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武門の妻 前篇 2

俗な言い方だが、人間は経験や体験によって、人間の幅が出てくると言われる。
 確かにその通りだが、それは何も難しいことではない。経験することや体験することは、日常の中に幾らでも転がっているからである。その転がっていることを見聞し、それを敏感に感じればいいことである。

 見聞し、かつ感じる……。
 私の場合は、人間の出来具合が元来俗人に出来ているから、少なからず幅を作るためには些かの時間を要した。
 そもそも出来具合が宜しくない。一介の底辺の凡夫に過ぎない。しかし、凡夫は凡夫なりに努力した。

 往時の人々は日々の格闘の中で、凡夫の感情に苛まされ、その中でもがいた。他人との諍
(いさか)いや憎しみや、憤懣(ふんまん)やる方ない理不尽を通して、その誹謗中傷に耐えながら、この経験や体験を通じて、やっと人間の憐れみと人情の機微を知り、時間とともに甘受して行く心の余裕を育てた。

 出来るだけ簡素化し、単純化し、無駄なものは整理して処分し、明確なる人間理解に努めて来たのである。

 人生は、また人間を知ることであった。人間を知らずに、人生などわかろう筈がない。人間を知らずして、どうして人間への理解を深めることが出来よう。
 しかし、現代の世は物質的安定を追う世の中で、時代は単に相対的安定のみを追い求めている。その追求に個人主義の時代は、自己中に陥る要素が転がっていた。国民の感情や世界動向も、大半は感情に突き動かされ、然も相対的安定の追求のみである。変化とともに崩れるもので、永遠のものは等閑
(なおざり)にされている。一見進化したようで、実は精神的には退化の一途にあるようだ。


●閑ありて礼節を知る

 『管子』(牧民)には「倉廩(そうりん)(み)ちて則(すなわ)ち礼節を知り、衣食足りて則ち栄辱(えいじょく)を知る」というのがある。
 これによると、民は、大衆は、日々食べるものがあり、着る物があって、ある程度の生活がなり立つ状態が確保されて初めて、道徳心が高まり、礼儀を知るようになるというのである。
 あるいは「衣食足りて栄辱を知る」という。

 現代は少なくとも衣食は足りている。
 ところが、今の世は物に偏った指向が旺盛だから、衣食が足りても道徳心は一向に高まらず、礼儀を知る人も少ない。何故だろう?……。

 世の中は多忙である。忙しく働き続けなければならない。
 多忙を極める時代、時代は益々異常の中に突き進んでいる。そして誰かが、何かをしてくれるという横着なまでの甘え。依頼心旺盛である。

 この依頼心の背景に、細分化され専門化されて行く多忙の縮図が現代社会の至るところに出現する。そして物質的には、豊かで便利で快適でなければならない。
 だが、盲点も多い。
 便利過ぎる反作用は必ず起こり、その相当分が何処かで皺
(しわ)寄せ現象を生じる。電化製品に囲まれた豊かさの反動は電力消費の増大となって現れ、原発事故などはこの顕著な現れであろう。

 また快適過ぎる反動は、全体支配と言う名でその支配下では階級化されて金や物の奴隷にされるだろう。多忙が招いた元凶である。
 多忙を装っている状態にあっては、自転車操業的ではあるが、ペタルはこき続けている限り顛倒することは無い。少なからず「中の上意識」が保てる。そのために多忙を装う。忙しくしていれば、見た目には働いて言えるように映る。

 人事考課の判定を目論んで、ただ単に忙しく働けばいいことである。そう思い込んでしまった時代である。そう思い込むことによって、働き口を確保できると踏んだのである。斯くして多忙は現代社会のポーズとなった。

 また仕事があれば、少なくとも「中の上」の階級は確保できる。そのように思い込んだ。
 豊かさと便利さと快適さを失いたくない。偽わざる現代人の心境であろう。
 無一文になりたくない。物に恵まれていたい。物財に囲まれていたい。その思い込みだけが根強い。何と異常な物質欲であろうか。
 しかし、仕事が忙しく、サービス残業を強いられるのは無能な経営者の下にいて働いているからである。無能な経営者と、その取り巻きの会社役員が多忙を企てたのである。

 多忙の原因は、経営陣の不手際による。
 サラリーマンは自らの労働力を売って、長時間居残り、奴隷として身を捧げるだけである。
 だが諌めて、聞く耳が無ければ去るべきである。しかし、これを妨げるのは、「中の上」意識から顛落したくないために、自らの魂を売って無能陣に仕える。痛ましく、不憫
(ふびん)な限りである。

