めているとしても、地球上でこの政治システムを取り入れ、採用している国家では、江戸期のような、世から隠遁して山奥に暮らし、隠士として世捨人になるというような、かつての自給自足の生活に戻れないからである。何らかと、世の中に関与して生きていかなければ、生活できない状態になってしまっているからである。

 そして、更に困ったことは、一旦資本主義市場経済を採用したが最後、ギルド的な専門家が登場することになる、分業化が顕著となって、微視的なミクロ分野の技術はそれぞれに分化されて発達するが、それを包含して全体像を検
(み)るマクロ的なグランドデザインを決定する総合的な判断力が失われてしまうのである。
 細分化されたものは、その後、組み立てても、元に戻らないからである。有機的な結合である生命体は、一旦分解され細分化され、パーツごとに種分けされたとしても、もう再び生命体を再生することは出来ない。その細分化を荷なったのが、専門家と言う人達であった。

 専門家のこだわりは、眼に見えないところまで手間隙
(てまひま)掛ける。実に結構なことである。
 普段、見えないところまで、こだわりにこだわって、こだわり抜く微視的には優秀である。この優秀性も、実に結構なことである。
 しかし、細分化された専門家の連結が図られなかった時、総合的な総体は「畸形体」になっている。生命体の生存されるための、運命的な、かつ寿命的な「命」という生命エネルギー源である。このエネルギー源は、分解されると同時に有機体は無機体に変質しているからである。斯くして有機体は、隠れた部分の不可視分野の繋がりを立たれて、死んだ、静止した、無機体へと変質する。

 つまり一度
(ひとたび)、過剰資本の運営と言う欲望が開始された時、全体像を喪失し、欲望的知性に奔るため、この専門分野の眼は旺盛になるとしても、もう、全体のことを想起する思考は失われてしまうのである。分化した専門家的な目と、思考だけが旺盛になる。
 だが、しかしと言って、マネーゲームに興じた、小金持レベルの中産階級は、総て人は平たく平等という社会主義思想は当然受け入れない筈で、こういう状態に追い込まれると否応無しに、新たな新資本主義なる体制を模索せねばならなくなるのである。

 また、その他大勢の階層の中間層を支持する中産階級は、時の政府として、他国との結びつきを「安定」という焦点に当て、安定して然も、その安定は永遠に成長しつづけるかのような政権を支持し、それでいて自国の支配体制が変わらぬことを願い、かつ自国の資本が絶対に損しないことを期待するのである。

 これは、不思議と1920年代から30年代に賭けてのアメリカの中産階級の期待値が、奇しくも今日の日本の経済成長の現実期待値と一致し、その願望を共有しているではないか。

 この期待願望を列挙すれば、経済先進国並びに経済大国の「悪あがき」とも言えるだろう。
 この「悪あがき」は、第二世界大戦前夜、各文明国はこれを押し通したのである。三国同盟を締結した日本のみならず、国際連合国と言われるこれらの国家も、悪あがきをして周辺諸国をその支配下に置くために競争することに奔走したのである。
 これが新植民地獲得構想と言うものであった。つまり、この構想の裏には武力に物を言わせた「広域経済圏獲得構想」が張り付いていたのである。この構想により、一方でファシズムが起こり、この支配体制下では軍備拡大が活溌になった。

 ファシズムは、全体主義的に歩調を合わせた権威主義的なる団結である。この団結下では会議制が否定される。話し合いのよらない一党独裁が敷かれ、市民的ならびに政治的自由は極度に抑圧される。そして対外的には他国への侵攻政策が採られる。また高らかな宣伝により、合理的な思想体系は破壊され、単に感情に訴えて自国民に士気昂揚を煽り、国粋的思想が反映されて言うようになる。
 第二次世界大戦前夜、各支配ブロックは、まずアメリカを筆頭にアメリカ圏、イギリス圏、ロシア・ソビエト圏、ドイツ圏、それに満洲を当時の生命線とした日本圏が存在し、それぞれは勢力争いを演じた。

