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陽明学入門 31

心の鍛練がなされていない現代人が殖えた。急増した。あたかも細胞が増殖されるように増えつつある。今もその途上である。
 その一方で、科学信仰の信者の急増は、これまでの宗教を無力にした。
 科学的の言葉が誰の口からも漏れる現在、宗教の存在は、そして神社仏閣の存在は、単に拝観するだけの観光スポットに過ぎなくなった。

 また、人間が本来持ち得る良心を始めとして、慈悲や愛念は殆ど役に立たないものになった。
 何故なら、心の中に、それらを感知する土壌がなければ、幾ら種を撒いても根は着かないからである。



●斯くあるべし

 実践陽明学は、ただ「心即理」である。「知行合一」あるのみである。
 四の五の言わず、良知を発揮させて実践すればいいのである。
 『伝習録』
(上巻)には、『礼記』の「孝子で親に深い愛のあるものは、必ず心が和(なご)んでおり、心が和んでおれば晴れやかな顔となり、柔和な様相をしている」(祭義篇)の根となる深愛に至る経路について、師匠の王陽明と愛弟子(まなでし)の徐愛(じょあい)との問答が挙げられている。
 また、その中でも『大学』
(儒教の経書でもとは『礼記』の一編であり、明明徳・新民・止至善の三綱領と格物・致知・誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下の八条目を説く)を取り上げ、その問答が多い。

 徐愛は次のように問う。
 「大学にある『止
(とど)まるを知りて後に定まるあり』の箇所を、朱子は『事事物物にみな定理がある』(『大学或問』)と、意義を広く押し拡げて説明していますが、先生の説かれる『心が理』であると大分違うようです」

 これに対して陽明曰く「事事物物の上に至善
(なる理。あるいは善悪を判断するための究極標準としての最高目的。更には価値観として幸福を含む)を求めるなど『義外【註】『孟子』(告子・上)に見る「孟子と告子」の有名なる論争。告子は年長者を敬うと言う義について規定される以上、それは自己にとって外存的であるといい、孟子は敬う心が内在なものとした)の説』である。至善とは心の本体そのものである。何よりも己の明徳を明らかにし、精一せいいつ/心が純粋で一途なことであち、誠実で純一なこと。精心一意)の極みに至ることである。これ以外に何があると言うのだ。
 しかし、それは事物と無関係にあるのではない。朱子は『大学章句』の明明徳ならびに至善の箇所に『天理の極みを尽くして些かの人欲の私のない有り様』と注釈を付けているが、ここは的確といえるだろう」と答えた。
 但し、この説においては、陽明は朱子の「事事物物に定理あり」とした、その理の探求を通して、この場合は自己の「内在の理」を覚得したとしたのであり、況
(ま)して告子と同一意見でない。

 そして徐愛も問答は更に続く。
 「至善をただ己の心のみに求めたならば、天下の事理について遺漏
(手抜かりの意)がないでしょうか」
 陽明曰く「心がそのまま理である。天下に心をおいておれがいい、他にどんなことがあり、どんな理があると言うのか」と。
 これに徐愛答えて曰く「例えば父に事
(つか)えるには孝、君に事えりには忠、友に交わるには信、民を治めるには仁なろ、多くの理が存在しています。これらの一つ一つを省察(せいさつ)しないわけにはまいりますまい」と返し、これに陽明が慨嘆(がいたん)して訊き糺(ただ)す。

 「事
(つか)えることについてのこの説が、真実を遮蔽して久しい。その急所は一言で論することはできないが、例えば父に事えると言う場合、まさか父の上に孝の理を求める訳にはいくまい。同じように君においても、友においても民においても、それぞれに忠をおき、信をおき、仁をおくと言うのは、単に理を求めたに過ぎないのである。求めることと致すことは違う。肝心なのは、心がそのまま理である。この心に私欲があって曇らされては、雑念雑想に被われていては天理ではあるまい。何故外にそれ以上のものを付け加える必要があるのだ。
 そもそも父に事えればそれで孝であり、君に事えればそれで忠であり、交友・治民に対して心を発揮すればそれは信であり仁である。心から人欲や私欲を駆逐して雑念雑想を取払い、天理に存する功夫を積めば、それが『心即理』なのである」

