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武門の妻 前篇 3

今日の医療は、若者の利益を前倒しにして食い潰し、老人が故障箇所を修理しつつの状態で、長生き出来るような社会構造になっている。

 年金暮らしの老人
(この中には充分な年金の受給を受けていない人もいるし、困窮のために年金支払いが出来なかった人が居るが、そういう人は除外して)は、老後の生活に金を溜め込むばかりでなく、未来のために、自分から進んで若者のために“肥やし”になって死んで行くという人生の選択もあっていいと思うのである。
 自然界では、当り前の摂理である。未来に向けて、老人は散財すべきだ。後進者に譲るべきである。

 ちなみに私は、平成16年以降、漢方薬に保険が適用されなくなったので、もう病院には行かないことにしている。
 私の支払った健康保険は、「皆さんで、どうぞお遣い下さい」という主義である。保険料は払うが、医療機関の世話にはならないのである。

 釈尊は、こう言っているではないか。
 「自灯明」と。
 実に短い言葉だが、意味が深い。
 つまり釈尊は、「他に点
(とも)る灯明を頼りにするな。自分自身を灯明にせよ」と説く。
 これは自分自身を徹底的に掘り下げよと言っているのである。
 他を頼りにする前に、自分を掘り下げ、自身を探求せよと言っているのである。自分を一度そこまで追い込んで探求してみなければならない。


●盛年は重ねて来らず

 人間は老いる生き物である。
 青春を謳歌
(おうか)できる時間は短い。
 そして光陰矢の如しであり、気付けば人生の終章に入っている。
 そのうえ此処までの年齢に達してしまうと、昔のことは今更
(いまさら)思い返されて残念がっても、もう取り返す術(すべ)はないのである。
 人の一生など、長いようで実に短いのである。

 肉愛にしても情愛にしても、愛欲だけが絡む愛は、いったん愛に捉えられると、その時機
(とき)から、相手が見えなくなる。そして喉が渇くように渇愛状態が起こる。そこに懊悩(おくのう)が始まる。
 迷妄の愛に苦しむ人は、他人の眼から検
(み)れば、あたかも山道で狐狸(こり)の類に騙され、提灯(ちょうちん)を下げて同じ処をぐるぐる廻って堂々巡りしているように映る。
 他人の眼には実に滑稽でバカバカしいと映る現象でも、当の本人は、それから逃れることが出来ないのである。

 私は、こういう渇愛現象に嵌まった滑稽なる男女をこれまでも何度も見たし、また現に、そう言う畸形なる狐狸の類に引き寄せられて未だに眼を醒まさぬ、そういう男女を度々見る。
 更に不思議なことは、ちっとも不思議でないことを、一生懸命に不思議がり、滑稽なことを滑稽でないように歪
(ゆが)めて心に映している、この不思議である。

 渇愛……。
 あたかも炎天下の砂漠の真ん中に置き去りにされて、異常に喉の渇きを憶えるような貪る愛である。
 灼熱の太陽の下の筆舌に尽くし難い猛暑にあっては、思考力が低下する。考える閑を与えない。
 この現象に嵌まったとき、人は悲劇に見舞われる。

 喉に渇きを憶えて、水を欲しがる凡夫の悲しい欲が愛着に奔走させるのである。
 愛執、妄執が断ち切れない現代の自由恋愛の裏には、こうした渇き似た落し穴が、至る所にしかけられているのである。そして、墜ちて恨めば恨むほど、見返してやろうと思えば思うほど、また愛を取り戻そうとすればするほど、その苦痛は鮮やかに疵口
(きずぐち)を広げるばかりである。

 光陰矢の如し……。
 時は人を急速に衰えさせて行く。気付けば、悧口
(りこう)でも何でもなくなっている。
 それは如何なる人間にも二面性があるからである。見掛けと中身に違いがあるからである。
 例えば、優しさの裏には、それと同じ分だけのエゴイズムが隠れている。

