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陽明学入門 23

天下の道は一つである。
 これは王陽明が感得した事柄だった。
 そして陽明は言う。
 「本来は一つである筈の道が、二つあるとするのは、道が明らかでないからだ」と。
 道は一つ。
 これは朱子学に於いても不変なる思考であった。

 しかし陽明は、儒者
(朱子学者)でありさえすれば、無条件に異端を攻める資格があると考えるのは思い上がりで、まず孔子が説いた道を明らかにし、これこそが先決なる要件としたのである。それをしないで異端を攻めれば、あたかも「穴の中の鼠を無闇に追い回すだけである」と戒めたのである。
 穴の中の鼠を追い回すとどうなるか。

 これは無益な争いに転ずる。
 攻めれば攻めるほど、その後の猛烈な反撃は否めない。攻め立てれば攻め立てるほど、耐性力が強くなり、最後は手が付けられなくなる。そしてその愚を、今は知らないで、安易に鼠を攻め立てるようなことをしているのが、現在の国教の上に胡座をかいた儒者と言うのである。

 陽明のこの背景には、朱子学を破廉恥な立身出世の道具に遣い、自己栄達のみを企てる当時の儒者への烈しい反省を迫る意味が込められている。
 儒者たちが烈しく攻め立てた異端とは何か。
 それは仏教徒達であった。またそれを教導する仏道老師らで、宋代にあっては、仏教に対して罵詈讒謗
(ばり‐ざんぼう)が浴びせ掛けられていたのである。

 儒者達は仏教に対して、信ずるに値しない低級な宗教だとは一言も云っていないのである。儒者達が声を大にして言ったのは、「真実を装った危険思想であるから、これには近寄るな」というころであった。
 しかし、奇妙と言うか、矛盾と言うか、「真実を装う」というこの言い回しが、何とも不可解で、積極的にその中に飛び込んで、正体を暴いてこそ真実が掴めるのに、それをしないで外野から喚くのは訝
(おか)しいと言うのである。

 罵詈讒謗をもって指弾するのであれば、指弾する相手の正体を見極め、相手を超克し得た確証としてその資格が生ずるのに、それをしないで何故「真実を装う」という朱子学儒者の言は、本質を見極めないで、仮想した臆測から起こったものである。実態の究明をせずに、排仏指弾をするばかりでは学問形態は歪むばかりであると、陽明は朱子学儒者に非を指摘するとともに、また朱子学の伝統が他を中傷誹謗して、有無も言わさぬ専門用語を並べ立て、理詰めで伸し上がったと批判したのである。
 斯くしてその後、「陽明学」が起こる。
 そして学問形態として、孔子の学を学ぶには、まず仏教を学び、次に朱子学を学ばなければ、陽明学には辿り着けない。陽明学の起こりの根本には、仏教、特に禅の影響が大きかったからである。



●愧と恥の違い

 恥とは、「気のひける」ことであり、また「面目ないと思う」ことである。気まずいと感じるこの感覚を「恥」と言う。
 更に、同じ面目なく思う意識の中にも、二つの意識がある。

 一つは「愧」であり、もう一つは「恥」である。後者は一字を以て「はじ」とも読む。
 愧の「はじ」は同じ「心偏」でありながら、“立心偏”+「鬼」であり、意味としては気がひけて心が縮まるなどで、例えば「慚愧
(ざんき)に堪えない」などの恐縮してはずかしいと思う気持ちで、そもそも鬼は丸い頭を持つ亡霊のことであるから、「まるい」ということで固まるという意味でもある。

 愧は「心+鬼」であり、また痼
(しこ)りなどの「まるい固まり」でもあり、固まりは「塊(かたまり)」と同系のものである。
 また、この意味から考えれば、慙愧
(ざんき)および慚愧であり、大いに恥じ入ることを指し、それは悪口を言う、あるいは譏(そし)るこのなどの、口に関する禍(わざわい)なども指している。
 更に、愧服
(きふく)などの言葉からも分るように、自分の行為に非を悟り、恥じ入って服従するなどもこれに含まれる。

