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陽明学入門 24

今は蕾でも、やがて見事な花を咲かせる。それは蕾の中に恐るべきエネルギーを秘めているからである。
 自然の中には、人間に気付かせ、感動させ、そこに人生の何たるかを教える種々の生命が生きている。その生命の姿を見て、その深部を知り、それに感動し、あるいは感激して、人は感化されていくものである。
 この「生命の妙」を知り得れば、その人は大いに人生を満喫したことになる。



●格の違いと言う徳

 私はかつて、弱年ながら「若木の下で笠を脱げ」という「格」の違いを見せ付ける人物に、何人か出交(でくわ)したことがある。
 最も印象深いのは、大学の頃であった。この箇所は『吾が修行時代を振り帰る・第三部』に詳しいので、興味のある方は、こちらを一読願いたい。

 そして、その人物にも負けない「格」の違いを見たのは、わずか13歳の少年であった。
 今でも印象深いのは、この少年の行った行為と行動は素晴らしかった。
 それなりの人生経験を持つ大人から検
(み)れば、人の気持ちを読む、13歳という年齢にしては、実に弱年であるのだが、それが中々であった。
 青二才どころでない。まだ子供である。
 その子供が、何と憎いことをしたのである。並みの大人なら、こうした親分肌の気質すら殆ど見当たらないであろう。
 ところが子供は違った。
 子供ながらに叡智の何たるかを知っているのである。侠気があった。任侠心を髣髴とさせた。そういう子供を、かつて見たことがある。こういうのを本当のリーダーシップと云うのかも知れない。

 平成13年3月半ば、私は仕事やその他の都合で、滋賀県大津市瀬田から、北九州市小倉南区に舞い戻ることになった。大津市を離れることになったのである。
 そして末坊主は、当時中学一年時代のクラスメートや陸上部の同級生と別れることになった。

 そこで、その中のグループ内の一人の少年が、「ささやかながらに送別会をやろうではないか」ということになり、七、八人のメンバーで近くのハンバーガー屋で一人100円ずつ出し合って、コーラとハンバーグで送別会を遣ったのである。
 それも即座の思考力と言うか、機転の良さと言うか、行為の早さがあり、ただ漠然としたものでなく、仲間の団結心を促すような、そういう意識が働いていて、この話を後で聞いたら、「何と心憎いことよ……」と思わずにはいられなかったのである。友を送り出しのに、子供に出来る事を即座に行動してみせたのである。まさに知行合一だった。

 当時の中一生は今では、30歳近くになっているであろうが、単にこの小僧が“仕切り魔”でなく、人間として持って生まれた、そういう男気を発揮したと思えるのである。
 当時、末坊主からこの話を聴いて、実に清々しく、心にさわやかな風を観じたものである。

 更にもう一つは、私が大学一年の頃だったと思う。
 18歳の一年になったばかりの、昭和42年の頃であった。
 この年の4月7日、私はこれまで温めていた「道場構想」を実行に移した。この日は、それが叶った日でもあった。
 此処に至る道程は長かった。思い立ち、これを実行に移すまでに長い時間を要した。そして、これが成就したのが昭和42年4月7日のことであった。この日が道場開きに、北九州の地元紙である『新九州新聞』という新聞社が取材に来たことを覚えている。
 だが、道場開きまでの道程は随分と長く感じたものである。
 当時は私も少年であったから、“実に長い”と感じたのかも知れない。此処に来て漸く成就したと言う思いであった。

 この構想は昭和30年代半ば頃から始まり、中学高校時代は、念願であった道場を造りたいと考え、これに向かって奔走する日々を送っていた。そして最初『大東流修気会』なるものを発足させ、それが成就したのが昭和40年のことであった。
 それから二年後の昭和42年に、道場開設の発足の運びとなった。
 影には当時、豊山八幡神社の宮司・波多野英麿氏の尽力も加わり、ついにこの年に道場を開設し、名前も大東流修気会に因
(ちな)み、『大東修気館』であった。中学時代から温め続けた道場名だった。この年に、念願がやっと叶った。道場開設は遂に成就した。

