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陽明学入門 19
   
草木は人が観ていようと、観ていまいと、ただ黙々と咲きつづけるだけである。生命力の持てる限りを出し尽くして、それを見事に演じてみせる。これこそが、真の生命力の強さである。

 人が見ていれば張り切り、そうでなければ手抜きをする……という芸人やスポーツ選手の如きではない。決して手抜きせず、観客アピールもすることなく、ただ一心に、黙々と、持てる生命力を表に出して表現するだけである。

 そこには自惚れの一欠片も存在しない。
 これこそ、無心の境地であり、私心すら一切ない。
 観れば検
(み)るほど頭が下がる思いがする。現代人の比ではあるまい。
 無心に、私心を交えずに生命力を精一杯発現させる裡側には、フロイト的な自意識もなく、溺愛の姿もなく、況
(ま)してこだわりもせず、まさに「地道に」という言葉が相応しい。

 ところが現代の世に生きる人間は、何と複雑な野心と鎬
(しのぎ)を削る人間関係に喘(あえ)いでいることか。
 それは少しでも、自分が人より抜きん出て、幸せを享受していると自惚れたいのではないのか。
 そして、自分こそ、この世の中で一番幸福であると思い込んでいるからではないのか。

 だが、そう言う人間に限って、ひとたび逆境に追い込まれると、自分こそ、この世の中で不幸な人間はいないと決め付け易い。
 何と言う、自信とともに、不安の嫌悪の中を間歇
(かんけつ)的に往復するのであろうか。あたかも、一日のうちに何度も極楽と地獄を往復しているように……。
 この間歇から、どう卒業するかが、人間解放の心学術の決め手になるようだ。



●致良知の実践学

 先覚者は一寸先が闇の中を疾る。これは五里霧中どころではない。真っ暗な闇の中を疾走する。
 それだけに孤独が付き纏い、あるいは周囲の無理解が纏わり付く。また、それは悲しみであろう。

 先覚者が人より一歩でも、一寸でも先をゆくということは、可視的
世界では称賛に値する最先端を突き進んでいるように見えるが、闇の中を突き進むことは、往々にして非難の対象にされ、無理解の渦に巻き込まれ、誤解されて敵意を抱かれ、後ろ指まで指され、あるいはそれによって烈しい指弾を受けることもある。まさに疾走する悲しみである。
 しかし、また一方で、このまま指弾されたまま坐視するのか。流されるのか?……。
 こうしたことを自問自答しながら自らに問い続けるだろう。先覚者の孤独なる故にである。

 これは人間である以上、とことん考えつづける筈である。なぜ孤独に位置いるのか?……。
 この、悶々
(もんもん)とした毎日の、この現実を「それでいいのか?……」と、反芻(はんすう)する筈である。
 良心があるのなら、人はこのように考え、その後の自らの行動の鉾先が、何処に向かおうとするのか、真摯に模索する筈である。

 そして得る結論は、戦いには屈しないことである。戦い続けることである。決して諦めない。飽きらめている以上、負けたのではない。そう、悟る筈である。
 負けていないと確信する。ギブアップしていないと確信する。
 勝てなくても、負けない境地を確立して、毅然と胸を張る。挑戦者とはそういうものである。況して、先覚者は、抗
(あらが)って抗い尽くすことを忘れない。途中で倒されても、また起き上がる。斃(たお)れても起き上がる術(すべ)を知っている。
 それを維持する精神的支柱が、また陽明学の「心術」であり、ここに生きる原動力を見る。
 また、それゆえに理不尽には屈しない。理不尽に抗っていく。抗うことこそ勇気だった。簡単に屈しない決意こそ信念だった。
 信念の側面に、その勇気も湧いて来ようというものだ。

