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陽明学入門 18

「人はパンのみで生きるのではない」と云う言葉がある。
 では、何のために生きるのか。
 生きて、何をするのか。自分をどのように扱うのか。何処に向かわせるのか。その向かわせる行動原理は何か。
 当然、その背景には「心」と言うものがある。心無しで、人は行動を起こせないものである。
 心即理は、ここに行動の原点を見る。

 では、「心即理」は、心を鍛えると言うことか。
 なぜ心は鍛錬しなければならないのか。
 それは陽明学の『事上磨錬』に回帰されよう。

 人は、苦難の中でもがき、また不遇の底で苦悩し、虐げながら長い心の疲弊に絶えて、幾度か崩れかかり、またそれを立て直し、辛うじて自分のボロを身繕
(み‐づくろ)いし、新たな力を得て再び立ち上がる。
 不死鳥原理の「心学」が此処にある。

 立ち上がる原動力になるものが、古人の言った「道」ではなかったか。
 道こそ心を支え、道に依
(よ)って人は励まされ、勇気を得たのではなかったか。自らを奮い立たせたのではなかったか。
 陽明学の「心学」たる所以は、この「道」を、学徒と言う姿勢で探求することであった。


●日本陽明学派が培った幕末の人間改革

 陽明学は至誠を貫いたことは周知の事実である。
 まず、倫理の根本に「誠」を据えた。「まごころ」を置いた。
 「誠」こそ、心即理と置いたのである。その一致を説いた。
 それはまた、道徳的能力を内面に秘めて、その現れを「理」として顕し、理は「心」と隣り合わせだった。
 だが、此処に行き着くまでには、若き日の王陽明には苦悩する日々があった。

 王陽明は、明
(みん)の憲宗の成化(せいか)八年(1472)、浙江余姚(せつこう‐よよう)で生まれた。陽明の生まれた家は、代々が読書家の家庭であったといわれる。陽明の父・華(か)は成化十七年(1481)に進士第一に上げられ、南京吏部尚書(なんきん‐りぶしょうしょ)にまで栄達した人であった。
 陽明が十一歳のとき、彼は父の勤務の関係で北京に伴われた。そして此処で六年間滞在する。その間、陽明は朱子学の本の片っ端から読み漁り、その学の真髄に触れようとした。

 勿論、科挙の試験に備えてのこともあろうが、同時に朱子学の魂に触れようとしたのである。ところが朱子学は形骸化した索莫
(さくばく)としたもので、絶望感がただ募るばかりだった。果たして二十二歳のとき、会試に落第し、当時の心境は落ち着かぬものであった。それが肝心事を次から次へと変化させて行くのである。この時期を陽明の「五溺(ごでき)」と呼ぶ。
 この五溺には、任侠、騎馬、文辞、神仙、仏教の五つに惑溺したことをいう。後の陽明学完成に向けては、これらの一つ一つが、陽明の思想体験となっている。これらを巧みに生かして行った陽明の足跡には注目すべき点がある。五溺を次々に移行したと軽くみるべきでない。そこに軽率さは無かった。
 むしろ豪邁不覊
(ごうまい‐ふき)な性格ゆえのことであった。

 陽明の性格は気性が強い一方で衆に優れ、然
(しか)も何事にも束縛を受けず、才識すぐれ、常規で律しがたい面があり、在り来たりの教学では妥協出来なかったからである。こうした時期に、奇(く)しくも広信こうしん/江西省)の人である婁一斎(る‐いっさい)に出遭う。陽明にとっては、まさに邂逅(かいこう)だった。
 一斎は呉康斎
(ご‐こうさい)の弟子で、然も朱子学者でありながら、早くから官途への志を絶って、農耕生活を勤(いそ)しんでいた変わり種である。あたかも、陶淵明の『帰去来辞』を賦して故郷の田園に隠棲した、あの態(さま)を髣髴とさせる人物であった。陽明は一斎に強く惹(ひ)かれた。
 そしてこの人物は農耕生活の傍ら、ひたすら朱子学の原意を探りながら、同時に朱子学が否定の方向に傾くに従い、時勢に対しては消極的ではあるが抵抗を行った人であった。そして世は明代である。
 朱子学に対し手放しで喜べない朱子学者が殖えはじめた時代でもある。朱子学は一世を風靡した学ではあったが、一方で疑問視する学者も、朱子学者から出始めていた時代でもある。一斎もその一人だった。

