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武門の妻 前篇 4

現代の言葉遣いの「奇妙」の一つに“こだわり”とは“こだわる”という流行語がある。少なくとも、二十年前には全く一般には流布されていない言葉であった。
 この奇妙な「拘泥
(こうでい)」を顕す現代流行用語が、近年は“いい意味”で盛んに遣われるようになった。

 こだわるとは、「些細
(ささい)なことに囚われる」とか「拘泥する」という意味である。
 更に、いい方に解釈して「思い入れる」あるいは「些細な箇所にも気を配る」などの意味にも用いられる。

 しかし、本意は拘泥であり、「些細な箇所に触る」あるいは「引っ掛かる」また「執着する」などの意味を持ち、この流行語自体を全体的に眺めれば、決していい意味では表現出来ない。もともと日本語の言葉の有機性から考えて、何処かに「卑しさ」が隠れている。

 この「卑し」を追求すれば、“こだわる”の背景に「難癖をつける」ところまで顛落
(てんらく)してしまうのである。

 では、難癖をつけは方は、どういう行動や言動を示すのか。
 まず、行動としては、小さい事に執着して融通がきかない態度を示す。そして形に固執し、あたかも“重箱の隅を楊枝でほじくる”ような細事に干渉し、穿鑿
(せんさく)し、隅から隅までほじくって、更にほじくってという、追求とは程遠い調べ立てなどの行動に及ぶことである。

 つまり、一種の停滞であり、結局「囚われる」と同じようなことを仕出かすのである。
 こうした場合、結果はあまりいいような結末に至らないようだ。
 それは「定着」とは、一ヵ所に留まり動かずに澱
(よど)むという結果までを齎すからである。
 本来ならば「澱み」は流れないからであり、停滞は「腐敗」の意味すら持つからである。

 しかし一方で、こうした頑迷に対して、角度を変えれば……、と思うことすらある。見方を変えれば、違った面が映るであろうに……と、頭の回転の早い人はそう思うだろう。

 要は、「流れるままに」である。
 こだわらずに流れるままに……でいい。しかし流れるままには、何も無為無策と言うことでない。また、だらだらと流れて行くことでもない。
 ありのまま、雲の如く、水の如く流れて行けばいい。
 言うなれば、意識しない自然体ということである。


●体系無意味論

 若い時は、学ぶことも断片的である。それゆえ体系的なものを欲しがる。
 しかし体系を辿り、それを貴重視したからといって、隠れた部分は見えない。
 そこで断片的学習を嫌う傾向に趨
(はし)るが、これが誤りの許であった。
 体系的思考は、確かに肉の眼で繋がり状態を確認できる。ところが深層部の眼に隠れた部分は説き明かせない。

 隠れた部分は、若い頃の学んだ断片的な学習が、老いて再び学んで、断片が繋がるもので、そこには有機的生命体の大きな輪の中に、断片が幾らでも片鱗していることであった。小さな片端となって点在しているのであった。
 それが老いて学べば、不思議にも繋がってくるのである。有機的な繋がりであったことが分る。
 あたかも、「藕糸
(ぐうし)の絶えざる如し」であった。

 だが、若い時は藕糸の繋がりが見えない。
 比喩的に言えば、蓮華
(はす)の糸筋は隠れていて、それが地下の茎まで繋がり、脈々としていることに気付かないのである。単に断片で捉えて、有機体的結合を、安易に表面だけで科学的体系と見誤ってしまうのである。
 往々にして、「若い」とは、若気に至りだけでなく、有機的結合すら見逃して西洋崇拝思考に陥り易い年代であった。
 若いと言うことは、論理上の体系主義に陥ることでもあった。そして、二言目には“科学的”を連発してしまうのである。

 更に愚なることは、過去の世界の文献などを評価するに当り、二十世紀生まれの者の多くは、やたらと科学的体系を重んじ、体系があれば褒
(ほ)めたたえ、無ければ非科学的と一蹴するものである。
 体系が無く、そうと思えぬものは、低く看做
(みな)し、あるいは迷信と看做し、指弾する暴力的傾向にあった。