 一方「恥」は、「心偏+耳」であり、“ばつが悪い”などを言い、無恥や不名誉などを顕す。
 この恥は「愧」に比べて、心が柔らかく“いじける”ということで、恥の塊というような強烈なものでなく、「愧」は大恥ならば、「恥」は小恥というところであろうか。
 小恥と言う意味からすれば、他の悪の行為などを検
(み)て自らに言い聞かせ、正しい道に行き着きたいという意思の顕われを指すようである。つまり、悪事も立派な反省材料であり、またその行為者は反面教師なのである。

 それに比べ「愧」は、持って生まれた習性のようなものであるから、それが人の生まれつきの、最初から身に付いている性格であり、殆ど修正の利
(き)かない頑固・頑迷なるものを顕しているようである。これだけは如何ともし難いのである。先天的なものを引き摺って居るのである。

 つまり、「恥」は小恥であるゆえ、幾らかでも後天的に修正が効き、後世、他人の恥ずかしい面を反面教師として直して行くことが出来るが、「愧」となると、本来の習気
(じっけ)のようなものであるから、根本からこれを感じ、改めなければほぼ半永久に直らないという意味のようである。
 同じ「はじる」という意識の中にも、これくらい差が開くのである。

 そして人間を探求すると、この生きとし生けるものは、小さな恥は改まるが、深層心理にある過去世
(かこぜ)からの習気(じっけ)という性格的なものは中々修正が難しいのである。持って生まれた性格と言うべきものは、そこに過去から一旦染み付いたものは修正が困難なのである。
 荒治療が必要である。
 大きな恥は大改造が必要である。
 古人は、この大改造を大事とした。大事の克服は難しいとした。
 ゆえに心して取り組まなければならないのである。

 『論語』には、恥格
(ちかく)という言葉が出てきてこの意味を説明しているが、これによれば「恥有りて且(か)つ格(かく)し」(為政篇)ということで、不名誉を顕し、自らの行いに不真面目な悪評などが立っているが、その恥に思い当たり、改めれば修正できるという意味でもあるようだ。

 何れも「はじ」というのは、自らを損なうもので、犯すべきではないが、これは「心」の問題で、陽明学では心を相手にする「心即理」であり、先天的道徳知として、自己の良知を十分に発揮する「致良知」を顕し、心学としては心の根本を探求しなければ、その真意は見えて来ない。
 人間として、心は、安易に見逃せない精神作用の根本なるもので、ここから思慮や、他に対しての思い遣りや慈悲が生まれてくるのである。

 さて現代人は、昔の日本人に比べて恥に対する概念が非常に薄くなっているようである。
 つまり、善悪の区別を、法に抵触するか否かで判別しているようである。この背景には、法に触れなければ何を遣ってもいいと云う考え方が主力で、恥は二の次になっているようである。

 例えば、口約束だから反古
(ほご)にして厳守しなかったり、人を指弾するのに、自分の住所や氏名を名乗らず、一方的に罵詈雑言を吐くなどの一種であるが、これは今日堂々と罷(まか)り通っているのは、プライバシーを理由にすれば、法に抵触しないからである。
 ある意味では、法治国家としてのそこの国民は、法によってコントロールされ、法に飼いらなされていると言えよう。つまり自主性に乏しく、事の善悪を法からコントロールされていると言うことである。

 本来の善悪および善と不善は、「不善なる者を見て、自らの不善を改めようとする」ものであるが、これがいつの間にか、「法律違反をしなければ、何をしてもいい」と言うことになってしまった。
 契約ごとに不履行を生じさせてこれに違反するなどが、これである。

 世の中には恥知らずが多い。無礼者と言う恥知らずが多い。
 法の抵触が無ければ何でもする輩
(やから)であり、この種の厚顔が急増している。
 法は、市民社会を営むうえで一応守るが、恥をかくことなどは何とも思わないという恥辱
(ちじょく)に鈍感な人間の急増である。
 こうした者が、実は無礼者なのである。