 最初のうちは、エゴイズムを優しさの機微と捉えて、我慢も出来るが、年月の流れは、最早それらに何の魅力も感じさせないようになっている。嘆いたり、振り回されたり、絶望したり歓喜したりなどの喜怒哀楽は、いつしか遠くに過ぎ去り、何の魅力も輝きも失っているのである。もう、酔うことすら出来なくなっているのである。

 こういうものは、年相応に枯れていればいいが、中途半端な生乾きのような枯れ方をしているのは、何とも畸形
(きけい)であり、異常でもある。

 私は十代後半の頃から二十代始めに懸けて、人間が傲慢
(ごうまん)になり「のぼせあがる」ことの愚を戒められたことがある。現象界を観察して、真相を見抜く冷徹さを促されたことがある。真実を見抜けと言われたことがある。

 真実は確かにある。
 しかし、真実と同等分のウソがある。更に厄介なことは複雑化しているために、真実がウソの中に紛れ込んだ現象である。そういうウソは、真実然としたうそであるから、凡眼の眼には容易に見抜けない。肉の眼に頼れば、ウソも真実になり、真実もウソになる。凡眼には、どっちもどっちに映る。

 ウソの中には想像もできない、信じられないウソがある。
 特に、多忙を自称する情報社会にあっては、情報は何処かで確かに操作されているからである。操作された情報は、真実混じりのウソであるから、解析が困難になる。
 そういう時代に現代人は生きていて、検
(み)るところは見掛け上のことだけである。
 表皮だけを視る。中身は問題にしない。今の表皮だけを問題にする。
 この問題視する現状分析を殆
(あや)ういと言われたことがある。
 斯
(か)くして、人物鑑定眼の大事を教えてもらった。

 それは女性観に於いてであった。見方を間違えば、生涯を棒に振る、何処にもありがちな、気付くようで気付かない盲点である。視る眼があるのと無いのでは、将来に雲泥の差の開きを生ずる。そのために検
(み)る目が要(い)る。験(ため)す目が要る。
 つまり、人物鑑定の眼である。この眼は肉の目でない。心の眼である。心で感得する「鑑
(み)る」という味わいの眼である。

 心の眼で視ると、映り方は一変する。
 それには、色・形・声・締まりなどであり、これが脳の反映だと教えられたことがある。脳が反映されて、現状を作り出しているという「色」の世界のことである。
 それは、かの房中術を彷彿とさせるものであった。
 教えによると、足頸
(あしくび)が締まり、足の形が奇麗で、腰が締まって、声が玉鈴(ぎょくりん)を転がすように美しく、口が相似に近く左右対称であれば……というような条件を、である。既に付随している「智」のことも、である。

 この「智」は知識のことでなく、知性の智である。智慧の智である。
 智慧は物事を理解するだけに留まらず、深層の是非を弁別する心の作用までに及ぶ。
 古来より、智者とか智将というレベルに達した人は、見掛け上の表皮を貫いて、相手の心まで感得するに至った。

 そして、よく聴かされたことは、一般の俗世間では、顔の作りや化粧に誤魔化
(ごまか)されて、駄馬がしたたかに、駿馬に化けていることがある。差し詰め、夜の巷(ちまた)に出現する夜のチョウチョどもはその最たるもの。駄馬が化けている。
 その駄馬の女に乗ると、どうなるか。

 それは人生の坂道を転がり落ちる羽目となるのだ。これまでのツキを根刮ぎ持って行ってしまう。啖
(く)われる。化けた駄馬とは、そうしたものだ。
 夫婦間の不和、夫婦間の倦怠
(けんたい)や、夫が人生の現実逃避主義に陥ってしまうのは、駄馬に乗っているためである。駄馬の禁は侵すべきでない。
 理趣経的房中術は、この点を力説する。女の注視すべき箇所は、貌
(かお)と性器だけではないのだ。全身のトータルバランスが問題なのである。人間は天と地の間の「人間(じんかん)」という訳だ。