 一斎の思想の詳細は不明だが、陽明はこの人物の朱子学否定論に大いに惹かれたのであった。特に一斎の理にこだわらぬ自由な思索と体験に憧れたのである。そのときに人間は何ものにも縛られず、また蹂躙されず、自由であるべきだと痛感するのである。
 そして遂に陽明は「一草一木にもみた至理があるとする朱子学の格物論を験
(ため)そうとして、庭前の竹を切ってその理に沈思した。このとき逸話としてノイローゼになったと『伝習録』(下巻)には出ている。
 竹を切ってその至理を追求したのは、理の研究の手順違いもあろうが、果たしてそれは当時の陽明の心境を理解したものとは言えないであろう。陽明の心中に渦巻いていたものは、単に竹の理だけでなく、万物に向かった観察眼があり、万事万物が心に先立つ定理を備えているとする朱子学の教説に疑問を感じていたことを窺わせる。「まごころ」の追求であったと採ることも出来よう。
 結局朱子学に心血を注ぎながらも、朱子学に安住の地は見出せなかったのである。
 その結果、道教に心を惹かれるに至るのである。故に苦悩に心中は、心と理との不一致に由来し、この路程を辿って、後年、開悟する前兆があり、これは多くの事柄を研究して行く過程に陽明独特の「事上磨錬」があったと言えよう。何事も困難や窮地に立たされて初めて開悟するものが生まれて来るのである。
 変化する時の作用点に「事上磨錬」があるようだ。それは人が変わる作用点でもある。


 ─────時代の流れがその過程にあるとすれば、困苦に直面し、これに抗い探求を諦めてはならないであろう。そして原動力は、何処までも「まごころ」であり、至誠である。時代が時とともに移り変わるが、どの時代にも至誠は必要であろう。至誠がある限り、中心課題はぶれることが無い。

 「まごころ」追求は、道徳的能力を内面に秘めて、その現れを「理」として顕し、理は「心」と隣り合わせだった。近世の日本人は、自己を表面に強く意識することを嫌ったからである。
 そして幕末から明治に懸け手の日本人は、「良心」を「誠」とともに大事にした。日本の陽明学は良知を良心に置き換えたのである。心即理であるならば、これを日本流に良心に置き換えても、まんざら的
(まと)を外しているとは云えないであろう。
 動乱期には、開悟の兆しが漂っているものである。それは産みの苦しみを持つ。
 このときに陽明学の良知が「良心」に置き換えられ、良心はやがて誠実を強調した意味での「至誠」へ変わっていった。「至誠」こそ、陽明学を日本流に変換した「まごころ」の現れであった。
 また、良心の強調形であった。此処に日本流の独特の倫理が確立された事になる。
 その一つに廃藩置県がある。

 明治維新に至るプロセスから、その終焉
(しゅうえん)まで、この当時の日本には一種独特の民族的結合があった。また、このとき私たちの先祖は、陽明学を身近に感じていたとも云える。そして、それは思考や思索の踏み台にもなり得た。
 この思索の踏み台に照らし合わせて、幕末から明治期の時代の流れを検
(み)てみると、特に眼を惹(ひ)くのが『廃藩置県』である。廃藩置県こそ、鎌倉以来の武家政治ならびに政権の終焉を告げるものであった。武士階級の終わりを告げるものであった。禄を政府に返上したからである。これは国家財政の難を知っていたからだともいえる。士族が禄を従来通りに食んでいれば、国家は疲弊し、ついには亡国に繋がる。実行せねば間違いなく国は亡びる。それを認識したのであろう、

 廃藩置県は明治四年
(1871)七月に、地方改革制度で施行された制度であり、全国の藩を廃して府県が置かれ、中央集権化を目的にしたものである。このとき北海道を含めて、ほか3府72県が置かれたのである。そして、背後にあったものは「版籍奉還」である。
 これが可能になったのは、明治新政府が戊辰戦争に勝利したことによる。
 更に新政府は、天皇という権威を頂き、政治的な正統性を確保した。
 だが、この正統性は西欧列強に対しての圧力などにおいては抗しきれず、またこれ自体で近代国家は造れない。
 何故ならば、国家財政が不足していたからである。

 更には、かつての徳川期に幕藩体制は、幕府自体を構成する徳川本家の規模は、他の親藩・譜代・外様などの大名家を含めて、やや大きいという程度の大名に過ぎず、明治に至っても日本各地には、未
(いま)だにそれぞれの有力かつ強力な藩が存在していた。
 大政奉還後の幕府には多少の資金は有していたものの、その程度では到底日本国を防衛する常備軍を造ることは出来ず、また官僚を雇い、国家運営など出来るような状態ではなかった。その基礎をなす準備資金とはならない。これを入手しない限り、新政府の運営は儘ならないのである。
 新政府は国家財政の許をなす資金自体を持っていなかった。今風に云うならばファンドである。

 こうした状況下、時の政府は基金を何処に求めるか、深刻なる大問題を抱えて居たのである。
 幕藩体制当時の武士たちは、生活の糧
(かて)はそれぞれの藩から「禄」という年俸をもらって生活していた。そして、この禄になるものは、百姓からの年貢で賄(まかな)われていた。
 新政府はこの禄を、中央政府へと集める策を立てたが、そうなると、これまで禄に頼っていた武家の家族の生活が成り立たなくなる。当時、幕末期、武士は全国民
(当時の日本の人口は約3000万人)の5%から7%と云われていたので、家族ともども180万人が失業し、藩主も大小を含めて270万人居たから、一斉に馘(くび)にしなければならない。
 一斉に、施行ともに180万人以上が首切りリストラに遭い、失業してしまうのである。