 こうした、毅然
(きぜん)とした態度と姿勢が示せるのは、単に詰め込まれた知識や技術ではない。「信」である。信じて、真っ直ぐである。
 苦難で学び、幾多の苦渋に耐え忍んだ「事上磨錬」である。
 これによって自己が磨かれる。不屈の精神が生まれる。己が霊魂との格闘で、自己は自信を取り戻す。
 その根元に、その場、その時の、創意と工夫がある筈である。これにより、悶々としたこれまでの悩みは消える。雑念は取り去られる。
 そして「信」を得る。
 自分自身が信用できる人間であることを確信できる。

 「信」こそ、人生を生きていく上での自信の表看板だった。「信」を貫いてこそ、自己の威厳が保たれた。
 本来は、信用できない始末の方が、金銭より大事なのである。「信」を自らで自覚し、かつ始末する。これを陽明学は「信義」として教える。
 信を守り義を行うこと。それが信義である。

 約束を守り務めを果たすこと。欺
(あざむ)かないことを教える。
 人を欺いてはならないが、また自分の良心も欺いてはならないのである。
 良心こそ、忠誠を誓う唯一の拠
(よ)り所であった。然(しか)して、恐れない。尻込みしない。
 一歩前に出る。恐れずに前に出る。勇気をもって前に出る。
 斯くして挫折することはない。
 坐して、それで諦めない。斃れても立ち上がる。立って再び前へと歩き出す。しかし、孤独は免れない。

 これは、援軍の影すら見えぬ戦いに、自分ひとりで挑
(いど)んでいくことである。
 「義」を貫くなら、それで譬
(たと)え死んだとしても後悔はない。敢然と立ち上がることを言う。一歩前に出ることを言う。
 人としての、「義」を果たし、「信」を伝えることが出来るからである。然
(しか)して挫けない。
 一歩前に出る。前途が闇でも尻込みしない。後ろには退
(ひ)かない。死したとしても悔いはない。
 これは孤独な闘いである。自己との、闘魂が物を言う。己
(おの)が魂と戦う。
 それでも、一人孤独に絶えて、一寸先の闇の中を疾走する。先覚者の宿命としては、いつの時代も同じである。
 かつて、吉田松陰はそうした戦いに挑んだのではなかったか。

 しかし、このような状況にありながら、それに自信を喪失させないのは何故だろう。
 これは闇の中を見通す視界の明るさにも況
(ま)して、何らかの確信を得ているからである。それが今は明確に説明できなくても、そこに確信を得る根拠が横たわっているからである。
 斯くして闇の中を疾走する先覚者は、確としてその先にある目標値や目的値を見据えての疾走を行うのである。
 知ることは、行うことである。
 知行合一……。
 これは同一であり、一致している根拠が此処にある。

 学は、単に記憶して知識状態にして封じても何もならない。
 これは、例えば祝詞
(のりと)の形式を取った、神に対して恭(うやうや)しく告げる「上疏の文」にも見ることが出来る。『上疏之書』に検(み)る。
 上疏は誓うことである。信義を貫く自らの毅然とした態度を神の前で示すことである。霊的世界の不可視分野にまで食い込んで、自らの信義を押し通すことである。ゆえに通じる。天に届く。
 上疏は事情を申し立てる書状であるから、単に言葉の羅列では何もならない。届かねばならない。響かねばならない。必ず送り届け、響かせてみせると言う彼岸が籠
(こも)っていなければならない。

 したがって知識の披露では、真に用を為
(な)さない。貫くものが要る。至誠が要る。
 実践して活用させねばならない。活かして遣わねばならない。
 また、実現可能な範囲の誓いとして、それは見識を伴っていなければならならない。己の魂を眠らせてはならない。魂を揺さぶらねばならない。
 揺り動かし、振動させればならない。魂を揺さぶらねばならない。奮い立たせねばならない。声を出して振動させねばならない。それは天地に響かねばならならい。そこで言葉は生きてくる。

 しかし、平気で約束を破ったり、契約を不履行したり、口約束などは甘く検
(み)て反故にするなどはまさに恥の恥であり、「愧じ」である。嘘以上に悪いとされる。

 例えば「契約書」の不履行は、それは書面の上、紙の上での不履行であり、この不履行は法的処置によって争うことになるが、自分の口から吐いた、例えば上疏は、一旦吐いた以上、もう元には戻らない。失言は戻らないのである。
 また、口に吐いて発した口約束でも、万難を排して履行する絶対義務が生まれる。それゆえ取り消しが出来ない。