 「ジンカン」の所以は、天と地の間にあって、地から大地の気を吸い上げ、その気を頭上の泥丸によって天の気と結びつけている。地の気は重く、天の気は軽い。その両方を結びつけているのが人間である。
 「ジンカン」の呼称は、それを雄弁に物語っている。そして此処には陰と陽が支配し、静と動があり、無と有がある。この現象界で生きるのが人間であり、これによって天・地・人を為す。そして、人間の姿そのものが、「有」の範囲を映し出していることは言うまでもない。

 同じように、それは色と形にも顕われる。
 「声を聴け」というのだ。俗に云う、声の色である。
 「玉
(ぎょく)が転がるような、涼やかな声でなければならない」という。
 風鈴のような涼やかさであり、清々しさだ。声の良し悪しを問うのである。その声が、自惚れた声であってはならない。声の端々に、“けん”があってはならない。濁ってはならない。澱
(よど)んではならない。

 そもそも現象界は大自然の転写が行われている世界だから、自然界で行われている現象は人間にも転写される。その複写を模倣したものが人間であり、人間は大自然の一員に過ぎない。
 自然界の枠
(わく)から食み出して人間だけが孤立し独自の世界を生きている訳でない。総ては同根から発している。
 真理は、自然界で起こっている現象は人間にも転写され複写されるということである。したがって、オスがメスから啖
(く)われることもある。

 この女は声が悪かった。音色が濁って割れていた。濁りに問題があるのである。そういうものに接近すると運を失う。
 その時、確かに私の運勢が著しく衰退し、運が落ちていくような状態に陥ったことがある。これから抜け出すのに、相当な努力を払い、挽回するのに約二ヵ年の歳月がかかった。駄馬は陽気の発し方に歪
(ひずみ)がある。その歪みで、側近者も歪むのである。

 それで、私は理趣経的房中術の基本を、最も大事にすることを学んだ。それは中心部から発する「陽気の見定め」である。人は誰でも気を発している。しかし、「陽気」を発する人は、非常に少ない。多くは、陰圧線の高い「陰気」を発しているのだ。

 足頸と腰が締まり、玉鈴の転がるような声をした女は運を持つ。駿馬の条件に入るが、これらの女性の多くは、最初の男に一途 で、浮気をすることが少ないため、このような女性と後に知り合っても、誰かの嫁になっているか、人の持ち物になっていたりして、後の祭りになっている場合が多い。

 とにかく浮気や、転ぶ要素を持たないのである。そのために十代の頃からの早期発掘が大切である。房中術の起こりは、『帝王学』から見た側面もあるようだ。
 何故なら帝王学には血筋を重んじる血統の流れを問題視しているからである。そこに「一子相伝」という、独特の後世継承のバトンタッチの法があるからである。

 駿馬は親からの遺伝ではなく、天が偶然に与えた天性のようなものである。
 醜貌
(しゅうぼう)の夫婦から、駿馬が生まれることもある。それも歳を取った夫婦からである。それらは古典等の物語に、よく書かれている。これは因縁であろうが、また必然であろう。縁あって何か奇異なるものがこの世には出現する。意味を持つ「潜在」と言うものであろうか。

 かつて、物事の実体を見誤るなと忠告された。
 あたかも、山道で狐狸
(こり)の類に騙され、提灯(ちょうちん)を下げて同じ処をぐるぐる廻って堂々巡りする愚を戒められた。
 そして人の貌
(かお)である。
 特に女の貌は、その貌に、女自身の人生の歴史を語ったりはしない。女の貌の語るものは、その人の感受性である。教養や個性のみである。それは実際には貌そのものでなく、化粧を含めた貌に表し得るものを語らせようとするだけである。

 また、装いなども、そこに現れるのは女が持っている一つの有力な表現方法であるが、装い終わった女は、あたかも芸術家が作品の出来栄の最終チェックをするように、最後にもう一度、鏡に自分の姿を映すのは、単に自分の貌と姿を確認するだけでなく、一種の「呪を掛けるようなものだ」と聴いたことがある。