 この数字を、今日の1億2千万弱の現在の国民数に置き換えると、日本企業の1200社弱の社長が首切りに遭
(あ)い、またそこで働く社員も、その家族も一挙に路頭に迷うことになる。この数が厖大なことは容易に想像がつこう。
 明治維新は、こういう財政面をも抱えた一大革命であった。
 そして維新後、叛乱士族の役は確かに勃発したが、最後は新政府に従う道を選ぶことになる。
 もう再び、幕末のように佐幕と討幕のように二手に分かれて、日本中を戦場にする内戦には至らなかった。
 これにより、武士階級は廃止され、またこの人員整理にも大混乱は起こらず、藩を廃止し、県を置くことに承諾する結果になるのである。
 では、承諾に至る「廃藩置県」なる婉曲
(えんきょく)な表現と、それを受諾しなければならない武士の心境か如何なるものであったであろうか。
 そして、武士が廃藩置県を受け入れた最終決断は、何によってなされたのであろうか。

 明治維新を「維新」という観点から考えれば、これを機に、武士はこの階級が総てリストラされて廃業したと言うことであった。武士の廃業革命と言ってもよい。
 維新の原動力となったのは、その流れを追うと西欧列強の外圧の脅威からこれまで燻
(くすぶ)っていた尊皇攘夷思想が巻き起こり、この構図は「倒幕」対「佐幕」の構図が出来上がっていた。

 倒幕派は、これまでの旧態依然の遣り方では極東を虎視眈々と狙う西欧に対抗しきれないとし、一方、佐幕派は幕府の保守こそ西欧に対抗するべき勢力であり、これを維持しなければならないと考えていた。

 この、「倒幕」対「佐幕」の構図に西欧のイギリス
(スコッチメーソン)とフランス(大東社/グラントリアン)のフリーメーソンが取り憑いた。
 魂胆は、双方に取り憑いて、背後で武器援助をして日本に内戦を画策することであった。
 その典型が、戊辰戦争であったが、これは全国規模とはならず、東北と北海道の一部で終熄し、新政府はこれにより薩長土肥を主体とした政権が誕生した。しかし、この間も新政府内はそれぞれの藩閥勢力で大いに揺れ動くのである。
 ただ維新と言う革命に至るシナリオは、西欧のそれとはことなり、アメリカ独立戦争ともフランス革命とも違っていた。

 この背景には徳川慶喜の「名君たる才」があり、慶喜は大政奉還し、鳥羽伏見で敗れた後は直ぐに蟄居
(ちっきょ)に継ぐ蟄居を繰り返し、以降政治の表舞台には登場しなかった。明治元年に、確かに新政府軍と旧幕府側との戦いである戊辰戦争(大政奉還以降の鳥羽伏見の戦、彰義隊の戦(上野戦争)、長岡藩・会津藩との戦争、箱館戦争など)は起こったが全国規模ではなかった。これにより、日本人同士が血で血を洗う大きな戦いにはならなかったのである。また西南雄藩と幕府連合という対峙構図を作らせなかった。
 そのうえ、露骨に日本を狙う西欧列強の植民地としての付け入る隙を許さなかった。旧幕府軍を纏めて指揮していたら、日本列島は戦火の海に包まれたことであろう。
 この意味からすれば、慶喜は維新においては陰の功労者であろう。それは「動かない」ことであった。

 そして維新という革命を良く吟味すれば、一般論としては確かに革命ではあったであろうが、維新を遂げるためのプロセスを考えると、これは他の国の何処の革命とも違っていることに気付かされる。
 普通、古い体制を崩すとき、国内には経済的不自由や虐げられた者が続出し、その元凶は封建体制であるとし、それを打倒しなければならないとし、人民の名において煽動者が革命をマネージメントする。人民を操作し、意図的に方向性を持たせてある流脈へと導いていく。

 例えば、フランス革命においては封建体制の中のブルジョア階級である銀行家などが、王制反対し、またカトリック教会に反論を述べ、経済活動ももっと自由にさせろと喚く。ブルジョア階級からすれば経済活動の規制された不自由は社会的桎梏
(しっこく)だと考えていたのである。
 この、手枷足枷
(てかせ‐あしかせ)を外さない限り、金儲けの経済活動はままならぬと確信したのである。
 そこで、革命を専門に企て、人民の煽動を得意とする“革命屋”の登場となり、ブルジョア階級は彼らと結託し、まず人民に対して啓蒙運動を展開する。
 フランスの場合は、ルソーやヴォルテールらの啓蒙主義者であろう。
 啓蒙は無知蒙昧を駆逐することである。そして目的は、啓発して無知なる輩を教導して、ある種の流脈を培養することである。
 それゆえ方向性を持つ。これは、つまり“煽動”である。

 こうした革命屋が人民を煽動し、焚付け、体制の不条理を徹底的に追求して指弾し、かつ啓蒙し、人民に武器を持って立ち上がる革命思想を培養していく。そこで、革命と言う蹶起
(けっき)が起こる。
 この場合の蹶起の切っ掛けになるのは「集会」という自由を標榜するデモンストレーションを行って気勢を上げ、徒党を組むことから始まる。徒党を組んで武器を持ち、組織化する。そして蜂起に至る。
 この組織抵抗をもって、体制側と死闘を演じるのである。