 また実行できない壮語は禁物である。実行不履行となった場合は恐ろしい。生半可な、中途半端な誓いが恐ろしい。ここに反作用が働く実体がある。反作用現象は、実行の不履行の場合に数倍にとからになってわが身を襲う。
 壮語を吐き、それが実行できなかった場合、また実行に向かって努力を怠った場合、吐いたと言う作用に対して、怠ったと言う代償と言う作用が働くのである。大きなことを言うと、それに対するツケが倍以上に跳ね返って廻
(めぐ)り、代償を支払わねばならならない。中途半端に誓いなど立てるものでない。立てる以上、謙虚さがいる。遜(へりくだ)る必要はないが、謙虚さは忘れてはならない。

 したがって、軽薄かつ安易な言葉の羅列は禁物であり、単に美辞麗句に過ぎず、例えば、抽象的な「高い志……」などと表現する形容は、言霊として釈然としないものがあり、言霊自体が曇らされて生きていない。言霊として、響かねばならないのである。
 では、言葉が闇を突き抜けて届く条件とは何か。

 まず言葉は、霊的世界にまで到達するように響かねばならないのである。
 言葉を発する者の心に「愛民」の気持ちがなく、形式的な形ばかりで、魂がない場合、これは良知と言う倫理が欠けているから、言葉は曇らされていて闇の奥まで届かない。幾ら言葉の羅列を並べて喚
(わめ)いたところで、虚しい遠吠えである。こういう遠吠えに耳を貸す神などいない。

 言葉を発する声に「心」は籠
(こも)っていなければならない。
 勿論「まごころ」である。良心である。
 このとき濁ってならないことが条件である。澄んでいなければならないのである。
 飾りのない、かつ美辞麗句の羅列であってはならない。誠心誠意の心から発する、雑念雑想のない、至誠を貫いた心の表現が、声と言う「行」と一致していなければならない。
 心から発する声と行が一致したとき、それは「良知」となるのであって、この良知が訴える力を持つのである。

 この「訴える力」があってこそ、神まで届くのである。闇を貫くのである。それが「まごころ」を介して至誠となるのである。
 届く原動力は、あくまで「まごころ」そのものである。

 とことが、雑念雑想が心から駆逐されていない場合は、異変が起こる。邪が入り込む。
 当然、響かねばならない言葉に対して、響かなかったと言う作用は、やがてそのツケとして、その発言者に代償を払う義務が生まれるのである。

 闇の奥の、そこまで届いて、言葉は霊的に見れば「光透波
(ことば)」になり得るのである。
 だから、武士は二言を吐かなかった。言ったことは、実行し、履行する義務があった。それを自分の名誉に懸けて実行した。厳守した。
 口から出た以上、光透波は取り消すことも出来ないし、それは実行し、「必ず守る」という履行義務が課せられたのである。吐いた以上、口から出た以上、絶対に取り消しが出来ない。変更も、改竄
(はいざん)も出来ない。黙々と実行する以外ないのである。不言実行あるのみである。
 これをまた、角度を変えた知行合一である。

 しかし現代社会は、履行できないことを平気で約束し、契約する不逞の輩
(やから)が居る。
 そして、文章にして、一度吐いたことは絶対に取り消しが出来ないと言うことを知らない現代日本人は殖えてしまったのである。実に残念なことである。約束不履行は、実は反作用の反動が恐ろしいのである。

 特に、中途半端な無神論者には、この種が多く、至る所で約束反故
(ほご)を繰り返し、それでいて何の責任も痛痒も感じないと言ういい年をしたオヤジが殖えていることである。
 こういうのは「恥知らず」というのであろう。
 恥は、また「辱
(はじ)」であり、自らで光透波を濁らせ、言霊を歪(ゆが)めているのである。