 だが箴言には、「三度、諌めて聴かざれば則ち逃る」とあるではないか。
 良禽
(りょうきん)は、自らの止まる木を択(えら)んでいいのである。しかし、良禽にその勇気がなければ、択ばれない樹木に止まっている以外ない。
 しかし、それでも忘れるべきでないことがある。
 閑ありて礼節を知る。肝に銘じたいものである。

 現代の世の中のように、多忙を極めると、総て専門的になり、また機械的となる。現代人は静かにものを考えるという機会が失われて行く。これは現代文明の一大欠陥であろう。

 そもそも「忙」の文字の中には、その組合せを考えると、「心」+音符「亡」
(=なくなる)であり、あれこれと気が散って落ち着かない意を言っている。仕事が忙しくて暇がない。気忙しい。更には忙殺されるなどが挙げられ、つまり粗忽(そこつ)になるの意味を持つ。
 これを危惧して言うならば、「美女淫声を進めて之を惑わし」というべきであろうか。

 謀略家はこの手を遣って、多忙に付け入ってくる。多忙のために冷静思考を失った大衆を対象にして、盲点を衝いてくる。
 多忙は思考まで喪失させる。
 恐ろしい現象である。

 人間は確かに小さな事や身辺のことは敏感である。些細なことには非常に敏感である。
 だが少しでも意識感覚を超えれば、恐ろしく鈍感になるものである。
 日本の世の中の動きも、実は大きなことには敏感なようで、実に、小事にこだわった問題に終始している。執着心旺盛である。
 それは何よりも、現代に溢れている「こだわり」と言う現象が、雄弁に物語っているからである。

 現代の世では、こだわることがいいように喧伝
(けんでん)している。そして「こだわる」ことに何の不思議も抱かない不思議現象が起こっている。拘泥(こうでい)を「よし」とする世の中である。

 つまり小さな問題に敏感で、大きな問題に鈍感である現象が日本規模で起こっていることである。
 人間心理の特長であると言えばそれまでだが、しかし一方で、世界史の必然的な帰結が、このシナリオで動かされているのも陰の部分にあり、謀略の大家は、小事にこだわらせて大事を見逃させる、この手を遣って付け入ってくるのである。
 暇のない人間の盲点を衝いて、あたかもこれが「時の勢い」であるかのように錯覚に陥れるのである。

 「美女淫声を進めて之を惑わし」
 憶えておきたいものである。
 いつの間にか摺り替えられて、美女淫声に魅惑されているかも知れない。
 現に、この現象は日本においては顕著である。
 文化とか、交流の裏にはこう言う現象も絡んでいる。
 美女淫声を進めている訳だ。

 『武韜』には、「乱臣を養うて之
(これ)を迷わし、美女淫声を進めて之を惑わし、良犬馬を遺(おく)って之を労(ねぎ)い、時に大勢を与えて之を誘い、上察して天下と与(とも)に之を図る」とある。
 「図る」とは、謀
(はか)るであり、嵌(はめ)めるという意味を持つ。

 また『武韜』でいう「良犬馬を遺
って之を労い」は、つまり良犬馬は、相手の喜びそうな娯楽や道具をプレゼントする意味であり、犬好きの者には犬を、馬好きの者には馬をであり、これを現代流に言うならば、ゴルフ好きの者には美人プロゴルファーをであり、また娯楽芸能好きの者には美女淫声の芸能人を送り込んで、惑わすと言うことである。

 更に、「時に大勢を与えて之を誘い」は、常時、支配階級や権力階級の上位にあるものの情勢をよく観察することを言う。そのうえで、観察結果を適用して「天下と与
に之を図る」というのである。
 この構図に於いて、これが輿論
(よろん)になるように「天下と与に」である。そしてこれこそが、世の中のムード造りに適応させる適用法というのである。
 ゆえに『武韜』は、これらを「警句」として挙げているのである。

 つまり、このように謀りながら……という意味を持っている。
 警句としては、上の支配層や権力層がどう言う状態であるかをよく観察し、その階層を墜落する方向へと引っ張り込み、遂に引き落とすためのムード造りをして行く。そういう輿論を構築して行く。