 被支配階級は体制側に虐げられた弱者として、その弱者なるゆえを大義名分化する。
 また革命屋に煽動されて実行部隊として蜂起し、体制勢力と武器を取って戦う。格闘戦に入る。
 闘うことで、闘争することで、自らの逆転劇に夢を託し、革命がなった暁は……などと革命屋から吹聴されて、ますます執念を燃やして血みどろの革命戦を演じるのである。
 しかし、根底には欲望が原動力になっていることが否めない。常に死闘を演じる背後には、人間の欲望が横たわっているのである。欲望のために執念を燃やすのである。

 欲望は陽明学的に言えば、心が曇り、濁り、かつ心に「雑念雑想が巣食っている状態」で、私心があり、心の鏡が曇らされている実情がある。人の欲望とは、そういうものである。
 ゆえに革命も、人の欲望による。
 旧体制の逆転を狙うのは、人の欲望である。明治維新も革命である以上、人の欲望が蠢
(うごめ)いていたことは否めない。その最たる事実が、これまで被支配層であった下級武士が、特に体制を支配していた支配層に対し、逆転を企て、維新がなり、それにより維新の功労者として新政府高官にすり替わったことであり、西欧対抗策を確立したことであった。
 それは「王政復古」によってなされている。

 これは慶応三年
(1868年1月3日)十二月九日の『王政復古宣言』を含む明治維新によって、これが遂行された。
 また復古宣言は、ヨーロッパではクロムウェルの共和政治やフランス革命およびナポレオンの第一帝政の後に、旧王朝の政治に復した類
(たぐい)に似ているが、日本の場合は、近代デモクラシーは天皇制を要求して、その「復古」似よって成立し、その特殊性は西欧近代デモクラシーとは異なる。西欧では君主制を打倒することで成立したからである。
 つまり日本では、デモクラシーを超越した天皇の大権によって、西洋流に言うならば専制主義的な、更にはこれらを超越して、非デモクラットな存在である天皇を頂くことにより近代国家が成立したのである。これこそが明治維新の特長であった。

 これはまた、徳川幕府を開いた家康以来の、「湯武放伐
【註】易姓革命=中国古代に成立した政治思想であり、天子は天命を受けて天下を治めるが、もしその家(姓)に不徳の者が出れば、別の有徳者が天命を受けて新しい王朝を開く思想)絶対肯定」の立場への反動であった。家康が幕府を開いた時に導入したのは、儒教(朱子学)という中国思想であった。
 日本のおける武家政治は頼朝から始まるが、鎌倉・室町・江戸という時代の流れの中で、最も極大値まで持っていったのは徳川家であった。

 幕府権力が最大になると言うことは、革命思想も最大限の貫徹されると言うことで、その一方で、逆に天皇権力は徳川幕府によって、最低値まで引き下げられたのである。国家の権威を最低値で抑え込んでしまったのである。
 それは天皇家が、政治の世界における勅令や院宣が実効性を完全に失っただけでなく、幕府は朝廷内部にまで深く干渉したのである。
 その最たるは、家康と秀忠の制定した『禁中並公家諸法度』であった。
 これは家康と秀忠が天皇と公家の守るべき法を定めたものであり、全第七条からなる。
 そして江戸初期の臨済宗の僧侶・以心崇伝
いしん‐すうでん/徳川家康に仕え、外国文書の起草や公家・武家・諸寺諸宗の法度の制定に参与、「黒衣の宰相」と呼ばれた。1569〜1633)らが、これを起草し、第一条には天子御芸能の事、第一御学問也と定めたことであった。
 つまり、天子は学問をすべきことを述べ、以下のように定めた。

第一条 公卿・寺家の席次・任用・衣服などを定めた。これを幕府が命令すると言う形を取った。
 天皇の行動やそのルールは幕府が作ると言うことである。
第二条 摂家たりと雖(いえど)も、其の器用無きは三公摂関に任ぜられるべからず。況んや其の外をや。
第三条 器用の御仁躰、年老に及ぶと雖も、三公摂関、辞表有るべからず。但し、辞表有りと雖も、再任有るべき事。
第四条 武家の官位は、公家当官の外たるべき事。
第五条 改元は漢朝年号の内、吉例を以て相定むべし。
第六条 関白、伝奏並に奉行職事等申渡す儀、堂上地下の輩相背くに於ては流罪となすべき事。
第七条 紫衣の寺住持職、先規希有の事也。近年猥(みだ)りに勅許の事、且つは臈次らっし/秩序や物事の順序)を乱し、且つは官寺を汚し、甚だ然(しか)るべからず。向後に於ては、其の器用を撰び、戒臈かいろう/仏道修行の年功あるいは法臘)相積み智者の聞へ有らば、入院の儀申し沙汰有るべき事。