 つまり、自分の貌を映す鏡の威力を知っていることである。
 威力を知る女は、鏡の中で自分の貌に向かって、肌は白蝋の如く、腰は柳のよれるようにたおやかで、手腕は細く、かつ眉目秀麗というように呪を掛ける。鏡に向かって掛ける、男を惑わす媚術
(びじゅつ)である。

 有史以来、人類の歴史の中で鏡に纏
(まつわ)る話は多い。
 特に女は感受性が強いために鏡の実際に、男以上に早くから気付いていた。呪の掛け方の秘訣まで、高位の女性は知っていた。そして作品の出来栄の最終チェックをするように、最後にもう一度、鏡に自分の姿を映すとき、その鏡の中にいる自分に視線を向けて、呪を掛ける。
 視線には威力があるからだ。

 「仁」を心得る者は、視線に力があることを知っていた。
 したがって、礼を知る者の多くは、相手に対して相手の貌を直視することは非礼であることを禁じているのである。
 俗に云う「ガンをつけた」というやつである。
 礼を知る者ほど、「ガンをつけた」ことを嫌う。
 視線は、礼的に言えば非礼を問われるレベルまで達するのである。

 また、魅入られる場合も、視線を投げられてそれに取り込まれる現象である。
 視線は実際には、皮肉にも心に粘り着くものである。次に意識を侵
(お)し、誘い、魅せ、引き寄せようとする働きを持つ。これに無関心派の男どもは魅せられ引き寄せられ、非礼の禁の晒(さら)し者になる。何故なら視線には、人の気持ちを魅入るほどの威力があり、また好奇心をそそり煽るものである。

 避ける術を知らなければ、礼儀知らずの男は、駄馬の化けたものからも魅入られてしまうのである。
 非礼の禁は、避けるべきであり、防ぐ方法として、想念を集中させて、まず自分の感想が四分五裂するのを抑止することである。抑止できなければ、隙間に風は吹き込んできるように生け捕られることになる。鏡の術を知る女の貌の妙である。媚だけでなく、視線だけでも射竦められるのである。一瞬射竦められて動けなくなる。
 警戒せよと教わった。惑わされるなと戒められた。

 これらを知り尽くし、超越した次元に何かがある。
 装いも、表面を着飾るのと内面まで装っているのとは違うようだ。
 本当の美しさは表皮にあるのではない。目立たせるのは型でなく、動きである。また肌を繕う“化け”の化粧でもない。身のこなしと、機敏さと、水走りである。
 特に水走りは大きな意味を持つ。
 水走りの流れが大事なのである。動きの中にそれが流れていなければならない。
 此処にまで、化けても呪は及ばない方である。そこに狐狸の類の正体が顕われる。

 そして水走りは、物を交わずしたり、障害物を躱
(かわ)し、難事でも最小限に留めるという心の働きまで伴う。肩から腕に掛けて、腕から手首に掛けて、その動きのたおやかさは、内面の顕われであるから実に心が強く、強風にも屈しない竹の柔らかい撓(しな)りを持つ。弾力がある。逆らわずに抜けることを知る。

 その心の反映こそ、また人の芯
(しん)であろう。
 あらゆる境遇の順応力と対応力である。
 この力を発揮するのは順風満帆時には視られず、難事を克服しなければならない時に顕われる。波瀾の中に顕われる。
 陽明学で事上磨錬を説くのはこのためである。

 芯のある人間は、特に女は芯が肝心であり、苦難との闘いにおいて、撃ちて然も止まぬときであり、特にドン底に一旦墜ち、そこから這
(は)い上がる気概は、女自身に芯が無ければならぬ。

 私は、裕福な生活から一夜にしてドン底に墜ち、本来の女性特有の芯を発揮して見事に再興まで導いた、凄まじい女の生き態
(ざま)を演じてみせた人を知っている。
 私の場合は、祖母がそう言う人でなかったかと、今でも思い返されるのである。内助の功は、女性特有の男にはない勲章であるからだ。
 祖母は、私の眼から見て、眼に見えない誇らし気な勲章を着けた人であった。先駆けて武門の妻を演じてみせた人であった。



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