 このとき日本経済は、既に破綻に近く、時代は関東大震災、金融恐慌、世界大恐慌、社会主義の弾圧、無政府主義者の増加、軍事費の増大という流れの中で翻弄し、社会の不公正現象か表面化しつつあった。同時に、社会制度の矛盾が一気に噴出する。この矛盾を抱えたまま、日本は大東亜戦争へと突入していく。斯くして、三年八ヶ月の戦争を体験して、日本は列島全体を歩どんど焦土と化した。

 日本は敗戦国となり、その後、アメリカの持ち込んだ自由と平等の名の下に民主主義体制が敷かれ、側面の自由は、マルクス主義や革命論までもを自由の名に委ねた。
 自由の名に総てを委ね、また人民は平等とする説に、これまでの日本の倫理を司っていた日本的儒教思想まで悪として一掃され、アメリカの掲げる自由と平等に帰順することを強いられたのである。
 民主主義はこうして展開された。以降の戦後の繁栄は、形を変えた日本の経済戦争の発展を彷彿とさせるものであった。民主主義は資本主義と相性のいい存在であった。これは今も継続中である。

 しかしこの背景において、国民が、もし愚民であれば、間違いなく民主主義は、ある流脈や意図、更にはマスコミ操作によって誘導され、本来とは異なる悪魔の道具になり易いのである。その顕著な現れが、官僚の汚職などである。あるいは大衆に捏造を信じさせる誤情報である。これを操作的に加工した場合は悪質である。
 統計調査や分析も数値に改竄があれば、大衆は知る由もない。
 そして、好きなように牛耳られる。これは経済活動の基礎である家計にまで及ぶだろう。

 こうした社会背景において、経済政策である雇用率が低下すればどうなるか。
 また、雇用率の低下に伴い、これまで経済成長の恩恵を受けて贅沢になれた国民であれば、その国はどうなるか。
 特に、衣と食は無視で見まい。一旦贅沢を覚えた人間は、過去に逆戻りすることは極めて困難である。

 経済発展は、耽美世界を出現させたのである。
 贅沢になれた、美衣などの衣服と装飾品に包まれ、美食に興じて舌の肥えてしまった食通では、過去の人民が甘んじていた粗食なる食生活には戻れまい。衣食住は、これまでの生活水準が基準となる。

 ここに経済の、現在の状況を起点にしてそれ以下に下回る経済状況の貧粗さには満足せず、永遠の経済ジレンマとして、経済は成長し続けなければならないという政治課題が課せられ、少しでも前年度を下回るような状況が顕われると我慢ならないのである。
 だが、延々に成長しつづける経済などあり得ない。いつかは失速する。
 こうなると国民の心理状態はどうなるのか。
 また、不景気現象が長引くとどうなるのか。
 かつて起こった昭和初期のような昏
(く)い翳(かげ)りが、国民生活を襲えばどうなるのか。
 また、貧富の格差が明快になればどうなるのか。
 現に、当時襲った世界大恐慌では、餓死者までもが出ている。
 その場合の国民の心理はどうだろうか。食うや食わずに甘んじれるだろうか。

 こうした状況が長く続けば、価値観の顛落
(てんらく)が起こり、皮相的になり、“生きているうちは少しもいい事が無かった。苦しみのみが多かった……”と、こうなるのではあるまいか。
 こうした心理は、生命に関わるような状況に至っていないでも、そう観じるかも知れない。
 そして、ある宗教が登場し、一方で極楽を説き、他方で地獄を説いた場合、生きている人間はどちらに行きたいと望むだろうか。

 仮に、極楽という名の地獄が存在しても、地獄に目を向けず、極楽の名ばかりを注視して、「極楽という名の地獄行き」の特急列車に乗るかも知れない。そして、これまでの苦しみはその列車に乗ることによって、総ては消滅すると言う短絡的な考えを抱くかも知れない。
 封建時代の「水呑百姓」と言う階層は、念仏を信じて、この短絡的思考を選択したのではなかったか。
 現に、一揆はそれを如実に物語り、念仏宗指導者はその方向に民衆を煽ったではなかったか。
 指導者自身は僧籍と言う安全圏に居て……。

