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陽明学入門 25

人は青年期、夢や希望を抱き、友とも互いの前途を語り合うところだろう。そして互いは、それぞれの短所を詰り合わず、短所には目を瞑り、長所を長所として捉え、それに憧憬(どうけい)や畏敬を持つ時代を送る。

 更に時を経て、壮年期に入ると、この頃から仕事にも一応の目鼻が付き、それなりに成功の生きに近付き、出来るだけ自分の短所を戒め、また人望などの有るか無いかの点検にも入る。仕事も大詰めであり、定年まで慎重を期す生き方を選択するが、この点検が甘いと、自分を見失い、また自身の評価を誤ることがある。
 そして人間は、人生において此処に分岐点があるように思うのである。

 それが成功の域に到達したと自己満足するものと、未
(ま)だ足りない、未だ甘いと、更に自己修正できるか否かに懸かるようだ。
 この時期を分岐点にして老齢期に入って行くのであるが、自分に甘い評価を下す者は、何かと人から褒められたくなる。人からの甘言を欲しがるものである。

 甘言を呈するようになると、そうでないものは遠ざけ、ただ甘言者のみを周囲に侍らせ、そのようなもので身辺を包んでしまう。そして挙げ句の果てに奢
(おご)り昂(たかぶ)り、最後は真実を取り逃がすこともあるようだ。



●生死一念

 心即理の善行は、なぜ烱(ひか)るのか。
 仁を成せば、その行為は光るのか。
 また、秘密が秘密として、それを明かさないことが、なぜ大事なのか。

 秘密の世界と言えば、「死後の世界」も秘密の世界に属そう。
 かつて、孔子は弟子から、死後のことを訊ねられて、即座に「知らん!」と、訊いた者に対し叱咤したと言う。
 この「知らん」は、本当に知らないのではなく、知っているが無闇に明かせないと言うことだったのであろう。つまり「語らん」あるいは「言わん」であろう。

 孔子ほどの聖人である。知徳が最も優れている人である。その中でも「知」をもって、死後のことについて知らない筈がない。知っていながら「知らん」と一喝
(いっかつ)している。
 そこは秘密の世界であるからだ。
 誰にでも、この世界のことを無闇に語ってはならない秘密があるのである。万人に知られてはならぬ秘密があるのである。知られては混乱や誤解が起こるからである。

 孔子の、この「知らん」を真に受けて、孔子が死後の世界を認めなかったというのは、短見であろう。それは表皮だけを捉えて、隠れた部分の真意を見逃している見解であろう。
 孔子は霊界世界のことは知っていたが、人には明かすべきでないと考えていたのである。明かすべきでないことは結局「知らん!」となる。

 そうでなければ、表裏一体の世界の現世だけを説いて、その裏側の見えない有機的な、眼に見えない隠れた世界は存在しないと、一蹴するのは訝
(おか)しい。秘密を知っているから、秘密は明かせないのである。
 表裏一体の現象界において、実体は表だけだとするのは短見であるからだ。

 表があるのなら、当然、裏も存在する筈である。
 光があるのなら、その裏には闇が存在する。ゆえに光と影があり、光は闇があるからこそ明確となる。闇の中に輝く。そのことを能
(よ)く知っていたのが孔子である。
 つまり、「知っている」ことは、眼に見える体系的という表皮上の事象に囚われて、それだけしか見えないと言うのでなく、見えない隠れた部分の裏なる箇所の存在までを知っているという事なのである。

 孔子は何しろ聖人である。
 さぞかし、闇の中の世界を視る視力も優れ、また視覚や視界も常人とは比べ物にならないほど明るく、漆黒の闇の中を遠くまで見通すことが出来、闇の中で蠢
(うごめ)く“蠱(こ)”の存在を見抜いていたであろう。しかし“蠱”は明かすべきでないと考えた筈である。“蠱”の存在に関しては伏せた。決して公開しなかった。
 ゆえに「知らん!」と一喝する以外ない。

 明かすべきではない。常人には明かすべきでない。そのことの大事を、何よりも孔子や知っていた。
 孔子の一喝は、一見すると何もしない、何も識らない男のように見える。
 この何もしない、何も識らない男は、また、取り立て善いこともしない。一人知らないと沈黙している。