 これにより、天皇の権力や権限を、幕府権力は史上最低にしてしまったのである。
 この事を如実に顕したのが、上記した第七条であり、「紫衣
(しえ)事件」である。この事件は、寛永四年(1627)に起こった。
 将軍徳川家光のとき、後水尾天皇から大徳寺・妙心寺の僧に賜った紫衣を、幕府が法規を楯に奪い、幕命に従わない妙心寺の単伝・東源、大徳寺の沢庵・玉室らを罰した事件である。
 このとき、妙心寺や大徳寺の僧正九十余人が、紫衣を賜
(たまわ)ったのである。
 そもそも天皇は僧正に紫衣を着ることを許されている。これこそが従来の天皇の権限であった。
 ところが秀忠は、『禁中並公家諸法度』を楯に、その違反を指摘し、綸旨
(りんし)の撤回を要求したのである。つまり、天皇の命令を撤回させのである。

 だが、天皇の言葉は一度口にした以上、戻らない。天子の言葉は、汗が再び体内に戻らないように、取り消すことができないのである。これを「綸言
(りんげん)汗の如し」という。
 天子の言葉は出た以上取り消しが効かない。
 しかし幕府は、このとき天皇に対して撤回を需
(もと)めて来たのである。後水尾天皇は赫怒(かくど)されたが如何ともし難かった。つまり天皇は、臣下からの命令によって綸旨が撤回され、このとき天皇は権力を史上最低に封じられてしまうのである。

 徳川時代は、天皇が幕府から厳しい規制を受け、更に理不尽だったのは、明暦三年
(1657)正月十八日から二十日に亘り江戸が燃え続けたと言う『明暦の大火』であった。
 この大火事は、江戸城本丸をはじめ市街の大部分を焼き払われた大火災で、焼失町数は四百町。また死者数は十万人余。この時、とにかく厖大な損害を出したのである。
 出火原因は、本郷丸山町の本妙寺で施餓鬼
(せがき)に焼いた振袖が空中に舞い上がったといわれ、俗に「振袖火事」と称された惨害である。災後、本所に回向院(えこういん)を建てて死者の霊を祀った。

 幕府はこれを「天子の不徳の致すところ」と称した。そして、後西天皇に烈しく退位を迫ったのである。
 天才も人災も、その責任は天皇にあるとする朱子学は、まさに体制側には都合のいい学問であった。とんでもない朱子学の乱用と言うべきであろうが、朱子学は中国宋代では体制側の国教となっていたので、徳川幕府もこれに肖
(あやか)り、責任転嫁を朱子学の言に従い、「天皇に責任あり」としたのであろう。

 林羅山
(はやし‐らざん)以降の江戸初期の幕府お抱えの御用学者らは、家康以後四代の侍講となり、これを機に、上野忍ヶ岡に学問所および先聖殿を建て、昌平黌(しょうへいこう)の起源を創出している。朱子学一辺倒になって、国教的な幕府お抱えの体制学でありえた。
 それが解釈違いの“孟子イデオロギー”であり、“湯武放伐論”であり、“易姓革命論”あった。

 江戸前期の儒学者・山崎闇斎は京都の人で、初め僧となったが、谷時中
たに‐じちゅう/江戸初期の儒学者で、土佐朱子学(南学)を確立。南村梅軒に学び、のちに還俗。儒と医を教授し、門人に野中兼山・小倉三省・山崎闇斎らがある。1598〜1649)に朱子学を学び、京都で塾を開き、門弟数千人に達したという。
 後に吉川惟足
きっかわ‐これたる/江戸前期の神道家。吉川(よしかわ)神道の創始者。京都で萩原兼従(はぎわら‐かねより)に吉田神道を学び、のち吉川神道を開いて保科正之(ほしな‐まさゆき)ら諸大名に伝授し、1682年(天和2)幕府の神道方となる。1616〜1694)に神道を学び、神道と朱子学を融合させた垂加(すいか)神道を興した。
 闇斎の高弟に、浅見絅斎
あさみ‐けいさい/江戸前期の儒学者。1652〜1711)がいた。

 絅斎は近江の人で、山崎闇斎に学び、崎門
(きもん)三傑の一人として知られ、闇斎の垂加神道に反対し破門される。そして、絅斎は生涯任官せず、京で講学する。
 門人に若林強斎
(わかばやし‐きょうさい)・三宅観瀾(みやけ‐かんらん)らを育てた。また三宅観瀾は、史学に長じ、水戸藩に仕え、彰考館総裁を経て、後に幕府の儒官に登用される。
 そしてここに『崎門学派』が誕生する。

 その門下に佐藤直方・浅見絅斎・三宅尚斎
(みやけ‐しょうさい)を崎門三傑という。
 その崎門三傑により、徳川時代の朱子学における展開・発展過程を見ることが出来、遂に“湯武放伐論”は是か非かとなるが、崎門学派では、精緻なる理論形体をもつ朱子学は、まだ突破できずにいた。
 朱子学の説く、事物に内在する個別の理を窮めるとする格物は、後天的に得た知見を拡充することの致知をもって、究極的に宇宙普遍の理に達する「窮理」こそ、「物事に至る」とする、この理としての規範の壁は分厚く阻
(はば)んでいた。当時に日本の思想界では、これを突き破る者はいなかった。