 つまり、「上察して天下と与
に之を図る」と謂(い)う。そういう謀略を企てると言うのである。
 また、これらの謀略のためにジャーナリズムとか、マスコミなどを巧みに使い、そこに惜しみなく金を注ぎ込む。この背景には、自国民を散々餓えさせておいて、苦しめ、敵対国の文化人や有識者と言う連中を招
(よん)んで、とことん優遇し、表だけを見せて裏を見せない。煽動のためのムード造りをするのである。

 そして『龍韜』に至れば、「敵に勝には無形に勝つ。上戦は与
(とも)に戦うなし」と続いている。
 『龍韜』という「龍の巻」に入ると、本当の勝利は無形に勝つもので、最上の戦略は決して正面から対峙する正攻法を用いず、正面衝突を避けて、則ち「与
(とも)に戦う」ことなしに、如何にして戦わずして勝つかが大事かを論じているのである。

 戦略と言うのは、実戦現場に於ける攻城兵戦にあるのではなく、武器を持って戦うは、これを下戦としている。つまり下策と検
(み)るのである。
 最上策は、相手の心を攻めれとある。心戦であり、今日で言う心理戦である。
 換言すれば、心を用いて攻めろと言うのである。

 それには先ず有識者の権威筋などを用いて思想戦の展開であり、この作戦に度々進歩的文化人と言う権威が投入されるのは周知の通りである。
 次に、マスコミ人を利用した謀略戦であり、世の中の不安を煽る心理戦、あるいは冷戦構造を作り上げて、対峙状態を作り、東西や南北を啀
(いが)み合わせる一触即発の構図を作ることである。この状態を「心戦状態」を言う。

 このような状態にしておいて、六韜解釈版の『孫子』に至れば、「上兵は謀
(はかりごと)を伐(う)つ。其の次は交を伐つ。其の次は兵を伐つ。其の下は城を攻む」(謀攻)とある。
 「上兵は謀を伐つ」
 これは相手の作戦並びに政略などの謀を伐つという意味である。
 則
(すなわ)ち、相手の政策・戦略・謀略を間違わせることである。誤導させることである。

 日本は昭和十六年
(1941)十月、ドイツ人新聞記者でソ連赤軍諜報員であるリヒャルト=ゾルゲRichard Sorge/1895〜1944)と尾崎秀実おざき‐ほつみ/朝日新聞記者で、東亜協同体論を主唱。1941年ゾルゲ事件に連座して逮捕、のち処刑。1901から1944)が逮捕された事件が起こったが、この事件は日本政府や軍部に非常に巧く取り憑き、日本の国策や戦略を誤導させた事件であった。
 つまり、先の大戦では、もうこの時点で日本は日本列島を、その後の三年八ヵ月に及ぶ戦いの中で焦土と化す敗因を作っていたことになる。
 日本は謀を伐たれた分けである。スターリンは『孫子』のいう上兵を用いた訳である。
 これは換言すれば、友好関係にある諸国の結束を伐つという意味でもある。
 これを遣られれば、日本は極東の孤児となるのである。

 昨今の世界情勢を見ても、既に国内輿論として日本とアメリカを伐つ意見が広く展開されているし、半島も大陸も嫌悪策を政策に掲げて展開しているから、日本屈服策は始まっていると言えよう。実に妙策である。

 再び『孫子』に帰れば、「其の次は交を伐つ。其の次は兵を伐つ。其の下は城を攻む」とあり、攻城
(列島上陸ならびに攻略)、野戦(本土決戦)、軍事基地の攻撃などは下の下であり、それより前の露払いで、自衛隊無用論、反戦主義、反軍国主義、軍備反対、非武装中立、平和主義などを進歩的文化人に喧伝させて輿論造りをし、「兵を伐つ」のである。

 そのためには先ず、アメリカとの友好関係を絶つ、次に近隣諸国のと友好関係を絶つ……、などの「伐つ」策に転じて孤立させる。また日本の政治家を三流四流の外交音痴に陥れ、卑しめて政治家から政治屋に顛落をさせ、民主主義の名をもって政治屋に芸能人やスポーツタレントを綯い交ぜにして輿論低下を狙う。謀攻、高級戦略を不在にする。
 そして世は、多忙の時代。
 「伐つ」には、持って来いの構図である。
 併せて、これに個人主義とマイホーム主義が絡めばどうなるだろう……。
 根本など、見極める観察眼など失われ、退化の一途を辿るだろう。

