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陽明学入門 20

策謀とは、よく考えると智慧の集積から成り立っている。智慧をフルに遣って策謀を企てる。智慧者の行動原理である。
 だが、智慧は何も遣うことだけに脳漿を絞り、その遣い道を考えるばかりが智慧ではない。

 遣いたくても遣わせない、一ランク上の智慧もある。遣わせないために智慧を絞る……、そういう高度な智慧もあるのである。
 そして、遣わせないことだけに智慧を絞る。

 智慧は、出し尽くすのではなく、その智慧を知っていながら敢えて遣わないという「切り札」的な智慧もある。これこそ、余裕と言うものであろう。



●お客さんをしない自前主義

 人の世話はしても、人の世話にならない。大事な事柄である。
 自分のことは自分で完結する。完結するに当り、人を宛てにしない。人に甘えない。人に頼らない。大事な事柄であり、これが維持できてこそ、人は毅然
(きぜん)とした態度をとることが出来る。
 また、これが人からカモにされないコツである。

 縁あって、人と人との邂逅
(かいこう)が生じる。縁無くば、邂逅は生じない。出遭っても擦れ違うだけである。
 また人の生き方は、自分自身で自己完結を持って否かに懸かる。
 自己完結性を持った人は、自身に甘えが無い。それゆえ毅然としたところがある。自立している。

 ところが、人に厳しく、自分に甘い人間は、毅然さの微塵
(みじん)も感じられない。人を宛てに生きる人間である。
 この手の手合いは、甘さから、自分の未熟さを見抜かれ易い。足許を読まれてしまう。カモになる所以である。

 世の中にはカモにされる人と、カモにする人がいる。
 世の中は概ね、この二種類の人間で成り立っている。したがって、カモにされる人間がこの世には圧倒的に多数である。
 逆に、カモにする方は少数であり、差し詰め為政者はカモにする人間である。

 しかし、カモにされたからと言って、被害者面
(づら)すると、それは余裕の無い人間の心情となり、心は疑念に凝り固まってしまう。
 そこで余裕が必要となる。

 私は“猟られるカモ”であってもいいと思う。カモにされることを、一方で楽しんでもいいと思うのである。
 常に引っ掛けられ、見事に猟られる。それをまた、時には楽しみにする……。
 そういう余裕があってもいいと思うのである。

 猟られて、時には多大な被害を被る。
 しかし、そうなっても、世の中が悪いとは言わないし、人間のモラルがなっていないとも言わない。一切合体、そう言うことを含む。一切呑む。
 そもそもこの世は、清濁
(せいだく)(あわ)せ呑む世界である。善悪綯(な)い交ぜである。
 第一、そこには垣根がないのである。その混じり合を歎いても仕方ないことである。

 万一のことを、心の何処かで常に予期し、それを丸ごと呑み込む余裕があってもいいと思うのである。その覚悟があれば、不意打ちも文句が言えまい。
 だが問題なのは、不意打ちを食らった後の、立て直しである。どう立ち直るかが問題となる。
 そうすれば、カモになって、まんまと猟られてとしても、別段腹は立たないだろう。

 しかし、カモにされ、揚げ足を取られ、遂に猟られるのであるが、絶対にカモにならない、あるいはカモになりたくない分野が一つだけある。
 それは、人間としての魂だけは絶対に猟られたくないと思うのである。魂だけは売り渡したくないと思うのである。魂だけは安易に譲れないのである。これだけ売り渡すことが出来ない。

 自分の外にある物財は猟られて、持っていかれても仕方がないと思うのであるが、魂だけは絶対に猟られて売り渡したくないと思うのである。譬
(たと)え、身は売っても、心は、魂は、絶対に易々と売り渡し、猟られたくないと思うのである。

 勝負師は常に勝負をする。鎬
(しのぎ)を削って勝負をする。
 囲碁でも将棋でも、あるいは麻雀でも、更には少額ギャンブルのパチンコでも、必ずお客さんというカモがいる。啖
(く)われて、某かの金品を失うカモである。彼らの肥(こ)やしである。栄養分である。

 カモこそ、一流の勝負師にとっては、あるいは胴元にとっては、お客さんにより、お客さんをカモにすることにより、自分を守り、自分の生活を営むことが出来る。
 しかしカモは、根刮ぎ猟らないことで、勝負師は、胴元は、生き残ることが出来るのである。生活の糧
(かて)であるからだ。