 ところが、後に天皇の非倫理性を徹底追求する学が登場してくる。
 江戸中期の儒学者で史学者の水戸藩儒の栗山潜鋒
くりやま‐せんぽう/1671〜1706)は、国史に通じ、27歳で彰考館総裁となり、その著書『保建大記(ほうけんたいき)』は、史論として名著と称された。
 これによると、「何故、古代天皇システムが没したか、また古代天皇イデオロギーがなぜ死んだか」を詳細に論じているのである。

 『保建大記』は、また谷泰山
たに‐じんざん/山崎闇斉の門人で谷重遠。土佐南学の最高峰。が異様なほど絶賛した名著であり、また泰山は最高の尊皇学者と称された。
 栗山潜鋒の『保建大記』によれば「巻を掩
(おお)ひて太息し、涕(なみだ)を斯(ここ)に垂(た)れ」つつと、泣く。

 泣く理由は、わが日本の倫理が「保元
(ほうげん)の乱」(保元元年(1156)7月に起こった内乱で、皇室内部では崇徳上皇と後白河天皇、摂関家では藤原頼長と忠通との対立の政治抗争)を契機に致命的な打撃を受け、この激化により、崇徳・頼長側は源為義、一方、後白河・忠通側は平清盛と源義朝の軍を主力として戦うことになる。そして後白河天皇と争った崇徳上皇の非行を、栗山潜鋒は追求するのである。
 それはまた、倫理や道徳の崩壊へ至る追求であり、天皇システムの解体が進んだことへの危惧
(きぐ)であった。
 潜鋒は大忠臣として、当時の皇室の人々の非道徳性、非倫理性を追求してやまないのである。

 『栗山潜鋒集』は、しかし某弁証法も顔負けの伏せ字に継ぐ伏せ字で、難解なる空白箇所を持つが、これを「有機的なる隠れた部分」と言うのであろうか。それゆえ読みが難しい。
 空白箇所の謎解きが、また難解である。文中には隠された含みが多く、見えない部分があるから、その解読が難しい。

 しかし栗山潜鋒は、初期水戸学派の三宅観瀾により徹底追求を契機に、天皇イデオロギーを揺すぶる大きな原動力になっていく。尊皇攘夷は、水戸学に端を発する。
 浅見絅斎は江戸前期の儒学者である。山崎闇斎に学び、「崎門三傑」の一人と称された。
 絅斎の『靖献遺言』
【註】全8巻。貞享4(1687)成る)は、中国における屈原(くつ‐げん)・諸葛孔明・陶淵明(とう‐えんめい)・顔真卿(がん‐しんけい)・謝畳山(しゃ‐じょうざん)・方孝孺(ほう‐こうじゅ)ら中国の志士や仁人の遺文を選集し、小伝を付記し、道義に殉じた精神を明らかにした書であり、幕末の尊王論に大きな影響を与えた。
 更に、闇斎の垂加神道に反対し破門となった。此処にも注目すべきである。何故か?……と。

 また『拘幽操
(こういうそう)』は、山崎闇斎による朱熹(朱子)の解説書であり、闇斎は君臣の義の本質を発見して、これを「此れ便(すなわ)ち是れ君臣之義を見得(みえ)たる処(ところ)なり」としている。更に朱熹の言葉を用いて「拘幽操は文王の心を得き出せり。夫(そ)れ然(しか)して後に、天下の君臣たる者定まる」とあり、則(すなわ)ち、拘幽操こそ、文王の真意を説き明かしたものであり、これこそが、天下において『君臣関係が確立された基本構造である』と断言しているのである。

 また、これによれば、西伯
(西の統括をする諸侯の事で、寧王とも呼ばれ、文王と諡(おくりな)される。周王朝の基礎をつくった王で、殷(いん)に仕えて西伯と称され、勢い盛んとなり紂王(ちゅうおう)に捕らえられたが、許されて都を豊邑に遷した。その人物ならびに政治は儒家の模範とされる。のち為政者の手本となった。前1152〜前1056頃)は、とにかくこの上なく徳が高く、天下の衆望を集めて紂王に危険視されて捕えられたが、しかし捕えられた理由については何の罪科(つみ‐とが)もなく、このとき紂王に捕囚されたとろは真っ暗な地下牢であった。それでも、西伯は少しも恨まず、また紂王の為すことは総て正しいということを主題にして『拘幽操』を作った。
 山崎闇斎の拘幽操は、そう書かれている。

 これを絶賛して潜鋒は「究極の君臣関係」と褒
(ほ)めちぎっている。
 闇斎によって構築された「崎門学」は、遂に此処まで到達し、闇斎学派として、「承久の乱」で死んだ尊皇論である『大日本史』が「承久の難」と表記されて復活する。
 これに携わった学者たちを「水戸学派」という。