 ところが、道場は開設したものの、中身の人脈や運営形態が貧弱だった。
 八天狗・四天王は不在だった。
 世の中のことがよく分らず、人間としても学がなく、人間研究の人間学に対しての不勉強もあり、そもそも人間と言うものをよく理解していなかった。そのことは当時、自分でも痛いほど自覚し、深刻に捉え、この打開策に何とかしなければならないと、予々
(かねがね)心を砕いていた。

 さて、どうしたらよいか……。
 日々思案を続けるところだった。毎日考えあぐねた。
 しかし、需
(もと)めれば、来るものである。
 あるとき大学の構内で、一人の男を見た。奇妙な男だった。その奇なるところに畏敬の念すら感じさせる男だった。
 この時に、奇
(く)しくもある級友の紹介で、この人物と知り遇う切っ掛けを得たのである。そして、この時ほど、人生において「友」の存在は大きいと思ったことはなかったのである。

 特に「親友」という存在は、実に大きい。
 世の中には種々の特技の持ち主が居る。
 かなりの才能があり、素質もあり、然
(しか)も度量や器量もあって、いつまでたっても、うだつの上がらない下積み生活を強(し)いられる者は決して少なくないようだ。
 羽ばたく能力も充分にありながら、上昇気流に乗れず、時代に求められず、奇妙な形で不遇の人生を強いられている者は決して少なくない。才能があって、それが発揮できないのだ。
 不運と言うしかない。
 では、それは何故なのか。
 そういう者に限って、例外なく「親友」という存在がない。人生を語り合う友がいないのである。不運は一方で、親友がいないということを特徴としている。

 親友がいないのは辛いものだ。
 気軽に話し合える、また窮地に立たされた時には、真摯に話し合える友がいないのは辛いものだ。
 辛さの根源は、人生を語らえる、また「一緒に死のうとする何か」を語らえる、そんな死んでも惜しくない何かに一緒に飛び込んで行ける、そういう友を見つける努力を怠ってせいである。
 多くは、人生のしくじりが、ここから起因している。

 親友を探す努力の、これを怠ると、人生は大きく変貌する。大きく傾く。
 マイナスに傾き、悪い方に揺さぶられてしまう。行き詰まれば不遇に傾く。進退窮
(きわ)まって、二進(にっち)も三進(さっち)もいかなくなった時に、この不幸現象が起こる。
 「嗚呼
(ああ)!……」俺はただ一人か……。助け舟はないのか……。こんな嘆きが出る。

 天涯孤独……などの嘆きは、ここから起こる。そして歎けば歎くほど、不幸現象を大きくしてしまう。
 特に、経済的困窮に直面した時に、この現象が起こる。
 経済的不自由が生じた時に、この嘆きが起こる。人生を語らう仲間が不在になるからだ。生き方の示唆を失うからだ。
 生き方が下手だと、人は経済的不自由に陥り、困窮すると総てが行き詰まってしまう。進退窮まる。また精神的にも疲労困憊
(こんぱい)となる。
 これでは打開策は生まれない。自分一人のジレンマに落込んでしまう。後は、堂々巡りだけである。同じ処を、自分で思案を重ねて、宛もなく、うろつくばかりである。

 人間の困窮行動の不思議なところは、一度こうした堂々巡りが起こり、それはあたかも、人間の本能で暗夜の歩行での回転運動と酷似している。
 人間は、経済的不自由になり精神的にも疲労困憊すると、もう此処は迷宮の暗夜である。この暗夜においては堂々巡りの回転運動を遣るしかないのである。
 このときに友がいなければ、その回転運動はますます烈しくなる。
 普段からその時の準備として、早い時期に親友を探し求めて、得ていなければならないのである。
 私も、当時こうした欲しいと願っていた。伴に語り合い、行動を同じくする友が欲しいと考え続けていたのである。
 そして、始めたばかりの道場は窮地に立たされていた。

 そこで体当たりで物の言える親友が欲しくなる。いわば「心友」である。
 心友はが居れば、人生を渡り歩くのも心強い。策が練れる。善後策も生まれる。
 そういう友に、ひょうんなことから知り遇
(あ)う結果を得た。まさに邂逅(かいこう)であった。
 かつて、河井継之助が佐久間象山を訪ねて、この邂逅は実らなかったが、私の場合は実ったのである。