 また、お客さんの方も、単にカモにされて生きることだけが人生ではない。
 カモにされて辛い人生を送る必要は無い。したがって、余裕の無い人は勝負事に手を出すべきでない。勝負事は、余裕が無ければするべきではない。何も好き好んで、博奕の世界を自分の方に惹
(ひ)き寄せる必要はないのである。また、負け将棋をもう一番、もう一番と繰り返すこともない。
 人生の土俵は、一つだけでないからだ。賭けるべき物は、人生には他にも沢山ある。

 ゆえに余裕が無ければ、そう言う勝負事に手を出すべきではないと思うのである。
 もし、きちきちの些
(いささ)か経済的不自由の状態にあって、こういう博奕に手を出した場合、十中十九策に嵌まる。深入りする。
 必ず刈り取られ、遂には丸裸にされることがある。最も惨めなのは、丸裸にされることよりも、その後に立ち直れない、その無態
(ぶざま)が問題となる。立ち直り、立ち上がることは難しいのである。

 勝負事には不向きの人がいる。
 しかし不思議なもので、不向きな人ほど経済的には不自由で、余裕がなく、そのくせ博奕に手を出し、最後は深みに嵌まって猟られ、啖
(く)われてしまうのである。何とも無慙(むざん)である。
 世の中ではそう言う人を、度々見る。

 博奕は、頭が善い悪いではない。また知的レベルとは無関係である。
 高学歴で、学閥も自慢できるような出身校でありながら、頭の構造が博奕向きでない人がいる。こう言う人は、ひとたびギャンブルに魅せられると、もうその後はふらふらとその方向に歩き出し、最終的には自らの魂を売り渡してしまう人がいる。
 罠に嵌められる……という人である。

 罠は、知識で防禦できるものでない。これを阻止するには智慧が要る。また見識もいる。見抜くと言う力が要るのである。
 罠の構造よりも、罠に扱う特殊な人間の仕掛け方と、そういう人種の物の考え方や人間性を理解できなければ、最後は見事に猟られてしまうのである。
 したがって、見抜く「見識」が防禦策となる。

 有頂天になって、我を忘れ深入りすると、後で大きなしっぺ返しを啖う。
 君子は危うきに近寄らずである。
 先ずは身を慎むことであろう。一喜一憂に舞い上がる、そういう軽挙妄動を制御することである。

 したがって、自重が必要であり、またその世界に足を踏み入れないことである。
 人間勉強の不出来な人は、知識で対応したとしても、そういうものは殆ど役に立たないのである。立派な紳士然とした身形
(みなり)をしていても、正体は付け焼き刃であるから、結局は“下手な横好き”であるから、金や物だけを失うのでなく、遂には最後は魂まで売り渡さねばならぬ事が起こる。
 つまり、その世界に踏み入れないことこそが、自らを防禦できる賢明なる選択なのである。
 それに、譬え一度や二度、迷い路
(みち)に踏み入れて、その軌道に乗せられてとしても、「損する余裕」があれば、その路からは引き返すことが出来るのである。

 人は、心を鍛えれば、また「損する余裕」も養うことが出来ると言うもので、単に恐れたり、怕
(こわ)がったりして遠くに押したるだけでなく、余裕を得るには、まず損を「知らなければならない」のである。余裕はそれを研究することにより知ることが出来、死らなければ余裕すら生まれないのである。

 余裕は、恐れを駆逐する働きがある。
 余裕はまた、心の曇りを取払い、濁りを消滅させて隅々まで澄み渡らせるからである。その状態になって、雑念や雑想が一掃され、心は安定を得る。それは確たる自己を見出した時である。
 これこそ余裕を得る秘訣である。そして心に安定は、不動心を得る。

 『易経』によれば「世に認められなくとも、不平を思わず」
(乾卦、文言伝)とあり、また同じく「天を楽しみ、命を知る」(繋辞上伝)とある。更に「どんな境遇にあっても自得しないことはない」(『中庸』)とあり、同じく「道はあまねく行われて悖(もと)ることがない」(『中庸』)とある。

 心は、ひとたび些かでも、身の疾痛を自覚してしまった以上、こうした場合は救済者を得る以外ない。救済してくれる賢人を需
(もと)めて、伴(とも)に学び、伴に講じ合って、疾痛を取り除く以外ないのである。
 そして、もし毅然かつ英邁
(えいまい)な決断が出来る賢者に出会うことが出来れば、伴に力を併せ、ともども良知を明らかにしなければならないと陽明学は教える。