 これを聞いた徐愛は「これまで朱子の旧説に固執しこだわっておりました。先生の『心即理』を聴いて目から鱗です」と答えた。
 陽明学は『心即理』をモットーとする。小難しい論理を捏ねくり回したところで拉致はあかない。

 これは学者の“理論上を知っている”という陽明学でなく、心即理の実践者であるから、学者の言う小難しい論理は無用である。実践者には、「哲学をしない哲学」だけで充分である。これが実践者と学究だけの学者の違いである。
 陽明学実践者の求めるべきことは、小難しい陽明学論理ではない。学者の長ったらしい論文に回答を求めるものでない。
 況
(ま)して陽明学の解り辛い長ったらしい言い回しの解釈や、そう言う文章の中に、陽明学の実践の「至誠」があるのではない。「まごころ」は行ってこそ、まごころになり得る。
 学問をするべきであるが、学問は、知識をそのまま記憶する事でない。

 求道者の求める切なるものは、長ったらしい捏
(こ)ねくり回した理論の中にあるのでなく、また言葉の羅列の並んだ小難しい言葉と専門用語の中にあるのでもない。
 端的なる短い一言の中にある。
 「たった一言」の中にある。「斯くあるべしの一言」の中にある。長ったらしい理屈ではない。
 それを知れば、また知ることは、「行うことである」を理解できれば、長ったらしい能書きは要
(い)らない。能書き無用である。

 天が見ている……。
 神が見ている……。
 それだけでいい。それだけ知っていればいい。その感得だけで充分である。
 他に何が要
(い)ろう。
 これだけで、自らは、いま何をしなければならないか明確になるだろう。
 実践者は、自分の行動に「恥」がなければそれでいいのである。その行いに、恥がなければいいのである。恥じなく生きること、それだけが常に念頭にあればいい。それがあれば、心の鏡は曇ることはない。

 天は見ている、神は見ている。
 見ているから、決して恥ずかしいことは出来ない。わが良心に自らの行動を当てて、恥ずかしいことは出来ない。これを頭で分っていても、行動に現さなければ、「天は見ている、神は見ている」の背景で『心即理』を実践したことにはならない。

 ゆえに、他人の眼を欺
(あざ)き上手く言い繕って人は騙せても、天も神も騙せないのである。何もかもお見通しである。
 道に外れたことは何もしていない……。それだけで毅然と胸が張れるのである。
 では、「道に外れる」とはどういうことか。
 まず、嘘をつくことである。
 ところが、これが中々難しい。
 この世の中に嘘をつかない人間など一人もいないである。あらゆる階層も、あらゆる身分も、男も女も、年寄りも子供も、嘘をつかない人間など一人もいない。みな嘘をつく。大なり小なり嘘をつく。
 しかし、心の中では「出来れば嘘をつきたくない」という祈りが必要だろう。そのような生き方を選択したいと考えれば充分であろう。

 自分が一度も嘘をついたことがないとか、悪事は大小を含めて一度も働いたことがないという、能面づらして豪語する“善人のポーズを採った無力な悪人”より、よほど良知に近い良心を持っている。
 嘘は極力つかないように努力する。その願いと祈りだけで、この思いは天に通じる筈である。
 そして、むしろ警戒すべきは、恥じを働いていながらその恥に気付かないことである。自分のことを棚に上げて、他人を責める行為こそ恥じであろう。
 恥を知るとは、恥ずかしい行為を防止するより、恥を働いたと自身で知覚し、それを恥に思うことである。「天は見ている、神は見ている」の意識があれば、そこには親に対しては孝が生まれ、君に対しては忠が生まれ、友の対しては信が生まれ、民に対しては仁が生まれる。
 その知覚こそ、『心即理』の原動力となり、押し並べて人民には「仁」に繋がる最短距離の道に至るのである。

 次に盗むことである。
 これは物を盗んだり、精神性からなる言葉などを盗むことであり、物品でなくとも言葉などの肖像権を盗むことであろうか。しかし、これも盗作か否かを判定するのは難しい。
 例えば、同一作者の書籍ばかりを繰り返し読んでその作品に陶酔すれば、いつの間にか、自分の文章が似てしまい、それを自分で書いたと思い込んだとき、そこには罪に意識は不在であろう。