 だが無為自然に生きているのではない。無為にして無事なのである。無事で安泰なのである。知っていて、何も言わないことが、逆に如何に有為であるか、それを理解する者には分るのである。また、分るからこそ、有事にあっては頼り甲斐があるのである。そうした局面に追い込められて始めて、やはりあの男は何かを知っている……。そう思わせる人間こそ、知っていて何も言わないことが如何に有為なことか、よく理解するのである。
 言うべきではないことは言わない。知るべきことではないことは知らせない。また、それを知ったからと言って、どうなるものでもない。秘密とはそういうものである。知ったとしても扱い方が難しい。ゆえに扱い方は慎重を期す。無責任には扱えないのである。

 これは、秘密は秘密にしておくべきだと言うことである。秘密は、秘密にしてこそ烱る。光は闇の中ではじめて煌々
(こうこう)とした灯になる。
 秘密を明かしては、死後の世界を冒涜
(ぼうとく)したことになるからである。
 また、孔子は礼の人である。礼を知っているからこそ、秘密の世界を冒涜しなかった。
 そして、死後の世界が克明に語られたら、一般の常人は、自分だけは善い死に方をして、仏教的に言うならば、自分だけが極楽浄土を得たいと考えるようになるだろう。それを警戒して、秘密を明かさなかった。

 右で善い事をしたら、左にそれを知らせるな。俚諺
(りげん)に、そんな言葉がある。
 右のしたことは右のしたことで、そっとしておき、左はそれを知らなくてもいい。時が来れば、知る時は知るのである。それまで、そっとしておく。明かさなくても、知る人は知る。
 人は、人生を充分に生き抜いて鍛錬した人は、やがて悟る時が遣って来るのである。したがって、悟りは時を得て熟さねば思い込みだけの“生悟り”となるし、実体の無い付け焼き刃的な“俄悟り”となってしまう。
 これが秘密の定義である。

 秘密は秘密であるこそ光を発し、善行は陰に伏して、本当の徳を為
(な)す。陰徳の所以である。知られてはならないのである。
 陰徳は陰に伏してこそ「陰徳」となり、それを本当の善行と言う。行いは作為でなく、人為的な小細工から起こるものでもなく、本然の根底に「まごころ」がなければならない。つまり無私であり、私心がないことある。心は常に磨かれ、一点の曇りもなく澄んでいなければならないのである。

 心即理は、この状態にあって始めて発揮される。心の鏡は常に磨かれた状態になっているから、物事の事象が正しく映り、「いま何をするべきか」の瞬時の判断が下せるからである。澄んでいれば、知行合一は瞬時であり、これが心即理である。
 一方、作為的な行いであっては、偽善と言う他ないのである。作り物では何もならない。あくまで「まごころ」の発現でなければならないのである。

 善因善果、悪因悪果ということが、現象界の絶対則であったとしても、その法則の背景には秘密があり、秘密が広く流布され、公開されてしまっては、善果を得るために“善行合戦”のような争奪戦が起こってしまう。そうなると多くの人は、善因善果を得よと奔走する者が続出し、そういう魂胆の者が世に溢れてしまう。俄善行に奔走し、世は付け焼き刃だらけになってしまう。本物が消える。
 こういう結果を招いてしまっては、偽善と言う他ない。混乱を招くばかりである。

 偽善者であってはならないのである。
 本心から「まごころ」を以て善行は、陰徳的に為さねばならないのである。作り物であってはならない。本然からの発現が大事である。

 これは逆説的に見れば、現実界に存在する「正直者がバカを見る」という乱れた、不条理な、腐敗した世があってこそ、その世の中で尊いことをする行為がなくなってしまうからである。
 世の中は乱れていて、悪が奔走し、理不尽で、ろくでもなく、不穏であって、至る所が腐敗していて、その世の中にあって、なおもそれらの清濁
(せいだく)を併(あ)せ呑み、善悪の綯(な)い交ぜにして、善行を行う人がいるから烱るのである。闇の中で光を照らすのである。
 光は、明るい中では烱らない。闇があって烱る。その尊さが分る。