 約束反故は、つまり「愧
(は)じ」であり、「慙(は)じ」であり、過ち・欠点・罪などを何の悔悟もなく、自分で自分の名誉を傷付けているのである。自分の名誉や面目などを汚すことに、何の憚(はばか)ることも知らないのである。そのくせ、人の批評などを気にして尻ごみする卑屈さがある。

 これは、人は「天地に心」にあたるということを知らないからであり、天地万物はともに自己と一体であることを知らないからである。
 ゆえに約束反故も恐れることもなく、恥じることもなく、やがてはそれは反作用となり、窮乏困苦と言う形でそのまま、わが身に跳ね返ってくるのである。
 その跳ね返った場合、それはそのまま自己の身上に「疾痛」となって顕われる。
 また、この場合、何の憚ることも知らず、疾痛を感じない者は、「是非の心」を持たないからである。霊的進化や心的進化においては「劣った存在」と言うことになる。

 是非の心とは『孟子』
(尽心上)が示す通り、「慮(おもんばか)らずして知り、学ばずして能(あた)う」でいう良知である。
 人に分け隔てなく良知が存在し、それを具現するとき、ここには先ず賢愚の別がない。ただ良知を発現することだけに努めれば、是非は自然と万人普遍のものとなり得るのである。
 好悪は万人共通のものであるから、他人の己の境目がなくなり、そこには差別すら消滅する。
 これを国レベルで挙げれば、家と看做される。そして斯くの如く、天地万物は一体と化す。これが天下に治平を齎す方法であった。

 古
(いにしえ)の人が、他人のしている善を見れば、自分がした以上に喜んだことは、それ自体が人間の本性であることを物語るものである。心の仕組みを知っていたからである。
 したがって、悪を見れば自分がした以上に悲しみ、他人の飢えの苦しみを見れば、自分自信に降り懸った深刻な飢えの苦しみと捉えたのである。
 その「行」こそ、良知から起こったことであった。伴に痛みを分かち合った。

 この良知は、天下の「信」を得ようと企んだことではなかった。意図的に図ったことではなかった。
 ただ良知を発揮することにより、自己の充実を求めようとしたことに過ぎなかった。これはまた、自然の流露であった。



●良知と仁

 現代人の「善良」と称される人は、その階層構造が自称“自分の階級を中の上”と信じる人である。これらの人の多くは、世の金持ちを模倣しながらも、結局は、金持ちに今一歩と言うところで足止めを食っている人である。
 未だに野望はぎらつかせているが、富貴者にはなれずに、富貴への羨望を抱き続けている人達である。
 その一方で、世の富貴者の多くが慈善事業に精を出すのに比べ、慈善事業とか、高額寄附などの所謂
(いわゆる)「慈善」を軽蔑する人である。それは、どちらかといえば、物質指向のマイホーム主義者で、自分だけ優遇され、自分だけは幸せならばという考えに汚染され、自分と自分以外のことは余り考えない人である。

 なぜ慈善に精を出さないのか。
 この階層から検
(み)る「慈善」は、富貴者の優越感が慈善であるという眼で検てきた痕跡がある。富貴者は、こうした場合、殆ど無私で慈善に臨む行為を、妬みを持つ者は“優越”と看做し、これが自然と見てきた節がある。
 則
(すなわ)ち、自他離別意識であり、富貴者の慈善を売名行為に等しいと看做し、またあまりにもわざとらしい弱者を労る行為を感傷と検て、それが好きになれずに、逆に見下すことをしてきた意識が、羨望との裏返しになって顕われたことである。

 そうなると、むしろこの階級は外に向かわず、弱者などの他者にも向かわなくなり、ひたすら自分の物的なる裡側
(うちがわ)に向かい、自分の自分の家族のみの幸福を願うようになる。これがマイホーム主義である。
 幸福の追求は、マイホーム主義の中にあると信じる人達である。そうなると当然、自我の主張が強くなる。