 しかし似たような単語が並ぶことがある。言い回しまで重なることがある。
 これは記憶力のいい人ほど文章は似るようである。
 自らのオリジナルであっても、何故か他人の空似が起こる。これを一々盗作だと指弾されても困惑するばかりである。此処に偏りの愚がある。その愚こそ反省材料だろう。
 「天は見ている、神は見ている」の意識があれば、間違いが起きたとしても最小限度に留めることが出来よう。

 次に人を騙すの、行為はどうだろう。欺くの行為はどうだろう。
 欺瞞はどうだろう?……。
 この世の中には、騙しや欺きは日常茶飯事のように起こっているではないか。
 そもそも、「この現象界」というのが欺瞞
(ぎまん)に満ちているではないか。
 政治の延長は戦争だという。この戦争こそ、欺瞞に満ちた行為でないか。
 だが欺瞞に満ちていても、大義名分や聖戦理論を掲げれば、この無理も道理として通ることになる。その最たるものが、第二次世界大戦であった。日本流にいえば大東亜戦争だろうか。

 勝てば官軍……。
 勝者の無理難題は罷
(まか)り通る。
 敗戦国の無条件降伏により、総てが聖戦仕立てのシナリオで、歴史にその正義が記されることになる。
 当時の日本の戦争指導者には、欧米に背後に隠れた見えない部分の「欺瞞の策」に気付いた形跡はない。赤子の手を捻るように、まんまと“して遣られた”というべきだろう。そのうえ戦争目的不在ならば、あたかも釈迦の掌の上で踊らされる孫悟空か、自作自演の酔っぱら劇を演じる程度であったろう。老獪なる西欧に踊らされ、魂までもを抜き取られたというべきであろう。
 昨今の日本人の墜落を見ると、敗戦以降の日本人は、自らの魂を、黄金と引き換えに売り渡し、経済奴隷の道を選択したことに、この元凶が始まっていると言えよう。

 敗戦国民は、これを甘受する以外なく、また負けると言うことは、忘却することに繋がり、厭
(いや)なことは清濁併せ呑んで、さっさと忘れてしまうのである。これにより、後世に伝える正邪の判定は不問に付される。負けた方が一方的に悪いことになる。

 これが国家規模の騙しの行為であり、この行為は小型化して下部組織にも反映されているようだ。これは確かに欺瞞だが、また策として詭道
(きどう)であろう。兵は詭道だと云うではないか。
 こういう策に懸からぬよう、防禦策を講じるくらいの警戒心は欲しいものである。
 更に言及すべきは、日本が戦争を放棄しても、国際政治と言う世界規模の枠組みで検
(み)れば、世界は決して日本に戦争を放棄させていないのである。今度こそ、国連軍の名をもって再び大戦争に巻き込まれる危惧(きぐ)は否めないだろう。
 その時の物差しとしては、やはり「天は見ている、神は見ている」の意識があれば、被害を限度に留めて亡国は免れるだろう。

 次に親不幸はどうだろう。
 儒学ではしきりに「孝」を説くではないか。
 ところが「孝」を実践している人となる極めて少なくなる。限りなく皆無に近くなる。
 子は歳老いた親を嫌う。面倒を見たがらない。
 何故か。
 年寄りは老醜があり臭い。それゆえ、いつも邪魔物扱いにされる。鬱陶しい生き物に見える。
 「早く死ね」と対象となる。

 早く死ねと言った本人も、やがて年寄りになるのだが、自分が老いることに気付いていない。
 斯くして年寄りは、世のため人のため、また無駄な国庫金減らしをさせないために「早く死ね」の対象になってしまう。悲しいことである。
 日本からは「敬老」という言葉は、とっくの昔に死語になっている。また、老獪なる老練した智慧を遣って世に役たたせようと考える、そういう思考は現代の世には働いていないようだ。

