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陽明学入門 29

季節は変わる。都会でも街路樹を観察すれば、その変化には気付こうが、この変化に注視する人は少ない。慈善は人間に変化の旨を知らせるが、都会人でこれに気付く人は少ないようだ。

 変化が昔に比べて少なくなった現代、欲しい物は、金さえ出せば何でも手に入る時代になった。しかし、こうした便利さの一面には何らかの殆
(あや)うさを秘めている。

 では、その「殆うさ」の元凶には何があるか。何が横たわっているのか。
 それは人間の飽くなき自然科学への期待に寄せて、物質文明を欲望に応じて増幅させたことであろう。この文明を増幅させるだけ増幅させ、あとは拡散と膨張だけを残した。その惰性は今でも半永久運動のように継続されている。

 だが、期待した巨大都市での、豊かで便利で快適な文化生活は、文化的ならびに経済的活動の中で、人間に急激な変化を齎したことは否めない。その変化の中に現代人の疎外した虚しい喜びがあり、大自然に対する乱開発で生活環境を、逆に悪化させる結果を招いたのではなかったか。

 それは現代人が、自然から遊離したことに始まっている。更には愚行にして、自然から掠奪してきた様々な報いは、いま始まったばかりである。



●一つの理

 中心帰一という考え方がある。
 それは最初「片付いていたもの」の状態を言う。最初は整然として片付き、スッキリ統一されていた。
 ところが、原初の過去から未来に向かうに従い、最初「片付いていたもの」は拡散分散してバラバラになった。それは、現代の多種多様性を検
(み)れば明白だろう。

 これは剣術で言えば、そもそも何も持たない無手の人間が、効率よく敵を殺すために刀剣なるものを編み出した。刀剣の用い方にも種々の方法があって、そこから流派が興った。
 その流派は、流派ごとに、殺し方の違いが生じた。
 人の殺し方と言うのは、如何に効率よく、合理的に大量に殺せるかであった。最初の動機は、これから始まった。
 単に、殺人剣のみに力を注ぎ、殺すことだけを目的にした。ひたすら叩き、打てばよかった。

 殺し方においても、どう剣を斬り結ぶかで効率の違いが出るようになり、最初の直刀剣は、反りを付けることにより、刀剣自体に生じる摩擦力を如何に小さくし、早く切り抜けるかの研究がなされ、やがて反りを伴った、これまでの直刀剣とは異なる形態の刀が生まれた。
 この刀をもって、種々の剣術流派の刀法は特長を見出し、その特徴をもって武技を競うようになった。何れが優れているか興味の的となった。

 無手から一刀流で、一刀の剣を持って斬り結ぶ。一刀流の起源である。
 一刀流の特長は、斬り結ぶことによって中心を目指して絞り込んで行く刀法である。
 但し、多勢に無勢となると実に効率の悪い。また刀にも耐久性がない。
 一対多敵では一刀流では危うくなる。更には、多敵から打ち込まれる“まぐれ刃”という、流れ弾ならぬ、流れ刃は運悪く、術者の肉体を襲うかも知れない。それが致命的な刃でなくとも、出血を促進させる不慮ものものであるかも知れない。これを恐れた。

 出血は術者の意識を朦朧
(もうろう)とさせる。激剣術者の、気持ちの集中に支障を来す。
 したがって、こうなっては多勢に無勢の場合、どうしても分
(ぶ)が悪くなる。
 これに対応するものは無いか……。こう考えるようになる。
 効率のよい、機能的な刀法は無いものかと、天才レベルの剣豪は考えるようになる。殺し方を研究し、精進を重ねて研鑽し、スマートに、洗練した形で格闘したいと思うようになる。