 最初、その友を遠望していた。大学の構内で遠巻きに見ていた。
 心では「あの男と知りあいになりたい。出来れば、わが方に来てもらいたい」そういう彼岸なる気持ちで、その男を見て居たのである。そして遂にその時が遣って来た。

 私は自らの道場を運営するにあたり、本当の仲間というか、同志というか、そういう心友の名に値する人間が欲しかったのである。
 何かに向かって、一緒に死ねる、そうした人間が欲しかったのである。そして、神社境内にある『大東修気館』道場は、50人ほど何とか人は集まったものの、私の力量の無さで、世間知らずで派閥が出来ていて、二分
(にぶん)、三分(さんぶん)している有様だった。芋を洗うような稽古だったが、内部は分裂していた。
 中心帰一で、一枚岩にする軍師が居なかったのである。
 これを大いに嘆いていたのである。私自身に統率力がない故に……。
 その嘆きがあり、いつも「嗚呼……何とかならぬものか……」だった。

 一方、私はその道場の「師範」であったが、有名無実の“お飾り”に過ぎなかった。それゆえ、歎く以外ないのである。世間知らずの若造一人では、どうしようもなかった。何処かに軍師がいないものか……。

 歎いても、どうなる分けでもないが、ただ歎く以外なかった。
 弱冠18歳の若造では、道場を運営する力がなかったのである。貧乏人の小倅である。無い袖は振られず、好きなように使われ、理事長や道場長の“使い走り”に過ぎなかった。これを前々から何とか改善し、本来の道場活動を展開したいと考えていた。その打開策を思案しているところだった。
 そこに奇しくも、ある男が顕われた。大学の構内で見た、あの男だった。

 これは一つの勘であるが、内心《あいつとだっいたら、一緒に死ねるかも知れない》と思うのだった。あるいは勝手にそういうイメージを抱いたのかも知れない。そのイメージを抱いた相手に、いつも福澤に重ねていた。

 彼が通り過ぎるのを遠巻きに見ていて、何か惹
(ひ)き付けられるものがあった。人間の太さを感じさせるそういう魅力が、遠巻きに見ていて、何か感じるのがあった。
 その男は福澤と言う名の男だった。

 私の同じ工学部電子工学科に、福澤と言う男と、高校の頃の同じ学校だったクラスメートがいた。その者から聴くと、その福澤のニックネームは「ドタマ」と言うと教えてくれた。
 なぜ「彼は“ドタマ”というのか?」と訊くと、「頭が大きいからだ」と言う。
 それを聞いて「なるほど」と思ったのである。
 そう言われると確かに頭が大きかった。

 また、そのクラスメートから聴くと、高校時代、福澤は「ドタマ純一郎」の愛称で呼ばれていると言う。略して「ドタジュン」と言うのである。柔道部の主将で、男気があり中々の人気者で、生徒会長を勤めたこともあると聞いた。そして年齢は、一浪をしたため、一歳年上であると言うことであった。
 この、「ドタジュン」を取り込めないものか……。思案に暮れた。
 そして、クラスメートが、この「ドタジュン」と知り遇う切っ掛けを作ってくれたのである。結果、後にドタジュンを得たのである。
 しかし、これが一筋縄ではいかぬ難儀があった。得るまでが大変だった。獲得が難しかった。
 「将を射んと欲すれば先ず馬を射よなのか」などと思案もした。
 さて、どういう作戦が立てられるか……。私の思い悩むところであった。

 ドタマは親分肌で、熱血漢で、熱意のあるものには感激し感動する人間であった。そこが弱点だと言った。
 ドタジュンの弱点を、すっかりクラスメイトから仕入れていた。
 最初、道場に対する私の趣旨とまず聞いてもらい、私は自分なりに未来展望を語った。熱く語った。

 しかしそれは、別に感激も感動もするようなものではなかったかも知れない。最初から収穫を期待せず、まずはジャブ程度の渡り合いである。軽くお手合わせを願おうと考えていた。
 彼との駆け引きはこうして始まった。