 現代人の心は、ふやけたものが多い。軟弱である。ヤワである。
 そのくせ一方で、畏敬の念が急速に失われつつある。恐れ畏
(かし)む気持ちを、現代人の多くは希薄になっている。
 現代の核家族化現象と少子化現象の家庭内には、神棚もなく仏壇もない家は殆どであろう。況
(ま)して、かつての宗派など疾(と)っくに消去されてしまっている。畏敬が失われた証拠である。

 したがって、畏敬が存在しないのだから、良心も育つ訳がないのである。
 また今、良心と云う言葉とともに、親孝行が失われ、愛国心が失われ、人の徳や慈悲なども亡びゆく運命にあるようだ。また、これらの言葉すらなくなってしまうことであろう。
 本来は「恐れ畏む」こと事態が、本質を知る原点ではなかったか。敬の心があって然
(しか)るべきではなかったか。
 反省すべきは「天は見ている、神は見ている」の意識であろう。見られている、試されているの知覚があれば、一旦は離れた「畏れ敬う」ことも当然の如く、わが心の中に戻ってくるだろう。

 次に喧嘩や闘争はどうだろうか。
 この世の中は支配階級と被支配階級の鬩
(せめ)ぎ合いがある。この双方間ではいつも立場の逆転を狙って闘争や抗争が起こっている。その原動力は、また欲望であろう。
 欲望が、立場の逆転を狙って死闘を演じる構図を造っている。これが権力闘争の構図である。
 支配者はいま座した地位を長く保ち続けることにより、誰よりも自らの欲望を満たすことが出来る。
 一方、被支配者はその立場の逆転を狙って、これにみに執念を燃やす。支配者も被支配者も攻防の死闘を演じるのは、共に欲望を原動力にしている。
 欲とは、斯くも鬩ぎ合うものである。
 したがって私欲を小さくし、自分のことは後回し、先に人に譲れば害されることも少なく、そこに「損する余裕」も生まれて、自らは自適なる自由が得られるだろう。
 このときも、常に心の何処かで「天は見ている、神は見ている」を意識すれば、一旦は失われた信も復活するだろう。

 次に物を粗末にしたり、弱い者を苛めるという、昨今の大人にも見られる現象はどうだろうか。
 現代人は、果たして物は粗末にしていないだろうか。
 また、同僚間でも仲間内に苛
(いじ)めは皆無だろうか。嫌がらせはないだろうか。
 妬みが人を葬ろうとする構図を造る。これに取って代わろうとする願望が生まれる。
 それは物だけでなく、人の命まで粗末にすることであろう。

 現代では人の命が余りにも粗末に扱われている。人間の命は、地球ほど重くはない。地球ほど重いと称されている人は、時に人であり、庶民ではない。庶民は顕微鏡下の微生物然である。生きても死んでもどうでもいいような微生物に、“人間の命は地球よりも重い”というスローガンか掲げられない。
 世の中は詭弁
(きべん)で弄(ろう)されている。詭弁で溢れている。
 こうした側面は、他にも幾つもあるのではないだろうか。

 昔の子供は、人間としてやってはならないことを躰を通じて学んできた。素朴な形で、人間として守らねばならことを、親達は、天を、神を引き合いにして戒めてきた。それだけに秩序は失われていなかった。その背景には、やはり「天は見ている、神は見ている」の意識があった。それだけで睨
(にら)みが利いた。
 ところが、時代が変わった。

 人間は不可知の知、錯誤の知を寄せ集め、それを集積して次ぎなる理論を作り出し、それを発展発達させて混迷を深める状態に自らを追い込んで行った。その結果、精神状態の分裂的発達から抜け出せず、また究極的には精神分野を崩壊させて、文明と言う物中心の世界へと入れ揚げている。

 その一方で、有機的結合体である根本を見失い、体系・体系……の連語から、この体系主義の誤りにも気付かない。
 現象界の森羅万象は、直線的な体系主義でもなかったし、また平面的な縦軸と横軸だけの体系主義でもなかった。現象界は弁証法的に、時間と空間は無限に発達するものでもない。
 森羅万象は立体的であり、深淵なる有機的結合をもった生命体なのである。
 人間はその中にあって、生かされている存在である。