 それは、損する余裕とともに良知を示すことでもある。
 良知を得て、自分の損したと思い込んでいる損は、物的な損であり、心的な損でなかったことを自得するのである。

 物は奪われて損することはあるが、心は、良知さえ得ていれば確固たる安定を得て、それは奪い去られるものでもないし、また心まで物と引き換えにして売り渡すこともないのである。
 ここには、人間が黄金に魅了されて、黄金の奴隷になることを戒めている。
 物を奪われても、再び取り返すことは出来るが、心まで、魂まで売り渡して奪われてしまえば、もう二度とそれを取り戻すことは出来ないのである。



●不善からの訣別

 では、そうならないためにどうすればよいか。
 「善」を尽くす事である。
 他人に善を求める前に、自らが善でありさえすればいい。
 善とは、単に宗教的な意味をさすものでない。
 良知の思えばよく、その根底には「良心」が横たわっている。良心を発揮すればいいのである。これが良知である。

 良知は自身一人のみならず、天下の人々に良知を説いて、自私自利の病弊を捨て去り、人の妬
(ねた)みや、人に勝つことしか思わぬ悪習を一掃するように示し、大同の現実がなった時にこそ、私事の狂病は綺麗さっぱり、心身が清らかにあることを教えてくれる。心の癒しを教えてくれる。心の喪失の禍(わざわい)から解放してくれるものである。

 善、すなわり良知は、人間の日常的な行いを指す。その「行い」の中に善があり、それが良知となり得る。
 つまり、忠を尽くし、孝をなすのである。義を果たし、義において、自らの義務を果たす事である。
 また、仲間を信じ、信頼をし、その「信」こそ良心であり、その心情も「善」である。ゆえにまた、裏切らないことも、寝首を掻かないことも、欺かないことも善であり、約束を固く履行することも、則ち、これが善なのである。良知の為
(な)せる技である。

 ところが現代の世は、一方で世知辛い一面を持っている。世間には人間不信が渦巻いている。人は人を信用していない。
 現代に、特に多いのは約束事を守らない人間が多いことである。
 約束事を守らない人間は、やがて信を失い、人から敬遠されて相手にされなくなる。人が去り始める。

 時間を守らないというのも不善の行為であり、同時に時間に間に合わないと言う事自体、約束した者に何かあったのではなかろうか?……と心配させたり、それでいて、こういう時間不履行者に限って見事ないい訳をする。

 また、いい訳の特長は、自分自身を正当化したり、更に裏切りは人からは受けても、自分からは裏切らないなどの心情も自負しているから空いた口が塞がらないばかりでなく、そのいい訳自体に唖然とさせるものを感じさせる。
 これはまた、いい訳をすることで言葉を濁してもいるのである。気付かないだけに恐ろしい。敬遠すべき人間であろう。
 したがって、こうした者をいつまでも相手にしたり、惰性で付き合っていると、やがて自らの運気も低下させるものである。その先きに悲劇が待っている。

 人は併せて、かつては幾ら親しいからといって惰性に甘んじていると、自らも引き摺られるから、こうした場合は、気付いたら即座に訣別するべきであろう。惰性は禁物であるし、腐れ縁は切るべきである。
 これにより、心は掻き乱されることはない。

 人には誰でも“若気の至り”という時代がある。
 当然、その時代には約束事を厳守できなかったり、裏切ったりする行為も含まれよう。
 しかし、そうした「行い」の中で自らの不善に気付いたら修正することである。修正が早ければ早いほど、後の運気を善へと導くことが出来る。遅ければそれだけ遅れる。
 何事も思い立ったら吉日であり、積極性が運気に関わっていることを知らねばならない。

 自分が悲しいと思うことは、人に悲しいと思わせる行為をしてはなるまい。
 喜怒哀楽は人生の常であるが、人間が喜怒哀楽を経験しつつ、やがて安住の地に辿り着くものである。心安らかな静寂なる境地を需
(もと)めて止まないのが人の心であり、静の中にこそ安住し、落ち着く先があるのである。

 こうした安住の地に辿り着けるのは、善を行う人であって不善の者でない。
 不善を働けば、それだけ人に対して疑心が生じる。人か信じられなくなる場合は、既に自身にも人を裏切るか、約束事の反故があるからである。したがって、疑心や疑念が生じる。
 こうした疑いを消滅するには、まず自らが襟を正して善を行うことである。自分だけは善に徹してみると言う気持ちを抱くことである。