 彼に懇々と話し、一種の情熱をもって、また武道のことや大東流のことを語った。そして私が思った通り、福澤はなかなかの人物だった。
 彼は人の話をよく聞く、「特異な耳」を持っていた。その特異な、聞き上手の耳で、私の語りを、彼は熱心に耳を傾けたのだった。人の話をよく聴く男だった。
 実に聞き上手だったのである。
 私の想像した通りの人物だった。打ち解けて話せる人物だった。
 聴く耳があって、見る目があったと痛感した。それで話して訴える方は、少しばかり調子づいて、大いに熱弁を揮っていたのである。

 昭和40年代初頭のこの当時、世の中は国家権力とそれに対する反体制権力の正面対決が行われており、革命が囁
(ささや)かれ暴力が罷(まか)り通っていた。権力で弾圧したり、腕力で物を言ったり、暴力という名の威圧が日本中を覆いはじめていた。混沌としていた時代であった。
 “こんなことでいいのか!……”ということをドタジュンにぶつけたのである。

 日本の本来の国家形態は、暴力で物事を解決する国家ではなく、「和」の国ではなかったか、と彼に説いたのだった。大和という「大きな和」は、それを象徴しているのではないかと熱く語ったのである。
 日本が“大和の国”と言うのは、これに由来するのだと語った。極東に位置する日本は、大いなる和をもった「大いなる東
(ひむがし)」の国ではなかったか、と語った。

 ある時は迫るように、ある時は懇々と、更に共感を得るように、また彼を説き伏せるように熱心に語った。その情熱のほどを語ったのである。それは自分でも驚くほど真摯であったと思う。

 例えば、私の持論としての「厳罰主義やシゴキなどでは人間は育たない」という考えたかである。彼も子供の頃から柔道を遣っていて、この頃は弐段であったと思う。
 私は、以前から厳罰主義やシゴキの類
(たぐい)では、人間は育たないという一つの思想を持っていた。武術や武道の修練というのは、軍事教練とは違うのだから、恫喝(どうかつ)では人は育たないという考えを持っていた。また、罰則も無益だあった。

 普通、教育というのは、人間が人間であるための最低条件を満たせるように教えるものである。その最たるものが法律であろう。
 世の中をスムーズに平穏に送るためには、一罰百戒の厳罰主義であたるしかない。その違反者は厳しく罰する以外ない。処罰する、あるいは違反者が処罰されるという規則を教えることが教育の目的であり、人間社会を円満に運営していくためには、必要不可欠な有力な基準と考える。

 しかし、である。
 忘れてはならないのは、厳罰主義は社会運営上の一手段に過ぎないということで、これが人間の求める最終的な目的ではないということだ。
 したがって、罰による恫喝も、人間を育てる意味ではマイナスの要因を含んでいる。
 それは、「脅せばいうことをきく」という、本来の服従とは違う意味においてである。脅せば何でも言うことをきくというのは、単に律法学者への権威の屈服を覚え込ませるだけのもので、人間が自発的に人間であるための行為とは異なるからである。

 法治国家の弱点も、孔子が厳しく指摘する通り、この点に有る。
 「之
(これ)を道(みちび)くに政(まつりごと)を以(もっ)てし、之を斉(ととの)うるに刑を以てすれば、民免(まぬが)れて恥なし」と。

 要約すれば、法律を強化して、法に従うだけの政治的社会的システムにあっては、人民の一般道徳や倫理は地に堕
(お)ちる。
 つまり人は、法に抵触さえすれば何をしてもいいと云うことになり、法の裏をかいくぐり、巧妙な手法で悪事を企むことになる。強化した分だけ、耐性化が起こると言うことである。法も法なら、その裏をかく悪も悪である。
 法に抵触しない悪事なら何を遣らかそうと勝手であり、そういう巧妙な悪を働いて、何の恥じることもない人間ばかりが社会に溢れ、社会は益々無規範状態に陥って、不穏を呈することになるのは必定であろう。

 また、こうした脅しで権威に服従させるというやり方は、裏から見れば、人間教育と言いながら、実は「非人間的な教え」であり、人間軽視の考え方に繋
(つな)がるからである。
 ゆえに「心」が不在では人間教育は出来ないと、陽明学の「心即理」を持ち出して熱弁を揮ったのである。
 当時、心即理が理解で来たか否かは不明だが、また私自身、「心即理」の意味より、実践の方が難解であることは百も承知していたのであるが、「まごころ」を尽くせば、何とか通じるのではないかという期待があったのである。
 それに「人間は物と同じような道具ではない」ということも、力説する熱弁の中に含まれていた。聞く耳を持つドタジュンならば、あるいは分ってくれるかも知れないと言う希望的観測があったのである。勿論これは甘い考えであろうが……。