 水戸学は、儒学思想を中心に国学、史学、神道を結合させたもので、その教えは「愛民」ならびに「敬天愛人」などの思想で、吉田松陰や西郷隆盛をはじめとした多くの幕末の志士等に多大な感化を齎し、明治維新の原動力となった。
 また水戸学には、寛文五年
(1665)、亡命中の明の遺臣だった朱舜水しゅ‐しゅんすい/江戸時代初期に来日。水戸藩主の徳川光圀が彰考館員の小宅処斎を派遣して舜水を招聘。1600〜1682)を招聘し、舜水は、陽明学を取り入れた実学派の学者であった。
 斯
(か)くして、天皇は真の人であり、また真の神となった。真の神である「現人神(あらひとがみ)」こそ、如何なることもなし得る。これをもって明治維新への一直線。これこそが「天皇の奇蹟」であった。

 しかし、明治維新は、維新としてこれで終結したのではなかった。
 維新は此処からであった。本当はここから始まる。
 この状態の維新では、まだ根本的なる決着に至っていない。この状態では、武士階級を廃絶させる筋道が貫徹されていない。これは最終的に完成し「維新が成る」のは、武士が一切の禄を返上して天皇の臣民となることによって、維新は成就する。ここで完結する。つまり、これが「版籍奉還」であった。
 この手順を追って、中央集権化政策へと突き進む。

 薩摩や長州など多くの大名が、領土ならびに領民の奉還を上表したのを政府は認め、それ以外の大名にも奉還を命じたのである。
 これにより、先ず一段階の形式上は中央集権となるのであるが、知藩事には旧大名が任命されたので、実質的にはまだ不十分であった。そこで第二弾として、廃藩置県が登場する。廃藩置県こそ明治維新の最終目標であった。

 さて、これまでのプロセスを踏んで、武家政権は徳川幕府の大政奉還まで十五代265年間をもって終焉する。
 その終焉に至るプロセスは、封建制度打倒に際し、これに活躍したのはブルジョアジーでもなくプロレタリアートでもなかった。武家政権を打倒するのに、武士階級がその打倒を行ったのである。その打倒の中心層は下級武士であった。
 また、下級武士達の活動に対し、各藩主も経済活動において、彼らの陰ひなたとなって援助の手を惜しみなく差し伸べているのである。
 この構図は実に奇妙なことであった。

 武士政権を打倒するために、武士政権を根底から覆し、最後は廃止に追い込んでしまうのである。これは自分の首を自分で絞めることであり、世界のどの革命とも該当しない行為なのである。ゆえに奇々怪々で、現代人にはしっくり来ない。
 また、西欧をモデルに考える革命論では全く理解し難いことである。

 では、この謎解きのキーワードは何処にあるのか。
 それは鎌倉期から興った武家政権であり、また平安末期に登場し、江戸時代まで存続した社会層の武士階級である。この階級こそ、世界史の何処を見ても存在しない独特な階級であったのである。
 西欧にも確かに、戦士とか騎士と言う概念があり、歩兵の戦士とか、馬に乗って紳士的に振る舞うナイトがあり、また貴族階級と言う封建領主も存在したが、日本の武士階級と言う独特の階級は、これらとは全く該当しないのである。
 武士階級は、武士団に始まり、惣領制によって、一族が分割相続で結びついたものである。そのために在地領主の同族結合形態を成す。
 また、その根幹には上層農民が地域社会に平和のために自衛力を提供した職能人であった。つまり、自衛のために武装して武力を提供したのである。

 これが江戸時代に至っては、兵農分離によって、国家の政治や軍事を荷なう階級として再編成されることになるのである。
 これまでの武士の果たした役目は、地域共同体の平和に関しては自らが身を挺して、民を守るとううのが武士階級の規範意識であった。つまり「愛民」である。

 また幕末期、西欧列強の圧迫に対し、武士階級はこれを「国難来る」と捉えた。
 したがって守らねばならない。
 そして武士階級の取った行動規範は、国難来るを「公論」と受け止め、天下国家のために「私心を捨てる」という行動に至った。
 私的な利害なども一切放棄する。そのために自己犠牲による道を選び、この発動を、不断から武士階級は待っていたとも言える。
 したがって、外圧に対し、万一民族的な危機に瀕
(ひん)した場合、廃藩置県と言う国家の一大事に対し、自分達の階級そのものを否定し、それにより西欧の植民地阻止を成し遂げたと言える。

 幕末から明治期に懸けて武士の行動の核心には、「国事のためには、自己放棄をまず自然と検
(み)る武士的な公共精神があった」と考えられる。その公共精神こそ、かの河井継之助が感じ入った「愛国」であり、「愛民」ではなかったか。
 これこそが、陽明学の原点にある「まごころ」であった。
 また、これこそ、日本陽明学派の最終的に辿りついた「国事のための自己放棄」であった。

 だが、大東亜戦争敗北以来、日本の近現代史は左翼的思想に固執したため、唯物史観で日本近代史を考え、総て過去のことは「悪」と一点張りで、その間に歴史を理性や知性で見つめる眼を失ってしまったのである。単に、軍国主義反対ばかりを唱え、反戦と唱えてシュプレヒコールを挙げさえすれば、世界は平和になると言う、こうした幼児的思考が、先の大戦以前の日本の近現代史の捉え方を盲目にさせてしまったのである。