 この行為を「秘密」としたのである。
 人間には、考えれば「格」というものがあり、その格は、分相応という形で人にそれぞれのランクが与えている。
 ゆえに秘密といわれるものは、ごく限られた人にしか明かせないし、また知る事も出来ないのである。秘密とはそうしたものであり、万人に知らせる必要はない。ごく限られた人だけでいい。それも心ある人だけでいい。心学を学び、心を鍛錬し、良知を得ている人だけでいい。

 ただ、門戸は誰にでも開かれている。但し、心が錬
(ね)れた人に限る。老練に限る。
 秘密に至る門戸は、心を錬って、鍛えておかねばならない。陽明学の心即理がその入口に立ちはだかっていて、善を為せばその門戸が開かれ、悪を為せば閉じて開かないままである。
 ここに善が善なることの大事がある。

 この意味では、また天の経綸
(治国済民の方策)が横たわっていて、その秘密を明かされることを拒んでいるのである。
 善行は徳を積むことによって成就する仕組みになっているが、徳はあくまで「陰徳」でなければ意味がないのである。偽善的な善行によって徳を積もうとしても、それは“見せ掛け上の徳”であり、本物ではない。妄想の徳である。濁った、曇った、汚れた徳である。
 つまり、この徳は、徳とは程遠い“偽徳”なのである。偽である。この儀徳は“悪徳”より、もっと悪質な徳である。

 偽徳の遣い道を知っている者が、偽善者である。偽善者は偽徳の使い手である。
 “見せ掛け上の徳”を振りかざし、横行
(おうぎょう)に「わたしはこのように善い事をしていますよ」と、世の中にアピールする。これが偽徳の使い手である。
 孔子は、このよくな偽徳の使い手を嫌ったのである。本物でないと嫌ったのである。

 秘密は秘密だからこそ、この光は闇を照らしている。
 また秘密を知る者は、偽善的な善行が危険であることを知悉
(ちしつ)しているから、言う者は知らず、知る者は言わないのである。

 秘密は秘密であってこそ、「密」が細々と時代を超えて 後世に伝わるのであって、通常の可もなく不可もなくの人は、ただひたすらその分相応を全うして、今ある自分を発揮し、この世で最善を尽くし、ただ心を鍛え、磨き、良知を行うだけなのである。そしてその良知が、やがて「まごころ」を得て、心即理が会得できたとき、その人の徳は一ランク上のスレップを踏むことが出来るのである。

 それは、ひたすら心を鍛え、『心学』の何たるかを会得し、その時が来れば、自ずと今まで見えなかった闇の世界の中で、自らの行為が良知に変化していることに気付く筈である。
 それまで、人は多くの経験や体験を、人生を通じて積み上げ、また日々の喜怒哀楽を通じて人の世の何たるかを知り、その喜びや怒り、更には悲しみなどを通して「人情の機微」を学んで行くことなのである。

 その結果、慈しみや哀れみに、人としての心が生まれる。
 その然
(しか)る後に、こうした事象界の感情は、やがて超感情に変化して、これまでの怒りや悲しみは昇華され、これまで気付かなかった秘密を知るのである。
 この「知る」こそ、本当に知ったと言うことであり、それはつまり、心即理の実践を通じて学び得たものなのである。

 ちなみに、霊魂に関する私の持論である。
 人間の所有する霊魂とは何だろう。これを考えるに、次のような『霊魂論』が生まれて来る。
 人は、深層部に霊魂を持つ。肉体の他に精神的実体である霊魂を持つ。魂などとも称される。
 それは人の体内に存在していて、精神及び生命を支配し、人格的、非肉体的なる存在とされる。
 したがって、病気や死によって、時として霊魂が身体から遊離した状態が、また霊魂であるとされ、他にも神霊や死者の霊と意思を通じうる媒介者の霊媒
(れいばい)によって、あるいは巫女(みこ)や口寄(くちよせ)の類にも憑衣し、それは浮遊したり、あるいは地縛状態であるともされている。