 人は、温情によって靡
(なび)く。脅しに屈しない者も多い。
 ところが温情があれば、士卒は将のために命懸けの奮戦をする。こういう話は『十八史略』に、山ほど出て来る。

 その意味で、古人は決して人間を粗末には扱わなかったのである。
 私が、高校や大学時代の頃、まだ旧陸海軍の古い考え方の厳罰主義が残っており、これらは大学の体育系のクラブ活動の中に受け継がれていた。脅しと罵倒
(ばとう)で、後輩をシゴクというやり方である。まず、頭ごなしに罵倒し、罵倒によって、組織の統制を図るというやり方が旧態以前として残っていた。

 つまり、大学体育会のクラブ活動の部員は、一つの“用兵”であり、“部品”か“歯車”であり、また一部の道場においても、そこの門下生というのは先輩や先達の兵士・兵隊という消耗品に数えられていた。
 人間を消耗品と考えるのは、残酷な思想である。
 この消耗品は、育てるという形でなく、使うだけ使って、駄目になれば切り捨てるという道具でしかなかった。当時大学や、高校の運動部の特待生で進学する者は、こうした「物扱い」をされた人たちである。駄目になれば、“ポイ捨て”だったのである。

 そして、道具を作るために「厳しい躾
(しつけ)が必要だ」とする考え方があったのである。
 主目的は、躾という意味のもので、人格教育を意味するものでなかった。
 この当時の「躾」は“躾イコール言うことをきくロボット”という命令一下の図式だった。命令が、ひとたび下されると、有無もいわせず死守する恐ろしい躾である。こうした躾が罷
(まか)り通っていた。
 こうした考え方が主流だったのは、やはり「戦後のベビーブーム」というのがあり、この世代に生まれた世代は、そのように扱われたのも事実だった。

 私は、猛稽古とシゴキの類
(たぐい)は同じでないと思っている。
 前者は厳しく育てるという目的を持っているが、後者は恫喝による行為であるからだ。
 また、恫喝による行為は「頭ごなしの態度」で一人の人間を扱うということであり、実に卑劣な態度といわねばならない。
 しかし当時の私の考え方は、猛稽古とシゴキが同じように看做
(みな)され、誤解されることも多かった。

 私が情熱を説き、その情熱をドタジュンが聞いた。そして多いに語り、熱弁を揮い、最後は「力を貸してくれまいか。そして君も一緒にやらないか?……」と懇願したのだった。悲願にも似た懇願だった。
 暫
(しばら)くの沈黙が流れた。
 彼は沈黙したままであった。

 暫く俯
(うつ)いていた。“さて、どうしたものか……”と言うふうな貌(かお)で、何かを考えているようだった。大きな頭は下を向いたままだった。

 そして頭を上げたのだった。
 彼はおもむろに言い放った。それは思いもしない言葉だった。
 それが「自分ごときで宜
(よろ)しければ……」だった。

 「君も一緒にやらないか?……」と言う誘いの熱心さに、彼が答えてくれるとは思わなかったが、福澤は「自分ごときで宜
(よろ)しければ……」と言い放ったのだった。意外にも即答だった。余りにも早いので驚いたのである。
 一瞬、聴き間違いではないか、と耳を疑ったが、確かにそう言ったのだった。

 「では、遣って……もらえるのだろうか?……、本当に遣ってもらえるのだろうか」と嬉々とした声を上げた途端、確かに「自分ごときで宜しければ、ひと肌でも、ふた肌でも脱いで御覧にいれましょう」と言うのだった。
 意外だった。
 “瓢箪から駒”である。意外な所から意外な答えが現れたのである。
 直ぐさま、こうした“色好
(いろ‐よ)い返事”が貰えるとは思わなかったからである。それだけが実に意外だった。このような説得を、三顧の礼のように繰り返さなければならないと覚悟していたからである。こうした即答が、あまりにも意外だったのである。