 天は見ている。神は見ている……。
 その言葉は重い。その意識は重い。
 不正は許されないのだ。偽りやデマは許されないのである。そして賄賂
(わいろ)を受け取ることすら許されない行為なのである。

 だが現代人はどうか。
 可もなく不可もなく、善人と言う名の無力な悪人はどうか。
 こういう無力な悪人に、天は見ている。神は見ている……の意識はないだろう。
 無力な悪人ほど、その実体は、一切神仏は信じない中途半端な無神論者であるからだ。
 自分の小さな善を大きく語り、大きな不正や悪事を小さく語る。悪事ほど些細なものと一蹴し、小事なるほんの少しの善らしきものを大袈裟
(おおげさ)に吹聴する。

 現代においては、この種の情報工作のみが巧妙に交錯し、益々過激になっているようである。そしてこの背景にあるものが、利益追従を目指す資本主義の論理である。その論理下で儲かればいい、生き残ればいい、それだけのことで鎬
(しのぎ)を削る攻防戦が繰り返されている。そして、人間としての志は疎(はば)まれているようである。

陽明学の祖・王陽明(おうようめい)の著わした「一掴一掌血 一棒一條痕」の諌言を認めた安岡正篤先生の書(曽川和翁所蔵)

 かつて筆者である私は、日本屈指の陽明学者であられた安岡正篤先生から、陽明学の祖・王陽明の著わした「一掴一掌血 一棒一條痕」の諌言を表した色紙を頂いたことがある。
 この教えは、「一杖打って、痣
(あざ)をつくる」という禅語に起因している。これは「真剣に修行を積み重ねる」という意味とも同語である。
 「一掴一掌血」は確かに禅語である。

 ところが「一棒一條痕」の対句は、禅録などには見当たらない。
 「一杖打って一条の痕
(あと)」は『碧巌録』の「七十八則」に見ることが出来る。
 更に『従容録』の「八十六則」には「一掴
(ひとうち)して、掌(てのひら)ぶんの血(あざ)」というのがある。これは一発びんたを喰らわして、その跡がつくほどと言う意味であろう。更には「棒々と殴り血を見る」とあるように、実際には警策(けいさく)などで血の出るくらい打ったのかも知れない。それくらいに激しい、捨身懸命なる修行の意味である。

 王陽明は「一掴一掌血 一棒一條痕」の諌言を用いて、弟子たちに「諸君達は、必ず聖人になると言う志を立てて、修行に励んでもらいたい」と言い、その譬
(たと)えとして普段の心構えを「一杖打って一条の痕が残り、一つのびんたを喰らわせて掌ぶんの痣をつくる」ほどにを、自らの心に充て、それくらいに切実であって始めて成就するものであると説いた。
 こうすることで、痣や痕になった言葉は、それで耳に留まり、一言一句を糧に出来ると説いている。

 もし切迫している時期に、これをぼんやりと見逃し聞き逃しをして、のんべんだらりと日を過ごせば、それはちょうど死肉を幾ら棒で打っても痛痒を感じないのと同じで、結局成就しないばかりか、自らの領域すら危うくする。
 陽明学は口舌の徒の学問でない。実践して真価を見る。

 そして陽明は次のように繋ぐ。
 「中途半端に専門用のの御託を並べ、それで学んだつもりでいても、そういう心に、痣や痕を残さない知識は小手先の技として直ぐに化けの皮が剥がれてしまう。陽明学は小手先を実践に応用するものでない。『まごころ』の発露をもって知行合一をならしめ、これが良知のなってこそ『心即理』が行えるのであって、暗記・暗唱して幾ら知っていても、役に立たず、知っていることは徒労に終わる。これは何とも惜しいことではないか」と、その非を戒めるのである。

 実践こそ総てである。陽明学は「知行合一」を旨とする。
 知識と言うものは、幾ら記憶しようとあがいてみても、益々記憶だけでは理解が届かなくなり、またもし、無闇に理解しようとすれば、「理解」だけが学問の目的になって、学問の本質から徐々に遠ざかって行くのである。