 そこで、天才から生まれた剣の用い方が、二刀流と言う特異な戦闘思想であった。
 この思想に遵えば、一刀流より効率がよい。
 一刀流が中心に向かう求心力のある刀法であるのに比べ、二刀流は内を目指すのではなく外に目指して、遠心的に拡散膨張する刀法である。これまでの一刀流は、左右両手で一刀を握り、求心的に中心に向かう剣であったが、二刀流は拡散・膨張を目指して遠心的に振り回す剣であるから、膨張力を限りなく発現させるには、多勢に無勢の戦法では持って来いの刀法であった。それに合理性があり、多勢を相手にしても効率がよい。

 また、矢を射られても、一刀流の場合は一刀をもって対応しなければならぬが、二刀流の二刀をもって対応すればその防御力は一刀流の二倍となる。
 この局面を比較すれば、一刀流と二刀流とでは大きな隔たりがあり、その優劣も明らかとなる。

 更に二刀流の場合、左右両手でそれぞれ一振りの剣を握れば、これは四ツ足動物的であり、この動物的なる考え方は、例えば山歩きなどのトレッキングにおいて明白になることである。
 つまり、トレッキング・ストックを一本だけ持つのと、左右両手にそれぞれ合計二本持つのとは大きな隔たりがある。ストックが一本だけならば、坂道を登る場合も降る場合も「三本足」である。
 しかし、三本は立ち止まれば安定があるが、動けば四ツ足動物のように動けず、左右の力の分担にムラが生じる。ストックという杖は助かるが、それは辛うじて顛倒を避けたり、歩行の補助に過ぎない。

 ところが、左右両手にそれぞれを持つのなら「四本足」になる。動物のように野山を走行できる。
 坂道を登る場合も、単に二足歩行の直立姿勢で登るのではなく、両手を遣ってこれを足と看做し、四本足で坂道を上って行けば実に自力動力は半分のエネルギーで済む。これは降るときも同じで、四本足で下って行けば直立二足歩行より遥かに効率がよく、そのうえ顛倒防止にもなり安全面も向上する。
 トレッキングは、登りよりも下りの方が危険が大きいのである。

 トレッキング未経験者での想像は、登りがきつく、下りが楽だと考えてしまいがちだが、これは逆である。下りの方が膝や腰に多く負担が掛るのである。これは梯子を登るときと降るときの比較を考えれば分ることである。登りよりも下りの方が危険が伴う。
 したがって、両手両足を使った四本足歩行は安全で、しかも効率がよく、エネルギー消費量も半分程度で済むのである。これは二足歩行だけで考えれば雲泥の差であろう。
 しかし、問題は此処で終了するのでない。

 二刀流を会得した術者は、二刀のまま修行を終わらせはしない。
 二刀より、一刀へと還る。
 元の姿に戻ろうとする。
 拡散・膨張して行ったものが、再び収縮を始め、求心的に中心に戻ろうとするのである。
 斯くして二刀流を体得した術者は、一刀流に還り、一刀をもって術を行おうとする。だが術者も一刀をもって終了するのではない。更にその先に進もうとする。
 では、その先とは何か。

 遂に、術者は刀剣を捨ててしまう。無手となる。無手で多勢に無勢を相手にしようとする。
 此処に無手勝流の極意があると検
(み)たからである。
 最初、総ては片付いていた。
 物は整然として片付いていた。此処に還ろうとする。

 一旦は時代の高速化と多様化で分離し、離反し、膨張し続けたこの経験を通じて、人間の拡散し分散する方向性の非を悟る。
 科学一辺倒主義は、人間の欲望の拡大に追随するだけである……という非に気付くのである。
 斯くして術を極めた賢人は無手に還ることに疑問を持たず、これまで所持していた刀剣を捨てる。
 あたかも千手観音の手の如き忙しさで、欲望に翻弄
(ほんろう)されていた自らの愚かしさに気付き、時間軸まで多方向に分散・分裂・拡大した愚行に気付き、異なる次元へと移行を始めるのである。これが精神的進化である。