 だが此処には、力説する方と、聴く方の最大公約数が接点として交わっていたのだった。そう思う以外なかった。「まごころ」は通じた。天に通じたと思った。

 更に見逃すことができないのが、福澤と言う男の「決断の早さ」だった。それは素晴らしかった。彼に迷いはなかった。これを果たして「心即理」というのであろうか。
 あるいは彼は、もうこのとき陽明学を知っていたのだろうか。
 とにかく決断の早さに驚いたのである。

 彼は、私の要望に対し、あるいは切なる懇願に対し、普通の人間が言うような在
(あ)り来たりな、「二、三日考えさせてくれ」などと決して言わなかったことだ。
 一般によくある「少しばかり考えさせてくれ」などと、言わなかったことである。実に陽明学の心即理を地で行くような男だった。
 最終的には断る逃げ口上を、自分の口から吐かなかったことだ。それが意外だったのである。
 これが所謂
(いわゆる)“並みの人間”とは異なっていた。
 即決したのだった。
 この決断の早さに、私は凄い感動と深い感銘を覚えたのである。
 心即理の実践後に感ずることは、感動と感銘である。

 優れた人間か、そうでないかは、「決断の早さ」で決まる。
 世の中には、「格」の違いを思い知らさせ、人を感動させ、感銘させる凄い奴が居る。福澤もそのような人間だった。
 一方、頭の中がいつも混乱していて、勇気のない人間は、“即決即断”ができない。自分の無能を繕
(つくろ)って、恰好をつくり、四の五の抜かす。これこそ無能な証拠だ。挙げ句の果てに、不満や文句ばかりが多い。こうした人間は、ポーズだけは一人前だ。中身は薄っぺらである。

 ところが福澤は違った。決断が早い。
 あたかも「心即理」の真髄を知っているが如し……だった。
 世の中には凄い人間もいるものである。
 当時、私が十八歳かそこらで感じた、
 大学では同じ学年でありながら、もう、この時期からこのような能力差が生まれていたのである。決して人間は平等ではないと確信したのだった。

 彼はいい男だった。男が、その男心に惚
(ほ)れる、惚れ惚れとする男だった。任侠の世界をイメージさせる男だであった。そもそも器の大きさが違っていた。

 私は、彼の言葉に感動を覚えて、何も言えなくなった。実に光栄だと思った。
 「それに自分は、今まで自分が知っている人の中で、こうまで熱心に、情熱的に、話をしてくれた人を知りません。あえて言うのなら、自分は“語り部
(べ)”の情熱の負けたのですよ」と、惜(お)し気もなく言う。気分を害さない世辞にも嫌みを感じなかった。
 彼が言うには、私の情熱に負けたと言うことであった。
 そして、私はこのときほど「まごころ」を以て人にあたれば、必ず通じると言う確信を得たのである。
 陽明学で言う「心即理」は、まんざら嘘でもなかった。「まごころ」を以て話せば、通じる者には、心に響いて伝わるのである。

 昔から、有能で優れた人間は決断が早いという。
 それは、その人がそれだけ有能で、何かの能力を秘めていると言うことだからだ。
 こうした人は決断が早いのである。それは一つの才能であろう。
 この決断の早さは、特に軍隊では、その能力が必要とされるとことである。司令官の決断が鈍くて、じっくり考えるなどの行動をしていたら、文字通り命がなくなるからだ。その組織は全滅する。
 即決即断こそ、有能な証
(あかし)だ。彼にはその能力があった。

 しかし、“並みの人間”というのは、決断に関して、結局は理解していない者が多い。
 自分が自称“有能だ”と買い被
(かぶ)っていても、口に出して「自称」を宣伝する人間ほど、実は、決断は鈍く、よく「二、三日考えさせてくれ……」などと言う。勿体ぶって待たせるポーズを作る。こういう人間をこれまで何人も見てきた。

 これは決断の鈍さからくるばかりでなく、その人間が「無能であること」を雄弁に物語っている。だから、先延ばしするのである。そして、結局は手遅れになる。
 この手に人間は、「今は、ひとまず決断しておくことをしないでおこう」ということを決断するのである。そして、このタイプの人間は、結局は人生の落し穴に落ちて、自分で最も大事なチャンスの時機
(とき)を逸してしまうのである。