 そして、「戦争は悪い」ばかりが感情的に強調され、軍国主義反対などと説く感情が、戦後70年間“絶対正義”として君臨したのである。
 だが、考えれば直ぐに分ることだが、歴史を感情で解することは、次世代に対して傲慢ともなり、かつ愚弄していることにも気付く筈である。そのうえ最も最悪なことは、次世代の歴史的認識と、歴史を検証する能力を奪い去る事にも通じる。

 戦争は懲り懲りだとか、二度を御免だとする、その当時の体験者の話は、近現代史を正視する検証眼から考えれば、それは感情の発露になっている場合が多く、それが利用されて、戦後70年間、左翼的歴史史観で、中道を一蹴した悪しき体験主義で語られることが少なくなかった。
 このため幕末から明治に懸けての近現代史も、大きく歪
(ゆが)められたことが否めない。

 つまり、この時代の武士階級の研究が蔑ろにされ、日本の近現代史を見逃したということである。
 特に、重大な研究を怠った汚点箇所は、「幕末の 武士達が、なぜ自分には何の利益にもならない階級廃絶に至る革命を起こし、自らも廃業してしまったのか?」という大疑問に対し、これを殆ど研究しなかったことである。

 また、西洋ではフランス革命の決着は、ブルボン王朝の象徴であったルイ16世や、その妃マリーアントワネットを処刑することで革命終熄へと向うのであるが、これに比べて日本では、こうしたことを一切行わなかったことである。血で血を洗う血みどろの殺戮行為をしなかったことである。

 そもそもフランス革命の原点は、ルネサンスを契機とした西欧神秘主義の流れの中に見ることが出来、これを機転に西欧的価値観の変化に、神から人間へと言うプロセスの中に封建体制をひっくり返して壊し、かつ利益を得るという、ここに革命の公式論が存在している。
 また、公式論の中にアイザック・ニュートンの『自然哲学の数学的原理』
(1687年発表)やジョン・ロック『国政二論』(1690年発表)が組み込まれ、十七世紀末から十八世紀の西欧文化に著しい影響を与えた。
 つまり理神論者
【註】神の存在を認めはするが、これを人格的な主宰者とは考えず、したがって奇跡や啓示の存在を否定する説。啓示宗教に対する理性宗教)の神から人間へと言うプロセスである。
 また、フランスの啓蒙主義は、ヴォルテールらの啓蒙主義の理性と自由を掲げて、封建制への抵抗を試み、その源流にはニュートンやロックの思想が流れていた。

 しかし、フランス革命の結末は、革命戦争を起こす最中で革命が激化した。
 ところが、明治維新は違った。
 またジャコバン派独裁下において恐怖政治を現出するが、こうしたことも、明治維新を成し終えた後の日本では起こらなかった。更に、一時ヨーロッパに覇を唱えるような、ナポレオンのような人物も、その後の日本では擡頭
(たいとう)することはなかった。

 戦後の日本人の“フランス革命史観”は、この革命の政治的運動のスローガン
(秘密結社フリーメーソンの標語)であった「自由・平等・博愛」の美辞麗句に捉われ、攪乱され、酔わされ、惑わされ、魅せられ、遂には烈しい西欧コンプレックスを抱いてしまうのである。
 そして、それが西欧コンプレックス故に、近現代史を誘導する日本の歴史学者達は、「日本人が如何に卑小で、この人種のつまらない存在であるか」ばかりを喧伝し、知らず知らずのうちに潜在意識に植え付け、戦後民主主義下でこれを見事に培養したのである。
 未だ日本人は、西欧コンプレックスの呪縛から解き放たれていないのである。

 それは、近現代史における幕末から明治に至るこの間の、「武士階級がどのような行動をとったか」を日本史の中で確
(しっか)り論じなかったことである。
 あたかも、先の大戦である「大東亜戦争の敗戦責任」を、日本国民は誰一人として『国民会議』に掛けることもなく、指弾も出来ず、かつての軍隊官僚の横暴や夜郎自大の醜態をも見過ごし、その責任を追求せずに有耶無耶にしたのである。

 思えば近現代史は、この箇所を故意に、意図的に、何らかの政治的な軋轢
(あつれき)が掛かり、あえて避けて通って来たと言う感じすら抱くのである。
 また、先の大戦で戦死した幾多の英霊に対し、現在の自分があることが、どういう意味を持つのか、それすらも曖昧にし、ぼやけさせてしまったことである。
 戦後日本人は、平和ボケの中でボケたまま、ボケていれば恒久平和が永遠に続く一国平和主義を夢見てしまったことである。武器を遠ざければ、世界は平和と考える愚かな一国平和主義である。
 つまりそれは、『陽明学』を理由もなく危険思想と決め付け、内容も建学も研究しないまま、ただ理由もなく「危険」というだけが一人歩きし、この行動学を、歴史学者らは勝手に軍国主義に結びつけて、戦後日本人の近現代史を正確に検
(み)る「歴史の眼」を摘(つ)み取り、反戦主義者の便乗などもを利用し、戦後民主主義を隠れ蓑にして、攪乱し、狂わせただけであった。



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