 俚諺
(りげん)に「天は二物を与えず」というのがある。
 何事も一長一短ある。そして人間とは矛盾の多い生き物である。矛盾の塊
(かたまり)だと言ってもよい。
 しかし智慧者は、この矛盾の塊を逆手に取って、それぞれの長短を上手く組み合わせようとする。
 それは「プラス・マイナス=ゼロ」という運命式においてである。
 最後は、結局ゼロに帰する。無に戻る。
 しかし、これも改善策の一つに留まり、最後は無をもって終息することになる。

 豊かさを目指して、効率のよさを目指して、人間は悪あがきし、内に戻ることを無視して外へ外へと拡散・膨張を続けた。
 限りない欲望を露出させて、便利で快適を……という幻想に取り憑かれた。その結果、実入りがよくて、効率がよくて、それが叶えば総てが解決できると思い込んだ。
 しかし冷静になって考え直せば実に滑稽であった。

 単に自然であるべき自然を不規則・畸形の科学的原理・原則を持ち込んで、不自然を作り出したに過ぎなかった。人為による利潤追求のみの増収技術を、極力かつ最大限に増幅させたに過ぎなかった。更には自然制御にも失敗した。
 その最たるものが、東北地方太平洋沖地震であろう。この巨大地震は、人間文明のシンボルであった原子力発電所の大事故へと反抗の牙を剥いた。

 人為の総智を絞り、総合的な対策を立て、総ての点で万全と過信した点で、それを制御する。肉の目に見えない部分の有機的結合を無視して、西洋科学万能主義を前面に打ち立てる。
 ところが、体系立てて、万全かつ完全と思い込んでいた自然の中のあらゆる完璧性や、その要素を組み立てている関連性ならびに因果関係は不明のままであった。その制御すら出来なかった。
 また、霊的世界の有機体が持ち得る「隠れた部分」は、遂に肉の眼では確認できなかった。
 斯くもあろう。
 人間の思考や考察は常に、近視眼的になり易いからである。したがって結局は不完全のままで中途半端に終わることになる。

 近代科学の発端を開いた西洋科学は、現代に至って、やたら複雑化し、専門化ならにに細分化に向かうこの方向性は、古代人の「哲学をしない哲学」と180度異なった逆方向へと突き進んでいる。

 かつて古代人は、太陽を仰ぎ、夜には月や星を眺め、大地に伏して寝て、大地の鼓動を子守唄にしていた。そして、その後の人類も太陽の光と大地の土との共存共栄を目指し、慈雨の恵みによって水に育てられ、それによって人間は生かされることを知り、天地に感謝し、その狭間で人となり得た。
 ところが時代が下るに従い、人為的な科学と言う知識が入り込み、昨今ではこれが微に至り、細部にわたって小難しい説明を弄
(ろう)して非科学者の無知をいい事にを煙に捲く。科学者は自らの優位説を唱える。
 科学は否定されず、否定されない現実の中で、独善的な科学が展開されている。文明崩壊の一つの悪夢は、こうしたところにも起因している。

 効率的で合理的で、然も体系立っていれば、有機的結合を無視して、これを“”科学的”と称した。
 「体系的」の名をもって、専門的研究が尖鋭
(せんたん)化されると、各要素は分解され、それを更に専門化して細分化し、この尖端を突き進めて行けば、その尖端部分はより完全なものに近付くと思い込んで、然も現実は全体から遠ざかっていたのである。益々掛け離れ、核心から、中心から反(そ)れて行ったのである。これでは結局、却(かえ)って不完全なものの不完全性を増大させるに過ぎなかった。

 研究課題を専門化し細分化して、部分的研究に熱中し、その積み重ねが全体を把握する手段になると確信した人間の思い上がりは、部分集合が全体を構成しないことを見逃してしまったのである。科学の大罪と言わねばなるまい。

 有機的総合体は、単なる部品の寄せ集めでなく、また部品交換によって、弱所を強化できると言うものでもない。全体を構成する最大律の次元は、最小律の思考法で分析する科学力で無機物的に再生されるものでもない。専門化し、細分化したものを無機的に組み立てても、元の有機的総合体は再生できない。一大生命体は、無機物の部分寄せ集めて構成されているのではない。