 あたかも「平和・平和・平和……」と連発するようなシュプレヒコールを挙げて、何でも平和を振り回す愚行に似ていた。ワンパターンの思い込み的かつ短絡的愚行である。
 そして、これが西洋崇拝の貧弱な発想であることが長らく気付かなかった。
 この世と言う現象界には、科学的体系をもってしても収まりきれない事象が起こっているのである。肉の眼には映らない、心象化の働きがあるのである。

 それは男女間にもあり、また夫婦間にもある。
 眼に見えない繋がりが、確かに存在し、伝達方法は以心伝心であった。心と心が伝えたものである。
 心には、心法をもって伝搬する何かが働いている。心を鍛練すれば、響くものを感じる能力を得れる。そういう有機的解析が成り立つ。
 だが、そこまで解析する時間を、現代は喪失させてしまったとも言える。
 斯くして夢や希望は、固定化され、確定化された社会状況下では次第に萎
(しぼ)んで行き、やがては消滅する運命にある。



●心に強く描いたものは現実化する

 無から有を生むものに、心象化現象なるものがある。
 これは心に強く念ずることにより、現実化する現象である。
 そしてこの現象は、一心に自分の描いた夢や理想を、心の映像に鮮明に焼き付け、明確に念じ続けなければならない。
 雨だれも岩を通す一点の威力で、繰り返し穿
(うが)つのである。

 私の心の念じた心象化現象は狙いは、第一段階として道場という「函物」を造ることであった。あたかも有徳の士が寺院を建立するようにである。宗徒や門徒を集めて拝殿し、礼拝するような修行の場である。

 だが、私の最終段階は、道場と言う函物を用意して、そこに人を集め、職業武道家を目指したものでなかった。
 私の描いた理想郷は、単に飯を喰うための道場と言う函物ではなかった。そういうものは理想郷に近付くための露払い的なもので、最終段階はそれ以外の、それ以上の設定があったのである。

 自らを顧みた場合、先ず資産家の子弟に生まれた訳でない。一介の貧乏人の小倅だった。無い袖は触れず、資産家の子でもないから、親の七光りなど、勿論無い。何も無い。無一文である。
 そして父が、私は中学三年の夏休みの八月下旬に死んだ。
 忘れもしない、蝉がしきりに鳴きしきる蝉時雨の中である。夏の終わりに、父の死があった。

 当時、父は八幡製鉄の底辺の職工であったが、退職前に僅か五十歳でこの世を去った。したがって、残したものは殆ど何もなかった。死亡保険の額も高がしてているものだった。数万円程度の少額で、残された遺族はそれで葬式を挙げればよしとした程度である。

 僅かな退職金が、母の手許に残っただけであった。
 父は軍隊生活が長かった所為で、五十歳に達しても金属25年程度で、他の同年代の同僚に比べれば、約5年ほど短かった。同僚の多くは金属30年を超えた人ばかりで、父の場合は、勤続年数に遅れをとっていた。四十歳前後になって材料課の資材係の掛長の最下位の役職にありついた程度である。
 私は父の三十代半ばくらいの子であった。上には三歳上の兄が居たが、生後一年くらいで死亡している。結局、男で生き残ったのは、私一人であった。

 岩崎家の男どもは、悉
(ことごと)く死に絶えてしまう、そういう血の因縁に纏(まつわ)る家に私は生まれて来たのである。
 同時の金で退職金は200万円ほどだったと記憶している。昭和30年代半ばのことである。この当時、従姉が小学校の教諭をしていたから、その時の月給が1万2、3千円ほどだと記憶している。そして、八幡製鉄の職工だった父の給料は3万円前後だったと記憶している。
 退職を迎えずに父が死んだ。

 200万円という退職金は決して多い金でない。直ぐに食い潰してしまう金であった。
 そこで私自身が働いて、自力で上級学校へと進まなければならなかった。
 高校も大学も、自前で出た。自分で稼いで出た。また確たる自前主義が確立していれば、何も親の脛を齧らなくても、自力で大学くらいは出れるのである。
 以前、「家が貧しいから……」などと言って、自分の学歴の無さを嘆く話を聴いたことがあるが、こう言う話は総て大学へ行く才能の無い者が言い訳をする言い訳だった。

 この時代、学業の他に朝も晩も働いた。高校一年のとき、新聞配達と牛乳配達を同時にしたことがある。同じルートを配れば、片方だけと言うように無駄にはならない。そこで、「同時配達」ということを思い付いたのである。
 それから二年に入ると、魚料理屋で板前見習いのようなことを遣っていた。この店で親方から魚の捌き方を厳しく教わった。料理の何たるかを習った。御陰で工夫次第で残飯でも巧くいかす方法を知った。