 人の魂は、また高い山などに宿り、山は、また古代より神の住処
(すみか)だとされて来た。
 高山には神が居る。
 山こそ、神の宿る場所であり、また古代人は神を先祖霊などとも考えて来た。高山の岩に宿り、石にも宿るとされ、その実体こそ祖霊であるとして来た。
 死者の魂が高山の登れば、それは浄化され、昇華される状態とされ、これが遠い昔の祖霊であるとされて来た。祖霊は高山に登り、後世の子孫をその位置から見守るのである。守護するのである。

 祖霊は死者の霊からなる。それゆえ遠い先祖の死者の霊は子孫を守る守護神となり、守護神は崇められる一方で、また恐れられる神であった。
 この神は、単に守るだけでなく、恐れられる神でもある。鬼神
(きじん)と言われる神でもある。
 その恐れの一つは、人間に祟りを為
(な)す現象である。守るが、扱い方や敬い方を人間が誤ると、即座に祟りを為すのである。それでこそ、また神だと言える。
 礼儀を忘れた無礼者に対しては、神は即座に鉄槌
(てっつい)を下すのである。
 神とは二面性を持った、二者は大きく相違する性格を宿し、二面性の実体は「魂魄
(こんぱく)」に由来している。

 魂魄の「魂」とは、霊のことで、霊は、死とともに肉体から遊離した『霊』であり、一方『魄』は肉体に留まろうとする『霊』である。
 この『霊』は奇
(く)しくも作用と反作用に関係にあり、生命の火が燃え盛っている間が、魂魄の双方は拮抗を保って吊り合っているが、生命の火が消えて「肉体を脱ぐ行為」が始まれば、魂は肉体を抜ける行為を企て、魄は肉体に留まると言う行為をする。

 魂の文字を分解すれば、「云」と「鬼」からなる。
 云は「雲」の源文字であり、鬼は死者の霊魂であるとされ、亡霊であるため忌み嫌われる、つまり「隠
(おに)」という意味である。これは地上の悪神や邪心に対峙する「天(あま)つ神」の対語であると思われる。
 また一方で「護国の鬼」という言葉もある通し、守り神になる場合もある。
 ゆえに鬼は、煙りのような釈然としない曖昧
(あいまい)な立ち昇る亡霊の意味でもある。立ち昇るゆえに「陽」の霊魂であることが分る。

 生命の火は「焦
(しょう)」によって、焦げることから始まるから、人間は誕生とともに、「阿吽」の「あ」のオギャーと呼吸して臍の緒を切り成長していくのであるが、この場合、下焦(かしょう)で大小便をする。これは生まれるプロセスである。生まれるとは、焦に火が点(つ)くことなのである。
 しかし、肉体は寿命まで生きて、やがて老朽化して死ぬ。人は、生・老・病・死の順を追って人生を経験する。一方、肉体は霊魂を入れる器として、朽ちるまで霊体とともにする。
 自然死の場合は、まず下焦の会陰
(えいん)が閉じられる。生命力の火は、中焦の神闕(しんけつ)を経由して上焦へと昇り始める。
 陰と陽の順を追う。

 また、魄の文字を分解すれば、「白」と「鬼」からなる。
 白の持つ意味は白骨化することを顕し、それは形骸化された躰で、肉体が生命の火で燃えている時は肉体に宿って活力を顕すものである。
 ところが、肉体が死ぬと、白骨化に至るプロセスが顕われる。

 まず、死んだ肉体は腐敗が始まる。
 腐敗のよって蛆
(うじ)が湧く。蛆に啖(く)われる状態が起こる。骨が白骨化するまで啖われ続けるのである。骨は、啖われ続けながらも、しかし肉体の一部として、この世に留める。その場合、死者の霊の留まった箇所が「魄」である。
 死は生まれる、逆のプロセスと辿る。
 これは、この世に留まる「陰」の霊魂であることが分る。陰の霊魂こそ「魄」の実体だったのである。

 陰の霊魂……。
 それは意識であり、意識は「心」と解すれば、更に釈然として来よう。思考や思索の原点でもある。
 心は肉体あっての物理現象で行為や行動を働くものであり、心無しでは「行」の起点が不在となる。心はまた「行」と極めて一致した関係を持つものである。それゆえ、心に肉体が執着し、かつ肉体は心に固執するものである。更に、心に肉体が執着した場合、生命欲を齎す。生に固執して、いつまでも生きていたいと思う。