 近世から現代までの倫理観の変容と、金銭至上主義に入った為に倫理が失われるまでの歴史を簡単に辿ってみたが、経済成長を永遠にし続けなければならない経済政策の裏には、武力行使とか弾圧などの政治が絡み、日本の幕末史は「国難が来た」という警戒警報によって、尊皇攘夷思想が湧き起こる。
 尊皇攘夷……。
 それは国難を知らせる警戒警報であった。

 国難が来た……。
 これを最初に唱えたのが林子平
はやし‐しへい/江戸中期の経世家。寛政三奇人の一人とされる。1738〜1793)だった。子平はその著書『海国兵談』によって、この危機を著す。
 子平が死ぬ一年前の寛政四年
(1792)の事だった。

 日本で最初に「国難が来た」と警戒警報を発令したのは、林子平である。
 現に、文化七年
(1824)、イギリスは自国の捕鯨船を水戸藩沿岸に上陸させている。
 この時、英国と交渉に当たったのが、江戸後期の儒学者で水戸藩士だった会沢正志斎
(あいざわ‐せいしさい)である。会沢は、藤田東湖(ふじた‐とうこ)の父に当たる藤田幽谷(ゆうこく)の儒学を学ぶ。また、幽谷は『水戸学』の立場を確立した人物であった。

 会沢の著書『新論』は、後にこの著書が尊皇攘夷の大激動を引き起こす導火線になったのである。
 阿片戦争は1840年に勃発し、42年には清国は敗北して「南京条約」を結ばされ、これを知った日本民族は攘夷運動へと傾いていくのである。つまりこの時は「西夷」であった。
 しかし「西夷」の正体は、まだ不明であった。

 そもそも徳川家康は幕府の方針として、念頭には「西夷」の脅威が、常に渦巻いていたのであろう。
 「西夷」に対して専守防衛を国策として打ち立てていたようである。
 次に「西夷」に対抗するために日・中・韓の「対西夷同盟」もあったであろう。
 日本の鎖国はそのためだったと思われる。西洋とは交わらないことを旨とした。
 家康は秀吉に比べて西洋の海外事情は詳しく知り得た筈であったが、日本一国では「西夷」には抗しきれないと考えていたようである。

 家康は既に、信長が上洛する以前の永禄八年
(1565)にスペインが、フィリピンを占領したことの情報を得ていたのかも知れない。マニラは「西夷」の大根拠地となり、その鉾先は極東の日本列島に向いていた。
 更に時代が下って、五代将軍の綱吉の頃になると、コザック軍団のシベリア侵略が始まっている。このときロシアはカムチャッカの到達し、「西夷」の脅威は南からと北からの挟み撃ちとなっていた。この頃から「西夷」として軍事的侵略の暗雲が日本列島に垂れはじめていたのである。

 しかし、日本人は現代に至っても「西夷」の真の意味が解っていない。西洋支配の無際限なるこの外圧の怕
(こわ)さを殆ど理解していないのである。
 そして、十八世紀末から十九世紀の初頭に掛けての当時の海外情勢は、地球規模から見ても緊張を強いた時代であったと言えよう。

 米英船の来航に続き、ロシアの侵攻が懸念され、この脅威は日本民族が未だかって体験しないほどの極めて異質な高まりと緊張を見せていたのである。
 その緊張を即座に悟ったのが、幕府当局の一部の者と、尊皇攘夷を掲げる先覚者らの志士であった。
 つまり、日本は西洋の白人列強に完全に包囲されているという自覚であった。
 特に長州藩は、ロシアを仮想敵国にしていたから、この脅威はひしひしと感じていたのであろう。

 そして時代は幕末の激動機から、明治維新へと突き進むのである。
 日本の近代史は、中国式の陽明学から日本陽明学派の至誠の思想で貫いた時代であった。
 陽明学は至誠に至る原形を、良知と誠実に求めることが出来る。そして次に登場するのが「良心」であり、「まごころ」であった。
 「まごころ」は遂には、日本では至誠に至ったのである。至誠をもって倫理観を確立したのである。
 私たちの先祖は、この時代、広く陽明学に馴
(な)れ親しんでいたと考えられる。



  運気     八門人相     房中術     癒しの杜     菜根譚     小説     会報Back No.     合気     蜘蛛之巣伝     死の超剋     霊的食養     心法