 更に、学業の他であるが、中学に入った一年次から、西郷派の武術を本格的に始めたから、これまでの飛び飛びの、お遊び程度の行儀見習いの武術練習とは異なり、本格的な修行としての猛稽古をこの時から始めたものである。
 学業をこなし、朝晩働き、そして武術修行をする。このペースで、大学を卒業しても、また大学卒業後、一時期、高校教員になるが、そこを止めるまでこう言うペースで修行した。
 この間、18歳で道場を開いていたから、そこの面倒も見ながら、第一段階の函物の建立のために奔走したのである。

 その奔走の背景には、一つの夢があった。
 道場に参集した者のために、道場事業部を起こし、そこで道場生が昼間、仕事をし、朝と晩に稽古をするという職場提供の夢であった。
 これが後に、大学時代から遣っていた刀屋を始め、家庭教師を発展させた学習塾
(学校授業の補習塾)・進学塾(受験対象塾)・予備校(現役と浪人の進学指導)へと変化して行く道場事業部の発想であった。

 そして最終的には、大学予備校を造り、予備校教師を道場生で賄
(まかな)うという発想でこれを始めたのであるが、現実は小中高生に学業を指導できるような道場生が入門して来なかったことである。また経営すら出来る能力を持った者は居なかった。大半は、八幡製鉄の職工や市役所の下級官吏であり、タイムカードを押して時間通りに現場に居さえすればそれで毎月が保証されるという連中であった。

 また、そういう指導できる学力を持った学生や社会人が居なかったことである。
 この現実のギャップは大きく、これを辛うじて模倣できたのは、昭和46年頃、入門した朝日新聞社出身の進龍一くらいなものである。
 彼は千葉県習志野に、わが流の斬り込み隊長として乗り込んだとき、私の指示に遵って学習塾並びに進学塾を展開し、ここで平成一桁年代頃まで頑張っていたが、当時は乱塾時代と言われ、塾間同志の競争に巻き込まれ、借金も雪達磨式の膨らんでいたようである。

 そして、私も北九州で予備校競争の四つ巴の激戦の中で、平成二年に経営していた予備校が倒産したのである。その後、習志野に家内とともに緊急避難し、ここで浪人時代を過ごしたのである。

 私が平成二年九月に習志野に批難し、家内が債務処理のために平成三年二月まで北九州に居残って、その処理をやっていたが、一段落着いた頃に習志野に呼び寄せたのである。
 家内の債務処理の御陰て、平成元年に総工費と内部設備を含めて1億2千万円で建設した尚道館のみは辛うじて残ったのである。他の財産は悉
(ことごと)く失ったが、尚道館ビルだけが残ったのは、家内の経理を知る債務処理の御陰であった。

 その後、債権者からの民事裁判に引っ張り出されるが、このときの経理の処理の御陰で、裁判を進めることが出来、訴訟も弁護士無しで私一人で闘うことが出来たのである。
 もし、家内の経理の見立てが間違っていたら、今頃、私は“家なき子”同然の、家を追われた年寄りになっていたことであろう。

 平成10年代に入ると、ほぼ総ての借金は処理を終わらせていた。億単位の借金もこの頃、ゼロになっていた。しかし、これで波瀾万丈の旅は終わったのでない。何とか函物確保だけは出来たと言う状態で、第一段階が何とか達成したと言う程度だった。
 私の構想は、第一段階は単なる露払いで、その後、第二段階、第三段階と展開して行くのが理想郷への道であった。
 私の目指した理想郷は『西郷派大東流馬術構想』の達成である。『ホースセラピー』である。

 それは馬を中心に据えて、馬と子供、馬と老人、子供と老人というように三者を合体させる特異な構想だった。若い頃から練りに練ったプランであり、また近未来のビジョンだった。この将来展望の実現のために、私は死ぬ運命を奮い立たせ、執念深く生きてきた。したたかに生きてきた。