 この生の固執は、死した後も固執する意識が強い場合は、未練となってこの世に留まり、地縛霊となってその場に留まるか、地上を浮遊して未練の執着するところを彷徨うことになる。浮遊霊である。
 陽の霊魂の「魂」は肉体が死ぬと、上昇して上焦である泥丸部から外に出ようとするが、陰の霊魂である「魄」は死した後もこの世に留まろうとするのである。それがまた「心」という意識体である。

 肉体は生まれでるとき、陰陽の霊魂の合体が起こり、これは生命の火を灯すが、肉体は死ぬと生命の火は立ち所に消える。そして此処で陰陽の霊魂は分離を始める。生きている間が、魂魄ともに併せ持つが、死ぬと魂魄は分離し、魂は天に向かって外に出て、魄は地に向かって此処に留まろうとする。

 魂は浄化を求め高い地へと向かうが、それは低地とは異なる高地へと向かう。
 つまりこの高地が山である。魂魄は、比重的に検
(み)てどちらが重いかは、その人の、人生の姿勢や真剣度による。生き態(ざま)による。
 懸命に生きた人、人生を疾風の如く駆け抜けた人は、その人の魂は浄化し、昇華を目指すから魂の比重は断然大きくなる。

 ところが、魂が昇華も浄化も求めず、この世に未練を引き摺りつつ固執するような、何かに溺愛するような生き方を選択した人は、魂より、魄の方は断然比重が大きくなる。地上界の残る意識を選択してしまう。昇華しきれないのである。
 魂魄の何
(いず)れが大きいか、人によって違うのである。肉体に固執する気持ちが大きければ、魂魄は共に肉体へと、未練を露(あらわ)にするだろう。引き摺る意識が地上界に残留させる。
 意識体は、死した後にも心に結びついて生きることに執着を示すだろう。死者は浄化が望めないまま、この世に未練を引き摺って彷徨うのである。

 日本には「霊場」と言われるところが多くある。
 霊場は魂魄が集まるところである。それはまた、死者の心が集まるところでもある。
 一般に霊場と言えば、神仏の霊験あらたかなる土地とされている。また一方で、神社・仏閣などのある神聖な地とされ、霊地とか霊境とか霊区などと言う。
 こうした場所には、背後に山があって、前方に川か滝が流れているところが多い。あたかも山水画の思わせる風景である。霊場は、また自然が作る一幅
(いっぷく)の名画を思わせる境地でもある。風光明媚(めいび)なところは、魂魄の集まる場所でもあるのである。

 山水画の中には、『山水順逆の理』が説かれている。
 これは大自然の山水の流れから来ていて、この逆では霊魂が成仏できないとされているからである。背後に山を控え、川の畔
(たもと)こそ、あるいは滝(滝は流れて「川」をなす)の畔こそ霊魂の安住の地であり、またそこが南向きになっていることが霊的パワーを最大値にすると云われているからである。

 「山」は三画で、陽の基本数であり、また「川」は四画で陰であり、陰は「死」を顕す。
 したがって、死者を弔うには「山水の理」に適
(かな)っていなければならないのである。安らぎを得るためである。
 これは水によって魂と心が結びついていることを顕す。また、水によって分かれも持っている。
 しかし、魂と心がいつまでも結びついて分かれたくない場合はどうなるのだろう?……。

 死後も、魂と心が一体化されていて、その意識が存在しているとするならば、死者と生者を隔てる基本的条件は、ただ肉体が有るか無いかになってしまう。
 そうなると、これはどういうことか?……。
 人間が魂と心だけで肉体を形成することが出来るのなら……、人は死後も、魂と心は固く結びついてある種の形をもって、この世に存在していたことになるが、この存在こそ「神」と云われた祖霊ではないのか。
 原初の人間に、死者も生者と同じように考えていて、両者は、この世に存在していた古
(いにしえ)があったのではないか?……。古代人は、そうした姿を有していたのではないか。
 そのようの想うのである。