 類は友を呼ぶ。
 似た者同士が群れるのは、単に同階級ばかりでなく、不善を行えば上からも下からも集まってくる。ついに縁に結ばれてしまい、やがて腐れ縁となり、自らの運気を低下させる。去るべき時は去り、訣別するには一刻も早い方がいい。
 つまり、去ることも訣別することも、縁であり、この縁をもって、自らは良気を得るのである。この良気こそ、また良知の別名であった。
 さらりと流れて気に掛けない。
 行雲流水と云う言葉もあるではないか。



●中庸

 人は左右何れかに偏り易い。
 したがって、中庸を保つことは中々難しい。簡単にはいかない。
 だが、そもそも人間は矛盾に偏り易く、また矛盾の塊
(かたまり)のような生き物であるから、偏りを修正することは難しいことである。

 世の中を見渡すと、昨今の世界情勢、思想、個人主義の謳歌と、そこからくる個々人の性格、そしてほぼ人生の半分を占める自分の仕事先での運命共同体組織。それらのどれ一つとってみても、左右何れかに偏っている場合が少なくない。そして偏り過ぎれば、それが極端化する。

 しかし、偏りを少なくする術もある。
 その術を教えるのが「中庸」である。
 陽明学の教えるところは、真中に一本芯の通った筋を通せと教える。筋を通して、中心を見失わないことを教える。中心さえ確りしていれば、何れかに偏ったとしても、再び中心に寄り付くことが出来る。
 正常なる安定を得るには、真中に一本確たる芯を通すことである。

 では、どうすればよいのか。
 まず、二等辺三角形を想像してもらいたい。
 二等辺三角形の頂点の頭を点として持ち上げれば、この三角形は左右何れにも傾くことがない。常に安定して三角形を維持することが出来る。
 つまり、これが中庸である。

 中庸に位置して物事を考えれば、そこには自由自在なる心があり、その垂線の真下に人間の中心である「臍
(中点)」があると言うことである。
 人間の臍も、生命が生まれ出た命の源であり、臍がなければ人間はこの世に生まれ出る縁はなかったのである。人間は臍により生命を維持して、この世に生まれでたのである。
 そして中庸を得ることで、人間は自由に心の眼で物事を検
(み)る眼が誕生するのである。

 中庸を得て均等なる感覚さえ維持できていれば、周りに惑わされたり攪乱されることは少なくなり、正直な眼で物事を判断できるようになる。素直さが養える。これを養っていくのが良心であり、また良知であった。

 良知を得ると、そこには愛民の心が起こり、自他との垣根が消滅し始める。
 愛民の心こそ、また「情け」であったのである。情けとは「仁」の別名であった。

 人は己の本心で動く。
 他人に煽られて動くのではない。自分の意志で動くのである。
 そのためには先ず人を知る。世の中を知る。知って流されない。確立した自己を持つ。毅然とした態度の取れる自己を持つ。それが人間学である。
 この学を知れば、逃げずに踏み止まることも知る。

 人の世にあって、その中に棲
(す)んでいて、世の中の流れに染まらないのが、毅然とした人間学への探求であり、自己を見失わないで、また目標に定めた鉾先をも確(しっか)りと見据え、針路を誤ってはならないのである。

 だが、現代の世に、針路を誤るというよりも、針路さえ見極めぬものの何と多いことか。
 口先だけは立派なことを言う。尤もらしいことを言う。
 しかし、言うだけであって何もしない。
 時期尚早などという言い方をする。こうなると、やがて心は怪しくなる。
 それは消極策に徹することで、何もしないことには変わりない。そして、そう言う人は、遂に人生を何もせずに終わるのである。不安定故にである。
 心が動いているからである。
 中庸を忘れると、心は不動を保てなくなる。

 つまり、心がなければ身もないし、身がなければ心もないのである。
 こういう状態を“浮遊”という。根無し草のようにいつも揺れ動いているのである。これでは、身も心の定まるまい。
 また、実体不在である。
 人間は実体が存在しているから、それを「身」といい、またその面を支えているからこれを「心」という。
 斯くして両者は全体を主宰しているのである。

 心が発動している状態を「意」といい、意の働きが霊明である場合はそれを「知」といい、意の働きの及んだところを「物
(こと)」という。そして陽明学では、「物(事)をただす」と読み、心の良知を発揮することによって社会のあり方を正すと言うのである。

 これは、朱子学が格物の解釈に、「物
(の理)にいたる」と読み、事物に本来そなわる理に窮め至ることと解したのに対し、陽明学では即応する理をうち立てようとしたところに正反対の性格を持っている。つまり、朱子学の性即理説に対して、「心即理」を説き、後に「致良知」を説いていることである。



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