 即断即決が迫られる時に、“決断を後回しにする”のは、裏を返せば、人生を真剣に何一つ考えていないと言うことになる。
 だから人生に関わるような重大なことは、真剣に考えることは面倒になり、何事も後回しにするのである。そして、それが重要であればあるほど厭
(いや)なことは後回しにし、先延ばしにし、その人自身は無駄な人生を送ることになる。
 つまり、決断を先延ばしにすると言うことは、「人生を無駄に過ごしている」と言うことになる。

 ところが、世の中には、何でも後回しにする人間がいる。今日出来なかったことは、明日送りにする。
 自称“有能”を宣伝している人間は、実は決断の先延ばしを平気でやり、よく言うことは「二、三日、考えさせて下さい」など逃げ口上である。決断力のない人が使う常套句
(じょうとう‐く)のようだ。
 こうした人は勇気がないから、即決即断ができず、結局、誰かに相談するなどの無駄な時間を潰し、最後は“へま”をしでかすのである。
 こうした現実の側面には、今日の現代人に余りモノを考えさせない、単調で単純な思考に疾
(はし)らせる意図があるからである。

 また世の中には、時期尚早などと言って、「今」を先送りしてしまう人間がいる。
 能弁だが、行動が伴わない人間にこういう発現をするものが多い。そして逆に「時期尚早と言うが、ではいつだったらいいのか」と訊くと何ら答えられない。
 また提案したことに反論や批判があるのなら、それを明確に示すべきだが、その事案すら何一つ用意しておらず、消極策を押し進め、ただ時期尚早を口にし、何でも反対なのである。

 ところが今を見逃さないものは即決即断が出来る。
 こう言うのを「格」というのであろうか。
 「格」は貧富の差とは無関係である。貧しい卑賤の生まれでありながら、高い格を備えた者がいる。知行の悉
(ことごと)くに「格」の違いを感じさせる人がいる。
 人間には確かに「格」と言うものがある。
 「格」の違いが確かにある。
 それは決して平等ではない。それは肉体の「造り」を見ても明らかだ。「能力」もそうだろう。自他の意識は同根より働くが、一方でそれを隔てるのは「格」である。
 また「格」が違えば、同根であるはずの意識の中に入っていかれない。これを遮
(さえぎ)るのが、したがって「格」ということになる。役者がひと回りもふた回りも、一枚も二枚も上なのである。

 いま思えば、私と福澤は「格」が違うのだ。
 「格」が違えば、福澤のように年上の老齢者と、あたかも友達のように会話する。
 だが常人では、こうした話も出来ないし、また、年齢の違いを同等・同格の立場において、そこで“渡りを付ける”ということも出来ないのである。現に彼は、老齢年配のある知人と、まるで友達のように話しているのを知っているからである。
 確かに福澤は、俚諺
(りげん)にある通り、「若木の下で笠を脱げ」を彷彿(ほうふつ)とさせる非常に高い格を持っているのだろう。それゆえ、私などは、彼の足許にも及ばないのである。末恐ろしいということを彷彿とさせる男だった。

 したがって、こう言う人間の存在は無視出来ないし、軽く扱えない。やはり恭
(うやうや)しく頭を下げる必要がある。また自然と頭が下がる徳性を持っている。徳を備えている以上、その徳に対して、知識などでは渡り合えない。
 それに、世の中の『貸借対照表』は実によく出来ている。
 資産の部に書き込まれた債権の貸し付けた元金と利息は、徳に対して、資産として書き込まれるが、人の扱いを間違ったり、思い込みで見下げたりすれば、必ず「負債の部」に借金額が記載される。
 ゆえにこの貸し借りは、明確に記録される。
 “誰に幾ら借りがあって、誰に幾ら貸しているか”が。