●知識人の専門用語に躱されるな

 さて、ここでは、喜怒哀楽から起こる直感的なズレだけに焦点を当ててみよう。
 観察する主体での観測側は、理体系と現実に起こっている事象とのスレはどうするのか。
 ズレの意識は、単にズレとして封印し、捨て置き、無条件に理の権威に対し、頭を平伏さねばならぬのか。
 この場合、ズレは心の観測と観察により、相手が権威者であっても、「いや自分は違う」と素直なズレの違いを吐露
(とろ)することすら出来ないのか。これを黙殺せよと言うのか。

 この黙殺する場合、もし観察者に知識が無く、見識が無く物事の判断が不十分でありながら、しかしそれでも、「いや自分は違う」とは言えないのか。なぜ知識に屈せねばならないのか。
 あるいは専門家と言う理由だけで、知識で押し捲られ、専門用語で烈しく捲し立てられたら、反論できない状態が生ずるが、その場合、「専門家」と言う権威筋に屈せねばならないのか。反論があっても、忍従と沈黙を保たねばならないのか。

 これは例えば、自分が今医療施設などに治療者として懸かったり、あるいは身内がそうした医療施設に懸かって、治療を受けていたとしよう。
 しかし、自分の方は医学的知識が皆無である。
 その場合、自分の直感として、「いやこれは訝
(おか)しいのではないか?……」と主治医や担当医の言に反対を唱えたい事が生じるが、その質問をしたり、「自分はこう思う」と言う考え方を述べると、その反撃として、「医学的知識が無いものが何を言うか」とか、「専門家でもない者が……」という言い方をされる場合がある。こうなると、尻尾を巻く以外ないようである。

 この場合、陽明学的に検
(み)て、心が同意しないのであるから、良知とは言えず、医療専門家の医学用語に押しまくられて、もはや反論は愚か質問しても「無駄」と言う状態が生じる。
 そう言う状態を、既に経験した読者諸氏も少なくないであろう。

 そして無条件で「理の意識」に跪
(ひざまず)けと言われた場合、もし「自分は医学的知識がないので、お任せします」とか、疑念や反論することを観念して、あたかも諦めの要素で「好きなようにして下さい」と言った場合、これは自己の本心を偽ったことになるのではないのかと、陽明学は迫るのである。
 陽明学の根底には「至誠」が存在している。
 この至誠を通じて、納得いかねば抗
(あらが)うべきではないのか。

 更に抗って、それでも得心できなければ、主治医の尊大を変える以外あるまい。あるいは、自分が懸命に医学的知識を身に付ける努力が必要となる。医学部入学に合格して、医師国家試験に合格し、専門医になれるくらいに。それが出来なければ、沈黙する以外ない。

 自己の本心が、「お前は知識がないから」とか「学がない」の一言で、一蹴されようものなら、これは本心に反する結末を招くから、それに対して抗議したり、反論理由を明確にして訴える必要があるのではないか。
 医療事故が起こってから、その後に御託
(ごたく)を並べても、確かに損害賠償は可能かも知れないが、死んだ命は再び戻ることはない。

 つまり、物事に共感し、「同意する」とは、まさしく自分の知らない世界の分野に対し、「下駄を預ける」ということであり、自分の本心に少しでも違和感があれば、そのズレを解消しなければ、そこで起こった心の矛盾は解決するまい。更には自己の本心が、権威や専門家と言う名の理由だけで疎外されたところで、理と心の合一が虚構ならば、それが見せ掛け上の理路整然とした論理であっても、心で感じる感知は、同意知るに当り条件を満たさないのであるから、虚構は虚構に過ぎないのである。
 そして昨今の現代人は、「専門家」という権威の前には平身低頭して跪いて“拝跪
(はいき)の念”をとらねばならないと勝手に思い込んでいるのである。日本人が権威に、実に弱い所以である。