 地球上に存在する動植物の生命体は、ミクロ的に、個々的に検
(み)れば、生まれては死んで行く経路を辿っているように映る。それは動植物だけでなく、鉱物なども同様であろう。
 群落を検れば、生まれては亡ぶこの中に、盛衰興亡の歴史を繰り返している。

 最大律を臨めば大は宇宙、最小律を臨めば微生物、更には極小の無生物、あるいは鉱物を構成する原子ならびに電子の世界においても、この世の物質は一定内の原則や秩序にあって運行軌道に従い流転を繰り返している。万物は一定内にあって、それぞれが互いに拮抗を保ちながら流転しているのである。そして、この原動力を司るものは、根源にあるものが存在し、統一された構造によって回帰しているのである。
 万物は総合的に、一大有機体を成し、流転回帰の一円融合の姿にあり、また一円は点に還り、点は無に帰しているのである。
 それは自然の根底には一つの流れがあり、この「一つ」によって運営・運行されいると言えるのである。

 陽明学を説明した『伝習録』
(上巻)には、程伊川(てい‐いせん)の示した「一(いつ)を主とする」と述べた箇所がある。
 それは行動や行為の「一」を説明し、この一は「一心に」という物事に対しての処し方を論じたものであろうが、一心に何事かをするとは、つまり天の理に通じ、その行いを届かせることを意味しているように思う。

 例えば、一心の読書をするとか、一心に何かに耽るというこの行為には、「一を主とする」ような切なる思いか込められているように思うのである。これを通じさせるには、やはり「一」を除いてはあり得ず、それは根底にあるものの「統一されたもの」への貫通であろうか。
 そうなると、貫通には一心に天理を志向する「一」があったことになり、この一は理と言うことになろう。

 つまり対処すべき事が起こったときには、それを一心に逐
(お)い掛け、想いを貫通させるように行為し、また事が無いときには「空」に帰すると言うことであろうか。
 だが、事が起ころうと起こるまいと、一心に天理に向けて功夫
(工夫)する。ただそれだけのことを説いている。

 陽明学のテーゼで考えれば、その要約は「事上磨煉」
(磨錬)であろう。事に及び臨むことで克服の成就がある。
 これを実践し経験・体験して、事に当たることを説く。具体的事例を一つ一つ即して、良知を発揮する功夫を行う。これが天理に「一」として貫通するということだろう。
 あるいは、念を一つにするということであろうか。
 「動中に静有り、静中に動有り」であり、また「動であって無動、静であって無静」へと移行するのだろうか。
 この循環を逐
(お)えば「一円融合」の姿が泛(うか)び上がってくる。
 一円融合によれば、その動く局面に陽が生じ、これは太極が動いて陽を生ずると言うことであろう。

 また一方、その生々のうちに安住不変の本体は「中心核」として存在しているから、静なる局面を陰が生ずると言うのであって、これは太極が静かになって後に陰が生ずると言うのではあるまい。
 それはもし、静かになって陰が生じ、動いてから陽が生ずるとすれば、対
(つい)である陰陽や静動が別々のものになり「一」ではなくなる。また分化し、截然(せつぜん)と分けてしまうことになる。
 有機体としての生命体が腑分けされ、分類され専門化して細分化してしまったことになる。したがって、境目を設ける必要はなく、区別は無用なのである。そして体系付けて陰陽・静動すら截然は無用なのである。

 宇宙は気からなる。
 天の理である。
 したがって、陰も陽も同じ一つの気から成る。これが静も動も同じである。
 一つの気が屈伸することによって、あるときは陰になり、またあるときは陽になる。
 同じく、静動も同じで、その時その場の対応による。対応次第で同じ気が変化するだけのことである。これこそが「一つの理」なのである。「一つの理」が陰顕することにより、あるときは陰になり、またあるときは陽になるのである。