 個性やオリジナルではなく、人真似をする無礼者。生齧
(なまかじ)りで大して勉強もしていないのに、知ったかぶりの無礼者。自分を高きに置き、相手を低くきに置いて見下す傲岸(ごうがん)な無礼者。中身より外側だけを検(み)て、それだけで表皮的な判断を下す無礼者。噂を信じて、面白半分にあることないことを吹聴して廻る無礼者。言葉遣いがなっておらず、日本人でありながら正しい日本語が喋れない無国籍言語を使う無礼者。地位や資格を振り回し、実力もないくせに尊大に振る舞う無礼者。ケチで臆病なくせに勇者ぶって、朴訥(ぼくとつ)な人間を田舎者と譏(そし)る無礼者。自分に大した学問もないくせに人を軽き見て、あの人は頭の悪い人ですねと見下す無礼者。見掛け倒しの、安物の物財に囲まれることを好む無礼者。貴重でもない自分の持ち物を自慢する無礼者。自分の家族を自慢する無礼者、特に妻君自慢は聴いていても聞き苦しい。あるいは恋人の美貌を自慢する無礼者。息子や娘自慢をする無礼者。自分の土地家屋を邸宅と思い込んで邸自慢をする無礼者や、在り来たりの持ち物自慢をする無礼者、それでいて相手を貶(けな)す無礼者。挨拶なしに先を競う無礼者。年長者や目上を目上とも思わない無礼者。恩義を直ぐに忘れてしまう無礼者。出し抜きや造反を企てる無礼者。
 現代の世は無礼者だらけである。

 人は、意識し、あるいは無意識のうちにも、自分では分からぬ無礼を働いているものである。
 特に恥知らずは、無礼の度合いが烈しい。
 多くは無知から起こっている。作法知らずから起こっている。そのために礼儀知らずである。恥知らずである。無知ならぬ、「無恥」である。
 昨今は無恥の日本人が殖えた。若者だけではない。老人にも、この無恥が多くなった。
 日本列島は老いも若きも、男も女も、無恥で陣取られてしまった。

 特に戦後下の民主主義の世では、平等と言う意識が蔓延
(はびこ)っているために、日本人の場合、運命共同体としての会社意識が働いているようである。そして、この共同体での内外では、何とも奇妙な日本独特の会社的儀礼があるようである。
 これはおそらく社交辞令の一つであろうが、その中で独特の儀式が罷
(まか)り通っている。
 例えば宴席である。
 この宴席に於いては、上司ともども日本酒の酌み交わしやビールの注ぎ交わしが行われ、それ自体が何とも慌ただしい。

 この慌ただしさは、まるでゲージ飼いの鶏を髣髴
(ほうふつ)とさせる。
 それだけに喰って飲んで忙しい。また、そのうえホステスや芸妓ともどもの嬌声が入り交じり、煩
(うるさ)くて騒がしくもある。騒音で落ち着けないこと、この上も無しである。
 こうなると風流どころではない。
 味わうと言うことが出来なくなる。気忙しいだけである。心の安住など、もはやない。

 こうした若者の馬鹿騒ぎも、若い頃は“若気に至り”としては許されようが、もう初老を過ぎた、四十男や五十に達した“いい歳のオヤジ”が、こうした嬌声を見
(まみ)えてはしゃぎ回り、周囲の静寂を失わしめるのは如何なものか。
 こうした一面も、戦後日本人の恥知らずの側面ではないかと思うのである。
 他人のことを考えない、自己中の無恥の典型と言えよう。
 思い遣りなどと言うが、それは自分が、中心人物でなければ納まらない思い遣りなのである。

 そして、時代は逆流している。精神文化は太古の人間以上に逆行したものになっている。物質崇拝の文明が真っ盛りである。
 精神を蔑
(ないがし)ろにし、科学万能主義を尊ぶようになった。科学こそ、崇拝の対象になってしまっている。ここに科学教の元凶があるようだ。
 その結果、国民挙
(こぞ)って、誰もが若さと元気さだけを追い求めている畸形(きけい)なる現象を導き出した。肉体重視である。顔の表側と、首から下だけが問題なのである。

 現代と言う時代は、無理しての……それらの造りがいつの間にか、無理が高じて無知になっている。白痴的である。また自然に逆らって無知を押し通すから、その反作用をまともに喰らうことになる。

 世の中は……、この世の中を支配している現象界は、作用と反作用の法則が何処にでも働くのである。
 衰えまいとしたことが、却
(かえ)って老化を早めたり、寿命以前に死期を早めたりする。
 例えば、テレビなどで放映されているサプリメントである。あるいは自称健康機器と称する、やがて家庭内では置き場に困る医療機械類である。
 日頃から老いを十分に観察せずに、若返りと称するサプリメントや自称健康機器ばかりに頼ると、ある日、突然、思わぬしっぺ返しを喰らう。そういうことも、無きにしも非ずである。このことを忘れまい。