 このことを戒めて、陽明は更に言葉を繋ぐ。
 論語にある『川の流れは昼も夜も止むことがない』
(『論語』子罕篇)の語を用いて、「不断から良知の発揮に努めるべきである。発揮のために功夫(工夫であり実践の意)し、その功夫こそ活溌溌地(いきいき)となり、川の流れが澱(よど)まないように、その姿は生々流々として止むことがない。もし一瞬でも間断が生じれば、仁は為せないことになり、此処が学問の窮極であり、かつて聖人はただ斯くの如しであった」と言い、「身を殺してでも仁を成就させる」(『論語』衛霊公篇)と述べたのである。

 また次のようにも説いた。
 「世間の人の大半は、自らの生身の躰や命のみを大事しにて、今が死ぬべきであろうがなかろうが、あれこれと手を尽くし、肉体保全に躍起になる。何とかして保身や延命だけを図ろうとする。このため天の理は投げ捨てられ、残酷非道が罷
(まか)り通っても、見て見ぬ振りをしている。非道理ばかりが大手を振って我が物顔で大道を闊歩(かっぽ)している。

 しかし、もし天の理を違
(たが)えてしまったならば、人間は忽(たちま)ち禽獣の列に墜(お)ち、譬えこの世に百千年生き存えたとしても、それは百千年の禽獣が生きているに過ぎぬ。
 道を学ぶものは、この辺のところをどうしても掴み取らねばならない。
 そして何故、かの比干
ひかん/殷の紂王の諸父で、干の国に封じられ、また紂王の虐政を強諫したので怒りに触れ、紂王は、聖人の胸には七竅(しちきょう)があるといい、これを試すといって殺されその胸を割かれた)や竜逢りゅうほう/夏の暴君・桀王に仕え、のち斬り殺されたという)も暴君の紂王や桀王けつおう/夏かの最後の君主で履癸(りき)ともいう。殷の湯王に討たれ鳴条(山西省安邑県の北付近)に走って死んだという。暴君の典型として殷の紂王と併称さる)を諌めて、逆に『仁』を明白に成就していたから殺されたとだ」と言い、わが命より「仁」の重きを説いた。

 これに似た話は、聖人や賢人として名を馳せた人に多い。
 例えば、萇弘
ちょうこう/周王の大夫で萇叔とも。敬王もしくは霊王に仕え、また神異を致し、更に孔子に音楽を教授したという)は晋の謀略で体を引き裂かれ、呉子胥ごししょ/公子光に仕え、呉王僚や公子光に楚を攻めるよう進言したが入れられず下野して時を待つ)は自殺させられている。そして死体は揚子江に捨てられたという。
 比干や竜逢にあわせて、この四人を聖人と称するが、彼らは賢者であったが故に、その知が逆に仇
(あだ)となり死を免れなかったといわれる。

 また『伝習録』
(下巻55)には「叔孫(しゅくそん)た武叔(ぶしゅく)が孔子を謗(そし)った」ことを挙げ、「どうして大聖人が誹謗を免れないのですか」と、陽明に訊く話が出てくる。
 陽明曰く「誹謗は外から遣って来るもので、如何に聖人であろうとも免れない。誹謗や中傷に気を止めることなく、学問を成就させようと思うのなら、自らを修めることだけに全神経を注ぐべきである。外野意見に紛
(まご)うことなく、また乱されることなく、心の曇りや濁りを取り去って、聖賢たろうとすれば譬え他人が何と云おうと、関知することではあるまい。
 そういう外野意見は浮き雲が太陽を掩
(おお)うようなもので、それで一時的に隠されたからと言って太陽そのものは光を失う訳ではあるまい。
 逆に如何にも容貌や態度が恭
(うやうや)しく、また荘重にしていたところで、内実が堅固でなく、正直(せいちょく)さに欠けていれば、誰一人として言い立てるものはなく、そのうちその者の悪は露呈することになろう。
 ゆえに孟子は次のように言う。
 『完全なる自己を目指しているのに、毀
(そし)られることがあり、逆に思いもよらぬことで誉(ほ)められることがある』(『孟子』離婁上)と。
 これは身に覚えの無いことで、聖人は誹謗中傷されることの典型である。そもそも毀誉
(きよ)の判断が外にある限り、何れにしても免れないことである。問題なのは、そうした状況にあっても、如何に自己を修めて行くかである」