 かつて武家にとって、馬術は「弓矢の家」と称する以前に、同等、もしくはそれ以上に武門の嗜
(たしな)みであった。
 馬を知らずに、「武士」としての職能集団の真価は認められないものであった。馬こそ、武門にとって、自らの全人格を表面に打ち立てて、士道を表現するものはなかった。
 正確には『士道』と『武士道』は、少しばかり違う。

 士道は永安末期以来の武士の嗜みであり、また武士道は江戸中期に起こった山本常朝
(やまもと‐つねとも)の『葉隠論語』を題材にしたものである。
 ゆえに、士道はまず“弓矢の術の大事”を説くのである。そして、弓矢の術は、人馬一体が可能でなければ、職能民としての武士は存在しないことになる。

 また、武家にとって、馬は、単なる道具ではなかった。
 それは馬自身に感情があり、個性があったからだ。
 こうした、人間と性
(さが)を同じくする馬は、信頼関係を保てば、これを裏切ることなく、最後まで義理堅く履行(りこう)し、信頼関係を実行するのが、「馬」という生き物であった。

 こうした信頼関係によって、「人馬一体」という言葉すら生まれた。
 馬との信頼関係において、人間が馬に託す気持ちを応えるのは、人間以上だとも言われている。馬は、慈しみを与えれば、それほど忠義な生き物なのである。
 馬は、決して知能の高い動物ではないといわれる。理解力も低いと、有識者からは酷評されている。
 しかし、これは大きな見当違いである。馬は高い学習能力を持っている。

 馬を酷評する有識者の多くは、馬を知らず、「表皮」だけで、馬の外見だけを見て、評価し、その評価を権威筋の論理としようとしているのである。全く愚かなことであり、現場を知らない酷評は歴史上にも大きな汚点があり、差し詰め、有識者が権威で物を言う、その言は「机上の空論」でしかない。この空論により、これまで人類が如何に多くの苦汁を嘗
(な)めて来たことか。

 さて、「馬」は非常の穏やかな動物である。馬の性質と性格は、攻撃的な動物より、非常に謙虚であり、また、草食動物特有の穏やかさは、他の動物に比べて類がない。
 馬の本能は五感に優れていて、特に聴覚に対しては、非常に敏感で、学習する反復の記憶力には優れ、一度学習したことは殆ど忘れない動物である。
 人間を洞察することについても、その記憶力は抜群で、自分を可愛がってくれる人に対しては、従順に、どこまでも随
(したが)う動物なのである。

 こうした馬の純粋な性格と、従順な性格を利用して、アメリカでは、更正施設に馬を置き、青少年育成・更正の為に馬の性質を利用して、人間本来の姿を取り戻す作業にかかわり、大きな効果を上げている。
 現代は、物質文明の真っ只中にあり、高速回転をする現代の科学万能主義は、まるで遠心分離機の中から弾き出される、性格粗暴者や犯罪保菌者を多く製造している。彼等は、めまぐるしい時代の高速回転についていけない人達である。

 だが、こうした人達も、もとは穏やかな人間であり、世の中が、こう気忙しくなければ、平穏に人生を送れた人達である。心にも穏やかな感受性を十分に持っていて、人情の機微を理解する人達である。

 ところが、加速度的に高速回転
(コンピュータの進化がこれと相似する)を続ける「現世」という現代は、こうした人達を、安易に精神異常者として、世の中の「爪弾き」にしてしまった。人材の損失である。
 これこそ、人的資源の無駄遣いであり、人間が等しく、同じ心を共有しているのであれば、これは同胞を、闇の彼方に追放する愚行に他ならないと思料するのである。

 アメリカでは、犯罪者や性格粗暴者を社会に復帰させ、更正させるために、こうした彼等に馬との接触を試み、かつ「馬の世話」をさせ、馬を世話することにより、これまで狂っていた日常が、馬によって、心理的に回復・更正するという論理を見つけ出し、一度は狂った心情も、馬を世話することで立ち直る青少年が増えていることを報告している。この発想を素晴らしいと思う。

 だが残念ながら、日本にはこうした、青少年を「馬を通じて更正させる施設」がなく、また、多くの有識者は、馬により、馬同様に、人間が従順になるという現実を、未
(いま)だかって認めていない。都会に住む現代人は、馬をあまりにも知らな過ぎた。
 それを実現出来ないか、模索していたのである。青少年の更生施設を、である。
 私は心象化の中に常に『ホースセラピー』を描き続けて来た。



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