 それは、人体に働く一部分の有効成分をミクロだけで捉えているからである。総合的にマクロの次元で捉えていない。人体を総合的に検
(み)ていない。細分化の次元だけで論理を展開している。

 例えば健康食品である。
 それに含有される化学成分は、その部位に有効と思える一成分だけを大量の摂取しても身に付かないのである。身に付いたと思っているものは、総て排泄されてしまうのである。吸収されて、血となり骨となることはない。気休め的である。

 有効成分を大量に摂取する……そして、それが身に付き、若返りのための血となり骨となっている……。そう信じる人が多い。
 これは何処まで追求しても妄想に過ぎない。思い込みである。幻想の最たるものだ。
 何処までいっても独り善がりの、独善たる健康法に過ぎない。したがって、巧妙な仕掛けで視聴者を騙す製薬会社や食品会社の健康食品の罠に掛かってはなるまい。コマーシャルとは、そういうものだ。
 特に、早口で捲し立てる甲高い声には、そう言う仕掛けで構成されている。その種のコマーシャルは視聴者の脳に錯覚的な影響を与える。急いで買わねば……と思わせてしまう。

 更に、最近急増したのが、恥を恥とも思わない、その種の人である。
 由々しきは、極めて自分に対する恥辱が退化してしまった人間の殖えたことである。
 約束不履行。
 こうした現実が深刻化した訴訟社会が、一方でこうした現実を作り出している。
 約束を不履行にしなければ、世の中全体が訴訟社会になる訳は無い。

 そして、口約束でも平気で反古にする人種が殖えた。騙して当り前と考える人種も多い。
 オレは武士だからと言いつつも、表面のポーズがそれらしく振る舞っていることであるが、内実はそうではない。約束を反古にし、実は紳士面した、武士に二言のある社会になってしまったのである。

 約束を果たさずに、二枚舌で出来た金銭や財産……。
 これが不履行をした人間に、どれだけ身に付くものだろうか。果たして本当に身に付くだろうか。
 むしろ、その者の家や家族を不幸にしているのではあるまいか。
 「今」の結果を見れば歴然である。
 不履行をして、家が栄えたと言う話は一度も聞いたことがない。そういう話を私は知らない。一件の例外も無く、そのようにして栄えた家があることは知らない。栄えたとしても一時的である。
 やがて栄枯盛衰の法則によって亡ぼされる。

 「きめごと」は厳守しなければならないという法則がある。
 「きめごと」を守らず、それを反古にして、栄えた家と言うのは、一人の例外も無いのだ。必ず衰運を経て没落する。
 少しばかり頭のいい人ならば性格的にも、もともと注意深い筈であるから、こうした実例を見て、「天網恢々
(かいかい)粗にして洩らさず」という言葉を挙げるまでもなく、天の記憶、つまりアカシャ・レコーダーと言う記憶装置の精巧さに驚嘆し、その鞭(むち)の厳しさに襟を正す筈である。宇宙の叡智に、思わず頭を下げる筈である。天を畏(おそ)れるとは、このことである。

 これ以外にも「きめごと」とか「約束」と言うのは他にもある。
 普通約束と言えば、何かあるとき、人と人とが口約束で決めた「きまりごと」というのがある。口の上での約束である。
 口約束は「武士に二言は無い」という、口で履行する固い誓いの意味が込められている。誓っている以上、万難を排しても履行するのである。決して破約はしない。そう言う意味で「武士には二言が無い」言う、「誓い」を顕す言葉である。約束を反故にすれば、武士の場合は「卑怯者」である。

 武士は何はさておき、「卑怯者」と云う言葉に、特に敏感に反応する。
 それは他方で「恥を知る」という観念が働いているからである。恥辱に対しても敏感なのだ。
 そこには「約束をしたことは決して破約にしない」という信念があり、信念の裏付けが「万難を排しても必ず履行する」と言うことになる。それだけ武士は言葉を重く受け止め、尊重したのである。