 陽明は若い学徒に、『聖人は誹謗中傷される』ことを通じて、世の中には非道理や理不尽が存在していることを諭した。そう言う理不尽に遭遇しても、誹謗中傷を恐れてはならないのである。
 この世は「ろくでもないところ」である。少しの隙や油断を突いて邪智の類が入り込んでくる。そして面白可笑しく揶揄
(やゆ)され、また誹謗中傷される。
 この世の「苦海」の所以はこうした側面にもある。
 しかし、苦海であるからこそ、命以上に大事なものを探し求め、何処までも求道
(ぐどう)しなければならない。また、自分が決意して歩きはじめた道は、最後まで歩き通さねばならないのである。

 人は「依
(よ)って以て死ぬ道」を見付けたとき、懦夫(だふ)でも勇者になる。
 文明は日々躍進する。止まるところを知らない。あたかもフラスコ内の水が湯になり、湯は沸騰をはじめ、更には蒸気を発して湯は溢れ出し、やがてフラスコは破裂する。急速に事態が進行する特異点
(シンギュラー・ポイント)を迎える。
 時代もこれと同じように、多種多様をもって拡散し、膨張する軌道の上を驀進
(ばくしん)している。時代は変わる。日々変わる。それに呼応して、人間まで変わりはじめた。

 人間の運命には至る所に特異点が待ち構えてる。
 この特異点は、ある起点を発端として幸運を齎すこともあるし、また突然の不幸を齎すこともある。人生には、青天の霹靂
(へきれき)と言う、思いもしない異変が起こることがある。突然どんでん返しが起こる。
 そして、人間は徐々に変わるものでなく、あたかも突然変異の如く、ある日突然に一気に変化してしまうものなのである。現象界の生きとし生けるものは、そう言う制約下の中で生きている。

 現代という時代も、また特異点に向かって突き進んでいる。一寸先は闇であり、これから先に何が起こるか把握できない。科学力では限界がある。
 時代は以前より悪化しているように見える。人生を半世紀以上生きた人なら、そういう異変や変質は容易に関知できよう。
 現代人は知識だけを詰め込まれ、知らねばならぬことは知っているが、それがどう言う意味か、実践することなければ、多くは口舌
(こうぜつ)の徒に成り下がってしまう。
 ところが、知識の詰め教育下の現実がどうであろうか。
 知っているだけで、それについて、何も感じないばかりか、無機質的な人間に変質しているようである。所詮
(しょせん)知識の詰め込みに過ぎなかった。

 このことは、霊的世界の存在を一笑に付す御仁も、現代人は変質しているのでは?……という異常性は認める筈である。現代文明の中で、この文明が、やがて暗礁に乗り上げ、座礁して立ち往生するのではないかと感じている人も少なくないであろう。
 しかしそれを感じ取っても、何処をどうすればよいのか、何処から改善するため着手すればよいのか、分らないでいる。
 いま何をするべきかが分らないでいる。ただ合理主義の一歯車として、組織の枠に組み込まれ、その中に埋没して行こうとしている。

 やがて、この文明が暗礁に乗り上げ、座礁するのではないかと危惧しながらも、しかし一方で、生命を、生や死を、こうした有機的なる繋がりを持った媒体を「物」としていじくることを、文明の進歩……、科学の進歩……と思い込んでいる傲慢
(ごうまん)は、決して放置できないだろう。
 遺伝子組替えや臓器移植や、その他の科学課題であり得る今後のクローン人間の造物など、これらはどう考えても、人間の傲慢以外の何ものでもない。

 それにしても、人間が神の領域を侵しはじめたことは確かである。
 造物主の領域まで侵して、神に迫ったとの思い上がりは、まさに現代人こそ、虎の威を借る狐で、科学至上主義の侵入を此処まで許してしまったのである。
 果たして、人間が神の領域まで侵しはじめたことについて、宗教に携わる人達は、何故忍従し、沈黙しているのだろうか。
 そして、豊かさ便利さや快適さのみを追い求める物質文明主導型の社会に、これから先の人間が歩こうとする軌道には、一体どういう未来が待ち構えているのだろうか。




陽明学入門  完



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