 金や物の追求こそ、幸福の原点と考えるようになる。
 その思考の中心課題には、我欲の追求や自分のみの幸福を考えることこそ、自分には実に人間的で、合理的で、更には自分に正直に生きていると信じきって、他人への干渉は関与しないと言う態度を全うすることになる。他人の不幸に干渉しない事こそ、自分には有利な生き方になるという信じ、総てに消極策を演じるのである。
 そのために、自分が有利になる人間とだけしか付き合わなくなる。
 況
(ま)して弱者に関わって、その生活の一部を荷なってやるとか、肩代わりするなどは以ての外なのである。

 このように固執する思考の追求は、またこの世に生まれて、生きている喜びを自分一人が、人一倍享受するための生活として、ますますマイホーム主義の傾向が強くなっていく。
 その一方で他人のことを、“自己中”などと嘲笑いながら、自分の“自己中”は棚に上げる人である。
 “自己中”の実体は何か。
 それは近代資本主義が生んだ、極めて物質的であり、人工的な価値観であり、そこに幸福を求める考え方であった。
 金を持ち、物を持ち、かつ人生を快楽主義に需
(もと)めて、恋に、歌に明け暮れることであった。また漁色と言うものを従える価値観であった。

 こうした価値観は、病気や怪我をして道に蹲
(うずくま)っている人や、不正な暴力に絡まれている人に対して、知らぬ貌(かお)をして無視したり、通り過ぎることである。見て見ぬ振りをすることを恥ずかしいと思わないことである。こうしたことに憚ることを知らないことである。

 他人に対して慈しみや労りを感じることは、偽善でも感傷でもない。その感覚は、人間の深層心理の根本から発するものであり、「まごころ」の発現である。
 「まごころ」の発現は、自分の都合に併せて起こるのではない。この発現は、切羽詰まった緊急時にも絶えず存在している。生死の境目に苦悩している人に対し、已
(や)むを得ず手を貸すことでなく、そもそも根元的なところに、人は他人との苦しみや悲しみを分かち合い、手を差し伸べるということのできる生き物として生まれついているのである。
 この、生まれつきの性
(さが)が曇ったり濁ったりしていると、こうした他人に対しての「仁」が滞り、「不仁」になってしまうのである。

 したがって、本性である「仁」を、偽善とか感傷と看做すのは全くのお門違いであり、また、これが自我を尊重する近代意識でもないのである。
 「仁」こそ、人間本来の本性であり、「不仁」こそ曇らされ、濁ったエゴイズムであった。
 「仁」は、義務でもなければモラルでもなく、困窮者に手を差し伸べることこそ、極めて自然な、人間らしい喜びなのである。
 この「仁」を、陽明学では「良知」というのである。

 本当の幸福と言うのは、一方的に金や物を貪
(むさぼ)る中になく、逆に、善なる智慧を他人に「与える」ことであった。与える中にこそ、幸福が棲(す)んでいたのである。それも、何の代償を求めることもなく……である。

 陽明学の説く「愛民」である。与え尽くす中にこそ、真の愛民の姿があった。
 したがって、「愛」というものは、自分が努力しなければ、他人に与えることが出来ないのである。
 愛は、単に男女の性
(セックス)を貪る性愛ではなかった。肉愛でもなかった。肉欲でもなかった。愛民の「愛」であった。

 人は「仁」の良知を知るために、何と云う迂遠な道を歩くのであろうか。これに気付くまでに遠い回り道をするのである、それだけに中々気付かず、わが身が情けなくなるまで待たねばならないのである。
 自分の情けない状態まで墜落させて、始めて「仁」を知る。「仁」こそ、「良知」の異名であった。

 生死の中で格闘して、生きようとしている人に対しては、善なる智慧を与えねばならないのである。分っているが、これが中々実行できない。理解するまでに長い時間が掛かる。
 しかし、迂遠なる道を通過して、やがて理解できる時が遣って来る。
 「与える」という喜びに中にである。
 この与える中にこそ歓喜があり、それに気付いたとき、人は自分自身への弔意が完了するのである。



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