 陽明学では、これを説明するのに春夏秋冬の四季の移り変わりが挙げられる。
 王陽明は、陰陽・静動を説明するのに次のように説く。
 「春夏は陽であり動であると言えるが、しかしそこには必ず陰と静が伏在している。一方、秋冬は陰であり静であるが、そこにも陽や動が伏在している」

 春夏は春夏なりに生々変化している。そしてその変化は止まない。
 一方、秋冬は秋冬なりに生々変化し止まないが、「変化」こそ陽であり動であると言える。同時に春夏には春夏としての一定の体
(てい)があり、秋冬には秋冬なりの一定の体がある。この一定に落ち着くところは陰であり、また静である。変化を見せないからである。

 元・会・運・世・歳・月・日・時から刻・秒・忽
(こつ)・微(び)に至るこれを、一元は「十二会」、一会は「三十運」、一運は「十二世」、一世は「三十歳」……と説く時間の単位のことで、これは邵康節しょう‐こうせつ/北宋の学者で邵雍(しょう‐よう)。雍は名、字は尭夫(ぎょうふ)。諡(おくりな)は康節。河北范陽の人。数に基づく時間論を説く。朱子の易学に影響を与えた。1011〜1077)の『皇極経世』に見るもので、あらゆる時間の流れやあらゆる瞬間において、それを押し並べて言えることだが、則(すなわ)ち「静動に端(はじ)めなく、陰陽に始めなし」(『二程全書』にみる。北宋の儒学者の程明道と程伊川の兄弟の二程の語録・詩文などの全集)である。
 これを総じて「一」という。
 始めなく、終わりなしである。

 「一」は自然を有機生命体と検
(み)る。
 総てが「大いなる一」の中にある。
 ところが、人為は自然の流転の中の一過程、一コマを取り上げてこれに体系付け、そこに人為的な流れを付け、これを原因から起因した結果とした。
 これは自然現象を「一コマ」として視ているに過ぎない。本来に自然現象は映画のフィルムに譬
(たと)えれば、その一コマは連続しているのである。
 これを自然に置き換えれば、自然のフィルムは直線的でかつ平面的な画像集積でなく、立体的でかつ有機的であり、これは総てが一体になったものである。

 しかし、ある科学者は一コマのみを切り出して、その部分の一現象を検れば、あたかも原因と結果が体系的に整然として見えるように錯覚する。
 これを全体像として長期的な眼で高所から洞察すれば、大自然と言う実体は何処に原因があり、何処に結果があるか全く混沌として分からなくなる。こうなると原因も結果も、その種の思考レベルでは判別が出来なくなる。

 この期
(ご)に及んでも、執念深い科学者は、それでも立て直しを考える。
 その立て直しと言うのは、その因果を微に入り、また細にわたって解き解
(ほぐ)しを図るだろう。それを図った上で、緻密な対策を立て、これまでより精密に、精巧に、確実な対応策を立てて非の打ち所の無い科学的な考え方を決行するだろう。ところが、この遣り方は極めて迂遠な、然も無駄の多い徒労であることに気付かない。
 何故なら立体的有機的因果関係と言うのは極言すれば、確かに部分的に検れば原因があり結果があるように映る。しかし、ここに見落としがある。
 それはミクロ的観測に過ぎないからである。近視眼的である。全体操的に検るマクロ的な観測でない。

 そして奇妙なことはマクロ的に観測した場合、何処が原因で結果であるか、掴みどころがなくなる。
 縺
(もつ)れた糸に結果も原因も存在せず、また原因も結果も無いとである。
 西洋では逆因果律で「結果であって原因である」とした。
 ここから結果に相応しいような原因が派生し、その結果に沿って原因へと向かい、この原因こそ結果を派生させていたのである。
 これは東洋の、原因があって結果は生まれたというのと対照的である。