 この背景を作り出しておいて、愛だ恋だのに現
(うつつ)を抜かさせる。自由恋愛を奨励して、小・中学生に肉愛を仕込むために性教育ならぬ“性器教育”を遣る。
 家庭から家長を排除して、家族は“みな平等意識”を植え込む。家長不在のまま、専業主婦は暇を持て余して不倫小説家の誘導のままに不倫に奔り、ひと時のアバンチュールを楽しむ。

 また専業主婦でない、仕事を持つ妻君は、外に出て男以上に辣腕を発揮する。
 子は、親の監視下・監督下から外れる。
 家長でなくなったオヤジはオヤジで、酒に逃げたり、風俗に溺れたりして、女房から得られない慰安を楽しむ。
 こうなると、もう現実直視の眼は完全に失われている。考えもしなくなる。人の真似をして、周囲の真似をして生きるようになる。それは奇しくも、人間とは程遠い、動物的な生き方であった。

 親は親で、子を顧みなくなる。
 こうなると、没我的な振る舞いや行為は完全に喪失する。世の中は自我的になり、個人主義に奔るようになる。
 かつて家長である亭主は、家族を守るに全身全霊を張って戦った。
 先ず家長としての亭主が危険の矢面に立ち、家族の楯になった。女房も母親として、子供の楯となった。夫婦は共同戦線を組んで、危険に立ち向かった。
 父母は自分のことは後回しにして、子の矢面に立ち、あるいは子供だけに先を急がせた。何処までも自分のことは後回しだった。そして家長である亭主は女房を守り、子供を守った。命を張って守った。そういう没我的な精神が働いていたのである。

 ところが、今はそういう奮戦は、蛮行と蔑まれ、軽蔑される意識に変わった。勇敢なる振る舞いは、蛮行と見下げられるようになった。我先に……が、優先されている。
 亭主は亭主で、女房は女房で、それぞれがセックスフレンド感覚で、同居人感覚で、わが道を行っている。分列行進を遣っている。まさに夫婦分裂である。
 忙中閑あり。
 大事なことである。

 だが、この「閑」の意味は、退屈しているさまを謂
(い)うのでない。暇を持て余した退屈状態では、精神を集中することが出来ない。ただ散ずるだけである。
 忙中閑あり。
 忙中に掴んだ閑こそ、本物の閑である。
 激務の最中、その時間内に五分でも十分でも坐禅三昧に入り瞑想し、心を「一
(いつ)」に結べれば、まさに「忙中閑あり」である。
 ところが、忙しさが連続され、途切れる閑を作り出せなかったら、側面に悲劇が漂うことになる。その翳
(かげ)りが差しはじめ、単に、多忙に忙殺されるだけであり、自らを顧みなくなる。

 更には怱忙
(そうぼう)のあまり、見過ごしや聞き逃しが多くなり、肝心なることが欠如する。
 多忙時代は、人間として必要なるものが次々に欠落しているのである。特に精神的な箇所は、古びた櫛
(くし)の歯が抜けるように欠落してしまっている。
 ゆえに観察眼も疎
(うと)く、視るのは如何にも表皮的である。中身の精神性や思考性を余り問題にしないのである。こうした見方で男女関係も進行し、盲目のままオス・メス関係で夫婦を形作っている人も少なくないようだ。

 俗に云う似た者同士が、単に“好き者”である場合が少なくないようだ。
 つまりセックスの面の相性ばかりが問われ、“まぐあい”に置き換えてのセックスフレンド的な夫婦関係のみである。一面には悲劇が漂っている。それだけの関係で似たもの夫婦擬きの“好きもの夫婦”である。最初のうちは、それだけで充分に楽しい錯覚を受ける。
 しかし、これが十年、二十年と続くうちに、それだけでは飽きてくる。つまり悲劇の一面である。悲劇にはマンネリ化するという盲点が隠れている。

 最初の均衡
(きんこう)を保っているうちは、その錯覚に眩(くら)まされて何事も楽しいように感じるが、それ以外の物事の考え方や見方について相違が生じると、遂には“性格の不一致”などというありもしない相性関係に逃げてしまうのである。

 では、別れたくなったのは、何が原因か。何に起因するか。単に飽きがきたのか。相手の盲点が眼に付きはじめたからか。それが、つまり“性格の不一致”という逃げ口上なのか。
 その裏には、新たな肉愛の対象が登場したためか。
 理由は何にしても、つまり“性格の不一致”なのである。
 斯くして永遠に共通項は見出せないまま、物別れに終わってしまうことである。



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