 人生を生きる上で、破約の場合、破約して間違った行為をした者は、別段自身に損得や支障はないが、破られた方は無念な気持ちになり、また破られた事で損害を出す場合もある。
 しかし、これも見掛け上のことで、破った方は、現行法に触れる訳でも無し、責任はあろうがその責任は重く感じない。そして現行法に抵触しない限り、これは単なる道徳上の責任であり、単に軽いウソをついたと言うことだけで済まされる。また、そのように思い込んでしまう。

 だが、それで済まされるものだろうか。
 破った方は、必ずその責めを追求される。責めを負担せねばならないのである。これこそが、この世に作用と反作用が働いているいる所以
(ゆえん)である。代価を払うと言う反作用が働く事実である。

 それは厭
(いや)でも、嫌いでもその責めは追われる。
 必ず実際上の生活の上に顕われ、「負」の負債を払わねばならない現実に迫られる。
 この「負」の負債を払わされるという反作用の現実は、実にシビアで、この負債を払わされて困り抜いている……という、その実例の何と多いことか。
 私はこれまでそういう、一見、「約束を守らずに得をした」と考え違いしている者を何人も見て来た。そしてその末路は悲惨である。信用も信頼も無い。人から慕われない。
 そのために人が離れてしまっている。孤独に耐えなければならない結末が待ち構えていた。

 とりわけ、口約束を反古にし、破約し、口約束を厳守しなかった天の刑罰の恐ろしさを何度見て来たのである。
 身近には親子・夫婦などの血縁の「きめごと」がある。その周りに、隣人や友人の「きめごと」がある。あるいは師弟関係の「きめごと」がある。
 更に取り囲んで、社会での人間関係や商売上の「きめごと」がある。
 一切が、人間社会では「きめごと」により成り立っている。

 ところが、この「きめごと」を無視して、約束を破る者がいる。
 公然と口に出しながら、約束を反古にするのは、あたかも政治屋の如し。
 日本には政治家はいないから、厳密に言えば、日本の政治家は政治屋である。
 近年の政治屋の特徴は二枚舌を遣い、公約を「記憶に御座いません」と反故にして、言い出しっぺが破約することである。そして、これに見習う不履行の輩
(やから)も多い。

 不履行しても、体制に影響無しとしているからである。
 損も得も無く、命に別段異常なしとしているのである。だから口約束は反古にしても構わないと言う不逞の輩が居る。
 口での約束は書面にあるものでもなく、口での約束は録音しない限り、破約を証明することは出来ない。その証明できない様を逆手に取って「ションベン」をする不逞の輩が居る事実である。

 ションベンして得をするのか。
 果たして自分の口から一旦約束したことを反故にして、反故にしたことで支払いの義務は消え、それで得をしたと言えるのか。
 しかし人間の吐いた、口での約束は一種の誓いの意味を持っているから、この誓いを破った場合は、その反作用の反動は大きい。二倍の反動で、しっぺ返しを喰らう。「負」の責めを軽く見てはならないのである。破った方の責めは、運命上では二倍の反動で跳ね返って来るのである。

 「きめごと」の破約、「きめごと」の反故……。
 これこそ大恥であろう。
 まさに凝り固まった「愧」である。



●恥知らずの無規範の時代をどう生きるか

 敗戦後の日本人の考える民主主義には、一種の大きな誤解が付き纏っている。
 このデモクラシーと言うのは、あくまで政治的なシステムに他ならず、この制度下では、人間に絶対的な基準として価値や規範を与えるものでない。

 また、思想・信条・宗教の自由は、確かに現憲法上、保障されているが、この保障は換言すれば、デモクラシーと言う制度下では、価値や規範は全くの不介入であり、押し付けることも、こうあるべきだと指導することもない代わりに、それぞれの人は自己責任において、随意ご自由に……ということであって、同時にそれを保障すると言うことは、これ自体に絶対的な規範を持っていると言う訳ではない。

 各人が法で保障される範囲は、既に起こってしまったことについては介入するが、まだ起こり得ないことまでは不介入と言うことである。これは何らかの事件や事故が起こった始めて介入すると言う作用が始まるのであって、行為が起こる前は何も出来ないと言うことである。この範囲に於いて、人は自由と平等が法の上で保障されていると言うことである。