●壮絶と荘厳

 人間が平等で同格で同等と信ずるならば、何でここまで「かしこまる」必要はあろう。
 偏に「かしこまる」ことは、そもそも「人間はみな平等ではない」という不平等意識が深層心理の中に隠れているのではないか。それが、権威筋の前に出て、謙遜と、極端なへりくだりとなって無意識に違和感を感じているのではないか。
 こうした意識の下には、明らかに、これまで才能分類されて、自分には学がないと思い続けて来た因習が禍
(わざわい)しているのではないか。

 それを解決し、かつ消去するために、安易に“専門家”という権威の前に跪
(ひざまず)くのでなく、自己の本心に従い、理と心を分離・分裂させては行けないのである。
 斯くして、佐藤一斎の「老いて学べば、死しても朽ちず」に回帰するのである。

 人間は思い込みによって諦めるのではなく、信念を通して至誠に準じ、死ぬまで学んでいく凛
(りん)とした姿勢を維持したいものである。諦めるのは、最後の最後であり、「諦めてはならない」という本心が心の片隅に働いている限りは、とことん諦めずに、したたかに「学」を全うすべきだと思うのである。

 人間が死期を悟るときは、既に「諦めの到来」が遣って来る。その時が諦めるときであって、そうでないときはしたたかに、どんな状態であっても、逆境であっても、非難囂々
(ごうごう)の只中であっても、自分の行いが総て悪行と否定されても、執念深く、あたかも戦国武将の山中鹿介(やまなか‐しかのすけ)の如く、生き続けねばならない。諦めるのは、次の次である。最後まで善後策を尽くすことに脳漿(のうしょう)を絞る。
 心の本然は、人間は生に執着する生き物であるから、簡単には敗北できないのである。

 人は、簡単に死にたくなければ、生きて生きて、生き捲り、その上で最後は死ねばいい。それまでは生き続ける意外あるまい。生き続けることこそ、人間に課せられた宿命であり、その宿命が果たせるのは、臨終間際である。

 それまでは、どんなことがあっても、あたかも唐の忠臣であった顔真卿
がん‐しんけい/書に優れ、楷・行・草に巧みであった。平原の太守として安史の乱に大功を立て、のち吏部尚書・太子少師。李希烈が反した時、これを招諭することを命じられたが捕らえられ、監禁の後に殺された。文忠と諡(おくりな)し、顔魯公と呼ばれる。709〜785)のように生き続けねばならない。顔真卿は当代随一の学者で、また芸術家としても知られる人物である。

 ところが、宦官勢力や宰相の元載
(げんさい)のような実権者より妬まれ、反臣の淮西節度使李希烈に対する慰諭の特使に任じられ、そこで捕えられた。そして、李希烈り‐きれつ/「安禄山の乱」で李忠臣の軍に従い転戦し、淮西節度使(李忠臣)の将となる。のち反乱し楚国皇帝と称した。生年不明〜786)は真卿の才を惜しみ、部下になることを奨めたがこれを拒み続けた。真卿は、ただ唐への不変の忠誠心を表すだけであった。
 だが忠誠心は変わらず、こうまでして生きた真卿も、やがて死ぬ時が来る。最後は殺された。

 その死に臨んでの、死に至るまでのプロセスは、何とも残忍極まる流刑を受けて拷問の末に死んで逝く。忠臣として忠誠を誓って死んで行く。真卿の最期は実に劇的であり、それゆえ後世忠臣の典型例とされたのである。真卿の生き方は、まさに陽明学的である。

 しかし、一度人は死ねば、その死は荘厳に値する。壮絶な死こそ、荘厳なのである。
 壮絶な死に方は、総て荘厳に包まれている。それは不変だからだ。
 ここに人は畏れを感じ、恭
(うやうや)しく頭を下げるのである。またそれだけの価値がある。それは説くに於いてである。偽徳は体制によって豹変するが、本物の徳は永久不変なのである。

 更に、人の最期を丁重に見送ることこそ、人間最大の徳であり、陽明学は、また人の徳とは何かという事を説いている。この徳は、単なる美徳と言うものではない。まさに人徳と言う、人間の格が物を言う徳である。
 そういう恐れとともにそこに荘厳さを感じさせる人は、生き方に徳が存在していたからである。
 こういうのを、感動して流涕
(りゅうてい)に至ると言うのだろうか。



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