 会計学にも、それを明確にさせる方法として、直接法と間接法がある。貸借においては、直接であろうが間接であろうが、殆ど関係ない。明確に記録されるだけである。
 特に人生の貸借対照表においては、証文がなくても、一度借りを作れば、それは無意識下に負債として書き込まれるし、貸しを作れば債権として貸し方に書き込まれる。いずれも無意識だ。
 無意識だから、証文があっても無くてもいい。本人だけが知るところである。
 これは、心と言うものが関与している証拠で、深層心理の無意識の中には、そうした記録の書き込みすら存在しているのである。これが、「無意識下の貸し」である。
 人間には無意識下に、いろいろな腹積もりがある。それは無意識下でも存在していて、普段は顕われないだけである。

 また世の中には、献身的なる無私の人間がいる。
 自分を低きに置き、心に欲がないから、こうした姿勢で人生を邁進
(まいしん)している人間は、ある意味で恐ろしい。私心がない。無私に徹している。
 この無私を「心即理」で遣られたら、並みの人間では手が出せなくなる。自分を棄
(す)てているからである。わが身一人を生きさせようと考えていない。最初から捨身の姿勢で、世の中を生きている。

 ところが、これに逆行する人間もいる。
 自惚れの強い人間はそうではない。
 自分を高きに置く。人より先んじたいと焦
(あせ)っている。決して他人が、自分より優れていると認めないし、決してそう思わない。自尊心も人一倍強い。しかし、それと反比例して実行力に乏しい。

 また、可もなく不可もなく「善良のという名の無力な悪人」は、普段はそれ以下でも、それ以上でもない日本人が、時として、異様な行動に出る。それがいい方に傾けば結構なことだが、それが悪い方に傾けば、普段は考えられない大事件や、その事件内容が常識を逸する恐ろしいことをする場合もある。その場合、残忍な兇悪犯罪であることが多い。
 「まさか、あの人が……」というタイプである。心に兇悪な陰性因子を持っている。普段は底に深く沈んで浮上しないが、ある日突然、あることを切っ掛けに正体を現せば恐ろしい。手が付けられない。
 そうなると、顕われた事象は悲劇的である。

 普段からの心の鍛錬が必要なのは、こうした自己制御に狂いが来ないように鍛えておかねばならないのである。
 よく鍛えられた人間は、すること為
(な)すことが、実に清々しく爽やかである。何の翳(かげ)りもない。一点の曇りもない。
 いつも無私であり、雑念雑想は駆逐されていて、心には濁りもない。総て一掃できている。心の鏡は曇らないように、すっきりと清く磨かれている。

 かつて私は、こう言う人たちに出遭ったことがある。奇遇にも邂逅したことがある。
 六十半ばを超えたこの歳になって、過去を振り返れば、そういう人を知る切っ掛けがあった。
 特に、末坊主の級友の中一の少年といい、大学時代の同級生といい、この二人は特に今でも印象深く、心に刻まれている。
 そして今でも思うことは、この二人は男気もあるのであろうが、また思考能力のある「智謀の将」でもあったと思うのである。
 今はどうしているか分らないが、今でも男気に智謀を加えて生きているのではあるまいか。

 智謀の将は、智謀をもって兵士を遣るのではない。自らが先頭に立ち、号令を発し、兵士を指揮する行動原理を示すのである。その場合、肉を遣うのではなく、知を遣う。頭を遣う。
 格闘戦や白兵戦は現場の戦争職人に任せる。
 知は行によって実行されるが、実行の出所は「心」である。心を砕く。それに粉骨砕身する。
 それには普段から心を鍛えて、単に“物知り学者”では何もならないのである。実践してこそ、学問が役に立つのである。

 かつて、吉田松陰は「単なる学者になってはいかん。人は実行が第一である。書物の如きは心掛けさえすれば、実務に服する間には自然読み得るに至るものなり」と言って、「先ずは実行することを心掛けよ」と説いたと言う。
 実行することにより、また行動することにより、自分の足で、自力で、心掛けとともに、人生を語り合える友を探す。これも大事であろう。

 「刎頸
(ふんけい)の交わり」と言う語がある。
 その友人のためなら、譬
(たと)え首を刎(は)ねられても後悔しないほどの真実の交友をこう言う。
 つまり心友である。
 単なる親しい仲のよい友達のことでない。心からの友である。心の通じる友である。
 そういう心友を得たいものである。
 もしかすると、若木の下にこそ、そういう友が居るかも知れない。



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