 事件でも、発覚して始めて事件となる。発覚しなければ事件にはなり得ない。それ以前のことにないしては全くの無力なのである。

 則
(すなわ)ち、それ以前の、起こる前は各人の行動規範に委ねられ、万一の場合を起こさせないようにするには、内的な規範しかないのである。
 各人の規範が喪失すれば、それを否定し、罵倒し、その結果が無規範であれば、社会は混乱と不穏を呈し救い難い状態になるのである。

 現実に社会の側面には悍
(おぞま)しい事件が頻発している。
 暗殺、虐殺、殺戮、裏切り、兄弟姉妹間・親子間の近親相姦、夫婦交換性交遊戯など、ありとあらゆるスキャンダルがあり、これは何も現代だけのことでない。
 また現代社会のみが、こうした結果を招き、その元凶に近代化、工業化、都市化、情報化などの影響で起こったことでもない。昔からあった。
 社会の崩壊とともに、不穏を呈して無規範になる歴史は、人類の有史以来からの長い間の根深い忌まわしい一面を抱えてきたのである。

 しかし、この無規範状態を抑え、消滅させるために、法律を厳しくしたらそれで解決するだろうか。
 警察力を強化して、内部監視機構を徹底させ、人民を監視するというシステムを導入したところで、それを解決することが出来るだろうか。また官憲の監視体制を量的に強め、質的にも拡大し、隅々にまで眼を行き届かせ、管理・監督の警察国家を構築させれば、それで無規範か解決できるだろうか。
 そして徹底的に取り締まった結果、人々から犯罪と言う犯罪を駆逐して、世の悪は一層出来るだろうか。悪党と言う悪党を皆殺しにして、果たして
よい社会が生まれるだろうか。
 また、これまでよりもまして強力な治安維持法を制定して、その法律下で倫理や道徳が齎されるだろうか。

 全く以て無理である。
 何故なら、このような時代には官憲内部も内的規範を喪失している訳である。正しく機能する筈がない。むしろ無規範状態を克服するには、余計に難解な問題が次々に発生するだろう。

 孔子は次のように論ずる。
 「之
(これ)を道(みちび)くに政(まつりごと)を以(もっ)てし、之を斉(ととの)うるに刑を以てすれば、民免(まぬが)れて恥なし」と。

 要約すれば、法律を強化して、法に従うだけの政治的社会的システムにあっては、人民の一般道徳や倫理は地に堕
(お)ちる。
 つまり人は、法に抵触さえすれば何をしてもいいと云うことになり、法の裏をかいくぐり、巧妙な手法で悪事を企むことになる。強化した分だけ、耐性化が起こると言うことである。法も法なら、その裏をかく悪も悪である。
 法に抵触しない悪事なら何を遣らかそうと勝手であり、そういう巧妙な悪を働いて、何の恥じることもない人間ばかりが社会に溢れ、社会は益々無規範状態に陥って、不穏を呈することになるのは必定であろう。

 つまり、「免れて恥じなし」とは、訴訟社会の奨励でもあり、こうした社会では弁護士ばかりが急増して、訴訟が社会全体を覆うことになってしまう。
 法に抵触しなければ何を行ってもいい……。

 この背景には、悪人どもを、この世から一掃すれば、諸悪の根元が断ち切られ、よい社会が顕われるという意味であり、この背後のは粛清
(しゅくせい)と言う恐ろしい現実が控えている。こうなると社会は益々悪くなるばかりである。法強化は、逆に法の抜け穴が研究され、それを行う者が出てくるのである。

 そこで孔子は、むしろ規範の逆行として、その危険性を警告しているのである。
 また、その対処策として、次のことを言っている。
 「子曰
(のたまわ)く、之を道(みちび)くに徳を以(もっ)てし、之を斉(ととの)うるに礼を以てすれば、恥ありて且(か)つ格(ただ)し」と。
 物事は格
(ただ)されるのである。
 孔子は物事の本質を見抜いていた。そして、作用に対する反作用の逆効果を防ぐには、礼と恥の意識の重要性を説いている。これは人間意識の正体を見抜いたことから言っている。
 つまり、礼とともに恥を知るということである。恥辱に対する恥の意識が確立すれば、世の中は改まるのである。



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