 近代の資本主義は確かにウェーバーが言うように「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」に代表されている。今もその延長上にある。
 近代資本主義の成立とプロテスタンティズムの関係は密接で、今なお濃厚である。
 経済成長を永遠にしなければならぬ運命にある資本主義のメカニズムは、自転車操業状態に陥っても、自転車のペダルは漕ぎ続けなければならない運命にある。漕ぎ続けた先が断崖絶壁であったとしても、更に漕ぎ続けて、その中に顛落して行くことであろう。
 これは「凶」であり、「愚」ではないのか。

 そして、この世と言う現象界に「永久運動を許す局面」は何処にも存在しないのである。「永久連鎖講」すら何処にもないのである。
 そういうものは現象界にはないのである。
 何処にもないと言うことは、また「掴みどころがない」と言うことであり、それは「対策が立てられない」ということになる。これは大自然を相手にした場合、此処には「因果はない」と言うことだ。
 本来自然には、始めもなく終わりもなく、頭も尻尾もなく、原因も結果もなく、そもそも因果が存在しないのである。

 最初がなく最後がないということは、それを論ずるとすれば、数直線上で語れるような一次元的二次元的なものでなく、一個の立体を成す「球体である」と言えよう。
 この球体に、因果あると言えばいえなくもなく、ないと言えばいえなくもない。つまり「無因」のなにものでもない。直接的原因もなく間接的原因もない。よって結果もない。

 この因果の話に科学のメスを入れ、肉の眼に見える部分を近視眼的に、ミクロ的に検れば、その一コマ状態においては因果は存在することになる。
 更に、“原因があって結果が生じる”とする科学的見方からすれば、その一コマに限り、因果が実在していようが、全体像からすれば、一コマ、一コマの部分対処は、既に錯誤を生じさせた起因となり、その起因に応じて次ぎなる起因が派生し、一つの錯誤から第二の錯誤は生まれ、第二の錯誤から第三の錯誤が生まれ、結局人為では、その度に無駄な苦労を背負い込むことになる。

 一つの現象に注視すれば、それは一つの対処策では役に立たない。ミクロ的に見ているからである。
 事象をミクロ的に検た場合、一つの現象は、まず原因があり、しかしこれだけでない。原因に付随する有機的なる見えない部分の絡み合いがある。原因に絡むものは、基因であり、誘因であり、更には遠因があって種々の無数なる原因と結果が絡み合っている。そしてこれを解明しようとすれば原因の原因を追い求め、確かに心因は掴むことが出来ようが、根本的対策はここで終了する訳でない。真因の真因の追求が必要になっていくからである。
 果たして人間は、この因果律に対し何処まで究明できるだろうか。

 西洋科学の「一」の見逃しと、無視と、一蹴
(いっしゅう)は、この現代に至って、斯(か)くも分散し、斯くも拡散し、斯くも膨張し、益々多種多様に分裂し、その進行速度には加速度が加わっている。暴走と言ってもよい。愚の侵犯をしているといえよう。

 現代人の信じるところは、人間の知性は益々伸びる。人間の知識は無限大に増幅している。そう確信する人も少なくないであろう。
 そして単なる感覚的観察から、理性と推理を働かせれば、それは増幅状態にあり、これを武器に益々人間が地球外にもその橋頭堡
(きょうとうほ)を造り、そこから宇宙規模で拡散・膨張して行く、と……。

 だが問題なのは、誰がそういう錯誤をしているか、そういう夢を見ているかであり、その錯誤にも夢にも、もはや安心立命できる実体は存在していないであろう。
 どんなに深い知識を把握したところで、知識は知識でしかなく、広大な宇宙と感得していても、それは人間に知識で感得したものであり、その知識を活用させる舞台はあくまでも人間の主観による。
 そして此処が重大問題なのだが、この人間の主観が倒錯していたらどうなるか。

 人間を創造したとされる創造主の妄信を嗤
(わら)う前に、人間こそ妄信していることに気付かねばならないだろう。
 また、これが相対的主観の迷路から、出口のない文明の迷宮に迷い込んでしまったという感得こそ、急務であろう。



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